コメントへの返信 10/Feb/2011
February 10, 2011
***なんだかヘンなひとがいっぱい来ているのでリンクもとのニフティへ見に行ったら、また佐藤亜紀さんなんだな。ブロックしてもまだつきまとうなんてストーカーみたいなひとだ。「悪質な出鱈目」を書きまくってきたのがどっちかは、ずっと見ていた人は皆知っているからいちいち繰り返さないが、自分が突然わしを中傷しにやってきたときに、わしが「集団でせめてくるなよ、みっともないから」と言ったら、ツイッタで「自分の子供達がやることに責任はもてないし」と書いていたのを忘れているのでしょう、田舎者の喧嘩の仕方は、言い換えとすり替えに終始するのは仕方がないが、一応作家なのだから矜恃くらいもちなよ。なさけない。
わしがいっぺんは議論が出来る相手として期待したひとだと思うと、がっかりだのう。
やり方がどんどん泥臭くなってくるところが、ますますがっかりである。
ツイッタとかやってねえで物語をたくさん書けばいいのになあ。
ほんとに、くだらん。
まだなんだか変なひとがいっぱい来るので、顛末が判るリンクをここに貼っておきます。
周りで見ていた人のコメントも読めば、どんな事が起きたか判るであろう。
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/佐藤亜紀(tamanoirorg)さんへの返信/
ttp://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/12/1593/
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/14/佐藤亜紀さんとのやりとりの終わり/
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/19/コメントへの返信11月19日/
モニとふたりで散歩の途中で午飯を食べに寄ったスペイン料理屋で不味いサングリアを飲んだら眠くなってきて大規模な午寝をぶちこいてしまった。
窓の外から覗き込んでいるような大枝がつくる緑色の光のなかで眠ったら緑色の思想の夢をみました、というのはウソだが、気持ちよかった。
わしはお昼寝、大好き。
気持ちの良い夏の午後、窓を開けて、そよ風がはいってくる部屋のカウチに寝転がって、ふにゃあ気持ちいいと思いながら猫眠りに眠るのが大好きです。
あー、気持ちよかった。
ぽんぴい殿(December 29, 2010 at 12:15 am e)
ぽんぴいの使う言葉は、わしにはさっぱり通じないのがいつもオモロイが、
>ガメ、うまいこと言うなあ お主、天才かもよ
とゆってほめてくれるときでも、何をほめてくれているのか判らないところがおもしろい。
ぽんぴいは、とてもとても興味深い人物で、無茶苦茶なようでちゃんと言いたいことがある。
言いたいことがあるようでいて、なんだか無茶苦茶です。
まるで自分が描いた絵、自分が撮った写真と話しているようだ。
>お主の日本語に対する愛情に感謝を混めて(あ、込めてか) この先も、俺たち夫婦を楽しませてくれなされ
ぽんぴいの奥さんて、たいへんそーですのい。
>どっちかというと、批判的なことを言ってくれた場合に 俺は君の豊かさを感じております
だって、わしは「批判的なことを言った」り、「好意的なこと」を言ったりしているわけじゃないんだよ。
考えたことをそのまま言ってるだけです。
今日も、ぽんぴいはついぞ見かけたことのないツイッタで、「発言はきびしいが」というひとがいたが、へえ、と思いました。
そーゆーふーに聞こえるのか。
わしは日本というマイクロ文明が「他と違う」から好きなんです。
生き延びて欲しいと思う。
しかし英語世界の文化的力は強いので、日本は「風前の灯火」と思う。
だから、こーすればえーんちゃうか、あんなんやってたらダメなんちゃうか、とよく考える。
それが「きびしく」聞こえても「あまく」聞こえても、わしにはわかりひんし。
p_mume1980どん (December 29, 2010 at 10:51 pm e)
>息が合うというか、2人(とは限らないけど)の話が とんとんと進んでいって、なんだかものができる。
そう言葉が勝手にシャッフルパックみたいに反射して、よくわからないものが出来てしまう。
コーヒーでがぼがぼのお腹や、ウイスキを飲み過ぎた頭で、「この頭に新しく生じてしまった言葉の集合はいったいなんだ?」と考える。
言葉ってさ、時間とセットなのよね。
時間と意識の関係を考えてみればあたりまえだが。
>企画なんかでも3人くらいでああでないこうでないと 好きなこと言って、2人がぶっ飛んだこと言い、
3人になると場に「公約数」をつくろうと思う気持ちが強くなるので、なかなかぶっとんだ考えが出てこないような気がしているが、そーか「2人党派」とひとり批評家という3人のありかたがあるのか。
>時間感覚を失ってるというのは、もう日本の問題の諸悪の根源だと思う。
えっ? ほんとーにそう思うのか。それはすごいやん、とここを読んで思いました。
わしは日本では時間が壊れているのを発見して、この功績によって焼き芋5キロくらいもらってもええんちゃうか、と考えた。
他にも考えている人がいたのか。
>時間の勉強をしているところです。
木や草や花は、時間の勉強になるよね。
人間の手で書かれた本では「プルターク英雄伝」ええです。
あれは時計のない文章で書かれている。
人間にとって時間というものが、どういうものか判るよーだ。
>日本の学校では時間をどうやって消し去るかの勉強をしてる。
素晴らしい。言葉がp_mume1980 に代わって考えているような表現ですのい。
>最近マイブームの俳句も、風景を見てから、詠むまでかかる時間もいろいろあって面白い。10秒で出てくることもあるし、 3日かかることもあるし。10年前のことを詠むこともあるし。
俳句は難しい。わしは俳句はなんだか芭蕉の特殊芸術のような気がしてしまうことがあります。
日本人の基本感情は短歌のような気がすることがあります。
あれはもうちょっとのたのたできるんだよね。
moon_flight(るな)さん、(December 31, 2010 at 12:49 pm e)
>残念ながら、既婚なのです~
日本の婚姻法てよく見ると日本で結婚してても合衆国でもう一回結婚するの違法ちゃうねん。
各国にひとりづつダンちゃんをつくることも出来るよーだ。
あれて神様がいないからだよな。
>ぶははは!なんてことをおっしゃるんですか!
ガキなんか、不細工で身勝手な思想で生きておる未完成な生き物ですけん。
神様は人間はほんとうはどーでもいいのさ。
人間のほうが、どうしてもそう思いたくないだけです。
SDどん、(December 31, 2010 at 1:27 pm e)(January 14, 2011 at 1:33 am e)
>女びとの立場が高ければ、きっと自殺者も過労死者も減るだろうなと思います。
ほんとーだよねー。
日本では女のひとびとの立場はひどすぎる。日本の「先進国ぶり」はバランスが悪いが、性差別において、それが最もひどい。
その「バランス」を歪ませているのと同じものが自殺者を大量製造し、過労死を世界語にしたのだと思います。
> 裁判官でなくとも、こういう意見は日本ではありえません。「いいとしこいたオトナ」であってもです。
英語人はがっちんがっちんの「現実主義者」の集まりなので、「いいとしこいたオトナ」がポルノに興味をもたないとゆわれても、ははは、とか失礼な反応をするのね。
連合王国の家庭向けの推理テレビドラマで主人公の独身の娘(30代)が母親にベッドの上のバイブレーターを見つけられそうになってパニクる出だしがあって、合衆国人の女の友達がひきつけを起こしそうになっていたことがあったが、一緒に居間で観ていた、わしがかーちゃんは、愉快そうに、はっはっは、と笑っているだけであった。
わしは、そういう言語世界で育ったので、現実をそのまま見られないひとはバカだと思います。
> 都条例を悪しき意図で推し進める人々
あれは本人たちも意識してない「受け狙い」なだけと思う。
日本も「受けるのがすべて」の社会になってしまっているのかもしれませんのい。
Mark Watermanどん、(January 23, 2011 at 11:51 am e
)
>ああ、だからアイルランドは貧乏になったのね。
>あの貧乏は80年代からだし、不景気のせい
アイルランドがビンボーなのは連合王国の収奪のせいだぎゃ。
彼らはコンジョがあるのでIT化された金融を軸に国を繁栄させたが、アメリカ人の不透明で不良な「屋上屋を架す」ビジネスモデルの崩壊に巻き込まれてこけた。
でも、いちど憶えた金融理論は保持しているので、もうすぐ回復すると思います。
>ほんと、税なんてとらなくてもいいかもね。一定以下の貧乏アーティストは。
いや、いろいろな国の政府が口先でいっている「芸術への尊敬」が本当なら、芸術家に対する徴税権の放棄は当然だろう。
それが放棄できなくて、微々たる税金を徴収しているのは、単純にゆっていることが「ウソ」だからと思うよ。学者に対しても同じです。
ただ政治権力というもののむき出しの野卑を顕しているに過ぎない。
Emiechikaさん、(February 4, 2011 at 9:36 pm e)
>なまはげが大挙して押し寄せて「あいつら好きなことやって稼いでやがるくせに、ケシカラン!!」とか
「なまはげ」て、あなたがファンの佐藤亜紀と彼女の「子供達」(佐藤亜紀が自分のファンたちを呼ぶときの呼び方ですね)のことですけん。
>話がずれてしまいましたが、欧米にも連帯保証人制度があるとは驚きでした。
「制度としてある」ちゅうだけで、本人たちに訊くと「そんなもん、この国には、ねーだろ」という程度のものです。
1だけ存在しているものを100あるのと同じ、というのは日本人得意の論法やん。
>気が向いたときに、もう少し詳しく呟いていただければ幸いです
わしは「呟いた」りしねーぞ。
調べればすぐ判るし。
わしは、あんまり興味ねっす。
p_mume1980 ( February 9, 2011 at 12:42 pm e
)
>そうそう。歩くのはいいよね。 実にいい。自転車もそれなりに楽しいけど。
人間は採集生活者だったので歩いている時にものが最もよく発見できるように出来ている。
文化的なものであるものより生物的なものと思う。
>3時間ほどだけど、大いに歩いて、樹の話や 庭園の話に、幽霊の話や、近所で首を切られた近藤勇や 赤報隊の竹内力の話をしていました。
やってることがわしみてえ。
>まったくもってツバキのない世界なんて考えられないよ。
でも椿はサムライの家ではタブーだったんでしょう?クビがぽたっと落ちるからだって。鎌倉ばーちゃんがゆってました。
>ひさびさにブログでも書くべかと思ったりする
p_mume1980 はブログを書くのがうまいからなああー。
とても静かで、とても聞こえてくる。
言葉の筋がよいからだよね。
Mark Watermanさま、(February 5, 2011 at 2:09 pm e)
>余は南半球になど興味はなかった(アルゼンチンを除いて)
そーゆーところは、アメリカ人なのに、すげー日本人的だよな。義理叔父も含めて、みな同じだのい。アルゼンチンが別枠なところまで同じである。
ニュージーランドはええだよ。
人間などはたいしたものではなかるべし、という認識にさえ到達できれば、ニュージーランドのような国こそが地上の天国なのである。
東アジアのひとびとはイタリアだああああーとかフランスだとか、ゆいたがるけど、くだらねーよ。
あんなかび臭い世界が好きなのは、欧州の「カビ」がわからないからだろう。
ほんまにくだらねー、と思います。
….おー、コメントの返事書いちった。
こうやってコメントの返事を書いていると、ヒロシ(Mark Watermanのことです)やぽんぴいや p_mume1980はもちろん、ここには出てこないNasuやブブリキやjosicoはんやじゅん爺、すべりひゆ、…ちゅう、「たくさんのものを一緒に目撃しても一緒にいようと思ってくれた」友人たちがいるから
、まだ日本語を書いているのがわかりますのう。
言葉というものは不思議なものである。
日本語の本を閉じたあとで
February 10, 2011
ホブソンの丘に登るとラミュエラの向こう側に遙か彼方まで続く海が見える。
わしの好きなランギトト島の優美な稜線も見えます。
ベンチに腰掛けていろいろな事を考える。
人間の頭のなかは散らかった部屋に似ている。
いろいろなものが、たいした脈絡もなくあちこちに分散しておかれている。
空に昼間の月が出ているのを見れば古典物理学の軽い復習をしようとするし、波も同じ。
地球が太陽のまわりをまわるイメージや、モニと自分の事、
昨日、カウチ席でモニとふたりでシャンパンを飲みながら見た「ブラックスワン」は面白かったなあ、ナタリーポートマンが、あんなにちっこいひとだとは知らなかった、
まるで上手なパティシェがつくったお菓子の上の、薄く削られたチョコレートのようだ。
初夏から夏にかけてパリから地中海にくだって、スペインへいって、そこから北欧の友達の家までクルマででかけようと思うが、どういうルートがよいだろうか、
途中で寄りたい田舎の骨董屋がいくつかあるが、まるで一筆書き問題のようである。
…そうやって際限なく考えている。
すべりひゆ(註1)やヒロシ(註2)のマネをして他の言語にギアを変えて考えてみると、同じ事を考えていても全然違うひとになったみたいなのが面白い。
「みたい」でなくて、実際、全然ちがう人です。
日本語は結論にいきつきにくいところが楽しい。堂々めぐりの言葉で、なんだかあてもなく散歩しているような言葉である。
言い切られるのを嫌がる言葉。
なんだか言葉の体系ぜんたいで、「そんなふうに決めちゃわないでよ。このまま曖昧でいたいんだから」と言っているようなところがあります。
壊れてしまいそうに繊細で、滑らかで、柔らかくて、暖かい日の海のようで、女のひとの肉体のような言語である。
この頃は頭のなかで日本語を使わなくなってしまった。
ブログも書かず、メールの返信もほうったらかしで、ツイッタも勉めて書かないと日本語のアカウントに触りさえしなくなってしまった。
わしは習得した技量に関してケチなので、そういう意味で日本語を忘れているの発見すると嫌な気がするが、しかし、人間というのは生きていれば、次から次にいろいろな事を習得してしまうので、さまざまな技量を維持するだけで随分時間をとられてしまう。
その上に、わしは運動キチガイで、最低でもジムで4時間くらいおこもりさんをするか、ランニング20キロ+水泳5キロくらいはやらないと自分の身体が自分のものでないマヌケなものに変わったような気がする。
頭がマヌケなのは許容しても良いが肉体がマヌケになるのは耐え難いので、肉体のほうは常に研鑽されていなければ困るのです。
これはやってみると判るが、ものすごく時間がかかる。
一方では怠け者なので、もうとっくのむかしに使わなくなった「日本語」は、優先順位が下のほうなのでなかなかたどりつかない。
しばらく使わない−>従兄弟と義理叔父に日本語を試される−>おもいきりバカにされる−>頭のなかのアフターバーナーに点火して日本語の古い表現の用法を思い切り研究する−>電話の開口一番、「おれがガメだあああー。文句あるか。ガチョオオオーン」と叫んで、義理叔父が恐れ入って平伏する。
というような肉親との骨肉の死闘を何度繰り返したことだろう。
最近は「日本」というものを考える機会はほぼ経済の事に限られている。
日本語のブログでもツイッタでも何年も前から何度も述べた、日本の経済的な破滅が(信じられないなりゆきだが)避けられない所まできてしまって、時間の問題になってしまったことをよく考える。
日本人自身が、「日本の国債は国内債務だから他の国のように破綻することはない」という驚くべき無責任かつ恥知らずなウソを編み出してまで危機に目をつぶってしまったことで、他の国は、「どうやら日本は本格的に危ないようだ」と考えるに至ったのだが、しかし「他の国」も十分マヌケであって、なぜなら日本の経済の破滅は、先に十分に引き延ばされずに、いま予測されている時期に起きてしまえば、リーマン危機が危機のオモチャに見えるくらい深刻な破滅を世界経済にもたらすはずである。
具体的になぜこういう事態に至ったかというと、たとえば、東京にはもう優秀な特派員は残っていない。
みな北京と上海に行ってしまった。
「日本はもう鎖国した沈みゆく国だから」というので、みなが中国へ名声と昇進を求めて移動してしまた結果、英語世界からみて日本は月の裏側のような場所になってしまっている。
マンガやアニメを中心とした文化、そのなかでも西洋の人間からみると異様で性的な性犯罪すれすれの挑発に満ちた異形の文化側面を報道すれば掲載の機会が増えるので、そういうニュースばかりをおいかける二流三流の記者しか東京の街をめぐることはなくなった。
経済に明るい記者たちが上海で、中国経済の加熱が暴走にかわってゆく様子を活写して本国に送り続けているあいだに、当初は2025年と予想されていた日本経済の破滅は、国民まるごとの殆ど意味をなさないような「危機の否定」(いままでに、これほどヘンな危機への反応を示した国民があっただろうか?)によって立ちすくんでいるあいだに、あっというまに目の前にやってきて、もう、仮に赤字国債法が通らなければ、夏には破滅が始まる、というところまで来てしまった。
世界の人間が見えていないところで、中国経済の暴走どころではない、もっと巨大な危機が現実のものになりつつあるのを英語世界は見過ごしてしまった。
日本への関心そのものがないために、日本への対処が遅れた事情は、要するに1930年代と同じ事です。
それはまた気が向いたときに別のブログで書くだろうが赤字国債法は日本にとっては歴史的な汚点になるはずの法律です。
この、日本を経済的な再起からうんと遠ざけてしまう法律は「世紀の悪法」どころではない、日本にとどめをさすための死刑宣告のような悪法であると思う。
しかし、この悪法が通らなければ、かなり高い確率で、法律の否決を起点として日本の経済的な大崩壊が連続的に、よくて「石が坂を転がり落ちるように」悪ければ地滑りのように一瞬で「デフォルト」に向かうだろう。
将来においては日本の経済破滅がどうやら避けられないようだ、というのは日本の事情に通じる投資家たちには2年前から確信されるに至ったと思うが、これほど急速に事態が悪化するとは誰も思っていなかったに違いない。
2025年、はやくても2020年に崩壊するなら、なんとかリーマン危機程度で衝撃を吸収できるというシナリオであったのが、こういうタイミングになると、周りの世界がまきこまれて他のマーケットも一緒にぶちとぶのは避けられないので、ふつーのひとがアクセス出来る情報でも注意してみていれば、世界全体がインフレ圧力に備えて緊張しているのに気づくに違いない。
日本が破綻すると「円」が紙屑になるのは当たり前として、他の通貨も一挙に価値が低下するのは見えているからです。
同時に諸国家は「食料の確保」にも動き始めている。
金銭で購うもののなかで最も重要なものは食料だからです。
自前の資金で動いている投資家たち(というのはごくわずかな数だが)は資金をコンサーバティブ、しかも貴金属や土地などの「現物」に移行している。
日本語を習得したばかりのときは、わしは能楽の「井筒」やジブリのアニメ、いしいひさいちのマンガや小津安二郎の映画にコーフンして暮らしていた。
おもしれー、と考えながら、夜中のカウチにひとり寝転がって「お茶漬けの味」の佐分利信にしびれたりしていた。
どの言語を習得するときもそうだが、わしは詩のまる暗記から始める習慣なので、岩田宏や西脇順三郎、田村隆一、鮎川信夫、といったひとたちのすぐれた詩を通して、もう「日本語の美しさ」というものを知っていた。
音韻の定型ではなくて、日本語もまた、他の普遍語たる能力をもつ言語と同じに「感情の定型」や日本語でなら「言い当てる」という言葉があらわすような「発見の定型」もちゃん持っていることを知っていた。
ものを書く人ならみな知っている、神様が書く人の手を握られたペンごと鷲摑みにして、まるで自動筆記のように言葉が勝手に思いもかけない行き先にたどり着く、あの成熟した言語だけがもつ能力が日本語にも内在しているのを、わしはもう知っていた、と思います。
そうやって日本語とともに過ごした興奮の日々が、たかが経済破滅くらいのくだらない事件と一緒に衰微して、細くなって、やがて消えてしまう、というのは寂しい気持ちがするが、一面、言語というものは「その国の国民が生きてゆくための頸烈な必死さ」とでもいうべきものの反映なので、国を挙げてスノビッシュになり、衒学的になって、たいして考え抜いてもいない語彙を使って頭のなかでパズルのように組み上げた言葉で人間たちが話すようになってしまえば、言語の生命はそこで終わる、という単純な決まりに順っているだけのことかもしれません。
いわば自分の選択で破滅のドアを開いてしまった日本という国の、ここまでの諸々と一緒に言語を初めとした文化もすべて奈落の闇へと沈んでゆくのは、歴史に照らせば、あたりまえ、というのも馬鹿馬鹿しいほどの成り行きともゆえる。
ここまで日本語という言葉で長々と書かれた本も、わしの頭のなかの書棚に眠っている本のあとに続くのは、同じ日本語と名前がついていても、以前の「日本文学」や「日本文化」をつくりあげた普遍語としての日本語ではなくて、やがては英語に圧倒される地方の方言、しかも、訛り方がひどすぎて他の誰にもわからない方言になってゆくだろう。
ま、仕方がないか、と呟きながら、わしはそっと日本語で書かれた本をひとつずつ棚にもどしてゆく。
寂しいけど。
註1 すべりひゆ portulaca(twitter @portulaca01)
註2 ヒロシ Mark W. Waterman (twitter @Marukusu_hakase)


