岡田隆彦は「詩を書く自分」が嫌いだったに違いない。
William Morrisについて書いているときの自分のほうが、遙かに好きだったようにおもえます。
だが岡田隆彦は頭のてっぺんから爪先まで、魂の表面から奥底まで、まるで全身に「詩」がしみ通るようにして、「詩」で全身がずぶ濡れになるようにして、詩人だった。
それも「抒情詩人」という、彼がいちばん嫌いなタイプの詩人だった。
そういう人間でなければ「ラブ・ソングに名をかりて」というような詩を書けるはずがないからです。

「 降りしきる雨の日に
 あるいはまた干からびた冬の日に
 私は変ってしまった
 と言ってくれ
 君の青白い額に唇を重ねると
 唇が青くなってしまうのだ
 こんなものが愛だとは
 どこかの賢人さえも
 僕らの所へやってきて叱咤するだろう
 せめてもこの代に生れたことを喜び合って
 いつものように電車に乗って帰ってくれないか
 いつものように僕は手を振って君の顔を見ているだろう
 君の額は悲しいし
 僕の髪は長すぎる
 あんなにきたないものでないので
 性の話はしたくない
 君と僕との小話は
 不潔な根性丸出しに
 アイラヴユウで始ったが
 結句アイヘイチューで終らない
 ぼやけたものだ
 いつもの花屋に寄る気はしないが
 黙って駅まで歩いていこう
 それから僕は旅に出る
 そこは平たい太陽が今も覆いかぶさっているだろう
 砂ぼこりのたちこめるその里で
 ジンとサンチマンへの抵抗力を作って
 いっぱし月給取になり
 自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう
 もう君は愛してくれないだろうから」

都会のまんなかに生まれた私立大学の学生にとって、1950年代末から60年代初頭の東京はどんなものだったろうか、という質問にこたえて義理叔父が貸してくれた本の一冊が岡田隆彦の詩集だったが、その若い男の心の定型をそのまま切り取って詩にしたような、過不足のないリズム、意識と思考を追って、意識を追い越しもせず、遅れすぎもせず、伴走というには1歩か2歩遅れ気味に、自分の意識の流れについていく詩の数々に、すっかりうっとりしてしまった。
日本語の教科書がわりに、そのまま暗記してしまったのは、言うまでもありません。

二等車、というのはいまでいうグリーン車のことだが、

「いっぱし月給取になり
 自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう
 もう君は愛してくれないだろうから」
という詩句ほど、その頃の学生たちにとって、「社会へはいってゆく」ということが、「人間を捨てる」ということと同義であったり、「違う人間になる」ことであったりした事実を証言している言葉はないが、一方で、
「もう君は愛してくれないだろうから」
というそれだけならば陳腐にすぎる「あまったれた」言い方を、若い日々のあまくて切ない、愛おしいような表現に変えてしまう力が、岡田隆彦の才能だったのだと思う。

「愛はドブのドブ板のようにきれいなだけで
おまえとタマシイしたあとは
詩のうたの思いの 終りのあるところ美辞麗句は
いやらしく 海へびのよう
おまえの裸もおれの裸もあつく
ナッシングへと向うタマシイとタマシイ」(「死ねない光」)

言っていることとは反対に、岡田隆彦がひそかに所持していた日本語にかかっては、性愛ですら、まったく純愛の一部なのだということが自明のことになってしまう(^^)

岡田隆彦は、どこまでも都会のひとだった。

「飛んだ調子 荒れた粒子の映像
見えない非情と抒情の街
あそこにわれらの凄惨な女  荒れた唇
死ぬまでとほうもなく都会のなかで
病のように
暮らしつづけるわれらの男  荒れた心
われらは容れものを空にして
男と女に逢いにいく
われらは吃りながら
別れを告げ
ある時は煙草に火をつけ
帰途につくのだが」(「われらの力」)

「どうしてたやすく 裏切りあい 信頼しあい
傷つけあうことができようか
おれたちは今日の昼食から
なにかを創りはじめなければならない
おまえからもらう手紙には かならず
どこかに判じがたい文字 無視
訊きそこない 言いそこない わだかまる
おまえとは いつか 別れて
ふたたび共にしなくなるまで
どんな些細なことにおいても
憎みあえようか」 (「われらの力」)

「電話ボクスでいら立つわれらの男は
いつか 相手と別れるだろう
かれも おまえも おれも
ひとつの難路でさえも あるならば
人らしく惨憺となっていきながら
鋭意にさがし求めようとするだろう」(「われらの力」)

「きみは女を不満のまま残して
家に帰り自瀆する
きみは自分の腐敗について
多言な考えをめぐらし
やがて眠りに就く
ぼくは今日もスケジュールをたずさえて
行く処へ出かけていく」 (「予定」)

やがて結婚する「史乃」という名前の女のひとのために、あるいは史乃という女びとただひとりのために書いているのだと自分を仮構することによって、岡田隆彦は、このあと、膨大な数のラブソングを書き残してゆく。

「孤独なオーケストラのように
きちがいじみて破裂し
おまえはおまえなのかおれなのか
じぶんの柔い唇にふれても
おれのものだと思えない」(「ひとりの女にささげる恋歌」)

「史乃命」という、すごい名前の詩集さえあります(^^)

まるで「モニと一緒にいること」というヘンタイみたいなブログ記事を書いた、ガメ・オベールのような人である。
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/モニと一緒にいるということ/

岡田隆彦は美術教師を職業にしていた。
美術世界の人に訊くと、案外たくさんの人が岡田隆彦を直截しっていたよーである。
わしは退屈な人間なので「素晴らしい人だったのでしょうね?」というような極くありきたりの質問をする。
そうすると英語で話すことを強いられているせいかもしれないが、一瞬、沈黙して、
「ええ、でも気むずかしい、いつも機嫌が悪いひとでした」というような返事が返ってくることが多かった。
あきらかに岡田隆彦と会うのを敬遠して過ごしていた、というひとにも会った。

どうやら結婚したころから、岡田隆彦の内なる「早熟な少年」が叛乱を始めて、詩人には制圧をまっとうすることが難しくなっていったよーでもある。

岡田隆彦は、やがて、膨大な数のラブソングを書き送った相手の史乃というひとと別れて、離婚してしまう。
離婚が詩人に与えた影響は周囲が自殺を真剣に警戒しなければならなかったほどのもので、教員をしていた大学にも行かず、ホテル・ニューオータニの一室に、まるまる木箱ひとつのサントリーの角瓶ウイスキーとともに閉じこもって、友人にも会わず、何日もすごしていた、と証言するひとに会ったことがある。

詩の中心が、その女びとであることを知っていたので、史乃さんというひとは、どんなひとだったんですか?と訊きたかったが、まさかそんな詮索がすぎる失礼なことは訊けないので、史乃というひとを直截しっているひとにあうたびに、話が出ないかなあー、と心待ちにしたが、
あんまりここに書きたくはない短い否定的なコメントのほかには、誰も何も言ってくれなかった。

大股びらきに堪えてさまよえ、という次に挙げる詩は、うちなる「早熟な少年」をねじ伏せて自分を破壊しないまま生きていこうとした岡田隆彦の決心が、そのまま顕れている。

「道を急ぐことはない。
あやまちを怖れる者はつねにほろびる。
明日をおびやかすその価値は幻影だ。
風を影に凍てつかせるなら 俗悪さにひるみ
道を急ぐことはない。
けれども垂直に現実とまじわるがいい。
厳粛な大股びらきに堪えて
非在の荒野をさまよいつづけろ。
せっかちに薔薇を求めて安くあがるな。
秘匿されるべきものの現前に立ちあい
引き裂かれる樹木の股に堪えて涙なく
こだまする胸の痛みが
深まるにまかせよう。そして、
あの孤独の深淵をひとり降りてゆく。
死の河だから進むことができる。
堪えてすべてを失ったなら 語るな。
蒼穹のごとき沈黙に飛ぶ鳥を見よ。
求める約束にみずからあざむかれ
道を急ぐことはない。」

詩や文学を専門にするひとは、この頃の詩には岡田隆彦が前には使わなかった句点がすべての文にうたれていることに注目すべきだが、そんなことは、ブログ記事ではどうでもいいだろう。

いまは、どうなさっているのですか?
と、訊くわしに、パーティの席で出会った、きらびやかな服を着た日本人の女のひとは、
流暢な英語で、「おや、亡くなったのをご存じではありませんでしたか? 二度目の奥さんとのあいだがうまくいかなくて、とても機嫌が悪いひとでした。わたしなどは、あなた、こわくて近寄れませんでしたのよ。でも、どうして、あなたはお若いのに、あの方に興味がおありになるの?あのかたのウイリアム・モリスの本は英語に訳されていたかしら?」
という。

そのまま、藤沢のほうに住んでいたよーだ、とか、なんだかいろいろなことを述べていたようだったが、もうわしの耳にははいっていなかった。
1939年に生まれた詩人なのだから、死んでいて少しも不思議はないが、なんだかまだ生きているに決まっていると決めていたのは、詩人の日本語が近しいものだったからでしょう。

わしは、その晩、家に帰ってから、頭のなかの「岡田隆彦詩集」をひっくりかえしていたが、どうしてもひとつの詩句にばかり日本語がもどってゆくのに困った。
それは、詩人が長かった頂点の終わりの頃に書いた詩の一部です。
いま初めて気が付いたが、その短い詩句にも句点がついている。
岡田隆彦が言い切りたかったものの正体に触れるようで、なんだか、ちょっと涙ぐんでしまうような気がしました。

「悪い孤独に
涙なし。」

なんという人生を送ったひとだろう。

メキシコ_日本

February 28, 2012


去年の8月にフランスからニュージーランドに帰ってきて、そのままずっとオークランドにいるので半年が経っている。
考えてみると、こんなに長いあいだ一カ所にじっとしているのはひさしぶりで、普段はもっとずっとあちこちをうろうろして暮らしている。

どこかの町に行っても、そこに最低一箇月はいるのでないと話にならない。
一週間や二週間なら、カンクンかプーケのチョーでかいプールがあるホテルに泊まって、
一日中プールサイドでごろごろしたり、プールのまんなかにあるバーへ泳いでいってカクテルを飲んでバーテンのにーちゃんや他の客と話して遊んでいたりするほうがいいと思う。

わしが普段つかっているイギリスやニュージーランドの旅券では簡単にとれる観光滞在許可は3ヶ月の国が多いが、3か月というのはよく出来た期間であるとも言えて、同じ町に3ヶ月いると自分のまわりに「世間」やそれに伴う人間関係がちゃんと出来てしまうので、やや鬱陶しい感じもしてくる。「引っ越してきたばかりの人」になってしまう。

自分ででかけた国のなかで最も、というよりは飛び抜けて変わっていたのは日本だが、自分が知っている社会とかけ離れているという点ではメキシコも変わっていてよかった。
メキシコにはところどころ観光地というよりも観光租界と言ったほうが良いような町があって、たとえばカンクンはアメリカです。
911が起こるまではアメリカ人はカンクンに行くのに旅券がいらなかった。
自分が自分であることを証明するもの(というと随分哲学的だが)があればよくて、運転免許証ですませるひとが多かった。
むかしは貧しい漁村だったところに開発業者が水の色が美しいカリブ海の名前と細い美しい干潟の形に目をつけてコンピュータグラフィックを使って仮想的に町を設計した。
CGを使って設計した町はカンクンが初めてだったが、ホテルのオーナーたちは、それがすっかり気に入ってあっというまに、まるで世界中のリゾートホテルのギャラリーのような不思議な町ができあがった。
カンクンの町を走る、たしか10ペソ(これを間の抜けた観光客が真に受けてほんとうに丁度10ペソで1ドルのアメリカドルで払うことを期待して地元のひとたちは「10ドル」と呼ぶ)のバスで端から端まで眺めて通ってみると、文字通り世界中のホテルが軒をつられていて、ホテルカタログみたいな町です。
http://www.cancun-map.com/maps/cancun-map.asp

前にも書いたが、たいていのホテルはカンクン全体がそれで有名な「all inclusive」で、到着日と滞在日数によって色が異なる腕輪をつけて、ホテル内にだいたい4つから8つくらいあるバーやレストランほかの施設はタダで使えることになっている。
わしなどはケチなので、そんなことをすると、いちばん高いレストランのいちばん高いロブスターばかり食べて、いちばん高いワインを飲み、食後はもっともゴージャスなバーに行って最高価格のカクテルばかり飲みそうな気がするが、アメリカ人は「汚染されても鯛」と日本の諺にいうとおりで、やはりオカネモチの国民であって、ホットドッグを食べたければホットドッグを食べ、高いレストランでは寛げないし、第一高級レストランで異様にみえないために相応なカッチョイイかっこをするのはメンドクサイというので、ショーツとアロハでプールサイドのバーでサンドイッチですませたりする。
「元を取る」というチョー下品な考え方をもたないので、衣食足って礼節を知る、という背が高くて2メートルあった上に儒冠をかぶっていたせいで遙か彼方からでも目立ったに違いない、あの悔しがりな中国人の言葉はほんとーだなあー、と思います。

カンクンのことをうっかり書いてしまったので余計なことを書くと、ホテルリゾートから離れた下町にでかけて行くとわかるが、カンクンはもともとは鮫が名物でむかしはお土産品の代表は鮫の顎骨だった(^^;)
ちょっと沖合までいくと鮫に遭遇するというのは、ふつーのことで、カンクンと言えどメキシコなので防護ネットなんてありません。
鮫はまだそれほど危険ではないとしても、バラクーダがたくさんいる。
賢いわしは出かける前にスーツケースに潜水用具を詰めていたときに妹に注意された、というか嘲笑されたので、もちろん元から知っていたのにたまたまど忘れしていただけで妹に言われて初めて知ったわけではないが、海にははいらず、砂浜で悠然とカクテルを飲んでいただけだったが、あるときイギリス人のおじちゃんが、血相を変えて海の中から全速力で砂浜めざして波間を走りながら
「バラクーダだ! バラクーダだ!」と絶叫すると、そこいらじゅうの人が阿鼻叫喚となって砂浜に殺到するのを眺める機会にめぐまれて、「ジョーズみてえ」、けけけけ、と午後を楽しんだりした。
地元のひとに、泳ぐことあるの?と訊くと、とんでもない、と言う。
鮫やバラクーダがいるからかのい?とたたみかけると、
鮫は正面から向き合えばダイジョーブだし、バラクーダは…まあ、あれは、ほら人生の避けがたいリスクだから、っちゅうようなことを言います(^^)
達観しておる。
達観しているわりには海をこわがって絶対にはいらないが。

閑話休題。

欧州人にとってのカンクンがコズメルで、コズメルの島と対岸のプラヤ・デル・カルメンにはイタリア人やスペイン人がいつもごろごろしている。
ときどきバスで、大陸欧州人に較べると明らかにパッとしない身なりの集団があらわれるが、それはイギリス人である(^^)

わしはプラヤ・デル・カルメンの町
http://en.wikipedia.org/wiki/Playa_del_Carmen
が大好きだったが、2005年のハリケーンと、その影響をうけた不景気で、好きだった店が、どれもこれもなくなってしまった。

中南米の国と同じで、北米のメキシコもイタリア人とスペイン人が多い。
簡単に想像がつくようにスペイン料理やイタリア料理のおいしい店が小さい町でも探せば必ずひとつはあって、メキシコのいいところのひとつです。
メキシコ料理もおいしいが、わしがうまれてから食べたスパゲッティのいちばんおいしい店のひとつはプラヤ・デル・カルメンにあった。
あまりにおいしいので二皿たいらげて、Tシャツの正面におおげさに飛びちったトマトソースをくっつけたまま目抜き通りをホテルまで歩いて、わしを見て大笑いするメキシコ人たちに手を振りながら帰ってきたのをおぼえている。

観光地よりも内陸の古い小さな町のほうが良いに決まっている。
メキシコの教会は、そのへんにころがっている、もったいぶったアメリカや欧州のクソ教会と違って、ほんとうに神様がいそうな「神の家」の匂いがする教会です。
欧州と違って貧困の悲しげな空気に満たされているが、信仰っちゅうのは、もともと、こーゆーもんだったんだべな、と思わせるに充分な空気がある。
「写真撮ってもいい?」と訊くと、にらみつけるようにして「嫌だ!」という子供達や、通りの脇から、じっと見つめているたくさんの目、観光地と異なって全然フレンドリーでないし、第一危険だが、メキシコの田舎町というのは一度訪れると忘れられない独特の場所であると思う。

最後にメキシコにでかけたときはクエルナバカという町で、何日か過ごしただけだった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Cuernavaca

モローレス州の州都で、美しい庭園のある町です。
メキシコ料理のおいしい町なので、毎日レストランにでかけて、夜更けすぎても飲んだくれていた。
昼間はテポツラン(UFOが好きな人は聞いたことがあるであろう)やなんかに出かけて、結婚する前のわしのいつものええかげんさで、ねーちゃんたちと浮かれ騒いでおった。
丁度、いまの麻薬戦争がひどくなり始めた年で、帰りがけに寄ることになっていたメキシコシティのホテルのすぐそばで機関銃を使った銃撃戦が始まったので予定を切り上げてシカゴにでかけたのだった。

それからメキシコに出かけていない。
サンガリータとテキーラを並べて一気のみする、メキシコ人の男どもが大好きなサンガリータ&テキーラを飲みながら、メキシコ欠乏症だなあーと思う。

もうひとつの別世界は言わずと知れた日本で、子供のときに父親の用事で住んでいたことがあり、かーちゃんシスターが日本人のヘンテコなおっちゃんと結婚して、その息子はわしのマブダチなので、メキシコに較べるとぐっと近しいが、ほんとうにこれが同じ地球上の国なのだろうか、というくらい何から何まで違うという点ではメキシコよりもまた桁違いで、どーなってるんだ、と思うことがたくさんあった。

外国人というものはヘンなところで躓くもので、日本とは縁が深いのであるから家を買おうとおもったが、まずのっけから不動産売買の思想がまったく異なるので、そこでもう理解不能な状態になってしまう。
大きな理由として他の国で家を買うときは家か会社の人間に頼むので、そもそも自分でやることはなにもない、ということがあるが、それにしても、そもそも不動産屋の役割が判らない。
不動産屋というものは売り主のために働いて売り主から手数料を取るものだが、日本では「中立」であるとゆわれて、「?」、になってしまった。手数料も売り主と買い主の両方からとるという、ニュージーランドの不動産屋が聞いたら歓喜してアヴェ・マリアを歌い出しそうなことを言います。
おまけに事務弁護士がおらん。
事務弁護士がいないのに、どうやって売買の条件を詰めるのだろう。
全然わけがわからないので、義理叔父にまかせることにした。

そうやって始まった日本遠征計画だったが、やはり無暗矢鱈に面白かったとゆわねばならない。

そのうちに、わしはモニと結婚したが、記憶のなかの日本は子供のときの記憶を別にすれば、いつもモニが傍らにいる日本で、夜中に軽井沢という小さな町の南側に広がる農地にホタルを見に行ったり、やはり夜中の「1000メートル道路」でイノシシの親子をみつけて喜んだりしたのが忘れられない。

ブログ記事で日本についての話がたいてい夜中なのに気が付いた人がいるかも知れないが、モニとわしには5月から始まって10月にやっと終わる日本のチョー長い夏が暑すぎたからで、12月から2月はどうしても気持ちの良い南半球で過ごしたかったモニとわしは、日本の人が「春」と呼ぶ5月を皮切りに日本に出向くことが多かったが、モニとわしにとっては軽井沢でさえ日本の5月の気候はもう夏で、その後は、どう表現していいか判らない「地獄の季節」というべきか、日本でいちばん困ったのは気候の厳しさだった。
気温が高ければ湿度が小さいはずである、というわしの体が保持している信念に反して気温も湿度も高い日本の気候は、笑うかもしれないが、同族のなかでも低気温に適応するように調整されているモニとわしの肉体には、よっぽど不向きで、最後の年、T国ホテルから丸の内警察署の近くの焼き鳥屋に行こうとして、その300メートルが最後まで歩けずに、気分が悪くなって、ひどい吐き気と、わしのほうは尾籠な症状もひどかった。
誇張ではなくて死ぬ寸前まで、あっというまに行ってしまった。
シンガポールやチェンマイ、プラヤ・デル・カルメンでもそんなことはないが、もしかすると町には「夏向きの町」というような作り方があるのかもしれません。

銀座にいくたびに広尾の家に帰らずにT国ホテルに泊まるのを見て、こおおおおのおおおガキがあああ、と思ったひともいるだろうが、ちょうど探検隊が前進基地を設けるのと同じことで、モニとわしにはふつーに必要だと思われたのでした。
前にも書いたが、T国ホテルには外国人専用の会員制度があって、すげー安かった、という理由もあります。
日本のひとが聞くと怒るかも知れないが。

飛竜頭(ひろうす)、という食べ物や焼き鳥が好きだったので、モニとわしは銀座が好きだった。
あとは天ぷらで、白木のカウンタの向こうでいつもニコニコしているおっちゃんからT国ホテルに「お客さんいなくなって、店、暖簾おろすからさ。モニさんとおいでよ」と電話がかかってくると、いそいそとふたりで出かけた。
おっちゃんはまちかまえていて、その前にでかけたときに、あんこが食べられないと言えば、自分でつくったあんこの「羽二重餅」をつくってまちかまえていて、えー、うまいなあー、これ、ほんとにあんこなのか、というと、「相好を崩す」という表現そのままの様子で、おいしいでしょう? あんこってのはね、ほんとうは、おいしいんです、ちゃんと作ればね。おぼえててね、とゆって喜んでいる。
おっちゃんが揚げる天ぷらは繊細を通り越して油であるとはおもえないようなもので、モニとわしは大好きだった。
「あれはね、油がはねるから日本の天ぷら屋は揚げないんだよ」とゆっていた牡蠣の天ぷらを揚げてくれたことがあったが、ニュージーランドやオーストラリアのクソ高いレストランでは定番になったこのメニューで、もっともおいしい、どころか、他の牡蠣の天ぷらなど、所詮はパチモンなのね、といいたくなるほどおいしかった。
他の言葉などなくて、ただただ、すげー、と考えた。

日本にいた頃の記事をいま読み返すと、食事代が高いことばかり文句を言っているが、
ほんとうは、それはフェアでなくて、いま考えてみると、特に日本料理はあれだけのものを出せば、かえって安いくらいのものだったのかもしれません。
福島第一事故が起きるまでは、ニューヨークのカネモチたちがヒマを見つけては日本まで文字通り「飛んで」食事に行っていたわけである。

夜中でも暑いことが多かったが、それでもなんとかなりそうな気温と湿度のときは、すかさず出かけて、ふたりで散歩した。
たいてい深夜零時くらい。
広尾山の坂を歩いておりて、タクシーをとめて、青山や麻布でおりて散歩した。
青山の裏通りには、感じのいいバーがいくつかあった。

外苑も好きだった。
わしはクリケットのみならず野球も好きなので、たまには昼間にでかけて、バッティングセンターに行くこともあったが、モニがバッティングセンターを気に入ったのには驚いてしまった。
モニがボールをうまくライナーで弾きかえすと、わしもなんだか嬉しかったりした。

もう行けないだろうなあ、と思うと、日本は良い国だったなあーと思う。
日本語を書いていると頭が日本人になって、大庭亀夫先生が脳髄のなかの魔方陣のまんなかにあらわれて生前に日本でアッタマにきたことをわしのチョーゼツすぐれた日本語体系を利用して憤懣をはらすが、亀夫おじさんももう、フクシマが心配で、ひとりで日本に帰ったのではなかろうか。
こうやって観光客として日本を思い出すと、変わっていたぶんだけ楽しかったような気がする。

箱根富士屋ホテルの、天井に美しい装飾画があるレストランで、モニが天使のように、という笑顔そのままで微笑んでいる写真が、わしの机の上に載せてある。
写真をみるたびに、なんという美しい人だろうと思う。

わしはこのホテルの「フレンチ・レストラン」でカツカレーを食べた(^^)
2900円もするのを発見して、すかさず不服を述べると、「ガメはほんとにケチだなー」とゆってモニが笑う。
だって、日本式カレーが2900円もしたら犯罪ではないか。
ものには適正価格というものがあるであろう。

でも可笑しそうに微笑っているモニのやさしい光のある緑色の眼をみていると、なんだか世の中の不出来など、どうでもよいような気になってくる。
こんなことをいうと偏執狂のようだが、モニという人は眼の、虹彩の形まで美しい人なのです。

後半はモニが一緒だったせいかも知れないが、こうやって思い出してみると、ちょっと意外な気がしなくもないが、わしは、明らかに日本が好きであった。
なんだか軍隊式の、息をするにも他人の顔色をうかがわねばならないように見える社会とはインターネットでのやりとり以外は交渉をもたないですんだせいかもしれないし、所詮は「よその国のこと」だからなのかもしれないが、ニュージーランドのような国に普段住んでいると、自分の国やよその国、という区別はどうでもよくなってしまう。
もっと言うと、「国」などは、あってもないようなものなので、日本、というときも、それはなによりも従兄弟のことであり、義理叔父であり、鎌倉ばーちゃんや、日本語を通じて知り合った友達、いまはロス・アンジェルスに住んでいるが、まだあのひとが日本のゲーム会社にいた頃、これから跳躍しようとする人の張りつめた顔がみえるような、いまでも何回も読み返す手紙をくれたjosicoはんや、普段はチョコの銘柄しか考えたことのない頭で必死に考えてふたりの小さな子供の手をひいて、フクシマの直後、必死に西に逃げたナス、長いあいだ遠いイタリアに住んでいるのに、まだ日本の旅券をにぎりしめていて、いてもたってもいられない気持ちで原発事故でばらまかれた放射能の危険を日本人に教えようと躍起になって他人の発言をリツイートしくるっているすべりひゆ、もう言葉も聞けなくなってひさしいthingmeurlという、ただツイッタで出会っただけの友達(ツイッタでけでも、誰かを避けがたく「友達」と感じることはあるのだ!と、わしはびっくりしたものだった)、半島人を罵倒するのだけが生き甲斐のオオバカタレなやつなのに、どうしてもどこかに人間の誠実を感じさせてしまう不思議なひとだったwindwalker、
そういう人のひとりひとりの顔や、あるいはthingmeurlならば、顔ですらなくて、たった数回ツイッタで言葉を交わしただけの、その言葉がもっている寂しさの重みだけだが、そういう日本語で息をし、怒り、喜んだり哀しんだりしているひとたちが「日本」なので、日本という国や社会や文化が「日本」であった初めの頃に較べて、自分でも、少しは頭のなかの「日本」が、まともな日本らしくなったではないか、とひとりごちるときがあります。

荒涼

February 27, 2012

狂っている、という言葉を使えば、すべてが終わりになってしまうような気がする。
狂気は相対的社会的なもので、全員が狂っている社会では誰もが正常だからです。
だから狂気についてなにごとかを述べるということは、自分がどこに立っているか、ということの表明でしかない。

ある居酒屋チェーンの従業員の自殺について、第一報を誰かが伝えていて、記事を見ると
「体が痛いです。体がつらいです。気持ちが沈みます。早く動けません。どうか助けて下さい。誰か助けて下さい」という日記が引用されていた。
誰かに聞いて欲しいと考えて、SNSに記事を引用したが、すぐに削除してしまった。

その居酒屋チェーンが日本に行った初めの年から嫌いだった。
格言を引用するのが好きなひと、というのは
ちょっと謙遜するひとをみると「実るほどこうべをたれる稲穂かな」と言いますね、というようなことをすぐ言いたがるが、その居酒屋チェーンの社長は、言葉が出てくるところが、格言を手持ちのトランプのカードから選んで相手に提示してみせれば自分が相手に伝わると信じこんでいる「格言語」を話すひとびとと丁度おなじ浅さから出ていて、自分では相手を感心させる言葉を連ねているつもりなのに、客のほうは、その男の浮薄さにうんざりしてるというような、自分ではやり手のつもりでいて、その実尊大なセールスマンとあまり変わらないひとに思えたからでした。
だからブログ記事にも何度か揶揄(からか)って書いた。

そもそも「いやだな」と思ったもとになったのが「わたしたちは、誠実がモットーなんです。わたしたちの店に来ていただいてメニューのどの品物でも食べていただければ、それが真実であることがわかっていただけると思います」という発言だったので、いちど従兄弟を誘って冗談で行ってみたことがあった。
てらてらと光ったプラスティックのメニューからいくつか選んで、どの品物もたいそうプラスティックな味であるのを確認したふたりは、予想通りの結果に満足して帰って来たものだった(^^)

SNSに自殺してしまったひとの日記を引用してから、たしかまだ日本ではひとが寝静まっている時間であるのに、あっというまに居酒屋チェーンの社長について、間歇泉がふきだすように「そうだと思っていた」という意見がSNSを通してスクリーンにこぼれるように現れたので、そのとき初めて、日本のひとも「皆」がそう思っているのを知った。
へえ、と思いながら削除したのをおぼえています。
そんなにたくさんのひとが知っているのなら、書いてもしかたがない、と思ったのかもしれないし、たくさんの人間と一緒に非難の合唱をするのは嫌だな、と思ったのかもしれない、どちらだか判らないが、自分の気持ちを詮索する習慣がないので、どっちでも構いやしない、ということになっている。

ひとつだけ付け加えておきたいのは、「もういいとしなのだから、病院に行けばよかったのに、バカだな」というひとや「自分なら、そこまで追い詰められる前に会社をやめている」というひとがたくさんいたが、気づかぬうちにそれが出来ない心理状態に追い込まれてしまったから自殺してしまったので、そんなひどいいいがかりはない、と思う。

人間が、非人間的な力、個々の人間を抑圧して、知らず知らずのうちに人間の集団を人間性を破壊する巨大な装置にかえてゆく力に恵まれているのは、なんという皮肉だろう。
ナチを生んだドイツ人は、むかしから、その悪夢を思い出しては、自分達が悪魔であったかどうかをたびたび振り返って検証しなければならなかった。
フランス人の執拗な復讐心が引き起こした一連の経過の自動的な結果、とドイツ人達は考えたがったが、外に向かって言う訳にはいかなかった。
BBCでナチの歴史を繰り返さぬためにドイツ人がおこなった特別授業の様子を観たことがあったが、ひとりの女の子が突然たちあがって、
「もう、こんなのほんとうにうんざり! ナチがドイツ人だったのは判るけど、わたしはナチじゃない! わたしがユダヤ人たちを殺したわけじゃないわ!」と叫ぶ。
観たのが子供のときだったので、番組の内容はあらかた忘れてしまったが、自分よりもいくつか年が上の女の子の「怒りに燃えあがった」という表現がぴったりの透きとおるように青い目をおぼえている。

ドイツ人が帳簿までつくって綿密に丹念に殺していったのはユダヤ人たちだったが、日本人が社会としてのいまを生き延びるために殺していったのは自分達の未来だった。

いまでもフクシマについて話題がでることはある。
昨日も近所に住む建築家がやってきて、先週、道路の側に引かれた駐車禁止の黄色い線の上に駐めてあったクルマがどこから来たか知っているかと訊きにきたときにも、フクシマの話が出た。
どうやらこのひとの両親の家の近くに日本人の一家が越してきたらしい、ということからです。
「政府や学者はたいした危険ではない、と言っているみたいね」というと、そうらしいね、とつぶやいてから、自分に言い聞かせるように、おそろしいことだな、という。

医者も医学の研究者も物理学者も、知っている限りの友人たちはみな、
「安全なはずはない」というが、それ以上の詮索をしない。
実際に安全かどうかも調べないのは、自分の国の話ではないということもあるかもしれないが、どちらかと言えば、原子力を電力発電に使おうと決めたときに、それが事故を起こした場合には未来においてたくさんの人間を殺すにちがいないという予測に立つことを黙契としてスタートしたのであって、その危険を疑うような姿勢の人間には核の力は触れさせないことを常識としている。
だから会話は始まり方も終わり方も、いつも判でおしたように同じで、
「日本人たちは低放射性被曝は安全だということにしてしまったようだ」
「安全なはずがないではないか」
「ひどいな」
で終わる。
その「ひどいな」や「残酷なことだな」には、さまざまな意味合いがこめられている。

昨日、日本語インターネット上のいろいろな発言を見ていたが、もうフクシマから出た瓦礫が安全なのはいつのまにか既定の事実になっていて、瓦礫の搬入を拒むひとびとの「住民エゴ」がどこから来るのかが問題になっていた。
eメールの受信箱をあけても、日本語のメールでは「異常な事態になった」と訴えているのは医師の友達たちだけであって、それも外国に何年か住んでいた研究者に限られるようだ。
もうすぐ、放射性物質が危険だというひとをキチガイあつかいするときがくるだろう。
だがそれは、どう言い繕ってみても「あいつは自由主義者だ」という言葉が最大の憎悪を表す言葉であったむかしの日本と同じ社会があらわれたことを示しているにすぎないようにみえる。

収穫が終わったのに誰も来年の作物を育てようとしない土地は、びっくりするような速さで荒れ地になってゆく。

いまの日本は打ち捨てられた耕地にとてもよく似ている。
かつては太陽の光を争って求めるようにして空に向かって緑の葉をのばしていた輝くばかりの光景が、無惨に刈り取られて、いまはただ搾りつくされて疲弊した大地が広がっている。
一面が整列した緑だった頃には、ここにもたくさんのひそやかな声をもつ生き物たちがあつまってきた。

いまは、やってくるのは、得体の知れない知恵をもった目を光らせて不吉な声をあげて鳴くオオガラスたちだけである。

本のゆくえ

February 26, 2012

かっこわるい部屋が嫌いなので、むかしから本はわしの生活の大敵だった。
数学の本ならば、(良い本であれば)それでひと夏らくにつぶれるくらい効率的だが、困ったことにわしは推理小説や怪奇小説も好きなのである。
翻訳なんて読んじゃダメよ、とあんだけブログ記事やツイッタで言ってるのだから翻訳は読まないが、と続くとわが友ナスどんなどは信じていたよーだが、それはわしのチョーえーかげんな性格のほうを忘れているからで、めんどくさいとヘーゼンと翻訳を読む。
ドイツ語のものを英語で読むくらいは自分でも許せる感じがしなくもないが、中国語を英語で読んだりする。
いけないのではないかと思うが、いけなくてもいいや、ということになっておる。

日本にいったときにはメンドクサイのでロシアの怪奇小説アンソロジーを日本語で買って読んだりしたこともある。
なんだかすごくヘンだったが、奇妙でねじけた面白さがあって病みつきになってもいいな、と思ったりした。
そーゆー極端ないいかげんさが災いして、どこにいってもおよそ「わしの家」と名がつくところには「洪水」と呼びたくなるほどの数の本が並んでいる。

わしの住んでいる家にはライブリがふたつあるが、一個はわしが寝室を改造してつくったもので本棚を自分で作って壁につくりつけた。
それ以上長いと板がクルマにはいらないという、わしっぽい理由で2.6mの高さでつくってある。板の幅は本が3列でラクショーで並べられるくらいにとってある。
棚上棚を架す、というべきか、上に本棚を継ぎ足すための木材も買ってあるが、まだ作ってはない。
いかにもライブリぽい感じの本棚ではつまらんと思って白色で塗ったら、遊びにきた妹にものすごくバカにされた。
救いを求めて日本語ツイッタで書いたら、今度はすべりひゆというむかしからのお友達に
バカにされた。
近所のおっちゃんに散歩の途中で出会ったので、本棚を白で塗ったら、バカにされた、女びとはものをはっきり言うからかなわぬ、と述べたら、頷いて聞いていたおっちゃんが「しかしライブリの本棚が白はひどいね」と、今度はしみじみとバカにされました。

悪趣味で退屈で誰にも愛されない巨大な白い本棚があるライブリは、わし専用なので、ライブリなのにベッドがおいてある。
ヘンなの、ときみは思うだろうが、どうせ白い本棚が壁一面を占めているヘンなライブリだから、ヘンでいいのです。
リムのベッドに寝転がって枕を高くして、というと日本語では違う意味になってしまうが、枕をふたつ重ねて肩を首のうしろにおいて、ずらっと並んだ本の背表紙を観ていると、なーんとなく崩れてきた石版で学者が死んだりしていたらしいくさび形文字時代の図書館のことを思い出す。
本を紙でつくる世の中になってからも落ちてきた本の角に頭をぶつけて死んだ歴史家くらいは、いそうである。

紙の本は、市場での位置、というのは、取りも直さず人間の生活のなかでの位置を変えつつある。
読書人口が減ったというが英語世界で眺めている限りでは本を買う人が減っただけで読書人口が減った、というわけでもなさそうに見えます。

日本では「大学生なら読んでおくべき本」や「ビジネスマンなら読まねばならない本」というようなベキ・ネバ本があったというが、そんな戦陣訓みたいな読み方をされる本のほうは気の毒なことであった、と思う。
本が売れなくなった理由のひとつは、「読んでおくべき本」よりも、やりたい遊び、のほうが大事であると目が覚めたせいもあるだろう。

ツイッタで、このひとはいいなあ、面白いなあ、とか、尊敬しちゃうなあ、と思う人の「フォロワー数」をみると、だいたい200くらいです。
1000くらいになると言葉使いが観客用になってきて、怪しくなる。
わしが見た範囲で言うとgameover1001などという人は、フォロワー数が1000人を越える頃から、ときどき演説をするようになって、見ていてアホみてー、と思うことがある。
一般に日本語ツイッタではフォロワーが1000を越えると言う事が「公論」になってしまって、くだらねーという感じがすることが少なくないよーだ。

世間を流通してまわって消費されているわけではない、自分の頭で丁寧につくった他人の考えを理解できるためには、その考えを以前に自前でもったことがある(考えたことがある)ひとだけであるという。
まったく自分にとっては新奇な、思いもよらなかった考え方に遭遇した場合は通常自分にとって既知のもっとも近そうな考えによって代替的に「理解」されるが、ほんとうはちっとも判ってない、というのがふつーであるよーだ。

多分すぐれた日本語の作家が書いたものを考えや情緒の原型のまま理解できているのも、そのくらいの数の読者だろう、と想像はつく。
1000、に届くのは難しいよーな気がする。

20000、というようなフォロワー数があるのは、無償でエンターテイメントを提供しているよーな人のアカウントで、たくさんのひとの公約数をめざしている点で、あるいは期せずして公約数に位置してしまっている点で、テレビのようなものであるよーにみえる。

これが英語世界になると、10万以上のフォロワー数のひとは(フォロワー数がおおきくなりやすい)実名に限らず仮名でもごろごろいるが、ツイッタの140文字制限がもたらす英語ツイッタと日本語ツイッタの性格の差のせいであろうと思われる。
本で言えばジョーク集、みたいな人が多いのね。
いまみると472万人のフォロワーがいるデミ・ムーア( https://twitter.com/#!/mrskutcher )のように、殆ど自分ひとりでE!チャンネル
http://au.eonline.com/

をやっているよーな人もいます。

考えてみると本もツイッタも情報量や情報を切り取るやりかたが違うだけで、本質において同じようなものだ、とみることも出来るだろーか。
iBooksのようなソフトウエアが出て、仮想的に、むかしの言い方で言うデスクトップパブリッシングが誰にでも簡単にやれるようになったので、発行部数300くらいを目指すような不思議な出版世界があらわれてくるかもしれません。
実際ツイッタで知り合ったビオトープガーデンの泉さんは、iBooksを見てすぐ考えたことは「テキストブックをどんどん作ろうということだった」とゆっておった。

英語世界ではインターネットの接続が高速化したばかりで、グーグルがインデックスサイトとして地歩を固めた当初は紙出版人は「雑誌はダメだが単行本はなんとか生き延びそうだ」と言い合った。
しかし、そう言っていられたのは2000年から数えてせいぜい10年であって、去年マンハッタンのパーティであった出版人のおっちゃんは、「飛び出す絵本」
http://playonwords.com/blog/2010/06/06/super-pop-up-picture-book-of-peter-pan/

で一発あてるしかねーな、とやけくそなジョーダンを言う。
投資家向けの期末報告を動画ですませる会社が多くなった。
動画とは別に文書もついてはくるが、数字も含めて動画を見ればすむようにしている会社のほうが優秀な会社が多いように見える。
一般向けの経済レポートのようなものでも動画のほうが普通になってきた。
http://www.imd.org/research/publications/wcy/World-Competitiveness-Yearbook-Results/#/wcy-2010-rankings/

第一の理由は現代の生活は忙しすぎて時間の絶対量が足りないからで、いちどきに大量の情報を送るとなると動画のほうが活字よりも単位時間の情報量が絶対的に多い。
第二は英語の普及。
大量の情報の翻訳、という手間がなくなった。

ツイッタでも、ちっとだけ述べたが、たとえば「日本の歴史についてベンキョーしてみるべ」と思っても、本を買う、という人は少なくなった。
概説にあたるところは、動画のほうが判りやすいし二時間もあればたいていのことは概観できるので、DVDのほうが簡単です。
福島第一原子力発電所事故の経過についてお温習いしようと考えたわしは、広島に落とされた原爆についてもお温習いしておくべ、と考えた。
本はメンドクサイのでBBCかなんかでドキュメンタリがあるべ、と思ってさがしたらやっぱりありました。

http://www.amazon.com/BBC-History-World-War-Hiroshima/dp/B000F4RH8Y

DVDだと12ドル(960円)なのでたっけええー、と思うかも知れないが、この右下をよく見るとアマゾンのプライムストリーミングで見ると、タダであるのが判る。
肥田医師や絹子ラスキー、エノラゲイ機長のポール・ティベッツもインタビューされて出てくる、このドキュメンタリがあまりに面白かったので、「ヒロシマ」というブログ記事を書いてしまったが
http://gamayauber1001.wordpress.com/2012/01/25/ヒロシマ/

比較的質の高い情報がコンパクトな時間(2時間)で、ジムで運動しながら、ケチンボなわしにとって重要なことにはしかも無料で手に入る、ということにあらためてカンドーしてしまった。

オモロイと思うのは、むかしから「陰謀説」というのは人気があって「JFK暗殺の謎」のようなものは60年代から無数にあるが、この分野はほとんどそのまま動画に引っ越してしまった。
あるいは本にたくさんのオカネを払う習慣がないひとたちに「陰謀説」は支持される傾向があるのかもしれません。

紙本の行く末が儚くなりそーなもうひとつの理由はコストで、
もうだいぶん長くなってしまったので、いちいち例を挙げることはしないが、ちょっと読者数が少ない分野の本になると、日本では2500円くらいの本がキンドルでは800円くらいである。
自分の購買行動を考えても、最近、紙で買うのは詩集を別にすればデジタルではまだ商売にならないらしいオベンキョーの本ばかりで、いまこれを書いているときに最も最近読んだ本というと今日の朝読んだ Nassim Nicholas Taleb のThe Black Swanだが(^^)
いまみると、わしが読んだキンドル版は800円だが、Audio CD 2900 円 Hardcover1500 円で、日本語版は3780円です。

紙の本はなくなりはしないが、どんどん特殊な存在になってゆくだろう。
自分のことを考えると、わしは詩集は紙の本のほうが好きなよーだ。
あとは、のおおおおんびり読みたい本、ホメロスやプルタルコスやカエサルの書いたものは、紙のほうが気分がよろしい。
庭の木陰にでかけていって、太陽に照らされて一面輝くばかりの芝(ちょっと伸びすぎてはいるが)を見やりながら、盾を二列に並べて、そのあいだに身を潜ませながら両側から襲ってくるゲルマン人たちと激闘する古代ローマ兵たちの物語を読むには、どうしても紙のほうが良いようだ。
書籍がデジタル化されるにつれて紙の本はますます値上がりしていくだろうが、ジジイになる頃には、ぬわあに、羊皮紙に較べりゃ安いもんだぜ、と痩せ我慢をして、一冊6万円とかの本を、不機嫌を極める顔でチェックアウトの店員に差し出しているかもしれない。
そのときには、本がまたむかしの「モノとしての本」の伝統を取り戻して、息をのむような美しい革装に、ペーパーナイフでいちまいいちまい新しいページを切り開いてゆく、えもいわれない紙の良い匂いがするあの一瞬を再現してくれればいいなあ、と思うだけです。

Made in Occupied Japan

February 25, 2012

子供のときにほんとうは入ってはいけないことになっている、食器が収納されている部屋にもぐりこんで遊んでいたら「Made in Occupied Japan」と書いてある食器があって不思議な気持ちになったことがある。周りにおかれている磁器や陶器からすると、ちょっと安っぽい感じがする(ごみん)食器で、捨ててしまったのかどこか奥深くにいってしまったのか判らない、このあいだ両親の家にでかけたときには、もうなくなっていたが、多分、ノリタケであると思う。
高校生の頃にふと思い出して、調べてみると、蒐集家がたくさんいるひとつのカテゴリーをなしている陶磁器の分野であって、へえ、と考えたりした。

アメリカにはコレクターが多いので骨董店でみかけるものも、ずいぶん不当な値段がついている。
オーストラリアやニュージーランドの、小さな町のそのまた外れにある、60年くらい前の普通の生活必需品を新品よりも少し安いくらいの値段で売っている骨董店に行くと、同じ程度のものがアメリカの半額以下で売っている。
いつかモニが面白がって手にとってみているので、一枚だけ買った大皿が、この家にもどこかにあるはずである。

日本は戦争に負けた国である。
あたりまえではないか、と言う人がいるだろうが、日本に行ったときのことを考えると、到底あたりまえと思えるようなことではなかった。
わしが日本にたびたび出かけた5年間は、2005年から丁度福島第一事故が起きる前の年の秋までで、20年近く続く社会と経済の停滞に日本が苦しんでいた、その断末魔だったが、それでも絶対的な豊かさはたいへんなもので、広尾山の家でも軽井沢の「山の家」のまわりでも、欧州人には理解できない数のランボルギーニやフェラーリ、ポルシェがたくさん走り回っていて、モニとふたりで食事をすると4万円は確実にかかる料理屋は、しかし、金曜日の夜ともなれば満席で予約をしなければテーブルがとれないこともあった。

1945年、日本で、あるいは日本が植民地化したり、傀儡化したりしていた地域では、
日本という国家の集団サディズムの代価を、サディズムの中心であった軍人と官僚の代わりに、(軍人や官僚は「内地」にとっくに遁走していたので)日本の普通の市民が文字通り身体で支払わされていた。
戦争に負けた側が判で押したようにうけるたくさんの殺人と強姦があった。
他の国にも共通の傾向があるが、日本は自分が被害者になった記録をことさらに隠しとおす。
アジアで言えば儒教諸国のように大声で被害を言い立てる文化をもたないので、たとえば「南京虐殺はなかった」と言って世界中の国から恥知らずぶりを攻撃される一方で、自分達が受けた集団強姦や殺戮の被害は、「貝のように」口をつぐんで、その苦しみが共有できるもの同士で、ひっそりと語りあわれるだけだった。

アメリカ占領軍による性犯罪ひとつとっても、「ほとんどなかった」という、たとえばいまのイラク人やアフガニスタン人に対するアメリカ人たちの態度ひとつみても「空想的」としかいいようがないことを「統計に基づく史実」として述べてあるが、到底、信用するわけにはいかない。
聞き取りにくい声、とこのブログ記事でもtwitterでも何度も同じことをいうが、
だいたいにおいて打ち負かされた側、踏みつけにされた側の真実は、打ち負かした側、足で相手の顔を地面に押しつけるようにして勝ち誇った側が、「証拠をみせろ」
「典拠はなにか」と常にあざけって冷笑するように、ほんとうの絶望の淵においこまれたものの声など、「証拠」を通して聞こえてくるわけはない。
ではどうすれば聞こえるのかというと、退屈で読むに値しない、とされていて、実際に読んでも日本語もおぼつかない文章が多い「自分史」の本や、まったく関係のない事件、たとえば犯罪の犠牲者の証言の途中で、突然、「私は米兵に連れ去られた過去があるのを夫に隠しており…」というような言葉で語られる。

日本社会には「キズモノ」を忌むという無惨な伝統があるので、外国人に強姦されたなどということは、絶対に認められない事件であったのは、いまの日本社会も本質的に同じなので、理解するのに努力はいらない。
「耐えがたいほどの痛みを共有してゆく」というのはほとんど家族だけがもつ機能だが、
日本の家族には歴史的にそういう機能が欠落している。

日本国憲法はアメリカ軍が日本人の手をわしづかみにして自分の思い通りに書かせたものであるのに決まっていたが、それが事実として認められることは長いあいだ忌避されていた。
ひとびとは、アメリカ人の風俗をデッドコピーして勝者の生活に憧れたが、70年代を通じて社会が自身を取り戻すにつれて、そういうこともなくなっていった。

日本が破滅的な敗北から気を取り直すのには凡そ40年という時間がかかったことになる。
日本の60年代、というような時代を調べて時間をおりてゆくと、ヒットチャートにはアメリカの曲がたくさんある。
1963年のヒットチャート1位にある「ヘイ・ポーラ」
http://www.youtube.com/watch?v=tVUNbdQ-cDY&feature=related
は、Paul &Paula
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_%26_Paula
の「Hey Paula」だろう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hey_Paula_(song)

一方では、
天皇という神格化された絶対王権(昭和天皇は王とは異なりイギリス王室と同じようなものだった、というが、何冊か本を読んだ限りでは、あとで天皇を守るために作り上げた解説のように思われる。ジョージ6世などは、あんなものすごい権力を与えられたらどもりどころかひとことも話せなくなっていたのではなかろうか)をアメリカ人の手で否定された日本人たちは、やや原理的と呼びたくなるような占領軍の行政官たちのリベラル思想に基づいて「戦後民主主義」を築いていった。

「鉄腕アトム」というアニメを観ると、当時の日本人の切実で「哀切」という言葉を使いたくなるほどの民主主義への希求が感じられる。
日本人なら誰でも知っていることらしいが、ロボットを日本人と読み替え、傲慢で独善的な人間たちをアメリカ人ないし欧州人と読み替えることによって、日本人は「この世界で日本人であることの意味」を懸命に問うていった。

敗戦国では「素早く口をぬぐった者」が機敏に良い席を占める。
日本のひとが信じているのと異なって、ドイツでも事情は似たようなものだったが、
日本でもレッドパージが終わると、続々と国家社会主義者たちが支配層にもどっていった。
前にも述べたが、その象徴が岸信介・佐藤栄作の兄弟であったと思います。

日本にいてよく考えたことは、日本人にとっては「社会意識の底」とでも呼ぶべき場所では未だに戦争に負けたことがトラウマになっていることで、ややびっくりするほどの「白人の人種差別支配」に対する、中国人や半島人、インド人に較べれば桁が違うほどの過剰な反応や、中国人たちの南京虐殺への言及への、跳び上がって、いてもたってもいられない、というような過敏な反発、あるいは極く最近まで続いた「英語を話す人間への敵意と嫉妬」という不思議な社会的傾向に至るまで、戦争が影をおとしている、と思うことがあった。

日本にとってやや運が悪かったのは、「戦後民主主義」という、バランスを欠いていて世界の他の民主主義からみると特殊だが、疑いもなく個々の日本人を、人間を神として崇めるという古代的な後進性を核にもつ全体主義の桎梏から解き放って明るい気持ちにさせた、自分達の魂にとっては太陽にも等しい思想が、自分達が「人間」であることすら否定する勝者の手によって犬に餌の肉を放り投げでもするように投げ与えられたという、国民としてはこれ以上ない屈辱と一緒に訪れたことだった。

さまざまなものが敗戦後60年を経て恢復された日本で、最後まで破壊されて復興されなかったものは「倫理」だった。
昨日まで「一億火の玉となって英米人に痛撃をくわえる」
「神州の大義に則って怨敵を討ち晴らす」と威勢良く述べていた支配層が、1945年8月15日というたった一日を境に、これからは民主主義の一翼を担うのだと言いだし、
アメリカ人に見られては都合が悪い箇所を黒々と墨で塗りつぶした教科書を手に、ほんの昨日まで「天皇陛下のために死ぬことがわれわれのつとめだ」と繰り返していた自分の大好きな教師が、敗戦のあと教室へもどってみると、「みなさん自由と民主主義の時代が来ました。アメリカのお友達に学びましょう」という。
天皇陛下そのひとも、昨日までは神であったはずで、仰ぎ見ることすら許さない「龍顔」をやや仰向けて崇拝の対象として君臨していたのに、「いや、わたしは人間だから、神様だったときの責任はとれないね」といって、すたすたと奥へはいってしまった。

前にも書いたが、むかしボランティアで日本から来た留学生の手伝いをしているときに、
「援助交際」という名前の売春をしたことがある日本からの留学生がびっくりするほど多かったのでなんだか非現実的な気持ちになったことがあった。
日本の女の高校生たちの「援助交際」は、英語世界でもすでに家庭の話題になるほど知られていたが、どうせマスメディアがもともと「いかれた」イメージがある日本社会について面白がって作り上げたお話だろうとたかをくくっていた。
ところが、到底売春に及ぶなどと想像もできないタイプのマジメな高校生が自分の身体を遙かに年長の男達に売り渡して金銭をうけとった惨めな経験をカウンセラーに告白する。
自分達は気が付いていないが、潜在意識のほうは、意地悪にもちゃんと記憶していて、
意識にのぼらないところで本人を責めさいなみ、まるでお前の肉体など絶対に許さないとでもいうように、さまざまな症状を引き起こして苦しめていた。

もちろん女子高校生の倫理の欠如、などという譫を言っているのではない。
高校生には「判らない」という状態はあっても倫理などありはしないのは、自分のことを考えてもわかる。
十代の人間は、ただ突き動かされるようにして生きているのであって、ただ無我夢中で荒い急速な流れをかけおりるラフティングに似ている。
高校生たちの思考にはまだ社会がおおきく浸潤している。

そうではなくて自分からみれば子供にしかみえないはずの十代の女の高校生にカネを渡して売春という精神にとって破滅的な影響を与える蹂躙を平気で行う社会のことを言っている。
個人としての性の購買者のことをすら述べているのではなくて、「援助交際」といういかにも現実に顔をそむけて軽薄な、良心というものをもちあわせない狡猾な男の表情を思い浮かべさせるような、この世界に真実などないのさ、と嘯いている声が聞こえてくるような売春の別名を思いつかせる世界に「倫理」などあるわけがないのを思って、ぞっとする、ということを言っている。

「就活」といい今度は「婚活」という。
ないごとにもマニュアルを準備して、心や思考の手前で処理しようとする。
原子炉が崩壊しているのに「直ちには健康には影響がない」という。
まるで見繕った修辞によって世界を塗り替えられるとでもいうような、ちょうど、古代ギリシャ末期の職業詭弁家たちの繁栄を許した社会を思い起こさせるような倫理の零落ぶりである。

1945年のアメリカ人の手による空からの徹底的な破壊は日本人の心のなかを最も壊滅させた。
1964年、アメリカでさえ忌み嫌われた残忍な、もうひとりのサディスト、日本人を全部焼き殺してやると公言して日本焦土爆撃に臨んだカーチス・ルメイに、日本は這いつくばって支配者の泥のついた靴をなめるひとのようにして、勲一等旭日大綬章という勲章を与えることで讃えたが、カーチスルメイが焼き尽くしたのは、火の粉で松明に変わった小さな子供の肉体であるよりは、日本人が拠ってたっていた歴史的な「内なる伝統」だった。

日本の戦後の繁栄の歴史は、見る場所を変えて眺めてみれば世界史に稀な精神の混乱の歴史であると思う。
福島事故によって、まるでやっと目覚めたひとのように、姿勢を変えて正面から、(実は1945年から、そこに放置されたままの)たくさんの問題と日本のひとが向き合うようになったのは希望であると思います。
いまの困難な作業を社会が終えたとき、そのとき初めて家庭の飾り棚で、骨董店の倉庫で、あるいはギャラリーの陳列棚のなかで、世界中のoccupied japanが音を立てて砕け散るのだと考えました。

Sei matto

February 24, 2012

エンリコ・フェルミは、ローマの人で、20世紀を代表する科学者のひとりです。
理論にも実験にもすぐれていて、ほぼジョーダンのようなひとであった。
マイケル・ジョーダンのようにバスケットボールで超人だった、という意味ではなくて、物理学の世界で非現実的なくらいの才能を発揮したひとだった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Fermi

人間の歴史上、最高の科学者は誰か、といえば、イギリス人なのでべたぼめするには甚だしく都合が悪いが、アイザック・ニュートンに決まっている。
ニュートンというひとは、神様のやることを微分してしまった初めのひとであって、その「微分」といういまでは世界を理解するためには人間にとって最低限不可欠で絶対に必要になった道具を使って、たったひとりで世界を初めから最後まで説明してしまった。
2番目、ということになると、候補が200人くらいいると思うが、フェルミはフォン・ノイマンやアインシュタイン達と並んで、最後の5人にはいるくらいのひと、と言って間違いにはならないだろう。
わしが物理を教わった先生はフェルミを2番目に偉大な科学者だ、とゆっていた。
2番目だったらアルキメデスちゃうかなあー、と不服に思ったので、よくおぼえている(^^)

ツイッタで、「光より速い素粒子」が誤りかというニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120223/t10013237921000.html
について、「イタリア人なんかに機器を扱わせるから実験を間違うのだ」という、なんだか「日本人の傲慢」を絵に描いたようなコメントを見てぶっとんだが、それに同調して笑ったひとも多かったようだった。
わしは思わずカッとなって、たったひとりのフェルミも出なかった国のくせに、くだらねえことを言って得意がってんじゃねーよ、と悪態をついてしまった。
まことに心性として下品である。
温和で成熟したおとなであることをもって四海に鳴るわしとしたことが、はしたないことであった。
ツイッタでイタリア人を小馬鹿にしていたのは防衛省の元役人のおっちゃんだったが、いまだにハーケンクロイツのお友達なのが誇らしくてたまらなかった軍国のむかしを懐かしんでいるらしい日本の自衛隊の雰囲気がよく判るような発言だと感じました。

恋人と母親を同一視してしまう不思議な習慣や素材を重視する料理への考え方において、イタリア人と日本人は似ていると思うことがある。
英語圏では男が女の乳房にふれることは女が男のち○ちんに触れることとまったく同等であって、男が女の乳房にあまえて吸い付くなどという不気味な愛情表現はありえないが、イタリアの男には、そういう人もいそうな気がする。
「20年も一緒にいれば、女房なんてかーちゃんみてえなもんだから」というようなことを、イタリアの人はおおっぴらにいう。
ふと思いついて「日本では実際に、『かーちゃん』と呼ぶのよ」というと、さすがにぎょっとしたような顔になるが、すぐに笑って、「気持ちわかるよ」といいます。
英語人なら、「そういう気持ち悪い話題を口にだして言うなよ」と考えて顔をしかめて返事をしないところである。

なんだかものすごくマジメなのに一方で破天荒なくらいデッタラメな印象も、日本とイタリアは似ている。

観察していると、日本のイタリア人に対する感覚は、たとえばドイツ人のレッドネックが言うことのオウムの口まねに過ぎなくて、「イタリア人はなまけものだから」というようなことを述べることによって、あたかも自分がドイツ人並である妄想にひたるものであるらしい。
ひどい「西洋コンプレックス」(という言葉は、もう死語だべ、と思っていたのに)に陥っているおっちゃんやおばちゃんたちほどイタリア人を小馬鹿にしたような冗談を言いたがるようで、それをネタに先進文明人ぽく盛り上がるのが好きなよーだが、横で見ているわしのほうはゲンナリしてしまう。
カンベンしてくれ、と考える。

理由は簡単で、わしはガキンチョのときからイタリアとイタリア人の築いた文明を途方もなく尊敬しているからです。
いま、われわれが西洋文明と呼んでいるものは、要するにローマ人がつくった文明のことである、という大枠もあるが、何よりも、たとえば父親のイタリア人友達の家を訪ねていけば、階段のてすりには精妙で典雅な彫刻が一面にほどこされ、息を飲むような壮麗なデザインの壁紙があって、室内が一個の美の宇宙をなして、「美の洪水」と呼びたくなるような空間をつくっている。
町を歩いても、イタリアに行って、多少でも観光地でない下町を訪れたことがあるひとなら誰でも見知っている3輪のトラックや、道路の脇にさりげなくとめてあるビアンキの美術品に最も近いモーターサイクル、フロレンスの間口一間で、ほんの少しの空間を店にしてあるだけで後ろに広大な工房がひろがる職人たちの店の傍らに飾ってある得も言われぬ形の靴や鞄、人形、文房具。
イタリア人がもっている「美」への偉大な感受性は、現代の工業製品にも活かされていて、そこへいくとイギリスやドイツなどのイタリアに較べれば圧倒的に文明が遅れている国の製品ときたら、「機能的」と言い訳することになっているデザインができないことへの体裁の良い言い訳でつくられた不格好な外見に、残りの特徴は「壊れない」という頑健で病気をしないのだけが売り物の農夫の美点じみた売り文句だけである。

言うまでも無く「典雅」や「優美」というようなものはイタリア人のものであって、夏の保養地ひとつにしても、コモの湖に行けば、他のアメリカや欧州の保養地のような地域全体が見るにたえない安普請な書き割りじみたいまできの開発とは異なって、そもそも保養地というものがどういうものであったかを教えてくれる。

オペラひとつとってもワグナーが大好きな日本のひとの趣味は、それはそれでいいに決まっているが、わしはミラノ人のジュゼッペ・ヴェルディやトスカナ人のジャコモ・プッチーニのほうがワグナーの百倍は好きである。
もっともそれは「軽み」や「弱々しい線で描かれた繊細」がないところには文明を感じない、わしの感じ方の問題が大きいのは自分で知っているが。
ワグナーも、付き合いでときどきは聴きに行くが、あんまり伽藍っぽい音楽を聴かされると、つい、ダッセエー、肥だめの臭いがするわ、とかいけないことを考えてしまう。
ワグナーのクライマックスで、緊張の面持ちで陶酔している観客席のまんなかで、ひとりでつまらなさそーにしている態度の悪い顔のガキがいたとしたら、わしであるに決まっておる。

ちびガキンチョの頃は、両親の強制お供で、あんなマクドもタイムアウトもないとこに行くのやだなー、だせー、と思いながらよくひきずられるようにしてイタリアへ出かけた。
着いたら着いたで、ぺらぺらとイタリア語をよくしゃべる妹を横目に、くっそー訳わからん言葉でしゃべりまくりやがって、おしゃべりな国民だのおー、と、まさか口には出さないが心のなかでは悪態ばかりついていた。

それがだんだん「文明」というものを理解できるようになってくるにつれて、自分達が作っている万年筆について「熱狂的」というしかない態度で「お若いひと、お若いひと」と繰り返し呼びかけを挟みながら、わしのような愚鈍なガキに二時間も熱心に説明してくれるおっちゃんや、相手は子供であるのにはにかみながら、テーブルにゆるゆると近付いて「料理、おいしいかい?」とゆって、おいしい、というと、これもあれも、と料理屋のおごりで出してくれた若い料理店主、夜の山の斜面にぽつんと小さな灯がともっていて、何も書いていない、ツタにおおわれたドアを開けると壮麗なインテリアの広大な空間がある田舎町のレストラン、
二年も経って訪れたのに、「まあー、よく来たわね!元気だった?風邪はもうなおったの?」と大喜びで迎えてくれる村のひとたち。
フクシマの原発の話をして、でも、日本の科学者は安全ってゆってるみたい、と言うと
「安全でも、わたしはやっぱり子供達が心配だよ。どうして逃がしてあげないのかねえ」とゆって、俯いて、すっかり涙ぐんでしまっているおばちゃん。

コモの村では夏には、中世騎士時代のトーナメントやヘイスタックを転がして競争する中世以来のスポーツ大会、あるいはむかしの農機具や家具をひっぱりだして、中世の服をみなで着て生活を再現するフェスティバルがあるが、そうやって「文明が2700年前くらいからずっとまっすぐに現代に続いている」、重層的というよりは、たおやかな流れのような明るい文明の感じは、当然、ところどころで断絶した文明の切り口の黒々とした傷がのぞいている連合王国のような国とは違っていて、イタリアという文明のすごさを感じる。

そーゆー小難しいことを並べられて、ブンメイ、ブンメイって、カステラのコマーシャルみたいなことゆわれてもねえ、という、そこのきみ、きみは、そーであるなら、えっこらせと腰を上げて、北でも南でもかまわない、イタリアのどこかの小さな町へでかけてみればよい。ちゃんとクルマや鉄道に乗ってでかけてゆく、小さな町や村でなければダメです。
ロンバルディアのようにもともと富裕な土地がらのところのほうが、あるいは、初めての旅行者にとっては、とっつきがよくていいかもしれん。

入り口の感じでおいしいそうだと判る、観光客がいない地元のひとで賑わっている店は、よそ者には入りにくいが、勇気をだして入れば、あるいは言葉が全然できなくてもイタリアの人はちゃんとにっこり笑ってテーブルに案内してくれる。
メニューをあけると、日本のイタリア料理屋に較べて妙に安いピザや妙に高いパスタが並んでいるでしょう?
運がよければ、えっ、なんで卵二個がトマトソースに浸かってるだけの料理が、こんなにすんだよ?というようなトマトソースの料理があるだろう。
値段にすればパスタの二倍、ピザの四倍くらいする、その料理を頼んでみるがよい。
ト、トマトって、こおおおおんんなに旨いのか、というような濃厚な、しかも「何か」がはいっているせいで天上の味がするので、きみはぶっくらこいてしまう。
おかーさんの味、なんだぞ、あれ。
2000年以上、母親から母親、姑からお嫁さん(^^)、おかーさんから娘、に延々とうけつがれてきた味が、トマトソースに化けて、きみの目の前の皿のなかにある。
きみやわしには触れてみるまでは価値がわかりにくかった、スープ皿のなかにも、町のところどころにある水飲み場にも、敷き詰められた道の舗石にさえたゆたっている、よく目をこらしてみなければみえないもの、あれこそが「イタリア」なんですのい。

ほんでわ。
Buon divertimento!

おおきなお世話

February 23, 2012

「除夜の鐘 俺のことならほっといて」というのは中村伸郎の有名な句だが、
この小津安二郎がたびたび起用したせいで外国人たちにも馴染みの深い俳優は、連合王国かニュージーランドに生まれれば、さぞかし幸せだったろう、と思います。

イギリス人は、日本人が自分達に似ていると思っていると言われるとびっくりしてしまうが、それには「日本人の集団主義」対「わしらのひとりでできるもん主義」という重大な対立、という観念的で、根拠を問われると「戦争のとき」なんたらで曖昧な、わりと由来がええかげんな信念があるからだと思われる。
イギリスに住んだことがあるひとは知っていると思うが、イギリス人から見た日本人は、日本人から見たイギリス人と丁度逆で、「自分達と全く異なる対極にいる人間たち」であろうと思う。
正反対、と意識されている。

ひとりでできるもんな自分達の社会の基本的なイメージが、社会と個人の関わりで、イギリス人やニュージーランド人は、
社会に対して「ほっといてくれ」といつも思っている。
なにしてよーが、わしの勝手だろーが、と考えている。
それが社会の基本的な感情なのだから、態度の悪いやつが多いわけである(^^)

他人をかまうことが人生の一部と信じていて、他人も自分を自動的にかまってくれるものだと確信しているアジアからの移民のひとが欧州に来ると、この「わししかないのよ」に押しつぶされてしまう。
あまりの自己中心主義に辟易してしばらくすると欧州社会を心から憎むようになるひともいる。

もっとも当の欧州人のほうは、お互いを自己中心主義、と意識しているわけではなくて、「そんなもんだろう」と思っているだけです。
アジアの人のほうを、「どうして、このひとは自分というものがないのだろう?」と思っている。
偏見は判断のエネルギーを節約する、という。
めんどくさいので、アジア人=自分がないひとびと、というふうに決めてあるひともたくさんいるよーだ。

大陸欧州人の心の根底には「人間がお互いに分かり合うなんちゅうことがあるだろうか?」という深いわだかまりがある。

通常の状態では、言葉やなんかで人間がお互いにわかりあえるなんて、あるわけねーだろ、と思っている。
正常なときはそうである。
ところが、稀に感情が爆発したりなんかして、いっちょう他人とわかりあってみるか、とおもうことがある。
恋人同士、夫婦のあいだですらそうだが、一緒に住んで同じベッドに眠って、もしかしたら分かり合えるかも知れぬ、と考えて自分の一生をかけた実験というか冒険にのりだしてみる。
全身全霊、というが、文字通り、そこまでの一生で積み立てた魂のエネルギーを全部おろしてきて、全部費消する。
はたからみていると、なにもそこまでやけくそにならんでもえーのに、と思うくらい欧州人の恋愛はすべからく大恋愛である。
だから「別れる」ちゅうようなことになると、大たいへんで、人生がぶっこわれてしまう。

いつか同じような話をしたら、「その割にはアメリカ人とか、ほいほい別れて気楽なもんだよね」という日本のひと(男・40代)がいたが、まことにケーハクな嫌らしさ、というべきで、なにからなにまで、というのは財布から魂まで共有して、それが100%できないと感じれば一緒にいられない、と思う、という切実な気持ちがわからない、というのは驚くべき鈍感さだと思います。
ほんとうは欧州人とアメリカ人では、ずいぶん「結婚」「恋愛」について考えが違うが、どちらにも共通しているのは、離婚などは死ぬ直前まで行ってしまうほど思いつめて、ぼろぼろになりながら行う。皆が身にしみて極限までいってしまう感情の激しさと魂を抉りとられてしまうような痛みを知っているので、当のアメリカで「気楽に」などと言えばよってたかって殺されるかもしれない。
日本でも若い人はふつーに「我慢なんてとんでもない。何度でも別れてやりなおしたほうがいい」というが、たいへん良いことだと思う。
きっと、他人へのもぐりこみかたも真剣をきわめたものなのでしょう。

日本にいたときには、楽しいことやおもしろいこともたくさんあったが、
「余計なお世話じゃ」と思うこともたくさんあった。
高速道路を走っていて横断橋に「注意!」で始まる警告が書いてあるので、前を見るのをあきらめて警告の標識を日本のひとに較べて時速で劣る日本語読解力を集中して読むと「前をみて運転しよう!」と書いてあったりする(^^;)
前にも書いたが、「ここから先に行くと崖から落ちます」という崖っぷちの標識版を見たこともある。

日本からもどってからも、福島第一事故がどんどん進行して、カバーアップしようとする政府のカーテンの下から、メルトダウンになって収拾がつかない実態が見えてくるようになっていた頃、中国では鉄道事故があって、事故の処理をみて、
「これでは中国の将来が思いやられる」
「いくらなんでも、こんな事故処理では遺族がかわいそうだ」
「さすがは中国w」
などといって、日本のひとは大喜びだったが、燃えている自分の家から他人の家の夫婦喧嘩を見て、心配をしてみせて、鬱憤をはらすのは、趣味がわるいだろうと考えた。
フクシマなどは、自分の国の問題と実感できないようでした。

日本のひとと話していると、緊急切迫のときほど妙にのんびりしている、というか、現実の事態にうまくアクセスできないでいる、というか、「他人事(ひとごと)ですから」というときの一定の声の調子というものがあるが、現に自分の社会が直面している焦眉の危機について「たいへんですから」と「他人事ですから」と寸分違わない声の調子で考えているように見えることがある。

さし迫った危機としての現実が言葉を通過して思考におよぶころには「ひとごと」と同等な切迫感ないし切迫感の欠落になってしまう、というのは、個々の人の情緒が現実へのアクセス不調に陥っていることを明瞭に示している。

子供の時から拒否したい現実や命令を自分を偽って肯定して受けいれつづけると同じ反応を起こす。
典型的には、たとえば親から性的虐待を受けつづけた子供は自己の情緒にすらアクセスができなくなってしまうことがある。
自分の肉体にすらリアリティが感じられなくて、ほんとうに痛みがあるだろうか、切り刻んでみたい衝動に駆られることがあったりする。

ウソ、という言葉は厳しすぎるだろう。
いやがる自分を抑えつけて、社会のがわからあれをしてはいけないこれもやってはいけないと小突き回され、もう出来ない、と自分自身の心が必死にとりすがって、もうやめよう、たのむから、もうここでやめて逃げよう、と訴えているのに、痛みを和らげるために自分自身の疲労とさえ無理矢理距離をつくって、世間に対してはおろか両親にすら、にっこり微笑んでみせなければならないような一生を送っていれば、魂からみれば、この世界に現実らしい現実などは何もなくなってしまう。
森羅万象のことごとくが「他人事」になる所以であると思う。

「俺のことならほっといて」と、誰かが安んじて言えるようになるには、社会の習慣が変化して、他人へのヒマツブシじみたお節介と余計な口出しをやめて、子供やおとなの魂のまわりに、うんと空き地をつくって、自由に身動きできる余地をつくってやらなければダメなんではなかろーか、と考えました。

ピザっ!

February 22, 2012


「冷えたピザが好きですねん」というとぎょっとした顔をする人がいるが、わしは好物です。
おいしいのよ。
現にいまこうやって書いているときも昨日ツイッタでだらしなくだべっておったら日本では同じものが3100円すると判明した300円のドミノスのピザを食べておる。
朝ご飯です。

ピザ、というものはわしにとってはどういう食べ物であったかというと、子供の時でいうと二ヶ月に一回くらい食べてもいいことになっている「悪い食べ物」「いけないもの」「禁断の果実」だった。
よーし、今日はプロジェクタのスクリーンを下ろして、本格的に怖い映画みるぞお、ポルターガイストでひいひい泣いてくれるわ、というような場合、妹とわしは、じっとかーちゃんの様子をうかがう。
ふたりでこそこそ相談する。
おもいきって訊いてみよう、と衆議一決すると、
たいていは妹が大使として派遣されて、
「ピザを食べてもいいですか?」と訊く。
妹が、それで一生の楽(らく)をつくっている、内面とは何のゆかりもない、わが妹ながら純真無垢な感じがする、天使のような笑顔を浮かべてもどってくると、わしも一緒に「いええええーい」
「極悪ピザ、ばんざあーい」と歓喜する。
カウチの上で跳ねます。

普段はコカコーラなど飲んだら座敷牢にいれられてしまうが、ピザを食べるときだけは飲んでもいいことになっていた。

イタリアはマジなピザがうまい国で、あたりまえだが、ドミノスとは違う食べ物です。
マルガリータ。
日本でもおいしいところがたくさんあるが、イタリアは、桁がふたつくらい違ってうまい。
都会の料理屋ではいちばん安い食べ物でもあって、テーブルとテーブルがものすごく近い、ガイドブックに載らない、でも町では有名な「おいしいピザ屋」で6ユーロ(630円)くらいと思う。
もちろんソースによるがパスタの半分くらいの値段。

わしが大好きな某村のピザ屋は、バジルもトマトも庭でとれたものを使う。
頼めばピザの上にのっけてくれる卵も裏庭で猫といつもにらみあいを続けている鶏一家のものである。
ソーセージも何もそういう調子の地元のものなので、ものすごくうまい。

イタリア人は食べ物に対する考え方が日本人とよく似ているところがある。
素材が新鮮でうまければ、それがいっちゃんいーだろー、という考えがそれで、イノシシのステーキでも仔牛でも、オリーブオイルで焼いてそれだけで食べさせたりするのが、うまい。
ピザも、同じ思想に拠っているもののようであって、だから、シンプルなマルガリータがひどくおいしいのだと思われる。

パスタは「アルデンテ」という考えがないので無茶苦茶まずいが、ピザはスペインもうまい。ツナとかタコとか訳のわからねーものが載ってるピザが特にうまいよーだ。

わしのバルセロナのアパートのすぐそばには、途方もなくうまい「スペイン式ピザ」の店があって、この店はたいへん有害である。
バルセロナにはカタロニアやスペインの他の地方のおいしい店が、これでもかこれでもかとあるのに、食べ物を考えるのがメンドクサイと、ついそこのクソうまいヘンタイピザを食べてしまう。

いつもひとが行列しているが、さばくのが速いので、そんなに待つわけではない。
食べ物のために行列するのが嫌いなわしでも、並ぶのが嫌ではありません。

便宜上、「並ぶ」と書いたが、実はスペイン人は並ばない。
なんだか、ぐじゃっ、とひとがいるだけだが、それがスペイン式の行列で、誰が誰のあとか客も店も厳密におぼえている。
観光客がそれと気づかず、先に割り込んで注文でもした日には、大顰蹙もいいところであって、店内が阿鼻叫喚の様相を呈する。
えええー、だって、そんなん店のどこにも書いてないからわかんねーじゃん、というひとがいそうな気がするが、目の前のひとびとを30秒も観察すれば頭が鶏でもわかることで、そういうことを当然と納得することを「文明」といいます。
「並んで下さい」というような張り紙は、したがって、その社会には文明が存在しないことを示している。

イタリア料理にマルガリータがあって、ピザハットにグリージイでべったべったな肉肉したピザがあるのだから、そのあいだには両者をまたぐミッシングリンクがあるのであろう、と考えるのがおとなの分別というものだが、実際、ミッシングリンクは現存していて、その店はブルックリンにある。
名前をど忘れしちったが、マンハッタンからブルックリン橋をぶらぶら歩いて行って、下りてすぐのところにある。
店の壁に、「アメリカピザ発祥の店」と麗々しく書いてある。
フランク・シナトラやマリリン・モンローがこっちをむいてニッカリ笑っている写真が飾ってあります。
えっ?おれの本に書いてある発祥と違うって?
そ。わしも他の店で、「元祖アメリカンピザ」って書いてあるの見たことあるけどね。
上野のぽんたのとんかつのようなものである、と思って、そーか、いろいろな元祖があるのだな、と納得するのが成熟して温和なオトナの態度というものであると思われる。

マンハッタンを歩いていると、どこにでもここにでもピザ屋がある。
1ドルピザのチェーンもあれば、一枚が30ドルというようなクソ高い犯罪的な値段の「高級ピザ屋」もある。
わしはマンハッタンのアパートにいるときは、BleeckerのJohn’s Pizzeria

http://www.yelp.com/biz/johns-pizzeria-new-york-4
という店まで歩いて行ってテークアウェイのピザをもって帰ってくるが、この店も豪勢な支店をだしたりして、崩壊の日が近いので、来年もどったときには違う店にいくことになるだろーか、と思う。


第一、特殊寿状況によって状況が変化したので、このブログ記事をずっと読んでくれている人にはお馴染みのビレッジのボロアパートではなくて、Upper East Sideにあるモニの大豪華高級骨董品大盛りの、ゴージャスアパートメントになってしまうかもしれぬ。
悲しいが、齢をかさねるというものは、そーゆーものであって、オカネモチになってゆくのに反比例してコーフンとスリルは去ってゆくもののようである。

フィレンツェというような町では、幸福な若いカップルを見るには、週末の夜、川を越えた下町の、いくつかある地元のひとびとに人気のあるピザ屋を覗いてみるとよい。
6ユーロのピザをあいだにはさんで、おでこがくっつきそうなほど顔を近付けあって若い、オカネのなさそーな、無茶苦茶幸せそうなカップルがたくさんいる。
トスカナのあの無茶苦茶うらやましいB.Y.O.、近所のワイン屋から空き瓶をもっていっていろいろなヴィンヤードから来ている樽から注いでもらう、若いけど素性のよいワインをもってきて、テーブルの上においてあります。
どちらのアパートに一緒に住むか、相談している。
浮いたお金を貯金しようね、と女の子がささやいている。
子供もつくれたらいいね。
幸福に暮らすのにオカネなんか、そんなにいらないよね。
健康で、毎日が楽しければ、それでいいみたい。

モニを待っているテーブルで知らん顔をして半分くらいしか判らないイタリア語を頭のなかで明滅させているわしは、なにがなし、ほろりとしてしまう。
健康に悪くても、やっぱりピザはいいな、とわけのわからないことを考えて納得するのです。

(いま見ると、他の写真を撮ったりしたらオオバカモノの暗黙の約契があったりする料理屋と違ってピザ屋などは気楽なものなので、ピザは大量に写真がある。ほんで、少しおおめに写真をのっけることにしました。
1番目の写真は「ピデ」という名前のトルコのピザ。奥のおっちゃんはピザを切っているが神速でごんす。

2番目が、前にも載っけたことがあるよーな気がするが、文中にある「わしの好きなピザ屋(イタリア某村)のきのこのピザ。
3番目のナイフとフォークにはさまれてるのがバルセロナのアパートの近くの店のツナピザ、
下がタコのピザ。

わしが愛好するジョンズのピザの箱と中身。
隣のアップルの電源や右上のボールポイントペンと較べるといかに巨大か判るであろう。
アメリカのピザは一般に欧州のものに較べるとバカでかい。

その下にずらずらずらと、7枚並んでいる一番上はバルセロナのわし近所カマンベール。
2番目はコモ湖でわしがいちばん好きなピザ屋のピザ。
このチビトマトが味が濃くて甘くて、すごおおおくおいしいんでごんす。
次はミッドタウンでときどき行くピザ店のランチピザだな、これは。
次はチェルシーのマフィアがやっている噂がある店。
あんましおいしくない。
その下の右側が焦げてるのは、わしがよく作るピザ。
下のドウは、インドのロティを使うのね。
次に二枚はカタロニア式のピザで、初めのはフィグ(日本語ど忘れ)とラム、次のがアンチョビとトマト。
小さくてうまいんでがす。
郷土料理屋に行けばあります。
最後は、わし)
(嘘です)
(あたりまえだがや)

(ツイッタで「食べ物の話書いてみれば」というひとがいたが、食べ物の記事は、このブログの右下の検索で「食物図鑑」と入力すると、ずらずらでるだよ)

どこかで見たひと

February 20, 2012

特に日本に生まれたいとおもったことはないが、日本にうまれても、それはそれで何とかなっただろうとは思う。
義理叔父という従兄弟の父親がいて、このひとは年齢が離れていても友人であるとおもっているが、このおじちゃんは日本人でもあって、その割には気楽に暮らしてきたようにみえるからです。

話を聞いていると、どーも中学や高校はさぼってばかりいたよーだ。
学校をさぼって、渋谷の大盛堂書店やヤマハ、青山の根津美術館、京橋のフィルムセンター、銀座の旭屋書店、神保町の古本屋、そういうところにばかりいた。
その頃は、まだガキが街をうろうろすると、ときどきお巡りさんが追いかけてきたもののよーで、制服は着ていなくても、顔をみればガキとばれる義理叔父は、よく全速力で246号線を走ったりしたという。
ジョギングをしていたわけではなくて、後ろから警棒もったお巡りさんが追いかけてくるからです。
むかしのお巡りさんはマジメだったようだ。

「あれってさ、タバコ喫ってるとやばいのよね」と義理叔父は言う。
14歳から20歳までタバコを喫っていた。
ある雨の日、タバコを買いに行くのがめんどくさかったのでタバコをやめた。
このブログ記事を読む人が義理叔父とはわしのことではないかとおもうわけである。
似ている、と思います。

このひとは節目節目で難しい学校に(多分カンニングで)合格しているが、
「それが日本の社会の窮屈から逃れるゆいいつの方法だったんだよ。別にブランド主義じゃないのよ」と述べている。
実際、義理叔父の母親である鎌倉ばーちゃんに聞くと、当時は鎌倉でなくて渋谷区に住んでいたが、ひるまっからぶらぶらしていても、「あそこのXXちゃんは、頭がいいけど変わり者だからしょーがない」ですんだそーだ。
「有名校に行っていなければな、おまえ」と、義理叔父はよく酔っ払うと言う。
「いまごろはとっくに山椒大夫に売られておる」

長じて、トーダイに裏口入学した。
表からはいったわけではないのは、義理叔父のお友達がみな保証してくれるので、動かぬ事実であると思われる。

ほんとはバカなのに、とは、身内であるから、いくらなんでも言わないが、それからずっと「トーダイ出」で他人の目をくらませてきた。
もっとも、義理叔父の名誉のために言うと、まさか自分から学歴を言い出したりはしません。
おばちゃんやなんかにひつこく訊かれたときだけである。

ここから先は、あんまり詳しく書くと経験から言って張り倒されるのが判っているので、安全保障上書かないが、基本的に義理叔父のやりかたは他人と競争することなく「別リーグ」を設立して、そこのお山の大将で暮らすという方法であったようだが、日本の社会にいろいろ意地悪されかけたりしたものの、トーダイがものを言って、あるいはわしに似たチョーテキトーな性格が幸いして、比較的楽ちんな人生を送ってきたもののよーである。

日本の楽しみ方、のようなものは、すべてこの義理叔父から教わった。
わしが大学にはいってからは、休みがあると、ガメ、航空券代だしてやるから日本に来いよ、といって従兄弟と3人であったり、2人であったりしたが、あちこちに一緒にでかけたものだった。

だから日本人にうまれても、なんとなくやれたよーな気がする。
実際、義理叔父は30歳をすぎてからは、ほとんど午前中に起きたことがないよーだ。
とてもダメな人であって、それでもそうそう大変でもなく生活できているのだから、どんな社会でも苛酷を逃れる道はあるのだろう。

日本にうまれていれば、理学ではなくて工学をやったと思われる。
イギリスやニュージーランドより土壌として手をつかって工学をやるうえで恵まれた国だから。

英語とかは興味がなかっただろう。
ヘンなものばかりつくって、おまえは研究者じゃなくて職人かと苛められながら、ときどき銀座の鮨屋でへべれけになって、呂律もまわらず、まっすぐ歩けもせずに終電で逗子の家へ帰ったのではあるまいか。

たいしてインターネットも使わず、たまたま見つけた裕福そうなニュージーランドのクソガキの、しかも日本語で書きやがったブログを読んで腹をたてては、こおーのクソガキが、楽しやがって、と毒づいていたりしたものだと思われる。

夜中にはときどき鎧摺の小径を抜けてチョージャガサキに歩いていったりしただろう。
低くて小さな、暗い山影をみあげて、日本はなんて良い国だろう、と考えたにちがいない。
それから、長者ヶ崎の小さな砂浜に腰を下ろして酒を飲む。
夜光虫って綺麗だなあー、と思いながら、少し眠ったりする。
もう30歳すぎちゃったけど、おれって結婚しないのかなあー。
なんだか女のひとが同じベッドで眠る生活なんて、現実じゃないような気がする。
セックスは体液があるから好きになれない。
男も女もワックスで、ただすべすべしていて、うめき声やあえぐ音もなくて、
静かで乾いたものだったら、どんなにいいだろう。

茅ヶ崎のアメリカ式の映画館で日本語がヘンな字幕の映画を観たり、境川のわきの道をずっとのぼって、ソニーの工場の跡にできたモールまで自転車で行く。
帰りにはシュクレアで、ハンバーグカレーを食べて帰る。

…..どうも、こうやって「日本人にうまれた、もうひとりの自分」のことを考えていると、英語を話したり、外国に旅行へ行ったりする人間であるように思えない。
どちらかというと、部屋のなかで、机が中心の生活をして、休みの日も、ときどき自転車やクルマで、せいぜい鎌倉、どんなに足をのばしても茅ヶ崎くらいまでしか出かけないで暮らすタイプの人間だったように思われる。
案外、もともとそーゆー人間なんだな、わしは、と思わなくもない。

月曜日になれば、電車に乗って、文庫本を読みながら東京へ行くだろう。
戸板康二の「中村雅楽」推理小説シリーズがお気に入りなのだ。
推理小説を読むのに逗子から東京までの一時間はちょうど良い時間である。
駅に着くと、栞をはさんで、丸の内の改札を出る。

壊されてしまった丸ビルのほうが、なんだか安普請の新しい丸ビルよりもずっと好きだった。
広い、螺旋階段をあがってゆくと文明堂があって、そこでよくカステラとお茶でのんびりした。
カステラは福砂屋のほうがうまいが、文明堂もわるくはない。
開発業者というのは、どうして良いものばかり、気が落ち着く場所ばかり狙って、ぶちこわして、落ち着かない安普請を立てたがるのか理由がわからない。

いちばんの痛手は丸ビルの裏っかわにあった「サラリーマン向け廉価版竹葉亭」で、本店や他の支店では2400円の鰻丼が1000円で食えたのに、なくなってしまった。
鰻も姿が悪いのが集まっているだけで、味も変わらない。
器が重箱のかわりに縁が欠けた丼だが、鰻丼、というくらいで、重箱いりより丼にはいっているほうが、ずっと好きだった。
仕事が終わって、 中年の整髪料の臭いをぷんぷんさせたおっちゃんたちに混じって、1200円の蒲焼きでビールをぐっとやる。
あんなに楽しいことはなかったのに、その一週間にいちどの楽しみもまるごとなくなってしまった。

もっとも、むかしつきあってたK子は、まだ20代のまんなかなのに、おっさんくさすぎて信じられない、とゆっておったな。
実際、そう思っていたようで、もっと流線型の地方からきた都会人の男と結婚してしまった。

いいわけはある。
ぼくは東京の山の手ガキだからな。
東京人は、すげーオジンくせーんだよ。
知らないんだな。

とはいえ、たしかに、もう生きた化石だよな。
まだ風呂敷が好きだし。
カブトガニみたいなものか。
中国人て、カブトガニを食べるんだって、なにかに書いてあったな。
どうしてあのひとたちは、ああなんでもかんでも食べるんだろう。

んー。飽きてきた。
モデルが義理叔父の友達なので、どうも生活が30代にならない。
あとは、どうしても日本の生活の底にある具体的な細部がわかってない。
頭のなかで「日本にうまれたわし」を作って日本の生活のよいところを楽しもうと思ったが、同じくらいの日本人友達をモデルにとると、どうしても青山のバーやなんかに偏って、なんちゅうか、ロンドンやマンハッタンのパチモンというか、わしの心にぐっとくるような日本酒やさびしい音の世界になってゆかない、ということもある。

5年にわたる11回の大遠征と威張っているが、やっぱり、ほんとうは何も見ていない。
特に仕事でかかわったわけでもなく、その国のガールフレンドがいたわけでもない国との関わりなど、一枚皮をむいてしまえば、そんなものなのかも知れないなあー、と思うと、いままで日本語でやってきたことはみんな砂場の遊びのようなもので、なんにも残らなくて、でもまあ、それはそれでいいか、と考えてみたりする。
実際、ここ以上には、1歩も先には行けないのかもしれません。

「完全なる神がつくりたもうた驚異的に精緻な人間」という意見にはむかしから色々な反論がある。
盲点、などは聞いたことがあるひともいるだろう。
人間の目は視神経が内側から外側に突き抜ける構造になっているために、盲点が生じてしまっている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Blind_spot_(vision)

脊椎動物はみな盲点を持っているが、イカには盲点はない。
表皮由来の水晶体眼なので視力も人間よりすぐれ、老眼も近眼もない(^^)
「神がつくりたもうた」とすればひどい手抜きで、しかも人間の眼は基本的に脳の一部なので、脳が露出しているなんて気味が悪い、とわしなども考える。

むかしの医学では「人間の身体の部品は百年もつように出来ている」とゆっていたが、最近は(例によって例のごとく)学説が変わって「だいたい50年」という信長が好きだった幸若舞みたいな説になった。

周囲の人間を観察すると、人間が正気のひととして人間らしい活動をするのは、だいたい20歳から50歳くらいまでであって、あとはそれまでのシリーズのエピソードの同工異曲というか総集編というか、残映のような人生というかで。医学が発達しようが栄養状態がよくなろうが、実働は30年前後であるらしい。

わしの考えでは人間のなかで最も偉大な場所に到達したと思われるゴータマは80歳まで生きた。
なにひとつ不自由のないラッキーなやつだったが、29歳で、酒池肉林にも、もてもてで、 いちゃいちゃもんもんシホーダイなのにもすべて飽きて、全インドの王か覚者かの二択を自分に迫って覚者の道を選んだ。
この世界の醜い表層の下にある自然こそが人間の涅槃なのだと悟って成道したのが35歳だという。

ゴータマを人間の一生の例として考えてみる、というのはアホいが、しかし、考えてみるとゴータマも他の人間と同じで30代を中心に一生がまわっていたように見えます。

わしは子供のときからのんびりが好きで、急かされるのが嫌いだった。
道を渡るにも走るという習慣がない国に育ったせいもあるかもしれません。
このあいだロンドンに帰ったときに舗道を走っている30代くらいのおっちゃんがいたので、ぶっくらこいてしまったが、わしが子供の頃は公道を「走る」というのはイギリスでもニュージーランドでも人目をひく、異常な行動だった。
この頃はオークランドでも「小走り」に道路を渡るひとをみるようになったが、そういうひとが現れたのは極く最近のことです。
クライストチャーチでは、まだ、むかしのままで、道を渡るのに走るひとはいない。

義理叔父に言わせると、英語人、特にわしや周りのひと(頭の回転がチョーはやい妹は除く)の会話はいしいひさいちの名作「地底人対最底人」
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20110403/1301783223
の会話に最も近いという。
「間(ま)の取り方が同じで、見ていて可笑しい」と失礼なことをいう。

その一方で、義理叔父自身が知らないのは、この人はしびれを切らすのか、相手がまだ返事をしていないのに、また自分の意見を重ねて言うので英語世界では「悪い人ではないが失礼なひと」ということになっている(ばらしてもうた)

このブログでは、何回も繰り返しでてくるが、「時間」が違うからだと思います。

「急かされるのが嫌いだ」と書いたが、わしは、学校や家で急かされたことはない。
英語世界の基準からゆってもチョーのんびりなわしが、うーんと、えーと、と心のなかで考えていると、みながじっとわしを見ている。
それでも言葉が出るところまで行き着かないので、えーと、うーんと、をしていると、先生なり母親なりが、「ゆっくり考えていいのですよ」と相の手をいれるであろう。
で、やっと考えがまとまって、
「わかんねー」と言うと、また相手が滔滔と持論を述べる、というふうであった。

シンガポールの大学に近いところにあるホットドッグ屋で行列に並んでいたら、いくらなんでもわしほどではないが、のんびりな女の子が、ホットドッグを注文している。
屋台の高いところからみおろしたにーちゃんが「マスタードいる?」と訊くと、えーと、あーと、どーしよーかなー、「いれてください」という調子で、考えながら注文していたら、わしがぶっくらこいたことに後ろで並んでいた学生たちが、「ぐずぐずすんな!並んでるあいだに注文ぐらい考えておけよ!おれたちは昼休み短いんだぞ!」という。
女の子はローバイしてます。
注文が終わって紙袋を渡すときになると、ハンドバッグを開けて財布を探す。
すると、また、「あーあ、いまごろになって財布かよ」
聞こえよがしに「ちぇっ!」と舌打ちしてるひともいる。

このひとたちって、ばーかみたい、とわしは考えたが、シンガポールは観察によると忙しい国で「効率」ということを最も尊ぶよーであった。
わしは、ああいう国では到底生きていかれない。

オカネがあっても時間がなければ、そのオカネで、あーゆーウフフなことや、ムヒヒなことをしてモニと遊べないので、冷菜凍死とゆっても忙しいことはやる気がしない。
そんなんでダイジョーブなのか、という人もいるが、あいつは一年に5日くらいしか働かない、引き籠もりで人とも全然あわない、という定評が出来てしまったので、わしが働かないからとゆって怒る人はもういなくなった。
なにごとも「慣れ」である。
わしは酒池肉林もすべこいモニさんとのイチャイチャモンモンも、まだ全然飽きていなくて、ゴータマのような人間としての優れた資質に決定的に欠けておるので、これからも一生、のおおおおーんびり生きているのに決まっていて、死んだらきっと「世界でいちばんナマケモノであった男ここに眠る」とかなんとかいう立派な碑を妹が建ててくれるに決まっているが、別にそれで構わない、と思っている。

これも日本語で何回も試してみているが、このあいだ、またぞろ「塾があると子供は時間を奪われるからやめたほうがよい」と書いたら、また反対された。
学校がダメだから、しょうがない、と言う、いつもの意見だった。
日本の学校がダメかどうかわからないので、わしにはそうゆわれると返す言葉がなくて、そーですか、としか言いようがないが、どうも話のどこかがおかしいような気がする。
学校がダメだとして、やはり学校を再建するほうが先であるのは、わしもそう思うが、そのためには塾が存在していては学校は再建できないのではないだろうか。
しかも、塾によって本来の学力を補完する、良い教師との出会いを補完する、というやりかたでは結局はオカネモチのガキだけが良質な教育を受けることになるのではないか。
塾というものが産業である以上、良質なクラスを提供する塾は、高い対価を要求するだろう。
「どこそこの学校に何人はいりました」というような数に変換しやすくて判りやすい、というのは、そのまま、反教育的な「数字」にこだわるパチモン教育に走りやすいのではないか。

もうひとつ、もともと、わしが嫌われてもいじめられても(^^) ずうううっと「塾なんかいらねー」とゆっているのは、塾が子供から時間を奪うということのほうに力点をおいて言っているつもりで、日本の人には感傷といわれるが、しかしわしは、ガキが雑木林にわけいってイノシシと出会ってぶっくらこいたり、農業用水に落ちて溺れかけたりするのをガキが世界と交渉する感覚を身につける過程において必須であると考える。

就中、雨に降り込められた午後に、家のなかのベッドで、人間って死んじゃうのかなあー、かーちゃんも死んじゃうんだってゆってたなあー、げえー、かーちゃん、わしより先に死んじゃうのか、神様にお願いして代わりに妹を生け贄にささげるけどダメですか?ちゅうわけにはいかないのかなあー、と考えたり、
宇宙をずううううううっっと行くと、どーなるんだ。
神様の形をした標識が立っていて「光も時間もここで終わり」とか書いてあるのか?とか、あるいは、
全宇宙が神様のめんたまの虹彩より小さいという話はほんとうだろーか?
第一、わしのチ○チンはなんのためについておるのだ、
と、退屈で死にそうになりながら、うっぷして、枕に顔を埋めて考えることには、人間には思いも掛けないほどのおおきな意味があるに違いない。

せっかく時間を大量に、イグアスの流れ落ちる滝の水のごとく使うように出来ているのに、その解像度が高い若い脳髄の意識を、たかだか読み書き計算の単純な効率化と精確化に浪費して、それでガキがオトナに成長してゆけるだろうか?
まして「理科」や「社会」など、ガキの精神と知力の形成にとってどーでもよいことに時間を濫費する必然性があるのだろーか?
そうするとオトナになること能わず、ガキがデカガキになって、ガキらしくもサディススティックな異常性格にふりまわされて、昆虫の足をむしりとるごとく、女びとの服をむしりとって、チンチ○をつっこみたくなる(下品ですみません)だけなのではないだろうか。

性的なことを述べてしまったが、日本語と異なって英語のサディズムには性的な意味はこめられない。

DSM III-Rによるとサディスト的人格の定義は、

*Has used physical cruelty or violence for the purpose of establishing dominance in a relationship (not merely to achieve some non-interpersonal goal, such as striking someone in order to rob him/her).
*Humiliates or demeans people in the presence of others.
*Has treated or disciplined someone under his/her control unusually harshly.
*Is amused by, or takes pleasure in, the psychological or physical suffering of others (including animals).
*Has lied for the purpose of harming or inflicting pain on others (not merely to achieve some other goal).
*Gets other people to do what he/she wants by frightening them (through intimidation or even terror).
*Restricts the autonomy of people with whom he or she has a close relationship, e.g., will not let spouse leave the house unaccompanied.
*Is fascinated by violence, weapons, injury, or torture.

ということになっている。

他の人がいるところで他人を侮辱しくだらない人間と決めつける、とか、
ひとが苦しむのを見て喜ぶ、というように見てゆくと、これは効率のみを追究して出来た社会に住む人間が共通にもつ病弊である。

こういうひとびとの特徴は、自分の情緒へのアクセスがうまくいかず、潜在意識的にほんとうの自分に会えない、という奇妙な感覚に苦しんでいる。
あらわれとしては幼児的な残虐さで他人を攻撃することなしに満足が得られないという形で表現されるが、真の原因は「幼児性」は表層で、子供のときに必要だった「時間」の喪失だと思われる。
時間の喪失とmaturityの獲得は、別立てにすべき大きな話なので、また今度はなすことにするしかなさそーです。

人間は、ふつーにイメージするほど一生のあいだに色々なことが出来るわけではないよーだ。
幕の内弁当のようにいろいろなものを詰め込んだ一生は、幕の内弁当が見た目には綺麗だが食べ物としてはただの幕間の小腹づくりにしかすぎないのに似ている。

100のものを詰め込めると見える一生の時間に、実際にいれても器がこわれない量は、ほんの20か30であるらしい。
特に子供の意識は、解像度がフルHDで肌理も質も稠密なので、そんな意識がすごす物理時間の一日に処理能力の限界までぎゅうぎゅう作業をつめこんでしまっては、子供はぶっこわれてしまうに決まっている。

人間などは一生に一個のことが出来れば百点満点より上であって、そんなバカなと思う人は黒澤明の「生きる」
http://en.wikipedia.org/wiki/Ikiru
を観てみればよい。

あの雪の日のブランコにたどりつけるかどうかに、人間の一生はかかっているのだと思います。

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