岡田隆彦は「詩を書く自分」が嫌いだったに違いない。
William Morrisについて書いているときの自分のほうが、遙かに好きだったようにおもえます。
だが岡田隆彦は頭のてっぺんから爪先まで、魂の表面から奥底まで、まるで全身に「詩」がしみ通るようにして、「詩」で全身がずぶ濡れになるようにして、詩人だった。
それも「抒情詩人」という、彼がいちばん嫌いなタイプの詩人だった。
そういう人間でなければ「ラブ・ソングに名をかりて」というような詩を書けるはずがないからです。

「 降りしきる雨の日に
 あるいはまた干からびた冬の日に
 私は変ってしまった
 と言ってくれ
 君の青白い額に唇を重ねると
 唇が青くなってしまうのだ
 こんなものが愛だとは
 どこかの賢人さえも
 僕らの所へやってきて叱咤するだろう
 せめてもこの代に生れたことを喜び合って
 いつものように電車に乗って帰ってくれないか
 いつものように僕は手を振って君の顔を見ているだろう
 君の額は悲しいし
 僕の髪は長すぎる
 あんなにきたないものでないので
 性の話はしたくない
 君と僕との小話は
 不潔な根性丸出しに
 アイラヴユウで始ったが
 結句アイヘイチューで終らない
 ぼやけたものだ
 いつもの花屋に寄る気はしないが
 黙って駅まで歩いていこう
 それから僕は旅に出る
 そこは平たい太陽が今も覆いかぶさっているだろう
 砂ぼこりのたちこめるその里で
 ジンとサンチマンへの抵抗力を作って
 いっぱし月給取になり
 自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう
 もう君は愛してくれないだろうから」

都会のまんなかに生まれた私立大学の学生にとって、1950年代末から60年代初頭の東京はどんなものだったろうか、という質問にこたえて義理叔父が貸してくれた本の一冊が岡田隆彦の詩集だったが、その若い男の心の定型をそのまま切り取って詩にしたような、過不足のないリズム、意識と思考を追って、意識を追い越しもせず、遅れすぎもせず、伴走というには1歩か2歩遅れ気味に、自分の意識の流れについていく詩の数々に、すっかりうっとりしてしまった。
日本語の教科書がわりに、そのまま暗記してしまったのは、言うまでもありません。

二等車、というのはいまでいうグリーン車のことだが、

「いっぱし月給取になり
 自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう
 もう君は愛してくれないだろうから」
という詩句ほど、その頃の学生たちにとって、「社会へはいってゆく」ということが、「人間を捨てる」ということと同義であったり、「違う人間になる」ことであったりした事実を証言している言葉はないが、一方で、
「もう君は愛してくれないだろうから」
というそれだけならば陳腐にすぎる「あまったれた」言い方を、若い日々のあまくて切ない、愛おしいような表現に変えてしまう力が、岡田隆彦の才能だったのだと思う。

「愛はドブのドブ板のようにきれいなだけで
おまえとタマシイしたあとは
詩のうたの思いの 終りのあるところ美辞麗句は
いやらしく 海へびのよう
おまえの裸もおれの裸もあつく
ナッシングへと向うタマシイとタマシイ」(「死ねない光」)

言っていることとは反対に、岡田隆彦がひそかに所持していた日本語にかかっては、性愛ですら、まったく純愛の一部なのだということが自明のことになってしまう(^^)

岡田隆彦は、どこまでも都会のひとだった。

「飛んだ調子 荒れた粒子の映像
見えない非情と抒情の街
あそこにわれらの凄惨な女  荒れた唇
死ぬまでとほうもなく都会のなかで
病のように
暮らしつづけるわれらの男  荒れた心
われらは容れものを空にして
男と女に逢いにいく
われらは吃りながら
別れを告げ
ある時は煙草に火をつけ
帰途につくのだが」(「われらの力」)

「どうしてたやすく 裏切りあい 信頼しあい
傷つけあうことができようか
おれたちは今日の昼食から
なにかを創りはじめなければならない
おまえからもらう手紙には かならず
どこかに判じがたい文字 無視
訊きそこない 言いそこない わだかまる
おまえとは いつか 別れて
ふたたび共にしなくなるまで
どんな些細なことにおいても
憎みあえようか」 (「われらの力」)

「電話ボクスでいら立つわれらの男は
いつか 相手と別れるだろう
かれも おまえも おれも
ひとつの難路でさえも あるならば
人らしく惨憺となっていきながら
鋭意にさがし求めようとするだろう」(「われらの力」)

「きみは女を不満のまま残して
家に帰り自瀆する
きみは自分の腐敗について
多言な考えをめぐらし
やがて眠りに就く
ぼくは今日もスケジュールをたずさえて
行く処へ出かけていく」 (「予定」)

やがて結婚する「史乃」という名前の女のひとのために、あるいは史乃という女びとただひとりのために書いているのだと自分を仮構することによって、岡田隆彦は、このあと、膨大な数のラブソングを書き残してゆく。

「孤独なオーケストラのように
きちがいじみて破裂し
おまえはおまえなのかおれなのか
じぶんの柔い唇にふれても
おれのものだと思えない」(「ひとりの女にささげる恋歌」)

「史乃命」という、すごい名前の詩集さえあります(^^)

まるで「モニと一緒にいること」というヘンタイみたいなブログ記事を書いた、ガメ・オベールのような人である。
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/モニと一緒にいるということ/

岡田隆彦は美術教師を職業にしていた。
美術世界の人に訊くと、案外たくさんの人が岡田隆彦を直截しっていたよーである。
わしは退屈な人間なので「素晴らしい人だったのでしょうね?」というような極くありきたりの質問をする。
そうすると英語で話すことを強いられているせいかもしれないが、一瞬、沈黙して、
「ええ、でも気むずかしい、いつも機嫌が悪いひとでした」というような返事が返ってくることが多かった。
あきらかに岡田隆彦と会うのを敬遠して過ごしていた、というひとにも会った。

どうやら結婚したころから、岡田隆彦の内なる「早熟な少年」が叛乱を始めて、詩人には制圧をまっとうすることが難しくなっていったよーでもある。

岡田隆彦は、やがて、膨大な数のラブソングを書き送った相手の史乃というひとと別れて、離婚してしまう。
離婚が詩人に与えた影響は周囲が自殺を真剣に警戒しなければならなかったほどのもので、教員をしていた大学にも行かず、ホテル・ニューオータニの一室に、まるまる木箱ひとつのサントリーの角瓶ウイスキーとともに閉じこもって、友人にも会わず、何日もすごしていた、と証言するひとに会ったことがある。

詩の中心が、その女びとであることを知っていたので、史乃さんというひとは、どんなひとだったんですか?と訊きたかったが、まさかそんな詮索がすぎる失礼なことは訊けないので、史乃というひとを直截しっているひとにあうたびに、話が出ないかなあー、と心待ちにしたが、
あんまりここに書きたくはない短い否定的なコメントのほかには、誰も何も言ってくれなかった。

大股びらきに堪えてさまよえ、という次に挙げる詩は、うちなる「早熟な少年」をねじ伏せて自分を破壊しないまま生きていこうとした岡田隆彦の決心が、そのまま顕れている。

「道を急ぐことはない。
あやまちを怖れる者はつねにほろびる。
明日をおびやかすその価値は幻影だ。
風を影に凍てつかせるなら 俗悪さにひるみ
道を急ぐことはない。
けれども垂直に現実とまじわるがいい。
厳粛な大股びらきに堪えて
非在の荒野をさまよいつづけろ。
せっかちに薔薇を求めて安くあがるな。
秘匿されるべきものの現前に立ちあい
引き裂かれる樹木の股に堪えて涙なく
こだまする胸の痛みが
深まるにまかせよう。そして、
あの孤独の深淵をひとり降りてゆく。
死の河だから進むことができる。
堪えてすべてを失ったなら 語るな。
蒼穹のごとき沈黙に飛ぶ鳥を見よ。
求める約束にみずからあざむかれ
道を急ぐことはない。」

詩や文学を専門にするひとは、この頃の詩には岡田隆彦が前には使わなかった句点がすべての文にうたれていることに注目すべきだが、そんなことは、ブログ記事ではどうでもいいだろう。

いまは、どうなさっているのですか?
と、訊くわしに、パーティの席で出会った、きらびやかな服を着た日本人の女のひとは、
流暢な英語で、「おや、亡くなったのをご存じではありませんでしたか? 二度目の奥さんとのあいだがうまくいかなくて、とても機嫌が悪いひとでした。わたしなどは、あなた、こわくて近寄れませんでしたのよ。でも、どうして、あなたはお若いのに、あの方に興味がおありになるの?あのかたのウイリアム・モリスの本は英語に訳されていたかしら?」
という。

そのまま、藤沢のほうに住んでいたよーだ、とか、なんだかいろいろなことを述べていたようだったが、もうわしの耳にははいっていなかった。
1939年に生まれた詩人なのだから、死んでいて少しも不思議はないが、なんだかまだ生きているに決まっていると決めていたのは、詩人の日本語が近しいものだったからでしょう。

わしは、その晩、家に帰ってから、頭のなかの「岡田隆彦詩集」をひっくりかえしていたが、どうしてもひとつの詩句にばかり日本語がもどってゆくのに困った。
それは、詩人が長かった頂点の終わりの頃に書いた詩の一部です。
いま初めて気が付いたが、その短い詩句にも句点がついている。
岡田隆彦が言い切りたかったものの正体に触れるようで、なんだか、ちょっと涙ぐんでしまうような気がしました。

「悪い孤独に
涙なし。」

なんという人生を送ったひとだろう。

1 神田神保町

日本語世界を一見してぶっくらこいてしまうのは、詩の世界の豊穣さで、わしが通常「日本の詩」というときには、堀田善衛の「若き日の詩人達の肖像」という、ちょっと身体のあちこちがむずむずするような題名の本に活き活きと描かれた「荒地」の詩人達、牧野虚太郎、田村隆一、鮎川信夫、北村太郎、三好豊一郎、後年のメンバーでは吉本隆明、というようなひとたちや、西脇順三郎、瀧口修造に始まって、「ドラムカン」の詩人達、吉増剛造や岡田隆彦、あるいはここでこれから少しだけ書いてみようと思う岩田宏、というようなひとたちを指している。

そのうえに言うまでもなく戦争前には中原中也がいて石川啄木がいて萩原朔太郎がいて三好達治がいて、しかもそのうえに戦後になってもなお寺山修司のような天才歌人を生んだ短歌の広大な世界があり、俳句というおそろしいものまであって、日本はつくづくヘンな国であると思う。

岩田宏は小笠原豊樹という名前でロシア語と英語の膨大な翻訳をこなした。
翻訳、というようなことは、本来できるはずがないひとつの言語からもうひとつの言語へ人間の精神活動を投影してみせることで、岩田宏はさぞかし疲れたことだろうが、白紙のほうがまだ中身が濃さそうな小説と、どうかすると1ページに宇宙そのものが書かれている原稿用紙一枚の詩とが同じ原稿料であるという途方もなくマヌケな原稿料システムを採用していた当時の日本の出版社では、(他の国でもやや異なる事情から同じようなものだが)「詩だけで食べる」というわけにはもちろんいかなかった。

岩田宏の翻訳の特徴は、ときどき原作よりも翻訳のほうが良い文章になってしまう、という訳のわからない仕事があったりして面白いが、しかし、岩田宏は第一義的に詩人で、しかも本人は全力で否定するが全身で詩人であった。

他に、この人を、どんな呼び方で呼べるというのだろう。

「神保町の 交差点の北五百メートル
五十二段の階段を
二十五才の失業者が
思い出の重みにひかれて
ゆるゆる降りて行く
風はタバコの火の粉をとばし
いちどきにオーバーの襟を焼く
風や恋の思い出に目がくらみ
手をひろげて失業者はつぶやく
ここ 九段まで見えるこの石段で
魔法を待ちわび 魔法はこわれた
あのひとはこなごなにころげおち
街いっぱいに散らばったかけらを調べに
おれは降りて行く」

という出だしで「神田神保町」は始まるが、自分で記録したとおり、そのとおりの姿勢で
岩田宏は
「街いっぱいに散らばったかけらを調べに」
出ていった。
60年代の政治の季節のなかに。
巨大な鉄鋼の歯車に挟まれるようにして、たくさんの若い女や男が血を流している街のなかに。

「とんびも知らない雲だらけの空から
ボーナスみたいにすくない陽の光が
ぼろぼろこぼれてふりかかる」

「神保町の
交差点のたそがれに
頸までおぼれて
二十五才の若い失業者の
目がおもむろに見えなくなる
やさしい人はおしなべてうつむき
信じる人は魔法使いのさびしい目つき」

「おれはこの街をこわしたいと思い
こわれたのはあのひとの心だった
あのひとのからだを抱きしめて
この街を抱きしめたつもりだった」

岩田宏は、詩が必ずもっていなければならない魂の定型のうち、もっとも壊れやすい「定型」を選んでしまう。
最も、詩にとどきにくい感情を選択してしまう。
しかし、岩田宏の猛烈な言語能力は、演歌をアリアに変えてしまうような奇跡を起こすことが出来たようだ。
生活のために足をつけた地面から、積乱雲の金床まで垂直に屹立した巨大な精神をもっていた岩田宏ならではの芸当だと思います。

「神田神保町」という詩は、こんなふうに終わっている。

「あんなにのろく
あんなに涙声
知ってる ありゃあ死んだ女の声だ
ふりむけば
誰も見えやしねえんだ。」

2 「夜半へ」

「いっせいに頭上をゆびさした
街灯を消した
ちいさな提灯をかざした
半鐘を叩きはじめた
なにごとですか
なにごとですか

知らないの?革命だよ
今晩
頭上を
通過する!」

という政治においては、笑いがどれほど苦い表情でありうるかということの見本のような冒頭をもつ詩は、わしの好きな詩のひとつです。

革命測候所で革命を待つ革命家たちは、あくまでリアルで、バカげていて無責任である。

「待っているあいだに一杯やりませんか
よかろう
熱くしてね
サカナは要らないよ」

「今夜もどうやら来ませんね
お疲れさまでした
おやすみ おやすみ
奥さんによろしく」

革命は結局やって来ず、革命測候所の所長は「ずらかっ」てしまう。
非常口から、こっそり抜けだし、お抱え運転手の車で逃げてゆく

走り出したクルマのなかでひと息つくと
「肘をポンと叩くと
肩の蝶番はすぐはずれる
左手で右肩を
右手で左肩をとりはずし」

「くたびれた古い頭を
新しい光る頭ととりかえた
できたての
ジス・マーク入りの
今年度型の頭」

思想の流行と時代時代の意匠で稼ぐ、こーゆーひとたちが、少なくとも岩田宏が若かったときにも、たくさんいたのがわかります(^^)

運転手は無事に革命測候所所長を家に送り届けると、
「道具箱をかついで
だあれもいない固い夜ふけの歩道を
ぶらぶら歩」いて家路につく。

「いっぺえ飲んで寝るか」

むこうから若い革命測候所員が走ってくる。
岩田宏は、こんなふうに書いている。

「擦れちがうだろうか

出逢った
四個の目玉が
互いに相手を確認した
右手を出した
右手を出した
吸いつくように握手した

おれたちは初対面だが
もし逢えなかったらどうしようかと
そればっかり考えていたよ」

ここに至って、読んでいる人は、岩田宏の「革命詩」が、なぜ群小革命詩人と異なってクソ退屈でないかを発見することになる。

岩田宏の極端なほどのやさしさ(というのは死語だが)が革命を見ているはずなのに人間を見てしまう。
政治の趨勢をみているはずなのに人間の運命を見てしまう。
そーだったのか、と考えます。

「夜半へ」は、こんなふうに終わる。

「うう
寒い
寒いぞ!

きこえるか

塀のなかで
壁のなかで
目ざましのネジを巻いている
その針を「革命」に合わせている
もだえている
鍋のなかでまるまっている
膏薬を貼っている
三助を雇っている
しゃっくりしている
おくびをこらえている

まよなかの時計が鳴りはじめた

ああ 一度でいいから
勇気を出して
革命なんか来やしないと言ってくれ

それがきみたちには
絶望の終りなんだ
おれたちには
革命の始まりなんだ

こうやって冷静に興奮して
すこしずつ温度を上げる
それしか手はない

まだ寒いか?
すこしはあったかいか?

ありがとう!」

いつも読んでくれているひとたちから、毎度毎度「おまえのブログは長すぎて読むと疲労する」と虐められるので、もう、ここでやめる。
岩田宏は、西脇順三郎と並んで、わしの日本語の先生です。
村上憲郎ふうにいうと「日借文」でごわす(^^)
引用した詩句を読んで気が付いたひとがいると思うが、わしの日本語はあちこちに岩田宏の詩の「音調」「抑揚」「リズム」のコピーがある。
口調がモノマネなんですのい。

わしが岩田宏の詩は、ほとんど暗誦(そら)でおぼえてますがな、というと、わしの記憶力がすごいのかと思ってびっくりするひとがいるが、ふつーの頭でおぼえられない詩など、くだらない詩に決まっている。
原理をいうと、カッチョイイ歌の歌詞など努力せんでも間違えないでおぼえるのと同じことです。

日本語が、小さな土地で極端に混み合った生活を送る1億2千万人限定の、いかにも地方語になりそーな言語であるのに、明治時代後半から80年代初頭まで、これほどながいあいだ「普遍語」としての地位を保っていたのは、無茶苦茶レベルが高い詩のおかげだった。
大江健三郎世代までは、小説家も現代詩を懸命に読んでいた。
夏目漱石の背骨が漢詩であったように、(田村隆一とその事で議論して殴り合いになるほどの岩田宏の大ファンだった)大江健三郎の背骨は、実は岩田宏を含めた現代詩だった。
同時代の詩を失ったとき、日本語の普遍性も、危殆くなったのだと思います。


コメント欄で「コマツナ」というひとが、テンプターズを知っているなんて、いったいいくつなんでしょう、と訊いているので、一瞬、人間の年齢の数え方でいうとおよそ2015歳とちょっとになる我が実年齢がばれたのかと思ってパニクったが、よく考えてみるとテンプターズなどはたかだか50年弱むかしのバンドに過ぎないので、特に二千年に及ぶ悪行がばれたのではないことに気がついて安堵しました。

しかし、こういう驚かれかたは、考えてみると、このブログを始めてから多分8回目くらいであってチロさんとかマココトとか、そーゆーひとびとに、浅川マキやなんかの話をするたびに懐かしがられてしまう。
そうして、(予想がつくと思うが)、こういう「驚き」は日本でしか成り立たないもののよーな気がします。

たとえば、わしの歳どころか、18歳くらいのそのヘンのガキをつかまえて訊ねてもジム・モリソン
http://en.wikipedia.org/wiki/Jim_Morrison

を知らない、ということは考えられない。
仮にLight My Fire
http://en.wikipedia.org/wiki/Light_My_Fire
が歌えないガキがいるとすると、そのガキはよっぽどのマヌケだが、
ジム・モリソンが死んだのは1971年、「Light My Fire」が初めに流行ったのは、
1967年のことです。

日本人の音楽趣味を代表する、ぴんからトリオの「女のみち」が400万枚売れたのは1972年のことなので、宮史郎がこぶしをうならせていた頃には、もうジム・モリソンはとっくのむかしにくたばっていた。

なぜ、こーゆー古い音楽がいまコーコーセイをしている諸君にも馴染みのある音楽であるかというと、英語世界では、ロックのごときものは、アイヌのユーカラのごとく、口承伝承されるものであるからで、ロックでなくても、たとえば The Three Stooges (1930年代)、Tom and Jerry(1940年代)、そして就中、「Monty Python’s Flying Circus」(1970年代)のようなものは、いやしくも大学生であれば、「スパム」の歌はちゃんと歌えねばならず、「やりすぎだよ、おまえ」と止められる、スペインの宗教裁判におけるテリー・ギリアムの形態模写も「そら」で精確に再現できるのでなければならないことになっている。

わしは「異文化蒐集家」なので、むろんのこと、「てなもんや三度笠」初出演の16歳のジュディオングも知っていれば、悪魔君の口まね、ナショナルキッドが飛ぶシーンのピアノ線まで、ちゃんと知っている。
のみならず、浅川マキ、シモンサイ、丸山明宏、ジャックス、水原弘、弘田三枝子などは歌える歌がたくさんある。
奥村チヨの「恋の奴隷」だって、ちゃんと歌えれば、ぴんからのトリオの「女の操(みさお)」という恐ろしげな題名の歌だって聴いたことがある。
われながら碩学でごんす。

日本で、たとえば高校生のガキどもが、かまやつひろしと笠井紀美子がデュエットするなかなかカッチョイイ歌を歌えたりしないのは、日本では流行歌が「消費」されてしまうからだろう。
「コマツナ」さんが述べていた「グループサウンズ」のひとびとは、きゃあきゃあという歓声なような嬌声のような訳のわからん阿鼻叫喚のステージに立って演奏しながら、「こんなクソ音楽ははやくやめて、まともなロックをやりたい」とひとしく念願していたそーである。
テンプターズもタイガースもオックスも、みな同じ悩みを悩んでいたわけで、そういう悩みにファンが反応していれば、日本にも伝承に足る音楽の文化が育っただろうけれど、ぬわあーに、彼らの頼みの綱だった「ファン」のほうは、別に彼らの音楽性を支持していたわけではなくて、ただきゃあきゃあゆってみたかっただけだったのです。
鼻をかめば捨てる、ティッシュペーパーと本質的には変わらない存在だったようだ。

戦争を通してヒューマニズムを描きたかったのに「黒い零戦」に乗った坂井三郎やなんかを描かされてくさりきってしまった「紫電改のタカ」のちばてつやや、ネームを編集者が全部書き換えて自分でいれてしまった漫画を描かされて精神に変調をきたした吾妻ひでお、というような例をもちだすまでもなく、漫画でも、ドラマで、映画でも、日本人の大好きな「一流大学」を出て、なんの才能もなく、マーケティングさえ、単なる鈍感人間の「山勘」から出た思いつきなのに、なんだかエラソーに何事か新しいものをつくりだそうとしている人間にあれこれ意見して、ドタイクツなクソ作品に仕上げたあげく、文化的価値なんか隅っこをほじくりかえしてもでてこないヘンな「文化商品」をでっちあげる日本社会の官僚制至上主義の伝統は、いまに脈々と生きている。
そこでもてはやされるのは、糸井重里くらいから始まったつくられた消費主義に幼いときから飼い慣らされた感性をもつ「消費者」に受ける「消費物としての創作」であって、そのあたりから始まった悪循環は、日本の文化を80年代くらいから、すっかり皮相なものにかえて、言語的に最も深刻衝迫した前線であるべき文学などはかけらも残らないくらい粉砕されてしまった。

僅かに普遍的な切迫した表現手段をもっていた漫画も、江戸以来しぶとい伝統の戯作の道を歩くことも出来たのに、もうとっくのむかしにアカデミズムっぽいこけおどしの衣装をまとったバカ「文学」派と相変わらず部数と読者数のことしかゆわないコマーシャリズムに自分のボーナスの額がかかっている出版社の商業主義との挟み撃ちにあって、ぺしゃんこに押しつぶされてしまっているのかもしれない。

せめて義理叔父の世代がまだ保持している、漫画の歴史的理解力、彼らのあいだでは伝説であるらしい「お荷物小荷物」のような世代財産的なドラマの記憶、そういうものが若い世代ではあたりまえのことになって、毎日刻々と大量に生産されては大量消費されて忘却の闇に大量廃棄される日本語文化が、せっかく質は高いものがまだ残っているのだから、
百年後の東京の町で、「はどどぼいるどどだど」と眉をつりあげる、高校生の姿を見たい、と日本文化に興味があった、いちガイジンは念願するのであります。

(画像はイーストビレッジ名物の「壁画」。これを見ると条件反射でカクテルを飲みたくなるのが難である)

オークションに出品される作品の下見に行った。
マンハッタンのサザビーズはルーズベルト島へのロープウエイの駅がある、(わしのアパートから見ると)すごおおおく北のほうにあります。
遠いんだよ。

わしはあんまり寝てなくてへろへろなので「タクシーで行くべ」と提案したが、モニさんは「良い季候だから歩いていきましょう」という。
うそおおお、眠いよお。
75thだよ、あそこ。
60ブロックあるねんで。
タクシーで行こうよお。
ダメならせめて地下鉄にしてくれ、とさんざん駄々をこねたが、ずっと駄々をこねながら歩いていたらグラマシーの辺りで調子がよくなってしまって元気になってしまった。
これだから、自分の身体は信用できない、と考えました。

懐かしい感じのするサザビーズの回転ドアをまわしてはいると、そこには大きな美人が艶然と微笑んでおる。
生姜色の髪に血色のよい頬、聡明を形にしたような額に、きみの眼ん玉にはクリスタルがしこんであるのかね、とゆいたくなるようなキラキラと輝く明るい青い眼が眼鏡の奥に輝いておる。
だから「美人」というほうは衆目の一致するところ問題ないとして「大きい」というほうは説明がいります。

ブログに書いちまうべ、と思ってさりげなく身長を確かめたら6フット2であった。
わしはごく最近までフットからセンチメートルへの変換に失敗して自分の身長も186センチだと思っていた(ほんとうは192センチであるよーだ)くらいであるから今回はグーグルセンセイにマジメに計算してもらったら、これは189センチであるそーです。
センセイ、計算、すごい。
モニよりも5センチくらい高い。
モニさんは細っこいまま、ぴょおおおんと伸びて背が高いが「大きな美人」Kは、5フット6くらいのひとが微妙に縮尺を間違えて電送チューブから転送されてきました、ちゅう感じです。
全体に均整はとれているが、普通のひとが1割がたおおきくなったと思えばよろしい。
このひとは、美術型Rロボットみたいなひとであって、出展される作品についてすみずみまで知識をもっている。
美術史的な知識のみならず、前の持ち主、そもそもどういう経歴で作品が会場にたどりついたか、作家が美術史に占める位置、なんでも知っている。
帝国美術データバンクですのい。
画家が倒産したりすると、もう次の瞬間には知っているかもしれない。
与論島に住んでいる画家の年収を訊いてみようかしら。

ゴーギャンがでっち上げた胸像が12億円くらい。
マグリットのQuand L’Heure Sonneraが6億円くらい。
ピカソのFemmes Lisantが25億円。

たけえー、と思いながら、「説明するかね」というKに、「絵を観るだけでいいぴょん」とゆって、主にわしひとりとモニ+Kの二手に分かれて会場をうろうろするたわしたち。

こーゆーものも、当然ながら経済と連動していてたとえば合衆国の景気がよくなると現代絵画、とりわけピカソがびよよよよよおおおーんと高くなります。
おおむかし、日本の景気がよかったときはルノアールやゴッホ、シャガールの値段がやけくそみたい、っちゅうか、0が集団で行進しているようなバカ値段になった。

ところが合衆国の経済がおっこちてきても値段は案外こけないで高値で安定するので、だんだん「投資」として美術品を買うバカタレが出てくる。
バカタレというものは衆を為すという傾向があるので、みるみるうちに市場にバカタレが充満して最近はなんだか商業ビルの競売かこれは、という雰囲気になってきた。
なかには「俺が死んだら愛するゴッホの『ひまわり』と一緒に葬ってくれ」とバカタレが10乗されたようなキチガイバカタレの日本の生命保険会社の社長まで現れるようになった。
クリティーズだかサザビーズだかの社長が日本を名指しで「このクソ成金のおおばかたれが」と罵倒したのもこの頃だったが、それを聞かされたほうの反応は「あんたの言うこっちゃおまへんがな」であったと思います。
両方ともはっきりゆって不良会社だからな。

わしは「におくえん」とかゆわれると、もう自動的に美術物欲にシャッターがおりて、ゆってみれば長谷の大仏を眺めるように、ごく清明な清らかな気持ちになってしまうので、目玉の作品群は「たけえええー」と思っただけであった。
Kもモニももちろん、そういうわしの気持ちは知っているわけである。

ジャコメッティもこの頃は高杉晋作だの、とか、クレムトの鉛筆画になんでこんなに出すやつがおるんじゃ、と思いながらうろうろして結局10階のメンタマ作品で、ちょっと気持ちがよろめいて踏鞴を踏んだのはモニにすごーく似合いそうな一対のダイアモンドのイヤリングだけであった。
6階に降りるリフトのホールに向かいながら、「あのイヤリングを、どう思いますか?」とおそるおそる訊いたら、「わたしは、ああいうデザインは嫌いです」ということだったので、安堵しました。
よかった。
とても、よかった。

マンハッタンのサザビーは6階と7階がエスカレータでつながっておる。
今回は19世紀絵画であって、わしは、あのダッサアアアーイということになっている19世紀の人物画、とかがとても好きです。
えっ、安いからだろう?って、なんということを言う。
ほんとうのことをゆってはいけないと橋本浩二センセイもゆっておられるのを知らないのか。

下調べなんて全然しないででかけるわしは、ここで割と好きな、ちゅうかとても好きなJ.W.Godward の無茶苦茶カッチョイイ絵があったので狼狽してしまった。
1200万円くらいみたいなことが書いてあるが、これまでの経験でいうと800万円くらいで買えてしまうのではなかろうか。
こういう絵は、好きなやつが遭遇すると理性を失いやがるので、もしかすると1200万円くらいの外廊下になってしまうが、そのときはそのときだよねえ、と一瞬で電卓するわし。

ところが、この階にはRembrandt Bugatti
 http://en.wikipedia.org/wiki/Rembrandt_Bugatti 
の出来の良いブロンズ(特に象さんがかっこよかった)はあるわ、
大好きなGaetano Belleiのむひゃひゃなくらいよく描けている絵はあるわ、
新しく買ったラミュエラの家のエントランスホールの壁にばっちし決まりそうなFrederick
Goodallの例の「グランデ」な感じの絵はあるわで、
物欲が刺激されまくるのであった。

絵は、あんまり欲しい絵がいっぺんにあらわれると、ま、買わなくてもいいや、になるという不思議な性質を有する。
あんまり欲しいものがたくさんあったので、なんだかどうでもよくなってしまった。
そーゆー、わしの気持ちを見破ってKとモニが笑っておる。
笑いたければ笑いたまえ。
でも、良い作品を集めすぎよね。
くだらねえ地の作品が並んでれば、今頃はたくさん絵を買って泣いてたかもしんないけど。

助かったような。虚しいような。

帰りはマディソンアベニューのモニのアパートに寄って昼寝をしてふたりでチェルシーに帰りました。
タクシーで帰った。

イタリアン・バーで、季節外れの牡蠣とロブスターを食べながらスプマンテを二本とマティニと「反乱軍兵士」というカクテルを飲んだら、すげー酔っ払ってしまった。
帰りがけに春らしいスカートをゆらめかせて給仕長と話しているモニに見とれていたら、ポークパイハットを忘れて店を出るところであった。

この街のもう少し南にはトライベカというところがあって、昨日は午前2時頃、そこにひとが三々五々集まってきて、しまいには大群衆になって、ウサマ・ビン・ラディンというひとりの、自分で稼いだこともない金持ちのバカガキをぶち殺したことを大勢のひとびとが祝ったのだった。
ひとりの現実と頭のなかにあるものの区別がつかなくなった元バカガキを国家が殺したことを大勢の国民が祝うのは明らかに下品だが、
2年前、この同じ場所で、真冬の、「このひとがどうなったか知りませんか。どんな死に方をしたか、だけでもいいから教えてください。このひとは、私という妻と3歳と5歳のふたりの息子の良い父親でした」というようなメッセージボードが文字通り鈴なりになった金網の前に膝をついて、雪のなかで号泣していた若い男の姿を思い出すと、
無理もないか、と思わなくもない。

相変わらず大陸を横断した西海岸のそのまた向こうの太平洋の反対側で、「あれはパキスタンの裏切りだ」「あれでも国家か」と暇つぶしに陰謀論や自分たちがその腕の中で鼻提灯で眠りながらここまできた合衆国をあたかも無関係の国であるかのようにみなして無責任な「議論」を楽しんでいるひとびとよりも、わしにはまだわかりやすい。

バラク・オバマよりもクリントンのほうが演説が大統領然としていて、3回「オバマ大統領も言っているように」繰り返すたびに、なんとなくクリントンが立っている現在の微妙な位置がうかがえて苦笑させられるが、
「You can’t beat us」という言葉にこめられた合衆国の暴力的な矜恃は、まだこの原理によって世界を支えてゆくのだ、という決意が感じられて、すげー、と思わせた。

バラク・オバマという善意の塊ではあるがテレビのトークショーのホストみたいに見えなくもない大統領のあとに、トライベカに集まってひとりのバカ男の虐殺を祝った国民が、この次にどんな人間を大統領に選ぶか、興味がなくはないが、
わしは世界の外側に生きているようなものなので、ひどいことをいうと、
ま、どーでもいいか、と思わなくもない。
ショーバイに直截影響するからときどき政治のことをしぶしぶ考えるだけである。

絵、やっぱり二三個、買っちゃおうかしら。
さっきは書かなかったが、モローのLes Epreuvesもあったんだよね。

うー。

ベンキョーしよう

April 23, 2011


ロックバンドでねーちんたちにきゃあきゃあゆわれながら人生を過ごす、という手堅い人生の計画をあきらめたのは妹の陰謀だった。
わしをバンド仲間から引き離してあんないけないことやこんないけないことから遠ざけてしまった妹の悪辣な知恵についてはいつかは述べることがあるであろう。

いざ、あんないけないことやこんないけないことが一挙に生活から消滅してしまうと、わしはひどく退屈せねばならなかった。
大学と名の付くものに入るには、まだ間があるはずだったが、わしが生まれて育った国は日本のような工業規格品みたいな国とは違って途方もなくええかげんな国なので、
大学の片隅でしょぼしょぼベンキョーしてもよいことになった。
そこはえらそーで自分は頭が良いと思い込んでいるバカたれがたくさんいる気取り屋の収容所のようなところであって、そもそも収容所そのものに気が遠くなるくらいオバカな細かい規則が網の目のように張り巡らされていてくだらなかったが、それなりに良い所もあったと認めねばならない。

よくないところは、集まっている基地外の諸君が、それまでバンドの形で集合していた基地外とタイプが異なって「遊ぶ」ということにかけては、不細工というか粗野というか、オモロイことが何も出来ないひとびとだったことで、仕方がないから、わしはベンキョーをしようと考えた。

ベンキョーするに際して考慮したことは「向こう500年間に役に立つようなことはベンキョーしない」ということであって、わしは役に立つということが頭から嫌いなので、たとえば頭に「応用」がつくような学問や工学のようなものはとんでもない、と考えた。
いま考えてみると新しい画材・色彩を発明するとか世にも妙なる響きをもつ楽器を考案するとか音響学の奥義を究めるとか工学でも、役立たずの道を囂々と邁進する王道を歩くことも出来たわけだが十代後半のバカガキの頭では、そんな賢い考えは浮かばなかった。

西欧文学をやるのにラテン語が出来ないのでは、階級が下から3番目くらいの序列も知能も低い悪魔でも腹を抱えて笑うだろう。
それも、えーと、えーと、コーギートー、エルゴー、うーんと、スムなんちゅう調子ではダメであって、トマス・モアの一節くらいはカッチョヨク暗唱できるのでなければならない。近代ラテン語は、わしのボロ高校でも英語の時間にやらされるくらいで、差別がはかれないので、文学的教養とか文学的素養とか現代における死語を口走るには、せめて古典ラテン語が出来なくてはダメである。
実際近代ラテン語とそれから派生する諸方言が判らなければ、気取り屋のボストン人が書いた詩ひとつちゃんと読めやしない。 

どうようにして科学では数学が出来なければダメである。
世の中には生物系という数学がまるで出来なくてもやれるとされる科学もなくはないが、あれは実は生物というものが(ぴー)…(この部分は良心による検閲の結果削除されました)

わしは、どのくらい、ということはないが数学はだからよくやった。
数学者になろうと思ったわけではない。
どちらかというと言語を学習するようにやったのだと思います。
ひとりで机に向かって、というようなことはあまりやらなくて、気の合う友だちとビールをちびちび飲みながら、議論しながらやることが多かった。
そんなバカな、ひとりでやるのでなければ集中できないではないか、と日本のひとならば言いそうだが、慣れればこっちのやりかたのほうが遙かに数学がうまくなる。
輝く偽善のワタミ学術用語を用いれば、おすすめであります。

あるとき妹が妙に深刻な顔をして、わしの部屋にあらわれたことがあって、「おにーちゃん、わたし、このあいだ行ったKのパーティで…あのときよ、きっと…子供ができちゃったの! わたしの人生なんか、もう終わりだわ!」
ちゅうことかな、けけけ、無学者め、マジメな人間が羽目を外すと地獄の門がひらきやすい、という聖書の文句を知らんのか、この世にマジメな人間が破滅するということほどドラマ性があって楽しいことはなかりけりと喜んだが、そうではないのであった。
ベンキョーは、なんのためにすると思うか、という。
(く、くだらん)
(全然、悲劇性というものがないやん)
(だから優等生て嫌いなのよ)

わしが「単位時間あたりの収入を上げるためであろうの」というと
マジメに答えないと兄妹の縁を切るという。
ほんとうに縁を切ってくれたら欣喜雀躍だが、これまでの行動に鑑みて妹がそんな好条件で縁を切ってくれるわけがないので、ちょっと考えてみたことがある。

T先生と、わしは散歩するのが好きであった。
秋の丘陵をT先生と散歩していると、わしのパーな頭ではただの「森」なのが、先生の眼には高解像度の自然が鮮明に映っているのであってCGAとUXGAくらい違う。
夜になって「天上の無数の星」というようなことをわしが口走ると、先生はにやにや笑いながら、空に見えている星は空気が完全に澄んでいても5000もないよ、という。
一枚の葉をとりあげて、それから判ることを延々と述べてきかせる。
人間実践検索図鑑みたいなひとである。

先生とわしは同じ世界を見ているのに、そこから得ている情報は虫と神様ほども違うのであって、わしは教育というものなしでは人間というものはただの性能の悪い粗雑な認識装置にしか過ぎないことをよく思った。

勉強しても人間は向上したりはしない。
わしの行った大学は世界でも指折りのカッチョイイ大学ということになっているが、
そこに滞留している阿片崫の住人たちの頭のわるさを観察すれば、そのくらいのことは考えなくてもわかる。
しかし、その頭の悪い住人たちは話をしてみると判ることは、底抜けに愉快で、なによりも認識している世界が精細で豊穣である。
思い込みが少なくて、依拠している現実の有効数字の桁が多い。
現実をありのままにみて、それをそのまま受け入れる能力がある。
そうして、なによりも、世界が苛酷なものであるよりも、やさしいものであることをよく知っている。

わしは日本人の老革命家が、彼がまだこの世界に多少の希望をもっている頃の、あるときに述べた、「せめてもこの広い宇宙の、同じ時代同じ時に同じこの星に生まれ会ったことをよろこびあって」という言葉が好きだが、
そう心から思えるためには、現実に対する精細な認識が必要であると思う。
役に立つ学問をすると、「役に立つ」ことが前のめりになって、自然な体勢でいられなくなってしまうので、やはりほんとうは役になんか金輪際たたない学問のほうがよさそうです。
だから遊ぶのさ。
だからベンキョーする。
夜のあいだじゅうずっと起きていて明け方鳥たちが生け垣にあつまってきてさえずりはじめるまで書斎の机に広げた本にクビを突っ込んでなにごとか考えなければならないのだ。
前頭葉に神のつくった不思議な形象がやきついてしまうまで言葉の火を燃やす。
シンボルのさびしさが、きみの語彙という語彙をあおざめさせてしまうまで考え抜かねばならない。

わしがベンキョーの話をするのは、なんだかヘンだけどね。

鮎川信夫

October 3, 2009

「ぼくは行かない

 何処にも

 地上には

 ぼくを破滅させるものがなくなった」

鮎川信夫の「地平線が消えた」という詩の出だしは、たしか、そんなふうであった。

わしはこの詩を苦労して集めたむかしの「早稲田文学」の見開きで読んだのだと思います。

明治時代以来の日本文学の最も正当な継承者であった日本の現代詩人たちは、まったく報われなかったにも関わらずものに憑かれたひとたちのように詩を書き続けた。

世紀が変わって日本の「詩」が完全に破滅するまで、その努力は続きます。

それがいかに希有なことであるか、他の言語の歴史に通じていればわかる。

西脇順三郎、滝口修造、金子光晴、山之口貘、吉岡実、鮎川信夫、田村隆一、岩田弘、堀川正美、吉増剛造、岡田輶彦と戦後に詩をしつこく書き続けた詩人たちのなかですぐれた詩を書いた人だけを並べても、日本の現代詩がいかに豊穣なものであったかが想像できます。

詩の才能があるとは到底おもわれない大岡信や飯島耕一の登場あたりから次第におかしくなって、(想像に過ぎないが、日本のひと特有の「あいつはいいやつだから、賞めてやろうよ」式のことがあったのではなかろうか)ねじめ正一の登場によって後味の悪い終止符を打たれることになった現代詩ですが、考えてみると戦後の詩人たちに直截つながっている戦前の天才詩人中原中也から数えると、だいたい70年間も偉大な詩の伝統が続いたわけで、他国に類例を見ない文学の歴史を日本語はもっているわけです。

わっしにとっては、それが何語であれ自分に理解できる言葉で書かれていれば「良い詩」と「悪い詩」の判別は簡単で、読んで容易に暗誦できる詩が良い詩で、おぼえられない詩は悪い詩である、とずっと思ってきた。

英語国民でディラン・トマスの詩を読んであれをおぼえられないひと、というのは多分いない。いるとすれば、それは本人の英語の語感がよっぽど悪いのだと思います。

T.S. エリオットもW.H.オーデンも、上にあげた11人の詩人たちの詩も同じです。

多分「詩神」は言葉の意匠をごくわずかしか持たないのであって、その数の少ない(音韻でない)定型にぴったりフィットする言葉にたどりつけるひとの数もまた少ないのでしょう。

「詩」というものは、それが人間の言語で書かれる前にすでに言葉の神様の手で出来上がっていて、ときどき「幸福な瞬間」にめぐりあった詩人が、天上の彼方からおりてくるその「詩」をただ紙に書き写して出来上がるものなのかも知れません。

そうして世界中の言語に分け取りにされる「限定生産品」の天上の詩のうち、これほど多くの数が日本語に振り替えられたのは「言語表現における公正」ということから考えるとやや問題がある(^^)

日本のひとは、日本語を母国語としている、ということについて幸せであると思います。

上に挙げた11人の詩人たちの詩が読めるのだから、これほど享楽と愉悦に満ちた言語をもった贅沢な国民は珍しいのではないか。

鮎川信夫、というひとは偉大な詩人がたくさんいた日本の詩人のなかでも特に普遍的な「眼」をもっていたひとだった。

眺める事象のいちいちひとつひとつについて気味が悪いほど正確に支点がどこにあるか見いだせるひとだった。

そうして見いだした支点に従って、ごくあっさりとこの世界の秘密を見破ることができるひとでした。

もちろん、わしが自分が理解するいくつかの言語で書いた人間のなかでも、最高に尊敬するひとのひとりです。

たとえば冒頭に出だしを掲げた詩は、いま詩集をひっぱりだしてきて革めて読んでみると、こんなふうな姿をしている。

ぼくは行かない

何処にも

地上には

ぼくを破滅させるものがなくなった

行くところもなければ帰るところもない

戦争もなければ故郷もない

いのちを機械に売りとばして

男の世界は終った

うつむく影

舞台裏で物思いに沈むあわれな役者

きみがいたすべての場所から

きみがいなくたって

この世のすべてに変りはない

あってなきがごとく

なくてあるがごとく

欄外の人生を生きてきたのだ

地べたを這いずる共生共苦の道も

やがては喪心の天に至る

忘れられた種子のように

かれは実体のない都市の雲のなかに住む

コカコーラの汗をうかべ

スモッグの咳をし

水銀のナミダをたらして

四十七階の背骨がゆれている

「四十七階」というのだから、鮎川信夫はこの詩を新宿の初めの超高層が出来たときに物理的にも人間の精神の上でも水平を極めた当時の東京に突然あらわれた「垂直な存在」に刺激されて、それを自分の復員以来の人生に重ねてみたのに違いない。

四十七階建て京王プラザホテルを見る鮎川の眼が兵士の眼であることは、

「 地べたを這いずる共生共苦の道も」というような行でわかります。

それが戦後生活の単なる比喩にしか見えないひとは、

「地上には

ぼくを破滅させるものがなくなった」という部分や、

「行くところもなければ帰るところもない

戦争もなければ故郷もない」

という言葉にひそんだ拭おうにも拭えない鮎川信夫の兵士としての記憶を見誤っている。

相呼応する、

「行くところもなければ帰るところもない

戦争もなければ故郷もない

いのちを機械に売りとばして

男の世界は終った」

と、

「コカコーラの汗をうかべ

スモッグの咳をし

水銀のナミダをたらして

四十七階の背骨がゆれている」

は、無論、鮎川が目撃した日本の戦後の「繁栄」の虚しさの表現です。

このふたつの連にはさまれた

「きみがいなくたって

この世のすべてに変りはない

あってなきがごとく

なくてあるがごとく

欄外の人生を生きてきたのだ」

という淡々とした人間の存在についてのあきらめは、わっしが好きな鮎川信夫が自分の姿を描くときの自画像でしょう。

「男の」世界、と書いてしまうところが鮎川信夫の詩にはよくある一瞬の油断からくる愛嬌ですが、しかし、鮎川の透徹した視線はそういう言葉の選択の上での小さな瑕疵を補ってあまりある。

日本語を母国語にするひとたちがうらやましい、と思います。

岡崎京子

July 25, 2009

「存在に対する不安」から女の子の性器がこすれて痛くなるまでやりまくるバカ暴力男や喉に指を突っ込んで嘔吐しながらイタリア料理を食べまくる高校生モデル、なぐられ、蹴られ、いじめぬかれることの優越に残虐な愉悦をおぼえるゲイ高校生。

好きになって欲しい一心で性の奴隷になってやったボーイフレンドが手引きした男たちに輪姦される女の子。

この女の子は、オレら悪い病気持ってないから大丈夫だよー、と明るい声で去ってゆく強姦者たちが去ったあとで、

「人のちんちんて 色んなカタチが あるもんだにゃあ」

「アレの味も ちがうんだにゃあ」

「空知君と もう顔を忘れた やつのしか知らないから『そーか』って感じ」

とつぶやく。

悲惨、という現実事象の実際どおり乾ききった姿をそのまま放り出したような表現が特徴である。

岡崎京子が描く「若者」たちは気味が悪くなるくらいリアルであって、少なくともこの舞台が連合王国であれば、きっとこの作家は高校生たちにインタビューして実際の逸話を絵にしたに違いない、と思うでしょう。

生命のエネルギーに身体全体をわしづかみにされて破滅に向かって叩きつけられるようなところが誰の「青春」にもあるからです。

外から見えない、(たいていは地下の)ロンドンのレストランで開かれる高校生たちのパーティに出かけてゆくと、階段を下りたところで、もうマリファナの甘い匂いがぷうーんとする。

やあ来たね、と言う同級生の手のひらにお金を握らせて、わっしはパーティのなかにわけいってゆく。

(マジメなひとは、ここから先は読まないように)

ドアを開けてはいるとクラブでは結構有名なバンドが壁が歪みそうな音で演奏しておる。

相変わらずPAの調整がちゃんとしてないので、わっしは顔を顰めます。

音があってねえじゃん。

カウチでは顔見知りの女の子がすっかり「石化」しているのでしょう。

男の子ふたりを相手に性交しておる。

他のガキどもも、踊りくるいながら服を脱いでいるのもいれば、うるんだ目で男の子の手をひいて人目のないトイレに連れ込む女の子がいる。

前を開けた男の子の前に跪いている女の子もいます。

みな裕福な家のガキ共である。

わっしは他人がはめを外すのはなんとも思わないが、嫌な奴なので自分でくわわろうとは思わん。

実はマジメ同級生のKに「妹があれらのパーティに行っているのかも知れんのだ。。きみ、行ってみてくれないか。ぼくにはとてもじゃないが行く勇気がないんだ。

ぼくが行っても入れてもらえないかも知れないしね」とゆわれて来た。

カウチがうまい具合にひとつあいていたので、そこに腰掛けて辺りを見渡します。

どうもKの妹はいないようだ。

小部屋やトイレを名をよばわって歩かねばならないだろうが、まずはひと安心である。

カウチの肘掛けの脇の床からわっしの名前を誰かが呼んでいるので、そちらを見るとわっしの父親の親友Dの息子で一級上のFが裸で仰向けになっていて、不思議なかっこうの、つぶれたような四つん這いになったやはり裸の見知らぬ女の子とつがっておる。

「きみ、ちょっと申し訳ないのだがね」と言います。

まだ18歳でも、そういう口の利き方をするのは、そうやって教育されているからである。

「このレディの尻の穴に親指をつっこんであげてもらえないだろうか。

この方は、そうされるのがことのほか好きなのでね。お願いできると助かるのだが」

わしは生憎親指の爪を切り忘れているので、この方(かた)がやわらかい部分に怪我をする可能性を考えると、そういうわけにはゆかないようです、と答えます。

「そうかね。それは残念」と答えたあとは、もうFは、わしに対する関心を失ったようでした。

少し「パーティ」の様子を観察して、どのカップルもやっていることは同じの小部屋とトイレをひと渡り探してから、入り口の同級生にもう一度挨拶すると、わっしは歩いて家に帰った。

自分には、ほんとうに人間の世界を渉ってゆく勇気があるだろうか、と考えたのをおぼえています。

岡崎京子を読んでいると、あの、魔物にすっかり食いつくされてしまうような「高校時代」というものを思い出します。

一般的にはマリファナとブージングとボーイレイシング。

わっしの学校でゆえば「パーティ」とライブリでのキチガイ沙汰でしょうか。

岡崎京子が描いた乾燥してひりひりするような身も蓋もないガキどもの絶望は、世界中の高校生たちが共有しているものです。

そこに岡崎京子の「カン」の確かさがある。

現実を知らないで現実そのものを描ききってしまうひとの「天才」がある、と思う。

ひき逃げされて植物人間にされてから岡崎京子はその深い眠りのなかで、なにを見ているだろう、とわしはときどき考えます。

もう世界というものの残酷さや「若い」ということの無慈悲さを見ないですんでいればいいがなあ、と思うのです。

(いま日本語のサイトを見たら英語サイトの情報とことなって意識を恢復されたようです。生命力においても天才なのかもしれません。

すごい。がんばってほしい、と思います)

友だちがテートのモダンコレクションで、Seydou Keita

http://en.wikipedia.org/wiki/Seydou_Ke%C3%AFta_(photographer)

をやっているというのでテートギャラリーに行った。

あっ、すっげえー、ほんとにやってんじゃん、と考えました。

Seydouはアフリカのマリが生んだ正真正銘の天才写真家です。

わっしが「肖像写真」というものがゲージツ足りうることを学んだのは、このひとからであった。

web上には存在しないので紹介できないのが残念ですが、このひとの赤ん坊を左手に抱えたデカイおっちゃんの写真は20世紀最大の肖像写真に数えられている。

マン・レイのようなウイットに依存した写真が本来は好きなわっしでさえ、作品を蒐集しているくらいすごい写真家である。

わっしは見とれてしまったな。

見とれているうちに写真展のサインだけでも写真に撮っておきたくなった。

テートギャラリーはどれも写真は厳禁なんです。

人の迷惑にならぬように素早く撮ってしまえばいいではないか、というひとも多いでしょう。

でも、わしはもとを正せばこの国の人間なので、そーゆーわけにはいかむ。

監視員のねーちゃんを呼び止めて、写真が禁止なのは知っておるが、わっしはサインくらい撮りたいと思うのだが、きみはどーおもうかね、と訊きます。

ねーちゃん、「テートギャラリーではすべてのテートがコピーライトを所有するものについて写真撮影をお断りしています」とゆってから、急にわしの耳に口を近づけると、

「フラッシュライトだけは特にお断りですから」と早口でいう(^^)

なんという良い奴であろう。

連合王国人のルールをよくわかっている、というべきである。

モニも笑ってます。

目が「連合王国人もなかなか良いではないか」とゆっておる。

わっしは、こねーだレストランオヤジと酔っぱらったときに刺青ハゲたちに投げつけて壊したIXYの代わりに昨日Currys(カレー屋さんじゃ、ないんだお。連合王国の有名なコンピュータの安売り屋です。デジカメが特に安い)で89ポンドで買ったOptioL60

でサインの写真を撮った。

単純なわっしは、「Keita」という姓にひきづられてアパートにもどってiPod でSalif Keitaを聴いた。

日本でも知っている人は多いでしょうが、Salif Keitaはマリの王族の直系にアルビノとして生まれた。

マリの王族は人間ではない。「神の子」です。

ところがアルビノは「呪われた存在」であって、しかも音楽家は丁度日本の「河原乞食」と同じようにインドよりも厳しいカースト制のマリの社会で不可触賎民だけがつく職業です。

だからいっそう、Salif Keitaの声は神の声に聞こえる。

マンハッタンのリンカンセンターで初めてこのひとの声を聴いたときのことがいまでも忘れられない。

言葉の意味がわからないのに涙が流れてきて止まらないのです。

わしだけではない。

周りのひとがみなそうであった。

マリの言葉で歌われる歌がまるで神の声のように聞こえるのです。

そこのきみ、「Folon」知っていますか? なぬ知らん?

それでは美しい声というものを知らないというのと同じではないか。

魂のこもった「美しい声」というものが好きな現代の人は、Montserrat Caballé 、

Concha Buika, Maria Callas, Salif Keitaの4人だけは、どーしても知らなければならぬ。

Seydou Keitaの写真を見て、Salif Keitaの音楽を聴いていると、アフリカのひとりの女のひとに起源をもつという現代の人間の文明は、この長い邪悪な期間をとおって結局またアフリカに還るのではないか、と思えてきます。

人間の不思議さは、われわれが全知全能を傾けてつくった文明よりも、こういうひとたちのひとりの声、ひとりの美貌、ひとりの瞬間の表情のほうに永遠が宿ることにある。

そうして、そういう人間の究極の価値の極限に立っているのはいつでもアフリカ人たちなのであると思う。

そう思わないって?

きみは、アフリカ人たちが集団で足を踏みならして踊る姿を見たことがないに違いない。

アフリカ人たちが、声をあわせて空に祈る姿を見たことがないに違いない。

アフリカ人の美しい女が「愛している」と呟くときの絶望に満ちた、それでいて天上のやさしさと優雅に満ちた表情を見たことがないに違いない。

「神」という言葉は、それを目撃した瞬間、異なる意味をもつのです。

それほどアフリカ人たちというひとびとは、神に近いひとびとである。

彼らの「瞬間」に較べると、われわれの「永遠」はなんと卑小なことだろう。

結局、人間が積み上げてきた文明に意味なんてあるのか、と言いたくなります。

日本に住んでいることの愉しみのひとつに、この国の土地に重層的に積み重なって足下から囁きかけてくるような「歴史」があります。

駿河台の「山の上ホテル」から三省堂本店へ裏道を抜ける途中には「錦華小学校」がある。漱石先生が出た小学校であって、わっしなどはこの小学校の脇を通り抜けるときには千円札のチョビ髭を生やした顔をした漱石先生がランドセルを背負って半ズボンをはいている姿を思い浮かべる。

青山をジョギングして通るときには、必ず、正津勉の

「午前十時

ち、ち、ぶっ、と開く秩父宮ラグビー場」 という詩を必ず思い出します。

これを必ず思い出すせいで、具合が悪いこともある。

他に人がいない外苑をぶわっとデカイ外人のにーちゃんが真っ赤な顔をしてにやにや笑いながら走ってくるので、向こうから来た犬を連れた女のひとがわっしを大げさに避けて徐行したりする。

雨上がりに鎌倉の段葛を歩くと、地面の上に、きらきらと光る白い粉。

石英のようですが、あれは中世のお侍の骨のかけらである。

西湘バイパスでない国道一号線を通って箱根に行く途中、「ほえー腹減った」と考えて小田原で昼ご飯。定食とパスタを食べて、むふふ、食った食ったと思いながらくるまに向かうと、そこには北村透谷生誕の碑があります。

「革命に非ず、移動なり」とこのひとが言った木挽町を、わっしはいつも樽菊正宗で酔っぱらって良い気持になって、ふらふらと歩いておる。

バカガメめ、そんなことでいーのか、と思います。

ほぼどこにいても、あっ、ここは樋口一葉の家のそばではないか、とか、梶原景時が討たれたのは、あのへんであるのい、とか、日本という国には膨大な過去がある。

欧州に似ています。

わっしは軽井沢の家を出て、万平ホテルに抜ける道を歩いていった。

別に理由なんてありません。

わっしのやることの大半は理由がない。

へろへろと歩いて行ったら途中で靴紐が解けた。

道の脇によって靴紐を結びなおします。

ほんでもって何気なく横を見ると石の表札みたいなものが立っていて「若禮」 と書いてある。へ、ヘンな姓だな、ワカレ、と読むのであるか、と考えながら歩くわっし。

次の瞬間、わっしは立ちすくんでしもうた。違う。「ジャクレー」でしょう。

ひょっとして……。

家に戻って神保町で買ったまま、ほうっぽらかしてあったポール・ジャクレーの本を開くと、どひゃ、やはりあれはポール・ジャクレーの家なのでした。

ジャクレーが軽井沢に住んでいたのを知らなかったのは、わっしの迂闊であった。

アホじゃん。

わっしは真剣に驚いてしまった。

ポール・ジャクレー (Paul Jacoulet)

http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Jacoulet

はフランス人の浮世絵師であって、一生の大半を日本で過ごした。戦争中も軽井沢に住んでいて、「きっと、これならジャクレーのことが出てるな」と思って買った朝吹登水子の自伝を読むと、日本人達は準敵性人であったジャクレーに話しかけることも挨拶することも禁じられていて、気の毒であった、と書いてあります。

ジャクレーの浮世絵は、ブーゲンビリアの香りがしてきそうな不思議な浮世絵であって、見ようによっては、ちょっと横尾忠則の初期作品に似ています。

わっしは、このひとの浮世絵の奇妙な「不釣り合いな感じ」「世界とうまく折り合いがつかない感じ」

が好きで、いくつか作品も持っている。

あの靴紐が解けた朝以来、長野県に出かけると、わっしはときどき「若禮」さんの前に行って、カポーティや三島由紀夫、あるいはオスカー・ワイルドとさえ共通した世界を覗き見してたに違いない、この風変わりなフランス人と対話をします。

あるいは、木洩れ日のなかを歩いていると、向こうから髪をぴったり七三に分けて整髪料で固めた「ジャクレーさん」がやってくるような気がする。

日本のように歴史が濃くたちこめた空気のある国では、きっとジャクレーさんのようなひとの魂がまだ大気のなかにとどまっていて、他の若い国の空気よりも測ってみると少し重いのではなかろうか、と思います。

Enrico Donati

January 1, 1970

わっしはどこに行ってもだいたい10日間はその街にいます。ふつうは1ヶ月、長いときには一年いる。得体の知れないハンサムな流れ者なので綺麗な娘がいる親はわっしの姿を見ると娘を裏山に隠すといわれている。椿三十郎どすな。日本刀は触ったことくらいしかないが。

そーゆーわっしがサンフランシスコに根性でひと晩だけ泊まったのは、どうせアメリカのどっかで乗り換えてメキシコシティに行くのだったらサンフランシスコで乗り換えてDonati 

http://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Donati

を、ひさしぶりに見ていこうと思ったからです。

最後のシュルレアリストにして、世界でいちばん変なじいちゃんだ。

わっしのニューヨークの友だちは画廊を経営するおっさんにこいつのガールフレンド(いつもピンポイントのすげーとんがったハイヒールをはいてるハクイねえちゃんだす)が取材でDonatiのところに行くと言ったら、おっさんに「えっ、そりゃまずいぞ、おまえ。Donatiは美人好きで有名なんだぞ。30分も一緒にしゃべらせとくといっぱつだっちゅうぞ」と言われてあせったそうだ。Donati、このとき93歳だったんだけどな。

現代美術界のオールドパー(注1)みたいなじいさんです。

しかし、つくるものはシュルレアリストらしいウィットにあふれている。

初期の頃は友人(あんな偏屈な奴とどうやって友だちになったんだろう)のマルセル・デュシャンやダリの影響が強かったが後のほうになるとDonatiらしさを発揮するのだ。

よく知られたことですが、Donatiは「画家になる準備」として香水会社をつくった(もうちっと精確にいうとぼろ会社を買った)。

金に困ってちゃ、ゲージツはやれねえだろ、と思ったのだそうです。

そしてほんとうに億万長者になった。そう、有名な香水会社の社長だったんです。

わっしはフランシスベーコンみたいにキョーレツ コミュニケーション拒否の画家も好きだがDonatiのようなガキンチョが美の神様をからかっているような作品も好きです。

そしてDonatiの傑作群はサンフランシスコのある画廊がもっている。

わっしはホゲーの話とかでなんとなくヘッジホッグ生活ふうになったのがつまらんと思ってDonatiに会いに行った。ためつすがめつ眺めていたら、画廊のひとが話しかけてきて、しばらく話していたら、今度はなんかしらんが美術にやたらくわしいクールなおばちゃん(のちに親方と判明)がやってきて地下室に次から次に(バイトどもを奴隷のようにこきつかって)作品を持ち込んで説明してくれた。

ボロボロのジーパンに穴があいていてボタンがひとつとれたボロシャツ(ポロシャツには非ず)、しかも真冬にサンフランシスコをジャケットも着ねえで汚ねえシャツ一枚でうろうろしているバカタレ男に3人が付き添って解説してくれるのです。

わっしは、この情熱はなんであろう、と思った。

日本の銀座あたりのどれもこれもそろいにそろったくそったれ画廊とはえらい違いではないか。

見るからにビンボーな薄汚いにーちゃんに何時間も使って絵の解説をするのはなぜか。

そこには金銭でないものに向かう情熱があるからですね。

自分が理解しているものをちょっとでも理解してくれそうな人間を見つけると全エネルギーを傾けて語りかけ理解されようとする、西洋的な情熱がある。

わっしはDonatiのおかげでヘッジホッグの穴からひっぱりだしてもらったような気がしました。わっしがいちばん気に入ったのは片方が1961年の絵もう一方は1991年の絵でそれぞれ一応値段を訊ねてみたら900万円と590万円だそーです(^^;)

「プライスレンジにはいってる?」とマジメな顔をして若いねーちゃんの社員のほうが訊くので「はいってるわけねえでしょ。わっしのクレジットカードの限度額って、1500ドルだぜ」と言ったら、たいへん失礼にもでっかい声で笑いころげて、そりゃま、かっこうを見りゃわかるけどね、だって。だったら訊くなよな。

しかし、Donatiはやっぱり結構いいよな、と帰りのBARTのなかで考えました。

役にも立たんウィットでもウィットだけで世界がつくれるやん。

形象の文法に則っておれば意味も特にはいらんわけだ。

わっしもその線でならなんかやれるかも。

もっとも画廊のみなさんのでっかいハグにたじろいだあと帰りかけて振り返ったら、

そこにLeonor Fini があった。そう、あのおそろしいFini。人間の魂を現実の世界から連れ出して中有へと置き去りにするFini.

意表をつかれた狼狽を隠すのに「あのFiniはいくらで出してるんすか?」と訊いたら、さっきから「こんなバカガキの相手をすんのはいやだなあー、社長が喜んでるからやってるけど」と顔に書いてあった若い兄ちゃん社員が氷のような声で「2900万円」と言った。

あっ、そうですか。Finiって、いつからそんなに高くなったんだろ。

絶望はウィットよりも高価なのだな。

うーむ。

画像はわっしがガキンチョの頃かーちゃんにつれられて初めてやってきたサンフランシスコで泊まったホテル。The Westin St. Francis.

外から見た限りでは、いまもあんまり変わっておらんようだな。

ここのリフト(エレベータ)は特殊な構造のせいでガラス越しに外を見る癖のあるガキンチョにとってはものすごくコワイ。

ギロチンで首をはねられるような感じなのす。

わっしはなんべんやっても怖くて死にそうであったのをおぼえておる。

(注1)

Thomas Parr

百歳を越えたところで私生児をつくったので有名なイギリスのじっちゃん。この壮挙を記念してウィスキーOld Parrが出来たのはユーメイだす。また百歳を越えても上記の快挙にカンドーしたイギリスのやんごとなきご婦人たちに「いっぱつやらせろ」(表現が下品ですまん)と迫られたと伝えられる。全英国男の羨望の対象でもあったと言われとります。ルーベンスとファンダイクが肖像画を書くほどの国民的スターであった。

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