十年

auckland_23

その頃のぼくの財布にはしわくちゃの紙幣が二枚とギターピックと、なんだかくしゃくしゃになったままいつも取り出すのを忘れてそこにある、中国人夫婦がやっているベーカリーのステーキパイのレシートがはいっていて、Salif KeitaやCesaria Evora、そうかと思うとAudioslaveが入っていたりするキチガイみたいなiPodが反対側のジーンズのポケットに入っていた。

世界のことなど、どうでもよかった。
ぼくはぼくの一生だけで手いっぱいで、太陽がのぼればベッドをぬけだしてでかけ、人にあって質問を投げかけられれば機知に満ちたとまではいかなくても、せめて誠実で正しい言葉で答えようとする自分に嫌気がさしていた。

週末になれば頭がつかえそうな地下のワインセラーを改造したクラブにでかけて、豊胸手術でリズムだけを肥大させた(性的に誇張された花嫁のような)音楽で踊り狂った。
たいていは名前もよくおぼえていない女の子たちと土曜日のベッドのなかで眼をさました。

ぼくは20歳だった。
無軌道で滅茶苦茶で世界が大嫌いなのにいつも上機嫌な完璧な暴力のかたまりで、議論で言い負かすよりも相手の入れ墨だらけの皮膚の下で骨格が耐えきれずに折れる鈍い音を聴くほうがずっと好きだった。

若いということはなんという怖ろしいことだろう。
きみの行く手にはどんなふうにでもきみを呑み込んでゆける無限に似た「未来の時間」があって、太陽は南中の位置にあるのに、空は暗くて遠くはいつでもかすんでいて良く見えはしない。
瞋恚の炎が胸に燃えさかっているのに、きみにはどうしても自分がほんとうは何に怒っているのか理解できはしない。
きのうまでまるで聖母を慕う気持ちで愛していた女のひとが声を枯らして呻きをあげ汗にまみれてただ形が美しいだけの惨めな肉体に変わり果てたのをみて神を呪っている。
20歳という年齢は「薄汚い子供」である年齢でもある。

毎日はてしもなく増殖する物語には始まりがあるだけで終わりがなく、きみをいっそう苛立たせる。
人間が積み重ねた叡知を足で蹴って壊してしまいたくなる。

両手で耳をおおい叫び声をあげてみればどうか。
あるいは裸でベッドの脇に立って怒りと嫉妬に狂気した女びとに拳銃をわたして、ぼくを撃ってくれ、と哀願してみればどうか。
いっそ敬虔な祈りを捧げてみてはどうか、いちども信じたことのない神のために

地獄であるのと同時に天国だった、あの焼きごてで眼を鋳つぶされたような毎日から、どうやって抜け出たか、不思議なことにもうおぼえていない。
この手のひらの染みが消えたのは手を洗ったからか、それとも染みが全体に広がってわからなくなってしまったのか。

それは「激しい日々」ですらなくて、若くて統合がうまくとれていない神経系とホルモンとですべての説明がついてしまうのではないか。

きみはなんだか精霊にずっと欺かれていたひとでもあるように、いつのまにか激情に取り残された自分の姿を見て茫然とする。
影がもう二度と自分の姿を映さないことを発見して途方にくれるピーター・パンのように

満ち足りた午後が終わって、太陽の輝かしい光に包まれていた芝生が夜露に濡れる頃になると、きみの魂は、あの圧倒的な「愚かさ」のなかへ帰ってくる。
人間の悟性には「なにもわかっていないのにすべてが説明されてしまっている」状態があって、20歳のときには、きみの愚かさはきみの理性には囁きすら聞こえないところで、すべての宇宙の秘密を語り尽くしていた。

あの沈黙へ帰りつかねばならない。

むかし、日本は戦争をした

paenell23

日本が戦争に負けたのは1945年のことだった。
戦争に至った理由は以前にも書いたが本質的には「欧州で勝ちまくっているナチのおこぼれが欲しかった」ことである。
当時の日本では「バスに乗り遅れるな」という標語が流行ったが、このバスはナチがフランスを占領したせいであちこちにできた元フランス植民地の空白や同じように無力化されたオランダ植民地を「ただでわけ取り放題」にするための「バス」だった。
その、日本の人のお怒りを承知のうえでいえば、卑しい口元の「新時代」へ自分達を運んでくれるバスに日本人はどうしても乗り遅れたくなかった。

それまではどうしても広大な植民地を自分達の手でにぎって話さない「けちんぼな先行者」である連合王国やアメリカ、欧州諸国を妬ましげな上目遣いで睨み付けながら、「そんなにたくさん持っているのだから少しくらいおれにもタダでよこせ人種差別主義者め」というお決まりの悪罵を内心で毒づくしかなかったのに同じ世界秩序の紊乱者としてあらわれたナチが意外にも電撃的な戦勝を手にしてあっというまに大陸欧州を手にしてしまったので、のんびりしていてはおこぼれがもらえないと考えて浮き足立って、とにかくなんでもいいから戦争を始めてしまいたい、と考えた。
ナチが他ならぬ日本人を猿と軽蔑していることは、たとえば「我が闘争」から削除して翻訳して、「なかったこと」にしてしまった。
人種問題などとるにたりないと思わせるほどの利益が目の前にぶらさがっていたからです。

ちょうどいまの北朝鮮と同じことで当時広く伝えられていた中国での集団強姦や虐殺に反撥した世界は日本への制裁を強めていて、1990年代にソビエトロシアの軍隊が実際にそうなってしまったように補給物資、就中燃料の欠乏から軍隊の経営が難しくなっていた、という理由もある。
陸軍は日本が挑発して起こしたノモンハンでの戦闘でジューコフの機甲師団に鋼鉄に生身で体当たりするような無様な戦闘を繰り広げて、現代戦においては自分たちの軍隊がまったく用をなさないのを知っていたにも関わらず、佐官級将校達を中心に戦闘の実際そのものを書き換えてしまい、「ロスケ相手なら勝てる」と、いまから考えてみれば信じがたい無責任な虚栄を張っていたが、なにしろ現実を知っているので、オランダがナチに敗れてインドネシアの原油が「取り放題」の対象になり、フランスもナチにくだってインドシナがからっぽになると、もう無我夢中で置き去りにされたものを掠めにいった。

当時のアメリカ人にとっては日本人は「ただの人間を神と崇める未開な民族」にしかすぎなかった。
日本人が自前の飛行機を設計して、しかもその飛行機群は主戦場が太平洋であることを意識した設計で長大な航続距離をもたせるという合理的な思想に基づいていたり、地紋航法を乗り越えて戦闘機操縦士ですら風の偏向を機上で計算しながら洋上を飛べる航空技術を身につけている(PPLをとってやってみれば判るが、これは人間業では無理な感じがするほど難しい作業です)ことなどを知っていたのは極くひとにぎりで、ほとんどの場合、「日本人は人間を神と崇拝できるほど未開である」という観念にとらわれて、中国大陸からの武官達の報告も無視されてきていた。
日本が実際に真珠湾を攻撃した頃には「日本に近代戦遂行能力がある」というような発言は、タブー、というか、変わり者とみなされて将来の栄進の妨げになるので誰も韲えて言おうとはしない話題になっていた。

フランスのように既に打ち負かされていたわけではなかったが連合王国は当時、風前の灯火もいいところで、表現に巧みなウインストン・チャーチルの口にかかれば「The Few」

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Few

ということになって、なんとなく英雄的でかっこいいが、なにしろ計画性に長けて全員一丸となって合理的な生産計画をつくることにかけては当時もいまも世界一のドイツ人を相手に、計画性がゼロで、同僚同士の足のひっぱりあいに熱中する伝統をもつ高級将校に率いられ、訓練に至ってはタイガーモスで離着陸が出来てハリケーンでまっすぐ飛べればもうベテランとみなして、あとは自分で上手になってね、な、これも第一次世界大戦以来伝統の無茶苦茶なパイロット養成計画で、スペイン内戦で腕を磨いたドイツ軍の戦闘機パイロット達には「なんでイギリス人は標的機を自分たちの戦闘機の訓練でなくておれたちの訓練に差し向けて寄越すんだ」と訝られるくらいダメな空軍の全力を挙げてナチの侵攻を阻止しようとしているところだった。

自分の国を守る戦力がまったく足りないのに植民地防衛にまわす軍隊などあるわけはなくて、実際にも太平洋地域の主戦力はブリュースターバッファロー

http://en.wikipedia.org/wiki/Brewster_F2A_Buffalo

という樽に翼をつけてみたら飛びましたとでもいいたげな、とんでもないアメリカ製戦闘機で、しかも数が足りないので用途は日本軍の上空を飛んでびびらせることに専念して、あんまり使うな、という命令を受けたりしてしていた。
苦し紛れにプリンスオブウエールズを派遣してシンガポール人たちに対して「イギリスはちゃんとアジア権益を守る意志はあります」というこどもだましのポーズをつくってみせたが、このプロモーション企画も、ただチャーチルの頭の古さを証明するだけで終わってしまった。

もっと悪い事にはオーストラリアもニュージーランドも、戦士として素質がありそうな若い衆はみな連合王国防衛のために出払っていて、南太平洋は軍事的な真空地帯になっていた。
そこに、「バスに乗り遅れるな」の日本人達が、どっと侵攻してきたのだった。
家を開けて遠い国へ出かけて旅の空にすごしていたら、戻るにも戻れない距離の彼方で、自分の妻や家族が日本侵攻の危機に曝されていると知ったニュージーランド人やオーストラリア人の「日本人の卑怯」に対する憎悪はすさまじかった。
日本の敗戦処理委員会ではニュージーランドとオーストラリアは常に強硬に日本への厳しい復讐を迫るので読んでいて驚くが、要するに、「空き巣を狙われた夫たちの怒り」とでもいうのに似ている。
残された女達、ということでいえば、東南アジアやポリネシア、マイクロネシア各地で赤十字の看護婦や伝道の仕事に携わっていた女のひとたちは、日本人が進出してきたほとんどあらゆるところで強姦被害に遭って、BBCのドキュメンタリなどではいまもよくインタビューが放送される。
ガキわしも、香港の病院に赤十字のボランティアとしてつとめていたヨークシャー人のおばちゃんが、「そうして日本兵たちがわたしたちの病院にやってきました。彼等は私達をゆびさして『二階にあがれ』と命令した。それから…わたしたちはひとり残らずレイプされた」と述べて、テラスの外の夕陽に輝く庭を眺めながら「That wasn’t very nice」とつぶやく姿に大泣きしたりしたものだった。

「人間を神と崇めるバカタレの国」という侮蔑を奉じて軍備をまったく怠っていたアメリカ合衆国と自分の家が火事で丸焼けの最中の連合王国が一応まもっていることになっていた太平洋は、圧倒的に優勢な軍備(ちょっと意外な感じがするかもしれないが開戦当初の日本陸軍は機関銃、榴弾砲、対戦車砲、戦車、航空機、あらゆる点で連合軍よりも質も数も遙かにうわまわっていた。海軍については言うのもばかばかしいくらいの戦力差があった)の日本人たちにあっというまに踏みにじられた。

(余計な事を書くと日本語で太平洋戦争について書かれた本を読むと「日本軍の補給思想の欠落」ということが書かれているが、それは半分しか本当でないように見える。
日本軍はかなり精密に補給を計算して実行できる軍隊だった。
ちょっと考えてみればわかるが、そうでなくては4000キロ先の戦線まで補給物資をとどける、というようなことが出来るわけはない。
朝鮮半島侵略戦の補給指揮官だった石田三成の例をあげるまでもなく日本人は伝統的には補給の才能に恵まれた民族であると思う。
日本軍に欠けていたのは補給思想よりも「補給線防衛」のハウトゥーで、これは多分第一次世界大戦に一部局地戦をのぞいて参加しなかったからだろう。
北海や北大西洋を舞台にして「補給を断てば勝てる」という、やらしい思想をもったドイツ軍と対峙したことがなかったからだと思われる)

日本軍の殺到ぶりは、なにしろ碌な軍隊が存在しない無抵抗戦域なのだから当たり前だが、ものすごいスピードで珊瑚海にあらわれた日本の、上陸用の兵士たちを伴った、「海を覆うような」大艦隊のニュースに、オーストラリア人やニュージーランド人が、いかにパニクったかは、たとえばオークランドの沿岸を船でひとまわりすればすぐに判る。
至る所に急造の砲座やトーチカがつくられているからで、あれらはみな、じーちゃんやばーちゃんが、「日本軍がくる!」の報にえっちらおっちらこさえたものである。
珊瑚海海戦について「日本が勝った」「アメリカが勝った」「引き分けだった」と相撲の判定みたいなことを書いている本が世の中にはたくさんあるが、戦争は無論勝ち負けだけではない。
珊瑚海海戦で最も重要なことは「攻勢の日本軍がそこで止まった」ことで、自前の軍勢の精鋭が欧州やアフリカに出払ったオーストラリアやニュージーランドの国民感情とブリスベンの重要性をみなおしたアメリカ人達が、ほんでわ、というので南太平洋を軸とした戦略を再構築していったことにある。
その直截の答案がガダルカナルで「ここで戦力をつかいはたさせてしまえば、日本にもう他の戦力はない」という点と「欧州という主要な戦場で戦うための時間稼ぎができる」点ですぐれた着眼だった。

次から次に、あるものは赤ん坊を抱え、あるものはバンザイすら叫んで市民がとびおりて死んでしまうので、アメリカ兵を薄気味悪がらせた「Banzai Cliff」「Suicide Cliff」があるサイパン島が1944年にあっけなく陥落することによって日本の対連合国戦争は実質的に終了する。
普通の国ならば、ここで降伏調印するが日本はいま読んでいてもよく頭にはいってこない理由で、なぜか戦争を継続する。
いろいろな理由が解説されているが、自分が日本にいたときに見聞きしたことに照らすと、「重要な決断になるほど決断ができない」「現実を直視することが出来ない」「危機が迫ると頭でつくりあげた虚構を全員で信じはじめる」日本の文明的な特徴が「起こってはいけないこと」の最たるものであった「正義の国不敗日本が戦争に負ける」という事実に直面して噴きだしてしまったようにみえる。

たくさんの日本の人が指摘しているとおり、サイパン陥落後の日本支配層の反応は福島第一事故のあとの支配層の反応と薄気味が悪いほどそっくりで、都合の悪い事実の隠蔽、「専門家」が登場して素人は黙れキャンペーンを繰り広げるところ、支配層の思惑の情緒的アンプリファイアとしての役割に専念するマスメディア、どれひとつとっても福島第一事故のあとの日本と酷似している。
「全員が納得することがもっとも大事だ。みなでよく話しあうように」という昭和天皇の意見によって何十回もムダな会議を繰り返して、結局なにも決められず、そのあいだじゅう国民が一方的にそのつけを払わされる、という図式も同じで、太平洋戦争末期と福島第一事故のあいだに横たわる(表層的には大変化に満ちた)65年という歴史の時間をおもえば、民主主義だのなんだのというよりも、もっと深く日本人の心性に根ざしたものなのでしょう。

日本を占領しにやってきたアメリカ人の若い男たちが見た日本人という民族は異様なもので、女はなぜか顔に泥や墨を塗って髪の毛を蓬髪に仕立ててあり、男達はやたらと愛想良く笑いかけて、風変わりな発音でハロー、ウエルカム、と述べる。
イタリアに進駐したアメリカ兵たちは、「どいつもこいつも『あなたたちが来てよかった。自分はナチを憎んでた』と言う大嘘つきばかりだ」とイタリア人たちへの軽蔑をこめて書いているが、日本にやってきたアメリカ兵たちは、イタリア人よりも度を越した日本の男たちの卑屈ぶりに呆気にとられているように見える。

日本は沖縄を含めれば、というよりも沖縄の痛みはそのまま自分の痛みであると主張する言葉が本心であると仮定すると1945年から1972年の27年間アメリカの占領下にあった。
もちろん民政よりもいちだん下にある軍政のあつかいです。
あるいは沖縄人の苦しみが日本人のものであるというのが、おざなりの嘘であるとすれば1945年から1952年までの7年間、アメリカの軍政下に占領されていたことになる。
これほど長く、徹底的でうむをいわせぬ占領は世界の歴史のなかでも珍しい。
ナチのパリ占領などは足下にも及ばないほど無惨な日本文化の破壊をアメリカ人たちが行ったのは、ドイツ人が同じ欧州人としてフランス人たちの生活や文化に深い憧れをもっていたのに較べて、アメリカ人たちには日本の文明への敬意どころか理解も欠けていたからでしょう。

アメリカ人たちの日本占領の基本方針は「日本の文化を完全に破壊する事」「日本的なものを根こそぎにすること」だった。
「日本をアメリカ社会的価値にもどづいてアメリカ化すること」というふうにトーンがやわらいでいくのは、もっとずっとあとのことになる。

日本語は廃止して英語にしなければ日本人の悪魔的な思考方法は変わらないだろう、という見込みにしたがって、日本語を廃止しようとするが、第一には日本人側の強い抵抗があって、その上にアメリカ人たちのあいだからも「それでは日本が半島人に対して日本語以外を禁じたのと同じ事で人聞きが悪い」という声があがって沙汰やみになった。
ずっと読んでいくと、要するにアメリカ軍が7年をかけてやったことは、いまアメリカ軍がイラクやアフガニスタンでやっていることと同じで、イラクやアフタニスタンに較べて日本人のほうが占領前の、バカな人間ほど大声で集団で威張ってあるく辛い記憶がおおきかったぶんだけ、過去の伝統への執着が少なかったところだけが異なる。

イラン人はたいてい自分達の高い文明を背景にイラク人や他の「アラブ人」を極く自然に、人間としてやや下にみる、というか、粗野な人間の集団として眺める習慣をもっているが、そのイラク人たちといえども、古い文明の民らしく、ごく自然に「アメリカ人の野蛮さ」というものをかぎつけるので、なかなかアメリカ人式の占領政策はうまくいかないが、日本では当のアメリカ人たちがびっくりするほど、とてもうまくいった。
サクラ、フジヤマ、ゲイシャ、というのは当時うまれた日本で良いみっつのものと言う意味の言葉だが、ここでいうゲイシャは、本来の意味の芸者ではなくて売春婦のことです。
こういうと顔をしかめる人がいるのは判っているが、日本の若い女達の売春婦は、アメリカ人の若い男たちが世界のどこでも見たことがないほど、教育程度が高く貪欲さが少ない売春婦たちだった。
「ラクチョウオトキ」のような日本人にとっては「あばずれ」の典型のように言われる女びとでもアメリカ人からみると、人間としての哀しみや慎みをもった、カネを払って女の体を時間買いする、という行為からは起きるはずがない一種の感動を若いGIたちに与えた。

あんまり長くなったので、そろそろ終わりにしたいが、いま考えられているよりも、日本はアメリカ軍による長い軍事占領と徹底的な日本文化の破壊によって自己を失ってしまった。

教育や行政というような国の根幹を成す部分においてことさらアメリカ人たちは自分たちの制度を乱暴なやりかたで接ぎ木して去っていった。
日本の大学、たとえば東京大学というようなところに行くと、容れものだけを残して略奪されて荒廃した欧州大学の建物に、アメリカ式のマスプロ教育風景がはいりこんでいるような奇妙な印象をうけるが、実際、あれは日本の戦後の「教育」そのものを象徴しているのかもしれないと考えてみたりしたのをおぼえている。

わしの実家には当時の日本の人たちからの贈り物だと思われる「Made in Occupied Japan」の陶器が何セットかあるが、前にそのことを思い出して記事

http://gamayauber1001.wordpress.com/2012/02/25/made-in-occupied-japan/

を書いたらppqqというひとが、コメント欄で、小松真一という人が日本が戦争に負けた原因として
「文化の普遍性がないこと」と述べていることについて教えてくれている。

歴史を通じて、押し寄せる中国の文明に対して、日本人はずっと必死で自己のアイデンティティを守ろうとしてきたが、この頃、案外と日本人は「普遍性に背を向けることによって別の普遍性を見いだそうとした」のだろうか、と考えることがある。
特に日本における禅宗の特殊な発展においてそうみえる。

世界中の人が夜空をみあげて、煙るような、光が瀑布になって流れ落ちるような美しさに打たれているときに日本人だけが、深い暗闇の井戸の底に映る、たったひとつの星を、じっと見下ろしている。
わしは、しかし、日本人のそのまるで方角の違うものおもいが、ただ奇矯なものであると、おもいたくないまま過ごしているのであるのかもしれません。

(元の稿にはナポレオンの補給について書いてあったがクレフェルトみたいなひとが文句を言いに来てめんどくさいので削除した)(戦争の話になると「権威」のひとがいつもたくさん寄ってくるが、わしは戦争議論につきあう興味ない)(ごみん)

はっぴー

ak12

日本語になおすと「幸福の科学」で四谷大塚進学教室のシステムをコピペしてつくった新興宗教みたいだが「Happiness Reseach」は人気のある分野で、ハーバード大学の講座のなかで最も人気があるのも、この「幸福の科学」である。
アメリカで最も人気があるのは件のドーパミン理論で、最もドーパミンが放出されやすい状況を最も幸福になりやすい状況と定義してさまざまなリサーチを行う。
遺伝的因子が5割、オカネモチであったり社会的地位が高かったりの社会的成功の要因が1割で、残りの4割の要素である友人関係や家族、過ごす時間の質、というようなことを考え直してディプレッションを回避したり、幸福感を増大させようという思想に立った科学である。

英語世界では「世界で最も個人が不幸な国」と言えば、ほぼ自動的に日本をさす。
そんなバカな!
いいかげんなことを言うと承知しないぞ!
という声が聞こえてきそうだが、ほんとうなものは仕方がない。
日本が世界で最も不幸な国であるというのはただの常識であると思う。
日本の人の面前でそんなことを言うひとはいるわけがないので、こういう話は日本のひとの耳が届かないところで英語人同士でしかなされないことを考えると、アメリカに20年住んでいるという日本の人でも、日本語のメディアばかり見ていれば、周囲のアメリカ人が「日本ほど個人を不幸にする社会はない」と思っていることにまったく気が付かずに、アニメを通して憧れの国だと思われていると錯覚して、毎日とくとくとしてアニメや日本料理の話をして、周囲に気の毒がられている、という状況も夢ではない。

高名な心理学者Ed Dienerが登場するRoco Belicのドキュメンタリ映画 「Happy」

http://www.imdb.com/title/tt1613092/

もまた英語世界の「常識」を踏襲して日本を「最も個人が不幸な国」として取材している。
誕生日に「大事な仕事の話があるから」というので会社の同僚と「飲み」につきあわされる39歳の会社員は、家族よりも仕事が優先される日本の日常を、屈託のない笑顔で向けられたマイクとカメラに向かって話す。
「明日は妻と会うからダイジョーブですよ」と明るく笑う。

トヨタ自動車の品質管理部門に勤めていた夫を過労死で失った妻は、玄関にあらわれた男性が一緒に過ごした時間が少ないせいで父親だとわからない娘のビデオや、死ぬ直前に上司に助けてほしい、と述べながら書いた申し送り状をインタビュアーに見せる。

観ていて最も悲惨な感じがするのは、あるいは日本の人には感覚的に判りにくいかも知れないが過労死で夫を失った妻達だけでつくった、お互いを励ましあうためのコーラスグループで、「良い夢を見てね ママはパパの笑顔を胸に抱いて生きる ママは負けないよ」という合唱曲を声をあわせて歌う姿は、西洋人にはここに至ってまで発揮される集団主義を思わせて、二重の意味でやりきれない気持ちにさせられる。

日本とは全く相反する価値観をもった社会として、ブータンが挙がっている。
ブータンの情報省大臣であるDasho Kinley Dorjiが画面に登場して、最近ブータンが世界に向かってヴォーカルに主張しているGNH (Gross National Happiness)というブータンの国家的思想について雄弁に力説する。
GNHは、見たとおり、GDPと対立的な、国民がどれだけ幸福であるかが国家の実力だと述べる国家指標のことです。
なんとなく自社の製品の優秀さを力説するトヨタのセールストップを思わせる口調でにやにやさせられてしまう。

あるいはデンマークのCo-Housing Community

http://en.wikipedia.org/wiki/Cohousing

がもたらす大家族的幸福について述べる。
Co-Housingというのは、ひとつのセクション、あるいはひとつの建物に数世帯が住んでお互いに助け合って暮らすという人間を北欧的な孤独から救済するためのシステムで、デンマークではかなり受けいれられている。

学校のイジメ撲滅の伝道師、学校におけるイジメ廃絶への独特な取り組みで有名な Michael Pritchard

http://www.michaelpritchard.com/

が紹介され、日本社会内部からの日本社会への異議としての沖縄社会、ルイジアナのコミュニティ、compassionに満ちていたはずの原初の人間社会への暗示としてナンビアのブッシュマンたちの生活が語られる。

映画には神経科学者のRead Montagueも登場して、人間が幸福感をうるためにお互いを助け合い協力しあうことがいかに大切か、協同的行為がいかに脳髄にとってコカインを注ぎ込むような幸福感を生み出すものであるかを力説する。

映画が映し出していくものはことごとくいまの世界で「幸福」あるいは「幸福感」というものを考えるときのスタンダードともいうべき事象や知識であると思う。

(ところが)

困ったことに、私はこうした「幸福」への思想に同意できないのである。
映画のなかで、他の事例と同列のものとして扱われているが、よく考えてみると明らかに異質な例がひとつだけでてくる。
Andy Wimmerというもとは金融エリートであったらしい欧州人で、選良としての人生をうすぺたいものに感じてマザーテレサがコルカタに開いた死にゆくひとびとのための施設でボランティアになった。
映画のなかでは「物質的成功の虚しさに気づいた人」として扱われるが、観ていて気づくのは、映画制作者の意図とは異なって、この人が「絶望をみつめる」ことに残りの一生を費やそうと決めていることである。

幸福なほうが良いに決まっているが、(私は)人間は幸福である必要はないと思っている。
あるいは、言い方を変えると、幸福が人生の目的になりうるとは思っていない。
幸福は人間の一生にとっては二義的なものであって、途中で出現する「状態」であるにすぎない。
映画自身が幸福の定義として採用しているようにまさにドーパミンの放出が「幸福」の実体だろう。だからこそ幸福は一生の目的ではありえないのだと思う。

だが映画のなかで幸福に至る方法のひとつとして語られる「絶望を正面からみつめる」ことのほうは、人間の一生の目的になりうる。
Roco BelicがAndy Wimmerの事例をとおして語ろうとしたことは本地垂迹が逆なのではないか。

ずっとむかし、もう6,7年も前に日が暮れた解剖学教室で屍体をみつめながら、もう死んでしまったものたちのやさしさについて考えた。
すでに希望をもたず、希望をもたないことを語る言葉をもたず、希望をもたないことを語る言葉を知覚する方法をも断たれた、単なる物体としての人間は、「魂」というようなものに較べていかに尊厳にみちていたことか!
自分を隠蔽してばかりいる魂に較べて、たんなる物体としての人間の肉体がいかにおおくのことを正直に率直に語りかけてくるものかをしって、世界というものについてもういちど考え直すべきだ、と繰り返し自分に言い聞かせていた。

「幸福」は人間の肉体が魂と折り合いをつけるための一種の緩衝装置にすぎない。
魂は絶えず人間の絶望と向き合って、その衝伯に堪えている。
人間のどんな歴史をひもといてみても、それが人間にとって不幸であったことはない。
それどころか、歴史を通じて、人間は絶望を発見したときにこそ幸福、というよりは幸福の向こう側にあるさらに高いところから指してくる光を発見してきたのだと思う。
それをわれわれが記憶していないのは、その「光」に名前がないことによっている。
その圧倒的な光こそが、個々の人間が一生を賭して探さねばならないものなのであると思います。

愛国心

bcn92

現代の最も重要なドキュメンタリ映画作家のひとりであるNahid Persson Sarvestaniの亡命王妃Farah Pahlaviを描いた素晴らしい映画「The Queen and I」のなかで王室支持のイラン人がもってきたイランの土をFarah王妃が、手のひらにとって、「これはNiavaranの土だわね」と呟きながら、じっと見入る場面がある。

映画自体、王と王妃を追い出す政治運動に「17歳の共産主義者」として参加したNahid Persson Sarvestaniと追い出された王妃Farah Pahlaviの奇妙な、しかし哀切な感じがする友情を描いた傑作だが、映画をみているうちにふつうの人間ならば普段は考えない「愛国心」というようなことについて考えてしまう映画でもある。

イギリス人は愛国心というようなことはまともな人間が口に出すのは恥ずかしいことだと考える。
深い意味はなくて、食べ物を食べるときに音を立てるのは下品であるとか、まして舌鼓を打つなんてとんでもない、というようなことのほうに近い。
ユニオンジャックを打ち振りながら外国人排斥なり、同じくらいケーハクななんらかの政治的メッセージを叫びながら練り歩いても、沿道のひとの反応は「そんなにユニオンジャックが好きならパンツにして穿け」「ピーピーの染みをつくるなよ」と言われてげらげら笑われて終わりだろう。
もしかすると中には「愛国ファン」みたいなヘンタイみたいなのがいるのかも知れないが、愛国心のほうでは明かに迷惑をするだろうと思われる。

共産主義の理想を信じて王政打倒の運動に参加したPersson Sarvestaniは、そのあとにくるはずだった(アヤトラ・ホメイニが約束した)民主主義の社会はあらわれず、その代わりにムスリム独裁の恐怖政治があらわれたことに失望する。
当時17歳だった弟が警察に連行されて処刑されると、すべてを捨ててドゥバイに密航する。
いまはたしかスウェーデンに住んでいるはずである。

一方の王妃ファラもサダト大統領のエジプトに逃れ、やがてサダトが暗殺されるとパリに逃れてゆく。

イラン革命が達成され王室が国外に逃れた次の週に、高校生の女の子達が「今度の政府は女はみなスカーフをかぶるようにと言い出すに決まっている、って噂があるのよ」と言って笑い転げている。
少なくとも表面はフランス的な社会だった革命前のイランではスカーフの着用などはイラン人に共通な偏見である「野蛮で粗野なアラビア人」たちの風習にすぎなかったからです。
ところが、その週の週末には政府は実際にスカーフで髪を隠すことを法律化する。
シャリーア

http://en.wikipedia.org/wiki/Sharia

が国法になってしまった。

「石打ちの刑も復活した」と欧州で会ったイランの女びとが言うので、相変わらず世界のことに関心をもたないでノーテンキな暮らしを続けていたわしは驚いてしまったことがある。「あれは石が大きすぎても小さすぎてもいけないの。小さくては苦痛が与えられないし、大きすぎると、苦しまないですぐ死んでしまうでしょう? 結婚もしないで性交渉をもつような女は、苦しみ抜いて死ななければいけないのよ」
「イスラム社会は女にとっては地獄そのものでしかない」
Persson Sarvestaniの映画にも処刑場で拾われた、血がべっとりとついた石が出てくる。

ウクライナ人たちは、「世界でいちばん素晴らしい国はウクライナさ」という。
ひとりの例外もないよーだ。
食べ物がうまい。
お菓子も世界一。
人間が素晴らしい。
底抜けに親切なんだぜ、みんな。
冬にはみなで集まって酒を飲む。
しまいには、酔っ払って「女の子たちも、すげー綺麗だからな! ガメ、キエフに来たらとびきりの美人に紹介するよ!」と言って、モニさんにものすごく怖い顔でにらまれたりしている(^^)

いつかウクライナに帰るの?と訊くと、どのウクライナ人も爆笑して、「絶対、帰らない」という。ろくな仕事がないしね。
社会のインフラもぼろぼろで、生活の不便がおおすぎる。

ニュージーランド人の愛国心は、どういう形をしているかというと、通常は「当たり前のこと」なので誰も言わない。
「当たり前」の理由は簡単で、ニュージーランドはアメリカなどよりも遙かに若い移民の国なので、どのひとも「来たいから来た」のであって、ニュージーランドが好きでなければいる必要がないし、実際、外国に移り住んでしまう「ニュージーランド人」もたくさんいる。
ニュージーランドのパスポートを持って一生をスタートした人のおおよそ2割弱は海外に住んでいる。
50万人近くのニュージーランド人が住んでいるオーストラリア、とりわけニュージーランド人が多いブリズベンにいると、ニュージーランド訛りばかりが聞こえてきて、なんだかにやにやしてしまう。

歴史を通じて、国家は「国」という支配機構とひとびとの魂に染みとおるようにして根をおろす「自分がなじんだ文化へのぬぐいされない愛情」とを故意に混同することによって、自国の「国民」をあるいは死に駆り立て、あるいは自分達支配層のおかした政策上の過ちの「つけ」を個々の国民に支払わせてきた。
「愛国心」が声高に語られるようになる社会は必ず危機に瀕してストレスが高まった社会だが、そこで国旗をふってたまりにたまったストレスを自国内の異民族や異文化集団にぶつけるか、それを自分達の社会と文明の誇りにかけて自制できるかは、その国が破滅に向かうか再生に向かうかの重要な分かれ目であると思う。

声高に愛国心を語って旗をふって沿道を練り歩くような野蛮と未開から「愛国」というような言葉に酔ってしまいやすいナイーブなひとびとを思いとどまらせ、ひきとどめる力をもっているのは、自分の魂が慈しまれて育ち、そのなかで呼吸し、かけがえがないと感じる文明の力、「もうひとつの愛国心」だけであるのはなんという皮肉なことだろう。

「国」というものがもつ支配機構としての実体と時間のなかで発酵して上質な酒になったような魂の馥郁との関係が言葉のもつ論理ベクトルと情緒の二面性にそっくりなのは不思議な暗合にみえて実際には必然的で理由があることだと思う。

説明すると、またヘンなひとがたくさん寄ってきてめんどくさいので説明しないが、わしは自民党の日本が再生するとは思っていない。
無能なワイマール共和国にかわったナチによって「再生」したドイツが結局巨大な破滅に終わったのは、いままであんまり検討されてきたとはいえない純粋に経済のみに限っても説明出来る理由があるだろう。

日本はよりおおきな危機に向かって歩いている。
その過程では、もっとおおくの日の丸がふられ、もっとおおきな音量で「愛国心」が叫ばれてゆくのだと思う。

そのときには、友よ、「日本」のなかで自分をなぐさめ、微笑ませてくれたものを思い出してみるとよいと思う。
桜よりもこぶしの花を、富士山よりも自分の町からみえるやさしい姿の山を思い出すほうが良い。
ときどきは海に行って、ほんとうは日本の近海の海藻の匂いだという、あの「日本の匂い」がする海の匂いで胸をいっぱいにして、魂までいっぱいにして、低い空の下で、深呼吸をしてみるのがよいと思う。

嵐がきたからといって、人間であることをやめるわけにはいかないのだから。

海と怪物

gulf89

コモ湖の夏は、いつも突然襲ってくる。
雲ひとつなかった青空の向こうから直立した巨大な白雲が姿をあらわしたかと思うと、次の一瞬、真っ暗な空に変わって辺り一面は息もできない筱雨に変わる。
視界はゼロだし、背中や顔に衝突する雨滴は石つぶてのようである。
ボートの底にあたる激しい雨粒の音を聴きながら、大急ぎで岸に向かう。
「ボ、ボートが沈んでまう」とパニクって、猛烈な勢いで櫂を動かしているわしの姿の前には舳先に座って、頬杖をついて、なんだか嬉しそうにわしの恐慌ぶりを眺めているモニがいる。
「大丈夫、モニ、もうすぐ岸に着くから」と叫んでいるのに、のおんびりと
「わたし、ガメ、大好き」と、チョー見当外れの呟きをもらしたようである。
わしは頭のほうはともかく筋力と肉体の物理的なATP産生量だけは定評があるので、モーターボートのようなスピードで岸に着く。
桟橋に仰向けになってぜーぜーしていると、モニが、面白かったな、という。
なんだか、いつも、こーゆー感じだよねー、と思っているところで目がさめた。

オークランドのHauraki Gulfには、いくつか島があって、ヨットやパワーボートの停泊に適した入江がいくつもある。
帆船時代にオークランドの安酒場でしこたま飲んだ船員たちが、げーげーやりながら二日酔いの頭をさますのに使ったので「酔っ払い湾」の名前があるIslington Bayがいちばん有名だと思うが、他にもHome Bay、Mullet Bay、たくさんあります。
Home Bayなどはケーブルがややこしく複数敷設してあるので釣りには向かない(釣り針でケーブルを引っかけると20万ドル(1500万円)の罰金でごんす)が、あんまりここで名前を書かないほうが良いに決まっている、わしがよく行く入江などでは、朝と夕方にはいろいろな魚がたくさん釣れる。
日本ではちっともとゆっていいくらい魚を食べなかったのに、このときのために有次(ありつぐ)の包丁を日本からもってきて、銀座で何遍もこのブログ記事で自慢するために書いている「外国人向け寿司スクール」にも通ったわしは、刃先も軽やかに「指切っちゃったあー、痛えええー。出血多量で死ぬー」と叫びながら、シマアジ、タイ、アジ、アオリイカという面々の鰓の後ろから内臓をえぐりだし、人間で言えば耳にあたる測線をぞりぞりと矧ぎ、頭とシッポをチョンと切って刺身をつくる。
家の庭からもってきた紫蘇と生姜と醤油で食べる。
モニは一口食べて「おいしい」と言いながら主には自分でつくったキッシュを食べておる。食べてみると、モニのキッシュのほうがどうしてもおいしいので、魚はどうでもよくなって、ふたりで星が満天を飾りだした夜空を眺めながらシャンパンを飲みます。
こうやって晴天の夜にまわりに町どころか人工のものがなにもない入江の沖合で、波の音を聴きながら夜の空をみあげていると、なんとなくバカバカしいほどたくさん星があって、あれがひとつづつ銀河や恒星ならば、人間の知性には価値なんてほんとうにあるのか、という気になる。
おおきな自然に遭遇した人間がもつ、ふつーの反応だと思います。

あるいは、何度かは家に体温計というものがないので判らない(子供が風邪をひいたりするたびにお母さんがやさしい手で体温計を口に含ませてくれるのは日本だけの習慣ではないかと思う)が、高熱が出てベッドでうなっていると、モニがやってきて、デコに手をあてて、「熱い!」とゆって喜んでおる(^^)
もう死ぬー、と喘ぎあえぎ述べると、オーバーだ、とゆって、はっはっは、と笑う。
うー、薄情ものおー、このまま死んだら、あのひとにもっとやさしくしてあげれば良かった、と後悔するぞおー、と虫の息で言うと、「ガメは、ほんとうに子供みたいだ」と呆れた様子で立ち去る。

そのまま気絶して、起きてみて、なぜか熱が関節に来ていて足かっくんになってのけぞったり、こけそうになったりしながら歩いているのを、いつのまにか寝室に来ていたモニが笑ってみてます。
カ、カッコワルイと照れ隠しに言うと、モニは容赦なく、おじーさんみたいだ、という。

ガメ、必ずおじーさんになるまで一緒にいようね。
ちゃんと歩けなくなっていても、その頃にはきっと操縦性のよい車椅子があると思う。わたしは押さなくてもすむだろう。

その頃にはモニもおばーさんではないか、と述べかけて、ふと、ひょっとしたら、このひとはおばーさんになど永遠にならないのではないだろーか、
わしだけがおじーさんになって、モニはいつまでも若い美しいままで、いまと同じように寝室に半身を起こして、わしの老衰ぶりを笑っているのではなかろーか、と考える。

モニというひとは、そういう感じがする不思議な人です。

戸塚宏という名前は昔、鮎川信夫について調べていたときに出会ったことがある。
社会に適応できなくなった子供を預かって自分の「戸塚ヨットスクール」で、殴る蹴るを繰り返して何人も更生させたので有名な人です。
そのヨットスクールで情緒障害の子供が何人も「正常」になったと当時のマスメディアが激賞して、戸塚ヨットスクールは一躍人気施設になった。

ところが暫くして、というのは70年代の終わりから80年代初頭にかけて、何人もの「生徒」が行方不明になり、あるいは死亡していたことが判って、それまでベタボメ一方だったマスメディアは一転、「それでも効果があるのだから是認されるべきだ」というグループと「殺人学校ではないか」というグループに分かれる。

鮎川信夫は次第に「殺人学校非難」に世論が傾いていった頃、戸塚宏の「勇気」を称賛する。この「事件」は当時の最も良心的であったはずの読書人層におおきな衝撃を与えます。トーダイおじさんのひとりは、そのときの「まるで父親に裏切られたような、やりきれない気持ち」をウイスキーの酔いにまかせて、わしに語ってきかせてくれたことがある。
このひとは、それ以後「社会評論」のようなものをいっさい読まなくなってしまう。

いま日本語wikiを見ると、死者のうちのひとりについて、無数の打撲、内出血の痕跡、歯2本の損壊、と、のんびり、簡単に描いてある。
小さいヨットに使うラダースティックで殴ったもののようで、日本の家庭に普通にありそうなもので言えば野球のバットよりも衝撃力が少し強いくらいになると思います。
生徒が反抗的な姿勢を示すと訓練に出る前にまず徹底的にスティックで殴りつけてから、海につれだして、「特訓」をおこなったもののよーである。
海に出る前に半死半生になるまで殴っていたのは、小さいヨットでは反抗的なクルーを乗せる余地はないからでしょう。

この「ヨットスクール」はいまでも強い支持を得ていて、石原慎太郎や伊東四朗、岡田武史というようなわしでも聞いたことのある名前が「支援者」に名前を連ねている。

暴力によって情緒障害が治癒するのは、実は、西洋ではかなりむかしから知られている。
「悪魔憑き」になったひとびとの体から悪魔を追い出すために棍棒や石で徹底的に打擲する習慣がある地方では、それによって「悪魔憑きがとれる」例があったからで、無論、大半は死んでしまったが、それは「悪魔が憑いていたから」だということになってすませていた。

あんまり説明する気も起こらないが、なぜ暴力によって人間を正常にするという発想が社会から失われたかというと、「暴力自体の破壊性」が魂に及ぶのが誰の目にも明かになったからだった。
「それは本質的に異なる」という人がいるだろうが、いまでも中東やインドの一部の地方では「生意気な女を集団で強姦して慎ましい女に変える」という考えが残っている。
集団で殴り強姦して、世界に希望を失い、死ぬ力さえ残らなくなった女を、親族のいちばんみそっかすの男と結婚させて、「めでたしめでたし」になる、という風習は、いまでもそういう地方には根強く残っている。

あるいは日本で「男は殴られないと一人前にならない」という人には複数会ったことがある。
「ガメちゃん、奥さん、あまやかしちゃダメだよ。日本では、嫁さんてのはまず殴って教育するものだったくらいなんだから」という人もいて驚いたりした。

ツイッタでもちょっと書いたが戸塚宏にしろ鮎川信夫にしろ、このひとたちは「殴られる側」としてしか、もともと暴力と付き合ったことがないのではないか、と考えた。
あるいは、「制度のなかの暴力」しか知らないのではないか、と言い直してもよい。
鮎川信夫という人は一生の基準点が「復員兵」であったことに特徴があって、「空中の帝国」の一員としてスマトラ島に出征し、ご多分にもれず、古参兵や下士官兵に、戦闘などは、よそのことで、ただ無意味に殴られ続けて、マラリアを発症して内地に帰ってきたひとである。

戸塚宏は名古屋大学工学部というエリートとまではいえないが、入学の難しさでいえば「中の上」(トーダイおじさん判定)の大学にはいって、そこの体育会に所属していたヨット部でヨットをおぼえた人だそーだ。
学校も菊里高校で、いま義理叔父に訊いてみると「名古屋では多分、東海、旭ヶ丘についで3番目なんちゃうかしら」という学校だそーなので、どうもそうすさまじいナマの暴力と遭遇したことがある人には思えない。

暴力には面白い特徴があって「制裁」にしろ「教育の一環」にしろ殴るほうは「制度の一部」「目的を達成するための手段」としての暴力と自分に言い訳して暴力をふるうが、殴られる方は、必死に「先生は自分のことを考えて殴ってくれたのだから」「自分の精神を矯正するための愛情の鞭なのだから」と自分に言い聞かせようとしても、それは自分に加えられた物理的な衝撃力を受けいれてしまおうとする心の虚しいあがきで、潜在意識のほんとうの心は起きたことをちゃんと知っていて、意識の上で自分がただダメージを加えられただけで良いことなどはひとつもなかったのだと認めない当の意識の持ち主に復讐をするという性質をもつ。
むかしの強姦被害者などにも「自分が被害にあったのは自分にもいけないところがあったのだから仕方がない」と思い込もうとする悲惨な例がいくらもあり、援助交際などは、もっと典型的で、「おやじとやってカネをまきあげてやった」と自分に言い聞かせても、「自分」はとっくに肉体を売った肉体の持ち主に怒って主体を見捨てていて、どこにもほんとうの自分がいなくなってしまっている、というか、自分が去ったあとの抜け殻と暮らしているようなプラスティックな自我しか残らないことになっている。
それでも「制度の一環」としての暴力被害にあったひとは多く暴力肯定論者になってゆく。
そこでは暴力そのものが観念化しなければ記憶に耐えていけず、観念化しようとすれば、その努力の中で、暴力に生産的な意味を認めざるをえなくなるからでしょう。

暴力を蒙ったひとが情緒障害から治ったようにみえるのは、新たに暴力という物理的な破壊力を受けいれなければならなくなった心が謂わば自死を防ぐため専用の「偽りの自我」をうみだすからであると思うが、もともと暴力に「人を救う」力などないことは、暴力というものを知っている人間にとっては自明である。

わしはいまでもボクシングの練習をする。
40歳くらいになって破産したらモニの実家の作男をするかジョージ・フォアマンのように中年ボクサーとしてプロになって華々しいデビューを飾るか、と考えることがあるからだが、これ以上バカになっては敵わないので、頭は殴るなよ、と練習の相手に来るひとに言う事にしてある。
もともとは、小癪にも子供の頃から空手の黒帯の妹に対抗してボクシングを始めたことに淵源をもつ。
ロスアンジェルスの失礼な聖書学者などは、「そんなにデブなのか?」と失礼な感想を述べたが、そういう問題ではなくて、筋骨がありあまっているせいで途中からは、ずっとヘビー級であった。

かててくわえて、(いまはお友達のあいだで、よく知られているとおり、「温和で成熟したオトナ」だが)むかしからチョー短気なので、あまりにも理不尽な状況に遭遇したときには夜中の広場に屯するハゲたちなどを対象として暴力をふるったことがまるでないとはいえなくも{なく(x2)}はない。

そーゆー、妹のようにものごとを誇張して人を中傷する人間が(真実ではないが)「ボーリョクオトコ」と呼ぶような人間からすると、刃向かってこない人間を殴るというのは実は狂気の行動で、狂気、というのがおおげさにきこえるならば観念的な暴力なのであると思われる。
簡単に言うと、抵抗しない人間を殴り続けるというのは正常な人間には無理なのです。

戸塚宏が何事かを勝ち誇ってガッツポーズをつくっている写真があるが、見ると、本人は筋骨隆々としているつもりなのかもしれないが、か細い、ひどい言い方をすれば「チャチ」な肉体で、ヘンな言い方だが、こんな体格で人間を死に至らせるほどの「暴力」をふるうのは余程執拗に殴り続けなければならなくて、たいへんであると思わせる肉体である。
想像力と観念の世界では使命に燃えてラダースティックで抵抗もせず泣き叫ぶ「生徒」を殴り続けたこのひとは、その現場にいあわせたひとには、観念の力で身動きできないように縛り付けた被害者を貧弱な筋肉で夢中でなぐりつづける小さな狂人に見えたに違いない。

睡眠から覚醒へ浮上してゆく混乱した意識のなかで
頭が横滑りに滑るようにして、
ふいに、脈絡なく、人間は野蛮だなああー、と思いながら目をさます。
戸塚宏を考えるきっかけになった、執拗で無意味な体罰の挙げ句、自殺してしまった高校生のことを思い出してしまったからです。
暴力には破壊以外の意味はない、というのは文明人であるという矜恃を構成する第一の条件である。
もう何万年も人間をやっているのに、それが判らない人間がいて、その考えに支持すべき点があるのではないか、と躊躇する人びとがいる。
いったい自分たちはこの7万年、何をやってきたのだろう、と考えない人はいないだろう。
暴力を手段として肯定するのは一種の絶対的な卑しさにすぎないが、暴力をめぐって起こる事象は暴力をふるう側においてもふるわれる側においても、ただ魂の破壊だけである。
しかもその破壊は絶対的不可逆的なもので、いったんそれが起きてしまえば被害を受けた人間にほんとうの再生などはありえないのだということが、卑しい観念の、偽の太陽のせいで、めがくらんで、見えなくなってしまう人がいまでもいる。

釣りをする人は誰でも知っているが、この静かに見える海の表面の下には、無尽蔵な暴力がある。
魚が魚を食べ、その襲撃者をさらに大きな襲撃者がまるのみにする。
釣り上げた魚の半身が、ごっそり何者かによって食われている、というようなことはよくある。
その無限の暴力の連鎖と均衡に拠って人間の世界以外の自然は成り立っている。

人間の栄光は、暴力を否定したときから始まった。
暴力の無限の連鎖をたちきって、強い者達があげる凱歌を沈黙に蹴落とすことによって人間の文明はうまれてきた。
それはいわば「無力の王」が玉座に座る空虚な栄光にすぎなかったが、それでも人間は健気にそれを信じようとして暮らしてきた。
そこにしか人間であることの意味を見いだせなかったからです。

暴力は人間の卑しさに巣くう闇であって、その闇は運悪く暴力を観念として使用するものたちによって文明と野蛮を往来する地下道として使われる。
彼が「正義の拳」をふるうと、文明はそのぶんだけ脆弱になるだろう。
彼が暴力にも効用があると述べると文明は腐臭を帯び始める。
そして暴力を「利用」したつもりの人間や社会には、暴力を是認するものだけがもつ、なんともいえない、卑しさの影がまとわりついて離れないのだと思います。

明け方近くに目を覚まして、モニがベッドの傍らにいないので船室を出てみると、モニは甲板で、自分で淹れたコーヒーを飲みながら太陽が昇る水平線を眺めているところだった。

並んで腰掛けると、わしにもコーヒーを注いでくれます。
わしが、きれいだなー、とマヌケな感想を述べると、モニはこちらを見て微笑んでいる。
人間のやさしさは人間だけがもっているが、そうして、人間が休息できるただひとつの場所だが、それにすら会えず、狂気の人と沖合に出て、殴り殺されたひとびとのことを考えないわけにはいかなかった。
教師に殴られることを愛情の表現なのだと自分に言い聞かせながら自動的に動く手で自らを殺すしかなかった高校生のことを考えないでいるのはやはり無理だった。

わしの表情を眺めているモニには、わしが何を考えているかはお見通しに決まっているが、透明な気持ちで朝を迎える、というわけにはいかなかったのです。

(画像はHauraki Gulf早朝の「天国への階段」。海ではそれほど珍しいものではねっす)

国を出るひとびと(1)ベトナム

waikato

ベトナムからのボートピープルは北ベトナムによって武力統一されたベトナム政府の「中国人排斥運動」だったのはいまではよく知られている。
ベトナムは、インドシナ半島ではむかしから第一位の大国で、しかも圧倒的な人口密度と進取の気性から絶えず外側への膨張圧力をもっていた。

ボートピープルが起きた頃(1970年代後半から1980年代)のインドシナ半島を眺めてみよう。

中国政府に支援されたポル・ポト政権が密林のテーブルの上に地図を広げて計画した妄想に近い観念の産物だった、簡単に言えばカンボジアは米の国だから都市の「遊民」(というのは知識人・教師などを含む)をみな田んぼのある田舎へ移動させて米作に従事させればよい、という「大下放政策」の失敗と、当時600万人弱といわれた人口のうち、欧州の通説で150万人、ベトナムの主張によれば300万人が殺された「キリング・フィールド」

http://en.wikipedia.org/wiki/Killing_Fields

の露見とで崩壊の危機に追い込まれたカンボジアをベトナムはヘン・サムリンを傀儡として半植民地化する。
日本では少し違う話になっているのは承知しているが、かまわず話をすすめると、
インドシナ半島ではフランスがドイツにぼろ負けに負けてアジアまで手がまわらなくなった隙に日本が火事場泥棒そのままの慌ただしさでインドシナに進出するが、頼みのドイツが負けてしまうと、当然の帰結によって日本もまた連合国に敗退してしまう。
フランスがいなくなると、この地域で圧倒的に膨張要因をもっているのはベトナムで、豊かな南ベトナムを武力併合した貧しいが武断国家の北ベトナムは、すでに植民地化していたラオスとあわせてカンボジアにも侵攻して自国の勢力圏内に置いた、という大きな図式になる。

このベトナム勢力に追いまくられてポルポトを擁したクメール・ルージュはタイランドとの国境ぎりぎりまで追い詰められるが、この地域第2位の大国であるタイランドは、いつものやりかたで、衝突を極力避けて、周りの国に「みっともない」「誇りはないのか」とまで言われながら、なんと国境の町町を国費で内陸に数十キロ移転させてまで関わるまいとする。これでタイランドは結果的には最悪の事態を逃れてしまうのだから、結局欧州人の植民地化の嵐のなかでも太平洋戦争中も独立を保ってしまったやりかたといい、おもしろい国であると歴史を読んでいていつも思う。

タクシン政権や赤シャツ運動は、隠しに隠しても、タイ人なら誰でも知っているとおり、中国がタイランドを影響化に置こうとする運動の一環だが、自分の国の側から一方的にインドシナ植民地化をしようとしていると言われるのは心外だ、とパーティやなんかでも鼻を膨らませ口を尖らせて述べ立てるのは、どれもこれもインチキ、というわけではなくて、中国人たちからすれば、敵対的なベトナム人がベトナム+カンボジア+ラオスという広大な版図を持ってしまったので、メコン川流域の安全保障のためにやむをえずタイランドに覇権を打ち立てようとしている、ということになるだろう。

ベトナム人は、アジアのなかでも、最も「目から鼻にぬける」才気の持ち主であるという。オーストラリアのシドニーの郊外には「ベトナム人の町」があって、ぼくはよくでかける。町全体がベトナム語で、サトウキビやなんかが並んだベトナム風のジューススタンドがたくさんある下町は素晴らしい活気で、しょんぼりしているときでも出かけると元気が出てくるような町です。
中華風に料理されたカニにバゲットが必ずついてきたり、いくたびに「ベトナム風はかっこいいな」と思う。
あるいはニューヨークでもベトナム人たちはきびきびしていて、反応が早く、商売も柔軟で上手い。

あまりに才気にあふれているので、自分達独自の文化をつくるというような鈍くさいことをしないまま中国のものを手っ取り早く自家薬籠中のものにして、どんどん「ベトナム製」のラベルを貼っていった、というのがぼくの所謂「ベトナム文化」への説明で、ベトナム人の前で述べるとその場で撃ち殺されるかもしれないので奨めないが、ベトナム文化においては、日本で言えば「文楽」にあたるような部分まで、単に中国のもののコピーで、何から何まで中国のものを拝借してしまっている。
「自分で考えてつくったものじゃないといやだもん」大明神のインド人はおろか、日本人も、実際にはたいそうオリジナリティにこだわる国民で、大庭亀夫が「日本マイクロ文明」と言うのは誇張でもなんでもないのはベトナム文化に触れればすぐ判ります。

日本の歴史は一面では「どうやって中国文明の進出をくいとめるか」という、いわば、国民が横に一列にならんで両手をせいいっぱい広げて薄い壁一枚で中国の影響を必死に防波してきた民族の歴史だと思う。
7世紀くらいからアイデンティティを意識しだした日本人は中国とのあいだの、どんな些細な差異も大事にして、なんとかして「中国の一部」になることを拒もうとしてきた。

ところがベトナム人のほうは、持ち前の強烈な自信と尊大で「ベトナムは天然自然にベトナムである」と公理のように思って来たので、マネされたがわの中国からみると、こんなに移住しやすい国はなかった。

だって、本人たちが「まったく異なる」といってるだけで、ほんとうは同じものですから。

ソビエトロシアの支援を受けていた北ベトナム由来のハノイ統一政府にとっては中国人は「邪魔な国民」だった。
ここで、ちょっと(日本の人には馴染みがない話題なのを)気が付いたので説明を加えておくと、ベトナムでは「中国人」と言っても日本人が半島人のことを考えるほども単純ではない。
まず中国から何世紀にも渉って流入してベト人と混血している中国人と、その係累がいる。それから中国系ベトナム人がいて、中国人がいる、というふうに、しかもその区別が線を引ける明瞭さではなくてグラディエーションがかかって存在している。
だから英語本で「華僑を追放した」と述べている本があるけれども、それは間違ってはいなくてもほんとうではなくて、単純に言うと、「自分で中国系人だと認めている人」を追放したので、しかも、ここからがベトナム文化に詳しくないと判りにくいと思うが、
中国人たちが「頼むから国外に出させてくれ」と哀願せざるをえないような形にして、というのは社会として中国人を不可視の形でいびりぬきイジメぬいて、国外追放の形にした。

いままでに築いた財産をまるごと捨ててまで自発的に国外に出る人間などいるわけがない、と「ボートピープル」のときに、最終的には82万人という数の中国系を中心とするベトナム人(隣接二国からの流入数を含む)を難民として受けいれたアメリカでもさんざん議論になったが、それはベトナム文化を知らないからで、ベトナムというものを知っていれば、あたりまえのことなのである。
カンボジアでは、どのくらいが収容所のなかでの病死数か判らないので確定人数は判らないが、百万人に近い人間を処刑してしまう。
ベトナム人は、南ベトナム侵攻後、ほとんど処刑・虐殺というようなことをしていない。
ところが仔細に眺めてみると、南ベトナム政府時代の著名人で国内に残っているひとびとは、本人の志願の形をとって入校する、あちこちの「再教育学校」で「病死」したり「事故死」したりして、あるいはめんどくさいとおもったのか「行方不明」というひどいのもある。
そして、ほとんど誰も帰って来なかった。

ベトナムに住んでいる中国人たちは、それをよく知っているので、営々と築いた財産を捨てて、小さな船で、命がけで海にでていった。
ここでも余計なことを述べると、ボートピープルと言うと夜中にこっそり官憲の目をのがれて、暗い海にそっと船を出す、というイメージがあるが、そういう例もないとはいえないとしても、たいていの場合は、沖合まで監視を兼ねてベトナム海軍の哨戒艇がつきそっていたのがオーストラリア政府・アメリカ合衆国政府によって確認されている。
調べていて、ぶっくらこいてしまうのは、その上に、もちろんいまでも公式には否定している(それはそうだろう、自国を脱出する難民から「出国を許可する」ためのカネを取る政府など前代未聞である)が、ベトナム政府は数千ドルの「出国料」を徴収していた。
しかも船のチャーターの手配もしていた。

航海に出たあとのこれら中国系ベトナム人の悲惨な旅は、たくさん語りつがれている。リッチモンドでもどこでもよい、ベトナム人がたくさんいる町に行けば、そして、彼らに信用されれば、時が経ったいまでは、きっと話してもらえると思う。
町でいちばんの美しさと言われた16歳の女の子がタイランドの沖合で、エンジンが故障して漂流した船のなかで、80数回、一回いちどきに十数人という海賊たちの集団強姦被害にあって、精神的にも肉体的にも植物人間になってしまった例や、手足を切り取られて海に放り込まれた兄を助けられなかったといって泣きじゃくる女びと、その凄まじさは、なぜ70年代80年代に活字にならなかったかが容易に納得できるていのものである。
報道の前では無慈悲であることをもって鳴らすジャーナリストたちでさえ活字にすべきでない、マイクを向けるべきでない、と感じる現実というものがある、ジャーナリストとしてはもちろん俺は失格だったわけだがね、と電気ビルのてっぺんのクラブで述べたイギリス人特派員おっちゃんのKを思い出す。

つけくわておくと、ボートピープルには「自分は中国系である」という偽造証明書をつくって国外に追放されることを望んだベトナム人たちもふくまれていた。
このひとたちには、経済というものをまったく理解できないハノイ政府の施策をみて、「ベトナムには未来はない」と思い定めたひとが多かったようでした。

ベトナムを皮切りに、ちょうどいいから日本語で「国をでてゆくひとびと」のいろいろなケースをみていこうと考えたのは、当然、福島第一事故や徴兵制度復活の機運に伴って、「そうなったら国を捨てる」というひとがあちこちに散見されたからです。

普段は当然不可視である「国」というものが姿をあらわして、日本のひとなら日本の人の前に姿をあらわすときには、個人が出来る事はもうなにもない。
そうなってから「国を脱出する」なんちゅうことは、出来るわけがない。
荒っぽい方法なら、ツイッタでは有名らしいメイロマさんという人の証言によれば福島事故のあと日本から欧州に向かう航空券は買えなくなっていたそうだが、航空券の発売を「見合わせて」しまえばよい。
日本の官僚は国民の大半より賢いという定評なので、もっと工夫すれば、たとえばインフレを起こして、円安にしてしまえば、輸出も伸びるのかもしれないが、もうそれだけでかなり海外には住みにくくなる。
あるいはいまでも関税法によって現金のもちだしは貴金属類と合わせてUS$10000に制限されているはずだが、1960年代まではこれが400ドルだった。
あるいは日本のCirrusマーク

http://en.wikipedia.org/wiki/Cirrus_(interbank_network)

が信用できないのは有名で、いまはどうか判らないが、ぼくが初めて日本にひとりでやってきた頃は「日本のCirrus ATMはたいてい引き下ろしが出来ないので郵便局に行け。郵便局のATMは引き下ろしが出来る」とガイドブックには書いてあった。
かーちゃんやかーちゃんシスターも、子供の頃、「日本の銀行のATMではUKのバンクカードは使えないから」と言って空港(なぜか空港だけは大丈夫だった)のATMで必ず円を下ろしていたのを思い出す。
こういうことは「法律を変える」というおおげさなことは必要がないことで、「指導」だけで、たとえば日本で発行されたクレジットカードを海外ではいっさい使えない、ということにすることは出来る。
クレジットカードが使えなければ、日本のひとが海外で生きてゆく方法は殆どなくなってしまうだろう。

自分が生まれて愛着をもっている国を捨てる、ということはたいへんなことで、5年も離れていた祖国に戻って、滑走路に着陸する短い低空飛行のあいだに、空から見える祖国の緑や町並みをみて、涙をぬぐわないでいられるのは根っからハクジョーなので知られる連合王国人だけだとゆわれている(^^)
実際、ぼくは、二十年ぶりなんです、という日本の女のひとが着陸コースに入った低空からの成田の暗い色の緑をみつめながら、みるみるうちに大粒の涙を目に浮かべて、必要ないのに、ごめんなさい、ごめんなさい、と隣席のぼくに謝りながら、唇をかみしてめて、声を殺して泣いていたのをおぼえている。
祖国と人間の絆というのは、もしかすると親子の絆などより余程深いのではないだろうか。

だが祖国を捨てざるをえなくなることはある。
ある、というだけではなくて、いまこの瞬間にも祖国を捨てて逃げなければならなくなった人は何万人といるのだと思われる。
西アフリカの砂漠を越えて、あるいはベルギー・コンゴの密林を抜けて、たくさんのひとびとが命からがら国を捨ててゆく、あるいは絶対に恋人と別れないと心に決めた半島人の若いひとは、徴兵を避けて、ニュージーランド行きの飛行機を23番ゲートの前のベンチに腰掛けて待っている。
ぼくの先生、タイ名門人の奥さんをもつ孤茶さん(@kochasaeng)は赤シャツ動乱のバンコクから郡山へ、今度は福島原発事故に遭って再びいったんバンコクに撤退して、今度は北海道へ、小説か手記か書いて稼げばいいのに、と思う移動行を繰り返さねばならなかった。

いま日本語インターネットページ

http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/ボートピープル

をみると、インドシナ三国からの難民受けいれ数として、

アメリカ 823000人(人口の0.26%)
カナダ  137000人(人口の0.4%)
オーストラリア 137000人 (人口の0.64%)

日本については11319人(人口の0.0088%)、という数字が挙がっているが、正直に言って、どういう経緯で「あの日本」が結局は1万人も難民を受けいれたのだろう、とちょっと驚いてしまった。
当時、日本は難民の受け入れを、やや不思議な感じがするほどの頑強さで拒み、国際社会の轟然たる非難を浴びることになる。
その国家としての冷酷さは、英語圏でも毎度のように夜7時のニューズの材料になっていたと言う。
ニューヨークやシドニーのインドシナ人たちと話していると、冗談めかして、笑いながら「もし日本人が国をでなければいけないようなことになったら、こんどはこっちが、日本人の目の前で、おもいきりドアをしめてやるのさ」というが、いざ自分達が困難に陥ったときににべもなく門前払いをされた悔しさを、いまでも元インドシナ難民たちは忘れていないもののよーでした。

タイランドはラオスとカンボジアから大量の難民が流入して、収容所で数えられただけで30万人を越える飢餓線上の隣国人たちを抱え込むことになった。
タイランドはインドシナ3国が共産化した1975年以来、長い間、この一説には100万人を越えたとも言われる難民の流入に苦しむことになる。
一方で、物理的に難民を養えなくなったタイランドとマレーシアは、数万人という収容所難民をカンボジアなどに「強制送還」する。
強制送還された難民たちが、ほぼ全員殺されてしまったのは言うまでもないことである。

ずっと調べていくと、「国」は怖いなあー、と思う。
国などは、なるべく透明でいてもらって、たとえばニュージーランドの大臣のように、議員クレジットカードで買った20ドル(1400円)のワイン二本の説明がつかなくなって、いっせいに差し出されたマイクの前に「もう、しません」をして泣いてしまう、というようなチョー冴えない政府であるほうがいいよーである。
まったく、「愛国」なんて言葉はろくでもない、と考えたことでした。

(画像はワイカトの農場。この農場は面積あたりの牛が多すぎて飼い方が不健康であると思われる)

昆布石鹸の味

向田邦子の「昆布石鹸」という文章は
「ビスケットとクッキーはどう違うのだろうか」
という一行で始まる。
ぼく知ってるもん、という意味ではなくて、読んでいて、へえ、と思う。
へえ、ではなくて、そうか、なのかも知れないが、
へえ、なのか、そうか、なのか、
要するに「そんな感じなのか」と発見して軽い驚きを感じる。

ビスケットとクッキーがどう違うかというとビスケットがある世界にはクッキーがない。
ニュージーランドでもCookieTime
http://www.cookietime.co.nz/
という有名な会社があるが、「クッキー」なのは、この会社だけで、残りは「ビスケット」です。
クッキーはアメリカ語で英語では普及していない言葉であると思う。

ニュージーランドは狡い国で、英語圏で「うけた」番組を、あちこちから集めて来てテレビ番組の一日を形成する。
わしが子供の頃は、まだイギリスの番組が圧倒的で、再放送もラブジョイやインスペクター・モースで、だいたいAbsolutely Fabulous
http://en.wikipedia.org/wiki/Absolutely_Fabulous
の全盛期、ダジャレをいうと、すなわち前世紀までは、テレビから聞こえてくる英語はイングランドの英語やスコットランド訛りが多かった。
それが「Friends」
http://www.imdb.com/title/tt0108778/
を境に、アメリカ人の「R」がやたらと響くヘンテコな英語に耳が馴れて、まあ、いいか、というふうになってきたのだと思われる。

いまはアメリカの番組がぐっと増えて、次がイギリス、次がオーストラリアで、
残りは「ショートランドストリート」
http://tvnz.co.nz/shortland-street
のように、イギリスのコロネーションストリートほどではなくても、まだわしガキの頃から、毎日延々延々と続くニュージーランドドラマがある。
(Rachel
http://tvnz.co.nz/shortland-street-characters/rachel-mckenna-3106235
などは16年も毎日テレビに出ているわけで、いま番組のページで顔をみても、むかしのお子供さんぽい顔とは全然別の顔で、どひゃあー、と思う。わしジジイやん、と考える)

アメリカの番組を観ていて「パンティ」とかゆわれると、耳にするのは、もう何千回目であるのに、いまでもやはり頭のなかで「なんじゃ、そりゃ」という反応が起こっている。
いったい、なにをどうやったら、このひとびとはニッカーズをパンティとかいう、けったいなパーぽい言葉で呼ぶのであるか、と自動的に思う。
折角、女優がナイトショーのホストに機知を機動させてコート狭しと応えているのを観て、頭のいい女のひとだなあ、と感心していたのに「パンティ」というひとことで、実はこのひとは頭が弱いのではなかろーか、と心のどこかで邪推を始めている。

イギリス人とアメリカ人は、ケミストリの良い相手と巡り会うと、なにしろ外国人同士でもあり、お互いが新鮮で、意気投合して、結婚にまで至るカップルが多い。
一方で離婚も多いので、観察していると、毎日に使う単語の意味範囲やニュアンスがビミョーに違うのでだんだん疲れ果ててくるもののよーである。
もうひとつ、同じ「英語」を使って欧州系同士アフリカ系同士なら見た目も同族なので、すっかり同じ部族だと妄信してしまうが、実はまったくとゆってよいほど考えの習慣が異なる外国人同士なので、なぜそこに絶望的な理解の壁が生じてしまうのかが判らなくて、
離婚に至ってしまう。

ニッカーズをパンティと呼ぶ相手が疎ましくやりきれなくなってしまうのだと思う。
パンティと言う側は、ニッカーズという呼び名しか自然に受け取れない辛辣な皮肉屋たちのとげとげしさが、どうにもいたたまれなくなってしまうのだと思量される。

日本のひとはやむをえない便宜と思うが「欧米」という言葉を使う。
あたりまえだが、「欧」と「米」はまるで異なる世界で、明瞭に対立的な世界です。
なぜわざわざ日本語でこんな小学生でも明らかでありそーなことをわざわざ書いているかというと、日本は便宜によって「欧米」「欧米」と述べているうちに欧も米も一緒というか、まるで欧州とアメリカが同じ枝に止まっているかのように思ってしまうひとがいるようで、その誤解は歴史的にいって何度も日本を破滅的な危機に追いやってきた。
そろそろ「欧米」という言葉を辞書から削除しないと、巡り巡れば日本は東アジアブロックに閉じ込められて中国が閂をかけたドアから出られなくなってゆきそーだと思う。
語彙を再検討して不適当なものを注意深く取り除くという作業をあまくみることは、ひとつの社会にとって時に致命的であると思う。

ついでに述べると、都合がわるくなると、なあああーんとなく自分の国が欧州でないようなことを言いたがる連合王国人の狡猾にころっと欺されて、イギリスは欧州とは別だ、と思ってしまうひとまでいるよーだが、それは大陸欧州の甘い汁はもらうが責任を求められるのは嫌だぜ、というイギリス伝統のチョー無責任主義に目を眩まされているだけで、仕事をもって住めばわかる、イギリスはいまでも壁紙ひとつとっても他人への強烈な意地悪の仕方をとっても欧州である。
まして、その人間性のせこさにおいておや。

イギリスは時に欧州人としての相貌をむきだしにしてアメリカと対立し、別のときにはむかしから対立的な文化をもったアメリカと相容れない価値観をもった英語国としてアメリカを冷笑する。
普段は笑い話ですむ一見めだたないおおきな差異が、これから先、たとえば中東やアフリカ諸国をめぐって表面化してくることも多いと予想できる。

「昆布石鹸」を読んでいくと、向田邦子と(写真家の)立木義浩が「あのヘンテコな味はいったいなんだったのだろう」と考えあぐねた食べ物が、リコリシュ(Licorice)
http://www.licoriceinternational.com/licorice/pc/home.asp
であることがわかる。
表題の「昆布石鹸」というのは、向田邦子がリコリシュを食べた、その味の感想です(^^;)
このリンクを見ればわかるが、しかし、リコリシュは「西洋人」というチョー大雑把なくくりでくくっても全部そのままあてはまりそーなくらい広汎な、菓子版「ソウルフード」で、たとえばわしはむかし、他人の子供っぽさを見破るのに神速な嫌味な性格のイタリア主婦すべりひゆに(教えてあげない理由で)大笑いされてしまったが、あの写真でも判るとおり
RJ’s Natural Licorice
http://www.licoriceinternational.com/licorice/pc/RJ-s-Natural-Licorice-10-6-oz-300g-bag-16p187.htm
が好物である。
というより、家のなかにひと袋はないと、なんとなくイライラする。

ところがよくしたもので、「RJ’s Natural Licorice」はイギリスでもアメリカでも、たいていのスーパーマーケットに、どこにでもあります。
ラスベガスのCVS
http://www.cvs.com/shop/
にもちゃんとあって、摂氏46℃でクソ暑いのに、にちゃにちゃ食べていて、モニに大笑いされた。

まじめくさって述べると、そうやって「西洋」はたくさんの共通した部分や激しく異なる部分を内包して、交渉したり、言い争いをしたり、同衾しちゃったりして、目を近づけてよく見ないと判らない入り組んだ関係をつくってきた。
相変わらずなんだかうまく言えないが、ひさしぶりに日本語の新聞サイトをみると、
「欧米の立場から」というようなことが相変わらず述べられていて、欧と米が一緒にいるように見えてしまうような、そんな遠くから眺めててダイジョーブなんだろーか、と考えたので「昆布石鹸」をかじりながら、少し、些事におよぶ差異について書いてみるべ、と思ったのでした。

A Big Swell

金正恩が延坪島を砲撃したとき、世界中の「東アジアウォッチャー」が「あっ」と思ったはずである。
あ、と思ったのはなぜかというと、ウォッチャーであるのに「あっ」と思っていてはマヌケだが、理由があるにはあって、総書記に就任早々延坪島を砲撃するということには、
「これからは軍事恫喝路線は収拾して経済を再建してゆく」というメッセージがこめられていたからだった。

そーだったのか、とウォッチャー木村たちがぶっくらこいているころ、青瓦台では李明博たちが顔をしかめていたに違いない。
こちらはなぜ顔をしかめていたかというと、せっかくいろいろにさまざまにおためごかしを述べながら、「隣国として支援しようとしてもしきれなかった北朝鮮を一身を投げ出して、巨大な経済的出費をものともせずに、同胞を救いたい一心でついに半島統一の形で人道的統一を行う韓国」という図式をつくる準備をしてきたのに、この時点で経済路線に転換されると「中国の影響下にある北朝鮮」が固定してしまって韓国には良いことはなにもなくなってしまうからです。
それでは北朝鮮が中国傘下の子会社みたいな国になってしまう。
青瓦台は慌てて朴正煕の娘、朴槿恵に連絡をとったに違いない。
「このままでは、われわれはアメリカの影響下にとり残されてしまう」

竹島上陸はこの頃に決まったに違いないので、任期満了で次を考える必要がない李明博が、自ら竹島に上陸することで、アメリカ主導型の米日韓の安全保障の枠組みなんか、もうやってられるかよ、という韓国からアメリカへの強烈なメッセージだった。

むかし、ヒラリー・クリントンからニュージーランドへの不思議なメッセージが届いたことについて書いたが
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/24/ヒラリー・クリントンの奇妙な提案/

そっちがそういう考えなら、わしらにも考えがあるというか、韓国人は、アメリカ人たちに対して「やる気あんのかよ」と思っていたところなので、もう、なんだか防御線を後退させて、あとは遊撃的に防御するからダイジョブだとかいかにも眉唾なことを述べているアメリカに頼りきるのはやめて、アメリカ主導だけでやるのはヤンピだ、という韓国の歴史的意思表示が李明博の竹島上陸だった。

韓国の最大の悩みの種は、もともと、この「やる気が全然ないアメリカ」で、IMFを通してアメリカとの強い結びつきで経済を復興してきた韓国は、経済の復調とともに、しかし、急速に中国との直截的な関係を重視するようになってきていた。

韓国の経済の実態はサムソンそのものだという笑い話があるが、そうそう笑ってだけいてよい話ではなくて、サムソンという会社はもともと日本型の財閥型経済であり社会だった韓国そのものを根本から変えてしまった。
一方でサムソンは言わずと知れた日本の電気会社群相手に完勝した先端情報家電の会社で、英語世界では洗濯機や冷蔵庫も売っているが、ほんとうの商売はスマホやLAN対応のプラズマや液晶画面のテレビで、こういう業界の実態を知っていれば簡単にわかるが、台湾や中国本土もひとつの業界をなしていて、この経済世界を通じて韓国は「東アジア圏」をつくろうとしている。
たとえばディジアがノキアから買い取ったQt
http://en.wikipedia.org/wiki/Qt_(framework)
などを共通基盤にする、というようなかっこうでこれからますますリソースの共有化が起こっていくだろう。

中国は中国で、20年前には日本に役割を担ってもらうべ、と想定していたが、最近は台湾や韓国のほうが優秀なので、先端技術を吸収して経済のコンプリートセットをつくる相手としても都合がよくて、韓国との距離をぐっと縮めてきていた。
中国と韓国の水面下での接近はアメリカが眉根にしわを寄せるに十分なものだった。
アップルとサムソンの訴訟をめぐる(訴訟そのものではない)やりとりにも、そういう雰囲気がみてとれます。

しかし北朝鮮だけは、あんたにあげるわけにはいかないのさ、という韓国の中国に対するデモンストレーションが竹島上陸だった。
もちろん、それはアメリカと北朝鮮に対するデモンストレーションでもあった。
北朝鮮の「冷静になりなよ」という極端に冷淡なコメントは、そうした政治的利害を忠実に反映している。

中国・韓国・日本の3国には、やたらめたら感情的で、ちょっと火をつけてやれば、「ポンッ」と燃えて集団で喚き廻る頭の弱い、「歩く政治的油紙」みたいなトンマな「愛国人」「自称右翼」がいっぱいいるので有名だが、竹島ならば、このうまく使えれば便利だが、こっちの政治意図をちゃんと読んでくれないので通常は邪魔なだけの「愛国者」たちも、あさっての方角にものごとをうけとって見当違いのあばれかたをしないであろう。

ちょうどヒラリー・クリントンが「捕鯨」「対日戦争の記憶」を暗喩として、太平洋外交の基調底音として響かせながら外交を進めているのと同じように、東アジアにおいては常に「反日」「日帝支配の記憶」は安全なカードだからです。

金正恩が軍幹部とこれみよがしにつるんで、やたら軍を賞めまくって暮らしているのは、半島人であれば、誰にでも一目瞭然、経済振興路線に舵をきって、ここで軍隊にむくれられるとえらいことになるからだが、この経済路線によって、北朝鮮がまるごと懐にころがりこんでくる可能性をつかんだ中国は、金正恩に協力して、軍隊を抑える側にまわっている。
半島のことを一緒に考えて助けてくれる、わしの友達の「よん」さんも経済振興がうまくいくかどうかわからない、とわしの問い合わせのメールに答えていたが、うまくいかない場合は多少あらっぽいことが起こって、半島は韓国主導で統一されることになる。

いずれにしろ、アメリカの影響力排除に、中国・台湾・韓国・北朝鮮の地域全体が動きはじめたことで多少の紛争が起きる可能性が高くなっているよーである。
アメリカは、それによって国防策を変えることはないにしても、日本の「沖縄基地返還」からはじまって、中国が「や、やっぱりまだやる気おおありだったのね」と驚愕させられたオスプレ配備にまで国民的な反対感情を形成する日本に深く失望している。
わりと単純な感情というか、「あんた、同盟者じゃなかったの?」という、そのへんのおばちゃんたちがもちそうな感情であって、こういう感情は解決優先度がとても低いアンノイアンスに過ぎず、政策に影響するわけはなくても、長期的にはかなりの影響力をもつと考えてよい。

尖閣は竹島と別の問題で、この問題は中南海からやってきた問題だが、しかし、旧安全保障の枠組みから新しい安全保障の枠組みに地域が移行する途中で、宙ぶらりんのまま漂っている日本を政治駆け引きの場として利用するにしくはなし、とみなが考えている点では竹島と同時期に自称中国本土人のオチョーシモノたちが上陸したことに必然性がないわけではない。

ここまで書くと「日本は、どうなってるんですかあー?」と思う日本のひともいるだろうが、日本は国内における右翼の衰退以来、アジアとの「絆」を失ってしまっている。
なんだか役所の作文みたいな外交ばかりをしていて、外交的機能不全に陥っているので、この点でも「古く」なってしまっているのでしょう。
ちょうど、江華島事件
http://en.wikipedia.org/wiki/Ganghwa_Island_incident
の頃と半島や大陸との関係が逆になりつつあるような趣になってきている。

竹島や尖閣諸島への日本の政府・マスメディアの反応を眺めたかぎりでは、これが反応なら人民解放軍は「局地なら意外とやれるかな?」と考え込んでいるかも知れず、まきこまれなくてすむ紛争にまきこまれないためには、国民ごと、もう少し目を見開いてしっかり自分の国のまわりを見た方がいいがなあー、たとえば北とかも、と思わないわけにはいかないのです。

Love each other or perish

1

官邸前に毎週金曜日に集まるひとびとが仲間割れして、デモの縮小がみこまれている、政府のひとびとが喜んでいる、というので、へー、なんでかなあー、と思って見に行ってみたが、ここからでは遠すぎてなにも見えなかった。
主催者側が警察と一緒で、あるひとの陰口を利いていて、20時に終わってしまうので、管理デモはダメで、とツイッタで説明してもらったが、いちいち頭のなかで意味をなさないので、判らなくてもいいや、ということにした。
こういうと、もしかすると怒る人がいるのかもしれないが、わしには「判らないこと」が宇宙の星のかずくらいあるので、考えても判らないことは放っておく癖があるのです。

きみとぼくとは、ほんとうにはわかりあえるはずがない、というのは人間と人間の関係の基本であって、それがちゃんと判ってない人が他人と意思の疎通をはかるのはムリの3乗くらい無理であって。無理無理無理、むりー(<ー大声で強調しているところ)なくらい無理であると思う。
前にも書いたが「最も巧みな詩人」エズラ・パウンドは言語でお互いを理解しあうことがそもそも不可能であることを発見して話す事をやめてしまった。
あるいはW.H.Audenは、
「We must love one another or die」という有名な詩句を1955年のアンソロジーで
「We must love one another and die」に変えてしまった。

人間という生き物の最も風変わりな点は、人間が虎のような孤独な生き物とは異なって、集団で生活する社会的生き物であるのに、言語を習得した結果、虎よりも孤独な魂をもってしまったことにある。
生きてゆくために群れが必要であるのに、意識の分厚い壁に阻まれて、群れと同化できなくなってしまったことに人間の悲惨のいわれがある。

しかも人間の心は他者との差異を見つめ出すと、魅入られたように凝っと、その差異をみつめる癖があって、ちょうど道路のまんなかでクルマのヘッドライトを見ると、立ち止まってヘッドライトの光がぐんぐん自分に迫って、ひき殺される瞬間まで光芒を凝視する習慣があるポサムに似ている。
差異に気を取られることが人間にとっては往々にして致命的なことになりうるのは、「嫉妬」という感情がどれほどおおきく育って、やがては嫉妬の感情の持ち主そのものを頭から噛み砕いて殺してしまうかを思い出すだけでも十分である。

差異を見つめ出すと、そこからもうあたたかい解放の光が射しているほうへは動けなくなってゆくのは人間の習性であると言ってもよい。そこから人間を真に救い出せるのは多分信仰だけだろうが、まさか官邸の前で神様を待っているわけにもいかないので、きみはやり場のない惨めな気持ちを抱えながら赤坂の通りで踵を返して地下鉄に戻ることになるのかもしれない。

日本の人は一般に差異を許容するのが下手である、と思う。
ガイジンが許せなかったり、他人が言うことにいちいち訓詁的な異議を唱えたりするのも、同じ民族的特徴の顕れであるとも言える。
いろいろな理由があるだろう。
いま、ざっと考えても、「自分と違うものをほうっておく」ということが、見るからに苦手だし、自分で定めた感情の形に相手が寄り添ってこないと、いちどきに機嫌が悪くなるようでもある。
ものごとは投げ出してほうっておいても、実際には、なあーんとなく、人間には意識されない人間の言葉の無意識の力によって、あるいは時代の要請によって、大海のまんなかにも実は潮流が存在して、それに沿ってさまざまな流れて行くように、まとまってゆくものだが、その「ある程度まで、投げ出してほうっておく」ということが、日本の人は、猛烈に苦手なのでもあるらしい。
大急ぎで差異を埋めないとたいへんなことになる、と思うのと、もともと日本の文明に内在する集団的サディズムとがないまぜになって、生産的な方向よりは破壊的な方向を好むように見える。

19世紀の半ばに、アジアという西欧の政治地図(というのは、そのまま国家パワーの地図という意味だが)からみると荒野の向こう側の、ひどく非力な、植民地にするほどの魅力もない、ちょうどいまの世界で言えば、カンボジアくらいの国力ということになるだろうか、徳川統治下の日本という国で、徹底的に閉塞して退嬰的な政治状況に陥っていた国を変革しようと思い詰めていた西郷隆盛という名前の儒教的革命家とでもいいたくなるような不思議な革命家は、隣国で薩摩人を一途に恋い慕う肥後人をことあるごとに退けて肥後人たちを嘆かせたが、気質的にはそっくりで、まるで戦争をするために生まれて来たような隣人たちを嫌う理由を、この西郷隆盛というひとは、
「あのひとたちは、差異をあげつらって議論ばかりしているからダメだ。
そういう習慣は変革をもたらそうと思う者には毒である」
と述べた。
自分に付き順う若い衆には「議を言うな」「黙って死ね」と繰り返し諭すことを常とした。
そうして彼の政治信条は「徹底的な破壊」であった。
岩倉具視が平和政権交代説をかざして迫る土佐人に難渋して、大政奉還後の徳川が参画する新政権構想に押されて立ち往生すると、閣議に戻る岩倉具視にナイフを渡して、これで片がつくことではないか、と真顔で諭した。

当時の日本は、いまの先進国かつ超大国である日本とはまるで様相が異なるイギリスやフランスの前足のひとはたきでふっとんでしまうような哀れな田舎の小国だったわけで、それをたまたま同じ国のことだからといって「維新」などというケーハクなキャッチフレーズをつけてみたり、ガイジンの政治家や社長がやってくると、とくとくと明治維新の志の話をしてみせて心底から軽蔑されたり、という事情については、もうなんども話したからここでは繰り返さないが、いまの日本ではもちろん「議を言うな」「黙って死ね」というわけにはいかない

しかし、この西郷隆盛という文献を通して読む西洋人からみると、まるで魅力がない革命家は、「日本人」というものを知悉していた。
なにが日本人を泥沼にとどまらせるのか、そこから日本人の魂をひっこぬいて、自分達のサバイバルに向かわせるには、どうすればいいか、その情緒的な力の由縁を明瞭に知っていたのだと思われる。

しかし、日本は、西郷隆盛が立っていた場所に戻るわけにはいかない

金曜日にまた官邸前にひとが集まるのかどうか、わしは知らない。
ここからでは遠すぎて、ものごとがちゃんとみえていないのでもある。
日本人が、あれほど必死になり、寄り添いあい、いがみあい、叫び、こぶしをふりあげて声を枯らして訴えても、日本の外側にはほとんど何も聞こえない。

なぜあれほどの大惨事が起きているのに、日本人たちは平気なのだろう?と訝しむひとや、そーゆえば、そんな事故があったな、と思い出してみるひとがいる程度のことで、世界は不思議なほど日本の運命に関心をもたないでいる。

差異を凝視しあうことによって傷つけあい、お互いの魂の胸元をわしづかみにして、あるいは顔も姿も判然とみえない暗闇のなかから狙撃するように相手を血まみれにすることまでして、日本人たちは、与えられた地獄の上に、今度は自分達の手製の地獄を築いてゆくだろうか。

わしには判らないし、そもそも事態を理解する意志と能力に欠けているよーでもある。
ただ、サーバーの隅に、自分が興味をもっていた国の出来事の、少し不吉な陰がある新しい1ページを、そっと記録しておこうと思っています。

N2O

ひとつの言語は巨大な洗脳装置として機能しうる。
人間が、通常自分が拠っている言語の世界を「閉塞的」と感じないのは、語彙のさまざまな組み合わせによってほぼ無限のヴァリエーションをもった意味を発生させうると感覚しているからであって、「言語の外側」というようなものを直覚しないのはこれが理由になっているようにみえる。

ところが語彙のひとつひとつは意味性、あるいはもう少しわかりやすくするために着眼を狭めると論理性のベクトルをもっているのとはまた別に、歴史的に語彙の内側に堆積した情緒や語感、あるいは繰り返し使われたために生じる陳腐さ、というような「死者の行為と感情」がこもっている。
いわば、その言語が成立していらいの何世代にも及ぶ死者の吐息と
が語彙のひとつひとつにはこもっているのであって、この「死者の思い」の総和は英語のような広汎に用いられている言語でも、それと感覚できるほど有限で閉塞している。

ローマ人がキリスト教を信仰するに至るのにパウロが必要であったのは、わしには明らかに言語的な理由によったと思われる。
キリストが述べたことや行ったことは、いったんすべてパウロの魂に置き換わることによってローマ人の魂に届くものに変換されていった。
いわば(言語的なトランジションの過程では)ひとりぼっちで机に向かうパウロがキリストである夜を繰り返すことによってキリストはローマ人の言語体系のなかに住み着くことができたのである。

英語人のキリスト教信仰が、なんとなくヘンであって、インチキぽいというか、しっくりこない、というか薄ぺらな狂信じみているというか、あの「つくってこさえました」な感じは、聖書が言語的な跳躍に失敗して、中東からローマ世界に飛び移ったときほど、うまく言語体系間の移動がうまくいかなかったからだろう。

ひとつの言語体系のなかにもともと住んでいる神が、他の言語体系から来た神にそっくりいれかわるのには、僥倖と、危険な、自然出産に似た生存を賭けた激痛が伴うので、パウロの事業の真の偉大さは、そういうほぼ無理難題に近いトランスフォーメーションを奔流のような言葉と激烈な憎悪によって押し切ってなしとげてしまったことにあるのかも知れない。

両親がそれぞれ違う言語圏の出身である、というひとは普通に、「ひとつの言語で考え得ることが、他の言語では考えることができない」という事実を知っている。
そこまで明然と自覚的でない場合でも、自分達の寝室での愛情生活はフランス語で子供の養育については英語で話をする、というような夫婦はありふれた存在であると思う(^^)

言語というものは、その言語に依拠して暮らしている人間の住む世界という部屋の大きさ、形、色彩、天井の高さに加えて「窓から見える風景」まで規定している。

日本で最も目に付いた、こういう言語が引き起こす制約についての誤解は、「日本語に翻訳されたフランス語の文章は日本語の文章にしかすぎない」、ということに気が付かないことから生じていることが多かった。
その誤解はひとつの言語がつくっている世界が他の言語でできている世界と(生物学上の意味で)相似ではありえても同じものではありえない、という事実への無理解から来ている。英語とフランス語、イタリア語とスペイン語のように、現実の問題として自動翻訳プログラムでほぼ正確に意味が再現できるような近縁な言語同士ですら、同じ世界が結びの集合をなしているのは全体の半分程度である。
まして北海に面した国の人間が発した言語が日本海に面した国の人間に「かすかで漠然とした類似をもった表現」以外のものに「翻訳」される、というようなことは絶対に起こらない。

うんと簡単にして言ってしまうと、英語でものを考える人間は英語という言語が本来もっている現実主義、暴力性、無神論的な傾向、冷たい暗闇のなかの孤独を思わせる利己的な傾向から逃れられないし、日本語で考える人間は、強い情緒性、お互いの反応にもたれあったような相対主義、神を仰ぎ見ない習慣からくる思考の水平性、というようなことから逃れようがない。

真理から目をそらして、集団が(広い意味で)安堵できる方向にしか論理が進まないことを指して「日本語は頭を悪くする」という議論が明治の初期と1945年の敗戦直後には盛んに行われたが、そこで基準にされている「頭のよしあし」というものが、すでに西洋語のもので、日本語という日本の列島のなかで閉鎖的に形成された価値体系に西洋語の価値判断を突然もってきたところで、もうすでに議論として破綻したものになっていた。

もっと、おどろおどろしい言葉を使いたければ言語というものは、その言語に依拠(主体が言語なしに思考する脳髄のわけはないのだから「言語を使っている」という表現は言葉の矛盾だろう)している人間の集団自体にかかっている「呪い」なのである。

このブログ記事には、5年前に始まった頃から日本という世界の歴史に類を見ないくらい閉鎖的な社会において起きていることの譬えとして宋書の「狂泉」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/02/
を何度も挙げた。
ここに出てくる「狂泉の水」はマスメディアを始めとする日本語に変換されて日本人社会のあいだに伝播される情報と「社会の空気」のつもりだった。

ロシア人はロシア語の狂泉をもち、アメリカ人はアメリカ語の狂泉をもっている。
考えてみれば人間は言語の体系に拠る限りはかならず狂信にとらわれる以外にはないので、この宿命から逃れる方法はないように見える。

もう少しちゃんと説明してから、と考えたこともあったが、もう面倒くさくなったので結論だけ放り出して述べてしまうと、神への信仰はやはり巧緻な無知にしかすぎない。
仮に神を仮定して言語の集合が閉じていることや宇宙を説明することにもういちど成功したとしても、その新たに仮定された神は「信仰」というような行為は否定することになるだろう。
日本語という言語はあらゆる言語のなかで、神という仮定が無知にひたっていたい人間だけがもちうる恩寵であることを明示的に感覚しうるほとんどゆいいつの言語であると思う。それには地を這うような現実主義で文明を構築した中国人たちですら天を仰いだのに、仰ぎみる天の代わりに眼前の清涼な虚無をみつめることにした日本語の成立事情がおおきく関係している。

人間は灰白色の脳髄のあちこちに電気信号を点滅させながら、言語の廻廊をわたって死者たちの思いと面会する。
日本語人は日本語人の死者と、英語人は英語人の死者と面会して、彼等の孤独を言語によって追体験する。
死者の言葉で死者の思いを、自分の感情と錯覚して愉快で闊達な調子で述べている。

人間は完全な孤独には耐えられないように設計されているのに、言語という哀れなほど貧弱な伝達道具しかもたずにここまでやってきた。
孤独ではいられない存在が孤独をつねに強いられて数十年の意識の流れを渉っていかなければならなかったときに、「神」というものがどうしても必要だった。
もうひとつの神の存在理由であった「宇宙を説明するために神が必要だ」というのは、いまでは人間が微笑をもって思い出すことになった教会の詭弁にしかすぎない。

わしはときどき神のいない言語である日本語の宇宙にもどってきて、英語や他の欧州語がみてきた宇宙のことを考える。
そういうときに、最も日本語を習得できたことに感謝しているのだと思います。