オリーブオイルは凝りだすとキリがない。
スーパーマーケットの棚に並んでいるオリーブオイルたちは固より本来の賞味期限をすぎた「死んだオリーブオイル」たちで問題にならない。
たしか日本にも量り売りでオリーブオイルを売るヨーロッパのチェーンの支店があったと思うが、ああいうものは序の口で病膏肓に至るとイタリアの農家から農家へ、天にも昇る、というかあの微妙な甘みとかるみのあるうまみを求めて徘徊すること、うまいワインを求めてフランスのヴィンヤードからヴィンヤードを徘徊するひとびとと軌を一にしている。
リエティはイタリアのなかでもうまいオリーブオイルがあるので有名な土地柄でオリーブオイルを買うのに寄った。
アッシジの聖フランシスというが聖フランシスは(わしの記憶が間違っていなければ)アッシジよりもリエティの田舎に住んでいた時期のほうが説教をぶって歩いた回数が多いはずである。
日本で言えば佐久市というか、イタリアのおへそにあたる真ん中にある町で海からも遠い内陸の町である。
わしはヨーロッパの田舎を旅行してあるくときは、めんどくさいので予約したりしない。
食事の準備とかいろいろあるので、ほんとうはそういう態度の悪い旅行者は困るが、「食事の準備がなければ食事はなくてもいいよん」と述べて、目で見てよさそうなところに泊まる。イタリアにもagritourismoなどと名前がついて、田舎のあちこちに膨大な数の宿屋があるが、中世からあるボローイホテルでもベッド&ブレックファストでもよろしい、要は農家でもなんでも泊まるところはたくさんあるので、少し早めに、というのはイタリア人は午後8時くらいから夕食であるという考えが強いので、午後6時くらいまでには訪ねていって、今日、泊まるところがありますか?と訊いて歩く。
辛いトマトソースと苦いオリブの実がはいったTagliatelleとオリーブオイルがいっぱいかかったチキンの無茶苦茶うまい夕飯を食べていたら、3人連れのアメリカ人の女びとたちがはいってきた。
ボスニアに住んでいる。
クルマでローマへ行く途中である。
このふたりはマイアミから来た。
わたしはボスニアに4年間住んでいる。
この世界にボスニアほど美しい町並みのある国はないから行ってみるのはいい考えだと思う。
町はとても安全で、夜中に女ひとりで歩いても少しも危なくない。
だんだん話していると、どうやらアメリカ軍で軍役についてから大学に行って語学を勉強した3人組のようで、ひとりはアラビア語、他のふたりは東欧諸語に堪能であるようだった。
フレミシュの音楽家のカップルもいて、フランス語やイタリア語、英語に流暢なのはいいが、モニにはフランス語、わしには英語、カップルのふたりのあいだではフレミシュ、イタリア人たちとはイタリア語で話すので忙しくて、モニさんはフレミシュ人に対する偏見を隠すのに苦労しているのが横でみていてわかって、くっくっくっ、な感じがした。
海外で会う、少人数で旅行しているアメリカ人たちは、わしの偏見に反して、たいていちゃんとしている。
欧州人に較べても、なんというかおとなであって、態度がきちんとしている。
オバマが国をふたつに割ってしまった。
こういうことはアメリカの歴史を通じてかつてないことだった。
アメリカではルイジアナが最も住みやすいと思う。
フロリダから州境を越えると、まるで別の世界でいつでもほっとする。
やわらかいクレオールの響きのように、人間性も柔らかくて、なめらかであたたかい。
話しているあいだじゅう背筋がぴんと伸びている感じがする。
話し方がすっきりしていて、無駄がなくて、知性的である。
dignityという言葉を思い出す。
部屋に戻って日本語インターネットをのぞいてみたら、アメリカの沖縄駐留軍を異常性欲者集団扱いしてアメリカ人たちを激怒させた大阪市長が今度は「他国の女性の人権も守るような発信をやっていく」と述べたそうで読んでいるほうはごく自然に頼まれもしないのに八紘一宇を唱道して「白人の鬼畜ぶり」に対して「アジア人の代表として人種差別と戦う」ために中国に上陸して南京や上海で「正義の戦い」を戦った過去の日本人の聖戦士ぶりを思い出してしまう。
日本人ほど外国に対して正義の民族としての義務をはたすことに熱心な民族はいないと思うが、なぜそれほど他国人を正義に導くのに熱心なのか見ているほうは単純に不思議の感に打たれてしまう。
ここにくる途中の村にも日本の人がいて、イタリア半島におけるローマ人の先住者であるエトルリア人の研究をしているドイツ人の旦那さんと一緒に地域になじんで生活している様子だった。
イタリアと日本は相性が良い国同士であるようで日本の人が大都市でないところにもたくさん住んでいるという。
都市はどんな国でも外国人にも住みやすいが田舎となると国との相性と文化程度が拮抗するのでないとなかなか住めるものではない。
日本という国に対しての知識はあまりなくても、イタリア人たちは地域地域に溶け込んで生活している日本人たちを観察して日本人たちの文明の高さを知っている。
ところがほとんどニューズにはならないといっても、折に触れて報道される日本の外国に対する態度は居丈高というか傲慢をきわめるというかで、これが隣人として一緒に暮らしている日本のひとたちが出身した国と同じ国なのだろうかと訝る気持ちになる。
日本語の体系と深く結びついて日本の社会には強烈なゼノフォビアが絡みついている。それはほとんど日本語で考えているかぎり脱出できないほどの深刻さであるようにみえることがある。
日本の社会はもっと日本人個人ひとりひとりをそっとしておいてやるわけにはいかないだろうか。
奇妙なことを言う、とおもうだろうが、これまでインターネットを通して眺めてきたかぎりでは個と個の対話ではふつうにしていられる日本のひとたちが「公」を意識し「社会」を意識した発言を始めた途端に、まるで発狂したような、日本以外の社会では到底まともな人間の発言とは考えてもらえない「意見」を述べだすのを見てきた。
いまの状態の日本社会に向かって言っても誰にも聞く耳がないのを承知の上で書くと、「橋下大阪市長の慰安婦発言はとんでもないがアメリカ軍の性犯罪が多いのは事実なので、それを指摘していくことは大事なことだ」「殺し合いを目的とする軍隊の構成員なのだからなんらかのはけ口を与えなければ兵士が強姦を働くのは当然」というような意見はもっともらしく聞こえるのかも知れないが、実際には空想的なくらい無責任を極める意見であると思う。
ツイッタで
「この橋下市長という人の滑稽な点はアメリカ人たちに「性的サービスを買う」ことを奨めることによって「妻子を裏切れ」と唆したのだという最も重要な点をいまだに理解していないことであると思う。それが判らないままジタバタするので日本の外ではだんだん話題として大きくなり規模も拡大しつつある」と書いたら、
「でも沖縄のアメリカ兵は妻帯者とは限らないのではないか」
「女性兵士もいるのだから、この意見はおかしいと思う」という人達がわらわらと現れて、わしを喜ばせたが、想定できる限りの条件を場合分けして、それについていちいち他人が納得しそうな説明をくわえておかないと、というのはこの場合ならば、
「この橋下市長という人の滑稽な点はアメリカ人たちに「性的サービスを買う」ことを奨めることによって1:妻帯している軍人や兵士については「妻子を裏切れ」と唆した2:独身でガールフレンドがいる兵士についてはガールフレンドを裏切れと唆した 3:独身でまだガールフレンドがいない男兵士にとっては将来(自分がこれまでやってきたことは細大もらさず相手に告白してふたりのあいだに「秘密」というものがなにもない状態にする英語人社会の決まりにしたがって)のガールフレンドを裏切れと唆した 4:女性兵士にとっては自分がoathを立てて参加した集団が非人間的な集団である示唆した、のだという最も重要な点をいまだに理解していないことであると思う。それが判らないままジタバタするので日本の外ではだんだん話題として大きくなり規模も拡大しつつある」と書くべきだということになるが、些末主義訓詁主義的な試験の答案ではあるまいし、人間の言葉がそんなに網羅的に表現されなければ意味することが伝えられないと考えるのは、頭のなかの言語が頽廃しているので、そういうことも日本語で「公」に向かってなにごとか述べることを困難にしている。
だが、この一見「公」と「個」の日本語の分解と関係がないように見える言語表現への不思議な些末主義も実は本質的には日本語に内在する同じ根から岐れてきた問題なのだと考えられる。
日本語における「公の言葉」と「個の言葉」の乖離は、文明度の上昇につれて人間として生きたいと願いだした日本人個々の欲求と、国家社会主義経済の要求から激しく個人を抑圧しようとする社会の後進性との乖離をそのまま反映している。
そうしてイタリアの田舎でみかける日本のひとたちの穏やかで知的な顔つきを見ると、どちらの方角へ日本語が収束してゆくのが日本人全体にとって幸福なことなのか明瞭なことであるように思えます。






