わがままながまわま
November 28, 2011
メルボルンの夏。金曜日。
起きてみると、抜け渡るように美しい青空であって、窓を開けると乾いたそよ風が部屋をふきぬけてゆく。
この天国(銀座の「てんくに」ではありません)(生前善人だったひとが集団でヒマこいてる国のほうね)のような天気はオーストラリアとニュージーランドの特徴なんでごんす。
じっと空を見つめて、わしは「来ないな」とつぶやく。
「来るわけがない」
ひさしぶりにメルボルンの家にやってきてみると、ガス台はぶち壊れていて点火が出来ず、壁のスイッチが3カ所崩壊していて明かりがつかないのでガス屋と電気屋を予約してあった。
でも、夏の天気が良い天国日より。
金曜日。
こんな遊びにいくのにもってこいの日に、電気屋とかガス屋とかくるわけねーよな。
しかし、約束してもうたものはやむをえない、と考えて家でごろごろ、というか「ディアブロ2」をやりながら待っていたが、やっぱり夜まで来なかった。
….と、ゆーよーなことがオーストラリアでは年がら年中あります。
テキトーである。
そんでもって、火曜日とかに突然やってきて、わしが「金曜日に来るって、ゆーたやん」とゆっても「あっ、あの日はビョーキだし、なはは。今日、万障くりあわせて来てやったんだから、感謝しろよ」などという。
「電話すればえーやん」
「それが、友達とみんなでブランディを密造して飲んだら、これが強すぎて。気絶しちゃったもんだから…あっ…」なんちゃっておる。
オーストラリアほどサービスの質が悪くはないが、ニュージーランドも似たようなものです。
すごおおくテキトーである。
そーゆーことがダメなひとは、オーストラリアやニュージーランドに住む、とかいうのは無理であろう。
アメリカも無理です。
スペインは無理無理。
メキシコは無理無理無理。
わしは、こーゆー無理国民のひとびとよりも更に輪を掛けてえーかげんなので、住む場所がたくさんあって幸福なのだとゆわれている。
むかし、わしがスペインのパン屋のおばちゃんに「あんたみたいに、いい加減でちょーテキトーなひとは初めてみた」とゆわれているのを見て妹がカンドーしておったが、妹には内緒だが、わしはメキシコのバーのねーちゃんにも「そんなにいいかげんで生きていけるのか?」と心配してもらったことがある。
ましてオーストラリアにおいておや。
連合王国や日本のような国では「他人のことを考えて行動しなさい」
「そんなことをしたら、他のひとが困るでしょう」
「足手まといになるようなことをしてはいけません」
とゆーよーな、辛気くさい教育をうける。
そーでないと社会が回転してゆかない、と教わる。
ところがスペインのような所に行くと、カタロニアのようにマジメな国でも、
週末の夕暮れ、クルマが、ゆっくりと坂をおりてきて、「あれは駐車する場所を探しておるのだな」と思って見ていると、ふらふらふらと地下駐車場の出口にクルマを突っ込んで駐めてしまう。
交差点の、ちょうど、どまんなかにクルマを駐めていくひともいます。
それで、どうなるかというと、なにしろ地下駐車場なのでクルマが、ぶうううっと出口に向かってあがってきて、そこで知らないひとのクルマが出口をふさいでこっちを向いて駐まっているので運転しているおっちゃんはショックを受けてしまう。
そーゆーときの、スペインの人のなさけなさそーな顔は、なかなか味わいがある。
あーゆー顔というのは、文明が三千年がとこはリニアに続いていないと生まれないものだと思われる。
連合王国くらいの歴史の浅さでは、到底ああいう顔はうまれない。
降りてきて、そこいらじゅうの店を一軒一軒まわって、「駐車場の出口にクルマを駐めたひといませんかあ」とゆって歩く。
クルマの持ち主の若いおねーさまは、食べていたパエリアをテーブルにおいたまま、なにがなしイライラした様子で、クルマを動かしに来てくれる。
「あんたが駐車場を出ようとするから、わたしが食事の途中なのに、また新しい駐車場所を探してうろうろしなきゃならないじゃないの」とぶりぶり怒っておる。
おっちゃんは肩をすくめておるな。
そりゃ、あんたの問題だろ、とゆっておる。
一部始終を眺めていたわしは、うーむ、文明、おそるべし、と思って考え込んでおる。
女のひとが、あの状況でおもいきり怒るというのもすご杉だが、おっさんは、それに対して「肩をすくめて」おる。
あんたの問題だろ、というだけです。
スペインのひとというのは、ひょっとすると、文明を極めてしまったので、もう人間みたい野蛮なものはやるのがめんどくさくなってしまっているのではあるまいか。
先週は中国の擡頭、ということを考えていたら、頭は中国文明にいってしまって、自然、「公共」ということについて考えることが多かった。
中国のひとが聞いたら怒るに決まっているが、「中国人はなぜウソをつくか」ということや「中国人はなぜルールを守らないか」ということは英語世界ではたびたび話題になる。
中国語に無茶苦茶熟達したひとびとによると、このふたつは同じ問題であって、
それは中国人の「公共の範囲」が西洋人に較べて狭いからだ、というふうに説明される。
血族と疑似血族の範囲にしか公共がない、というのね。
だから、(最近、特にかまびすしい)中国人の「知り合いを行列のなかの自分がいるところに招き入れて割り込ませる」というルールを当然だと考える。
会話においても血族以外の人間と話すということは「外部との戦い」の一部であるから、ウソもほんともあるもんけ、という理屈になる。
だいたい、そーゆーふーに説明されておるよーだ。
ほんとーかどーかは、わかりません。
これから考えるところだもん。
でも本当ぽい。
仮説として一考に値する。
そーゆー、公共をコーキョー、コーキョーと考えていると、一日くらいは、あっというまにたってしまう。
考えていて、ときどき昼ご飯を食べるのを忘れたりするので、食事代の節約にもなっておるよーだ。
まだ、全然ちゃんと考えられていないが、人間のわがままには、良いところがたくさんありげでラディゲの舞踏会やもしれぬ。
アングロサクソン社会の文化は、どう考えても、ややケーハク、というか深みにかけるところがある。
ものごとを考えるときに「効率」ということがはいってきてしまっているからで、そこを見直さないと、やがては社会として機能しなくなるであろう。
たとえば国民ひとりひとりが国家や社会という「全体」の部分、あるいは部品であることが全体社会から見て都合が良い美徳である時代は、とうのむかしに終わってしまった。
お行儀のよい部品なんかでいられると、どんどん変化しなければならない、あるいは相手集団の変化にどんどん対応していかなければならない現代では、ただのオーバーヘッドである。
使う場所のない中古部品、なのね。
だから、「わがまま」にもどってきてもらったほうが、社会としても都合がよい。
この辺で、ちょっと、ゆっくり考えてみなければならないのです。

