むかし、日本は戦争をした

paenell23

日本が戦争に負けたのは1945年のことだった。
戦争に至った理由は以前にも書いたが本質的には「欧州で勝ちまくっているナチのおこぼれが欲しかった」ことである。
当時の日本では「バスに乗り遅れるな」という標語が流行ったが、このバスはナチがフランスを占領したせいであちこちにできた元フランス植民地の空白や同じように無力化されたオランダ植民地を「ただでわけ取り放題」にするための「バス」だった。
その、日本の人のお怒りを承知のうえでいえば、卑しい口元の「新時代」へ自分達を運んでくれるバスに日本人はどうしても乗り遅れたくなかった。

それまではどうしても広大な植民地を自分達の手でにぎって話さない「けちんぼな先行者」である連合王国やアメリカ、欧州諸国を妬ましげな上目遣いで睨み付けながら、「そんなにたくさん持っているのだから少しくらいおれにもタダでよこせ人種差別主義者め」というお決まりの悪罵を内心で毒づくしかなかったのに同じ世界秩序の紊乱者としてあらわれたナチが意外にも電撃的な戦勝を手にしてあっというまに大陸欧州を手にしてしまったので、のんびりしていてはおこぼれがもらえないと考えて浮き足立って、とにかくなんでもいいから戦争を始めてしまいたい、と考えた。
ナチが他ならぬ日本人を猿と軽蔑していることは、たとえば「我が闘争」から削除して翻訳して、「なかったこと」にしてしまった。
人種問題などとるにたりないと思わせるほどの利益が目の前にぶらさがっていたからです。

ちょうどいまの北朝鮮と同じことで当時広く伝えられていた中国での集団強姦や虐殺に反撥した世界は日本への制裁を強めていて、1990年代にソビエトロシアの軍隊が実際にそうなってしまったように補給物資、就中燃料の欠乏から軍隊の経営が難しくなっていた、という理由もある。
陸軍は日本が挑発して起こしたノモンハンでの戦闘でジューコフの機甲師団に鋼鉄に生身で体当たりするような無様な戦闘を繰り広げて、現代戦においては自分たちの軍隊がまったく用をなさないのを知っていたにも関わらず、佐官級将校達を中心に戦闘の実際そのものを書き換えてしまい、「ロスケ相手なら勝てる」と、いまから考えてみれば信じがたい無責任な虚栄を張っていたが、なにしろ現実を知っているので、オランダがナチに敗れてインドネシアの原油が「取り放題」の対象になり、フランスもナチにくだってインドシナがからっぽになると、もう無我夢中で置き去りにされたものを掠めにいった。

当時のアメリカ人にとっては日本人は「ただの人間を神と崇める未開な民族」にしかすぎなかった。
日本人が自前の飛行機を設計して、しかもその飛行機群は主戦場が太平洋であることを意識した設計で長大な航続距離をもたせるという合理的な思想に基づいていたり、地紋航法を乗り越えて戦闘機操縦士ですら風の偏向を機上で計算しながら洋上を飛べる航空技術を身につけている(PPLをとってやってみれば判るが、これは人間業では無理な感じがするほど難しい作業です)ことなどを知っていたのは極くひとにぎりで、ほとんどの場合、「日本人は人間を神と崇拝できるほど未開である」という観念にとらわれて、中国大陸からの武官達の報告も無視されてきていた。
日本が実際に真珠湾を攻撃した頃には「日本に近代戦遂行能力がある」というような発言は、タブー、というか、変わり者とみなされて将来の栄進の妨げになるので誰も韲えて言おうとはしない話題になっていた。

フランスのように既に打ち負かされていたわけではなかったが連合王国は当時、風前の灯火もいいところで、表現に巧みなウインストン・チャーチルの口にかかれば「The Few」

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Few

ということになって、なんとなく英雄的でかっこいいが、なにしろ計画性に長けて全員一丸となって合理的な生産計画をつくることにかけては当時もいまも世界一のドイツ人を相手に、計画性がゼロで、同僚同士の足のひっぱりあいに熱中する伝統をもつ高級将校に率いられ、訓練に至ってはタイガーモスで離着陸が出来てハリケーンでまっすぐ飛べればもうベテランとみなして、あとは自分で上手になってね、な、これも第一次世界大戦以来伝統の無茶苦茶なパイロット養成計画で、スペイン内戦で腕を磨いたドイツ軍の戦闘機パイロット達には「なんでイギリス人は標的機を自分たちの戦闘機の訓練でなくておれたちの訓練に差し向けて寄越すんだ」と訝られるくらいダメな空軍の全力を挙げてナチの侵攻を阻止しようとしているところだった。

自分の国を守る戦力がまったく足りないのに植民地防衛にまわす軍隊などあるわけはなくて、実際にも太平洋地域の主戦力はブリュースターバッファロー

http://en.wikipedia.org/wiki/Brewster_F2A_Buffalo

という樽に翼をつけてみたら飛びましたとでもいいたげな、とんでもないアメリカ製戦闘機で、しかも数が足りないので用途は日本軍の上空を飛んでびびらせることに専念して、あんまり使うな、という命令を受けたりしてしていた。
苦し紛れにプリンスオブウエールズを派遣してシンガポール人たちに対して「イギリスはちゃんとアジア権益を守る意志はあります」というこどもだましのポーズをつくってみせたが、このプロモーション企画も、ただチャーチルの頭の古さを証明するだけで終わってしまった。

もっと悪い事にはオーストラリアもニュージーランドも、戦士として素質がありそうな若い衆はみな連合王国防衛のために出払っていて、南太平洋は軍事的な真空地帯になっていた。
そこに、「バスに乗り遅れるな」の日本人達が、どっと侵攻してきたのだった。
家を開けて遠い国へ出かけて旅の空にすごしていたら、戻るにも戻れない距離の彼方で、自分の妻や家族が日本侵攻の危機に曝されていると知ったニュージーランド人やオーストラリア人の「日本人の卑怯」に対する憎悪はすさまじかった。
日本の敗戦処理委員会ではニュージーランドとオーストラリアは常に強硬に日本への厳しい復讐を迫るので読んでいて驚くが、要するに、「空き巣を狙われた夫たちの怒り」とでもいうのに似ている。
残された女達、ということでいえば、東南アジアやポリネシア、マイクロネシア各地で赤十字の看護婦や伝道の仕事に携わっていた女のひとたちは、日本人が進出してきたほとんどあらゆるところで強姦被害に遭って、BBCのドキュメンタリなどではいまもよくインタビューが放送される。
ガキわしも、香港の病院に赤十字のボランティアとしてつとめていたヨークシャー人のおばちゃんが、「そうして日本兵たちがわたしたちの病院にやってきました。彼等は私達をゆびさして『二階にあがれ』と命令した。それから…わたしたちはひとり残らずレイプされた」と述べて、テラスの外の夕陽に輝く庭を眺めながら「That wasn’t very nice」とつぶやく姿に大泣きしたりしたものだった。

「人間を神と崇めるバカタレの国」という侮蔑を奉じて軍備をまったく怠っていたアメリカ合衆国と自分の家が火事で丸焼けの最中の連合王国が一応まもっていることになっていた太平洋は、圧倒的に優勢な軍備(ちょっと意外な感じがするかもしれないが開戦当初の日本陸軍は機関銃、榴弾砲、対戦車砲、戦車、航空機、あらゆる点で連合軍よりも質も数も遙かにうわまわっていた。海軍については言うのもばかばかしいくらいの戦力差があった)の日本人たちにあっというまに踏みにじられた。

(余計な事を書くと日本語で太平洋戦争について書かれた本を読むと「日本軍の補給思想の欠落」ということが書かれているが、それは半分しか本当でないように見える。
日本軍はかなり精密に補給を計算して実行できる軍隊だった。
ちょっと考えてみればわかるが、そうでなくては4000キロ先の戦線まで補給物資をとどける、というようなことが出来るわけはない。
朝鮮半島侵略戦の補給指揮官だった石田三成の例をあげるまでもなく日本人は伝統的には補給の才能に恵まれた民族であると思う。
日本軍に欠けていたのは補給思想よりも「補給線防衛」のハウトゥーで、これは多分第一次世界大戦に一部局地戦をのぞいて参加しなかったからだろう。
北海や北大西洋を舞台にして「補給を断てば勝てる」という、やらしい思想をもったドイツ軍と対峙したことがなかったからだと思われる)

日本軍の殺到ぶりは、なにしろ碌な軍隊が存在しない無抵抗戦域なのだから当たり前だが、ものすごいスピードで珊瑚海にあらわれた日本の、上陸用の兵士たちを伴った、「海を覆うような」大艦隊のニュースに、オーストラリア人やニュージーランド人が、いかにパニクったかは、たとえばオークランドの沿岸を船でひとまわりすればすぐに判る。
至る所に急造の砲座やトーチカがつくられているからで、あれらはみな、じーちゃんやばーちゃんが、「日本軍がくる!」の報にえっちらおっちらこさえたものである。
珊瑚海海戦について「日本が勝った」「アメリカが勝った」「引き分けだった」と相撲の判定みたいなことを書いている本が世の中にはたくさんあるが、戦争は無論勝ち負けだけではない。
珊瑚海海戦で最も重要なことは「攻勢の日本軍がそこで止まった」ことで、自前の軍勢の精鋭が欧州やアフリカに出払ったオーストラリアやニュージーランドの国民感情とブリスベンの重要性をみなおしたアメリカ人達が、ほんでわ、というので南太平洋を軸とした戦略を再構築していったことにある。
その直截の答案がガダルカナルで「ここで戦力をつかいはたさせてしまえば、日本にもう他の戦力はない」という点と「欧州という主要な戦場で戦うための時間稼ぎができる」点ですぐれた着眼だった。

次から次に、あるものは赤ん坊を抱え、あるものはバンザイすら叫んで市民がとびおりて死んでしまうので、アメリカ兵を薄気味悪がらせた「Banzai Cliff」「Suicide Cliff」があるサイパン島が1944年にあっけなく陥落することによって日本の対連合国戦争は実質的に終了する。
普通の国ならば、ここで降伏調印するが日本はいま読んでいてもよく頭にはいってこない理由で、なぜか戦争を継続する。
いろいろな理由が解説されているが、自分が日本にいたときに見聞きしたことに照らすと、「重要な決断になるほど決断ができない」「現実を直視することが出来ない」「危機が迫ると頭でつくりあげた虚構を全員で信じはじめる」日本の文明的な特徴が「起こってはいけないこと」の最たるものであった「正義の国不敗日本が戦争に負ける」という事実に直面して噴きだしてしまったようにみえる。

たくさんの日本の人が指摘しているとおり、サイパン陥落後の日本支配層の反応は福島第一事故のあとの支配層の反応と薄気味が悪いほどそっくりで、都合の悪い事実の隠蔽、「専門家」が登場して素人は黙れキャンペーンを繰り広げるところ、支配層の思惑の情緒的アンプリファイアとしての役割に専念するマスメディア、どれひとつとっても福島第一事故のあとの日本と酷似している。
「全員が納得することがもっとも大事だ。みなでよく話しあうように」という昭和天皇の意見によって何十回もムダな会議を繰り返して、結局なにも決められず、そのあいだじゅう国民が一方的にそのつけを払わされる、という図式も同じで、太平洋戦争末期と福島第一事故のあいだに横たわる(表層的には大変化に満ちた)65年という歴史の時間をおもえば、民主主義だのなんだのというよりも、もっと深く日本人の心性に根ざしたものなのでしょう。

日本を占領しにやってきたアメリカ人の若い男たちが見た日本人という民族は異様なもので、女はなぜか顔に泥や墨を塗って髪の毛を蓬髪に仕立ててあり、男達はやたらと愛想良く笑いかけて、風変わりな発音でハロー、ウエルカム、と述べる。
イタリアに進駐したアメリカ兵たちは、「どいつもこいつも『あなたたちが来てよかった。自分はナチを憎んでた』と言う大嘘つきばかりだ」とイタリア人たちへの軽蔑をこめて書いているが、日本にやってきたアメリカ兵たちは、イタリア人よりも度を越した日本の男たちの卑屈ぶりに呆気にとられているように見える。

日本は沖縄を含めれば、というよりも沖縄の痛みはそのまま自分の痛みであると主張する言葉が本心であると仮定すると1945年から1972年の27年間アメリカの占領下にあった。
もちろん民政よりもいちだん下にある軍政のあつかいです。
あるいは沖縄人の苦しみが日本人のものであるというのが、おざなりの嘘であるとすれば1945年から1952年までの7年間、アメリカの軍政下に占領されていたことになる。
これほど長く、徹底的でうむをいわせぬ占領は世界の歴史のなかでも珍しい。
ナチのパリ占領などは足下にも及ばないほど無惨な日本文化の破壊をアメリカ人たちが行ったのは、ドイツ人が同じ欧州人としてフランス人たちの生活や文化に深い憧れをもっていたのに較べて、アメリカ人たちには日本の文明への敬意どころか理解も欠けていたからでしょう。

アメリカ人たちの日本占領の基本方針は「日本の文化を完全に破壊する事」「日本的なものを根こそぎにすること」だった。
「日本をアメリカ社会的価値にもどづいてアメリカ化すること」というふうにトーンがやわらいでいくのは、もっとずっとあとのことになる。

日本語は廃止して英語にしなければ日本人の悪魔的な思考方法は変わらないだろう、という見込みにしたがって、日本語を廃止しようとするが、第一には日本人側の強い抵抗があって、その上にアメリカ人たちのあいだからも「それでは日本が半島人に対して日本語以外を禁じたのと同じ事で人聞きが悪い」という声があがって沙汰やみになった。
ずっと読んでいくと、要するにアメリカ軍が7年をかけてやったことは、いまアメリカ軍がイラクやアフガニスタンでやっていることと同じで、イラクやアフタニスタンに較べて日本人のほうが占領前の、バカな人間ほど大声で集団で威張ってあるく辛い記憶がおおきかったぶんだけ、過去の伝統への執着が少なかったところだけが異なる。

イラン人はたいてい自分達の高い文明を背景にイラク人や他の「アラブ人」を極く自然に、人間としてやや下にみる、というか、粗野な人間の集団として眺める習慣をもっているが、そのイラク人たちといえども、古い文明の民らしく、ごく自然に「アメリカ人の野蛮さ」というものをかぎつけるので、なかなかアメリカ人式の占領政策はうまくいかないが、日本では当のアメリカ人たちがびっくりするほど、とてもうまくいった。
サクラ、フジヤマ、ゲイシャ、というのは当時うまれた日本で良いみっつのものと言う意味の言葉だが、ここでいうゲイシャは、本来の意味の芸者ではなくて売春婦のことです。
こういうと顔をしかめる人がいるのは判っているが、日本の若い女達の売春婦は、アメリカ人の若い男たちが世界のどこでも見たことがないほど、教育程度が高く貪欲さが少ない売春婦たちだった。
「ラクチョウオトキ」のような日本人にとっては「あばずれ」の典型のように言われる女びとでもアメリカ人からみると、人間としての哀しみや慎みをもった、カネを払って女の体を時間買いする、という行為からは起きるはずがない一種の感動を若いGIたちに与えた。

あんまり長くなったので、そろそろ終わりにしたいが、いま考えられているよりも、日本はアメリカ軍による長い軍事占領と徹底的な日本文化の破壊によって自己を失ってしまった。

教育や行政というような国の根幹を成す部分においてことさらアメリカ人たちは自分たちの制度を乱暴なやりかたで接ぎ木して去っていった。
日本の大学、たとえば東京大学というようなところに行くと、容れものだけを残して略奪されて荒廃した欧州大学の建物に、アメリカ式のマスプロ教育風景がはいりこんでいるような奇妙な印象をうけるが、実際、あれは日本の戦後の「教育」そのものを象徴しているのかもしれないと考えてみたりしたのをおぼえている。

わしの実家には当時の日本の人たちからの贈り物だと思われる「Made in Occupied Japan」の陶器が何セットかあるが、前にそのことを思い出して記事

http://gamayauber1001.wordpress.com/2012/02/25/made-in-occupied-japan/

を書いたらppqqというひとが、コメント欄で、小松真一という人が日本が戦争に負けた原因として
「文化の普遍性がないこと」と述べていることについて教えてくれている。

歴史を通じて、押し寄せる中国の文明に対して、日本人はずっと必死で自己のアイデンティティを守ろうとしてきたが、この頃、案外と日本人は「普遍性に背を向けることによって別の普遍性を見いだそうとした」のだろうか、と考えることがある。
特に日本における禅宗の特殊な発展においてそうみえる。

世界中の人が夜空をみあげて、煙るような、光が瀑布になって流れ落ちるような美しさに打たれているときに日本人だけが、深い暗闇の井戸の底に映る、たったひとつの星を、じっと見下ろしている。
わしは、しかし、日本人のそのまるで方角の違うものおもいが、ただ奇矯なものであると、おもいたくないまま過ごしているのであるのかもしれません。

(元の稿にはナポレオンの補給について書いてあったがクレフェルトみたいなひとが文句を言いに来てめんどくさいので削除した)(戦争の話になると「権威」のひとがいつもたくさん寄ってくるが、わしは戦争議論につきあう興味ない)(ごみん)

航跡のない海図

菅原通濟は鉄道建設に伴う闇の世界の実力者菅原恒覧の息子で昭和電工事件
http://jikenshi.web.fc2.com/newpage135.htm
の中心人物日野原節三の義兄、顔は小津安二郎映画が好きなひとにとってはお馴染みの顔で、「秋日和」「秋刀魚の味」のほか数本に端役ででてくる。
本人は、この「映画にちょい役で出る」趣味が好きだったようで、名刺にふざけて
「映画俳優」と刷り込んだりしていた。
鎌倉人にとっては鎌倉山の開発者としての顔がいちばん有名で、大船から日本で初めての有料道路を強引につくって無理矢理鎌倉山までもってきてしまったのもこのひとです。
作家や有名人との対談が好きで、50年代から70年代にかけての古本の対談集には、このひとの名前が出てくるものがいくつかある。
話がまったくかみあっていない吉行淳之介との対談などはたいへん面白くて、誰とでも話しがあわせられた吉行淳之介が珍しく憮然として、そのうちには怒りだしたらしい様子が書き起こした文面から伝わってきて、へえ、と驚いたりした。
「売春・麻薬・梅毒」追放でよくテレビに出た。
買春は日常で麻薬の世界にも若いときから馴染みだったことを考えると、案外、本人にとっては「俳優業」と同じくいっぷう変わった諧謔のつもりだったのかもしれません。

尖閣諸島の所有者栗原國起はこの菅原通濟の運転手だったひとで、テニスボーイやヨット好きのポーズをとった、はね返りとして政治経歴のほとんどを過ごした石原慎太郎にとってはいつも怖い視線を投げてくる世界の住人だった。
野田佳孝首相は内側の事情のみをじっと眺めていて、それなら国有化する以外に方法はない、と考えたもののようである。

風が吹けば桶屋がもうかる、というが、尖閣が国に売れれば江沢民が棺桶から蘇る。
野田首相が尖閣諸島を国有化することを決定して最も利益を得たのは政治的にはほぼ「死に体」であった江沢民と上海派、それに対外強硬派の「武闘派」というべき一群のひとびとで、大打撃を蒙ったのは胡錦濤たち「経済派」、中国にとって最も大切なのは経済の発展であって、そのためには日本等近隣諸国との問題はすべて棚上げにしてゆくのがよい、平和でなければ中国は破滅する、という一団のひとびとだった。

ブログでもツイッタでも、自分でもうんざりするくらい何度も書いたので、またか、といわれそうだが、日本が自分で自分の絞首刑台を建設しているというか、自分が銃殺されて倒れ落ちる穴を掘っているというかな、いまの不思議な状態は傍からみていて(皮肉ではなく)不思議でしかたがないので、やはり書き留めておかないわけにはいかない。
日本は中曽根康弘が胡耀邦に対して、ほぼ正確に同じことをやって、天安門事件を引き起こし、いまの中国人の日本への広汎な敵意を育てたので、中枢に中国がずっとスパイを飼っているのでもあればともかく、まさかそんなことはあるわけがないだろーから、どうなっているのかさっぱり判らない、と思う。

でも見ていて脱力する、といえばいいのか、日本はあれよあれよというまに自分の国の経済力と国民とを支払いの資とする、これからの悲劇的な運命を決定してしまった。
名前を挙げたほうがわかりやすいというただそれだけの理由で、いまは表徴としての意味しかもっていない老人の名前を挙げれば江沢民たちが経済音痴のまま膨大な経済テクノクラートを抱えた胡錦濤たちを凌駕してゆくためのゆいいつの可能なシナリオは「日本を犠牲にする方向においつめる」ことで、まさかそんなうまくゆくわけはないだろーに、とわし友達などが冷笑しているあいだに、日本のほうから屠殺場の複雑な追い込み口に自分で走り込んで、救い出せないところまで走って行ってしまった。
なんだか、ボーゼンとするような成り行きで、かろうじて、そういえば日本は原爆まで落とされる断末魔にスウェーデンの周旋の可能性も断ってよりによってソビエトロシアに和平の斡旋を依頼したのだったな、というようなよくわかならない歴史的な事実を思い出したりしただけだった。
ときどき、他者には絶対に理解不能な外交決断をするのが日本という国で、石原慎太郎はむかしから、そうと名の知れた跳ね返り右翼のごろつき政治家でも、どうも見えないところに、石原慎太郎のようなケーハクに深く共鳴して、もういちど鬼畜米英、白豚どもをぶち殺せとわめきちらしたいようなタイプの衝動を日本のひとは精神の奥深くに秘めていて、ときどき、それが出てきてしまうのかもしれません。

ともかく、ここまで来てしまえば欧州勢は未来の予想図を書き直すしかなくなってしまい、アメリカ側はヒラリー案を採用しておいてひとまずよかった、なんちゅうタカババ(タカダノババではありません)だと思っていたが、なんのなんの、玄人やんね、どうも旦那の治世も女房の知恵でやってたんだな、やっぱし、と考えて人心地がついたもののよーでした。

前に「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」の話をしたが、南太平洋には、「ジョン・ハワードの奇妙な捨て台詞」という小咄もあって、これはなんのことかというと、このひとが選挙に大敗して首相の座を去る直前、「オーストラリアには百万人の中国のスパイがいる」と述べて、百万人もスパイがいるわけねーだろ、と奥さんが中国との付き合いで大規模な利益をあげて、人民服を着て毛沢東語録をかざしているコラージュ写真がばらまかれたりした(丸顔に人民服がたいへん似合うと話題にもなった)ケビン・ラッドたちに嘲笑され、ハワードの発言を伝え聞いたオーストラリア人たちも、「とうとうハワードも頭がおかしくなった」という感想をもった。
オーストラリアの人口は2000万人なので、全人口の5%が中国のスパイだと述べたことになって、これは自国にいる推定外国スパイ人口の見積もりとしては世界最高で、申請すればギネスブックに載ると思う(^^;)

ジョン・ハワードは笑いものになって政界を去ったが、ところが、スパイ百万人説は、またくの失言かというと、ほんとうらしいところがあって、なぜならば中国のスパイは「パートタイマー」が多く、専業ではなくて、たとえばたまたま解放軍が欲しい技術の研究をしている若い研究者に綺麗なねーちゃんを派遣してイッパツやらせておいてから、「図面やなんかを5万ドルでもってきてくんね?」とささやく、というふうにスパイになることを依頼する。
簡単に想像がつくことだが、むかしのKGBとは違って、美人女スパイのほうもパートタイムのねーちゃんで、ここのこいつを、この部屋につれてってイッパツやってきてくれれば5000ドルあげよう、とゆーふーに育成というか即成されるもののよーである。

ジョン・ハワードの発言をパーティで聞いた政治学者のアメリカ人おっちゃんPが「百万人?もっと、多いだろう?」と不思議そうに述べたのをおぼえている。

ニュージーランドでも中国政府のダミー会社の社長がつかまりそうになって逃亡したりするが、会社だったのがダミーになったりするのもあって、勝手が違うので、欧州でも困じはてている政府はたくさんあるよーです。

島嶼の強襲であるとかへたをすると塹壕がイメージされそうな防衛戦とかはすでに古い思想で、オスプレイをみればわかるとおり、強襲戦も防衛戦もロングレンジで機動的なものになったのは、要するに中国が空母をもったことが引き金で、ここからは世界の暴力バランスは新しい局面にはいってゆくように思われる。
軍事でいっても、いままでの感覚のひとでは役に立たないので、制服組以外は若いテクノクラートが大量に投入されている。

1937年に日本が始めて1945年に中国の勝利で終わった17年間に及ぶあの長い悲惨な日本と中国との戦争は、「局地限定」の紛争を企図する軍人のケーハクが、いかに重大な事態を招くかをあますところなく教えている。

魚がとれないので有名だという尖閣諸島に蝟集した中国漁船の写真を眺めながら、
どーなるんだ、と考える気持ちは、暗くなってゆく一方なのであることを書き留めておきたくて、記事にした。
2012年11月16日に、ぼくが描いた海図には、デッドロックがそこここにあって、こんな剣呑な海図はみたことがない、と考えたことを、ここにメモしておきたい、と考えました。

A Big Swell

金正恩が延坪島を砲撃したとき、世界中の「東アジアウォッチャー」が「あっ」と思ったはずである。
あ、と思ったのはなぜかというと、ウォッチャーであるのに「あっ」と思っていてはマヌケだが、理由があるにはあって、総書記に就任早々延坪島を砲撃するということには、
「これからは軍事恫喝路線は収拾して経済を再建してゆく」というメッセージがこめられていたからだった。

そーだったのか、とウォッチャー木村たちがぶっくらこいているころ、青瓦台では李明博たちが顔をしかめていたに違いない。
こちらはなぜ顔をしかめていたかというと、せっかくいろいろにさまざまにおためごかしを述べながら、「隣国として支援しようとしてもしきれなかった北朝鮮を一身を投げ出して、巨大な経済的出費をものともせずに、同胞を救いたい一心でついに半島統一の形で人道的統一を行う韓国」という図式をつくる準備をしてきたのに、この時点で経済路線に転換されると「中国の影響下にある北朝鮮」が固定してしまって韓国には良いことはなにもなくなってしまうからです。
それでは北朝鮮が中国傘下の子会社みたいな国になってしまう。
青瓦台は慌てて朴正煕の娘、朴槿恵に連絡をとったに違いない。
「このままでは、われわれはアメリカの影響下にとり残されてしまう」

竹島上陸はこの頃に決まったに違いないので、任期満了で次を考える必要がない李明博が、自ら竹島に上陸することで、アメリカ主導型の米日韓の安全保障の枠組みなんか、もうやってられるかよ、という韓国からアメリカへの強烈なメッセージだった。

むかし、ヒラリー・クリントンからニュージーランドへの不思議なメッセージが届いたことについて書いたが
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/24/ヒラリー・クリントンの奇妙な提案/

そっちがそういう考えなら、わしらにも考えがあるというか、韓国人は、アメリカ人たちに対して「やる気あんのかよ」と思っていたところなので、もう、なんだか防御線を後退させて、あとは遊撃的に防御するからダイジョブだとかいかにも眉唾なことを述べているアメリカに頼りきるのはやめて、アメリカ主導だけでやるのはヤンピだ、という韓国の歴史的意思表示が李明博の竹島上陸だった。

韓国の最大の悩みの種は、もともと、この「やる気が全然ないアメリカ」で、IMFを通してアメリカとの強い結びつきで経済を復興してきた韓国は、経済の復調とともに、しかし、急速に中国との直截的な関係を重視するようになってきていた。

韓国の経済の実態はサムソンそのものだという笑い話があるが、そうそう笑ってだけいてよい話ではなくて、サムソンという会社はもともと日本型の財閥型経済であり社会だった韓国そのものを根本から変えてしまった。
一方でサムソンは言わずと知れた日本の電気会社群相手に完勝した先端情報家電の会社で、英語世界では洗濯機や冷蔵庫も売っているが、ほんとうの商売はスマホやLAN対応のプラズマや液晶画面のテレビで、こういう業界の実態を知っていれば簡単にわかるが、台湾や中国本土もひとつの業界をなしていて、この経済世界を通じて韓国は「東アジア圏」をつくろうとしている。
たとえばディジアがノキアから買い取ったQt
http://en.wikipedia.org/wiki/Qt_(framework)
などを共通基盤にする、というようなかっこうでこれからますますリソースの共有化が起こっていくだろう。

中国は中国で、20年前には日本に役割を担ってもらうべ、と想定していたが、最近は台湾や韓国のほうが優秀なので、先端技術を吸収して経済のコンプリートセットをつくる相手としても都合がよくて、韓国との距離をぐっと縮めてきていた。
中国と韓国の水面下での接近はアメリカが眉根にしわを寄せるに十分なものだった。
アップルとサムソンの訴訟をめぐる(訴訟そのものではない)やりとりにも、そういう雰囲気がみてとれます。

しかし北朝鮮だけは、あんたにあげるわけにはいかないのさ、という韓国の中国に対するデモンストレーションが竹島上陸だった。
もちろん、それはアメリカと北朝鮮に対するデモンストレーションでもあった。
北朝鮮の「冷静になりなよ」という極端に冷淡なコメントは、そうした政治的利害を忠実に反映している。

中国・韓国・日本の3国には、やたらめたら感情的で、ちょっと火をつけてやれば、「ポンッ」と燃えて集団で喚き廻る頭の弱い、「歩く政治的油紙」みたいなトンマな「愛国人」「自称右翼」がいっぱいいるので有名だが、竹島ならば、このうまく使えれば便利だが、こっちの政治意図をちゃんと読んでくれないので通常は邪魔なだけの「愛国者」たちも、あさっての方角にものごとをうけとって見当違いのあばれかたをしないであろう。

ちょうどヒラリー・クリントンが「捕鯨」「対日戦争の記憶」を暗喩として、太平洋外交の基調底音として響かせながら外交を進めているのと同じように、東アジアにおいては常に「反日」「日帝支配の記憶」は安全なカードだからです。

金正恩が軍幹部とこれみよがしにつるんで、やたら軍を賞めまくって暮らしているのは、半島人であれば、誰にでも一目瞭然、経済振興路線に舵をきって、ここで軍隊にむくれられるとえらいことになるからだが、この経済路線によって、北朝鮮がまるごと懐にころがりこんでくる可能性をつかんだ中国は、金正恩に協力して、軍隊を抑える側にまわっている。
半島のことを一緒に考えて助けてくれる、わしの友達の「よん」さんも経済振興がうまくいくかどうかわからない、とわしの問い合わせのメールに答えていたが、うまくいかない場合は多少あらっぽいことが起こって、半島は韓国主導で統一されることになる。

いずれにしろ、アメリカの影響力排除に、中国・台湾・韓国・北朝鮮の地域全体が動きはじめたことで多少の紛争が起きる可能性が高くなっているよーである。
アメリカは、それによって国防策を変えることはないにしても、日本の「沖縄基地返還」からはじまって、中国が「や、やっぱりまだやる気おおありだったのね」と驚愕させられたオスプレ配備にまで国民的な反対感情を形成する日本に深く失望している。
わりと単純な感情というか、「あんた、同盟者じゃなかったの?」という、そのへんのおばちゃんたちがもちそうな感情であって、こういう感情は解決優先度がとても低いアンノイアンスに過ぎず、政策に影響するわけはなくても、長期的にはかなりの影響力をもつと考えてよい。

尖閣は竹島と別の問題で、この問題は中南海からやってきた問題だが、しかし、旧安全保障の枠組みから新しい安全保障の枠組みに地域が移行する途中で、宙ぶらりんのまま漂っている日本を政治駆け引きの場として利用するにしくはなし、とみなが考えている点では竹島と同時期に自称中国本土人のオチョーシモノたちが上陸したことに必然性がないわけではない。

ここまで書くと「日本は、どうなってるんですかあー?」と思う日本のひともいるだろうが、日本は国内における右翼の衰退以来、アジアとの「絆」を失ってしまっている。
なんだか役所の作文みたいな外交ばかりをしていて、外交的機能不全に陥っているので、この点でも「古く」なってしまっているのでしょう。
ちょうど、江華島事件
http://en.wikipedia.org/wiki/Ganghwa_Island_incident
の頃と半島や大陸との関係が逆になりつつあるような趣になってきている。

竹島や尖閣諸島への日本の政府・マスメディアの反応を眺めたかぎりでは、これが反応なら人民解放軍は「局地なら意外とやれるかな?」と考え込んでいるかも知れず、まきこまれなくてすむ紛争にまきこまれないためには、国民ごと、もう少し目を見開いてしっかり自分の国のまわりを見た方がいいがなあー、たとえば北とかも、と思わないわけにはいかないのです。

ヒロシマ

2005 年に製作されたBBCの「ヒロシマ」
http://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshima:_BBC_History_of_World_War_II
は、恐ろしい番組だった。
描写がリアルすぎて、夢に出てきそうです。
なかでも、一家がそろって朝食を食べているときに原爆が爆発して家が瓦礫と化してしまう家族の話は、爆風で両親が家屋の外に吹き飛ばされ、子供だけが崩壊した家の下敷きに
なってしまう。
意識をとりもどして家屋のほうへ這い戻った母親に瓦礫の下の子供が「おかあさん、助けて、はやく助けて」と叫ぶ。
母親は瓦礫をどけようと必死になるが炎があたり一面から襲ってくる。
「息が出来ない。おかあさん、熱い。はやく出して。おかあさん 足が痛い」
「おかあさん、足が燃えてる 足が燃えてる。熱い。助けて、行かないで、おかあさん、行かないで。足が痛い」
結局、母親は、あきらめて、炎のなかを、昏倒した夫をひきずって川へ逃げてゆく。
どうして一緒に焼け死んであげられなかったのだろうという悔恨のなかで戦後の長い時間を生きてゆきます。

書いてしまうと、怖さがぬけおちてしまうが、わしはこんなに恐ろしいドキュメンタリを初めてみました。

戦後カナダ人の配偶者をもったせいでカナダに移住し、被爆者健康手帳をもらうために訪問した日本で海外に在住するヒロシマ被爆者にはがんとして手当を払おうとしない日本政府の冷淡な態度に衝撃を受けて、人前で話をすることに最後まで抵抗を感じながらそれでも「ヒロシマ」を講演しつづけた絹子ラスキーや、急病の子供の往診で夜中に揺り起こされて爆心地から6キロ離れた村まででかけていたせいで助かった、福島第一事故後ヒロシマを経験した医師として発言している肥田舜太郞も証言者として出てきます。

この番組のなかで最も恐ろしいシーンは、多分、海軍の艦船でおおぜいの若い士官たちと談笑しながら食事を摂っていた合衆国大統領ハリー・トルーマンが「ヒロシマ原爆投下成功」の電報をうけとって、「諸君、広島は一瞬で破壊された」と立ち上がって読み上げると、部屋いっぱいの若い士官たちが歓声を挙げ、抱き合って喜びあうところで、36万人の広島市人口のうち14万人を殺したウラニウム235の爆発とそれが引き起こした殺戮の報告を聞いて、みなが底抜けの歓喜に包まれてしまう。

集団的サディズムはそれによって引き起こされたより大きな集団的サディズムによって復讐される、というのは、歴史の常識であって、それをよく知っていたから、ローマ人たちは、完膚無きまでに破壊したカルタゴの瓦礫をどけて更地にして、その上に耕作ができないように大量の塩をまいて、カルタゴ人がどんなにあがいても復讐できないようにした。

トルーマンと若い海軍士官たちが「サディスト集団」日本人の大殺戮の成功を祝っているころ、16歳の志願看護婦絹子ラスキーは、動かなくなった下半身をひきずって、匍匐して病院の階段にたどりつく、そこで幸運にも知り合いの医師の手術で体中に埋め込まれてしまった大小のガラスの破片を取り除いてもらうと、立ち上がれない身体のまま這って(とすら言えない腕でにじりすすむやりかたで)駅へ行く。
そこで「隣の駅からでなければ電車は出ない」と聞かされると、この驚くべきひとは、数キロ離れた次の駅まで線路上を腕だけで匍匐していきます。
「ときどき気絶してしまうんです」と絹子ラスキーは言っている。
意識が戻って空をみると、青い明るい空が見えたり、真っ暗な空が見えたり、そのときどきで違う空が見えた。
何度も気絶しながら、線路のあいだをはって、隣の駅まで行きました。

そうやって這いながら、絹子ラスキーは親の家にたどりつく。
6ヶ月、病床につくが、両親の必死の看病で、恢復していきます。

原爆を投下したエノラ・ゲイの機長Paul Tibbets
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Tibbets
は、大佐でありながらこの重大なミッションを自分の手で行うべく機長として飛ぶことを志願した。
死ぬまで自分が命令を遂行したことによって、たくさんの日本人とアメリカ人の生命を救ったことに誇りをもっていました。
原爆投下の決定をくだしたスタッフルームの最後の生き残りだった中尉も、「ヒロシマの責任は最終通告をうけいれなかった日本人にある」と明快に述べている。
日本では違うニュアンスになっているのにわしは気が付いたが、アメリカ側では、アメリカの最後通告が日本軍の解体を条件にして日本全体の解体を述べていなかったことをもって、「アメリカが日本側の勇戦で瓦解寸前になり弱気になっている」と誤解した傲慢に原爆投下の直接の責任を求めるのが普通の解釈になっている。

だから、やむをえず、原爆を投下した。

このBBCの番組のなかで、この見解に異議を唱えるのは肥田舜太郞医師ただひとりで、柔和な眼で微笑しながら、「アメリカは人体実験のために原爆を落としたんです。われわれには戦闘能力などもうないのは明らかだったことをアメリカは知っていたはずです。アメリカは原爆が人体に対して放射性物質がどういう影響をもつか、どうしても知りたかった。だから、広島に爆弾を落としたんですよ」と臆することなく述べている。

いま日本語wikiを見ると、
「広島に検査だけして治療はしない病院(原爆傷害調査委員会:ABCC)がつくられるとの噂から、依頼を受けて、治療もするようにと厚生大臣や連合国軍総司令部と交渉。結局断られ、理不尽な占領軍の傲慢さに憤って、アメリカの無法と闘うため占領権力に真正面から立ち向っていた日本共産党に入ろう、と決心し入党した」
と書いてあります。

若い医師だった肥田舜太郞は、村からキノコ雲を見て広島市内に自転車で急ぐ途中、
「真っ黒焦げに炭化した人間の形をしたもの」が自分に向かって歩いてくるのを目撃した瞬間から、66年という長い時間を放射線被害と格闘する人生を生きてきたことになる。

記録フィルムのなかで、もうひとつ示唆的なのは、関係する人間がみな緊張に包まれて、しかも離陸滑走中の爆発をおそれて飛行中の空中で最終組み立てを行うという慎重さで行われた緊迫した広島への原爆投下に較べて長崎への投下は緊張感がなくなっていたことが判ることで、プルトニウム239爆弾である「ファットマン」に、みなが笑いながら日本人に対する落書をするところがフィルムに残っている。
京都や東京に原爆を落としていって、日本全体を更地にするのだろう、と憶測していた爆撃隊員たちの、原爆投下が早くもルーティン化した、やや気楽な気持ちが見てとれる。
長崎の原爆投下は実は失敗で、目標から3キロも外れたところに投下してしまうが、この失敗の理由には伝えられる天候だけが理由ではなくて、他の理由もありそうです。

実は、わしは広島や長崎の原爆投下に興味をもったことはなかった。
理由というようなことはなくて、なんとなく、興味をひかれたことがなかっただけです。
iTunesで、なんかオモロソーなテレビ番組をダウンロードしてみてみるべと考えて、あんまり面白そうなものがないので、前後編にわかれたこのビデオをダウンロードしただけでした。

しかし、一度見始めると最後まで釘付けになってしまった。
いまさらなにを、といわれるだろうが、核分裂の力を解放してしまったときの破壊力のすさまじさは人間の感覚が想像する「破壊」というものの概念を遙かに越えている。

爆発の半径500メートルでは、あるひとは階段に影だけを残して肉体の全組織が蒸発してしまい。
ほとんどのひとは一瞬で炭化して人間の形をした炭になってしまう。
丘陵を隔てた6キロ離れた村にいた肥田医師も、爆風で家の反対側まで吹き飛ばされた、と証言しています。

よく知られているように、広島に落とされた原子爆弾は、50キログラムのウラニウム235を使った原始的なもので、いま世界中にばらまかれつつある核兵器とは世代も破壊力も桁が異なっている。

もっと切迫した問題である福島第一原子力発電所の事故と向き合っている日本のひとびととは違って、英語世界では、フクシマへの日本政府と日本社会の反応がもたらしたふたつの事柄への危惧が小さなサークルのなかでひそひそと話し合われている。
ひとつは、「日本人が事故後もたいしたことがなかった、と言っているのだから、原子力をこれまでと同じにチョー危険であると見なすのはやめて、汚くないエネルギーとしてもっと推進したらどうか」というひとびとが力をもちつつあることであり、もうひとつは、更に深刻で、日本人がつくった「放射線被曝の新基準」が仮に認められるとすると核兵器使用の心理的な障壁がなくなって、タブーではなくなってしまう。
いままでは核兵器を使用することは、そのまま(放射線被曝の二次被害によって)人類の終わりと意識されていたのが、そうでもないのだということになると核兵器を使用する大統領なら大統領の個人の決心の閾値が低くなってしまう。
ただの破壊力のおおきな通常兵器だというように意識されてしまえば、少なくとも局地的な核兵器の使用は実際に頻発してゆくかもしれません。

もともと核分裂反応による発電は技術として筋がわるいのは常識なので、1番目の危惧は、たいしたインパクトをもてずに終わりそうだが、2番目のほうは、結局は人類全体を滅ぼすことになるかもしれない。
地球上の核兵器管理全体が歴史上はじめて、というレベルで緩くなってしまっている現状では、もう案外と切迫した問題になってしまっているのかもしれません。

ちょうど、(特に増殖炉において)きわめて原子力発電の現状が危険な状態であるのを知りながら、それを放置していた自分達の「慣れ」による無責任が、今度は核兵器において追究されることになるのだろうか。

考えると、ユーウツな気分になります。

「中国様」が来た!


北虜南倭、というが中国にとっての長年の「北虜」であったソビエト連邦は1991年に自分で、たのまれもせんのに勝手にこけてしまった。
このときの中国政府要人の欣喜雀躍は通りいっぺんのものでなかったことが、当時、北京に公務で居合わせたいろいろな人々によって記録されている。
「これでやっと中国の時代が来る」とゆって、歓喜天に至る趣であったそーだ。

北虜って、何?というひとびとのためにちょっとだけ書いておくと、中国の北の長い長い国境線から浸透してきては中国人たちを苦しめ、13世紀から14世紀にはちゃっかり支配層になって中国人を支配したりした遊牧民族のことです。
ペダンティックなひとびとは、こう言うと、「ええええー、北虜って明代に限るんだよおおおおお バッカじゃねええええー」と下品に舌を突き出して言うであろうが、学者でもないのに学者バカのバカだけ真似てはいけません。研究者でない「研究者気取り」というのはニセ医者より悪い。

中国人にとっては北には歴史を通じて強圧的で暴力的な魔神のようなものが住んでいたのであって、これが国家の方策そのものを縛り上げていた。
卑小な例を取ると、京都に出て「正しい中世」をやりたかったのにすぐ後ろに戦争と正義が三度の飯より好きでちょっと油断すると飛びかかってくる上杉謙信対策に忙殺された武田信玄みたいものであろーか。
もっとも上杉謙信というひとは「純粋戦争屋」、ゲージツのためのゲージツのごとく、センソーのためのセンソーを愛好していただけであったので、別に戦争は好きではないが、とにかく金寄越せわりゃおれのために働かんかいこのボケ、だった北方遊牧民の方が遙かに大規模で質が悪かったのはいうまでもない。

17世紀には東北からやってきた北虜もどきのひとびとが、武力のみならず知的にも漢人文化の土俵で圧勝して、しかも有名な「辮髪」を強要した。

辮髪強制って、すごいのよ。
だって江戸時代の丁髷日本人を征圧して、「おまえらみんな明日からカーリーヘアにしてこい」っちゅうのと同じだからな。
カーリーヘアでマジメな顔して「武士道」とか、やれるもんならやってみい。
切腹も髷があるから出来るのであって、ライオネル・リッチーみたいな頭してやれるもんとちゃいます。
形骸というものはたいていの場合、精神なんかよりもずっと文化にとっては重大かつ致命的なものである。

書いていると切りがないので中国人の「北虜」イメージはこのへんでやめるが、じゃ、「南倭」はなんわ?

倭、ちゅうのはチビちゅう意味です。縮み男だな。
日本人の事です。
チビがフンドシ一丁で、すごい数でダンビラふりかざして、わあああああー、と海岸から攻めてくるねん。
南無八幡大菩薩とか、八紘一宇とか、お題目はかっこええねんけど、いったん上陸すると集団で略奪するわ荒れ狂うわ強姦するわで言う事とやることが全然違うひとびとであった。
明代にも散々くるしめられたが、1930年代の「南倭」は最悪で、首都に雪崩れ込んできて、中国人とみれば区別無く一列に並べてぶち殺すわ、女と見れば子供から老人までいきりたって強姦するわ、強姦すれば必ず後で「虐殺も強姦もありませんでした」というために間違いなく殺害するわで、とんでもない目に遭った。
国家的トラウマになったが、あたりまえ、というか、近代国家でここまで蹂躙された国は他に見当たらないので、「南倭は北虜より悪質である」というイメージが出来たのもむべなるかな。

中国の歴史を読んでいて、強く感じるのは、「北虜がなくなればなあ北虜がなくなればなあ北虜さえなければなあああ」という終わりのない繰り言のようなタメイキのような基調底音である。
ところがそれがほんとになくなってしまった。
「冷戦の終わり」とは中国にとっては要するに北虜の消滅だったのです。

これで南倭もなくなっちまえば、いえーい、だが、南倭はなくなるどころか万事好調で大秦国のパチモンみたいなアメリカ合衆国の強い後押しでぶいぶいゆわしておる。
二言目には「おれは平和主義なんだからな」とゆーが、相手は両親をへらへら笑いながらぶち殺して叔母や姉を無惨に強姦してコンクリ詰めにして捨てて出所してきた当人であるし、第一容疑をちゃんと認めなかったし、おまけに肩越しにふと見ると、後ろでヌンチャクを振り回して奇声を発してこちらを威圧している図体のでかいにーちゃんはあろうことか、南倭を強姦殺人で逮捕した警官そのひとである。

中国人としては、隠忍自重臥薪嘗胆克己復礼、いろいろにゆったりごまかしたり、70年代にはいまでも日本で活躍しているひとびとを学生時代から招いては因果を含めたりしてありとあらゆる孫子の策をつくして自力の涵養に努めたのであった。

ああ、疲れた。
たとえ話は難しいな。
やめた。

中国の「尖閣体当たり物語」はもうすぐ止むでしょう。
戦場で、隠密にこっそり敵情を観察しても判らないこと、たとえば火線の配置と規模、反撃に要する時間と立体攻撃の有無やなんかを見るのに、軍隊というものはときどき「強行偵察」ということをやる。
たとえば戦車を後陣に配置した装甲車を中心とした小部隊を繰り出して敵の面前にちょっとだけ展開させてみたりします。
敵の反撃を誘いだして「あっ、反発はこーゆー感じなんだな」と把握実感する。

中国は沖縄の普天間問題を凝っと観察していた。
日本の民主党政権が防衛問題についてはびっくりするくらい素人で、しかも防衛省の玄人衆は人が悪くもそのバカッぷりをニヤニヤして見ているだけであることに驚いたに違いない。
もうひとつヒラリー国務長官の軽い恫喝でへなへなと方針を変えるあっけなさにも、へえ、と思ったもののようである。

ちょっとヘリを飛ばして自衛艦に思い切り近づけてみた。
また、へえ、と思ったでしょう。
今度はアメリカの反応を見て、です。
意外と及び腰やん。

だから今度はもうちょっと露骨に強行偵察に出てみた。
合衆国や欧州豪州に対しては相手の利益になる提案をするのと当然セット戦略です。
主張は「日本を含めた東アジアの諸問題は中国の勢力圏の問題であって、あんたらの知ったこっちゃないという事を理解しろ」ということである。
南倭の真の脅威がおまえらなんかに判ってたまるか、という気持ちがある。
この町内はわしが町内会長でないと治まらん。

「尖閣は日米安保の対象である」という声が聞こえたところで、強行偵察の目的は達せられた。
そーですか、と思ったでしょうね。
じゃ、ま、今回はこの辺でやめておこう。

タイの赤シャツ事件も考慮すると、中国の目指す「絶対国防圏」は西はメコン流域、東は日本、という事のようだ。
近い将来においての「勢力圏」は、中国にとっては意外なことに技術的に陳腐化しつつある日本の代わりに、おおきく技術的な進境を見せた台湾が産業の「先進的パートナー」として必要なので台湾を政治的にも確保する必要に中国は迫られているように見える。
政治的な戦略と矛盾しない経済関係を維持できる日本を先進パートナーにすえる場合と違って台湾をパートナーとする事は政治的な紛争を招きかねないからです。
だからいざ台湾を併合する段になっても合衆国が本格的に反発することをあきらめさせなければいけない。
その点では日本がひたすら恥を忍んで「やめてください。お願いします」と頭を下げ続けたことは、中国としてはやや舌打ちしたくなるような誤算でしょう。

だから、ちょっと碁盤のこの局面は休止するだろう。
中国という国は歴史を通じて年柄年中息つく暇もなく膨大な外交努力をやり尽くす国なので今度はアフリカや欧州を睨んで碁石を握りしめているに決まっておる。

日本の「面子まるつぶれ」、この次捕鯨に行って、シーシェパードのワトソンが面白がってフネ体当たりしてきたらどーするつもりだんねん、な尊い犠牲と引き替えに諸外国が学んだのは、「中国って、やっぱりやばいやん」という認識であった。
まだ中国様で稼がないとまずいのでそうそう口に出していうわけにはいかないが、どうも「東アジア絶対国防圏」はマジなんだな、という重大な教訓を学んだのでした。
誤解してはいけないが、それは「切迫した認識」ではない。
読売新聞には「豪州も重大関心」とか書いてあったが、ウソですよ、そんなの。コモンウエルスゲームズの百分の一も興味あるもんけ。
合衆国や連合王国やなんかの一般的な英語人に至っては、そんなニュース知らんし、たまたまワシントンポストか何かで記事を目にしたとしても「ははは、日本、だっせえええー」くらいと思う。
第一、これは推測だが、当の中国人自身がそんなにたいしたニュースだと思ってないでしょう。
しかし、東アジアの専門家たちは、この尖閣諸島を巡る「小さな出来事」を見て、そーですか、と呟きながらラップトップのスクリーンを静かに閉じたと思う。
今日は家に帰っても、考えることがいっぱいあるな。

誰よりも日本人が感じた通り、中国は、紛いようのない「全体主義国家」でしかも世界が受け入れられるはずのない巨大な「国防圏」を建設する強い意志をもっている。
将来、というよりも、とても近い将来、中国は戦前の大日本帝国とその面でのロジックは同じ「国内問題だけが見えて他国の都合は考慮しない」全体主義国家の性格を露わにして「資源」をキーワードに世界に対して挑戦してくるのが誰の眼にも明らかになった。

いままでずっと、なんとなく遠い将来のこととしてぼんやり語られていた、あの破滅的な物語のなかの「世界をくいつくす中国」が表舞台に現れる初めの前兆が、あのしょもない島を巡る一幕の出来事なのかもしれません。

M4_シャーマン

アメリカ人がただ「良い戦争」と言えば、それは第二次世界大戦のことと決まっている。
「良い戦争」という言葉自体はベトナム戦争という「悪い戦争」との対比でよく使われるようになった。
援護射撃を命じて突撃するとき、第二次世界大戦のときはどんな苛酷な状況でも部下全員が遮蔽物からクビを出して援護射撃をした。
朝鮮戦争になると、危なそうなときは援護射撃をさぼる兵士が出てきた。
ベトナム戦争になると、援護射撃のふりをして突撃を率いる下士官を後ろから撃つ兵士が出てきた、という。

第二次世界大戦はアメリカ人にとって判りやすい戦争であった。
なんだかエラソーに気取っている「ナチ」という鼻持ちならないやつらが、人種的優越とかぬかして大陸欧州を制覇しているのが、そもそも気に入らなかった。
あとで戦争が終わってから蓋を開けてみると、それどころではなくてユダヤ人を効率的に屠殺して人種ごと抹殺しようとしていたので事の深刻さにびっくりしてしまったが、戦争を始めた頃は、そこまではわからない。
アーリア人だかなんだか知らないが、「選ばれた民族」とかくだらねえことをぬかしやがって、と憤慨していただけです。

大西洋横断に成功して国民的英雄であったリンドバーグのようなひとまでナチを称賛しだしたので、アメリカ人は早くちゃんと戦争を始めた方がいいのではないか。「中立」なんて言っていると苛苛する、と考えだしていた。

そこにナチの尻馬に乗ったお調子者のアジア人の帝国「大日本帝国」がはるばる真珠湾にまでやってきて爆撃をして帰る、というそれまでのアメリカ人の常識では起こりえないことが起きたので、なんだかよくわからないが興奮して、「そこまでされたら立ち上がらなくっちゃ」というので一挙に一致団結したのでした。

ナチと「The Japanese」(このtheはいまでも日本人の頭にくっついているが、日本人はその意味を考えたことがあるだろうか)というふたつの「悪いやつら」に立ち向かう「良いアメリカ人」の英雄的戦い、というのは5歳の子供でもわかる図式であって、このアメリカ人にも判る「良い戦争」という図式が大不況から社会的沈滞から、それまで倦怠期みたいな空気が澱んでいたアメリカの諸問題をあっさり解決してしまいました。

ナポレオンの軍隊と同じで第二次世界大戦におけるアメリカ軍は「理念」の軍隊だったので、アメリカ的理念を明確にあらわしたものがいろいろ他国民の軍隊を驚かせた。
英国人や自由欧州人たちとともにアイゼンハワーというドイツ人の将軍に率いられて大陸欧州にスターリンが熱望した第二戦線を開くべくノルマンディに現れたアメリカ人たちの先頭に立っていた奇妙なシルエットの背の高い戦車もそのひとつである。
この戦車を初めて見たドイツ兵は、「なんじゃ、あれは」と思ったのに違いない。
もしかすると対戦車壕の戦車砲の脇からその戦車を望見してふきだした対戦車兵もいたかもしれません。

そもそもその形状が戦車としてはマンガ的である。
この頃にはもう東部戦線では、弾頭に硬い特殊合金を被せた砲弾が開発されたせいで高射砲と初速がほとんど変わらない大砲で遠距離から高初速低弾道で戦車を吹き飛ばす射撃術が一般化しつつあったので戦車の車高は低くなければどうしようもない、と理解されていた。低い車体に斜めに傾いた装甲版、が戦車のスタイルになりつつあった頃です。
アヒルみてえな戦車だな、とドイツの擲弾兵たちはつぶやいたに違いない。

しかし、この「アヒル」は1台姿をあらわすと、次から次にわらわらとあらわれて、あるものは陽動して、あるものはフランキングにかかり、で当時無敵を誇った88ミリまで置き去りにせざるをえなくなった。

戦争が終わってから、ドイツ人たちは、あの妙に背の高い車体が実はWright R-975 Whirlwindというたった400馬力弱しか出ないが生産工程が簡単なせいでやたら数だけは生産出来た航空機用星形エンジンを流用したからだ、ということを発見して驚いてしまう。

戦車1台で戦闘機4機が出来る、というくらい戦車は高価な兵器である、という常識をアメリカ人は覆してしまった。若いポルシェに率いられたドイツ技術者のチームがハイブリッドエンジンの「スーパー戦車」を作りつつあったドイツ技術とは真っ向から対立する思想です。

一騎当千、というがドイツ人たちは自分たちは世界のなかの選良民族なのだから数倍の敵に打ち勝って当然、数百倍の敵に遭遇すれば敵を壊滅させて自分も滅びるだけだ、という英雄叙事詩的なあるいは中世悲劇的な感情で戦争を戦おうとした。
もっとも当のドイツ人たちが戦後になってつくった戦争映画を観ると、それは士官級以上がそうだっただけであって、兵士達は英雄かぶれの上官どもにうんざりしきっていたのが判りますが、ともかく、こういう「選ばれた」「高貴」な戦車士官たちが戦ってボロ負けしたのは肉屋のおやじや配管工のおっちゃんが戦車長のM4の集団でした。
戦場にあらわれたタイガー戦車を見ては、「なんで、あんなにデッカイんだ、あの戦車は、あんなデカイ戦車もってくるなんてドイツ人の野郎、汚ねえだろ」とゆってみたり、
パンサーを見て、あまりのカッコヨサに写真を撮ったりしていたアメリカ人たちの戦車軍団は、しかし、どの対戦車戦闘でも負けているような奇妙な印象を残しながら圧勝していった。

アメリカ軍という史上初めて英雄を戦意昂揚の目的以外では必要としない軍隊が歴史の表面に登場した初めです。1918年には「Tシャツ」を残していっただけだったが、それから四半世紀後に大陸欧州に帰ってきた軍隊はすでに世界最強になっていた。
しかもそれはアメリカ人たちが自分達自身で自嘲して言ったように『世界最弱の兵士による世界最強の軍隊」だったのでした。

戦車個体の性能という点では、凡庸のやや下、というしかないM4をわしが好きなのは、
要するにそれが「アメリカ的価値」の頂点にある技術だからであって、他には理由がないようです。前にブログに書いたF4Fと並んで、M4には「普通の人間」の自由への執着と勇気と魂の健全がこもっている。
アメリカ式民主主義というものが、かつてはどのようなものであって、どういう光輝に包まれていたか、ということを兵器の形で体現している、と思うのです。

四式重爆「飛龍」

Mさんは工業専門学校(いまの工業大学)を出て、三菱で擬装担当技師として働いていた。昭和20年のことです。

新型の四式重爆の後部銃手の死亡率が高すぎるので電動式の自動に変えろ、という軍の要望だったそうである。

Mさんたちは、試作機をつくってみたものの制御性が悪く飛行隊員の評判が悪かった。

自分たちのつくった電動式機銃(陸軍の呼称では機関砲)が動かずに撃墜される四式爆撃機の姿を考えるといたたまれない気持ちになったMさんと同僚は空襲下浜松から宮崎まで実地検分に出かけたという。

ついたばかりの夜、沖縄から戦隊が帰還する、というのでMさんたちは飛行場で早速待機することにした。

何時間かを待つうちに爆音が低く聞こえ始めて爆撃機たちが帰投してくる。

「たち」とゆったが、ほんとうは戻ってきたのはたった一機です。エンジンから夜目にもわかる煙を曳きながら、しかし模範的な着陸姿勢で滑走路に着陸した四式に向かってMさんたちは全速力で駆けていった。

「機関砲はよう動きよりましたか。」

Mさんは叫びかけながら駆け上った。

「そこで私が見たものを私はその後一生忘れられなかった」とMさんは自費出版の本のなかで書いています。

息をのむMさんたちの目の前にあったのは、滅茶苦茶に破壊されたガラスのない風防の下で血まみれになって、しかももうとっくのむかしに冷たくなっている正副操縦士の遺体であった。

やがて救護の兵隊が胴体を捜索すると全員が合衆国軍機の機銃弾に撃ち抜かれて絶命していたという。

魂魄が操縦して戻ってきた四式の電気擬装を調べながらMさんと同僚は嗚咽がとまらなかったと言います。

四式重爆撃機飛龍は、わっしが最も好きな日本の軍用機である。

日本人たちは戦争を始めてみたものの、近代戦争のそのあまりの過酷さに震撼した。

第一次世界大戦に正面から参加しなかった日本人には兵器と人員のすさまじい消耗を空想すらすることが出来なかった。

防弾装備のない戦闘機や爆撃機は連合軍自らの侮りが生んだ日本の不意打ちに恐慌状態にあった開戦百日ですら情け容赦なく次々に失われていった。

四式重爆は、いわばやっと米国や英国あるいは独軍と同じ「近代戦」へに認識に立った日本人がつくった初めての爆撃機であったのでした。

主要諸元の数字だけを見ると凡庸な中型双発爆撃機にしかすぎない「飛龍」はしかし記録をよく読むと、実際には高速でタフ、しかも連合軍の戦闘機に追われながらでも基地に帰投しうる機動性をもった爆撃機であったのがわかります。

なにしろ有明海の上空で垂直旋回した飛龍まであったという。

(ちょっと、わっしには信じがたいが、飛龍の日本機らしからぬ機体強度を知ると信じてもいいような気がするときもあります)

Mさんは、その後、合衆国の「飛行機製造禁止命令」を見て失望して技師をやめ三菱重工も退職してしまう。

思うところがあったのでしょう、二三年親元にいたあとで技術屋であることをやめて地元の企業に事務職として就職して戦後を生きる。

Mさんの「自分史」は正直に言えば読み進めてゆくのがやや辛いほど平板なものですが、

冒頭の基地での経験もそうですが、誰の、どんな人生もそうであるように、読む方が歯をくいしばって読まないと読めない箇所がところどころある。

1960年代のある日、Mさんは、故郷の町から子供と奥さんとを連れて東京に出かけます。奥さんが「君の名は」に夢中になった結果、何年ものあいだ「東京に行ってみたい」とせっつかれてやむをえず出かけたもののよーである(^^)

新大阪に出て、新幹線のホームに立ったMさんの記述をわっしは、どうしてもうまくいえないが、一瞬だけ時を旅して青春に立ち戻ったひとのものとして読んだ。

ニュースですでに見ていた新幹線がホームに入ってきたとき、しかし、Mさんはそのとき初めて「あっ、『飛龍』だ」と思うのです。

そのとき初めてMさんは自分がどれほど「飛龍」という飛行機を愛していたか、兵器と技術屋という関係を越えて、自分の人生のすべてを賭けていたか、理解したのだという。

「戦後の私は、ただの抜け殻であった、という現実を目の前にして、私は狼狽した」とMさんは言う。

でも、技術屋としては、もしかすると幸福だったのではないか、とMさんは書いています。

四式重爆撃機「飛龍」キ67

全幅: 22.5 m

全長: 18.7 m

主翼面積: 65.0 m²

翼面荷重:40.9 lbs/ft2 (199.8 kg/m2)

発動機: ハ104 空冷複列星型18気筒 2,000 hp (海面高度0)

全備重量: 13765 kg

最大速度: 537 km/h (高度6090m)

航続距離: 3800 km

上昇限度 : 9662m

武装: 20 mm機関砲 ×1・12.7 mm機銃 ×4

爆装: 50kg爆弾×15、250 kg爆弾×3、500 kg爆弾×1、800 kg爆弾×1、魚雷×1のいずれか

生産機数: 697 機

こーゆー気持ちは機械が好きでないひとにはわからないが、実戦の記録を読んだ後で、

この特に爆装限度とかを見ると、感動して涙が出る。

まるで丁度天安門で素手で戦車を止めた中国人の学生のような「名もない英雄」を感じるからです。

88mm_flakとドイツ中世物語の終わり

88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。

ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。

ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。

連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。

背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。

88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。

地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。

敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上放火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;)

まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。

えっ?理由?

そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。

「マジメだから」です。

88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。

まず第一に使用された弾頭が優秀である。

当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。

当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。

無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。

部品点数も意外なくらい少ないな。

多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。

扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの兵器らしい。

ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。

ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。

もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。

どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。

たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。

ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。

この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。

近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。

ドイツ軍兵の強さは敗退するときの後退戦で最も顕著である。

潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。

支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。

ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。

多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。

一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは

中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。

暗い夜と、裏切りと、絶望と、その真の闇にたかれた松明の炎に浮かび上がった英雄たちの血まみれの顔、っちゅうようなもんに痺れやすい体質であるよーだ。

みんなでジークフリートになってしまう。

戦争をやっているあいだじゅう、それが「ニーベルングの歌」であるかのように錯覚していたようなところがあります。

頭のなかではずっとワグナーが鳴っていたのと違うか、と思う。

88mm_flakというドイツ文明が生み出した剣を最後に握りしめて死んだのが金髪を三つ編みのお下げ髪にした少女であるところも、なんだかいたたまれないくらい「ゲルマン的」である、と考えました。

88mm_flakとドイツ中世物語の終わり

88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。

ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。

ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。

連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。

背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。

88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。

地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。

敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上放火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;)

まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。

えっ?理由?

そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。

「マジメだから」です。

88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。

まず第一に使用された弾頭が優秀である。

当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。

当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。

無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。

部品点数も意外なくらい少ないな。

多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。

扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの兵器らしい。

ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。

ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。

もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。

どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。

たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。

ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。

この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。

近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。

ドイツ軍兵の強さは敗退するときの後退戦で最も顕著である。

潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。

支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。

ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。

多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。

一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは

中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。

暗い夜と、裏切りと、絶望と、その真の闇にたかれた松明の炎に浮かび上がった英雄たちの血まみれの顔、っちゅうようなもんに痺れやすい体質であるよーだ。

みんなでジークフリートになってしまう。

戦争をやっているあいだじゅう、それが「ニーベルングの歌」であるかのように錯覚していたようなところがあります。

頭のなかではずっとワグナーが鳴っていたのと違うか、と思う。

88mm_flakというドイツ文明が生み出した剣を最後に握りしめて死んだのが金髪を三つ編みのお下げ髪にした少女であるところも、なんだかいたたまれないくらい「ゲルマン的」である、と考えました。

零式艦上戦闘機

No protection is provided for either pilot or fuel tanks.

At high speeds the rate of roll is slow and is slower to the right than to the left.

At speeds of 250 knots and above the aileron forces are so high, fast rolling cannot be done.

っちゅうのは、1943年10月につくられた零戦21型の実戦部隊向け資料に書いてある、有名な「所見」です。資料そのものを見ると、翼内タンク、オイルタンク、酸素ボトルの位置を示した図があって、矢印の先を見ると「ここを狙え」と書いてあったりする。

当たり前ですが、「防御用の鋼板がないところが米軍機より劣っている」とか閑人が好きそうな「どっちがツオイか」っちゅうことが書いてあるわけではなくて、ただ単純に「効率的に零戦を撃墜するにはどうすればよいか」ということが要領よくまとめてある。

オークランドの戦争博物館にゆくと、零戦22型が置いてあります。

傍らには、この零戦の操縦士であった若い日本人を整備士たちが必死で救おうとした物語が書いてある。わざと修理を遅らせて、特攻任務につかせまいとした、という。

きっと、いまでも、少し見下ろせる角度になっているレイアウトと、あのやや特例的な美談の掲示もそのままでしょう。

ニュージーランドのガキどもは、あの掲示を見て、日本人といえども残忍で失礼な怪物ではないのだ、ということを学習することになっておる。

なにしろ、「博物館」っちゅうものが少ないので、あそこはみんな行くからな。

連合王国人にとっては、第二次世界大戦とは対独戦のことであってアジアと太平洋の戦いについては「太平洋戦争、って言われてもねえ」というのが、ふつーの感想でしょう。

全力をあげてドイツと戦っていたら、ヒトラーの尻馬に乗って日本人たちがマトモな軍隊がいないアジアを狙って植民地を盗みにやってきた、というのが一般的な認識であると思います。

合衆国人にとっても、二次的な戦線であって、マッカーサーがそのせいでカリカリきてばかりいたのは、万事檜舞台がしつられられていないと嫌だった幼児的なマッカーサーの性格のほかにも「おまえのところは主戦線ではないのだから」というので不十分でしかも旧式な装備しか送ってこない、という実質的な憤懣もあったのです。

豪州人だけが対日戦争としての第二次世界大戦を戦っていたのだ、とゆってもよい。

戦争に勝利した後、豪州人があれほど必死になって昭和天皇の処刑を主張したのは、要するに、そーゆー理由からでしょう。

合衆国が、日本に対してタカをくくっていたのは、まず第一に中国戦線における観察から日本軍の弱さをよく知っていたからです。

日露戦争における呆気にとられるほど強い兵隊は、軍紀が乱れに乱れた、強姦や略奪を行く先々で行う、規律のない武装集団になりはてており、しかも第一次世界大戦に参加しなかったことに起因する軍事テクノロジーの決定的な遅れは、調査した武官たちをして失笑させるほどのひどさでした。

こんな軍隊に負けるわけるねーよ、と思った。

で、まあ、こういう態度の悪い、日本帝国をなめきった合衆国軍の戦前の予想はだいたいにおいて当たっていたわけでした。

もちろん誤算もあった。

その最大のものは、よく知られているとおり、日本海軍の航空戦力であって、その「誤算」の象徴が97式艦攻と零式艦上戦闘機でした。

1942年の時点で戦闘機の戦いでいうと日本人操縦士を4人殺すために合衆国人操縦士がひとり死んでしまう、という割合で、これは合衆国社会の許容範囲を遙かに超える死傷率だった。

この頃の合衆国人の主力戦闘機はたとえば海軍と海兵隊ではF4Fです。

F4Fは、前にもブログ記事で書いたとおり、

http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/searchdiary?word=f4f

垂直面の対ゼロ戦闘ではほとんど勝ち目なし、なくらいダメな戦闘機でしたが、もともと旧式な兵器で敵の主力に正面攻撃を加えるための「ガッツだあ」集団として教育されていた海兵隊員たちは、自分たちよりも遙かに優秀な空戦性能の零戦相手によく戦った。

この頃の日本側の記録を見ると、爆弾も抱かないで駆逐艦を銃撃で撃沈しようとするわ、

単機で遙かに数が多い零戦の集団に遮二無二突っ込んでくるわ、の米軍操縦士たちの、あんましアタマのよくない暴勇ぶりに唖然とする日本人将校たちの姿がよくわかります。

日本のひとがアングロサクソンというものが本質的に暴力集団であることを悟った初めである(^^)

零戦は、削除しちって、記事そのものがどっかにいっちった前の記事にも書いたとおり、

いわば「スーパー複葉機」でした。

そこに零戦の格好良さがある。

堀越二郎というひとは、日本が「エンジンをつくれなかった国」であると言っています。

どうしても良いエンジンがつくれなかった。

ちょっとここで断っておくと、この記事を書くにあたって「零戦」とかで検索してみると、「あれは結局外国の飛行機のコピーであった」と書いているひとがいっぱいいて、ぶっくらこいてしまった。

このひとたちの論拠は簡単で、エンジンの栄21 型の元になった「寿」はブリストル・ジュピターのコピー、機関砲はイスパノスイザそのまんま、7.7ミリ銃も…っちゅうことですが、なにも、そこまで自分の国をバカにせんでも、と思う。

ヒコーキっちゅうのは、(あたりまえだが)総合芸術なんです。

設計者の「思想」というものがなによりも先にあって、それに使える技術をあちこちからかき集めてくる。

そのままいったら凡庸な試作機として終わったはずのムスタングP51がロールスロイスのエンジンに付け替えただけで史上最高のレシプロ戦闘機に生まれ変わった例を思い出して見るがよい。

第一、そんなに零戦を貶めたければ、当然あげなければいけない例は、上のようなヒコーキというものをまるで理解していない理屈ではなくて、

零戦に先立つこと一年半前につくられたグロスターF.5/34をあげるくらいには気が利いていないと意見をなされない。

グロスターF.5/34の写真を見ると、たいていのひとは「英軍に捕獲された零戦」だと思うようです。そっくり、である。

こまどり姉妹やザ・ピーナッツよりも区別がつかん。

(知らない人は、おじーさんやおばーさんに訊くよーに。両方とも一九六〇年代(多分)のスターですじゃ。三波春夫、とかと同世代のひとね。この頃はどうやら日本の芸能界では「双子ブーム」であったよーだ)

ついでに諸元も並べると

エンジン ゼロ:780hp グロ:840hp

翼幅   ゼロ:12.6m グロ:11.6m

翼面積  ゼロ:22.4平方m グロ:21.4平方m

翼面荷重 ゼロ:104.0 kg/hp グロ:114.6 kg/hp

最大速度 ゼロ:509 km/h グロ:508.5 km/h

ちゅうようなもんで、他の飛行特性を並べても不気味なくらい、そっくりです。

連合王国版ゼロ戦だすな。

旋回半径まで同じである。

これをつくったヘンリー・フォーランドというひとは、秀才型の技術者だったので有名なひとで、同様に秀才型だった堀越二郎技師が二年後につくった飛行機が双子のように似ていたのは、要するに、当時の空冷式戦闘機の定石にしたがって飛行機を設計してみたら、たまたま同じものになった、ということでしょう。

しかし、フォーランドは突っ込み速度を捨てたり装甲を捨てたりは出来なかった。

そうすると当時の英国の常識では、戦闘機ではなくなってしまうからです。

またエンジンの出力向上に余裕があったので、その必要もなかったところがゼロ戦と異なる。

…..そーゆーわけで、よっぽどアタマのいかれた合衆国人ですら零戦が日本のオリジナル戦闘機であることに異議を唱えるひとはいなくて(よりによってテキサンのコピーだ、とゆったオモロイおっちゃんはいたが、アホか、で終わりました)、それは先ず第一に

堀越二郎の「スーパー複葉機をつくる」という思想が、すさまじくオリジナリティに満ちていたからです。

「装甲がない」というのは、弾に当たったら怪我するやん、という西洋のコンジョナシ思想と日本の「当たらなければいいではないか」という思想の違いだからまあいいとして、(ほんとうは良くないかもしれないが、それを言うと零戦の思想そのものの全否定になるので、ここでは、そういう議論はしたくない)、「降下離脱」を捨ててもよい、というのは、すごい。よく考えてみると、基本的には戦闘にはいったら最後、死ぬか殺すかまでやる、ちゅう考えなわけで、戦闘に対して生一本である、というか、サムライの果たし合いと空中戦と区別がついていないようなすさまじい空戦思想です。

日本のひとが「零戦」について書いたものを読むと坂井三郎の自伝に影響された部分がすごく大きいのに気が付きます。英語の論者も似たようなものなのは、むかし、坂井三郎の空戦記のダイジェストが英語世界でも「SAMURAI!」という名前でベストセラーになったからでしょう。

「丸」やなんかに載った海軍航空兵たちの座談会やなんかを読んでいると、坂井三郎は

もちろん偉大な戦闘機操縦者であるにしても、ちょっと話は誇張が多い、といって苦笑気味に話す人が多いようである。

「嫉妬」というようなことではなくて、仲の良い仲間内での十分親愛感をこめての発言なので、坂井三郎の本には、特に零戦の特性について、自分の好みによる主観が強い面はあるようです。

特に20ミリ機関砲(旧帝国海軍の言い方に従えば「銃」)については過小評価である、というひとが多い。

ご存じの通り坂井三郎は至る所で「零戦の20ミリ機関砲は役立たずであった」と言っています。

幸いなことに初速が同じくらいの20ミリ機関砲を装備した機に乗って欧州戦線で戦った多くのパイロットが戦記を残しているので、この件については面白いことが判ります。

坂井三郎と同じく、「あんなまっすぐ飛ばん機関砲は役立たずであった」と述べているのは連合王国のパイロットだけである。

そーです、結局、坂井三郎や連合王国の撃墜王は「空の戦場では激しく機動しつづける」というスタイルで戦ったせいで、20ミリが好きになれなかったのだすな。

ドイツ軍などは通常、ぶわっと急降下してきて一撃離脱しておいてから、また上昇して、というような戦いぶりだったので、初速が遅くとも照準が合いやすかったもののようである。

戦後の合衆国人が書いたものを読むと、零戦は結局「突っ込み速度が遅い」ことと「高速機動が出来ない」ことが直截の原因になって旧式化します。

もうひとつの理由はもちろん被弾した場合の死亡確率がものすごく高かったために操縦士があっというまにいなくなった、という事情もある。

高速での機動にすぐれたF6Fが登場すると、合衆国パイロットがひとり死ぬあいだに日本の操縦士は16人死ぬようになります。そして、その死傷比率はあっというまに凄まじい勢いで合衆国側に傾いてゆきマリワナ沖では日本側にとってはたいへん屈辱的な「七面鳥撃ち」という名で呼ばれるほどひどくなる。

新米のパイロットが何人も一日で5機撃墜、6機撃墜という「新記録」をたててしまうので、それまでのエースたちが不平を鳴らすほどになってしまう。

日本軍はあまりの損耗率に松山航空隊の結成まで事実上戦闘機を飛ばすことをやめてしまいます。

オークランド博物館にやってくるガキどもが、まっさきに驚くのは零戦という飛行機が空冷であるにも関わらず優美な形をしていて、なんだかやさしげな飛行機であることです。

わっしは、こんな小さな1000馬力の飛行機に乗って太平洋を何時間も飛んで戦場に行き、まったく不利な空戦を戦って傷つきながら、また何時間も洋上を飛んで帰った20歳

になるかならないかの若いパイロットのことを考えて、どういうか、やりきれない気持ちになった。連合軍のパイロットと違って、彼等には休暇すら与えられなかった。

ただ死ぬまで飛ばされ続けただけでした。

坂井三郎の自伝に坂井たちがラバウル島に駐留していた頃、空中で撃墜された米軍パイロットが落下傘で海に落ちるのを浜辺からみなで眺めるところがあります。

ああ、もう、あいつ助からんなあ、と思って見ていると、低い雲のなかからPBYカタリナ飛行艇がゆらゆらと現れて着水する。

そのあとからグラマンF4Fが束になって飛んできて上空を旋回しだします。

当時は「無敵」と自称していた日本軍航空隊の眼と鼻の先の海に、たったひとりのパイロットを救助するために、結局2機の飛行艇と一編隊のグラマンを仕立てわざわざ「大作戦」を組み立ててやってきた合衆国軍を眺めて、彼我の国の兵士の命に対する考え方の違いに絶望してしまう場面がある。

結局、出版される英雄譚の裏でひそかに語り続けられてきた日本軍の兵士の「やる気のなさ」は、そーゆーところから来たのでしょう。

人間として扱われなかった兵士に人間としての勇気を求めても、無理なのは当たり前だとわしも思う。

技術的には零戦は、当時の日本がもっていた技術をうまく組み合わせた、文句なしの「傑作戦闘機」である、とわっしも思います。

では、これを欧州戦線に1000機運ぶことが出来たとして、「傑作機、到着!」とばかりパイロットたちが歓迎したかというと、多分、誰も乗らなかっただろうと思う。

それどころか、「あんたはおれを殺す気か」と言って操縦士は上官に食ってかかっただろうと思います。

窮地に陥ったときの最も有効な離脱方法である「棒落とし」が出来ず、被弾したときにほとんど生存が見込めないのでは、欧州人の考え方からすると「戦闘機」とは呼ばれないからです。

合衆国では「空飛ぶ棺桶」と呼ばれたのにロシアでは傑作機であったベルのP39を挙げるまでもなく、戦闘機という兵器は、たいへん文化に密着したものでした。

RAFがグロスターF.5/34を選ばずに当時ハリケーンとスピットファイアを選んだのも、採用時期よりも実は、やはり文化的な理由によっているのだと思います。

わっしは日本人のものの考え方が零戦を「傑作機」にしたのだと思っています。

日本のひとが零戦と日本の栄光をいまだに重ねあわせて考えたがるのは、だから、

きっと、あたりまえなのでしょうね。