野蛮

November 30, 2009

日本の性犯罪について調べていると、剛胆勇猛をもって鳴るわっしでも怖くなってシクシク泣きたくなるような記事にぶつかることがある。

わっしは渡辺綱ちゃうからな、人知を越えた鬼に会うとこえーでよ。

曾野綾子、という小説家のおばちゃんだそーだがな。産経新聞のオピニオンというコラムに書いてるよーだ。

産経新聞、っちゅうのは、(日本のひとに日本の新聞について説明するというのもヘンなもんだが)つぶれかかったときに「なんでもかんでも朝日新聞と反対のことをする」という紙面編集方針を採用して、それが大当たりに当たって営業が回復した結果社是となり、朝日のほうがくるくるパーになるにつれて紙面まで一見まともに見えるようになった、という数奇な運命の新聞である。

こーゆー記事なんだす。

「 警察が、夜11時以降の講演の立ち入りを禁止するという条例を作ろうとしたら、それは「憲法に違反する」と若者からの突き上げたあった、という。

 警察は「憲法に違反しません」と言う。警察がこういう防止策を講じようとしたのは、もちろん最近残酷な犯罪が起きているからだろう。

 もちろん決定的に悪いのは犯人だが、被害者の遺族の気持ちを考慮せずに言えば、最近の日本人は、用心するということをしない。大学生がアルバイト先から、暗くて自分でも気味が悪いと思うような夜道を歩いて帰る、ということが本来は常識外なのである。

 アラブの保守的な国なら、娘たちは、毎朝父か兄かに送り迎えをされて登校する。1人で外出したり、外国へ旅行したりすることは、考えられない。欧米の国でも夜道を1人で女性が歩いたりすることは非常識な行動だと、なぜ日本では教えないのだろう。

 今でも忘れられないのは、いわゆる「基地の町」の駐車場で、夜半過ぎに1人で歩いていた女性が米兵に襲われて殺された事件である。

 もちろん襲った米兵が悪いのだが、午前1時過ぎに基地の近くを1人で出歩く女性は、性的商売をしていると思われても仕方がない。それは日本以外のほとんどどこの国でも示される反応だ。

 基本的な行動の自由と、自衛の手段を講ずることとは、全く別の次元である。というか、行動の自由を口にするなら、十分すぎるほどの用心や、世界的常識を学ぶことができなくてはならない。

 ヨーロッパ在住の日本人が驚いているのは、日本の女子校が、どうして制服にあんな短いスカート丈を許すのか、ということである。あれでは男たちに手を出してください、といわんばかりですね、と彼らは言う。

 先日パリのデパートをのぞいたら、果たして最新ファッションが並んでいた。しかし町行く人たちは、保守的で質素な服装ばかりで、私はすこしがっかりしたのだが、

 「午前中から最新ファッションの人なんかで歩きません。そういう人は夜遅くです」

 「ほんとうに最新流行を着こなすお金持ち階級は、車に乗って移動するんです」

という2つの返事で納得させられたのである。

 太ももの線丸出しの服を着て性犯罪に遭ったと言うのは、女性の側にも責任がある、と言うべきだろう。なぜならその服装は、結果を期待しているからだ。性犯罪は、男性の暴力によるものが断然多いが、「男女同責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの男女同権だ。

 親の庇護の下、学校の責任下にある間は、両者とも外出時間やスカートの長さに口を出し、常識を教えて当然だ。それが嫌なら、経済的に自立した上で、どんな結果も覚悟のうえでしなさい、と私なら言いそうである。」

「欧米の国でも夜道を1人で女性が歩いたりすることは非常識な行動だと、なぜ日本では教えないのだろう」っていうが、「欧米」とかって味噌もクソも一緒 (欧州が味噌ですのい(^^) ねんのためにいうと) の言い方すんなよな、とゆーことは別にしても、第一、そんなのウソじゃん。

ビレッジでは夜中にいっぱい女のひとひとりで歩いてるぞ。

第一、「路上で襲われる」のはカップルのほうが多いのは常識だべ。

欧州でも合衆国でもクルマ社会のまちでは「歩いている人」というのは惨めな感じなので、ひとりで歩きたくないだけです。犯罪にもよく遇うがそれは歩行者っちゅうか「バスに乗る人」というのが社会的な弱者なのでそーゆーことが好きなバカから見ると襲いやすい、というただそれだけである。

ロンドンとかパリとかで金持ち襲うとただじゃすまねーからな。

言い方を変えると、夜中に1人で女性が歩いたりするのは場所によってはヘンだが、しかしそうしないひとが多いのは特に性犯罪の被害者になるのを避けるためだけに1人で歩かない、のではない。

かんけーねーよ。

西洋社会がもともと「カップル社会」であって、家の外に出てなにかをする、というときは伝統的にはカップルでなにかをする、ということになっているからにしか過ぎないのです。

そんなことすら知らん、というのでは、ちみは「欧米」の常識に著しくかけているとゆわねばならん。

別に性犯罪と関係なくても、「欧米」では「女がひとりで何かをする」というのは場によってはヘンだからなるべくやらん。

日本で女が男湯にはいらないのと同じことです。

別に「男湯に行ったら強姦されちゃうから」ではないのです。

ついでに妙なことにダシに使われた国の人間としてゆわしてもらうと「男がひとりでなにかをする」というのも同じくらい場によってヘンであって、たえばある程度はまともなレストランにひとりで食事にやってくる男、というのは「非常識な行動」だと、なぜ日本では教えないのだろう(このショーセツカのまね)。

「いわゆる「基地の町」の駐車場で、夜半過ぎに1人で歩いていた女性が米兵に襲われて殺された事件である。 午前1時過ぎに基地の近くを1人で出歩く女性は、性的商売をしていると思われても仕方がない。それは日本以外のほとんどどこの国でも示される反応だ」

に至って、わっしは真剣にこわくなってシクシク泣きたくなってきた。

恐怖のあまりクソババア、ケツの穴から手え突っ込んで奥歯ガタガタゆわしたろうか、と考えたが、わっしは育ちが良いことでもあり、ひとに訊いてみると、この小説家のひとは高齢でもあるようなので、奥歯が外れたりすると気の毒である。あきらめます。

でもな。

なんじゃ、これは。

日本では男どものなかに、「男に部屋で強姦される女は部屋にはいった時点で強姦されるのを予期していたことになる」というオオバカタレを通り越してチ○チンをチョンの刑、

(司馬遷先輩が遭ったのと同じ刑です)に処したほうがよいと思われる発言をする半分ケダモンのみなさんがおられるようですが、このおばちゃん、そーゆーアホ男よりも、もっとひどいやん。チンチ○がもとからついてないから、安心してバカをぶっこいているのだろーか。

このひとは女は人間でないと思っているようだが、実は、おどろくなよ、女も人間なのである。そう教えてあげたら、このひとはさぞかし驚くだろうが、男と変わらない権利がある人間なんです。

午前1時過ぎにひとりで歩こうが、それが基地の近くであろうが、もっというと、そこでほんとうに「性的商売」をしていてさえ、だから強姦される可能性に怯えなければならない、というのではまともな社会とはゆえん。

まともな社会というのは女でもあるいは頭がくさった底意地の悪いバーチャンのショーセツカでも、いつでも行きたいときに行きたいところへ行き、自分のやりたいことが出来て、それが安全に出来る、ということを前提になりたっている。

わしらの社会は、よく知られているように、ちょっと調子が悪くなると、その「安全」が保障されなくなるという欠点があるが、それでも底なしのバカでも、暴力の犠牲者やあるいは人種差別のようなもので、「被害にあったほうにも悪いところがある」とは考えない。

それを考えるということが、そのまままっすぐ人間性の否定であることがわかりきっているからです。

「もちろん襲った米兵が悪いのだが」ととってつけたように言うが、襲ったクソアメリカ人が100%悪いのであって女性のほうに落ち度はまったくない。

あるわけねーだろ。

第一、この頭の悪いオバサンは世界を誤解しておる。

たとえば合衆国の街では、若い男も強姦されるので、自分の偏見を女に限ることに意味がない。

カップルも街中で襲われて強姦される。スカートが短かろうが長かろうが、そんなことは関係ねっす。

おとなしそうな若いのを見つけてアホどもは襲いかかる。

もっというと「欧米」では見知らぬ人間を被害者とする強姦の対象は高齢者が多い。

「70歳以上のひとり暮らしの女性」が自分の部屋にいるとき、というのは18歳の女の子が夜中の道を歩いているときよりも遙かにリスクが高いともゆえる。

「日本以外のほとんどどこの国でも示される反応だ」に至っては、大ウソもよいところで、そんな僻み屋のクソババア(言葉がわるくてすまん)ですらもたないような妄想を、なんでわっしの国の人間が持つの。正気なのだろうか。

引き合いに出される国の人間の迷惑を考えろよ、と思う。

失礼きわまる。

オーベイ、オーベイって、どこにそんな日本のひとのバカさを凝縮して煮詰めたような「欧米」があるんじゃ。

「欧米」の人間は、じゅうぶんアホではあるが、そこまでバカな人間は滅多におらん。

強姦は性犯罪でなく暴力犯罪であってスカートの丈に関係がないことくらい頭がウ○コで出来ている人間でも知っておる。

くっそおー、頭にくんなほんとに。

野蛮人め。

野蛮人に言葉を分けて説明してもどうせわからんだろうが、気を静めて説明しようとしてみると、きみが女の子となかよくなるとする。ビレッジのカッチョイイスペイン料理屋で午前2時になったので、女の子のほうは、ちょっといいなあー、わたしの部屋がいいかな、それともこのひとの部屋のほうがいいか、と考えます。

一緒に女の子と裸でベッドになかにはいりますのい。

コーフンとスリルのいちゃいちゃもんもんを待望する、いちゃもん体制である。

ところがきみが乱暴なやりかたで女の子に触るので、荒っぽい扱われ方が嫌いな女の子は、初めはニコニコしながら、でも次第にきっぱりと、きみを拒絶する。

きみというひとの何かに抑圧されて性的関係を通じて支配欲を満たしたい正体がわかってきてしまったからです。

きみがすごすごとジーンズをはいて帰れば良し、そうでなくて、無理矢理女の子にはいっていったとしたら、そりゃもうきみは問題なく正真正銘の強姦魔である。

人間として最悪の種類の人間であって、社会はきみのような人間を絶対にゆるさん。

合衆国の拘置所でもまわりの衆にいちばんぶちのめされて半殺しにされるのはきみのような人間である。

刑務所のひとびとは多分娑婆に奥さんや娘さんを残してきているからでしょう。

性犯罪者には寛大になれないのだ。

残りはくだらんことだが、このおばちゃんがメーワクだと思うのは、

「ヨーロッパ在住の日本人が驚いているのは、女子校のスカート丈を許すのか、ということである」なんちて、すぐ「欧米」が、しかもインチキな欧米が出てくることであって、

それでは、わしらはおばちゃんが言い募るほどのアホの集まりなんでしょうか。

まっ、あの女子高生のスカートは短すぎて、きゃあ、だけどね。

おばちゃんの世代のひとの「デカマスク、長手袋」ほどのインパクトがあるわけではない。

ついでにいうと、あの日本の女子高校生の「チョー短いスカート」の淵源は調べてみると、某インターナショナルスクールの制服であったチェックのスカートが「ダサイ」というので女の子たちが工夫した結果なんです。スイス人やアメリカ人やカナダ人である。

太腿みせびらかし作戦に出たわけだな。

日本のひとの発明ではないのです。

別に、それだからとゆって突然インターナショナルスクールの女の子たちが断然強姦被害にあいだした、っちゅうこともなかった。

パリの町行くひとたちが保守的な質素な服装ばかりで、って、うるせーな、大きなお世話じゃ。

第一、それもウソではないか。それとも、バーチャンは顔中ブランドマークのタットゥーでもないと「おしゃれ」だとは思わんのだろうか。カルフールに「最新ファッション」を見に行ったのかしら。

夜に着飾って出歩くのも、クルマに乗って移動するのもパリ人やロンドン人の習慣だが、それは性犯罪被害を防ぐためだと正気でこのひとは思っているのだろうか?

アホを快速で通り越しておる。

それにめんどくさいが一応つけくわえておくとデパートに最新ファッション並んでねーよ。デパートで歩いているひとと「お金持ち階級」は別の種類のひとです。

で、ハイライトに来るのだな。

「太ももの線丸出しの服を着て性犯罪に遭ったと言うのは、女性の側にも責任がある、というべきだろう。なぜならその服装は、結果を期待しているからだ。性犯罪は、男性の暴力によるものが断然多いが、「男女どう責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの男女同権だ」

これを書いたショーセツカのひと、

わっしはこれほど野蛮で不誠実で虚偽と悪意に満ちた言葉をいままで生まれてから一度も聞いたことがない。「太ももの線を丸出しの服を」着た女の子が期待した「結果」というのは、

自分のほうを素敵な男の子が振り向いてくれて、ちょっと恥ずかしげにまぶしそうに見つめてくれることである。

それは確かにあんまり賢いやりかたとゆえないかも知れないが、あなたのようなバケモノ以外は、男でも女でも通ってきたちょっとした「silliness」にしか過ぎない。

人間は、よく失敗をする。十代の人間に至っては一日中、やることなすこと失敗ばかり、とゆってもよい。チョー短いスカートをはき、なかには汚いオヤジが差し出した4万円に心が揺れる高校生だっているかもしれない。

しかし、それを一生ずたずたになった心と暮らさなければならなくなるような事態にまで至らせないようにするのは「社会」の責任であって、十代のバカガキどもの責任ではない。四万円をさしだすオヤジのチ○チンを、ちょんと切ったって全然よいではないか。公園の暗がりにひそむ暴力支配にとりつかれた男共を駆逐してものもいえないようにしなければならない。あなたのような頭のわるい、他人への想像力というものをまったく欠いたバケモノじみた人間を啓蒙することももちろん大事な社会の役割である。

わっしは学生の頃ボランティアで日本からの留学生のカウンセリングをしたことがあるが、「援助交際」というものが決してでっちあげでなくて、広く深く日本の女子高校生に浸透しているのを知ってびっくりしたことがある。

日本の社会では自分たちの価値が「セックス商品」でしかないことを敏感に感じ取っているのです。あなたは今度は、いまでも十分惨めなその十代の日本の女の子たちにムスリムのくだらん「女は従え」戒律までもちだして、徹底的な奴隷になって、奴隷になるのがゆいいつの強姦から逃れる方法だ、という。

バカバカしい、恥を知れ、とわっしは思います。

「太ももの線丸出しの服」のほうが、あなたのような「野蛮な鈍感さ丸出しの文」よりも遙かにマシである。

第一、あなたの理屈をそのまま適用すると、高齢の女性がひとりで生きてゆくことは「欧米の常識」からいって強姦魔を呼び寄せる行為そのものだが、それは「どんな結果でも覚悟の上で」やっていることであるとして、「結果を期待しているから」なのだろうか。

あなた自身が強姦被害にあう可能性は日本の社会の「欧米化」を考えるとこの先高いとゆわねばならないが、ご自分が被害にあったときも同じことをゆって、せめていままではいていたスカートの丈を長くしてみるのだろーか。

それとも「欧米」の常識にしたがってブルカをかぶってくらすか。

わっしはもっと日本人というものは、自分の社会に誇りをもっているのだと思っていたので、名声のある小説家が「欧米」「欧米」と連呼するのを見てひどく失望しました。

「ヨーロッパ在住の日本人が驚いているのは、」に至っては、なにをどうゆえばいいのかわからん。

恥、という考えを尊ぶ文化だと思っていたのですが、どうもそうでもないよーだ。

あなたのような論者がいる、まさにそのせいで「欧」も「米」もいまに至るまで日本人を信用しきれないでいる気持ちが、あなたにも判る日がくるだろうか。

結婚生活

November 28, 2009

「奥さん」というのは不思議なものであって、いったん結婚したとなると、なんだか生まれてからいつも一緒にいたような気がする。

このひとと一緒でなくて自分はどうやって暮らしていたのだろうと考えて思い出そうとしてもどうしても思い出せないのです。

新しく箱から出して履いてみたハイヒールが足にあわなくて痛いとゆって裸足になって外苑前の銀杏並木を裸足で歩いてゆくモニ。

なんだか現実とは思えないくらいぐらい美人であるモニさんを見上げて(モニさん、180センチともうちょっとあるからな)道ゆくひとたちが、ぶっくらこいてます。

またゆっちったが、でも、だってモニさんは圧倒的に美人だからな。

そこがちょっとやりにくいかなあーと若い人間の浅薄さで考えたこともないとはゆえぬが杞憂であった。

どこの国のどんな街に行っても周りのひとが男も女もこっちをじいーと見ているというぐらいのことで慣れればたいしたことはない。(ほんとだもん)

居直って、もっと言い募ると、妹というひとは妹というひとで、わっしの国では「大変な美人」ということになっているので、わっしは、「皆がこっちを観ておる」という事態には慣れてもいるのだす。

もっともっと言い募ると、かーちゃんもかーちゃんシスターも美人だからのい。

そんなものがほんとうにあるかどうか知らんが、わっしの家系は「美人家系」なんだす、多分。

わっしの家族の世界の北の果てにある家の居間の巨大な暖炉の上にはひいひいひいひいひいバーちゃんのこれもまた巨大な肖像画が飾ってあるが、このひいひいひいひいひいバーちゃんも、はっきしゆって「修正したんじゃね?」とゆーくらい美人である。

寝室でストリッパーのまねをしてふざけるモニ。

わっしのギターにあわせて、エーゴの歌を高い声で歌うモニ。

(yesterday I cried….)

箱根のホテルの食堂で撮った写真は、誰が見ても女神のようである。

ベッドでふたりで並んでわっしがつくった朝食を食べる。

ベーコンとワッフルとポーチドエッグx2とコーヒーと連合王国式に薄く切ったトーストだぜ。

チベットのニュースを観て、涙を浮かべて、ガメ、行こう、一緒に行って、チベット人のために叫んで一緒につかまってジェイルに行こう、とゆっていたと思ったら泣きじゃくっているモニ。

マヤンのデザインのでっかい耳飾りを揺らせながらマティニを飲むパーティの席のモニ。

モニばかり見つめて暮らしているが、いくら見つめていても、一緒にベッドに行っていちゃいちゃもんもんしていても、いつまでも現実感のない結婚ともゆえるな。

結婚する前は、もしかするとわっしのほうが賢かったりするかなあー、と実はわしは思っておった。

だって、(諸君は信じてはくれぬであろうが)母国及び旧母国ではわっしは「とてもカシコイひと」とゆうことになっているからです。

しかし結婚してみたら、わっしの「知恵」などはモグラの叡知のようなものであるとわかった。

モニさんと較べると肝腎な「真剣さ」というところで全然ふかみが違うのです。

言い訳じみるが、どうもこの「真剣の深さの違い」というのは、男と女の違いから来るもののよーだ。

モニさんの「愛している」に較べるとわっしの「愛しておる」は、まことに迫力に欠ける、とゆわざるをえません。

女のひとは自分を投企するということにかけては天才であると思う。

全存在を賭けて迫ってくる。

初めはおもいつきで「愛してるかなあー」とかで関係に踏み出したわっしの哲学などは一挙に駆逐されてしまうのです。

結婚は、もともとは社会の要請による言わば「便宜」だったが、しかし、怪我の功名、というべきか、本然的には、道端でばったりあった豪勢に綺麗なねーちゃんと「ちょっとそこの路地で押し倒してもよいでしょうか?」という傾向がありげな、男どもを縛り上げることによって一種表現し難い哀切な世界をつくりあげた。

性的な対象をひとつに無理矢理しぼりあげることで、恋愛よりもすごい関係をつくりあげた。

「ケッコン」しちった、わっしは、したが、とっても幸せ、なんです。

モニのいるベッドは良い匂いがする。

寝ぼけてモニの脇の下に顔をくっつけると、ますます良い匂いがするので、わっしは良い匂いで満ちた夢を見る。

やわらかくて、しなっていて、すべすべで、顔をくっちけていると、それだけでもう、圧倒的な、ツナミな、幸福感が押し寄せてくる。

結婚っちゅうのは、人生最大の不思議であるよーです。

(モニさん、ちゅっ。)

結婚生活

November 28, 2009

「奥さん」というのは不思議なものであって、いったん結婚したとなると、なんだか生まれてからいつも一緒にいたような気がする。

このひとと一緒でなくて自分はどうやって暮らしていたのだろうと考えて思い出そうとしてもどうしても思い出せないのです。

新しく箱から出して履いてみたハイヒールが足にあわなくて痛いとゆって裸足になって外苑前の銀杏並木を裸足で歩いてゆくモニ。

なんだか現実とは思えないくらいぐらい美人であるモニさんを見上げて(モニさん、180センチともうちょっとあるからな)道ゆくひとたちが、ぶっくらこいてます。

またゆっちったが、でも、だってモニさんは圧倒的に美人だからな。

そこがちょっとやりにくいかなあーと若い人間の浅薄さで考えたこともないとはゆえぬが杞憂であった。

どこの国のどんな街に行っても周りのひとが男も女もこっちをじいーと見ているというぐらいのことで慣れればたいしたことはない。(ほんとだもん)

居直って、もっと言い募ると、妹というひとは妹というひとで、わっしの国では「大変な美人」ということになっているので、わっしは、「皆がこっちを観ておる」という事態には慣れてもいるのだす。

もっともっと言い募ると、かーちゃんもかーちゃんシスターも美人だからのい。

そんなものがほんとうにあるかどうか知らんが、わっしの家系は「美人家系」なんだす、多分。

わっしの家族の世界の北の果てにある家の居間の巨大な暖炉の上にはひいひいひいひいひいバーちゃんのこれもまた巨大な肖像画が飾ってあるが、このひいひいひいひいひいバーちゃんも、はっきしゆって「修正したんじゃね?」とゆーくらい美人である。

寝室でストリッパーのまねをしてふざけるモニ。

わっしのギターにあわせて、エーゴの歌を高い声で歌うモニ。

(yesterday I cried….)

箱根のホテルの食堂で撮った写真は、誰が見ても女神のようである。

ベッドでふたりで並んでわっしがつくった朝食を食べる。

ベーコンとワッフルとポーチドエッグx2とコーヒーと連合王国式に薄く切ったトーストだぜ。

チベットのニュースを観て、涙を浮かべて、ガメ、行こう、一緒に行って、チベット人のために叫んで一緒につかまってジェイルに行こう、とゆっていたと思ったら泣きじゃくっているモニ。

マヤンのデザインのでっかい耳飾りを揺らせながらマティニを飲むパーティの席のモニ。

モニばかり見つめて暮らしているが、いくら見つめていても、一緒にベッドに行っていちゃいちゃもんもんしていても、いつまでも現実感のない結婚ともゆえるな。

結婚する前は、もしかするとわっしのほうが賢かったりするかなあー、と実はわしは思っておった。

だって、(諸君は信じてはくれぬであろうが)母国及び旧母国ではわっしは「とてもカシコイひと」とゆうことになっているからです。

しかし結婚してみたら、わっしの「知恵」などはモグラの叡知のようなものであるとわかった。

モニさんと較べると肝腎な「真剣さ」というところで全然ふかみが違うのです。

言い訳じみるが、どうもこの「真剣の深さの違い」というのは、男と女の違いから来るもののよーだ。

モニさんの「愛している」に較べるとわっしの「愛しておる」は、まことに迫力に欠ける、とゆわざるをえません。

女のひとは自分を投企するということにかけては天才であると思う。

全存在を賭けて迫ってくる。

初めはおもいつきで「愛してるかなあー」とかで関係に踏み出したわっしの哲学などは一挙に駆逐されてしまうのです。

結婚は、もともとは社会の要請による言わば「便宜」だったが、しかし、怪我の功名、というべきか、本然的には、道端でばったりあった豪勢に綺麗なねーちゃんと「ちょっとそこの路地で押し倒してもよいでしょうか?」という傾向がありげな、男どもを縛り上げることによって一種表現し難い哀切な世界をつくりあげた。

性的な対象をひとつに無理矢理しぼりあげることで、恋愛よりもすごい関係をつくりあげた。

「ケッコン」しちった、わっしは、したが、とっても幸せ、なんです。

モニのいるベッドは良い匂いがする。

寝ぼけてモニの脇の下に顔をくっつけると、ますます良い匂いがするので、わっしは良い匂いで満ちた夢を見る。

やわらかくて、しなっていて、すべすべで、顔をくっちけていると、それだけでもう、圧倒的な、ツナミな、幸福感が押し寄せてくる。

結婚っちゅうのは、人生最大の不思議であるよーです。

(モニさん、ちゅっ。)

四式重爆「飛龍」

November 27, 2009

Mさんは工業専門学校(いまの工業大学)を出て、三菱で擬装担当技師として働いていた。昭和20年のことです。

新型の四式重爆の後部銃手の死亡率が高すぎるので電動式の自動に変えろ、という軍の要望だったそうである。

Mさんたちは、試作機をつくってみたものの制御性が悪く飛行隊員の評判が悪かった。

自分たちのつくった電動式機銃(陸軍の呼称では機関砲)が動かずに撃墜される四式爆撃機の姿を考えるといたたまれない気持ちになったMさんと同僚は空襲下浜松から宮崎まで実地検分に出かけたという。

ついたばかりの夜、沖縄から戦隊が帰還する、というのでMさんたちは飛行場で早速待機することにした。

何時間かを待つうちに爆音が低く聞こえ始めて爆撃機たちが帰投してくる。

「たち」とゆったが、ほんとうは戻ってきたのはたった一機です。エンジンから夜目にもわかる煙を曳きながら、しかし模範的な着陸姿勢で滑走路に着陸した四式に向かってMさんたちは全速力で駆けていった。

「機関砲はよう動きよりましたか。」

Mさんは叫びかけながら駆け上った。

「そこで私が見たものを私はその後一生忘れられなかった」とMさんは自費出版の本のなかで書いています。

息をのむMさんたちの目の前にあったのは、滅茶苦茶に破壊されたガラスのない風防の下で血まみれになって、しかももうとっくのむかしに冷たくなっている正副操縦士の遺体であった。

やがて救護の兵隊が胴体を捜索すると全員が合衆国軍機の機銃弾に撃ち抜かれて絶命していたという。

魂魄が操縦して戻ってきた四式の電気擬装を調べながらMさんと同僚は嗚咽がとまらなかったと言います。

四式重爆撃機飛龍は、わっしが最も好きな日本の軍用機である。

日本人たちは戦争を始めてみたものの、近代戦争のそのあまりの過酷さに震撼した。

第一次世界大戦に正面から参加しなかった日本人には兵器と人員のすさまじい消耗を空想すらすることが出来なかった。

防弾装備のない戦闘機や爆撃機は連合軍自らの侮りが生んだ日本の不意打ちに恐慌状態にあった開戦百日ですら情け容赦なく次々に失われていった。

四式重爆は、いわばやっと米国や英国あるいは独軍と同じ「近代戦」へに認識に立った日本人がつくった初めての爆撃機であったのでした。

主要諸元の数字だけを見ると凡庸な中型双発爆撃機にしかすぎない「飛龍」はしかし記録をよく読むと、実際には高速でタフ、しかも連合軍の戦闘機に追われながらでも基地に帰投しうる機動性をもった爆撃機であったのがわかります。

なにしろ有明海の上空で垂直旋回した飛龍まであったという。

(ちょっと、わっしには信じがたいが、飛龍の日本機らしからぬ機体強度を知ると信じてもいいような気がするときもあります)

Mさんは、その後、合衆国の「飛行機製造禁止命令」を見て失望して技師をやめ三菱重工も退職してしまう。

思うところがあったのでしょう、二三年親元にいたあとで技術屋であることをやめて地元の企業に事務職として就職して戦後を生きる。

Mさんの「自分史」は正直に言えば読み進めてゆくのがやや辛いほど平板なものですが、

冒頭の基地での経験もそうですが、誰の、どんな人生もそうであるように、読む方が歯をくいしばって読まないと読めない箇所がところどころある。

1960年代のある日、Mさんは、故郷の町から子供と奥さんとを連れて東京に出かけます。奥さんが「君の名は」に夢中になった結果、何年ものあいだ「東京に行ってみたい」とせっつかれてやむをえず出かけたもののよーである(^^)

新大阪に出て、新幹線のホームに立ったMさんの記述をわっしは、どうしてもうまくいえないが、一瞬だけ時を旅して青春に立ち戻ったひとのものとして読んだ。

ニュースですでに見ていた新幹線がホームに入ってきたとき、しかし、Mさんはそのとき初めて「あっ、『飛龍』だ」と思うのです。

そのとき初めてMさんは自分がどれほど「飛龍」という飛行機を愛していたか、兵器と技術屋という関係を越えて、自分の人生のすべてを賭けていたか、理解したのだという。

「戦後の私は、ただの抜け殻であった、という現実を目の前にして、私は狼狽した」とMさんは言う。

でも、技術屋としては、もしかすると幸福だったのではないか、とMさんは書いています。

四式重爆撃機「飛龍」キ67

全幅: 22.5 m

全長: 18.7 m

主翼面積: 65.0 m²

翼面荷重:40.9 lbs/ft2 (199.8 kg/m2)

発動機: ハ104 空冷複列星型18気筒 2,000 hp (海面高度0)

全備重量: 13765 kg

最大速度: 537 km/h (高度6090m)

航続距離: 3800 km

上昇限度 : 9662m

武装: 20 mm機関砲 ×1・12.7 mm機銃 ×4

爆装: 50kg爆弾×15、250 kg爆弾×3、500 kg爆弾×1、800 kg爆弾×1、魚雷×1のいずれか

生産機数: 697 機

こーゆー気持ちは機械が好きでないひとにはわからないが、実戦の記録を読んだ後で、

この特に爆装限度とかを見ると、感動して涙が出る。

まるで丁度天安門で素手で戦車を止めた中国人の学生のような「名もない英雄」を感じるからです。

人柱世代

November 26, 2009

20代から30代前半の日本人の友達と話していると、胸をつかれるような気持ちになることがある。なんだかこの国がうまくいかないことを十分知っていて、なんとか静かにそれを受け止めよう、とするところがあるからです。

「いま、おれたちが払ってる年金って団塊のひとたちのためだから」とYさんはニコニコしながらゆいます。

「おれたちが、あのひとたちの年齢になったときに年金がもらえると思ってるやつなんていないんだけど。ほら、結局、父親たちに使ってもらうんだと思ってるんだよ」

だから年金制度があと20年くらいは保って欲しい、と言う。

わっしは日本のひとはなんて日本人なんだろう、と理屈にもならないことを考えて呆然としてしまいます。

カネかえせ、アホー、と叫んで石をぶんなげたりしねーんだな。

静かに静かに亡びてゆこうとしているよーだ。

ガメは今度はもうしばらく戻らないかも知れないから、という理由で、一緒に酒を飲みに行った晩に、わっしはショックを受けてしまった。

たまたまであるかもしれないが、そこに居合わせた6人のひとがみな小学校の同級生に自殺者がいる、ということがわかったからです。

司法試験に落ちて自殺したひと。

指導教官に裏切られた、と考えて死んだひと。

友達がいないことに耐えられない、と遺書を書いて残したひと。

理由を言わずに、もう耐えていけない、と留守番電話に吹き込んで、そのまま死んでしまったひと。

しかも、そこにいた全員が自分でも「死んでもいいな」と思ったことがある、というので、モニなどは真剣に恐怖を感じたようでした。

いやな言葉を使っていうと言わば「通りすがり」であるわっしが言うまでもなく、この国ほど「自殺」という現実から脱出するオプションが身近である国は他にない。これほど「死」がいつも寄り添うようにそばにいるひとたちの集団も、わっしは見たことがないっす。

どうも「生命を大切にしない文化」というような通り一遍の理屈だけでは割り切れないようです。

「絶望」というのは希望があんまりあったためしがない人間の歴史のなかで繰り返し使われてすりきれてカビが生えてしまった言葉だが、わっしはいま日本の30代以下のひとを捕らえている気持ちは、ほんとうの意味での「絶望」なのだと感じます。

日本の「オトナ」たちは本質を見ない、あるいは実相を見ない、という根深い習慣をもっていたと思う。

60年代から70年代の学生運動はいろいろに美化されているが、わっしにはそのやりきれない一種の「軽薄さ」が眼について、結局、運動全体が件の「本質を見ない、実相を見ない」で、ただ声のボリュームをあげて集団で興奮して騒ぎまくっただけのものにしか見えなかった。昨日までヘルメットをかぶり、今日は明日の就職のために理容店に行ける人間というのは本人がいかに言い募ったところで、やはりただの軽薄人であるというほかない。

この軽薄人たちは、企業のひととなったあとも同じ事を繰り返していたのであって、本質と決して向き合わず、実相からは顔を背けた。

そーゆー人間が必ずやることが責任放棄だが、そのとおり彼等は「先延ばし」というやりかたで責任を時間の向こうに押しのけてしまった。

その膨大なツケを支払うのは、無責任世代の息子や娘たちから下の世代で、彼等は、わっしから見ると、もう修繕のしようもなくなるまで放置されたいまにも崩れそうなボロ家を借金すべてを引き受けるかわりにあてがわれたようなものです。

しかも、彼等の社会の指針を決定する政府のトップは、皮肉なことに、いまでも他でもない「無責任世代」のひとたちである。

前にこのブログの記事でなぜ自殺するひとが多いか考えようとしたが、うまく考えられなかった。ひょっとすると、その理由は、この国で自殺するひとたちのことをシステムの面から考えようとしすぎたからかもしれません。

無茶苦茶なことをいうと、個々のひとの立場に立って事態を見ると、あるいは当然の選択に見えるのかもしれない、と考えました。

もっというと、たとえば両親がいる、という理由で「死ねない」ひともいるに違いない。

先週、スカイプのチャットにSさんが突然書き込みを始めた。

「電車に乗ってるんだ」「もうすぐ横浜」という。

わっしは、珍しくも仕事の資料に目を通していたので、

「Sさん、久しぶりだのい。いまちょっと仕事してるからあとで電話してけろ」と書いた。

ところが全然強引な性格でない、どころか、いつも温和しすぎる引っ込み思案のSさんが、わしの言うことにはお構いなしにチャットを送りつけてくる。

「いま、どこ?」

山の家だよん。

「おれはちょっと上野で飲んだ。ひとりで、飲んだんだ」

Sさん、よっぱらってんだろおー。仕事してるから後で、ってゆーてるやん。

ところが、そこからSさんはただ一方的にチャットを送りつけだした。

「いや、酔っ払ってない。ちょっと、だもん」

「Dって焼き肉屋に行ったんだ。脂身がうまかった」

「前に打ち合わせで行ったことがあるんだよ」

「ガールフレンドとも行ったことがあったな。別れちゃったけど」

「脂身うまかったけど、ひとりよりふたりで食べた方が焼き肉ってうまいって、ガメ、知ってた?」

「ほんとに、あんまり飲んでない」

「ビール1.5リットルだけ(^^)」

「大変なんだよ、おれ」

「いろいろ大変なんだ」

「どうすればいいか、わかんないんだ」

「バカなんだよ。おれ」

ダイジョブ?と、わっしが、やっと返答すると、

しばらく間があって、「ガメ、ありがとう」という。

「これ以上邪魔しちゃ悪いから、これでやめるわ」

わっしはな、笑いたければ笑えよ、涙で眼がくもっちって仕事にならなくなったで。

うまくゆえないが、Sさんのおおきな闇のなかでまったくひとりぼっちの気持ちが伝わってきたからです。

Sさんは立っている地面がだんだん小さくなってゆくような、そんな気持ちであるのに違いない。

その地面が本当になくなったと判ったとき、人間はやっぱり生きていなきゃ、と思えるだろうか。

立っていたくても、もうクタクタで、立っていられない、というひとを、崩れ折れたからといって責められるひとがいるだろうか。

わっしは、その夜、ひどい夢を見た。

Sさんたちがみな柱にくくりつけられて、その足下には穴が開いている。

見渡す限り一列に柱が並んでいて、みながじっと穴を見つめているのです。

フロイトなんかくそくらえじゃ。

あれはきっと、Sさんたちのイメージが夜の闇を越えて、わっしに伝わったのに違いない。

しかもSさんたちが自分たちが人柱に立った後、決して立派な国なんか出来ないことを知っている証拠には、じっと見詰めている顔の表情が奇妙にさっぱりして明るいことでわかるのです。

わっしは、そのとき夢のなかで、柱にくくりつけられてしまったひとは自殺すら出来ないことを突然悟った。

そーなんだ、と考えて、この社会のほんとうの恐ろしさに少し触れたように思いました。

Made in Japan

November 26, 2009

モニが起きてきたので、「プロミスすべ」とゆって、小指を出してみたら「ガメ、なにやってんだ?」とゆわれた。フランス人は、やらんよーだ。

ゆびきり、ないみたい。

なにをしているかというとkochasaengさんのコメントを読んですっかり気になりだしたんだす。

ゆびきりは国際化しているのか否か。

そうなると我慢が出来んので絶交中の妹に電話して訊いてみると、ぬわんと、かーちゃんシスターと義理叔父家経由でわしの家にはいっているだけで、他のひとはやらねーのだそーだ。だってデブPもやってたやん、とゆってみたが、Pさんがやるかどうかはわからないけど、やるとしたらアニメ経由でしょ、とゆわれた。

いつかノースランドで目撃したガキふたりもマンガかアニメなのか。

がーん。

じゃんけんはアメリカ人はやる。ニュージーランド人もやる。でも、思い出してみると「あいこ」がないのお。

ふーん。

フランス人は変態みたいなじゃんけんをやるが、どーゆー由来か、とかブログのためになんか訊いたりするとモニは怒るので、きかれません。

最近、わっしが日本語ブログを書くのがまた気に入らんよーだ。

日本や日本語に関わりすぎ、と思っているよーです。

こそこそやってフランスの話題を避けるにしくはなし。

閑話休題。

わっしはボオーっとして暮らしておるので他にも日本のひとがやることを知らずにやっているだろうか、と考えてみたが、よーわからん。

日本にいて普通にやることでニュージーランドでは全然やらないこともいくつもあるが、あらためて考えてみると、なかなか思い出せません。

自動販売機で飲み物を買う、っちゅうのは、日本ではやる(わっしは水をよく買うだ)がニュージーランドではやらないが、こうやって考えてみると、多分、ニュージーランドの自動販売機は少なくともむかしはよく金を吸い込んだまま知らん顔ですましておったからで、多分、そのせいです。お金、返してくんねーんだもん。

自然と自動販売機を募金箱とみなすようになったのだな。

うーんと、なにかないだろーか。

そーだ、これは日本のひとでも経験があるひとがたくさんいると思うが、日本にいた後に自分の国に戻るとタクシーを止めてドアが開くのを待っていてアホだと思われることがある。そんでもって日本にまたやってきたときには今度はドアを手で開けようとして、自動で開いたドアに不意をつかれてのけぞったりします。

マンハッタンでどうしても一方のドアからふたりとも出ようとするのも同じビョーキですのい。

東京でレストランで昼ご飯を食べてテーブルで払おうとする。

でも、これはどんどんそれでも良いことになってゆくようで、目に見える感じで変わってきてますの。合衆国人は、しかし、そーなると、どーしてもチップを払わないと落ち着かない、というひとがおるんだす。

テキサス人のWなどは、店のひとに「日本ではチップの習慣がないのはわかっているけど、申し訳ないけど払わせてくれ」とゆって店にわびをいれながらチップを払っておった(^^)

ニュージーランドはもともと「安い料理屋」ではテーブルで払わん。

そ、東京はニュージーランドとたまたま同じスタイルになりつつあるのかもしれねーんだす。

コンビニは合衆国の出身だと思うが、オーストラリアやニュージーランドでは「日本からきたもの」です。オーストラリアは、セブンイレブン、あるしな。セブンイレブンのガソリンスタンドもあります。オーストラリアのほーが、勝ってるんだぞ。すごいでしょ。

すごくないか。あのセブンイレブン、日本のセブンイレブンだからな。

食べ物屋は、みなさんも知っているように露骨に「日本から来たんだぜ」な食べ物がいっぱいある。スシ。

鮨屋、すげー数だからな。

「松竹」とか「龍王」とかビミョーな名前や「吉野や」とかゆってんのは、たいてい韓国のひとや中国のひとの経営である。

特に日本の諸君の肩をもとうと思っているわけではないが、そーゆー店にはいると、すげーまずいっす。日本料理屋も同じ。

クライストチャーチでいっちゃん有名な高級日本料理屋はもともと日本人のだんちゃんとマレーシア人の奥さんがやっていたそーだが、だんちゃんはあえなく追い出された。

それからはマレーシアのおばちゃんがやっておるのだそーだ。

義理叔父のお友達は、ここでテイクアウェイのおにぎりを頼んだら、タイ米で握ってあったとゆって死んでました。やってみるとわかるが、なまなかな力ではタイ米をおにぎりにはできまへん。義理叔父友達が店に文句をゆいにいかなかったわけである。

シェフは万力男に決まってるからな。

バルセロナでは街でも高級な「アジアン・フュージョン・レストラン」で「マキズシ」を頼んだら、東京のスーパーで一本百円で売っているのとそっくりな焼き鳥が出てきた。

「これ、巻き寿司ですか?」と訊くと、蝶ネクタイと古式に則ったウエイターの制服で決めたおっちゃんが「そーです」とゆって重々しくうなづくのであった。

いろいろ誤解があるよーだ。

サンフランシスコ空港で新しく開いたそば屋に義理叔父とふたりで行った。

ウインドウのなかのそば、結構、おいしそうです。

この頃は蕎麦屋、結構流行ですねん。

マンハッタンには「本むら庵」あるしな。

「カウンタのひと、日本のひとですか?」と義理叔父にそっと訊く、わっし。

「わからんちん」

日本人のくせに外見で民族が判別できなくていーのか、と思いながら、そばがマジメっぽいので買って食べてみることにした義理叔父を横目にビミョーな予感に駆られて隣のベーグル屋へ赴くわし。

義理叔父は、こーゆー場合は日本語を話してみたりせんので英語です。

「アイドライクトゥハブソバヌードル?」なんちゃっておる。

なーんとなく連合王国の田舎から出てきたおっちゃんみたいな雰囲気が醸し出されていて、ほんまにヘンなひとです。

テーブルにもってきてから、義理叔父は「つけ汁」がないのに気づいてカウンタへ行く。

「ソース、がついてないようですが」

「ソース、って、なんのソースでしょう?」

ははは。店のひと、冷たい蕎麦はつけ汁で食べる、っちゅうのを知らねーんでやんの。

義理叔父は、苦虫が口のなかで倒産したような顔で、わっしが笑いをかみ殺しながら「あそこにショーユがあるようだから、とってこようか」というのを黙殺して蕎麦をぼそぼそと食っておった。

kochasaengさんではないが危険察知能力がオートで備わっておるわしは、ベーグルサンドを食べました。結構、うまかった。

食べ物ばっかしになりそうだが、アイスコーヒーも日本のものだよな。

生態隔離が起こっていて、オーストラリアとニュージーランドのアイスコーヒーはウィップクリームが、どちゃまんと入っておる。わっしは冷たいものは飲まんが、あれはときどき飲む。どっちかっちゅうと、糖分補給用だすな。

タイランドのアイスコーヒーは、ぎゃあ、と思うくらい甘いっす。

ミラノはしぶくて苦い。

でもどれも多分日本出身のよーだ。

コーヒーのマグで思い出したがニュージーランドのデーハーな色の益子焼き、みたいな陶器は実はほんとうに益子焼きです。

バーナード・リーチと浜田省吾がやってきて初めの窯をすえた。

ニュージーランド人は暗い色の陶器が嫌いなので絵付けだけ派手になったんだす。

前にもブログに書いたが、大戦前の英語辞書には「 made-in-japan」という単語が載っておる。物好きなわっしは神保町で戦前の辞書を物色して英和辞典にも載っておるのを確かめて、その古い英和辞書を購入しました。たしか斉藤秀三郎というひとの辞書だと思う。

この単語は、「安いが出来の悪いものの総称。粗悪品」という意味であると書いてある。

斉藤先生は、この項目を書きながら、どんな気持ちだったろう、と考えてちょっと涙ぐみました。

いまでも表現として、たとえば「made in Japan quality」とゆえるが、意味は真反対でもちろん「出来がものすごく良い」という意味です。

斉藤先生、嬉しいべな。

そーだ、そーだ。

辞書の話をしたので思い出した。

サンフランシスコの街を歩いておったら、店のドアに

「CLOSE」という札がかかっておって、わっしは、へえ、と考えた。

ゆーまでもなく、これは日本の街を歩いていると、ものすごおおおく多い「日本英語」だす。正しくは「 Closed」なんだす。

むちゃくちゃ目立つ間違いで、機嫌が悪いときなどは、わっしは東京の街でこれを見ると結構いらいらするだ。

こーゆーものまで、合衆国に逆輸出されるようになったのかの、それともただ日本のひとの店というだけのことかしら、と不思議に思ったのでした。

コメント欄に返信すんべ、と思ってふと見ると、いっぱいたまってます。

これで個々にご返信を書くと全部ひとりでコメント欄を独占して「ひとりコメント」になって異様なので、記事欄のほうに書かせてください。すまん。

kochasaengさん、

>水素が勝手に燃えちゃうんだが、他の金属ではそうはいかない。

そーゆー言い方も出来ますが触媒自体はボケーとしてそこにあるだけでなんもしとらん、ともゆえますな(^^)

>「ガメ・オベール氏というフランス人」

いやきっとそのひと、ちゃんと読んでくれてるんですよ。あの自分でも何か書いたんだか、いまではジャングルになって訳わからんブログを全部読むわけにはいかないので、部分的に読んでくれたのでしょうが、そうすっと、

「ガメ・オベール」が「gameover」なのと一緒にGamay Auberであって亀夫 大庭(おおば)でもあることを発見したんでしょう。でもってGamay Auberだとフランス人だすわな。おまえはブドーか、こら、とゆわれそうだが。

>で、過去のログ全部読みました

うそ。そんな修験道の荒行みたいなことをすると思わず解脱してしまうんではないでしょうか。ブログ記事を読んで解脱しちゃったひとに来られてもお釈迦様は困るのではなかろーか。

>おれはインターネットを始めて12年かそこら

っちゅうと、「あー、ネットスケープのダウンロードにかかんべかなあー」とゆって寝て、ぐっすり眠って起きて、朝コンピュータを覗いて、「おー、もう半分ダウンロードされとる」パチパチパチの頃だすな。なつかすい。

わっしの黄金のガキ時代だっちゃ。もうその頃はヒネガキっすけどね。冬のクソ寒い牧場の家の台所でパンプキン・スープを温めながら「ビーン、ビカーン、ピー」をしておったころだな。うーむ。郷愁がありますのい。

>俺には主張したいこと、ないです。

わしにもねーだす。

>俺の言うことはこのブログの本筋とはカンケーないわけです。

このブログの「本筋」って、ほんとうはPCゲームなんですけどね(^^;)

ゲームブログなんだぞ、これ。

>そんなものを読まされるひとはたまったもんじゃないだろう

うんにゃ、わしは、おもしれーだす。飽きるまででいいから書いてくだされ。

>ガメ・オベールさんは本当は小学生かもしれず、じつはウチの近所のソバ屋の主人かもしれない。

ほんとうはジョン・タイターそのひとだったりして。

まっ、仰るとおりですが、ずうっと読まれるとわかりますが、初めのほうででっちあげようとしたぶんは全部ばれて、いまはもうメンドクサイから、そのまんま書いてます。

現実生活でブログに書かれると差し障りのあるひとのことを書くときとかにビミョーに話を誤魔化してるくらいっすかね。

わっしの生活は他人から見るとリアリティがないらしいが、それが現実なんだから仕方がねーだろ、信じたくなければ信じないでね、とゆーふーに居直っておる。

いまは日本に滞在中ですが、もうすぐ本拠地に移動してまた「通常の生活」に戻るので、

ますます信じがたい生活になりますが、他人が信じやすい設定にするのはメンドクサイのがわかったのでやめちったんです。素のまんまでゆくべ。

>バーチャルなともだちってのが初めて

さんきゅ、どす。

>それなのにリアルな友達に言わないようなことを話してる。

ますますサンキュどす。

>われわれは君子なんかじゃない。

わしは君子だもん。(キミコ、じゃないんだお)

>遠く離れた場所から同じ一つの月を見て「ドルゴルスレン・ダグワドルジ」って呪文を唱えてもいいんだが、

あっ、いいなあ、それ。 ドルゴルスレン・ダグワドルジの友達。いいだすなあ。

月見る楽しみが増えるな。

>マジメかフマジメは他者がきめること

でもマジメなひとって刻印されたように歴然とマジメなんです。本人が気が付かないだけだすな。わっしは自分が絵に描いたようなフマジメなので、マジメなひとはわかりやすい。

>銅像だからそっくりに造ってあるんだが、なんか残念な出来。

ふっふっふ。わしはその、「スペイン人のつくった残念な出来」の銅像がまさしくピンポンで好きなんだすな。あっと驚くような不細工な銅像つくることがあるんすよね。

>シドニーのオペラハウスよりもがっかりすると思う。

えっ? ひどいなあ。わし、あれ好きなんですけど。カフェのコーヒー不味いけどな。

>Romaっていうんだっけ

そっちゃのほうがポリティカリーコレクト、だすな。エーゴでもジプシーっちゅうたらあかんねん、いまは。

最近、遺伝子解析してみたら「インド人」だったそーです。

どーりで「わからん言葉をしゃべった」とゆわれるはずである。

>白嘘ってのが、あるんだよ。

英語の「白ウソ」よりもやや意味が深そうですな。

病気がなおっちゃうウソってすごいな。

カリオストロは偽薬でなおしまくったというが。

>モロッコ行きのフェリーに乗ると、イルカがびょんびょん併走って言わないな。併泳っていうの? 

あっ、きったねえー。モロッコまで行ってんのか。いーなあ。

わしも行きてーだ。サンフランシスコの画廊のハクイねーちゃんが「わたしがお金だしたげるから一緒に行こう」っちゆってくれたんだけど、それをすっかり忘れて直後にモニと結婚しちったんだす。

ちぇっ。

>早く逃げろ。ここはおまえのいるところではないぞ」

そーなんですか?ハクイねーちゃんがゆーには、無茶苦茶えーとこだから一ヶ月くらい行くべ、っちてたけどなあ。もしかしてねーちゃんは盗賊の女族長の世を忍ぶ仮の姿だったのだろーか。

>オカルトは嫌いだし、信じないんだけど、ああいうインスピラシオンは信じたほうがいい。

あっ、そーゆーことだすか。あの辺は悪魔が多いっちゅうから、そーゆーことなんでないでしょうか。

>すごい勢いで投下してくるんだな。

モニさんが調子悪いとゆって寝てるからモニさん以外に人生に興味がないわしはいきなりヒマこいてるだけです。「大魔神」みおわっちゃたし。(「大魔神怒る」「大魔神逆襲」っちゅうのも買ってあるが)

>また飽きもせずにタイの話。

わしも飽きん。どんどんしてくりゃれ。

>バンコクの街には野良象ってのがいる

わっしも見たことあります。なんかこの頃は問題になってるっちゅう話だすな。

>象が嫌いな奴なんかいないと思うんだ。

いないいない。わっしはブンテンっちゅうエレファントライダーの友達がおるだ。

象に乗ってトレッキングさせてくれる。無茶苦茶楽しいっす。

>各家庭に一頭ずつ象がいれば、世界の犯罪とか戦争はなくなるんじゃないかと思うけど、世の中はそんなに単純ではないですね。

それ名案なんちゃうか。象飼ってたら、食わせるのに忙しくて戦争や犯罪やってるヒマないもんな。第一、象さんに恥ずかしくて悪いことできひん。

>象はそんなことをされても全然かなしそうじゃなかった

象さんは賢いから人間を憐れんで我慢してるんでしょう。

>横を通りかかったクルマがクラクションを鳴らした

ひゃあ。象ってクルマ嫌うんですよね。すごおく、嫌いなんだ。トレッキングしててもトラックとか来ると、遙か彼方でも気が付いて後ずさりしながらパオパオゆうて嫌がってるもんな。

>横でヨメが言います。「うらやましいなあ、そんな死に方」

モニに、この話、しちった。眼を輝かせて聴いてました。オモロイのお。

>「うん。でも、象だよ」

カックイイのい。

>タイ人も約束のときに指切りゲンマンするんだって初めて知りました。

ありぃ? わしもするでねーけ。でもどーも妹としかしたことがないような気がするのい。

あらためて考えてみると、わかんねえー。

いま日本語でぐぐってみたらみんな「日本の江戸時代の風習」っち書いてありもすな。

でも絶対英語人はやる。(注)

日本から来たのかな。でもユビキリっちゆわねーじゃん、なんでだ?

そーゆえばジャンケンもするけど、あれも日本かいな。

わからん。

>タイ人の葬式って、みんなニコニコして記念写真撮ってばっかりいるの。

タイっぽいだすな。でも、正直いうと、わしから見ると日本のひともちょっとそーゆー感じのとこがあります。葬式の雰囲気がちゃうよーだ。いや、あれは「通夜」かな。

>バンコクのシーロム通りでお墓を見つけることがありますが、あれは中国人の墓。

し、知らなかっただ。面白かったのでモニに報告したら、「そう?」で終わられてしまいました。でも「じゃ、タイのひとはどこに葬られるの?」っちゅうので「川に灰をまくんだって」(いま読んでみると、間違ってるわけですけどね。散骨、なんですのい)とゆったら、じっと考えて、「それは良い考えだな」とゆってました。

タイ人、クールだのい。

>タイ人だって子供が死んだら泣くじゃん。

「そりゃ、かわいそうだもん」

オトナはいいの?

「うん。オトナはね。もう生きたでしょ」

死んじゃったんだよ?

「そう。死ねて良かったじゃない。苦しいことなんかなくなっちゃうのよ」

かっ、カッチョイイ! ふーん。タイ人はすげーな。小乗なのかな。いや、やっぱり文明度が高いんだな。すげー。

>「え? 泣いたほうがいい? うん。泣くよ。泣く。だいじょうぶ。マイペンライ」

これもモニさんに説明いたしました。ふたりで大笑いしただ。

おかしい。良い奥さんですのい。

>みんな、あなたのことは忘れないから。

いいないいないいな。

「あなたのことは忘れないから」

それしか、ねーんだもんな。

わっしの友達(20代・男・エゲレス人)がタイ人のガールフレンドと付き合ってるだ。

一ヶ月に一回ヒコーキに乗ってタイランドへ行く。

会えないあいだ、ずうっとそのガールフレンドの話、してます。

あんまり、うるせえので「はやく結婚しろ、ボケ」とゆいますが、あの狂い方は、この文明度の高さがあるせいもあるんだな。

わかっちった。

dralongさん、

>今もちょっと隣の人からPCを借りて書き込んでいます。

隣のヒト、親切だすな。

>しかしまぁネイティブの方にとって、そんなに気持ち悪いもんだとは知りませんでした。

うーん、ほんまは、こーゆーことを書くのはよくないっすけどね。

わっし自身は「訥弁」の外国のひとの英語は好きです。一生懸命考えて話すひとの英語は、発音が悪くてもダイジョブ、いやでない。

それが、うまくゆえないが「英語を話す」ために英語を喋るひとがいて、そっちは、すげー嫌です。そーゆーひとは特徴があって、相手が日本語が出来てもお構いなしに英語で話す。

>亀夫さんが今まで聞いて、まともな発音をしている日本人ってどんな人でしたか?

義理叔父(^^)。ほんとなんだから、しょーがない。たかろうと思ってごますってるわけではねーんです。かすかなスコットランド訛りの連合王国語(^^;)

かーちゃんシスターの英語がそのまんま感染っておる。

ロンドンのパブとかに一緒にゆくとバーテンのおっちゃんがぎょっとしたような顔してます。実は日本人が、かーちゃんシスターの英語を話すというのは論理的にありえないからだすな(^^) すげー、オモロイだす。

(あんまり書くと怒るな)

本人が読んでいるに決まっているから書くわけではなくて、(叔父上様、ほんとよ)

義理叔父以外には見たことねーです。おっちゃんだけ、なんであんなにふつーの英語を話せるのか、なんでだかさっぱりわからん。様々な英語人の話題になってますが、誰も義理叔父の不気味な英語能力の理由がわかんねーんだす。

本人は「英語の授業を全部ふけたのがよかったんではなかろーか」という。

なんだか十七歳の夏休みに80冊だか本を読んだ以外特に英語をベンキョーしたことはない、そーです。

>日本の歴史や道徳の研究ができるので、立場としては良いかな

いーじゃないすか。

>発音が気持ち悪いと言われたくない

わしは失礼なことはゆわねっす。ブログからは想像つかないでしょうけど(^^)

>直接会うことは無く、こうしてネット上でのやりとりでしょうけども(笑)

それは、わかんねっす。ときどきブログどーしよーかなー、とか、ブログで会ったひととどーすっかなあーと思いますが、むかしは、モニとふたりで並んだ写真をデカデカとだして「さいなら」をしようと思ってましたが、いまはどうするか決めてねーんだす。

現実のわしの生活は、このブログに書いてあるよりもさらに非現実的かもしれません。

だから、なあーんとなく、ここで会ったひとたちと「現実にあう」っちゅうのが想像しにくい。でもそれも実際にやってみれば、なんということもないのかもしれませんね。

わからん。

いまは、ここで会うのがたいへん楽しい、ということだけがはっきりわかっていることなので、このままがええだ。

Aladdin Saneさん、

>英語国家は、英語を話すというそれだけの理由で外交的に常に有利という現代の状況は、不公平だ

ほんまに、そうだすな。

>外交交渉や国際会議では常にエスペラント語を使用するというルールを国際法で規定するべき。

エスペラント、っすか? それはちょっと無理です。ぜってえ現実化しないっすよ。

日本ではまだエスペラントは命脈があるんでしたね、そーいえば。

>暇があったら読んでみてちょうだい。

はあーい。(いま見たら手に入りやすい本のよーですのい)

はげはげさん、

>少なくない貴重な戦略予備を費やす程の魅力が果たして日本のどこにあるのでしょうか?

はげはげさんは多分「軍人」というものが理性や合理性で行動する、と誤解しているのではないでしょうか。はげはげさんの議論は中国政府が相手なら全部そのとおり通用するかもしれませんが、軍人、というのは根本的に非合理ないわば情緒的な存在なんです。

現に日本はまったく利点のない満州にこだわって破滅してしまったではありませんか。

赤字を垂れ流すだけの満州国のために軍部が日本をまるごと賭けたのはなぜですか?

>軍視点からも日本などよりはカザフスタンの方がずっと重要な国ではないでしょうか? 

中国軍が渇望しているのはベトナムへの懲罰侵攻で失われた「威信」なんです。カザフスタンでは、威信はもどらない。日本でなければダメなんです。

日本への侵攻に成功することによってのみ、中国軍は「偉大な軍の栄光と威信」を恢復しうる。いまそれがやれないのはリスクが大きすぎて自信がないのと共産党に頭を抑えられているからだと思います。もうひとつ、中国軍は知っておられるでしょうが全然一枚岩でない。だからそういう組織の常として行動の理由は「内部」から来る。

はげはげさんのように政治的見地からナチスは侵略に踏み出さないと自信をもっていたネヴィル・チェンバレンたちがどうなったかおぼえていますか?

わっしはもちろん「おそれよ」とゆっているのではない。事実を認識すべきだと考えているだけです。

>直接侵攻の可能性を強い確信を持って示しているものは稀少なようです。

そんなことねっす。本の体裁をなしたものが少ないのは、それは(日本の安全保障についてのことなのであたりまえだが)日本人の手によってしか書かれるはずがないからで、もし、はげはげさんがゆわれるのがほんとうなら、日本のひとの現実認識のありさまを示してる、というだけのことなのではないでしょうか。

「談話」とか「東アジアについての懇談会」とかいう形でしか言われませんが、少なくともわっしが出席した席では、一定の条件下では当然直接侵攻が起こる、という。

(うろおぼえですが)中国軍の揚陸艦の仕様とか、そういうことまでこと細かに指摘されていると思う。

たとえば最近でもポール・ウォルフォウィッツがインタビューで日本の同盟サボタージュに絡めて警告していたと思います。

>その論拠をもう少し詳しく解説して頂けると嬉しいのですが。

ニュージーランドでは時間も資料もあるので、やってみるかもしれません。

そこでやらなければ次はロンドンですかいの。

ナマケモンのわしのことですから、気長に待っててくらはい。

>占領統治という選択

日本は占領コストがいちじるしく低い国、すなわち打ち負かしてしまえば抵抗しない国であることは1945年に合衆国が証明ずみではないですか。

資源に関しては、「資源会社の買収」でいけるとおもっているでしょう。軍隊はいらん。

軍隊が登場するのは「中国の会社」である資源会社の権益を守る、という形なんではないでしょうか。

>やはり「謙虚さ」が戻ってきたからでしょうか?

うん。謙虚さ、っちゅうか、30代前半くらいから下のひとって「普通」にしていられるんですよね。そこが、その上の世代と全然違う。

ひどい言い方をすると30代前半くらいから下の年齢層は文明度が格段に高い、のではないかと感じます。

わっしは、日本の若い世代のひとは大好きです。

まとも、だと思う。

(注)その後の調査でアニメからの影響と判明しもうした。

上の世代はぜんぜんやらねーんだな。

マジで知らなかった。

タイのひともアニメの影響みたい。

アニメ、すごいな。

わっしが七歳のとき、わっしのジーチャンはエディンバラの墓地にわしを散歩に連れ出して、「ガメ、よく、おぼえておきたまえ。人生とは死が無慈悲に終止符を打つ、くだらんものなのだ」とゆった(^^)

人間は不思議な生き物である。

いつもいつも「安定」を目指しているのに、最終的には死ぬに決まっているので「安定」なんというものはありえないのだす。

人間の、どうしても安心したい価値観によれば、人間の人生ほどやるに価しないものはない。

だって、絶対死ぬんだもん。

したがってわれわれが究極的に幸福になる可能性は、驚くべし、「ゼロ」なんです。

すごいよな。

人間は、この背反した事実にとまどって昔から悩み狂った。

あるひとびとは宗教に傾いた。

他のひとびとは、考えないことにした。

残った数が少ないひとは、やけくそで暮らした。

現代世界は、無闇矢鱈に忙しくなってゆくことによって、この問題と正面から向き合わない、という叡知を発揮した。

しかし、疑問に思おうが思うまいが、良いことも悪いことも必ず終わりがくる。

それがきみやわしが住んでいるこの世界の杜撰極まるルールなんです。

もう一回、言うと、

すごいよな。

だから、わっしが帰ってくる表現はひとつしかない。

これほど理不尽でくだらない世界にうまれあわせたのだから、せめても、

この同じ瞬間に生まれ合わせたことを喜び合って、カシコゲに振る舞いもせず、少しでも隣りに立っているひとを喜ばせて、知らないひとにもジョーダンをゆって、もういちど単純な考えにたちもどって、ひとを傷つけるのはよくない、ひとが倒れれば少しのあいだでも腕を貸して助けて、相手に嫌がられても「ダイジョーブですか?」とゆうのが、やはり良い。

人間はどーせたいしたものではないのだから、それが、やっぱり良い。

どーせ、どんな良いことにも終わりが来るのだから。

わっしが七歳のとき、わっしのジーチャンはエディンバラの墓地にわしを散歩に連れ出して、「ガメ、よく、おぼえておきたまえ。人生とは死が無慈悲に終止符を打つ、くだらんものなのだ」とゆった(^^)

人間は不思議な生き物である。

いつもいつも「安定」を目指しているのに、最終的には死ぬに決まっているので「安定」なんというものはありえないのだす。

人間の、どうしても安心したい価値観によれば、人間の人生ほどやるに価しないものはない。

だって、絶対死ぬんだもん。

したがってわれわれが究極的に幸福になる可能性は、驚くべし、「ゼロ」なんです。

すごいよな。

人間は、この背反した事実にとまどって昔から悩み狂った。

あるひとびとは宗教に傾いた。

他のひとびとは、考えないことにした。

残った数が少ないひとは、やけくそで暮らした。

現代世界は、無闇矢鱈に忙しくなってゆくことによって、この問題と正面から向き合わない、という叡知を発揮した。

しかし、疑問に思おうが思うまいが、良いことも悪いことも必ず終わりがくる。

それがきみやわしが住んでいるこの世界の杜撰極まるルールなんです。

もう一回、言うと、

すごいよな。

だから、わっしが帰ってくる表現はひとつしかない。

これほど理不尽でくだらない世界にうまれあわせたのだから、せめても、

この同じ瞬間に生まれ合わせたことを喜び合って、カシコゲに振る舞いもせず、少しでも隣りに立っているひとを喜ばせて、知らないひとにもジョーダンをゆって、もういちど単純な考えにたちもどって、ひとを傷つけるのはよくない、ひとが倒れれば少しのあいだでも腕を貸して助けて、相手に嫌がられても「ダイジョーブですか?」とゆうのが、やはり良い。

人間はどーせたいしたものではないのだから、それが、やっぱり良い。

どーせ、どんな良いことにも終わりが来るのだから。

朝起きてみるとメールボクスもチャットメッセージもぐじゃぐじゃのいっぱいいっぱいになっておる。

ぶにゃあ。

なんだか世界が突然やる気を出したような感じの日があるのだな。

クレジットクランチパンチをくらってマットの上にのびていたビジネスマン諸君が、また起きだしてきたよーです。

カウントがまだテンじゃないのかどーか、わしには、わからん。

わかっているのは、やたらに電話がかかってくることコンピュータの起動同時設定になっていたスカイプの起動を変えないとこのブログを書いて遊べん、とかそーゆーことである。

この段階で景気がよくなる、っちゅうかビジネスが大きく動き始めるのははなはだしく論理的でないが、話くらいは聞いてあげないと後々相手にしてもらえなくなるので、ちょっとくらいは相手せんわけにはいかん。

しかし、起こっていることにもう少し眼を近づけてみると、ほんとうはマットに沈んでいたボクサーが起き上がってきたのではないようだ。

顔ぶれが違うよーだ。

Bという会社の代わりにBという会社の役員だった21歳のにーちゃんが電話をかけてくる。

Aという会社のCEOの代わりにAという会社の別部門の長だったひとから違う会社の名前でかかってきます。

そうして、かけてくるひとの国籍もだいぶん様がわりしているようだ。

連合王国人が退いてロシア人に変わっておる。合衆国人のかわりにインド人がかけてくる。

ぬわーるほど、こうやって世界というものは変わってゆくのだな、と思います。

敗退した友達は、どうしているだろう、とわっしは思うが、

思うだけでなくて電話をかけてみたりもするが、行方がわからなくなったひとも多い。

そーゆー「失敗したひとびと」を置き去りにして世界はまた動きだすもののよーだ。

なんだか、やるせないのお。

でも世界というものはいつでも冷酷なのである。

個人の都合や運命なんか知ったこっちゃねーんだす。

自分の会社からも、この頃はよく電話がかかる。

「トーシアンケン」なんちゃっておる。

世界というものは不変にそーゆールールなんだから、世界のほうの身勝手なルールにあわせて勝負してやるしかねーべな。

くだらん、と思うけどな。

ダンスのステップを踏むように、うまくやんべ。

リズムが大事だべ。

また退屈な毎日の始まりかのい。

まだ隙さえあれば(もちろん)ブログ書くけどな。

わっし、「ほんこ」の世界、あんまし興味ないし。

ふつーに、正直にゆって、ここで日本のお友達と話すのが楽しいだよ。

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