最後の特例公債法案
February 13, 2011

今度の国会の常会では外国人たちも注視している法案がひとつある。
来期予算を組むための「特例公債法案」がそれで、日本という国全体がカミカゼ予算に踏み込むかどうか、という瀬戸際である、と認識されている。
貧すれば鈍す、という。
恒産なくして恒心なし、ちゅう言葉もあるな。
眺めていると、日本の経済政策を決定するひとびとは正気を失いつつあるように見えます。
この選択は、傍からみていると、結局、「長期的に最悪の選択」か「短期的に最悪の選択」かどちらかを選ばなければいけない、という選択になっている。
今度はもうあんまりだから特例公債法案を通さない、という決心を日本がすれば、次には相当高い確率で経済の大崩壊が待っている。
ツイッタで書いた吉野屋の牛丼が24000円、という世界も夢ではない。
円は紙屑、現金資産は「チャラ」で、年金生活、などというものは戯れ物語の一種になりはてるだろう。
政府がテレビキャンペーンまでして固く約束した年金が定額通り支払われて、老人たちは、その10万円でマルボロを二箱買って一日に3本づつ喫って暮らす、というふうになる可能性が高い。
あんなにたくさんの「有識者」が笑って否定したデフォルトがなぜ起きたか、について議論することにもなるやもしれません。
デフォルトなんか起きるわけない、とさんざん屁理屈をこねた彼らに怒ってはいけない。「専門家」というものは人間はどんなに悲惨な事件でも現実に起きてしまえば意外に「馴れ」て、平気になってしまう、という事実に拠って生きている。
焼け跡の掘っ立て小屋でもひとは「豊かな生活」を送りえたのです。
ツイッタでも書いたが、国債の投げ売りが始まった場合、日本は要するに「巨大姥捨山」になるだろう。若い人間はもともと殆どのひとが経済的には「自分の身ひとつの生産性」によって生活を作っているのでたいした影響はないはずである。
給料とスーパーマーケットの棚の商品の両方ともにゼロがふたつつくだけのことです。
社会がリセットされて団塊世代中心に偏在していた富の偏りがなくなり、戦後と同じで、激しい変化の勢いでふっとばされてしまう旧社会のさまざまな抑圧が消滅することを考えると、返って良い事態、とさえ言えるかもしれません。
年寄りは、そうはいかない。
わしが最後に日本に滞在していたときには60代以上の人間に富が偏在していて、20代の人間が貧困に喘いでいるのが話題になっていたが、経済破滅が起これば、話はまったく逆になる。
経済的にももちろん破滅だが、それ以上に、日本が生産性を回復する過程で生じる「競争優先」の「勝者と敗者がくっきりと存在する」世界と、それに伴って常に発生する、競争に適応できない十代の人間の暴力化や社会全体の刺々しい雰囲気に「外に出るにも足が竦む」ような気持ちになるに違いない。
わしは、いままでの日本の歴史のところどころに見られたような老人たちに対する
労りや救済の試みは今度は起こらないと思っています。
姥捨山は自ら進んで自分を山に捨てることを命じた老母の話だったが、今度やってくる姥捨山は、若い世代が老人の苦悶を見て見ぬふりをする「姥捨山」になると思われる。
社会全体が老人の貧困の問題など存在しないかのように振る舞って終わりでしょう。
一方では、「特例公債法案」が可決されれば、それは日本の経済破滅を、よりゆっくり、しかしより深刻な再建不能なものにすることになる。
特例、という年次更新の暫定法を毎年更新することは日本では慣例化しているからです。
すでに機能しなくなっている社会構造や産業構造を、屋上に屋を架し弥縫に弥縫を重ねて2年しかもたないものを10年にのばし、歴史に絶対に残るに違いない無意味に膨張した借金を抱えて、最大2020年頃まで必死に破滅の瞬間をのばすことになる。
その場合は、日本という巨大な船がゆっくりゆっくり傾いて、バランスを失って横転した瞬間に世界中の国が少しでも自国の利益になりそうなものを分け取りにするであろう。
多分、日本には国家としての経済的再生の余地は残されないだろうと思います。
これは考えてみるとすごいことで、日本という国を「消滅してもよい」と経済家たちが考えたのは20世紀にはいってからは一度もない。
規模の小さな、先進国を夢見る田舎国家であった明治時代でも、1945年に焦土と化したときでも、「日本という国がなくなってもよい」という前提で世界経済が考えられたことはなかった。
まして、明治日本などとはまるで異なる、世界経済と密接に結びついたいまの巨大な日本経済を世界から切り離す、というのは夢物語のような作業です。
しかし、世界は明らかに、日本のビジネス主体の海外移転と、いまはまだ小規模だが日本が弱体化するにつれて大規模になるであろう生産性のある日本企業の買収によって、日本の経済破滅の影響を軽減しようと努めているように見えます。
去年オーストラリア人のおっちゃんと話したときには、おっちゃんはすでに、「70年代日本の『豪州姥捨て山化計画』再現を阻止しないとわしらが国の社会保障プランが崩壊する」といって警戒していた。
むかし、日本の政府が音頭をとって、日本の老人たちを大量にオーストラリアに移住させようとしたことがある。
そのときのオーストラリア国会の大騒ぎは、いまでもあの年齢のひとたちにとっては記憶に残っている。
日本人にとっては可決否決どちらでも厄災というしかないが、よその国からみると、否決のほうが影響が大きいので、「それだけは勘弁してくれ」とみなが考えている。
日本がたとえばデフォルトに陥ってしまえば、リーマン危機どころではない丁度大隕石が経済市場に衝突したようなパニックになってしまう。
中国の地方やアフリカをはじめとする途上国では餓死者が大量に発生して、世界経済が20年ほども停滞する可能性がある。
日本のひとは自国の経済のことになると奇妙に過小評価したがる不思議な癖があるが、日本の経済はこれを地球上の陸地のおおきさに翻訳すると南北アメリカ大陸をあわせたくらいの大きさがある。
それが突然崩落してマグマのなかに消えてしまえば、ツナミくらいですむわけはない。
それほどの巨大な危機が迫っているのに、どうして海外のエコノミストたちが、比較的のんびり構えているかというと「日本のことは言わぬが花」ということになっているからでしょう。
日本経済について云々すると、自分のキャリアにとって、ろくなことがない、という気持ちがある。
他の市場に較べて、「よくわからない」から、とゆってもいいかもしれません。
なんだかバカっぽい理由だが。
世界の経済は目下ぐらぐらもいいところで、ドミノで高層ビルをつくるとこうなるんちゃうか、というようなていたらくです。
いまだに崩れないのは神秘的である。
長いあいだ「よく判らねえええー」とみなを悩ませていた中国の保守派と軍部の圧倒的な権力の伸長は、どうやら中央政府が地方政府に対するコントロールを失っていることにあることが判ってきた。
「もっと強面でいかんかい」ということのようです。
経済においても中央の経済エリートがいかに、ああしてね、こうしてね、と地方に通達しても、どうやら全然まもっていないよーだ。
中国という国は実際の数字が見えない国なので、どのくらいひどいのかは判らないが、誰が観察しても公表されているインフレーション率は「目安」あるいは「希望値」みたいなものであるらしい。
欧州も件の「ペナルティ規定」以来、ドイツですら手を染めるに至った統計の改竄でごまかしまくっているが、インデックスはそれですらボロボロで、そのうちにはイタリア人の勘定書もスペイン人の勘定書もフランス人の勘定書も全部払わされることになるのではないか、とドイツ人は怖れている。
ここで日本がおおごけにこけたら、「全部、日本が悪いんじゃ、ボケ」ですまそうという考えもあるようだが、日本にあるものもないものも責任を押しつけるだけの経済的余裕が自分達に残っているというのは妄想なのではなかろうか。
日本の現在の、この瞬間の、経済の巨大さがうまく把握できていないような気がします。
日本は、ぼおおおー、として、小沢があああー、とか尖閣があああー、沖縄がああああー、といまの内閣を構成するひとたちの若いときからの趣味に適っている問題にばかりかまけているあいだに、最も肝要に決まっている経済のほうは、「解決策」というものがなくなってしまった。
緩慢で致命的な破滅か、回復可能(わしは急速な経済破滅が起きた場合、日本はほぼ5年で回復すると思っています)だが破壊的な破滅か、結局、ふたつにひとつしか選択がなくなってしまった。
両方とも、どこかの時点では簡単に言って「札(紙幣)をいっぱいすりまくる」という解決しかないだろうが、札をすって解決に向かう経済局面というのは(あたりまえだが)「先に刷ったやつの勝ち」である。
合衆国は、そういうことは定石として知っている人間が経済の中枢に座っているので素早かった。(素早すぎて印刷を間違えて「北朝鮮に印刷を頼め」とUK人に揶揄かわれていたが)
しかも、これもツイッタで書いたが、日本で札をすりまくるときには、自国のひとりひとりの国民に損を全部おっかぶせることになるが、合衆国が札を刷りまくることによって出来る巨大な損失は中国や日本やアラブ諸国がかぶったことになる。
札をするのが5年遅れれば、倍も札を刷らなければならなくなるかもしれないので、案外、そういう点でも予算を組むのに失敗して、おっちゃぶれてしまったほうが、(国民性からしても)話が早いのかもしれません。
またあの「国民のみなさんにも『痛み』を分け合っていただく」とか「骨太」とかの下品な日本語を日本人は聞かされることになるだろうが、もう方策がなくなっているのは事実なので、使う言葉が下品なだけで、ほんとうにそれしかない。
ともかく、法案可決の成否を、チップスでも食べながら眺めることにしましょう。
盛夏
February 12, 2011
夏は庭で食事をすることが多い。
モニは小さい方のダイニングルーム(ニュージーランドでは少し大きな家であれば、ふだん使うダイニングルームと「正式な」晩餐に使うダイニングルームがふたつあるのがふつーです)のすぐ外にある、ブーゲンビリアの花の棚の下で食事をするのが好きである。
煉瓦を敷いた上に、去年買ったチークの8人掛けのテーブルと椅子が置いてあります。
知っている人は「あたりまえじゃん」というであろうが、チークは戸外のテーブルには最も良い。風雨に晒されても長い間もつ上に途中の色の変化が美しいので、何も塗装しない素のままのチーク材で出来たテーブルと椅子はよく庭用の家具に使われる。
8つの椅子のうち普段は2脚だけが外に出ていて、6脚はガレージのなかにある。
怠惰なわしは「肘掛けのない椅子」というものが嫌いなので、家具屋に言って椅子を作るときにもともとのデザインにはない肘掛けをつけてもらった。
長いテーブルの両端にモニとふたりで腰掛けて、のんびり朝飯と昼飯がひっついた限りなく午飯に近い朝食を食べる。
ベーコンとポーチドエッグとトーストが2枚と焼いたトマトと焼いたキノコ、それにときどきは芋とアスパラガスが付く。
お腹が空いているときには、それにポークソーセージが二本つく。
結婚したばかりのときはコーヒーだったが、もともとの趣味がじじむさいわしのせいで、また紅茶に戻ってしまった。
ちゃんとコージーがかかったポットで、マジメに淹れた紅茶です。
いまの季節はセミが鳴いている。
日本ではしたり顔のひとびとが(おそるべきことには、わしにまで)「ガイジンにはセミはうるさいだけだ」と言っていたが、わしはそんなことはねーよ。
アブラゼミのような騒音は嫌であるが、オークランドのセミの、日本の絶叫型のセミに較べると格段に音量の小さい、やさしい鳴き声はわしは嫌いではない。
(もっとも、日本の文化を学習した影響もあることは認めるが)
ニュージーランド人はパンの食べ残しとかは芝生の上にぶん投げておくが、それはそうすると鳥が庭に集まってくるからである。
テュイやツグミ、キングフィッシャー、その他もろもろの鳥が三々五々集まってくる。
カラスがいないのは当たり前としても、オークランドにはマグパイもおらん。
鳥さんたちのなかでも友好的な諸君しかいないので、人間と鳥さんとの関係も頗る円滑です。
晴れている日には、朝食のときにシャンパンを開けることもあるが、そういうときにはたいてい庭の芝生を歩いて下りて行って、真ん中の広々したところに寝転がって、モニとふたりでたくさん話をする。
ガメ、やってやって、あれ、やって、とせがまれてバク転や前転をしたりする。
モニがきゃあきゃあゆって喜びます。
どうも、妹がにらんだとおり、モニはわしに角兵衛獅子をさせるために結婚したもののようである。
2
ラミュエラの坂を下りて、クルマで5分くらい行くと、砂浜、たとえばコヒマラマの浜辺がある。人気(ひとけ)のない平日には、遠くに見えるランギトトを眺めながら、のんびり泳げます。コヒマラマ
ttp://www.flickr.com/photos/starbuck/4135795014/
や隣のミッションベイ
http://www.missionbay.co.nz/default.asp?s1=Home
は泳ぐひと専用だが、そのまた隣のオカフベイに行けばカヤックもボート遊びもやれる。
わしはカヤックが好きである。
気楽でのんびりした乗り物なところがいいと思う。
海の上の自転車、とゆえばいいか。
のーんびりパドリングしながら波が寄せてくる方向にむかうと、あっというまに意外な遠くまで行ってしまう。
むかし、モニと初めてカヤックででかけたときに、わざと横転して遭難したふりをして夜まで口を利いてもらえなかったのを思い出す(^^)
カヤックで遠出ができないニュージーランド人なんて、多分いないと思う。
夏のネルソンで、あの深い美しい入り江をカヤックで巡りながら、そこここの岩にへばりついているミュール貝をナイフではがして食べる。
うめーです。
ハッチに冷やした白ワインをいれてゆくと良いと思う。
イルカたちに出会うと、ちゃんとカヤックが揺れないように距離をとって一緒に遊んでくれます。帰るときには、礼儀正しく別れを告げてから帰ってゆく。
イルカは人間より賢いので自分達の仲間だと知っている人間から攻撃されることがあっても自分達からは友情しか返すまいと決めているからです。
素足で浜辺を歩くのは楽しい。
波が足を洗ってゆくくすぐったいような感じや、ときどき予測を越えて大きな波がくるときの意外さが良い、と思う。
大きな空があって、遠くまで広がっている静かな海があると、世界なんてどうだっていいや、という気になります。
帰りにはテラスのあるパブでスタウトを半パイント飲んで帰る。
日灼けしたひとびとが、テラスのてすりにもたれて大きな声で笑っているが、騒音の嫌いなわしでも、そういう笑い声だけは気にならないのは不思議な気がします。
マケドニアのおばちゃんが作っているバクラバを買って帰ることもある。
3
遠くにある競馬場から風に乗って聞こえてくる歓声やトゥリーハウスの窓から叫んでいる子供たちの声、テニスコートでボールを打ち合う音、セミの声、…そういうもので、オークランドの夏は出来ている。
木陰の芝生の上に座って、草クリケットを眺めながらクルマのブートにいつも入っているピクニック鞄から出したワインをのんびり飲みます。
初めて買ったチーズを切りながらその新参者のチーズに難癖をつけたり賞めたりする。
モニもわしもチーズが好きなので、チーズ屋に行くと、延々と延々とチーズの品定めをしているので、いつもチーズ屋のおばちゃんに笑われてしまう。
一時間くらい話していることあるからな。
買うチーズよりも、だいたい試食するチーズのほうが量が多いとゆわれているし。
ほんの少し風が動くと、草の強い匂いがする。
太陽の匂い。
なんだか日本で喧嘩した(なにしろ暑すぎたからな)太陽の母上とオークランドで和解しているようなヘンな気分です。
画像は古い洗濯物干し場の上でカッコをつけてポーズをつくっているキングフィッシャー。
気取り屋だが、ひとなつこくて、誰かが写真を撮り出すといつまでもいつまでもさまざまなポーズをとっておる(^^)
コメントへの返信 10/Feb/2011
February 10, 2011
***なんだかヘンなひとがいっぱい来ているのでリンクもとのニフティへ見に行ったら、また佐藤亜紀さんなんだな。ブロックしてもまだつきまとうなんてストーカーみたいなひとだ。「悪質な出鱈目」を書きまくってきたのがどっちかは、ずっと見ていた人は皆知っているからいちいち繰り返さないが、自分が突然わしを中傷しにやってきたときに、わしが「集団でせめてくるなよ、みっともないから」と言ったら、ツイッタで「自分の子供達がやることに責任はもてないし」と書いていたのを忘れているのでしょう、田舎者の喧嘩の仕方は、言い換えとすり替えに終始するのは仕方がないが、一応作家なのだから矜恃くらいもちなよ。なさけない。
わしがいっぺんは議論が出来る相手として期待したひとだと思うと、がっかりだのう。
やり方がどんどん泥臭くなってくるところが、ますますがっかりである。
ツイッタとかやってねえで物語をたくさん書けばいいのになあ。
ほんとに、くだらん。
まだなんだか変なひとがいっぱい来るので、顛末が判るリンクをここに貼っておきます。
周りで見ていた人のコメントも読めば、どんな事が起きたか判るであろう。
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/佐藤亜紀(tamanoirorg)さんへの返信/
ttp://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/12/1593/
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/14/佐藤亜紀さんとのやりとりの終わり/
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/19/コメントへの返信11月19日/
モニとふたりで散歩の途中で午飯を食べに寄ったスペイン料理屋で不味いサングリアを飲んだら眠くなってきて大規模な午寝をぶちこいてしまった。
窓の外から覗き込んでいるような大枝がつくる緑色の光のなかで眠ったら緑色の思想の夢をみました、というのはウソだが、気持ちよかった。
わしはお昼寝、大好き。
気持ちの良い夏の午後、窓を開けて、そよ風がはいってくる部屋のカウチに寝転がって、ふにゃあ気持ちいいと思いながら猫眠りに眠るのが大好きです。
あー、気持ちよかった。
ぽんぴい殿(December 29, 2010 at 12:15 am e)
ぽんぴいの使う言葉は、わしにはさっぱり通じないのがいつもオモロイが、
>ガメ、うまいこと言うなあ お主、天才かもよ
とゆってほめてくれるときでも、何をほめてくれているのか判らないところがおもしろい。
ぽんぴいは、とてもとても興味深い人物で、無茶苦茶なようでちゃんと言いたいことがある。
言いたいことがあるようでいて、なんだか無茶苦茶です。
まるで自分が描いた絵、自分が撮った写真と話しているようだ。
>お主の日本語に対する愛情に感謝を混めて(あ、込めてか) この先も、俺たち夫婦を楽しませてくれなされ
ぽんぴいの奥さんて、たいへんそーですのい。
>どっちかというと、批判的なことを言ってくれた場合に 俺は君の豊かさを感じております
だって、わしは「批判的なことを言った」り、「好意的なこと」を言ったりしているわけじゃないんだよ。
考えたことをそのまま言ってるだけです。
今日も、ぽんぴいはついぞ見かけたことのないツイッタで、「発言はきびしいが」というひとがいたが、へえ、と思いました。
そーゆーふーに聞こえるのか。
わしは日本というマイクロ文明が「他と違う」から好きなんです。
生き延びて欲しいと思う。
しかし英語世界の文化的力は強いので、日本は「風前の灯火」と思う。
だから、こーすればえーんちゃうか、あんなんやってたらダメなんちゃうか、とよく考える。
それが「きびしく」聞こえても「あまく」聞こえても、わしにはわかりひんし。
p_mume1980どん (December 29, 2010 at 10:51 pm e)
>息が合うというか、2人(とは限らないけど)の話が とんとんと進んでいって、なんだかものができる。
そう言葉が勝手にシャッフルパックみたいに反射して、よくわからないものが出来てしまう。
コーヒーでがぼがぼのお腹や、ウイスキを飲み過ぎた頭で、「この頭に新しく生じてしまった言葉の集合はいったいなんだ?」と考える。
言葉ってさ、時間とセットなのよね。
時間と意識の関係を考えてみればあたりまえだが。
>企画なんかでも3人くらいでああでないこうでないと 好きなこと言って、2人がぶっ飛んだこと言い、
3人になると場に「公約数」をつくろうと思う気持ちが強くなるので、なかなかぶっとんだ考えが出てこないような気がしているが、そーか「2人党派」とひとり批評家という3人のありかたがあるのか。
>時間感覚を失ってるというのは、もう日本の問題の諸悪の根源だと思う。
えっ? ほんとーにそう思うのか。それはすごいやん、とここを読んで思いました。
わしは日本では時間が壊れているのを発見して、この功績によって焼き芋5キロくらいもらってもええんちゃうか、と考えた。
他にも考えている人がいたのか。
>時間の勉強をしているところです。
木や草や花は、時間の勉強になるよね。
人間の手で書かれた本では「プルターク英雄伝」ええです。
あれは時計のない文章で書かれている。
人間にとって時間というものが、どういうものか判るよーだ。
>日本の学校では時間をどうやって消し去るかの勉強をしてる。
素晴らしい。言葉がp_mume1980 に代わって考えているような表現ですのい。
>最近マイブームの俳句も、風景を見てから、詠むまでかかる時間もいろいろあって面白い。10秒で出てくることもあるし、 3日かかることもあるし。10年前のことを詠むこともあるし。
俳句は難しい。わしは俳句はなんだか芭蕉の特殊芸術のような気がしてしまうことがあります。
日本人の基本感情は短歌のような気がすることがあります。
あれはもうちょっとのたのたできるんだよね。
moon_flight(るな)さん、(December 31, 2010 at 12:49 pm e)
>残念ながら、既婚なのです~
日本の婚姻法てよく見ると日本で結婚してても合衆国でもう一回結婚するの違法ちゃうねん。
各国にひとりづつダンちゃんをつくることも出来るよーだ。
あれて神様がいないからだよな。
>ぶははは!なんてことをおっしゃるんですか!
ガキなんか、不細工で身勝手な思想で生きておる未完成な生き物ですけん。
神様は人間はほんとうはどーでもいいのさ。
人間のほうが、どうしてもそう思いたくないだけです。
SDどん、(December 31, 2010 at 1:27 pm e)(January 14, 2011 at 1:33 am e)
>女びとの立場が高ければ、きっと自殺者も過労死者も減るだろうなと思います。
ほんとーだよねー。
日本では女のひとびとの立場はひどすぎる。日本の「先進国ぶり」はバランスが悪いが、性差別において、それが最もひどい。
その「バランス」を歪ませているのと同じものが自殺者を大量製造し、過労死を世界語にしたのだと思います。
> 裁判官でなくとも、こういう意見は日本ではありえません。「いいとしこいたオトナ」であってもです。
英語人はがっちんがっちんの「現実主義者」の集まりなので、「いいとしこいたオトナ」がポルノに興味をもたないとゆわれても、ははは、とか失礼な反応をするのね。
連合王国の家庭向けの推理テレビドラマで主人公の独身の娘(30代)が母親にベッドの上のバイブレーターを見つけられそうになってパニクる出だしがあって、合衆国人の女の友達がひきつけを起こしそうになっていたことがあったが、一緒に居間で観ていた、わしがかーちゃんは、愉快そうに、はっはっは、と笑っているだけであった。
わしは、そういう言語世界で育ったので、現実をそのまま見られないひとはバカだと思います。
> 都条例を悪しき意図で推し進める人々
あれは本人たちも意識してない「受け狙い」なだけと思う。
日本も「受けるのがすべて」の社会になってしまっているのかもしれませんのい。
Mark Watermanどん、(January 23, 2011 at 11:51 am e
)
>ああ、だからアイルランドは貧乏になったのね。
>あの貧乏は80年代からだし、不景気のせい
アイルランドがビンボーなのは連合王国の収奪のせいだぎゃ。
彼らはコンジョがあるのでIT化された金融を軸に国を繁栄させたが、アメリカ人の不透明で不良な「屋上屋を架す」ビジネスモデルの崩壊に巻き込まれてこけた。
でも、いちど憶えた金融理論は保持しているので、もうすぐ回復すると思います。
>ほんと、税なんてとらなくてもいいかもね。一定以下の貧乏アーティストは。
いや、いろいろな国の政府が口先でいっている「芸術への尊敬」が本当なら、芸術家に対する徴税権の放棄は当然だろう。
それが放棄できなくて、微々たる税金を徴収しているのは、単純にゆっていることが「ウソ」だからと思うよ。学者に対しても同じです。
ただ政治権力というもののむき出しの野卑を顕しているに過ぎない。
Emiechikaさん、(February 4, 2011 at 9:36 pm e)
>なまはげが大挙して押し寄せて「あいつら好きなことやって稼いでやがるくせに、ケシカラン!!」とか
「なまはげ」て、あなたがファンの佐藤亜紀と彼女の「子供達」(佐藤亜紀が自分のファンたちを呼ぶときの呼び方ですね)のことですけん。
>話がずれてしまいましたが、欧米にも連帯保証人制度があるとは驚きでした。
「制度としてある」ちゅうだけで、本人たちに訊くと「そんなもん、この国には、ねーだろ」という程度のものです。
1だけ存在しているものを100あるのと同じ、というのは日本人得意の論法やん。
>気が向いたときに、もう少し詳しく呟いていただければ幸いです
わしは「呟いた」りしねーぞ。
調べればすぐ判るし。
わしは、あんまり興味ねっす。
p_mume1980 ( February 9, 2011 at 12:42 pm e
)
>そうそう。歩くのはいいよね。 実にいい。自転車もそれなりに楽しいけど。
人間は採集生活者だったので歩いている時にものが最もよく発見できるように出来ている。
文化的なものであるものより生物的なものと思う。
>3時間ほどだけど、大いに歩いて、樹の話や 庭園の話に、幽霊の話や、近所で首を切られた近藤勇や 赤報隊の竹内力の話をしていました。
やってることがわしみてえ。
>まったくもってツバキのない世界なんて考えられないよ。
でも椿はサムライの家ではタブーだったんでしょう?クビがぽたっと落ちるからだって。鎌倉ばーちゃんがゆってました。
>ひさびさにブログでも書くべかと思ったりする
p_mume1980 はブログを書くのがうまいからなああー。
とても静かで、とても聞こえてくる。
言葉の筋がよいからだよね。
Mark Watermanさま、(February 5, 2011 at 2:09 pm e)
>余は南半球になど興味はなかった(アルゼンチンを除いて)
そーゆーところは、アメリカ人なのに、すげー日本人的だよな。義理叔父も含めて、みな同じだのい。アルゼンチンが別枠なところまで同じである。
ニュージーランドはええだよ。
人間などはたいしたものではなかるべし、という認識にさえ到達できれば、ニュージーランドのような国こそが地上の天国なのである。
東アジアのひとびとはイタリアだああああーとかフランスだとか、ゆいたがるけど、くだらねーよ。
あんなかび臭い世界が好きなのは、欧州の「カビ」がわからないからだろう。
ほんまにくだらねー、と思います。
….おー、コメントの返事書いちった。
こうやってコメントの返事を書いていると、ヒロシ(Mark Watermanのことです)やぽんぴいや p_mume1980はもちろん、ここには出てこないNasuやブブリキやjosicoはんやじゅん爺、すべりひゆ、…ちゅう、「たくさんのものを一緒に目撃しても一緒にいようと思ってくれた」友人たちがいるから
、まだ日本語を書いているのがわかりますのう。
言葉というものは不思議なものである。
日本語の本を閉じたあとで
February 10, 2011
ホブソンの丘に登るとラミュエラの向こう側に遙か彼方まで続く海が見える。
わしの好きなランギトト島の優美な稜線も見えます。
ベンチに腰掛けていろいろな事を考える。
人間の頭のなかは散らかった部屋に似ている。
いろいろなものが、たいした脈絡もなくあちこちに分散しておかれている。
空に昼間の月が出ているのを見れば古典物理学の軽い復習をしようとするし、波も同じ。
地球が太陽のまわりをまわるイメージや、モニと自分の事、
昨日、カウチ席でモニとふたりでシャンパンを飲みながら見た「ブラックスワン」は面白かったなあ、ナタリーポートマンが、あんなにちっこいひとだとは知らなかった、
まるで上手なパティシェがつくったお菓子の上の、薄く削られたチョコレートのようだ。
初夏から夏にかけてパリから地中海にくだって、スペインへいって、そこから北欧の友達の家までクルマででかけようと思うが、どういうルートがよいだろうか、
途中で寄りたい田舎の骨董屋がいくつかあるが、まるで一筆書き問題のようである。
…そうやって際限なく考えている。
すべりひゆ(註1)やヒロシ(註2)のマネをして他の言語にギアを変えて考えてみると、同じ事を考えていても全然違うひとになったみたいなのが面白い。
「みたい」でなくて、実際、全然ちがう人です。
日本語は結論にいきつきにくいところが楽しい。堂々めぐりの言葉で、なんだかあてもなく散歩しているような言葉である。
言い切られるのを嫌がる言葉。
なんだか言葉の体系ぜんたいで、「そんなふうに決めちゃわないでよ。このまま曖昧でいたいんだから」と言っているようなところがあります。
壊れてしまいそうに繊細で、滑らかで、柔らかくて、暖かい日の海のようで、女のひとの肉体のような言語である。
この頃は頭のなかで日本語を使わなくなってしまった。
ブログも書かず、メールの返信もほうったらかしで、ツイッタも勉めて書かないと日本語のアカウントに触りさえしなくなってしまった。
わしは習得した技量に関してケチなので、そういう意味で日本語を忘れているの発見すると嫌な気がするが、しかし、人間というのは生きていれば、次から次にいろいろな事を習得してしまうので、さまざまな技量を維持するだけで随分時間をとられてしまう。
その上に、わしは運動キチガイで、最低でもジムで4時間くらいおこもりさんをするか、ランニング20キロ+水泳5キロくらいはやらないと自分の身体が自分のものでないマヌケなものに変わったような気がする。
頭がマヌケなのは許容しても良いが肉体がマヌケになるのは耐え難いので、肉体のほうは常に研鑽されていなければ困るのです。
これはやってみると判るが、ものすごく時間がかかる。
一方では怠け者なので、もうとっくのむかしに使わなくなった「日本語」は、優先順位が下のほうなのでなかなかたどりつかない。
しばらく使わない−>従兄弟と義理叔父に日本語を試される−>おもいきりバカにされる−>頭のなかのアフターバーナーに点火して日本語の古い表現の用法を思い切り研究する−>電話の開口一番、「おれがガメだあああー。文句あるか。ガチョオオオーン」と叫んで、義理叔父が恐れ入って平伏する。
というような肉親との骨肉の死闘を何度繰り返したことだろう。
最近は「日本」というものを考える機会はほぼ経済の事に限られている。
日本語のブログでもツイッタでも何年も前から何度も述べた、日本の経済的な破滅が(信じられないなりゆきだが)避けられない所まできてしまって、時間の問題になってしまったことをよく考える。
日本人自身が、「日本の国債は国内債務だから他の国のように破綻することはない」という驚くべき無責任かつ恥知らずなウソを編み出してまで危機に目をつぶってしまったことで、他の国は、「どうやら日本は本格的に危ないようだ」と考えるに至ったのだが、しかし「他の国」も十分マヌケであって、なぜなら日本の経済の破滅は、先に十分に引き延ばされずに、いま予測されている時期に起きてしまえば、リーマン危機が危機のオモチャに見えるくらい深刻な破滅を世界経済にもたらすはずである。
具体的になぜこういう事態に至ったかというと、たとえば、東京にはもう優秀な特派員は残っていない。
みな北京と上海に行ってしまった。
「日本はもう鎖国した沈みゆく国だから」というので、みなが中国へ名声と昇進を求めて移動してしまた結果、英語世界からみて日本は月の裏側のような場所になってしまっている。
マンガやアニメを中心とした文化、そのなかでも西洋の人間からみると異様で性的な性犯罪すれすれの挑発に満ちた異形の文化側面を報道すれば掲載の機会が増えるので、そういうニュースばかりをおいかける二流三流の記者しか東京の街をめぐることはなくなった。
経済に明るい記者たちが上海で、中国経済の加熱が暴走にかわってゆく様子を活写して本国に送り続けているあいだに、当初は2025年と予想されていた日本経済の破滅は、国民まるごとの殆ど意味をなさないような「危機の否定」(いままでに、これほどヘンな危機への反応を示した国民があっただろうか?)によって立ちすくんでいるあいだに、あっというまに目の前にやってきて、もう、仮に赤字国債法が通らなければ、夏には破滅が始まる、というところまで来てしまった。
世界の人間が見えていないところで、中国経済の暴走どころではない、もっと巨大な危機が現実のものになりつつあるのを英語世界は見過ごしてしまった。
日本への関心そのものがないために、日本への対処が遅れた事情は、要するに1930年代と同じ事です。
それはまた気が向いたときに別のブログで書くだろうが赤字国債法は日本にとっては歴史的な汚点になるはずの法律です。
この、日本を経済的な再起からうんと遠ざけてしまう法律は「世紀の悪法」どころではない、日本にとどめをさすための死刑宣告のような悪法であると思う。
しかし、この悪法が通らなければ、かなり高い確率で、法律の否決を起点として日本の経済的な大崩壊が連続的に、よくて「石が坂を転がり落ちるように」悪ければ地滑りのように一瞬で「デフォルト」に向かうだろう。
将来においては日本の経済破滅がどうやら避けられないようだ、というのは日本の事情に通じる投資家たちには2年前から確信されるに至ったと思うが、これほど急速に事態が悪化するとは誰も思っていなかったに違いない。
2025年、はやくても2020年に崩壊するなら、なんとかリーマン危機程度で衝撃を吸収できるというシナリオであったのが、こういうタイミングになると、周りの世界がまきこまれて他のマーケットも一緒にぶちとぶのは避けられないので、ふつーのひとがアクセス出来る情報でも注意してみていれば、世界全体がインフレ圧力に備えて緊張しているのに気づくに違いない。
日本が破綻すると「円」が紙屑になるのは当たり前として、他の通貨も一挙に価値が低下するのは見えているからです。
同時に諸国家は「食料の確保」にも動き始めている。
金銭で購うもののなかで最も重要なものは食料だからです。
自前の資金で動いている投資家たち(というのはごくわずかな数だが)は資金をコンサーバティブ、しかも貴金属や土地などの「現物」に移行している。
日本語を習得したばかりのときは、わしは能楽の「井筒」やジブリのアニメ、いしいひさいちのマンガや小津安二郎の映画にコーフンして暮らしていた。
おもしれー、と考えながら、夜中のカウチにひとり寝転がって「お茶漬けの味」の佐分利信にしびれたりしていた。
どの言語を習得するときもそうだが、わしは詩のまる暗記から始める習慣なので、岩田宏や西脇順三郎、田村隆一、鮎川信夫、といったひとたちのすぐれた詩を通して、もう「日本語の美しさ」というものを知っていた。
音韻の定型ではなくて、日本語もまた、他の普遍語たる能力をもつ言語と同じに「感情の定型」や日本語でなら「言い当てる」という言葉があらわすような「発見の定型」もちゃん持っていることを知っていた。
ものを書く人ならみな知っている、神様が書く人の手を握られたペンごと鷲摑みにして、まるで自動筆記のように言葉が勝手に思いもかけない行き先にたどり着く、あの成熟した言語だけがもつ能力が日本語にも内在しているのを、わしはもう知っていた、と思います。
そうやって日本語とともに過ごした興奮の日々が、たかが経済破滅くらいのくだらない事件と一緒に衰微して、細くなって、やがて消えてしまう、というのは寂しい気持ちがするが、一面、言語というものは「その国の国民が生きてゆくための頸烈な必死さ」とでもいうべきものの反映なので、国を挙げてスノビッシュになり、衒学的になって、たいして考え抜いてもいない語彙を使って頭のなかでパズルのように組み上げた言葉で人間たちが話すようになってしまえば、言語の生命はそこで終わる、という単純な決まりに順っているだけのことかもしれません。
いわば自分の選択で破滅のドアを開いてしまった日本という国の、ここまでの諸々と一緒に言語を初めとした文化もすべて奈落の闇へと沈んでゆくのは、歴史に照らせば、あたりまえ、というのも馬鹿馬鹿しいほどの成り行きともゆえる。
ここまで日本語という言葉で長々と書かれた本も、わしの頭のなかの書棚に眠っている本のあとに続くのは、同じ日本語と名前がついていても、以前の「日本文学」や「日本文化」をつくりあげた普遍語としての日本語ではなくて、やがては英語に圧倒される地方の方言、しかも、訛り方がひどすぎて他の誰にもわからない方言になってゆくだろう。
ま、仕方がないか、と呟きながら、わしはそっと日本語で書かれた本をひとつずつ棚にもどしてゆく。
寂しいけど。
註1 すべりひゆ portulaca(twitter @portulaca01)
註2 ヒロシ Mark W. Waterman (twitter @Marukusu_hakase)
夏の散歩
February 4, 2011
わしはニュージーランドにいる。
そんなこと、しっとるわい、というなかれ。
心の中で「わしは、ニュージーランドにいる」と、そっと呟いて、うひゃっ、楽しい、と考えてへらへらしているんだからね。
5年間11回におよぶ日本への大遠征は雄々しくもかっちょいいものであったが、ちょっと、ちかれたび。
オークランドの家にたどり着いて、太陽の母上が、なにもかもを陽光で輝かせて美しくする真夏がやってきて、宝石のように煌めく芝生にでてシャンパンを飲んだり、テニスに興じたり、たまにはクラブまで出かけてモニとふたりで乗馬をやって遊んだり、うーんとのんびりして、やっと人間ぽくなってきたところなのである。
夏、とゆってもたとえば昨日は24度どした。
30度を軽く超えるかわりにパッリンパリンに乾いた空気のクライストチャーチの夏と違ってオークランドの夏の空気はときどき湿気がある。
わしは湿気が大の苦手なので、朝、庭に出て湿気を感じると、むにゃあ、と思うが、湿気があるときは気温は23度とか25度くらいまでにしか上がらないので、なんとかしのげるのです。下は18度、とかだのい。
日本の、夏はクソ暑く冬はむちゃ寒い過酷な気候と違ってオークランドは温暖なので、なにしろ楽ちんです。
わしは楽ちんが大好きなので、オークランドにいると一日中へらへらしておる。
日本でもへらへらしていたような気がするが、オークランドではへらへらが温暖なのだと思い給へ。
天気がいいなあ、と思うと、ラミュエラのなだらかな坂を歩いて散歩に行きます。
出かけるときは、わしはたいてい裸足だが、いっぱい歩くのが判っているときは、やや正式の装いでゴム草履をはいておる。
ショーツにTシャツです。
昨日はストランド書店のTシャツであった。
バットマンの事もあります。
だいたいモニと一緒だが、ひとりの事もある。
ひとりのときは、ずうーとずうーと遠くまで歩いていくので、帰ってからモニにどこまで歩いて行ったか話すと呆れかえって笑っておる。
ほんの20キロくらいしか歩かないのにね。
足がほこりだらけで、子供みたいだな、と失礼な事をゆって笑う。
顔がまっかだぞ、ガメ。
鼻の皮がむけてる。
でも、そーいいながら鼻の先にキスしてくれるので、許してやることにしておる。
オークランドは移民の街なので、中東人が多いところには中東の食べ物がおいしい店、四川人が多い所には四川料理のおいしい店、というふうに必ずその地域にたくさんいる移民の出身地のおいしい店がある。
そーゆー町は、わしが住んでいるところから遠いが、モニはあんまり変わった料理は食べないので、ひとりのときは、チャーンス!、と考えて、すたすたすたすた、とそこまで歩いて行く。
ポケットのなかには、たいていiPhoneとギターのピックがふたつ入ったままの財布(くちゃくちゃの十ドル札とEFPOSカードいり)、鍵、小さいカメラ、がはいっておる。
そういうかっこうで、本人の主観では、すたすたと、義理叔父の表現によると、ノッシノッシと歩いていく。
歩くと、いろいろなものが見えて面白い。
速度、というものが大事なのは、人間の一生と同じで、スピードが出てしまう人は何も見ていないので、いかに気の毒であるかわかります。
のんびり歩くと、ありゃ、こんなところにフェネルが自生しておる、とか、全然気がつかなかった骨董店、とか、裏通りからのびていって、入り口は狭いのになかは広大なフランス人たちのクレープ屋があったり、いろいろな新しいものを発見することになる。
人間の「街」という概念、というかデザインが、もともと人間が歩いていることを前提にしているのもよくわかります。
新しい街、たとえばニュージーランドでいえばワナカのような町は、だから細部がないかなあーと考えたりする。
初めからクルマ社会として出来てしまっているので、つまらん感じがします。
台湾人たちのディムサム屋で台湾素麺を食べたらうまかった。
稲庭うどんが平たくなったような麺にゴマとチリでつくったソースが絡めてある。
蓮の葉でくるんだ糯米に鶏肉や豚肉がはいったのや、コリアンダーとエビの蒸し餃子、詰め物がはいった揚げ豆腐、ピーマンに魚のすり身が詰めてある食べ物、小籠包、ついでにスペアリブと牡蠣のフライも食べた。
うめー、と呟きながら、すたすたすたと歩いてインド映画専門のDVD屋で一個だけおもろそうなのを買います。
「英語の字幕ないけど、いいの?」
「ダイジョブ、ダイジョブ」
「タミル語がわかるのかね?」
「ぜんぜん、わかりまへん」
わるそー、な顔した若い香港人たちが屯する町をぬけて、アフリカ人の子供がサッカーをして遊んでいる通りをこえて、加速をつけて、どんどん歩いて自分の町に近い繁華街に戻ってくる。
モニさんに電話して、一緒に芝生が綺麗な中庭のあるカフェでワインを飲むべ、と誘います。
芝生の真ん中にあるガゼボの椅子に腰掛けて、シャブリを飲みながら牡蠣の天ぷらを食べていると、モニのほっそりした、足がながあああーい、いつみてもなんだか抱きしめたくなってしまう姿が駐車場を出て通りを渡って歩いてくる。
手前から渡っていった背広姿のおっちゃんがふたり、サングラスをデコの上にあげたモニの美しさにぶっくらこいて道のまんなかで振り返ってたちすくんでおる。
クラクションならされとるやん。
ははは。美人とは危険なものじゃ。
あー、夏はいいなあ。
太陽がやさしく輝くだけで、こんなにも皆が幸せになる。
息をしているだけで、身体のすみずみまで幸福がしみわたってゆくようです。




