現実という冷酷


decriminalization、
http://en.wikipedia.org/wiki/Decriminalization
という言葉があります。
日本語には、該当する言葉がもともとないよーだ。
日本のニューズサイトには「合法化」と訳してしまうものが多かったのを憶えているが、「非刑罰化」という日本語がわかりにくいと考えた結果でしょう。

たとえばニュージーランドでは売春は「decriminalized」されている。
売春という犯罪に対して刑事罰がなくなったのは、ニュージーランドでは極く最近で、確か..記憶が間違っていなければ前世紀の終わりのどん詰まりだったのではなかろーか。
売春に対して刑罰を無くすことを強硬に主張して、警察を相手の大論戦に打ち勝って実現させたのは日本で云う「婦人団体」で、刑罰があれば売春婦たちは客や通りに屯するバカタレが犯人の強姦被害にあっても泣き寝入りするしかなく、そんなことが許されていいわけはない、という理屈でした。
家出して都会にやってきたティーンエージャーの女びとを麻薬漬けにして売春宿で働かせる、というのはどこの国でも行われている「定石」だが、売春を非刑罰化しないと暴力団の財源になってしまう、という理由もあります。

マリファナもニュージーランドの法律では少量の所持は罰金だけで犯罪歴は構成しない。
こっちのほうは、そんなんまで刑務所に収容していたら税金がいくらあっても足りん、という国民の主張によって刑罰がなくなった。

英語国民、とまとめて述べることが多いが、地図をみてみれば北海に面していて見ようによっては北欧に属している連合王国から無茶苦茶寒冷なカナダ、声がでかいアメリカ合衆国、のんびりで荒っぽいオーストラリア、もーダメだあ、が大好きな悲観的なニュージーランドと風土はバラエティに富んでいる。
国の性格はいろいろで、英語人は自分の性格にあわせて国を移動してパスポートもそれにあわせて変えてしまうのを好む。
料理の好みひとつとって考えても連合王国人はインド人が呆れ果てるくらいインド料理ばかり食べているがアメリカ人はインド系のひとびと以外はスパイス音痴で、せいぜいチリで「辛いよおー」とゆってむなしく喜んでいるくらいのもので、インド料理はあんまり流行りません。

ひとつだけ共通しているのは「現実的」なことであって、理想論や「正しくないからやだ」ということに固執するひとは小人(しょうじん)あるいは狂人の一種とみなされる。
ゆっても意味がないことを、ただ正しい主張だからと云って手足をバタバタさせるかのごとく主張するひとを最も忌み嫌う。
「正しさ」というものが、ある時点でどんなに完璧に正しそうに見えても、実はまるごと間違いで、時間が経って何万人も女びとや男を「魔女だな、おまえ」とゆってぶち殺してしまってから、違ったみたい、になったりした苦い経験に立って、正しさなんちゅうのは危ういものだ、ということを経験によって学習した西欧全体の歴史が影響している、ということもあります。

竹中平蔵という人の新法党を批判する旧法党の論旨は外国人にはひどく判りにくいものだった。
新法党は「社会の公平を捨てて生産性を増大しなければ日本は大没落して公平どころではなくなってしまう」と言っているのに、旧法党は
「不公平はよくない」と額に青筋を立てて怒っている。
議論がまったく噛みあっていなかった。

新法党は国民の不評判ということを考えて「公平を捨てる」というひと言が言えないために、生産性をあげれば世の中がよくなる、みたいに奇妙なロジックで政策の明るい面を強調しようとしたので、とうとう最後には完全に訳がわからない議論になってしまった。
日本の財政がバランスを取り戻す道へ引き返す最後のチャンスを失った瞬間でした。

事態を見守っていた外国人は小泉・竹中の経済路線を日本が見限ってしまったのを見届けると、日本の将来には期待しても仕方がない、と考えるようになった。
いきなり轟沈してまわりをまきこまないでさえくれれば、世界全体の生産性は中国やインド、ブラジルのような国に期待する以外にはないよーだ、と覚悟を決めた。

日本にいるあいだ、小泉が日本を悪くしたんだ、と吐き捨てるように言うひとにたくさん会ったが、わしのほうは「そーですかあー」とか「そーですかあー?」とかゆっているだけで、日本のひとが決めることだから、と考えて、へらへらして酒を飲んでごまかすのが常だった。

ビンボニンを切り捨てて社会の生産性を恢復する、というのは切り捨てられるほうから見ると悪辣このうえない考えで、到底うけいれられない。
社会の側からみるとビンボニンを切り捨てないと先行き社会ごと崩壊してしまうので、面倒をみたくても到底「面倒はみるからね、とーちゃん」とはとても言えない。
では、どーするか?というのが命題であったはずなのに、
小泉の言う事を聞くと敗者が増加する、竹中の言う事は貧乏人の切り捨てだ、という激昂した憎悪の言葉が聞こえてくるだけで、きっと小泉首相や竹中平蔵は、
「そりゃ、そーなんだけどね」と内心で考えていたに違いない。
でも、弱者を切り捨てないと強者も弱者もひとしなみに呑み込んで日本はなくなってしまうだろう。
それでもいいのか?と思っていただろう。

福島事故でばらまかれた放射能を怖がりすぎるのは現実的でない、ということになっている。
だって、ダイジョブそーじゃん、と科学者たちもゆっておる。
日本の政府が考え出したコードゼロ攻略法は、国民ひとりひとりの身体をコンテナにして、うすーくひろーく放射能をばらまいちまえば、誰もビョーキになんないじゃん、という日本人の好きな言葉で言えば「180度の発想の転換」、チェルノブルで必死に狭い地域に放射性物質を閉じ込めようとしたソ連人の努力を嘲笑うかのような鮮やかな逆転発想法というか、日本的な解決で、痛みもみんなで分かち合えば痛くない、という方針だった。
よく考えてみれば、これは小出裕章という勇気のある核科学者の「年寄りはみなで放射能で汚染された食べ物をいっぱい食べるべきだ」という意見と通底していて、事故で崩壊した原発を挟んで正反対の立場の両方が同じことを述べている。

英語人の現実主義の一画には、「致命的なことを避ける」ということがあります。
ほとんど本能になっている。
カシノで負けが込んでくるとアジア人のプレーヤーは逆に大きく賭けようとする。それも逆張りで負ける確率がおおきいが当たればデカイほうに賭ける。
観察してみればすぐにそうと判るが、イギリス人のプレーヤーは10万ドル負けていても、やはり賭け金を増やすこともなく勝率も高い(というのは勝ったときに稼げる金額も少ない)ほうに相変わらず賭けている。

賭博の例をこういうところで出すのはよくないだろーが、結局イギリス人は明け方近くになって席を立つと、こんなに負けたら取り返すのに十年はかかる、とかなんとかぶつぶつ陰気につぶやきながらタクシーを呼んでもらうに違いない。
香港人は「今度こそ大丈夫だ。もう一万ドル貸してくれれば全部取り返せる」と友人を口説いてまわってなにもかも無くすことが多いようでした。

日本の政府がフクシマ処理で、いまやっていることは「逆張り」そのもので、うまくいけば原発事故という「大損失」を取り戻して喝采をうけられるが、うまくいかなければ、どひゃっな結果が待っている。

何事も現実にべったり貼り付いてしか考える事が出来ない英語人の目には、いくら確からしいと自分では考えていても、現実の社会は、対策会議のホワイトボードに描かれた社会とは違うのだから、現実が人間の予想を裏切ったときの、あの冷酷な相貌をみせたらどーするんだ、と思うが、日本の政府は、綿密な計画は現実を折伏できるものと信じているよーだ。

がっちんがっちんの現実主義者の集合である英語人どもは、とにもかくにも放射能などは危険極まると考えておくほうが現実に生存を延長する可能性のほうが高いと決め込んでいるので、息を潜めて、
かくなる上は日本人に大方の英語人の予想に反して逆張りの勝負に勝ってもらうしかない、と、ピットから祈りに近い感情で眺めているのだと思います。