日本語の終わりに 1
October 2, 2010

ストランドにずっと行ってないからマンハッタンにはどうしても寄らねばならない。第一チェルシーのアパートにもう2年戻っていないわけで、このあいだ貸した人がどのくらいちゃんと使ってくれたか判らない。
パリにも暫くいたいでしょう?
ガメが行きたければ行ってもいいが、わたしはあんまり興味がない。
興味がない、って、モニさん、突っ張ってるだけで本当は少しは自分の国に帰りたいんちゃう?
わたしは自分の国にはたいした興味がない。
この頃はモニとわしは来年の話ばかりしている。
日本遠征が終了したので、モニとわしは前にもまして時間の余裕がある。
どこにでもいけます。
アマゾンの奥地へ出かけたり、オーストラリアの西の海で沈没船を探検してもよいが来年はまだノーマッドはノーマッドなりに「自分の家」があるところを巡りたい。
ラミュエラの新しい家は真剣に居心地がいいので、まっさきにそこに帰るのでなければならない。
三ヶ月くらいは、そこでごろごろして暮らすでしょう。
それからモニとわしは旅に出る。裏祖国にも用事がたまったので欧州にも3ヶ月くらいはいなくてはならないが、それでも半年余るので、そこは全部ふらふらして過ごします。
ふたりで額を寄せて、というかサイドバイサイドに座っているのでホッペを寄せて、旅行の計画を練ります。
世界一周航空券は年年値上がりして3年前はひとり60万円ちょっとだったのが90万円を越えるようになってしまった。
でも行きたい所を一筆書きにしないで航空券を二枚に分けて買うと、140万円になってしまうので、やっぱし世界一周航空券のほうがいいのお、と考えます。
モニもビンボな冷菜凍死家との結婚生活に馴染んだのでビジネスクラスでもダイジョブなよーだ。
わしはドドドドケチなのでたいへん喜ばしいことだと思ってます。
あと5年くらいも我慢してくれると嬉しい。
えっ、エコノミーで行けエコノミーで、というひともいるだろうが (実際、わしの年長の友人の合衆国人大富豪は長年エコノミーしか乗らなかった)、あれは、わしは入らないんです。
デカイんだよ、わしは。
デブちゃいまんねん。
縦に長い。
横にも張り出しておる。
世界地図を広げてふたりで、あーでもないこーでもないと話して、モニと一緒に寝室にでかけて、いちゃいちゃもんもんしたりして、寝かしつけてしまうと、わしはひとりで自分の部屋に戻ってくる。
ベンキョーをしていることもあれば、ツイッタをすることもある。
PCゲームに狂い出すこともあるし、カウチに寝転がって本を読んでいるときもあります。
ふつーのひとと同じですのい。
ふつーのひとと違うのは、ツイッタを日本語でもやるところで、そうやって日本語遊びに耽っていると、わしは日本語が好きなんだな、としみじみ思うことがある。
ふつーに認めちゃえば、と思う。
日本語、好きなんじゃん。
わしが好きな日本語はいまの日本語ではない。
それは北村透谷の日本語であり、夏目漱石の日本語であって、せいぜい近くても鮎川信夫や岡田隆彦、西脇先生や田村隆一の日本語です。
事実はどうだか判らないが、わしの頭のなかでは日本語はそこで行き止まりになっていて、そこから先には道がないことになっている。
わしはもともと「本を読むのが人生なのよ」みたいなものなので、本はいっぱい読んでいる。日本語の本もこの5年で、ホラだと思うに違いないが3000冊は読んでいるでしょう。英語を二冊読めば必ず一冊は日本語を読む、というふうにしていたので必ずそのくらいは読んでいるはずである。
ここから先はうまくゆえないに決まっていることを言おうとしているだけなので、文章になるかどうかも判らないが、わしが日本語でもっとも興味があったのは「何だかさびしいような言葉」であったことでした。
「木霊」なら木霊という言葉ひとつとっても、日本語は、シンボルのなかでも寂しい。
しかも明晰を故意に排しているようなところがあって、ひとつひとつの語彙の意味のなかで、いままでに死んだたくさんのひとびとの呟きや囁きや悲嘆が昇華されないまま積もってしまっているようなところがあります。
このあいだ日本語で神の話をする必要があったので、日本語で考えてみたら「信仰」とfedeは全然ちゃうやん、と思った。
そう考えながら、ふとツイッタを見ると、十年間イタリアのど田舎に住んでイタリア語だけで暮らしているうちに頭がイタリア語になっているすべりひゆがまったく「fede」と言っていたので、ああやっぱし判るねんな、と考えました。
西欧語は言語そのものに神様の都合がすみずみまで行き渡っているが、日本語は違うようだ。
神が言語の語彙全体の外側にあるのは「絶対」の定義からも当然であるとして、西欧語は語彙がみんな神がいる方向を向いてしまっている。
あいだを端折って言うと、神様がいなくなると言語が分解してしまう。
西欧語で神様がいないのではないかという話をすると、ただの哲学仮説になって、「どっちでも同じやん」になってしまうのは、考えている当の言語全体の機能が神を前提にしているからで、前提を否定しようとする議論など虚しいものに決まっているのです。
でも日本語ならどうか。
わしは日本語の真に驚くべき点は、これだけ精巧な言語が神を前提とせずに成立した、という事に尽きると思います。
そんな言語、他にありはしない。
中国語は、韓国語は、インドネシア語は、とゆってデカイ顔のアップで迫ってくるひとがいそうだが、後じさりしながら言うと、あれらはまだそこまで精巧な言語をもつところまで行ってない、とわしは思う。
言えば怒るだろうが、本当なんだから仕方がない。
岩波古典体系のようなものを別にしても、日本現代文学全集とか近代文学全集であるとか第一巻から最終刊までじいっと読んでしまってから思うのは、「文学史に書いてある『西洋の影響』て、どこにあるねん」という事でした。
「影響」らしいものはアイデア、しかも往々にして誤解に基づいたアイデアにしか過ぎなくて、いまイタリアで吉本ばななが売れてみたり、世界中のあちこちで村上春樹が売れたりするのと余り変わらない。
欧州人が田山花袋を日本語で読んだ後で、日本人と話して「蒲団」が欧州自然主義文学の影響だ、といわれたら、その欧州人は腹を抱えて笑うでしょう。
そんなバカな、というに決まっている。
あるいは夏目漱石は英語で読むとひどく退屈で凡庸でどう読んでも三流作家だが日本語で読む夏目漱石は、ある種類の「寂しさ」に物語り全体が支えられていて、だんだん読んで行くと自分がどんな細部にも神を前提としない文明を生きた人が書いた小説を読んでいることを発見して愕然とする。
夏目漱石という人は言語が近代語であるだけで依ってたつところが江戸文化だからでしょう。
神というものが前提されない倫理がそこには投げ出されていて、読んでいると、なんだか息苦しいような恐怖感があります。
五年間11回に及ぶわしの日本遠征の企てのあいだにも、日本語はどんどん地方語化してきたのをわしは見てきました。
のみならず、この2、3年は、日本語で表現されるものには殆ど見るべきものはなくなった、とわしは思っています。
それがどんな理由によっているのか、わしには判りません。
UK人で日本の出版界に詳しい人と話してみると、日本の出版社の金銭的な搾取と作者への異常な干渉(そんなことがありうるのか、ちょっと不思議だが)と、なんだか話を聞いていると役所の木っ端役人みたいな出版人が多いこととが原因だろーか、と思いますが、それだけでここまで急速に書かれるものの質の低下することの説明はつきそうもないので、どこか見えていないところに大きな原因があるのでしょう。
わしが育った世界では言語の届かない「絶対」が存在しなければ人間の思惟そのものが成り立たないことになっているが、日本語の世界を渉猟してみると、「じゃ、いったいこれはなんだ」と思う事になる。
この言語には収斂されてゆく先というものがそもそもなくて、従って「価値」というものも、ぶっくらこくくらい相対的で、誰かと誰かが議論しても永遠に「正しい事」に行き着く事がない。
逡巡と関係性の広大な海のような言語で、本当にこんな言語で思考される文明があるだろうかと訝ることになる。
もう昼ご飯に出かける時間なので、今日はこの辺でよすが、日本を出立するまで、ときどき、この(多分大半のひとにはど退屈なだけの)日本語の世界でわしが遭遇した不思議な事どもについて、記録しておきたいと思ってます。

October 2, 2010 at 12:55 pm
ガメさんの『日本語、好きなんじゃん。』という言葉が嬉しいけれど、それこそ日本とあんまり関わらなくなるから『好き』と言えるようになったのだと思いました。
『中』に居ると、『好き云々』という感じにはなれないから。
出版業界のことはよくわからないけれど、買う側の視点で眺めていると書籍は紛れもなく『商品』です。何がウケて、何がウケないのかを考えて作られている商品であって、そういう作為がない書籍は、まずないです。
昔の作家は『書きたいものを書く』という点が徹底していて、それが売れようが売れまいが『わからない人にはわからなくて構わない』という姿勢を貫いているような気がします。
そういう作品の方が、えてして尖っていて面白いとも思うのですが、『事業』という観点を持ってしまうとどうしても無難にしたくなるのでしょうか。
いつか私も『書くこと』を仕事にできたとして、そういう商業的なことを意識せざるを得なくなるのかも、と考えると嫌だなあ^^;
October 3, 2010 at 7:08 pm
Kuichiさま、
>『日本語、好きなんじゃん。』という言葉が嬉しいけれど
日本語は「西欧語では考えられない事を考えられる」という点ですぐれている。他には西欧語と同じ高みでしかも違う方角から考えられる言葉はないと思う。衰退が激しいのが難だが
>いつか私も『書くこと』を仕事にできたとして、そういう商業的なことを意識せざるを得なくなるのかも、と考えると嫌だなあ^^;
おっ、「書くことを仕事にしよう」という志があるのだな。
わしはね、書くことで食べようという無謀な志をもつことはどんな場合でもすごく良いことだと思います。
いいっすな。
October 2, 2010 at 5:40 pm
西欧語全体の機能が神を前提としているって、すごく面白い仮説(?)ですね!西欧の方はみなさん、そういう感覚を持っているのでしょうか?
October 3, 2010 at 7:04 pm
るなさん、
>西欧語全体の機能が神を前提としているって、すごく面白い仮説(?)ですね!
西欧語で暮らしている人がそこから抜け出して日本語でも物事を考えてみて必ず真っ先に気が付く事だと思います。
October 3, 2010 at 10:44 am
ヒロシMark Waterman様、
>英語でも belief も使うが faith(イタリア語の fede)でないと困ることもある。
beliefよりfaithだろ、やっぱし
October 4, 2010 at 3:46 pm
そうですか!実は、(恥ずかしくて人に言わないようにしてるんですが)英語を使って仕事をしてた時もあったんです。でも英語で考えるってどういうことかよくわかってないし、今はさらに忘れてしまってます。
一般の日本人の抱く「神様」のイメージって、ほわーんとしてるんですよね。風の中に生きていたり、雨になって降ってきたりして、静かに、優しく包んでくれるような。あとは、宇宙=神様で、自分も宇宙の一部だから、自分もいずれは神様(仏様
?)になる、とか。
そういう感覚って私も嫌いではないし、どこか懐かしい気持ち
にもなるんですが、でも、やっぱり「それじゃ寂しくないか?」と思うんですよね。理不尽なこともしないけど、こちらが何をやってもほとんど反応がなくてニコニコ笑ってる人と、ずーっと一緒にいたら、私は寂しいです。それって、向こう側をいくら覗きこんでも自分の他には誰もいない・・・ってことになるんじゃないかと。で、そんなことはない、誰かいるはずだと思うのです・・・というか、確信してるのです。
October 6, 2010 at 2:57 pm
るなさん、
>そんなことはない、誰かいるはずだと思うのです・・・というか、確信してるのです。
人間の言葉は人間をそういう切ない気持ちの立場に強制的に立たせているが、わしなどは、「この一種の『絶対的な勘』と感じられるものは、ほんとうだろうか?」と疑います。
「言葉」には意識主体とは別個にそれ自体の思考力をもっているので、人間の脳髄は簡単に欺されてしまう。
言葉の手にかかれば「確信」などあっというまにでっちあげらてしまう。直感などサイコロの目ほどの信頼もおけないのを人間は経験的に知っているが、直感以外に頼れるものはないんですのい。
だから難儀なんです。
こまったもんですのい。
October 12, 2010 at 5:01 pm
昔行っていた教会にとても素敵なお祈りをする人がいました。年配の男性だったんですが、穏やかで、自然で、目の前にいる人に話しかけるようなお祈りで、私はその人の祈りの言葉はすっかり忘れてしまったけど、「神さま」と呼ぶ時の、嬉しそうな、明るい声の表情だけは心に残っています。
私は、言葉だけでなく、存在全体で「やっぱり神様って本当にいるのかなあ」と周りの人に感じさせてしまうような人って、いいなあと思います。その直感が、どこまでもカンチガイだという可能性があるのは、わかってはいますけれどもね。
October 30, 2010 at 10:39 am
るな殿、
>言葉だけでなく、存在全体で「やっぱり神様って本当にいるのかなあ」と周りの人に感じさせてしまうような人
最近信徒数が減っているそうだから神様がプロモーションで雇った宣伝工作隊ではないでしょうか。
支払いが良いのかな。わしも応募してみようかしら。
November 5, 2010 at 8:24 am
うふふ。そうなのかな。
にしては、滅多にお目にかかれませんが。