ツイッタだぴょん
December 29, 2011
ずっとむかし、インフルエンザで死にかけているわしを置き去りにしてモニと妹がふたりで遊びにでかけてしまったので、場所にことをかいて、春のバルセロナのガウディ大聖堂「サグラダファミリア」が見えるアパートのテーブルにノートを広げて、ひとり寂しく東京大学入試問題を解いていたことがあった。
「東京大学入試問題を解いて考えたこと」
http://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/09/東京大学入試問題を解いて考えたこと/
というブログ記事に書いてあります。
どーして、わしはバルセロナくんだりまで来て、ひとりぽっちで日本の大学入試問題を解いているのだろう、と考えてしくしく泣きたくなったりしたが、一方では「結構問題がおもろいやん」と思ったりもした。
トーダイおじさんたちに訊くと、国語の第二問は最近まで受験生に短い文章を読ませて「感じたこと考えたことを誌せ」というものと決まっていたという。
何文字で書くの?と訊くと160字以上200字まで、だったそうだ。
これはかなり厳しい制約であるはずで、なにしろ読んだ文章に即して「感じたこと」と「考えたこと」の両方を書かかねばならないのだから、受験生はみな大きな消しゴムが必要だったのではなかろーか。
多分、感じたことしか書かなかったり、一生懸命考えたことを書いたら190字になって、感じたことは「えがった」だけしか書けなかった受験生もたくさんいたものだと思われる。
しかし、この何年続いたかは知らないが、ずいぶん長いあいだ続いたという「第二問」は、その200字という制約がよかったのだと思量される。
おおむかしの本を読むと、「ペラ一枚」という表現がよくでてくる。
なんだか紙がおしゃべりになったみたいな言葉だが、200字詰め原稿用紙一枚のことです。
わしは、日本語を書くのを練習したときに、「ペラ一枚」でいろいろ書く練習をした。
漢字を手書きで書くのは、必要もあるようにおもえなかったし、ややこしいので、ワープロの2バイト1文字を20字設定にして10行。
だから、すごおく頑張れば200字あればだいたいのことは表現できるのを知っている。
わしは日本語は、意図して十代の文体からもうとっくに死んだ明治人の文体までふつーに書けると思います。
十全外人だかんね。
瀬戸内寂聴、というひとが十代の人間のふりをしてケータイ小説懸賞に応募して、
見事最優秀作に選ばれた、というニュースがあったが、こーゆー悪戯は、ある程度言語感覚に恵まれた人には誰にも出来る。
フランスでも、過去には同じようなことがあったのをおぼえています。
自分がもうジジイだとゆわれてキレた有名オヤジ作家が若い新人のふりをして応募して、自分を苔むしたボロボロジジイと罵った批評家たちが「新しい風だ!すげっ」なんちゃって受賞したところで、ばーたれが、わしじゃい、をする。
英語でもMMOで会う「十代後半の女の子」の6割は40代を過ぎたおっちゃんたちである、という統計がある。
WOWやなんかに出かけてみると、なるほど、ガキのみが知るはずの隠語まで、よく研究しておる。
わしの文体は実は意図的にやや古い文体を選択してあります。
若い頃のイーブリン・ウォーが酔っ払うと自分の「加速度的にどんどんジジっぽくなってゆく文体」を礼賛して述べまくっていたのと理由は同じで、わしがずっと読んできて、美しい日本語がふつーに安定して書かれていたのは、この時代くらいまでだった。
日本文学の中心をなしていた、極めて質の高い「現代詩」が生き延びていたのが、ここまでだったからでしょう。
ツイッタは140字である。
前にもツイッタで実際に書いて、観てもらった事があるが、世論そのものがユナニマスに誤ってしまう、なあーんとなく、いまの日本に似ていなくもない社会の恐怖を述べた「狂泉」という有名な故事
http://huameizi.com/text04/kyousen.htm
は、
「昔有一国,国中一水,号曰“狂泉”。国人饮此水,无不狂;唯国君穿井而汲,独得无恙。国人既并狂,反谓国
王之不狂为狂。于是聚谋,共执国主,疗其狂疾,火艾针药,莫不毕具。国主不任其苦,于是到泉所,酌水饮之,饮毕
便狂。君臣大小,其狂若一,众乃欢然。」
の120字で、物語全体が、よゆーでツイッタで書けてしまう。
ツイッタが中国において最も深刻な、時には武器を上回る破壊力のある使い方をされるのは、漢文以来の伝統を受け継いで、いまでも100文字もあれば精細で強烈な弾劾文を書けてしまう中国語にとっては140文字などは大海である、という理由もあると思う。
英語では、たとえば、
「The problem with the world is that the intelligent people are full of doubts while the stupid ones are full of confidence. ~Charles Bukowski」で、ぴったり200字。
アリッサ・ミラノ( https://twitter.com/#!/Alyssa_Milano )などはマジメな話題をツイッタで述べるので有名だが、殆ど引用になるのは無理ないっちゅうか、英語にとってはツイッタという容れものは、もともとまとまった考えを述べるだけの長さがない。
「機知をひとつ示す」というものが殆どです。
日本語では、少し圧縮すると、140文字でさまざまな独立して一個にまとまった考えをのべることが出来る。
もともと140文字という制約は物理的な都合から生じた制約に過ぎないが、ここまでずっと観察していると、日本語にとっては「物をきちんと述べるのに都合がよい」長さに、ほんのちょっとだけ欠ける、という程度の面白い長さであるように見える。
なんだか古色蒼然として、飲み屋でクダをまくガイシュツオヤジのスクツのような2chや、一見まともそうに見せながら、底意地が悪く自分達と同じ泥田にいる人間以外は絶対に存在させない趣の極めて日本的なブログソフトウエアの仕組みで、ひどい停滞を極めていた日本語のインターネットが、本来、日本語とは全然あわないはずの「ツイッタ」で生き返ったように見えたのは見事なほどだった。
もうひとつ面白いのは、文章がうまいブログを書いているひとびとのブログ記事がツイッタとともに生き生きとしだしたように見えることで、案外、日本のような文化のなかでは(西洋語では考えられないことだが)ブログは活字の本の代わりをしだすのかもしれません。
ブログそのものが、日本語では内省的、分析的なものが多いからです。
ツイッタはもともとシステムとして「離合集散」を方針にしている。
パッと集まって、パッと散るように出来ている。
テキスティングと並んでフラッシュ・モブや、突然なデモを起こすのに最適な道具であって、英語世界ではますます「同時性」と「俊敏性」の道具になってゆくように見える。
現実の行動と密着した道具になってゆくと思います。
しかし、この特性が日本では独創的意見を述べる能力のある論者を、田んぼから自分達の薄汚い魂が集合した世界にひきずりこもうとして伸びてくる無数の泥だらけの手から逃れさせるほうへ働いている。
見事なくらいです。
日本では既存のブログシステムや掲示板のようなものは、ようやく支持を失いつつある。
20代の友達に訊くと形式よりも、そこに屯している人間たちの、やりきれない「日本臭」が耐えられない、という。
あーゆーのは、クソオヤジとクソババアのたまり場ですから、と冷たいことを言います。
底意地の悪い、終わりのない、しかも奇妙なほど巧妙な悪意。
表面だけは礼儀を重んじて、心の底の歪んだ舌打ちが聞こえてきそうな「礼儀正しい」態度。
そういうものが気色が悪い、というのは割とふつーな意見のように聞こえる。
ツイッタと、これも日本的な使われ方をしだして、同様にインターネット世界をよいほうに引っ張っていっているようにみえるタンブラとに日本語インターネット世界を肩代わりするとき、日本にはやっと洞窟でないインターネット世界が出来てゆくもののよーである。
タンブラの良い所は「嫌いなものは並べないのよ」という、あっさりとした率直さにある。
わざわざコメントをつけて、自分がタンブラに貼り付けたものをネガティブに述べたひとをひとりだけ見たことがある(^^) が、無理がきわだっていて、アイコンが2chに帰りたがっている風情に見えました。
「ものを切り取って、自分で裁断して貼り付ける」というのは、それ自体が本質的に批評行為で、あたりまえだが、ページを重ねてゆくと、自分そのものがあらわれる。
生半可な文章よりも遙かに自分が鏡に見た自分を、編集した形でみせることになる。
どういう理由でか、国民性として美意識が発達した人間が多い日本では、タンブラも、まったく独自の発展をしてゆくのが、もう見えているようです。
言葉は嫌な言葉に違いないが「生産性」というものをやっと日本語インターネットも獲得しかけているのでしょう。
NEDs
December 28, 2011
英語で、のおんびり考えているときのわしの頭にはNEDsという語彙が出来てしまったよーだ。
「日本のひと」という意味です。
Not Even Deadという。
ネッドという言葉には英語では「ちょっと頭のたりないにーちゃん」の意味もあります。
失礼ではないか、ときみは怒るであろう。
でも必ずしも、そうではないのです。
わしは、自分達を「NEDs」と呼ぶ日本人たちの政府への反乱を母語の英語で小説にしようかと思ったことがある。
今年の5月くらいだと思う。
マンハッタンの雨のなかを歩いては、日本で雨に濡れる自由さえなくした友人たちのことを考えていた頃。
あの福島第一という悲惨を極める、としかいいようのない事故のあと、「まだ死んでもいないのに大騒ぎしすぎる」
「頭がわるいから放射能を正しく恐がれない」
「科学的な見方というものがまるで出来ないから、あの程度の放射能の漏出で危険だという」
うすら笑いを浮かべて述べる日本人秀才たちの何だか現実感がないほどの残虐性を眺めながら、周囲の「理性的な」思惑を無視して子供達の手をひいて必死に神戸に逃げた友達のナスや、ローンを組んで買ったばかりの横浜のマンションで新しい生活を始めたばかりだった中東人のSというような友達のことを考えていた。
その頃のわしをもっともくさらせたのが「誰も死んでない」「まだ死者がでていない」という「オピニオンリーダー」たちの言いぐさであって、おおげさにゆーとショックを受けてしまった。
日本の第二次世界大戦中の戦記を読んでいて不思議なのは、生きている兵士には勲章が与えられずに、勲章も賞与も死者に与えられるものであったことで、坂井三郎というひとなどは言葉にして、はっきりそれに対して不平を述べている。
こんなひどい仕打ちがあるか、とまるで涙を浮かべているのがわかるような言葉で書いている。
連合軍はもちろんナチスですら、勇敢な兵士にはどんどん勲章を与えたのであって、
死者にしか勲章を与えない日本軍という軍隊は、わしにはどう考えても理解不能でした。
日本人には「死んだ者しかほんとうの敬意に値しない」という考えがあるよーだ。
死ねば神になる文化だから、というひとがいるが、どちらかというと死んで初めて人間として扱われるように見えます。
死者に対してのみ作動するヒューマニズムという不思議な習慣は、多分、日本人だけがもっている。
わしの小説のなかでは、NEDsたちは政府に対して反乱を起こし、バララットの反乱と同じような軌跡を描くことになっていたが、マンハッタンからコモ湖に移動した途端に書く気が失せてしまった。
結局、おもいつきだけで書かれなかった小説がわしの脳髄においていったものは「NEDs」という架空な言葉だけで、しかし、その物語のなかに描かれるはずだった、
日本の文化的風土から出て、それを変えてゆくだけの深い絶望の力をもったひとびと。
あの若いひとたちが現実の世界で抗議の声をあげだすのは時間の問題だと思う。
自分達を「まだ死んですらいない未熟者」と自虐して呼ぶだけの皮肉と諧謔を思考のなかにもって、英語世界にただちに理解される「苦さ」を了解した若い日本人たち、というものが厚い層をなして存在していることを、わしは5年間に亘った断続的な滞在とインターネットを通して知っているからです。
2
今年の後半には優秀な人間というものは年齢と関係なく優秀なものだ、ということを思わせるような出来事がたまたま立て続けにあったが、村上憲郎、というひとがツイッタにやってきたのも、そのひとつでした。
ツイッタをやっていて突然話しかけてきたこの60歳を過ぎているんだかなんだかのひとは、日本では有名なひとだそーだったが、わしは名前も知らなかった。
たとえばニセガイジン騒ぎがあってやる気をなくして日本語をやめたりすると、突然やってきては、「わたしはちゃんと見ていますよ。あなたが英語人であるのは30年オーストラリアに住んでいるおばちゃんには判る。あなたが誰かは知らないががんばりなさい」という意味のことを書いてきてくれた「おばちゃん」が、なんらかの理由で「ムラカミ」ではなかったか、と思っていたわしは、おばちゃんの旦那さんかと思いました。
吉本ばななとーちゃんの話をするので、わしは「ゴールデン街」というところで見た「革命談義」に耽る「団塊じーちゃん」たちのことを思い出してびびったが、これも5分のうちに「ぼくはもとは田舎の職人のせがれで」「工学部」というので、ばななとーちゃんと共通する感情回路があるのだからとーぜんなのだ、と判った。
「政治家としてのトロツキーの大罪は、スターリンに負けたこと。「文学論」なんか書いてる暇があったら、先にスターリンのど頭にピッケルぶち込まんかい! 」
https://twitter.com/#!/noriomurakami/status/145140871740923904
というツイートを見て、すっかり好きになってしまった。
その通りだからです。
しかも、みなが「有名人村上憲郎」の模範演技を期待しているツイッタで、あっさりほんとうのことをぶちまけてしまう、ということには、このひとに本当の知性が備わっていることを示している。
そのリスクが判らないひとで、あるわけがない。
有名なひとであるのは困るが、年齢のほうは、関係がないよーだ。
わしはハウツー本というものが嫌いだが、このひとが書いた安手の装幀(ごめん)の本も面白かった。わしは「仕事」とかいう概念も必要もないので「仕事術」のほうはまだ読んでないが、「英語術」のほうは、面白い本だと思いました。
少なくとも、ふつーに考えたことを書いてある、という点でハウツー本とは言えないかもしれません。
村上憲郎さんが書いていることのなかに村上さん自身が気が付いていないことがあって、「英語能力」というものが「英語の音」という定型によって出来ている、ということの重大さがそれであると思う。
この「村上式シンプル英語勉強法」というタイトルのダササで売り上げが3割くらい減りそうな本(すまん)を読んで、最も印象に残るのは村上憲郎というひとの「耳のよさ」であると思います。
The marketing analysis on how the market is effected by several media indicates that personal computer magazines are as highly effective as we expected.
という発声された英語に対して、村上憲郎さんは、(ちゃんと聞こえないという意味で)
T..mark.ti.ganalysiso.howth.mark…s.fect.dbysevera.medi.i.dicat.tha.pers.n.lco.putermagazi.sar.ashighlya.w.expec..d.
と書く。
おそるべき耳のよさです。
村上憲郎の信念は、どうも「本質に届かないものはゼロと同じ」であるよーで、「ハウツー本」ぽいケーハクな顔した本なのに、すげー、と感心してしまいました。
この英語習得本はいかにも
「政治家としてのトロツキーの大罪は、スターリンに負けたこと。「文学論」なんか書いてる暇があったら、先にスターリンのど頭にピッケルぶち込まんかい! 」
と前後と損得を失念して思わず書いてしまう人の書いた本なのね。
「跳躍」も「投企」も出来る人、というのはたいへんなものだと思います。
村上さんには(日本常識に従えば)失礼だけど、わっしの友達であると考えました。
じーちゃんだけどな。
村上憲郎、かっこいい。
3
もうフクシマについて、日本語で何か言うのが嫌な気がしてきてしまったので、わしは、その分の時間はギターの練習を再開しているようなことになった。
この頃は Jesse Cook
http://www.youtube.com/watch?v=-0OAaD9LQEw
のコピーに忙しいよーだ。
新しいギターを1本つくりもした。
パチモンのフライングVで、目下、調整中です。
ときどきNEDsのことを考えながら、ギターを弾く。
わしにはモニと別々に毎日をすごすということは考えられない。
たとえば三十年後にモニがガンに罹ったとする。
そのときに「ひょっとして、あのとき日本に一緒に行ったからじゃないだろーな」と考えることには到底耐えられないので、わしが日本を訪ねるということはあり得ないことになってしまった。
でも、日本のこと、目下は途方にくれているNEDsのことを考えながら、ギターを弾いていると、力をこめすぎて弦が切れてしまうことがあるのです。
クリスマスの朝
December 25, 2011
ひさしぶりにモニとふたりだけで朝食を食べた。
件のブーゲンビリヤが咲き誇る花棚の下のテーブルで郵送分のクリスマスプレゼントをふたりで開けながらのんびり食べました。
ファンテール
http://www.whiteherontours.co.nz/piwakawaka.html
は、ひとなつこい鳥なので、生け垣にじっと隠れているブラックバードなどとは違って、
ごく近くまで寄ってきて、モニとわしをじっと見ている。
きみがニュージーランドへやってきたとして、丘から丘、入り江から入り江へと歩く「トランピング」をするというと、枝から枝へ飛び移りながら、いつまでもついてきて、可愛い声を聴かせてくれるのは、この鳥です。
しっぽの羽根を広げると、扇のようなので「Fantail」というのね。
今年は、わしのわがままでクライストチャーチではなくオークランドでクリスマスを過ごすことにした。
妹は、「なんで、おにーちゃんのために、わたしが、あんな湿気が多いところでクリスマスを過ごさなきゃいけないのよ。フコーヘイだ」とゆっておったが、性格が悪いわりに地震を怖がるので、23日のクライストチャーチ地震のあとでは沈黙しておる(^^)
わしが事をよく知っておる妹なれば、わしのわがままを正当化するために、偉大な法力を乱用して地震を起こしたのかと邪推しそうなものだが、近代知性に毒されておるので、そーゆーコンジョワルが当然うたがいそーなことを疑わないものであるよーだ。
(もちろん、わしは冗談にも地震を起こしたりはしない。そーゆー悪事は神様がやることだとむかしから決まってます)
隣の家の生姜色の毛並みが美しい若い猫がやってきて、わしの足下にじゃれついてモニとわしにクリスマスの祝辞を述べておる。
遠くからクリスマスソングが聞こえている。
わしは、今年も、モニとわしにとっては良い年であって、こうしてまた静かなクリスマスを迎えられたことを神様に感謝している。
いつもは仲が悪いがな。
だいさんきゅだぞ。
神様。
2
言語は、夏の晴れた日に、高速で青空の高いところを巡航する積雲が地上に映す影に似ている。
自然が脳髄の表面に映し出す影が言語であって、シンボルの形をしたその影をとおして、人間はさまざまなことを考える。
ある人間が物事について考えるというときには、言語も彼女もしくは彼につきそって考えているのであって、よく観察していると、考えている主体も、語彙が含んでいる歴史的な意味や情緒それ自体と、脳髄の表面に射した影としての言語を機能させている個人と、半々である。
人間は言語がさししめしている方向を振り向いてみることは出来るが、その方向の遠くにあるものに目を凝らしてみることは出来ない。
人間を拘束しているものは肉体においては物理の法則だが、精神においては言語に他ならない。
言語は人間の精神の実体であるのと同時に人間の魂の牢獄でもある。
人間はときに世界の相対化を拒否して、絶対に、あるいはそういう言葉のほうが実感をもちやすければ狂信に跳躍することが出来るが、たいていの場合、そうした投企の試みは神の手ですくいとられてしまう。
ところで神にすくいとられた人間の精神の投企とは、人間性の無効化にほかならないだろう。
バネを奪われたゼンマイ仕掛けの人形、二度と箱からとびださないオモチャ。
言語に拘泥することには、そういう罠がつねにある。
3
遠くで「a king was born today」と歌っているアメリカ人の声がしている。
あれほど東洋的な考えが西洋人の世界に伝播したのは、結局は、西洋語のなかに神が内在していて、そこに「王のなかの王」が容易に屹立しえたからである。
どんな時代でも、西洋世界ではクリスマスは家庭内暴力がいちばん多い日だったし、いまでも、それは変わらない。
それは皮肉な言い方をすれば、本来は混沌でしかないこの世界に、神が過剰に存在してしまうからである。
「ガメ、踊ろうか」とモニがいう。
モニの頬に顔を近づけると、この世界でモニの体だけがもっている、あの良い匂いがします。
ようやく夏らしくなった、乾いた、あたたかいそよ風が吹いてきて、モニの長い髪をとおりぬけてゆく。
神様がいてもいなくても、どーでもいいいわしも、
クリスマスには特別な気持ちになる。
自分ではなくて、言語の世界の外側の、なにごとかが、この世界を祝福しているような気がするのです。
Merry Christmas.
日本_「国家社会主義の夢の終わり」(その3)
December 18, 2011
1
民主主義がほんとうに現代でも有効なのか?と世界中でいちばん自問してきた人間のグループは他ならぬ欧州人だろう。
日本では、あんまり知られていないような印象だったが、ヒトラーが大陸欧州で擡頭しはじめた頃、連合王国でヒトラーに共感するひとは多かった。
ヒトラーがイギリス人たちは結局は自分の味方として助けてくれるだろう、と妄信していたのは、どれほどたくさんの連合王国人が自分の「新しいやりかた」を信頼しているかしっていたからでした。
公然たるナチス支持者だったCharles Lindbergh(「翼よ、あれがパリの灯だ」のひとですのい)のスピーチに対するイギリス人の熱狂はたいへんなものだったという。
子供のときにリンドバーグの演説に熱狂するケント人の姿をテレビで観たおぼろげな記憶があるが、たいていのチビガキの記憶どうよう、ほんとうの映像だかどうか判然としません。
ヒトラーを嫌悪するひとが多かったのは、いまのように恐竜化していなかった「上流階級」の人間達だったが、政治的な信条、というよりは単に「下品だから嫌い」(^^)という気持ちのほうが強かったでしょう。
スウェーデン人たちは国を挙げてヒトラーに共感する、という色彩が強かった。
オランダ人などは戦争が終わってからはナチスにずっと反対だったようなことをゆっているが、連合王国人でそういうオランダ人の言う事を信じるひとはいないでしょう。
南欧人はヒトラーが頭から嫌いだったが、それはどちらかというとドイツ人という退屈でえばりくさった人種が嫌いだっただけで、それが証拠には、スペイン人はフランコというガリシア人をイタリアはベニート・ムッソリーニというフォルリ出身の鍛冶屋のせがれを、それぞれ独裁的な国の指導者として選択している。
「民主主義」という考えは、決していつも支持されてきたわけではなかった。
わしの、あんまりたいしたことのない経験の範囲では「民主主義」というものが神から祝福されて送られてきた永遠の贈り物だと感じているのは日本のひとだけ、という不思議な印象があります。
2
ロンドンからのコンテナがまだ着かないので、本題を書き始めるのに都合がわるいが、中国のことを考えていたら、また日本語で国家社会主義経済のことを書いて考えたくなったので、少し、つきあってもらう。
どういうことかというと、わしは、結局、中国には「民主主義」などというものは起こらないだろう、と思っているからです。
中国人というひとびとの歴史を通じての特徴は「食べられるようになる」ことのみに集中して過ごしてきたひとたちである事で、中国人は「政治」という言葉で、「国民全員が食べられるようになる」こと以外を考えた事はなかった。
国家全体がそのまま皇帝の私物であった近代以前も、軍閥の長に富を簒奪された共産主義革命以前も、結局は共産主義が元来もっている経済上の機能不全をそのまま踏襲してしまった毛沢東時代も、中国人は飢えるしかなかった。
その、自分達を食べさせてくれなかった共産主義への絶望の最後の表現が(六四)天安門事件と思います。
最後の、と書いたのは、中国の国民が「もう我慢ならない」と共産党転覆を決意した六四)天安門事件の頃はすでに四五天安門事件を契機に1977年3度目の復活をはたした鄧小平の「共産主義を捨てて秘かに国家社会主義を採用する」改革が着々とすすんで成果をあらわす直前の段階に至っていたからで、中国が六四天安門事件のあと、欧州と合衆国の「経済封じ込め」を破っていまの興隆に至った直截のきっかけは、欧州と合衆国が「道義」というマヌケな理由で取引をうちきった中国の取引先を次々に掠っていった日本の抜け駆けであっても、いずれ日本の不徳義なしでも経済封鎖は成功しなかったに違いなくて、なぜかといえば、もう当時では中国が西欧由来の共産主義を捨ててしまっていたのは誰の目にも明らかで、それとは違う社会主義的ななにかを採用して爆発的な成長を目前にしているのは誰の目に明瞭になっていた。
前回も述べた通り、わしは、その共産主義を捨てた中国共産党テクノクラートが採用した「社会主義的ななにか」が何であったか、知っていると思います。
それはシンガポールの国家社会主義だった。
そして、そのシンガポールの国家社会主義は、日本の戦時官僚たちが骨組みをつくって、
日本があたかも戦勝国相手に民主主義を受け入れたような顔を取り繕いながら、アメリカの潤沢な資金を使って推し進めた戦後の「奇跡の急成長」を実現した国家社会主義経済政策の、ほとんどデッド・コピーだった。
チビガキの頃、わしはシンガポールの町を歩いていて「KOBAN」と書いてあるミニ警察署のようなものがあるのに気が付いていた。
「KOBAN」というのが日本語であることを教えてくれたのは、かーちゃんです。
かーちゃんは日本語は「おはよう」「さようなら」「ありがとう」くらいしか知らないよーだが、それでも交番という言葉は知っていた。
かーちゃんシスターか義理叔父から聞いてしっていたのだと思われる。
それを皮切りに、シンガポールという国がさまざまな日本制度をコピーして出来ていることに気が付いて驚いたものでした。
それは「社会制度」というような観念だけではなくて、たとえばシンガポールに「シムリムセンター」という有名なITタワーがあるが、長じてシンガポール人の友達に訊くと、
このビルをつくるときにリ・クアン・ユーは秋葉原に調査団を派遣している。
そして、「一階を秋葉原駅前、二階を晴海通りを渡ったところ…五階が末広町交差点の手前」というように、秋葉原の水平的な広がりをそのまま垂直に置き換えたものがシムリムセンターなのでした。
一事が万事そーであって、シムリムセンターもそうだが、警察の有無を言わさぬ強権、政治に対する無関心への誘導など、日本が熱帯に越してきてミニ国家になったのかと思うほど似ている。
一方で、シンガポールは多民族国家ではあるものの社会の主力は疑いもなく中国系人たちで、ノーティな中国人向けに特化された「ゴミ捨てたら400ドルの罰金だかんね」というような、他人に言われなくても国民性として清潔好きの日本にはない法律があるのは多分そのせいです。
外国人は知らないで暮らしているひとが多いが町内会には必ずパートタイムの政府のスパイがいて、町内で変わったことがあると公安警察に報告したりする制度があるのは、いかにも中国的である。
ところで、どうしても経済的急成長を必要とした鄧小平とそのテクノクラートたちが目をつけたのは、この「成功した中国系社会」であるシンガポールでした。
よく考えてみると、中国はシンガポール経由で、かつての仇敵、戦前日本の国家社会主義者たちの夢を買い求めたことになる。
フランスに留学した経験をもち、大陸欧州的な享楽が好きであった鄧小平の実務政治家としての勘の冴えは、この後、実際に中国を飢餓から救い出す。
中国人にとっては「民主主義などいらなかった」のを証明してしまいつつある。
3
幸徳秋水の大逆事件以降、日本人は、自国に社会においては「当たり障りのないことは自由に言えるが、核心に触れることを述べれば必ず弾圧される」ということを学習した。
これは、もちろんアメリカ合衆国と連合国にボロ負けしたあとでも変わらなかった。
日本の支配層が変わっていないのだから、当たり前です。
よく持ち出される例を引き合いにだせば、1957年から1960年にかけて日本の首相をつとめ、日本の戦後経済の発展の基礎を作った岸信介は戦時中の東条内閣の商工大臣である。
岸信介のあと、池田勇人の後を襲って日本の戦後経済を完成した佐藤栄作は言うまでもなく、岸信介の盟友兼実弟です。
左翼運動が興隆する1961年、深沢七郎、というギターが上手な小説家が、当時皇太子妃だった美智子妃を実名で登場させて、広場の民衆をF語に近い言葉で口汚く罵る様子を描いたあげく、斬首させてしまう、という小説「風流夢譚」を書きます。
このたいへんに文才に恵まれてはいたが、少し軽躁的なところがあった小説家にすれば、多分、なあーにを気取りやがって、という程度の気持ちで描いた悪戯に近い小説だったでしょう。
ところが、この小説を読んで激昂した日本の「愛国者」達、なかでもそのうち当時17歳だった少年は姿を消して遁走した深沢七郎の身代わりに出版元社長の嶋中鵬二の家を襲撃して社長夫人を重傷を与え、家政婦を殺害する。
身の危険を感じた深沢七郎は、この後4年間を潜行・放浪生活を余儀なくされる。
日本の戦後民主主義の特徴は、「言ってもよいこと」と「言ってはならないこと」があらかじめ決まっていて、物事を実効的に批判することは「言ってはならないこと」に分類される。
言ってはならないこと、すなわち、社会の誰も知っているが問題にするのは社会にとって過酷にすぎるというコンセンサスが存在する「ほんとうのこと」を口に出して指摘した場合は、発言者は必ず日本社会から抹殺されることになる。
その場合、「許容できない暴言である」、日本社会の構成員である人間の「気持ちをふみにじっていて、人間性が疑われる」、あるいは、発言者の生い立ちや行動を詳細にしらべあげていって、あるいは単なるでっちあげで発言者そのものの信頼性を否定する、という日本社会では極端に発達した「排斥の定石」に従って、発言者を排除する。
中国系社会においては、もともと政府のような支配層機構に対しての信頼がまったくないので、支配層のほうは言論を弾圧しなければならないが、日本においては国民(民衆)自体が「日本国」なり「日本社会」なりの「部品」として機能して、異分子を沈黙させる。
鄧小平は、リー・クアンユーに倣って、そういう民族性の違いからくる微調整を行えばよいだけだった。
日本の「民主主義」など、ただの看板にすぎない、と見破っていた。
多分、どういう仕組みで日本が「民主国家」を標榜しながら国家社会主義国として運営されているか、ごく具体的に精確に理解していたでしょう。
4
もう、ちょっとくだびれてきたのでもあるし、いまはクリスマスの前の、友人や近所人が忙しく招いたり招き返したりする頃もであるので、もうすぐ支度をしなければならないのでもある。(時計をみると二時間くらい余裕があるが、このあとに述べようとすることを二時間で書くのは無理だとおもわれる)
このへんで今日はやめねばならないが、わしは、中国が西洋的な価値の最大の挑戦者になるのは、もう誰の目にも明らかだと思う。
その中国が拠って立つ理論の重要な部分が日本に由来していることは、興味深い上に、西洋の研究者を暗闇のなかに押し込めることにもなっていると思います。
中国的価値、と西洋の論者が信じているものが、実際にはおおきな部分が日本人の魂からうまれたものであることを、わしは知っている。
そうして、それに「正邪」や「善悪」のラベルを貼ることの非生産性も理解しているつもりです。
そういう文脈で、この話題が話されてはならない。
致命的な誤りを犯すことになるからです。
T君への手紙
December 17, 2011
こう言うと、きみは怒るだろうが、ぼくはこの日がくるのを知っていた。
「勝ち組」という言葉のほんとうの意味は、1945年のブラジルの日系人社会で戦争に負けたのに、それがどうしても認められなくて「日本が勝った」という「事実」を信奉した人たちの呼び名だった。
きみの生きている時代の日本にも、とうとう、その日は来てしまった。
日本の社会での訓告処分、というのは言葉の強圧的な響きの割には軽い処分で、ぼくの記憶が間違っていなければ訓告3回で戒告処分、という運用のされかたなはずである。
懲戒処分のように、たとえば履歴書に必ず記載しなければならない法的な賞罰とは異なって職場内以外ではたいして意味をもたない罰則だったと思う。
群馬大学の早川由起夫というひとは、「科学者がどうやって社会と関わるか」という良い例をなした。
ぼくが5年間に何回か日本へでかけた頃、東京に人が多すぎるのに閉口して「山の家」を買ってモニとふたりでときどき息抜きをしていた、その「山の家」は、軽井沢という土地とあわないカラマツが大量に植樹されて出来た人工林のなかにある風景がちぐはぐな奇妙な町だった。
このどことなく不自然な風景の町の北西には浅間山という、姿の美しい火山があって、「つるや」という地元で人気のあるスーパーマーケットの駐車場から夕方になると「空いっぱい」といいたくなるくらいの大きさで、その雄大でなだらかな稜線を夕日のなかで輝かせて、モニとぼくの目を楽しませたりした。
そういう縁で早川由起夫という火山学者のことは、ぼくは福島第一事故の前から知っていた。
福島第一事故が起きてみると、この火山学者は「火山灰と死の灰は挙動が似ているに違いない」という面白いことに気が付いたようだった。
福島第一原子力発電所事故を謂わば背の低い火山の小噴火とみなせば大気中の分子の振る舞いは同じだろう、という推測で、ぼくはこの名案をもったこのひとの「研究者としての勘」に感心してしまった。
その後の経過を見ると、このひとの勘は正しかったように見える。
科学者が社会と関わるのは難しい。
バートランド・ラッセルは89歳のときに連合王国の核政策に抗議して行った座り込みで逮捕され懲役刑を言い渡されて、「行動する科学者の鑑」と賞賛されるが、
ラッセル卿は個人の信念に従って核を「充分にその破滅性を理解しないで」扱おうとする政府に抗議しただけであって、一方で数学者であったことと行動に直截の関連があるとはいえない。
早川由起夫という火山学者の場合は火山学という一見社会とはまったく関連がありそうもない学問が「大気中の分子のふるまい」という結節に手をひいて導かれて、彼を社会のど真ん中に連れて行ってしまった。
科学者と社会がどうやって関わってゆくか、という理想の形だったと言えると思う。
科学的方法と社会との婚姻と呼びたくなるくらいのこの火山学者と福島第一との(奇妙な言い方に聞こえるだろうが)「幸福な」関わりに較べれば、他の物理学者たちのいわば「啓蒙」をめざした活動は、そこにどうしても説教師的な曖昧がうまれて、ピンポイントで「自分が必要とされる場所」に立った早川由起夫の爆発的な活動とは較ぶべくもなかった。
傍から見ていて、彼がもたらした事故への知見は事故当初の爆発でふきあげられた放射性物質を太平洋にふきちらした風についで、日本のひとにとっての幸運であったと思う。
その早川教授の訓告処分を合図にするようにして、日本の社会は静かになっていった。
抗議や警戒の声が、すっと小さくなっていったのは因果関係というようなものはなくて
「偶然」でしょう。
ちょうど、それまで生存のために苦闘していた患者が息をひきとるように静かになってしまった。
間髪をいれず野田首相が「冷温停止状態」を宣言する。
日本の社会にはもともと腕相撲のようなところがあって、どちらかに傾き出すと、ぎりぎりと競っているのは短期間で、片方が片方に雪崩をうつように決着がついてしまう。
ほとんどの問題について、対抗した掌が空中で拮抗したまま問題を現実にそって処理してゆく西洋とはずいぶん異なる社会です。
その腕相撲の決着がついてしまった。
放射能が危険だ、という勢力は敗退したのだ、とぼくは見ています。
そして、ぼくはそれを知っていた、と書いた。
チェルノブルと福島第一事故の最も大きな違いは、前者が範囲2150k㎡に及ぶ樹木が根こそぎなぎ倒されるようなうな巨大隕石が衝突してもほとんど誰も気が付かないような広大な国土で起きたのに較べて、福島の事故は最も稠密に人口が分布している部分ではないものの、人間が大量に移動する余地のない狭い島国の200万人のひとが直截影響を受ける場所で発生し、しかも、更に困ったことには、3月15日には1500万人という人間が密集する首都圏へ放射性物質が降り注いでしまった。
ロシア、という途方もなく広大な国では、チェルノブルなどは酷い言い方をすると局所的な事故にしかすぎないのです。
実際、チェルノブル近辺の住民は政府が仕立てたバスで「遠く」へ逃げてしまえばよかった。
でも、日本という島国のどこに逃げてゆける「遠く」があるだろう。
誰が為政者でも、「ここは強引に嘘をついて乗り切らなければ国がまるごと滅びる」と思ったでしょう。
政治については党内の政局程度にしかなじみのない彼らにとっては、足が震え出すような事態であったに違いない。
あるいは明治初年の指導者たちのように野放図、と言って悪ければ、放胆な気分のなかで政治を行っていたひとびとのなかには「カネはない。いまの日本では補償はできないが、頼むから逃げて下さい。もしかすると、たいへんな被害を引き起こしたことが将来わかるかもしれない」と演説をする能力があるひとがいたかもしれないが、それはないものねだりというものだろう。
どんな社会にも「生き延びてゆかねば」という集団としての本能がある。
日本社会の閉鎖性は、ときにそれを上回る狂気を生じて集団自殺のような様相を呈することがあるのをきみもぼくも知っているが、いまのところ生じている狂気は「低放射能は安全に決まっている」という社会を生き延びさせてゆくための「方法としての狂気」とでもいうようなものにとどまっている。
大陸欧州で二年をすごしたことがあるきみは、異文化の人間がよその土地で暮らすことの難しさをよく知っていると思います。
なあーんとなく、足が地面から1センチくらい浮いているような気がする。
ピンとこないことばかりである。
合衆国の大学を卒業して連合王国人と結婚、16年間イギリスに住んでいる、という女のひとにぼくは会ったことがある。
電話口でも「あっ、日本のひとだな」と、にっこりさせられるアクセントだったが、ふつうの日本人が聞けば「流暢な英語」でしょう。
きみもよく知っているように、ぼくは普段は英語と仏語しか話さないような顔をして暮らしている。てれくさい、ということもあるが、言葉を切り替える、ということが面倒くさいので、ごくごく親しい人間しかぼくが他の外国語も少しわかることを知りません。
だから、その女のひととぼくも英語でずっと話していた。
ところが、この女のひとの、なんともいえない「余裕のない」話し方に居合わせた友人とぼくは疲れてきてしまった。
微妙に間が悪い話し方も、その「余裕のない感じ」のひとつで、一拍のそのまた半分遅れるようなタイミングで、「自分の場合」についてまくしたてだすので、なにがなし場が気まずくなっていることに、そのひとは気が付かないようでした。
女のひとが席をたってから、ぼくの友達が、のんびりした調子で「変わった女のひとだね」と小さい声でつぶやいたのをおぼえている。
彼も、「なにがおかしいのだろう?」と会話のあいだじゅう考えていたのが、手に取るように判ったので笑ってしまった。
あとで考えてみると、あのひとは、「一生懸命、話していた」だけだったのに違いない。
英語が他の外国人に較べて上手だったので、かえって差異が目立ったのでしょう。
日本を出て海外で生活する、という人の話を聞くと、いつもあの女のひとのことを思い出す。
だから海外移住なんかダメです、と言っているのではない。
いまどき、「移住」などという日本語の響きはおおげさすぎるくらい、他の国に越すくらいのことはたいしたことではない。
でも、それは「日本で暮らす」というのとは、当然のことながら、まったく違う生活を選択することになるわけです。
なんだか、また、まとまらないことを長々と書いてしまった。
福島第一事故に対する「二番目のフェーズ」に入った日本で、ふたりの小さな子供を守って暮らさなければいけない奥さんときみの苦労は相当なものだろうと思う。
知識がなければ、いっそ楽だが、きみの場合は、そうもゆかないわけだし。
谷崎潤一郎というのは、神経が精妙なわりに、同時に頑健で健康な感覚を最後まで保持していられたひとで、地震がこわいから、という簡明な理由で京都に引っ越した(^^)
われわれは常に、こういう簡明さを採用すべきで、福島第一のあとでは「放射能がこわいから」という簡単な理由で逃げ出すのが最もよい。
科学者だからといって、なにも「放射性物質が微量でも危険である」という「証明」など要るわけがない。
やばそー、と思ったら逃げる、というのは最も健全な反応だと思います。
また手紙かきます。
でわ
(T君はわしと同じ年齢の研究者の友達です。返信の手紙を一部だけ変更してブログ記事にしてしまうことにしたのには、あんまり理由がない。なあーんとなく、です。いつものことだが)
試験の終わりに
December 15, 2011
山手線の地図を見て、明治時代の日本の官僚の優秀さを思わないひとは、よほど鈍感なひとである。
あの土地が凸凹で線路をつくるのにカネがかかりそーな、予算が不足するに決まってるところばかり通る線路を企画するのに住人も疎らな「渋谷村」を通そうとしたんだからな。
ほとんど誇大妄想狂です。
日本の地下鉄路線図をプリントしたTシャツを着てボート遊びに行ったら、待ち合わせた友達が、なんじゃこりゃ、という顔で顔を近づけて「ぎゃっ!」とゆってのけぞっておる。
http://www.metro.tokyo.jp/SUB/SUBWAY/index.htm
「ち、地下鉄の駅じゃん、これ」とゆってジビジビしてます。
そーよ、いっぱいあんだよね東京の地下鉄、というわしの涼しい顔をみて、
なあんとなく青ざめておる。
バンコクはやけくそみたいに交通渋滞する街なので、東京っちゅうところでは昼間人口が2千万人だかを越えてるのに、なんでも噂では道路のクルマが動いているというではないか、ほんまかいな、というので、80年代のあるとき、タイのひとびとが東京に視察にやってきたことがある、というのは義理叔父の得意のひとつ話である。
山手線の建設が1885年、銀座線の開業が1927年、と聞いて、ショックを受けてうなだれて帰った、というのです。
もっとも、わしは義理叔父相手に、いかに日本社会がバカっぽいかを述べていじめてばかりいるので、反撃にでたものだと思われる。
話、半分、くらいかもしれません。
いま、もうクソミソで、いっせいカチューシャ攻撃、T34の集団突撃、B29の絨毯ナパーム攻撃にあって、頭の悪い悪魔の手先のように言われる「役人」だが、
わしは日本は結局、役人がつくって、役人とともに腐敗して、役人が滅ぼした国だと思ってます。
日本の官僚制のおおきな特徴は、田舎のビンボ人のせがれの、勉強ばかりが出来て、その競争に最適化された知性で、自分の人生を押しつぶそうとする既存社会を生き延びてきた人がもともとは多かったことで、1種国家公務員で入省して、名前は残らなかったが幹部として過ごした、というタイプのひとには、「がんばり屋」「バカと怠け者嫌い」「秀才肌」「傲岸不遜」「涙もろい」「純粋」というような形容が自分の魂のそこいらじゅうにちりばめられている人が多かった。
1980年代でもなお、バブルの高給に浮かれる友人達を横目に見ながら、マクドナルドの高校生のバイトよりも安い月給を受け取りながら、私鉄沿線の風呂もない木賃宿で、日本のエネルギー政策にそのまま採用される計画案を、汗まみれのランニング姿で書いていた若かった頃の官僚友達の話を義理叔父は酔っ払うとすぐするが、それはきっと、そのままそうだったろうと思います。
日本の教育制度のもっともすぐれた点は19世紀において、食うや食わずのビンボ人の家庭から国家を指導する人材を拾い上げる体制を組織化したことだった。
ふつう、そういう体制をもった国は、ひとの目に見えないところで、というのが判りにくければ、どうしていまでも制度的に性平等が謳われているアメリカやイギリスで、あるいは日本で、女のひとがなぜか出世が出来ず、賃金も男どもに較べて低いのかを考えてみれば判るとおもうが、不可視の力で、ビンボ人は上層に浮かび上がれないように出来ている。
ところが日本人は物理学生がロケットがもう地面にめりこんでいるのに数式だけを追いかけて猛烈な勢いで計算をすすめる、あの観念性を発揮して、絵柄に描いてある、そのまんまの社会をつくってしまった。
ビンボ人が、勉強さえすれば成功し社会の指導層になれる社会をつくってしまったのでした。
そーゆーことが、あっさりエスタブリッシュメントの「不快」も蹴散らして出来てしまったことの背景には、国民全員が「天皇陛下の赤子(せきし)」であって、てんちゃんは神様だけど、あとはみんなおんなしよ、シンミン、という天皇思想があったものと思われる。
姉や妹が売春宿に売り飛ばされてしまうような過酷な貧困の家庭でも師範学校と士官学校、兵学校ならば国家から給付をうけながら高等教育が受けられる、という、近代日本の教育制度は、日本の「観念がすべてなのよ」という特殊な文化が近代日本人のために準備した、最高のプレゼントであったと思います。
日本が社会主義国的な計画経済国家として長く君臨したことには、他にも理由がたくさんあるが、この「田舎の秀才」をたくさん集めえた教育制度に大きな理由があるように見える。
全共闘の時代に、大学生たちがヘルメットをしてタオルで顔を隠していることの理由のひとつは、大学を卒業して一流会社に就職する段になって「反体制運動」に加わっていたのでは都合が悪い、ということだったようだが、一方では当時の上級国家公務員試験合格者に対して、通産省などは、相手が中核派の幹部だろうがなんだろうが、人材としてすぐれているとみれば採用を躊躇しなかった。
民間会社よりも遙かに思想的なタブーのない採用をしていた。
財務省や通産省の、こういう採用の思想は、戦前からずっとそうであったもののよーで、ものの考え方として
「25歳よりも若くて革命思想に惹かれない人間には人間性がない。30歳を過ぎても社会主義を信奉する人間には責任感がない」という連合王国人がよく言うセリフを連想させる。
「強い公共心と正義感」というものが、ひとりの人間にどういう軌跡を描かせるか、むかしの日本人はいまの日本人よりもよく知っていたように見えます。
ここでは、これより先の議論はしないが、わしは日本の繁栄をつくり、人民戦線的な国民文化を形成したのは教育だったと思っている。
このいろいろな意味で特殊な教育体制が壊れてゆくのは、どうやら日比谷高校解体を象徴とする東京都の学校群制度導入あたりからだと観察される。
どこからどう読んでも理解できない「公立高校が大学受験のような競争において優位にたつのは好ましくない」というチョー不思議な理由によって、
学校群制度が導入されるのは1967年の事です。
どーも、この辺から日本の教育制度は崩壊していったもののよーである。
東京では、日比谷高校を中心とした都立高校から、国立教育大学付属駒場高校や開成・麻布・武蔵というような私立の学校へ東京大学入学者の分布がシフトしてゆく。
ここで見落としてならないのは、
日比谷高校が学区内の公立中学から通常の受験で入学してくる15歳の子供を引き受けて「日本式大学受験」という他の国の大学初年級に相当する詰め込みと厳しい思考訓練を行ったのに較べて、私立高校はたいてい6年一貫教育であり、厳しい選別にさらされる年齢が12歳に低下してしまったことです。
それは社会から見ると実はたいへんな変化だった。
ここを起点に日本からは「子供」がいなくなっていきます。
関西では、公立高校はずっと後まで生き残ってたとえば「北野」や「天王寺」というような公立高校から京都大学に大量に進学する。
しかし、たとえば東京大学で言えば、学生数の半分を占める東京の中学高校の公立体制の崩壊は、結局は国家の教育体制におおきな「隙」をつくってしまい。
その壊れたすきまに殺到した予備校を含めた業者達によって全国的な教育の産業化、商業化を招いてしまった。
わしは日本にいるときに、日本の教科書や参考書を買い集めて、ときどき読んでいたが、
あの教科書で勉強して、たとえば東京大学に合格する、ということはありえない。
むかしの「田舎のビンボな秀才」が大金を使って促成栽培された「受験戦士」たちに勝てる確率は途方もなく小さくなってしまっていると思います。
もう少し具体的にいうと、カネをかけないで手に入れられる参考書を思い浮かべながら言うと、いまの日本で田舎や都会のビンボ人のせがれが教育を突破口に社会の上層に浮かび上がれるのは、数学や物理に適性のある子供が良い教師にめぐりあって、ひとりぼっちで机にしがみついて、歯を食いしばって勉強したときだけでしょう。
教育を安易にいじりまわすと、こんなにもひどい災厄を引き起こすのか、とボーゼンとした気持ちになります。
そーだ、そーだ、書き忘れたが、少なくとも昔は、上級公務員試験の一次の問題は、仕事の合間に若い役人たちが自分でつくった問題を暗箱に入れさせて、そのなかから出題していたそーである。
わしは、それを、日本の官僚が、まだ国を正しい方向にひっぱってゆくのに夢中になっていた頃の、若い先輩が、これから大志を抱いてやってくる年少の仲間に手をのばして抱きかかえるとでもいうような、暖かい習慣と感じたのをつけくわえておきます。
日本の古典_その1 いしいひさいち
December 14, 2011
義理叔父の間違いだらけの日本語のeメールには、ごく稀に面白いことが書いてあるが、
昨日受信箱にはいっていたeメールを読むと「50代の人間に大病が多いような気がする」という。
それも、喉頭癌が多いよーだ。
保存料、とか、着色料のせいだと思うかね。
おれが子供のころは、ファンタ・グレープ、ほれぼれするような紫色だったからなー、と書いてあります。
歩く風評被害のようなひとである。
群馬大学は、こういうひとを訓告処分にしないで野放しにしていてもいーのだろーか。
第一、早川由起夫の話をしていたら、「群馬? あー、田舎の、元二期校の。まだ、あんのか、あの大学」という、おそるべき差別発言をしたひとです。
とんでもないやつだ。
わしが早川由起夫なら学長と一緒に怒るであろう。
いしいひさいちも、(そのときの義理叔父のeメールによると)ビョーキだったよーだ。
いまwikipediaを見ると、「恢復した」と書いてあるので安心だが、忌野清志郎も、そーゆえば、トーダイおじさんのKさんも、とちょっと団塊世代のすぐ下にあたるひとびとのことを考えた。
いしいひさいち、という漫画家は「がんばれ!!タブチくん!!」とか、「ぷがじゃ」とか、同世代から10年くらい下のひとにとっては世代的な秘密をわけあう味がする作家である、と夏目房之助という漱石先生の孫が選集の終わりに書いてある。
わしは実は「がんばれ!!タブチくん!!」を読んだことがありません。
選集に抄録されているものを読んだことがあるくらい。
もともと、60年代70年代の日本をベンキョーする過程で「伊賀の影丸」が大好きになったわしは、「忍者無芸帳」という名前につられて手に取った、いしいひさいちの漫画が、すっかり気に入ってしまい、B型平次捕物帖や、「にんにん物語」を、まるで朱子学者が論語を読むようにして、アホな苦労をして読んだものでした。
あのいしいひさいちの70年代や80年代世相についての膨大な知識がなければ読んでもおかしくもなんともない漫画を、網羅満載した脚注を整備して英語で出版したら、さぞかし売れるだろうと思う。
日本という国の奇想天外な文化が伝統的モンティパイソンファンを虜にすることになるのは請け合いなので、外務省が世界中でやっているバカタレのひとつおぼえの「茶道」や「生け花」の日本フェスティバルはやめて、政府の後援で出版すればよいのではないか、とマジメに思います。
いしいひさいちの漫画には、ときどき訳の判らないセリフが出てくる。
たとえば、「お前はマルトか、ばかやろ」というよーなセリフが時代物の漫画に出てくるが、この「マルト」というのは鎌倉の大船、松竹撮影所跡のイトーヨーカ堂の近くにあった輸入専門家具店です。
他にも「波乗りまんじゅうみたいなマーケティングですね」というのもあったと思うが、
これは大町の和菓子屋さんがつくっているおまんじゅうのことである。
いったい、日本の漫画人口の何%のひとが鎌倉人でもよう知らんような大船の「輸入家具のマルト」を知っているというのだろう?
山本夏彦は、「ひとりの作家が書く物をちゃんと理解してくれるのは300人くらいのものだ」と書いていたが、ぬわるほど、とこの雑誌編集長が長かったひとのいうことを読んで感心したものでした。連合王国では「100人」という。
そーだろーなあー、と思います。
英語圏全体でも1万人もいるわけねーよな、という感じがするので、そんなものだろう、という感じがする。
この「300人」の裏には、山本夏彦の「自分の信じている事を書いて10万部も売れる本を書くひと、というのはおかしいのではないか?」という気持ちがありそーな気がする。
「10万部」というような数は編集者が狙ってつくるものであって、たとえば作家が書きたい物語をおもいきり書いて、そんなに売れてしまってはダメなのではないか、という考えがあるよーだ。
鮎川信夫が「テレビは聴取者の数が多い、ということが、そもそもダメなのさ」とゆっています。
「大人数の人間を満足させる、ということは、すなわち、最大公約数をつくることだからね」
「そして、最大公約数、というのはいつも質的水準としては信じられないくらい低い」
いしいひさいちが漫画を描くときに考えていたのは、要するにそういうことで、だから、ずっと後になって朝日新聞の連載をひきうけたときに、どんなことを考えて引き受けることにしたか、余計なお世話だが、なんだか、とっても興味があります。
このブログ記事によく出てくる、日本にいるあいだ、わしが親切にしてもらいまくっていた「トーダイおじさん」たちとは別に少数民族グループとして、「キョーダイおじ」たちもいたが、このひとたちの長老は、「ぷがじゃ」つまり「プレイガイドジャーナル」が風景のなかにある、「関西学生文化」にどっぷりつかっていたひとであって、このひとの話に出てくる関西学生生活は「コミューン」という言葉が思い浮かぶほど楽しそうなものです。
わしは自分では実物を見たことがないが、この「ぷがじゃ」文化から、いしいひさいちは出発したという。
「仲野荘」的仲間意識が、いしいひさいちの健全さをささえていたのかもしれません。
日本にいるあいだに、いろいろな世代のひとに話をきいて、強くおもったことは、
1950年代後半くらいまでに生まれたひとたちには、溌剌とした知的共同体とでもいうべき強い雰囲気がある。この世代が小学生の高学年から高校生時代にかけて共有していたと思われる、ラジオの深夜放送や演歌だらけだったという流行歌への強い反発、岡林信康(バックバンドが「はっぴいえんど」なのだな)、「ぷかぷか」、吉田拓郎くらいまで、それまでの「旧世界」とくっきりと色が違う文化を共有して強く永続的になるかに見えたエネルギーの渦巻きが、「ポパイ」という雑誌や、ユーミンの音楽が爆発的に売れるに従って様変わりしてしまい、「金魂巻」のように、いまの時代のわしなどが手に取ると、こんな退屈で薄汚いへらへら笑いに満ちた本が、なんでそんなに売れたのだろう、と思うようなしょうもない本が売れる時代に至って、あっというまにエネルギーを失って墜落してしまう、そのときに何があったか、ということでした。
中進国から先進国への移行、全共闘運動を防止するための初等から高等までの教育体制の弾圧的な改変の成功、さまざまな説明があるのは知っているが、どれもピンと来ない。
あの80年代のどこかに有ったはずの分水嶺の、丘陵の両側をその持ち前の敏感さで眺めていた、いしいひさいちに、「マルトの秋田さん」の話でもしながら、どんなことが起きたのか訊いてみたい、と思う事があります。
Bang Bang
December 13, 2011
むかし、銃砲店で遊んでいるときに、店主のおっちゃんが、
「ニュージーランドは国民ひとりあたりの銃砲所持率が世界一なんだぞ」というので、
へえええー、と思った事がある。
その後、ずうううっと、それを信じていて、数年にわたって、かーちゃんとかにも述べて、意外だ、とゆってうけていたのだが、このあいだ、ふと思いついて調べて見たら
オオウソであった(^^;)
全然、嘘。
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_gun_ownership
ドイツについで22位です。
英語世界は口コミ世界なので、通常の状態で、ぜんぜん間違った情報が大群で世の中を闊歩しておる。
世の中のたいていのことは、どーでもよい、という強固なええ加減さが社会の基調をなしている、ともゆえるな。
多分、銃砲おやじは、40年代、若い衆がアフリカやなんかに出払った留守を狙って
「日本が攻めてくる」というので、パニクってばーちゃんたちまでライフルをぶっ放していた頃の統計を、自分のじーちゃんか誰かから聞いていたに違いない。
その頃は、合衆国の補給基地があったこともあって、ニュージーランドじゅうに武器があふれていたので、案外、一位だったかもしれません。
アメリカ人のビジネスマンなら、一度はニューヨークに出張するのに銃をもってゆくべきかどーか、というようなことを悩んだことがあるであろう。
アメリカ人友達に訊くと、これは結構、切実な問題で、たとえばフェニックスに住んでいるハードディスク会社の部長は、ふだんは銃をグラブボックスに入れて通勤している可能性が高い。
アリゾナ州では法的に「銃を隠してもって歩いてもよい」からで、わしにもハンドバッグにいつもちっこい22口径をいれて歩いているおばちゃんの友達がいる。
そーゆー生活をしていて、国内線に乗ってマンハッタンに降りると、論理的には、そこでいきなり逮捕される可能性があります。
たいてい、「すまんすまん」ですんじゃうけどね。
警察がやる気になれば逮捕できる。
12月2日版(ユーロが炎に包まれながら墜落している表紙のやつです)のエコノミストに、この不便を解消するための法改正の記事が出ている。
ところで、ここで、そーだよね、と思い出したのは、アルコール依存症の人でも講習をうけなくても銃がもてる、それどころか、まったくなんの規制もなくて誰でも銃を持って歩ける4州の名前に記事を読んでいきあたったときで、アラスカ、アリゾナ、ヴァーモント、ワイオミングというこれら4州に共通しているのは、あぶねー動物がいっぱいうろうろしている州であることで、アメリカでは、まず何よりも、こういう動物に襲撃されたときにために銃をもっている、という人がたくさんいる。
わしは自分では狩猟や競技用に銃をもっているが、キャビネットにはいって鍵をかけたまま、ほうっぽらかしです。
手入れもあんまりしないので、もしかすると、引き金をひいた途端に「バンッ!」と書いた旗が飛び出してきて野ウサギさんを笑かしてしまうかもしれぬ。
ワシントン州の友達と、シアトルのパイクプレースをぶらぶら散歩しながら話しているときに「アメリカ人って、なああんで、その辺に銃を転がしとくねん。あぶねーやん」と何の気なしにいうと、そのひとは立ち止まって、「ガメ! なんてことを言うの! 銃なしで歩いてグリズリーに会ったら、どうすればいいのよ!」という。
へっ?と思って聞いていると、このひとは子供のときからクマさんが襲ってきたときのためにショットガンをもって散歩していたそーで、「アメリカと銃」と言えば、
「自由は鉄砲からうまれる」とゆったリンカーンのゲチスバーグ演説…嘘です。
日本のひとはマジメなので、ことわりをいれておかないと、また集団で襲ってくるに違いない。
だいたい日本の人が襲ってくるときには先頭が猿人であるか小説家であるかに関わらず、何百というひとがいっせいに連携して攻撃してくるので、言葉のガトリング銃があっても間に合わないであろうとゆわれている(^^)
203高地の機関銃陣地で防戦したロシア人は、一面に累々と重なった日本兵の屍臭に鼻と口を布でおおって耐えたというではないか。
もっともわしは大学生のときにオオマジメに嘘を書いたら、日頃の品行方正、実直、誠実、という人物評価が災いして一部学寮が大パニックになったことがあるので、教養がない人間というのは困ったものである。
念のためにゆっておくと上の「自由は鉄砲から生まれる」というのは、日本人の「ケザワ・アズマ」という人の名言です。
アメリカ人は、銃が自由を保障するという神聖で雄々しいようなアンポンタンなような、そーゆーアメリカ的自由の象徴、Second Amendment
http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Amendment_to_the_United_States_Constitution
な面から銃を考えているのだろうとだけ考えていたわしは、猛獣から身をまもるため、というようなとーぜんな理由を忘れていたのでした。
ワシントン州のクマさんは大きいので、ペッパースプレーやスタンガンでは、そりゃ無理だわな。
斧を出してみせて、「おのおのがた!」とゆってみても、頭に血がのぼってしまっているクマさんたちには冗談が通じないに違いない。
銃というものは、もっていれば判るが、所持すること自体には周囲への危険は何もない。
危険が生じるのは、「持って歩く」こと、就中、「隠してもって歩くこと」であって、アメリカの銃砲規制の焦点も実際には、そこにあります。
ニュージーランドでも、アメリカ並み、というか銃自体は「人を殺したいんですけど」とでも申請しなければ、簡単に所持できます。
ライセンスが数種類あるが、自動銃を買えるEライセンスでも、ふつーのひとでもライセンスもらえる。
実際にも、わしの近所のカネモチジジは突撃銃をもっておって、いつも、強盗が集団でやってくるのを楽しみにしている、とゆっておる(^^)
社長さんなので、ストレスがたまっているのでしょう。
銃という暴力にはふたつの効用があって、ひとつには女びとも男と同じ破壊力をもちうる。ジョーダンだと思うかも知れないが、女びとは銃をもつと、やや颯爽とするよーだ。
アメリカでは臆病な男ほど自分がもっている銃の話をしたがるのと同じ理屈でしょう。
もうひとつは「言論」というものの輪郭が明瞭になる。
銃という死と直結した暴力が社会に存在することによって議論に緊張を与える、という面があるよーだ。
欧州のように銃をもつのは比較的簡単でも「銃になんか興味ない」という社会がもっともよいのは、ほぼ自明で、ふつうの欧州人にとっては銃は「高いのに、使わんやん、そんなもん」という商品です。
だから買わない。
わしはアメリカにいるときには、銃による犯罪の危険を喧伝しているのは実は
NRA
http://home.nra.org/#/home
のコーサクインだったりして、と思う事がある。
こんなに銃による殺人が多いのだったら、自分も銃をもたなければ、とゆー線を狙っているのでがあるまいか?
ニュージーランドの「牧場の家」の近くの田舎町のデイリーに、銃をもった強盗がはいったことがあったが、気の良い主人のP(クマさんみたいなひとです)は相手に銃を突きつけられた途端、カウンタ越しに胸ぐらをつかまえて宙をふりまわしてカウンタの後ろの壁にたたきつけてしまった。
ニュージーランドの法律には、ぶっくらこいちまうことに「正当防衛」という概念がないので、Pは、一瞬、このアホが怪我したら困るな、と思ったそうだが、実際、肩の骨だかを砕かれた犯人が傷害でPを訴えたものの、判事にアホ、とゆわれて終わった(ニュージーランドでは泥棒とかの判決は逮捕の翌日です)そーである。
銃というのは咄嗟の場合なかなか人に向かって撃てないものなので、銃砲所持の問題は管理に主眼をおいて話すのが最も良い、とわしは思う。
そこにSecond Amendmentが登場してしまうところに、「自由」についてのアメリカ式思考の欠点がおおきく出ているように見えます。
アメリカ人たち
December 11, 2011

1
アメリカが繁栄した原因は人間性よりも「手続き」に信頼した社会をつくったことにあったと思う。
もっとも判りやすい例として刑事裁判を挙げると、合衆国の刑事裁判は、訴追から判決に至るまでのどの段階でも所定の手続きに違反した箇所があると、それで被告は無罪になってしまう。
誰がどんなふうに見ても有罪である場合でも無罪になります。
「情状」というようなものは陪審員の心にははいりこめるが、アメリカ人全体に「手続き主義」は浸透しているので、こいつ絶対やってんなああー、と思っても、それで有罪と決めては自分が犯罪者みたいなものである、ということが徹底している。
アメリカ人の大学教員の講義の特徴は、ごく判りやすい「幼稚園児相手にしゃべっとるんか」というところから始まって、このアンポンタンハゲめが、と思って油断していると、あっというまに話の核心にまで駆け上ってしまうことで、これも振り返ってみれば「手続き主義」の影響であると言えないこともない。
もっとショボショボとした趣のある連合王国人の講義とは、末広亭の落語と吉本の花月劇場くらいの違いがあります。
ビジネス上の会議でも同じであって、錐でもみこむような話し方をする連合王国人と異なって、これはこうだからこうでなければならんだろう、というような手続きに終始した話をすることが多い。
とゆっても判りにくいに決まっているので、違う言い方をすると第三者が口を挟みやすい話し方をします。
もちろんテーブルを囲んでいる人間達のパーソナリティによるが、傾向としては、連合王国人は何人並んでいても一対一の、ぶっ刺しあい、アメリカ人たちはボスの提議や質問を中心とした集団討議を好む傾向にあるよーだ。
わしの、ただの印象だけどね。
(いま書きながら考えてみると、そういう印象は、連合王国人が話し相手の顔しかみない傾向が強いのに較べて、アメリカ人は周りの人間の顔を見渡す傾向が強いので、そういう印象があるような気がする)
手続き主義の良いところは、なんでもかんでも可視化されやすいことで、あんまり秘密がない。インチキもばれやすい。
こみいったことでも体系化された「手続き」に沿って見てゆくと、案外、簡単にものごとが看てとれるようになっているからです。
2
連合王国人とアメリカ人の関係は、日本の人が通常考えているよりはずっと微妙であって、まず、お互いにお互いのアクセントが気に入らない。
ふつーの連合王国人は、ふつーのアメリカ人と話していると、なんだかキチガイと話しているみたい、と思う。
Rが響きまくって、声がでかいうえに発声が下品である。
ふつーのアメリカ人は、ふつーの連合王国人と話していると、このクソ野郎が気取りやがって、と思うもののよーである。
お互いが男同士であると、そう思うが、相手が綺麗なねーちんであった場合は、マンハッタンの男はコックニー語の女びとの発音に痺れて、ぼおおおーとなってしまい、
セブンオークスからやってきた若い衆は、テキサス出身の女びとの、まるい、おおらかな笑い声に、うっとりして思わず結婚を申し込んでしまう、というような現実の事象を考えると、なんとなくお互いのアクセントへの反発の源がどこにあるか判るような気がするが、
これには他の要素もあるかもしれなくて、連合王国の女のひとのなかには、アメリカ人て、やりたがりのペニスが勃起したまま歩いてるみたいで付き合いたくない、とおそろしい表現をするひともいます。
わしは、この発言についてはコメントしないことにする。
コメントすると、連合王国人の男が、しょんぼりとうらぶれたペニスが歩いているみたいであることを認めることになるからではありません。
マンハッタンには、たとえば,
「One If by Land, Two If by Sea」
http://www.oneifbyland.com/gallery.html
というレストランがある。
奥のテーブルでのんびりするにはコースごと頼まなければいけないのが難点だが、あきらめてコースを頼んでしまえば気楽にしていられるなかなか良いレストランなので、わしも、ときどき出かけます。
しかし、このレストランの名前はHenry Wadsworth Longfellowが書いた、対英戦争のときの有名なPaul Revere’s Rideについての詩であって、
Listen my chiledren and you shall hear
で始まる愛国的な詩の、そのなかでも最も有名な
“If the British march
By land or sea from the town to-night,
Hang a lantern aloft in the belfry arch
Of the North Church tower as a signal light, –
One if by land, and two if by sea;
And I on the opposite shore will be,
Ready to ride and spread the alarm
Through every Middlesex village and farm,
For the country folk to be up and to arm.”
という部分に由来している。
たいへんよろしくないことには、かっこえーんだよ、この詩。
わしなどはアメリカ人でないのに、一回で読んでおぼえてしまうくらいチョーシもよいのです。
アザラシでもアメリカ人でも暗誦できてしまいそうである。
モニなどは、「ガメは、あのレストランにいるときは連合王国訛りが極小になっておる」とゆって揶揄(から)かう。
自分の祖先がアメリカ独立戦争の後援者であったことを誇っておる。
マンハッタンという街には、想像するより遙かに多いフランス人が住んでいて、ちょっと考えるよりはずっと少ない連合王国人しかいないのは、たぶん、そーゆー事のせいもあるに違いない。
3
生活の局面からいうと、アメリカの都会に住んでいるひとびとは、ごくふつーに「この世はカネさ」と思っているひとびとであって、あまりにごくあっさりと、そう思っているので、なんとなく古くさい道徳の取り付く島がない。
アメリカ人というのは、みんながクビから正札を下げて歩いておるからな、とゆって、いつもブログ記事に出てくるほうでない系統の大叔父が、面白そうに笑ってゆっていたことがあるが、まことに、事実その通りである。
こういうと、日本では「わたしはアメリカに5年住んでいましたが、そんなことはなかった」という人がいそうな気がするが、どーも日本の人は、見ているものが違うひとが多いような気がする。
関係のないことをいうと、むかし、わしがツイッタだかなんだかで「アメリカのまんなかのほうの町は、やっぱり危ないのよ」とゆったら、日本の女びとがふたりで、わたしたちも中西部しってるけど、全然あぶなくない、親切なひとばっかりよ。アメリカンゴシックじゃあるまいし、ばっかみたい、とゆわれたことがあったが、よく読んでみると、このふたりは観光旅行の途中で中西部の町に泊まったというただそれだけのことだった(^^)
そりゃ、観光旅行の途中で寄るだけなら、どこに泊まったって安全に決まっておる。
地元の人間と会話して、ねーちゃんと仲良くしたりした場合に真のコミュニティとの対決が始まるのであって、「部屋ありますか?」「あります」とかいう会話から、どんな危険が生まれましょう。
閑話休題。
最近のアメリカの大都市では「この世は金さ」が上掲の手続きに組み込まれたようなところがあって、社会の深層にくだってゆくと、なかなかSF的です。
信条にも貞操にも値段がついている、というべきだが、詳細は書くのに忍びないので。ここではやめておきます。
一方では、テキサスのダラス、というような町に行くと、まだアメリカ人の「根性」が残っているのであって、前にも書いたことがあるかどうか忘れたが、テキサス人のおっちゃんとバーに行ってチップを2割あげたら、その始終を眺めていた、そのおっちゃん友達が「ちょっと一緒について来い」という。
いいよ、でも、なんのこっちゃ、と言いながらついてゆくと、おっちゃんはいまチップを受け取ったウエイターのところへ歩いて行って、チップの半分を気の毒なウエイターからもぎとって、わしに「こんなにチップをあげるほど、この男は仕事していないんだから、こんなにやってはいけない。われわれの社会が腐敗する原因になる」というのでした。
この白頭鷲のような顔をしたおっちゃんは、わしのいまに至る「親友」と呼んでも良い年長の友人であって、日本人というものを心底憎んでいて、それに関しては何を言ってもダメで、日本のひとが話しかけても返事もしない頑固さだが、その他の点では申し分のない人です。
わしは、このひとに、「テキサス人」というものについて、たくさん教わった。
わしは、むかし、子供の頃、なああーんとなくテキサス美人と結婚するんだったらええなあー、と思っていた。
映画やドラマに出てくるテキサスの女びとのアクセントや笑い方が好きだったからです。
現実のテキサスおんなびとたちも素晴らしいひとびとが多かったのであって、たとえば19歳のときだったと思うがメキシコへの急ぎの航空券を買わなかればならないのに、あっさり断られて、困ったべ、をしていると、窓口の女のひとが、急に上司に向かって怒り出して、「お得意のカスタマーファーストはどこに行ったのよ! この若い人は、どうしても明日いきたいというのだから、なんとかすればいいじゃないの!」とデスクを叩いて言うので、驚いてしまった。
女のひとの勢いで航空券が出てきてしまったので、そんなら何で初めから出てこないのかなあーと思ったが、それよりなにより、そのときも「テキサス女のかっこよさ」というものを思ったものでした。
わしはいまでもテキサスが大好きだが、初めてテキサスに行った頃には、あちこちで翻っていた「ローンスター」の旗(あのテキサスの州旗には特別の意味があって、テキサスだけは州民の意志によって、いつでもアメリカ連邦から離脱する権利を保障されているので「ローンスター」なんですのい)が下ろされて、スターズアンドストライプスに代わっていた。
9月11日以来のことです。
アメリカの苦しみを目の前につきつけられているようで、傷ましい感じがする。
再びスターズアンドストライプスが姿が消して、ローンスターが誇らしげに翻る日が戻るとええなあー、と思う。
4
微細なことについて述べると、アメリカのレストランは、「音楽がダサイ」という特徴があるように思われる。
日本の料理屋は、いまやド田舎の蕎麦屋さんに行ってもジャズがかかっていて、なんでもかんでもジャズで、ヘンだと言えばヘンだが、ジャズはどんな音楽音痴が選んでも一応食欲を阻害しないように出来ているので、音楽でこけまくる気持ちになるということはない。
ところがところがミロンガラドリオ三省堂、yelpやなんかでも推薦されまくっているNYCヴィレッジの某イタリアンレストランは、モニとわしの贔屓だが、ここはビートルズがかかっておる。
イタリア料理で、「ビートルズ」だぜ。
まける。
腰が抜ける。
目の前のラザーニャの皿に顔を突っ込んで呻きたくなる。
いろいろ表現は可能だが、こんな滅茶苦茶な音楽の選択があるかよ、と思います。
で、ね。
マンハッタンのレストランて、そーゆーところが多いのです。
多分、音痴、なのだと思う。
モニとわしは、そのレストランでは音楽が聞こえない屋外のテーブルでだけ食事をすることにしています。
5
しかしながら、連合王国人もオーストラリア人もニュージーランド人もスペイン人も、フランス人も、アメリカ人の話ばかりしている。
「強い国だから」というよりも「オモロイ人達」だからですね。
アメリカ人というひとびとは、初めに述べた「手続き主義」によって、どんどん変わってゆくひとびとである。
わしは、ロンドンのほうが変化のスピードは速いがマンハッタンのほうが人間の変化のスピードは速い、と感じます。
すごおおおく、ヘンテコなひとびとだが、ほろりとさせられたり、ががあああーんとぶっくらこいちんまうようなことがあったり、なんだかハリウッド製の物語を観ているようである。
案外、本人たちも銀幕のなかで暮らしているつもりなのかもしれません。
(画像はいまはない ”St.Vincent’s”
http://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Vincent’s_Catholic_Medical_Centerの跡地に掲げられた星条旗。旗の横の小さな手書きの字は
「DO NOT DEFACE OUR FLAG UNITED WE STAND」と読めます。アメリカの苦しみが伝わってくるよーだ)
肩越しに見た2011年_バックグラウンドミュージック篇
December 10, 2011
今年の始まり頃は何を聞いていたかというと、去年の続きでAna torroja (^^)
http://www.youtube.com/watch?v=DPf0uOMIulE
とか、Aventura
http://www.youtube.com/watch?v=WivMb-s_UHI
のよーなラブソングばっかし聴いていたよーな気がする。
そんなケーハクな、とゆってはいけません。
ほんとうのことを言うと閻魔さまに舌をぬかれてしまう、と仏教説話にも述べられている。
ついでに川の畔で訳のわかんねーバーチャンに服をむしりとられてストリップ・ティーズをさせられると言うではないか。
Concha Buika
http://www.youtube.com/watch?v=xYHvkZnMIMM&feature=related
のごとき、シブイ歌手も聴いていたが、頭は、どっちかとゆーと、風がふくと、ひらひらと踊り出してしまいかねないくらいケーハクだったのだとゆわれている。
わしは、クラブ中が痺れるくらいステップが軽いのでユーメイだからな。
音楽は、本来は、「歌詞」がついてはダメである。
人声を楽器がわりに使うオペラも、ゆっておる言葉が頭にはいり始めると、邪魔なので、
ほんとうは「オペラ語」をつくって、なんだか訳がわかんねー言葉で歌ったほうが遙かによい。
わしは、オペラはイタリア人達が作ったものが最も好きだが、歌詞のほうに頭がいきはじめると、「トスカ」みたいに普段気がふれてでもいるかのように大好きなオペラでもギャグでやってんのか、おめーは、と思ってしまうことがあります。
性格が悪いんだよ、おれは。
ほうっておいてくれたまえ。
音楽は音楽の「定型」だけで完成していなくてはいけないだろーが、流行り歌、というのは、そーもゆかない。
音楽の基本的訓練が出来ていない場合には、チューンをつくる天才でも、それを一曲に渡って持続させる、ということが出来ない。
息切れ、しちゃうのね。
「4小節の天才」とゆわれたビートルズが、これの典型だと思います。
「A Day in the Life」などは、歌い出しのあまりのかっこよさに、ぞぞぞぞっとしてしまう。
「You Never Give Me Your Money」の、音楽を正面から教わった人間なら、金輪際おもいつくはずがない単純で気絶しそうなほど美しい旋律も、そー。
この分野が20世紀に異常な発達を遂げたのは、まず初めに「ドーナツ盤」の3分何十秒だかの制約があったからで、その次にはこのEPのクソ商業主義に嫌気がさした、ビートルズやピンクフロイドたちの25分X2を目一杯使った「音楽」への試みがあった。
一方では、どこの国でも「詩」が廃れまくっていった。
詩があちこちで廃れてしまった理由は、簡単で、詩を読むにはかなり高度な訓練が必要なのに、それを組織的に教える学校が少ないからです。
「詩の解釈はひとそれぞれですから」なんて、「8X8+5は、ひとによって69とも104とも言えます」とまったく等価な恐ろしいことを言うひとがいるが、それは「自分にはまったく詩が読めません」と告白しているのと同じでごんす。
詩の主要な目的は言語を使って「精神の定型」(五七五のような形式上の定型ではありません)を探り当てることであって、この定型に届かない詩は、読めない。
ボブ・ディランという人は、詩のすぐれた読み手だったが自分では詩が書けない人でした。このディラン・トマスから名前を借用するほど詩ばかり読んでいた十代のクソガキは、そこで「チューンを定型の代用にすれば、ちゃんと詩として相手に伝わるではないか」「詩の定型を理解するひとよりも、音楽の旋律に感動できるひとのほうが多いし」と考えた。
ボブ・ディランの、ぶっとぶくらいすぐれた「音楽詩」は、そうやって生まれた。
このひと以後、詩を書く人は、旋律にのせて自分の詩を相手の脳髄に投影しようとするようになる。
「音楽詩人」は、いまは普通の形態なので、日本の私小説の伝統を連合王国で復活したのだとゆわれている言葉寄りのLily Allenから、音楽寄りのArno Elias
http://www.youtube.com/watch?v=Z5QBtQXe4LY
まで、何百万という歌い手やバンドがある。
3月の福島第一事故のあとでは、わしは、マンハッタンの街をモニとふたりで歩きまわりながら、James MorrisonとNelly Furtadoの「Broken Strings」
http://www.youtube.com/watch?v=26PAgklYYvo
をよく聴いていた。
聴いていた、というよりも歌が頭のなかで鳴り続けていたので、歩きながらよく鼻歌で歌うのでモニにからかわれた。
理由は簡単です。
When I love you
It’s so untrue
I can’t even convince myself
When I’m speaking
It’s the voice of someone else
Oh it tears me up
I tried to hold on but it hurts too much
I tried to forgive but it’s not enough
To make it all okay
You can’t play on broken strings
You can’t feel anything
That your heart don’t want to feel
I can’t tell you something that ain’t real
Oh the truth hurts
A lie is worse
I can’t like it anymore
And I love you a little less than before
という、この歌の歌詞が、まるで日本を愛していた日本のひとたちの自分の祖国への気持ちのように思えたからである。
「ほんとうのことを聞かされるのは辛いけど
嘘をつかれるのは もっと酷い」
笑われてしまうだろうが、わしはこの歌を口ずさみながら、放射能の雨が降り注ぐ日本で暮らすひとびとのことを何度も考えた。
大陸欧州に帰る日が近付いてくると、「ブロークンストリングス」でも充分わかるよーに、チョー単純なわしは、マンハッタンのモニのアパートのクッソ高い巨大なステレオセットをがんがんに鳴らして、
Grace Potterの「Paris」
http://www.youtube.com/watch?v=oHlhOgQ36m8
Natasha St-Pier Tant Que C’Est Toi
http://www.youtube.com/watch?v=h5cVH3Hmp0Y
とかを聴いて喜んでいて、またしてもモニに爆笑されました。
でかい音でこの曲をかけながらテーブルの上でビデオの踊り子さんたちの踊りのまねをしてモニを喜ばせたのは、ゆーまでもないことである。
そのくらいの芸がなければダンちゃんとゆーものは務まらない。
5月と6月は英語アタマでは、曖昧な理由によって中国の事を考える事が多かったので、
Sa Ding Dingを聴いていることが多かった。
http://www.youtube.com/watch?v=Cccp-VRd720
おかげで、いまではサ・ディンX2の曲を聴くとレオン王国の赤い荒野が思い浮かぶよーになってもうた(^^)
しかし、たとえばバチャータはスペイン語なのにスペインには全然あわなくてスペインのなああーんにもない田舎道を運転しながら聴けたものではなかったが、サ・ディンディンは、意外や、ぴったりだったのでごんす。
音楽に国境がない、というのは、嘘であるな、としみじみ考えました。
わしはひとりで散歩するときには16Gいっぱいぎゅうぎゅうにはいった音楽をシャッフルにして聴いているが、考えてみると、なつかしい高校生ガキの頃は、ひとつのCDを何度も何度も聴いて、ギターを手に取ればいきなり細部までそっくり表現できるくらい何千回も聴いたものであった。
だから、ある音楽を聴くと、そのときの感情がたちまち蘇る、ということがよくある。
散歩の途中で急に涙がでてきたりして困るが、22歳くらいの頃から音楽を「消費」してもいいや、と思うようになってきた。
消費されない一握りの音楽は、こちらがどんなに使い捨てにしようとしても出来ないということが判ったので安心して聴けるようになった。
ブログで書いたGotyeやGin Wigmore、
http://www.youtube.com/watch?v=_mGVr4uCMCQ
あるいはSmash Proofのような人達は時間のなかでゴミ箱行きになるのか、何十年も経ったあとで、ふと思い出して、ああ、あの歌はあんなにいい歌だったんだな、と思うのかはいまはまだ判らない。
くるまで旅行にでかけるとよく聴くカントリーミュージックには
Lady AntebellumのNeed You Now
http://www.youtube.com/watch?v=1OfsZyYPLoI&ob=av2e
みたいな、なんということはないのに歌詞が頭にこびりついて離れなくなるものもある。
たしかなのは、今年聴いた歌のいくつかは、ずっと後になっても、あのとき福島のひとたちのことを考えながらプラザホテルの前の広場に立っていたのだった、というようなことを、そのときの街の匂いや色彩と一緒に細部まで思い出させてしまうに違いないことで、そういう力をもった魂の「定型」をこれほどたくさんの人間が作れるような形式に辿り着いた「流行り歌」というものは、その辺でえばっているゲージツよりも案外と芸術的なものなのかもしれません。
聴いている時間にすればいちばん長いに決まっているアフリカやインド、中東の音楽は、この記事ではふれません。また別のときに話したい、と思います。









