ヒロシマ

January 25, 2012

2005 年に製作されたBBCの「ヒロシマ」
http://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshima:_BBC_History_of_World_War_II
は、恐ろしい番組だった。
描写がリアルすぎて、夢に出てきそうです。
なかでも、一家がそろって朝食を食べているときに原爆が爆発して家が瓦礫と化してしまう家族の話は、爆風で両親が家屋の外に吹き飛ばされ、子供だけが崩壊した家の下敷きに
なってしまう。
意識をとりもどして家屋のほうへ這い戻った母親に瓦礫の下の子供が「おかあさん、助けて、はやく助けて」と叫ぶ。
母親は瓦礫をどけようと必死になるが炎があたり一面から襲ってくる。
「息が出来ない。おかあさん、熱い。はやく出して。おかあさん 足が痛い」
「おかあさん、足が燃えてる 足が燃えてる。熱い。助けて、行かないで、おかあさん、行かないで。足が痛い」
結局、母親は、あきらめて、炎のなかを、昏倒した夫をひきずって川へ逃げてゆく。
どうして一緒に焼け死んであげられなかったのだろうという悔恨のなかで戦後の長い時間を生きてゆきます。

書いてしまうと、怖さがぬけおちてしまうが、わしはこんなに恐ろしいドキュメンタリを初めてみました。

戦後カナダ人の配偶者をもったせいでカナダに移住し、被爆者健康手帳をもらうために訪問した日本で海外に在住するヒロシマ被爆者にはがんとして手当を払おうとしない日本政府の冷淡な態度に衝撃を受けて、人前で話をすることに最後まで抵抗を感じながらそれでも「ヒロシマ」を講演しつづけた絹子ラスキーや、急病の子供の往診で夜中に揺り起こされて爆心地から6キロ離れた村まででかけていたせいで助かった、福島第一事故後ヒロシマを経験した医師として発言している肥田舜太郞も証言者として出てきます。

この番組のなかで最も恐ろしいシーンは、多分、海軍の艦船でおおぜいの若い士官たちと談笑しながら食事を摂っていた合衆国大統領ハリー・トルーマンが「ヒロシマ原爆投下成功」の電報をうけとって、「諸君、広島は一瞬で破壊された」と立ち上がって読み上げると、部屋いっぱいの若い士官たちが歓声を挙げ、抱き合って喜びあうところで、36万人の広島市人口のうち14万人を殺したウラニウム235の爆発とそれが引き起こした殺戮の報告を聞いて、みなが底抜けの歓喜に包まれてしまう。

集団的サディズムはそれによって引き起こされたより大きな集団的サディズムによって復讐される、というのは、歴史の常識であって、それをよく知っていたから、ローマ人たちは、完膚無きまでに破壊したカルタゴの瓦礫をどけて更地にして、その上に耕作ができないように大量の塩をまいて、カルタゴ人がどんなにあがいても復讐できないようにした。

トルーマンと若い海軍士官たちが「サディスト集団」日本人の大殺戮の成功を祝っているころ、16歳の志願看護婦絹子ラスキーは、動かなくなった下半身をひきずって、匍匐して病院の階段にたどりつく、そこで幸運にも知り合いの医師の手術で体中に埋め込まれてしまった大小のガラスの破片を取り除いてもらうと、立ち上がれない身体のまま這って(とすら言えない腕でにじりすすむやりかたで)駅へ行く。
そこで「隣の駅からでなければ電車は出ない」と聞かされると、この驚くべきひとは、数キロ離れた次の駅まで線路上を腕だけで匍匐していきます。
「ときどき気絶してしまうんです」と絹子ラスキーは言っている。
意識が戻って空をみると、青い明るい空が見えたり、真っ暗な空が見えたり、そのときどきで違う空が見えた。
何度も気絶しながら、線路のあいだをはって、隣の駅まで行きました。

そうやって這いながら、絹子ラスキーは親の家にたどりつく。
6ヶ月、病床につくが、両親の必死の看病で、恢復していきます。

原爆を投下したエノラ・ゲイの機長Paul Tibbets
http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Tibbets
は、大佐でありながらこの重大なミッションを自分の手で行うべく機長として飛ぶことを志願した。
死ぬまで自分が命令を遂行したことによって、たくさんの日本人とアメリカ人の生命を救ったことに誇りをもっていました。
原爆投下の決定をくだしたスタッフルームの最後の生き残りだった中尉も、「ヒロシマの責任は最終通告をうけいれなかった日本人にある」と明快に述べている。
日本では違うニュアンスになっているのにわしは気が付いたが、アメリカ側では、アメリカの最後通告が日本軍の解体を条件にして日本全体の解体を述べていなかったことをもって、「アメリカが日本側の勇戦で瓦解寸前になり弱気になっている」と誤解した傲慢に原爆投下の直接の責任を求めるのが普通の解釈になっている。

だから、やむをえず、原爆を投下した。

このBBCの番組のなかで、この見解に異議を唱えるのは肥田舜太郞医師ただひとりで、柔和な眼で微笑しながら、「アメリカは人体実験のために原爆を落としたんです。われわれには戦闘能力などもうないのは明らかだったことをアメリカは知っていたはずです。アメリカは原爆が人体に対して放射性物質がどういう影響をもつか、どうしても知りたかった。だから、広島に爆弾を落としたんですよ」と臆することなく述べている。

いま日本語wikiを見ると、
「広島に検査だけして治療はしない病院(原爆傷害調査委員会:ABCC)がつくられるとの噂から、依頼を受けて、治療もするようにと厚生大臣や連合国軍総司令部と交渉。結局断られ、理不尽な占領軍の傲慢さに憤って、アメリカの無法と闘うため占領権力に真正面から立ち向っていた日本共産党に入ろう、と決心し入党した」
と書いてあります。

若い医師だった肥田舜太郞は、村からキノコ雲を見て広島市内に自転車で急ぐ途中、
「真っ黒焦げに炭化した人間の形をしたもの」が自分に向かって歩いてくるのを目撃した瞬間から、66年という長い時間を放射線被害と格闘する人生を生きてきたことになる。

記録フィルムのなかで、もうひとつ示唆的なのは、関係する人間がみな緊張に包まれて、しかも離陸滑走中の爆発をおそれて飛行中の空中で最終組み立てを行うという慎重さで行われた緊迫した広島への原爆投下に較べて長崎への投下は緊張感がなくなっていたことが判ることで、プルトニウム239爆弾である「ファットマン」に、みなが笑いながら日本人に対する落書をするところがフィルムに残っている。
京都や東京に原爆を落としていって、日本全体を更地にするのだろう、と憶測していた爆撃隊員たちの、原爆投下が早くもルーティン化した、やや気楽な気持ちが見てとれる。
長崎の原爆投下は実は失敗で、目標から3キロも外れたところに投下してしまうが、この失敗の理由には伝えられる天候だけが理由ではなくて、他の理由もありそうです。

実は、わしは広島や長崎の原爆投下に興味をもったことはなかった。
理由というようなことはなくて、なんとなく、興味をひかれたことがなかっただけです。
iTunesで、なんかオモロソーなテレビ番組をダウンロードしてみてみるべと考えて、あんまり面白そうなものがないので、前後編にわかれたこのビデオをダウンロードしただけでした。

しかし、一度見始めると最後まで釘付けになってしまった。
いまさらなにを、といわれるだろうが、核分裂の力を解放してしまったときの破壊力のすさまじさは人間の感覚が想像する「破壊」というものの概念を遙かに越えている。

爆発の半径500メートルでは、あるひとは階段に影だけを残して肉体の全組織が蒸発してしまい。
ほとんどのひとは一瞬で炭化して人間の形をした炭になってしまう。
丘陵を隔てた6キロ離れた村にいた肥田医師も、爆風で家の反対側まで吹き飛ばされた、と証言しています。

よく知られているように、広島に落とされた原子爆弾は、50キログラムのウラニウム235を使った原始的なもので、いま世界中にばらまかれつつある核兵器とは世代も破壊力も桁が異なっている。

もっと切迫した問題である福島第一原子力発電所の事故と向き合っている日本のひとびととは違って、英語世界では、フクシマへの日本政府と日本社会の反応がもたらしたふたつの事柄への危惧が小さなサークルのなかでひそひそと話し合われている。
ひとつは、「日本人が事故後もたいしたことがなかった、と言っているのだから、原子力をこれまでと同じにチョー危険であると見なすのはやめて、汚くないエネルギーとしてもっと推進したらどうか」というひとびとが力をもちつつあることであり、もうひとつは、更に深刻で、日本人がつくった「放射線被曝の新基準」が仮に認められるとすると核兵器使用の心理的な障壁がなくなって、タブーではなくなってしまう。
いままでは核兵器を使用することは、そのまま(放射線被曝の二次被害によって)人類の終わりと意識されていたのが、そうでもないのだということになると核兵器を使用する大統領なら大統領の個人の決心の閾値が低くなってしまう。
ただの破壊力のおおきな通常兵器だというように意識されてしまえば、少なくとも局地的な核兵器の使用は実際に頻発してゆくかもしれません。

もともと核分裂反応による発電は技術として筋がわるいのは常識なので、1番目の危惧は、たいしたインパクトをもてずに終わりそうだが、2番目のほうは、結局は人類全体を滅ぼすことになるかもしれない。
地球上の核兵器管理全体が歴史上はじめて、というレベルで緩くなってしまっている現状では、もう案外と切迫した問題になってしまっているのかもしれません。

ちょうど、(特に増殖炉において)きわめて原子力発電の現状が危険な状態であるのを知りながら、それを放置していた自分達の「慣れ」による無責任が、今度は核兵器において追究されることになるのだろうか。

考えると、ユーウツな気分になります。

「中国様」が来た!

September 29, 2010


北虜南倭、というが中国にとっての長年の「北虜」であったソビエト連邦は1991年に自分で、たのまれもせんのに勝手にこけてしまった。
このときの中国政府要人の欣喜雀躍は通りいっぺんのものでなかったことが、当時、北京に公務で居合わせたいろいろな人々によって記録されている。
「これでやっと中国の時代が来る」とゆって、歓喜天に至る趣であったそーだ。

北虜って、何?というひとびとのためにちょっとだけ書いておくと、中国の北の長い長い国境線から浸透してきては中国人たちを苦しめ、13世紀から14世紀にはちゃっかり支配層になって中国人を支配したりした遊牧民族のことです。
ペダンティックなひとびとは、こう言うと、「ええええー、北虜って明代に限るんだよおおおおお バッカじゃねええええー」と下品に舌を突き出して言うであろうが、学者でもないのに学者バカのバカだけ真似てはいけません。研究者でない「研究者気取り」というのはニセ医者より悪い。

中国人にとっては北には歴史を通じて強圧的で暴力的な魔神のようなものが住んでいたのであって、これが国家の方策そのものを縛り上げていた。
卑小な例を取ると、京都に出て「正しい中世」をやりたかったのにすぐ後ろに戦争と正義が三度の飯より好きでちょっと油断すると飛びかかってくる上杉謙信対策に忙殺された武田信玄みたいものであろーか。
もっとも上杉謙信というひとは「純粋戦争屋」、ゲージツのためのゲージツのごとく、センソーのためのセンソーを愛好していただけであったので、別に戦争は好きではないが、とにかく金寄越せわりゃおれのために働かんかいこのボケ、だった北方遊牧民の方が遙かに大規模で質が悪かったのはいうまでもない。

17世紀には東北からやってきた北虜もどきのひとびとが、武力のみならず知的にも漢人文化の土俵で圧勝して、しかも有名な「辮髪」を強要した。

辮髪強制って、すごいのよ。
だって江戸時代の丁髷日本人を征圧して、「おまえらみんな明日からカーリーヘアにしてこい」っちゅうのと同じだからな。
カーリーヘアでマジメな顔して「武士道」とか、やれるもんならやってみい。
切腹も髷があるから出来るのであって、ライオネル・リッチーみたいな頭してやれるもんとちゃいます。
形骸というものはたいていの場合、精神なんかよりもずっと文化にとっては重大かつ致命的なものである。

書いていると切りがないので中国人の「北虜」イメージはこのへんでやめるが、じゃ、「南倭」はなんわ?

倭、ちゅうのはチビちゅう意味です。縮み男だな。
日本人の事です。
チビがフンドシ一丁で、すごい数でダンビラふりかざして、わあああああー、と海岸から攻めてくるねん。
南無八幡大菩薩とか、八紘一宇とか、お題目はかっこええねんけど、いったん上陸すると集団で略奪するわ荒れ狂うわ強姦するわで言う事とやることが全然違うひとびとであった。
明代にも散々くるしめられたが、1930年代の「南倭」は最悪で、首都に雪崩れ込んできて、中国人とみれば区別無く一列に並べてぶち殺すわ、女と見れば子供から老人までいきりたって強姦するわ、強姦すれば必ず後で「虐殺も強姦もありませんでした」というために間違いなく殺害するわで、とんでもない目に遭った。
国家的トラウマになったが、あたりまえ、というか、近代国家でここまで蹂躙された国は他に見当たらないので、「南倭は北虜より悪質である」というイメージが出来たのもむべなるかな。

中国の歴史を読んでいて、強く感じるのは、「北虜がなくなればなあ北虜がなくなればなあ北虜さえなければなあああ」という終わりのない繰り言のようなタメイキのような基調底音である。
ところがそれがほんとになくなってしまった。
「冷戦の終わり」とは中国にとっては要するに北虜の消滅だったのです。

これで南倭もなくなっちまえば、いえーい、だが、南倭はなくなるどころか万事好調で大秦国のパチモンみたいなアメリカ合衆国の強い後押しでぶいぶいゆわしておる。
二言目には「おれは平和主義なんだからな」とゆーが、相手は両親をへらへら笑いながらぶち殺して叔母や姉を無惨に強姦してコンクリ詰めにして捨てて出所してきた当人であるし、第一容疑をちゃんと認めなかったし、おまけに肩越しにふと見ると、後ろでヌンチャクを振り回して奇声を発してこちらを威圧している図体のでかいにーちゃんはあろうことか、南倭を強姦殺人で逮捕した警官そのひとである。

中国人としては、隠忍自重臥薪嘗胆克己復礼、いろいろにゆったりごまかしたり、70年代にはいまでも日本で活躍しているひとびとを学生時代から招いては因果を含めたりしてありとあらゆる孫子の策をつくして自力の涵養に努めたのであった。

ああ、疲れた。
たとえ話は難しいな。
やめた。

中国の「尖閣体当たり物語」はもうすぐ止むでしょう。
戦場で、隠密にこっそり敵情を観察しても判らないこと、たとえば火線の配置と規模、反撃に要する時間と立体攻撃の有無やなんかを見るのに、軍隊というものはときどき「強行偵察」ということをやる。
たとえば戦車を後陣に配置した装甲車を中心とした小部隊を繰り出して敵の面前にちょっとだけ展開させてみたりします。
敵の反撃を誘いだして「あっ、反発はこーゆー感じなんだな」と把握実感する。

中国は沖縄の普天間問題を凝っと観察していた。
日本の民主党政権が防衛問題についてはびっくりするくらい素人で、しかも防衛省の玄人衆は人が悪くもそのバカッぷりをニヤニヤして見ているだけであることに驚いたに違いない。
もうひとつヒラリー国務長官の軽い恫喝でへなへなと方針を変えるあっけなさにも、へえ、と思ったもののようである。

ちょっとヘリを飛ばして自衛艦に思い切り近づけてみた。
また、へえ、と思ったでしょう。
今度はアメリカの反応を見て、です。
意外と及び腰やん。

だから今度はもうちょっと露骨に強行偵察に出てみた。
合衆国や欧州豪州に対しては相手の利益になる提案をするのと当然セット戦略です。
主張は「日本を含めた東アジアの諸問題は中国の勢力圏の問題であって、あんたらの知ったこっちゃないという事を理解しろ」ということである。
南倭の真の脅威がおまえらなんかに判ってたまるか、という気持ちがある。
この町内はわしが町内会長でないと治まらん。

「尖閣は日米安保の対象である」という声が聞こえたところで、強行偵察の目的は達せられた。
そーですか、と思ったでしょうね。
じゃ、ま、今回はこの辺でやめておこう。

タイの赤シャツ事件も考慮すると、中国の目指す「絶対国防圏」は西はメコン流域、東は日本、という事のようだ。
近い将来においての「勢力圏」は、中国にとっては意外なことに技術的に陳腐化しつつある日本の代わりに、おおきく技術的な進境を見せた台湾が産業の「先進的パートナー」として必要なので台湾を政治的にも確保する必要に中国は迫られているように見える。
政治的な戦略と矛盾しない経済関係を維持できる日本を先進パートナーにすえる場合と違って台湾をパートナーとする事は政治的な紛争を招きかねないからです。
だからいざ台湾を併合する段になっても合衆国が本格的に反発することをあきらめさせなければいけない。
その点では日本がひたすら恥を忍んで「やめてください。お願いします」と頭を下げ続けたことは、中国としてはやや舌打ちしたくなるような誤算でしょう。

だから、ちょっと碁盤のこの局面は休止するだろう。
中国という国は歴史を通じて年柄年中息つく暇もなく膨大な外交努力をやり尽くす国なので今度はアフリカや欧州を睨んで碁石を握りしめているに決まっておる。

日本の「面子まるつぶれ」、この次捕鯨に行って、シーシェパードのワトソンが面白がってフネ体当たりしてきたらどーするつもりだんねん、な尊い犠牲と引き替えに諸外国が学んだのは、「中国って、やっぱりやばいやん」という認識であった。
まだ中国様で稼がないとまずいのでそうそう口に出していうわけにはいかないが、どうも「東アジア絶対国防圏」はマジなんだな、という重大な教訓を学んだのでした。
誤解してはいけないが、それは「切迫した認識」ではない。
読売新聞には「豪州も重大関心」とか書いてあったが、ウソですよ、そんなの。コモンウエルスゲームズの百分の一も興味あるもんけ。
合衆国や連合王国やなんかの一般的な英語人に至っては、そんなニュース知らんし、たまたまワシントンポストか何かで記事を目にしたとしても「ははは、日本、だっせえええー」くらいと思う。
第一、これは推測だが、当の中国人自身がそんなにたいしたニュースだと思ってないでしょう。
しかし、東アジアの専門家たちは、この尖閣諸島を巡る「小さな出来事」を見て、そーですか、と呟きながらラップトップのスクリーンを静かに閉じたと思う。
今日は家に帰っても、考えることがいっぱいあるな。

誰よりも日本人が感じた通り、中国は、紛いようのない「全体主義国家」でしかも世界が受け入れられるはずのない巨大な「国防圏」を建設する強い意志をもっている。
将来、というよりも、とても近い将来、中国は戦前の大日本帝国とその面でのロジックは同じ「国内問題だけが見えて他国の都合は考慮しない」全体主義国家の性格を露わにして「資源」をキーワードに世界に対して挑戦してくるのが誰の眼にも明らかになった。

いままでずっと、なんとなく遠い将来のこととしてぼんやり語られていた、あの破滅的な物語のなかの「世界をくいつくす中国」が表舞台に現れる初めの前兆が、あのしょもない島を巡る一幕の出来事なのかもしれません。

M4_シャーマン

April 5, 2010

アメリカ人がただ「良い戦争」と言えば、それは第二次世界大戦のことと決まっている。
「良い戦争」という言葉自体はベトナム戦争という「悪い戦争」との対比でよく使われるようになった。
援護射撃を命じて突撃するとき、第二次世界大戦のときはどんな苛酷な状況でも部下全員が遮蔽物からクビを出して援護射撃をした。
朝鮮戦争になると、危なそうなときは援護射撃をさぼる兵士が出てきた。
ベトナム戦争になると、援護射撃のふりをして突撃を率いる下士官を後ろから撃つ兵士が出てきた、という。

第二次世界大戦はアメリカ人にとって判りやすい戦争であった。
なんだかエラソーに気取っている「ナチ」という鼻持ちならないやつらが、人種的優越とかぬかして大陸欧州を制覇しているのが、そもそも気に入らなかった。
あとで戦争が終わってから蓋を開けてみると、それどころではなくてユダヤ人を効率的に屠殺して人種ごと抹殺しようとしていたので事の深刻さにびっくりしてしまったが、戦争を始めた頃は、そこまではわからない。
アーリア人だかなんだか知らないが、「選ばれた民族」とかくだらねえことをぬかしやがって、と憤慨していただけです。

大西洋横断に成功して国民的英雄であったリンドバーグのようなひとまでナチを称賛しだしたので、アメリカ人は早くちゃんと戦争を始めた方がいいのではないか。「中立」なんて言っていると苛苛する、と考えだしていた。

そこにナチの尻馬に乗ったお調子者のアジア人の帝国「大日本帝国」がはるばる真珠湾にまでやってきて爆撃をして帰る、というそれまでのアメリカ人の常識では起こりえないことが起きたので、なんだかよくわからないが興奮して、「そこまでされたら立ち上がらなくっちゃ」というので一挙に一致団結したのでした。

ナチと「The Japanese」(このtheはいまでも日本人の頭にくっついているが、日本人はその意味を考えたことがあるだろうか)というふたつの「悪いやつら」に立ち向かう「良いアメリカ人」の英雄的戦い、というのは5歳の子供でもわかる図式であって、このアメリカ人にも判る「良い戦争」という図式が大不況から社会的沈滞から、それまで倦怠期みたいな空気が澱んでいたアメリカの諸問題をあっさり解決してしまいました。

ナポレオンの軍隊と同じで第二次世界大戦におけるアメリカ軍は「理念」の軍隊だったので、アメリカ的理念を明確にあらわしたものがいろいろ他国民の軍隊を驚かせた。
英国人や自由欧州人たちとともにアイゼンハワーというドイツ人の将軍に率いられて大陸欧州にスターリンが熱望した第二戦線を開くべくノルマンディに現れたアメリカ人たちの先頭に立っていた奇妙なシルエットの背の高い戦車もそのひとつである。
この戦車を初めて見たドイツ兵は、「なんじゃ、あれは」と思ったのに違いない。
もしかすると対戦車壕の戦車砲の脇からその戦車を望見してふきだした対戦車兵もいたかもしれません。

そもそもその形状が戦車としてはマンガ的である。
この頃にはもう東部戦線では、弾頭に硬い特殊合金を被せた砲弾が開発されたせいで高射砲と初速がほとんど変わらない大砲で遠距離から高初速低弾道で戦車を吹き飛ばす射撃術が一般化しつつあったので戦車の車高は低くなければどうしようもない、と理解されていた。低い車体に斜めに傾いた装甲版、が戦車のスタイルになりつつあった頃です。
アヒルみてえな戦車だな、とドイツの擲弾兵たちはつぶやいたに違いない。

しかし、この「アヒル」は1台姿をあらわすと、次から次にわらわらとあらわれて、あるものは陽動して、あるものはフランキングにかかり、で当時無敵を誇った88ミリまで置き去りにせざるをえなくなった。

戦争が終わってから、ドイツ人たちは、あの妙に背の高い車体が実はWright R-975 Whirlwindというたった400馬力弱しか出ないが生産工程が簡単なせいでやたら数だけは生産出来た航空機用星形エンジンを流用したからだ、ということを発見して驚いてしまう。

戦車1台で戦闘機4機が出来る、というくらい戦車は高価な兵器である、という常識をアメリカ人は覆してしまった。若いポルシェに率いられたドイツ技術者のチームがハイブリッドエンジンの「スーパー戦車」を作りつつあったドイツ技術とは真っ向から対立する思想です。

一騎当千、というがドイツ人たちは自分たちは世界のなかの選良民族なのだから数倍の敵に打ち勝って当然、数百倍の敵に遭遇すれば敵を壊滅させて自分も滅びるだけだ、という英雄叙事詩的なあるいは中世悲劇的な感情で戦争を戦おうとした。
もっとも当のドイツ人たちが戦後になってつくった戦争映画を観ると、それは士官級以上がそうだっただけであって、兵士達は英雄かぶれの上官どもにうんざりしきっていたのが判りますが、ともかく、こういう「選ばれた」「高貴」な戦車士官たちが戦ってボロ負けしたのは肉屋のおやじや配管工のおっちゃんが戦車長のM4の集団でした。
戦場にあらわれたタイガー戦車を見ては、「なんで、あんなにデッカイんだ、あの戦車は、あんなデカイ戦車もってくるなんてドイツ人の野郎、汚ねえだろ」とゆってみたり、
パンサーを見て、あまりのカッコヨサに写真を撮ったりしていたアメリカ人たちの戦車軍団は、しかし、どの対戦車戦闘でも負けているような奇妙な印象を残しながら圧勝していった。

アメリカ軍という史上初めて英雄を戦意昂揚の目的以外では必要としない軍隊が歴史の表面に登場した初めです。1918年には「Tシャツ」を残していっただけだったが、それから四半世紀後に大陸欧州に帰ってきた軍隊はすでに世界最強になっていた。
しかもそれはアメリカ人たちが自分達自身で自嘲して言ったように『世界最弱の兵士による世界最強の軍隊」だったのでした。

戦車個体の性能という点では、凡庸のやや下、というしかないM4をわしが好きなのは、
要するにそれが「アメリカ的価値」の頂点にある技術だからであって、他には理由がないようです。前にブログに書いたF4Fと並んで、M4には「普通の人間」の自由への執着と勇気と魂の健全がこもっている。
アメリカ式民主主義というものが、かつてはどのようなものであって、どういう光輝に包まれていたか、ということを兵器の形で体現している、と思うのです。

四式重爆「飛龍」

November 27, 2009

Mさんは工業専門学校(いまの工業大学)を出て、三菱で擬装担当技師として働いていた。昭和20年のことです。

新型の四式重爆の後部銃手の死亡率が高すぎるので電動式の自動に変えろ、という軍の要望だったそうである。

Mさんたちは、試作機をつくってみたものの制御性が悪く飛行隊員の評判が悪かった。

自分たちのつくった電動式機銃(陸軍の呼称では機関砲)が動かずに撃墜される四式爆撃機の姿を考えるといたたまれない気持ちになったMさんと同僚は空襲下浜松から宮崎まで実地検分に出かけたという。

ついたばかりの夜、沖縄から戦隊が帰還する、というのでMさんたちは飛行場で早速待機することにした。

何時間かを待つうちに爆音が低く聞こえ始めて爆撃機たちが帰投してくる。

「たち」とゆったが、ほんとうは戻ってきたのはたった一機です。エンジンから夜目にもわかる煙を曳きながら、しかし模範的な着陸姿勢で滑走路に着陸した四式に向かってMさんたちは全速力で駆けていった。

「機関砲はよう動きよりましたか。」

Mさんは叫びかけながら駆け上った。

「そこで私が見たものを私はその後一生忘れられなかった」とMさんは自費出版の本のなかで書いています。

息をのむMさんたちの目の前にあったのは、滅茶苦茶に破壊されたガラスのない風防の下で血まみれになって、しかももうとっくのむかしに冷たくなっている正副操縦士の遺体であった。

やがて救護の兵隊が胴体を捜索すると全員が合衆国軍機の機銃弾に撃ち抜かれて絶命していたという。

魂魄が操縦して戻ってきた四式の電気擬装を調べながらMさんと同僚は嗚咽がとまらなかったと言います。

四式重爆撃機飛龍は、わっしが最も好きな日本の軍用機である。

日本人たちは戦争を始めてみたものの、近代戦争のそのあまりの過酷さに震撼した。

第一次世界大戦に正面から参加しなかった日本人には兵器と人員のすさまじい消耗を空想すらすることが出来なかった。

防弾装備のない戦闘機や爆撃機は連合軍自らの侮りが生んだ日本の不意打ちに恐慌状態にあった開戦百日ですら情け容赦なく次々に失われていった。

四式重爆は、いわばやっと米国や英国あるいは独軍と同じ「近代戦」へに認識に立った日本人がつくった初めての爆撃機であったのでした。

主要諸元の数字だけを見ると凡庸な中型双発爆撃機にしかすぎない「飛龍」はしかし記録をよく読むと、実際には高速でタフ、しかも連合軍の戦闘機に追われながらでも基地に帰投しうる機動性をもった爆撃機であったのがわかります。

なにしろ有明海の上空で垂直旋回した飛龍まであったという。

(ちょっと、わっしには信じがたいが、飛龍の日本機らしからぬ機体強度を知ると信じてもいいような気がするときもあります)

Mさんは、その後、合衆国の「飛行機製造禁止命令」を見て失望して技師をやめ三菱重工も退職してしまう。

思うところがあったのでしょう、二三年親元にいたあとで技術屋であることをやめて地元の企業に事務職として就職して戦後を生きる。

Mさんの「自分史」は正直に言えば読み進めてゆくのがやや辛いほど平板なものですが、

冒頭の基地での経験もそうですが、誰の、どんな人生もそうであるように、読む方が歯をくいしばって読まないと読めない箇所がところどころある。

1960年代のある日、Mさんは、故郷の町から子供と奥さんとを連れて東京に出かけます。奥さんが「君の名は」に夢中になった結果、何年ものあいだ「東京に行ってみたい」とせっつかれてやむをえず出かけたもののよーである(^^)

新大阪に出て、新幹線のホームに立ったMさんの記述をわっしは、どうしてもうまくいえないが、一瞬だけ時を旅して青春に立ち戻ったひとのものとして読んだ。

ニュースですでに見ていた新幹線がホームに入ってきたとき、しかし、Mさんはそのとき初めて「あっ、『飛龍』だ」と思うのです。

そのとき初めてMさんは自分がどれほど「飛龍」という飛行機を愛していたか、兵器と技術屋という関係を越えて、自分の人生のすべてを賭けていたか、理解したのだという。

「戦後の私は、ただの抜け殻であった、という現実を目の前にして、私は狼狽した」とMさんは言う。

でも、技術屋としては、もしかすると幸福だったのではないか、とMさんは書いています。

四式重爆撃機「飛龍」キ67

全幅: 22.5 m

全長: 18.7 m

主翼面積: 65.0 m²

翼面荷重:40.9 lbs/ft2 (199.8 kg/m2)

発動機: ハ104 空冷複列星型18気筒 2,000 hp (海面高度0)

全備重量: 13765 kg

最大速度: 537 km/h (高度6090m)

航続距離: 3800 km

上昇限度 : 9662m

武装: 20 mm機関砲 ×1・12.7 mm機銃 ×4

爆装: 50kg爆弾×15、250 kg爆弾×3、500 kg爆弾×1、800 kg爆弾×1、魚雷×1のいずれか

生産機数: 697 機

こーゆー気持ちは機械が好きでないひとにはわからないが、実戦の記録を読んだ後で、

この特に爆装限度とかを見ると、感動して涙が出る。

まるで丁度天安門で素手で戦車を止めた中国人の学生のような「名もない英雄」を感じるからです。

88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。

ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。

ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。

連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。

背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。

88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。

地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。

敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上放火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;)

まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。

えっ?理由?

そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。

「マジメだから」です。

88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。

まず第一に使用された弾頭が優秀である。

当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。

当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。

無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。

部品点数も意外なくらい少ないな。

多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。

扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの兵器らしい。

ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。

ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。

もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。

どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。

たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。

ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。

この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。

近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。

ドイツ軍兵の強さは敗退するときの後退戦で最も顕著である。

潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。

支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。

ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。

多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。

一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは

中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。

暗い夜と、裏切りと、絶望と、その真の闇にたかれた松明の炎に浮かび上がった英雄たちの血まみれの顔、っちゅうようなもんに痺れやすい体質であるよーだ。

みんなでジークフリートになってしまう。

戦争をやっているあいだじゅう、それが「ニーベルングの歌」であるかのように錯覚していたようなところがあります。

頭のなかではずっとワグナーが鳴っていたのと違うか、と思う。

88mm_flakというドイツ文明が生み出した剣を最後に握りしめて死んだのが金髪を三つ編みのお下げ髪にした少女であるところも、なんだかいたたまれないくらい「ゲルマン的」である、と考えました。

88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。

ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。

ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。

連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。

背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。

88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。

地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。

敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上放火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;)

まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。

えっ?理由?

そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。

「マジメだから」です。

88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。

まず第一に使用された弾頭が優秀である。

当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。

当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。

無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。

部品点数も意外なくらい少ないな。

多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。

扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの兵器らしい。

ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。

ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。

もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。

どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。

たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。

ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。

この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。

近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。

ドイツ軍兵の強さは敗退するときの後退戦で最も顕著である。

潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。

支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。

ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。

多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。

一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは

中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。

暗い夜と、裏切りと、絶望と、その真の闇にたかれた松明の炎に浮かび上がった英雄たちの血まみれの顔、っちゅうようなもんに痺れやすい体質であるよーだ。

みんなでジークフリートになってしまう。

戦争をやっているあいだじゅう、それが「ニーベルングの歌」であるかのように錯覚していたようなところがあります。

頭のなかではずっとワグナーが鳴っていたのと違うか、と思う。

88mm_flakというドイツ文明が生み出した剣を最後に握りしめて死んだのが金髪を三つ編みのお下げ髪にした少女であるところも、なんだかいたたまれないくらい「ゲルマン的」である、と考えました。

零式艦上戦闘機

July 5, 2009

No protection is provided for either pilot or fuel tanks.

At high speeds the rate of roll is slow and is slower to the right than to the left.

At speeds of 250 knots and above the aileron forces are so high, fast rolling cannot be done.

っちゅうのは、1943年10月につくられた零戦21型の実戦部隊向け資料に書いてある、有名な「所見」です。資料そのものを見ると、翼内タンク、オイルタンク、酸素ボトルの位置を示した図があって、矢印の先を見ると「ここを狙え」と書いてあったりする。

当たり前ですが、「防御用の鋼板がないところが米軍機より劣っている」とか閑人が好きそうな「どっちがツオイか」っちゅうことが書いてあるわけではなくて、ただ単純に「効率的に零戦を撃墜するにはどうすればよいか」ということが要領よくまとめてある。

オークランドの戦争博物館にゆくと、零戦22型が置いてあります。

傍らには、この零戦の操縦士であった若い日本人を整備士たちが必死で救おうとした物語が書いてある。わざと修理を遅らせて、特攻任務につかせまいとした、という。

きっと、いまでも、少し見下ろせる角度になっているレイアウトと、あのやや特例的な美談の掲示もそのままでしょう。

ニュージーランドのガキどもは、あの掲示を見て、日本人といえども残忍で失礼な怪物ではないのだ、ということを学習することになっておる。

なにしろ、「博物館」っちゅうものが少ないので、あそこはみんな行くからな。

連合王国人にとっては、第二次世界大戦とは対独戦のことであってアジアと太平洋の戦いについては「太平洋戦争、って言われてもねえ」というのが、ふつーの感想でしょう。

全力をあげてドイツと戦っていたら、ヒトラーの尻馬に乗って日本人たちがマトモな軍隊がいないアジアを狙って植民地を盗みにやってきた、というのが一般的な認識であると思います。

合衆国人にとっても、二次的な戦線であって、マッカーサーがそのせいでカリカリきてばかりいたのは、万事檜舞台がしつられられていないと嫌だった幼児的なマッカーサーの性格のほかにも「おまえのところは主戦線ではないのだから」というので不十分でしかも旧式な装備しか送ってこない、という実質的な憤懣もあったのです。

豪州人だけが対日戦争としての第二次世界大戦を戦っていたのだ、とゆってもよい。

戦争に勝利した後、豪州人があれほど必死になって昭和天皇の処刑を主張したのは、要するに、そーゆー理由からでしょう。

合衆国が、日本に対してタカをくくっていたのは、まず第一に中国戦線における観察から日本軍の弱さをよく知っていたからです。

日露戦争における呆気にとられるほど強い兵隊は、軍紀が乱れに乱れた、強姦や略奪を行く先々で行う、規律のない武装集団になりはてており、しかも第一次世界大戦に参加しなかったことに起因する軍事テクノロジーの決定的な遅れは、調査した武官たちをして失笑させるほどのひどさでした。

こんな軍隊に負けるわけるねーよ、と思った。

で、まあ、こういう態度の悪い、日本帝国をなめきった合衆国軍の戦前の予想はだいたいにおいて当たっていたわけでした。

もちろん誤算もあった。

その最大のものは、よく知られているとおり、日本海軍の航空戦力であって、その「誤算」の象徴が97式艦攻と零式艦上戦闘機でした。

1942年の時点で戦闘機の戦いでいうと日本人操縦士を4人殺すために合衆国人操縦士がひとり死んでしまう、という割合で、これは合衆国社会の許容範囲を遙かに超える死傷率だった。

この頃の合衆国人の主力戦闘機はたとえば海軍と海兵隊ではF4Fです。

F4Fは、前にもブログ記事で書いたとおり、

http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/searchdiary?word=f4f

垂直面の対ゼロ戦闘ではほとんど勝ち目なし、なくらいダメな戦闘機でしたが、もともと旧式な兵器で敵の主力に正面攻撃を加えるための「ガッツだあ」集団として教育されていた海兵隊員たちは、自分たちよりも遙かに優秀な空戦性能の零戦相手によく戦った。

この頃の日本側の記録を見ると、爆弾も抱かないで駆逐艦を銃撃で撃沈しようとするわ、

単機で遙かに数が多い零戦の集団に遮二無二突っ込んでくるわ、の米軍操縦士たちの、あんましアタマのよくない暴勇ぶりに唖然とする日本人将校たちの姿がよくわかります。

日本のひとがアングロサクソンというものが本質的に暴力集団であることを悟った初めである(^^)

零戦は、削除しちって、記事そのものがどっかにいっちった前の記事にも書いたとおり、

いわば「スーパー複葉機」でした。

そこに零戦の格好良さがある。

堀越二郎というひとは、日本が「エンジンをつくれなかった国」であると言っています。

どうしても良いエンジンがつくれなかった。

ちょっとここで断っておくと、この記事を書くにあたって「零戦」とかで検索してみると、「あれは結局外国の飛行機のコピーであった」と書いているひとがいっぱいいて、ぶっくらこいてしまった。

このひとたちの論拠は簡単で、エンジンの栄21 型の元になった「寿」はブリストル・ジュピターのコピー、機関砲はイスパノスイザそのまんま、7.7ミリ銃も…っちゅうことですが、なにも、そこまで自分の国をバカにせんでも、と思う。

ヒコーキっちゅうのは、(あたりまえだが)総合芸術なんです。

設計者の「思想」というものがなによりも先にあって、それに使える技術をあちこちからかき集めてくる。

そのままいったら凡庸な試作機として終わったはずのムスタングP51がロールスロイスのエンジンに付け替えただけで史上最高のレシプロ戦闘機に生まれ変わった例を思い出して見るがよい。

第一、そんなに零戦を貶めたければ、当然あげなければいけない例は、上のようなヒコーキというものをまるで理解していない理屈ではなくて、

零戦に先立つこと一年半前につくられたグロスターF.5/34をあげるくらいには気が利いていないと意見をなされない。

グロスターF.5/34の写真を見ると、たいていのひとは「英軍に捕獲された零戦」だと思うようです。そっくり、である。

こまどり姉妹やザ・ピーナッツよりも区別がつかん。

(知らない人は、おじーさんやおばーさんに訊くよーに。両方とも一九六〇年代(多分)のスターですじゃ。三波春夫、とかと同世代のひとね。この頃はどうやら日本の芸能界では「双子ブーム」であったよーだ)

ついでに諸元も並べると

エンジン ゼロ:780hp グロ:840hp

翼幅   ゼロ:12.6m グロ:11.6m

翼面積  ゼロ:22.4平方m グロ:21.4平方m

翼面荷重 ゼロ:104.0 kg/hp グロ:114.6 kg/hp

最大速度 ゼロ:509 km/h グロ:508.5 km/h

ちゅうようなもんで、他の飛行特性を並べても不気味なくらい、そっくりです。

連合王国版ゼロ戦だすな。

旋回半径まで同じである。

これをつくったヘンリー・フォーランドというひとは、秀才型の技術者だったので有名なひとで、同様に秀才型だった堀越二郎技師が二年後につくった飛行機が双子のように似ていたのは、要するに、当時の空冷式戦闘機の定石にしたがって飛行機を設計してみたら、たまたま同じものになった、ということでしょう。

しかし、フォーランドは突っ込み速度を捨てたり装甲を捨てたりは出来なかった。

そうすると当時の英国の常識では、戦闘機ではなくなってしまうからです。

またエンジンの出力向上に余裕があったので、その必要もなかったところがゼロ戦と異なる。

…..そーゆーわけで、よっぽどアタマのいかれた合衆国人ですら零戦が日本のオリジナル戦闘機であることに異議を唱えるひとはいなくて(よりによってテキサンのコピーだ、とゆったオモロイおっちゃんはいたが、アホか、で終わりました)、それは先ず第一に

堀越二郎の「スーパー複葉機をつくる」という思想が、すさまじくオリジナリティに満ちていたからです。

「装甲がない」というのは、弾に当たったら怪我するやん、という西洋のコンジョナシ思想と日本の「当たらなければいいではないか」という思想の違いだからまあいいとして、(ほんとうは良くないかもしれないが、それを言うと零戦の思想そのものの全否定になるので、ここでは、そういう議論はしたくない)、「降下離脱」を捨ててもよい、というのは、すごい。よく考えてみると、基本的には戦闘にはいったら最後、死ぬか殺すかまでやる、ちゅう考えなわけで、戦闘に対して生一本である、というか、サムライの果たし合いと空中戦と区別がついていないようなすさまじい空戦思想です。

日本のひとが「零戦」について書いたものを読むと坂井三郎の自伝に影響された部分がすごく大きいのに気が付きます。英語の論者も似たようなものなのは、むかし、坂井三郎の空戦記のダイジェストが英語世界でも「SAMURAI!」という名前でベストセラーになったからでしょう。

「丸」やなんかに載った海軍航空兵たちの座談会やなんかを読んでいると、坂井三郎は

もちろん偉大な戦闘機操縦者であるにしても、ちょっと話は誇張が多い、といって苦笑気味に話す人が多いようである。

「嫉妬」というようなことではなくて、仲の良い仲間内での十分親愛感をこめての発言なので、坂井三郎の本には、特に零戦の特性について、自分の好みによる主観が強い面はあるようです。

特に20ミリ機関砲(旧帝国海軍の言い方に従えば「銃」)については過小評価である、というひとが多い。

ご存じの通り坂井三郎は至る所で「零戦の20ミリ機関砲は役立たずであった」と言っています。

幸いなことに初速が同じくらいの20ミリ機関砲を装備した機に乗って欧州戦線で戦った多くのパイロットが戦記を残しているので、この件については面白いことが判ります。

坂井三郎と同じく、「あんなまっすぐ飛ばん機関砲は役立たずであった」と述べているのは連合王国のパイロットだけである。

そーです、結局、坂井三郎や連合王国の撃墜王は「空の戦場では激しく機動しつづける」というスタイルで戦ったせいで、20ミリが好きになれなかったのだすな。

ドイツ軍などは通常、ぶわっと急降下してきて一撃離脱しておいてから、また上昇して、というような戦いぶりだったので、初速が遅くとも照準が合いやすかったもののようである。

戦後の合衆国人が書いたものを読むと、零戦は結局「突っ込み速度が遅い」ことと「高速機動が出来ない」ことが直截の原因になって旧式化します。

もうひとつの理由はもちろん被弾した場合の死亡確率がものすごく高かったために操縦士があっというまにいなくなった、という事情もある。

高速での機動にすぐれたF6Fが登場すると、合衆国パイロットがひとり死ぬあいだに日本の操縦士は16人死ぬようになります。そして、その死傷比率はあっというまに凄まじい勢いで合衆国側に傾いてゆきマリワナ沖では日本側にとってはたいへん屈辱的な「七面鳥撃ち」という名で呼ばれるほどひどくなる。

新米のパイロットが何人も一日で5機撃墜、6機撃墜という「新記録」をたててしまうので、それまでのエースたちが不平を鳴らすほどになってしまう。

日本軍はあまりの損耗率に松山航空隊の結成まで事実上戦闘機を飛ばすことをやめてしまいます。

オークランド博物館にやってくるガキどもが、まっさきに驚くのは零戦という飛行機が空冷であるにも関わらず優美な形をしていて、なんだかやさしげな飛行機であることです。

わっしは、こんな小さな1000馬力の飛行機に乗って太平洋を何時間も飛んで戦場に行き、まったく不利な空戦を戦って傷つきながら、また何時間も洋上を飛んで帰った20歳

になるかならないかの若いパイロットのことを考えて、どういうか、やりきれない気持ちになった。連合軍のパイロットと違って、彼等には休暇すら与えられなかった。

ただ死ぬまで飛ばされ続けただけでした。

坂井三郎の自伝に坂井たちがラバウル島に駐留していた頃、空中で撃墜された米軍パイロットが落下傘で海に落ちるのを浜辺からみなで眺めるところがあります。

ああ、もう、あいつ助からんなあ、と思って見ていると、低い雲のなかからPBYカタリナ飛行艇がゆらゆらと現れて着水する。

そのあとからグラマンF4Fが束になって飛んできて上空を旋回しだします。

当時は「無敵」と自称していた日本軍航空隊の眼と鼻の先の海に、たったひとりのパイロットを救助するために、結局2機の飛行艇と一編隊のグラマンを仕立てわざわざ「大作戦」を組み立ててやってきた合衆国軍を眺めて、彼我の国の兵士の命に対する考え方の違いに絶望してしまう場面がある。

結局、出版される英雄譚の裏でひそかに語り続けられてきた日本軍の兵士の「やる気のなさ」は、そーゆーところから来たのでしょう。

人間として扱われなかった兵士に人間としての勇気を求めても、無理なのは当たり前だとわしも思う。

技術的には零戦は、当時の日本がもっていた技術をうまく組み合わせた、文句なしの「傑作戦闘機」である、とわっしも思います。

では、これを欧州戦線に1000機運ぶことが出来たとして、「傑作機、到着!」とばかりパイロットたちが歓迎したかというと、多分、誰も乗らなかっただろうと思う。

それどころか、「あんたはおれを殺す気か」と言って操縦士は上官に食ってかかっただろうと思います。

窮地に陥ったときの最も有効な離脱方法である「棒落とし」が出来ず、被弾したときにほとんど生存が見込めないのでは、欧州人の考え方からすると「戦闘機」とは呼ばれないからです。

合衆国では「空飛ぶ棺桶」と呼ばれたのにロシアでは傑作機であったベルのP39を挙げるまでもなく、戦闘機という兵器は、たいへん文化に密着したものでした。

RAFがグロスターF.5/34を選ばずに当時ハリケーンとスピットファイアを選んだのも、採用時期よりも実は、やはり文化的な理由によっているのだと思います。

わっしは日本人のものの考え方が零戦を「傑作機」にしたのだと思っています。

日本のひとが零戦と日本の栄光をいまだに重ねあわせて考えたがるのは、だから、

きっと、あたりまえなのでしょうね。

カシノのブラックジャックテーブルというのは不思議な社交場であって、身も知らない人間同士が一致して、たとえば17からもう一枚ひきたい誘惑やディーラーの絵札に対してエースをスプリットしないまま勝負する誘惑にひとりひとりが耐えて「テーブルをつくる」作業をとおして一種の「友情」を形成してゆきます。

シドニーの平場のテーブルなどは世界でもいちばん滅茶苦茶なテーブルであって、絵札をスプリットしちゃうひともいれば、18からひくひともいて、論外だが少なくともクラブのブラックジャックテーブルにはまだブラックジャックというものの複雑さや良さが残っている。

そういう場ではマフィアの親分と市長が肩を並べて真剣な顔で考え込んでいたりします。

ある晩、冬のロンドンの裏通りに唐突に有る感じのカシノのクラブでエイトデックのシューとシューとのあいだに、わっしは隣りに座った合衆国人のへろい杖付きのじーちゃんと話しておった。

わっしが東京にいっていたのだと知ると、じーちゃんは、ちょっとなつかしそうな顔をして、自分もちょっとだけいたことがあるんだよ、と言う。

話は戦争のことになって、

「沖縄はこわかったなあ」と言います。

いやね、被害なんかはほとんどないんだよ。

カミカゼの奴が、殺されても殺されても襲ってくるんだ。

誰がどう見たっておれたちの乗っていた空母にまで届きっこないのに、見たこともないオンボロ飛行機でよたよたよたよた突っ込んでくる。

あんな高度から爆弾もって体当たりしてきても、たとえ当たったって被害なんか知れたもんさ。

徹甲弾ってものは弾丸でも爆弾でもある程度の加速度の加勢で被害を与えるようになっているわけだからね。

そのくらいのこと、彼らだってわかっているはずなのに、それでも突っ込んでくる。

殺されても殺されてもムダ死にしにくるなんて、あいつらヘンだったよ。

なんだか人間でないものと戦争をさせられている感じがしてやりきれなかった。

そのうちに根性なしの対空機銃手のやつがひとり頭がいかれちまってさ、取り押さえるのに往生した。

「たいへんでしたね」

わっしは頭の中でちょうどその頃たくさん読んでいた日本側の特攻隊員の本に書いてあったことを思い浮かべてじーちゃんの話に照合したりしていたが、当然のことながら、そーゆー活字で仕入れた虚しい知識を口に出して言ってみるわけにはいかなかった。

そう言えば、おもしろいことがあったよ。

じーちゃんは、相変わらず遠くを眺める眼をしながら沖縄戦の記憶をたどっています。

ひとしきり特攻機がやってきて攻撃をした後にね、おれが空を眺めていると、高いところに天井をつくっていた雲のなかからポツンと黒点が現れてね。

それがみるみるうちに大きくなったかと思ったら、日本の水冷エンジンの急降下爆撃機なのさ。

「Judy っすね」と、言ってしまってから、「しまった」と思っているわっしのほうを

「おっ、知っているじゃないか」という顔で見やってニヤっと笑ってから、

そう、たった一機だけのね、と言う。

ところが、こいつがうまいパイロットでね。

びっくりするような急角度で突っ込んできたと思ったら船団の大型油槽艦の甲板のど真ん中に500キロ爆弾をたたきつけていったよ。

一瞬で、大爆発して、そうだなあ、2千メートルくらいはある火柱をふきあげて沈んじまった。

あんまり見事な間(ま)とタイミングなので、周りの船も対空砲火すらろくすぽ撃てない始末でね。

すぅーと、なんとなく戦場の「幕間」みたいなところにやってきて、狙い違わずぶつけていきやがった。

名人だったぜ、あれは。

それから、じーちゃんはしばらく黙ったな。

少し濁った青い眼が、湿っぽくなったようでした。

そのJudyが、そのあとやったことをおれは忘れられんのだ、と言う。

「?」

急降下から猛烈なプラスGの引き上げをやって急降下爆撃の見本をみせてくれたんだけどね、引き上げが終わってから、また反転して、なんとこれみよがしに海に突っ込んで自爆しやがった。

あの頃は、という頃になるとじーちゃんは声が出しにくそうである。ちょっと涙をぬぐったりしてます。

あの頃は….おれなんかは、いまでもそう思っているがね….おれたちはみんな「良いジャップは死んだジャップだけだ」と思っていた。

でも、あの操縦士の気持ちだけは、あいつがまるで自分の怒りを叩きつけるように自爆するのを身動きも出来ないで見つめていた同じ操縦士のおれたちには痛いほどよくわかったよ。

まるで声が聞こえてくるように判った、といえばいいかな。

あいつは、きっと、ほんとうは志願したくもないカミカゼに「無理矢理」志願させられたんだろう。日本人にはそういうところがある、というからね。

他の腕の悪い操縦士が次から次に犬死にしているあいだじゅう、雲のなかに隠れて旋回していたのだと思う。

雲間から様子をうかがいながらね。

キチガイじみた犬死に戦闘が終わったときを見計らって、あいつは、自分だけの戦いを戦いに降りてきたのさ、きっと。

やつが必死で訓練に訓練を重ねて磨き上げた腕をおれたちに見せに来た。

日本の操縦士がふらふらやってきてただぶち殺されるだけのものじゃないのを見せに来たんだと思う。

見事だったよ、実際。

あのときが初めてだぜ、日本人にも尊敬にあたいするやつがいるんだな、と思ったのは。

バカみたいに死ににくるだけじゃないんだ。

腕もあれば勇気もある奴がいたのさ。

ディーラーが両手を広げてみせて、さあ、いくべ、と言う。

じーちゃんとわっしは次のシューにかかった。

わっしは、特に中盤スプリットした上に両方のダブルアップをすったのがこたえて、チップが半減した。じーちゃんは、ずっとちょこちょことすっていたかと思ったら、5000ポンドのダブルアップにあっさりパーシャルですらなく応じて、その一発で勝っておった。

すげー度胸です。

まだ午前二時だったが、わっしは、その晩は席を立って雪の中を歩いて帰りました。

味方は誰もいなくなった敵の眼だけが見つめる洋上で「特攻」という非人間的な作戦と呼ぶのも汚らわしい感じのする作戦家の頽廃の極点のような作戦に抗議して見事に急降下爆撃を成功させ、怒りをぶつけるように水面に自らを叩きつけて死んだひと組の日本の若者のことを考えた。

どんなにか悔しかっただろう、と思いました。

えっ?それだけかって?

そーです。

わっしは、いまいましいことに、この彗星搭乗員のことをいままで忘れておったのだ。

このひとたちがたったふたりで戦った彼等の人間性を賭けた戦いのことを忘れていました。

さっき「エルベ特別攻撃隊」についてのBBCのドキュメンタリフィルムを見ていて、突然思い出した。

今度は忘れてしまわないように、ここに彼らの母国語であった日本語で記録しておこうと思っただけです。

戦争というのは公式記録に載らないもののなかにしか人間の真実は記載されていないのかもしれません。

フィリップ・K・ディック(Philip K. Dick)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BBK%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF

は、わっしが子供の頃大好きな作家のひとりでした(SFはあまり好きでなかったのに、どーゆーわけか、ディックだけは好きであった)が、 なかでも「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Do Androids Dream of Electric Sheep?)と「高い城の男」(The Man in the High Castle)

http://en.wikipedia.org/wiki/The_Man_in_the_High_Castle

がとても好きでした。

「高い城の男」の世界

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/4/45/Man_In_The_High_Castle_map.PNG

(地図中の薄い緑が「大東亜共栄圏」)

ではフランクリン・ルーズベルトは暗殺されて1933年に死亡しており、 上の世界地図で見られるようにアメリカは日本とドイツとに分割占領されてしまっている。

カリフォルニアの男どもの(決して実現されない)夢は勝者の民族である「日本人の女と寝る」ことであり、地下出版されたSFを読みふけって過ごしています。

そのSFのなかでは、日本の真珠湾攻撃はただ戦艦群を全滅させるだけの不十分な攻撃に終わり港湾施設や給油施設は謎めいた理由で無事に残り、それを手がかりに「ミッドウェイ海戦」で僥倖としか言いようのない奇跡の勝利を手にして対日本戦に勝利している。

カリフォルニアの男どもは我を忘れて決して起こらなかった対日戦勝利の物語に陶酔し時間を忘れますが、本を閉じると途端に日本軍部の過酷な支配下にある現実に突き戻されて悄然とする。

ところで、わっしはこの倒立した地下出版のSFのなかの「ミッドウェイ海戦」さえ「奇跡の勝利」であることを面白いと感じます。

アメリカ人たちにとって、「ミッドウェイ」とは、追い詰められ、危機に瀕し、圧倒的な劣勢に追い込まれたのに勝利した「奇跡の戦い」なのす。

わっしがスミソニアン航空宇宙博物館に初めて行ったのは5歳くらいのときであって、その頃にはもう「ミッドウェイの部屋」があった。いまは多分Sea-Air Operations という二階の角の部屋がそうだと思います。

アメリカのガキどもは、そこで艦隊の動きを説明するボードを見ながら音声ガイドが説明するアメリカ海軍の勝利に血湧き肉躍らせる。

熱狂する。

日本では、「暗号が解読されていたこと」と「爆装転換中に急降下爆撃にあったこと」

をよく敗因にあげますが、アメリカ側の本を読むとちょっとニュアンスが違う。

情報部の活躍によって日本軍の意図を精確に読み取ったチェスター・W・ニミッツは

山本五十六の意図が自己の機動部隊壊滅にあることを知ります。

実際、肝腎なことには口数が少ない、という悪い癖を持っていた山本五十六(部下だった大井参謀は「説明せんとわからんようなバカには重大なことほど説明してもわからん」と言っていたのを聞いたことがあるそうです)のせいで、軍令部及び陸軍は「東方哨戒線の東への伸展」という誤った作戦目的への認識をもっていたわけですが、ニミッツのほうは、あっさり山本の意図を理解した。

陣容から編成まで知っておった。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」(知彼知己者百戦不殆)と言う孫武の有名な言葉はもちろん当時のアメリカの海軍士官も士官学校で学習してます(ナポレオンですら「孫子」を座右の書にしていたのだから当たり前ですが)。

しかし、この場合、「敵を知り己を知」ったニミッツが初めに考えたことは「絶対に負ける」という確信でした。

勝てるわけがない。

戦力は比較するのもバカバカしいくらい日本が優勢であって、航空機の数に限らず操縦士の技量はアマチュアとプロの違いがある上に、たとえば艦攻でいうと、それがイギリス海軍が世界に誇るソードフィッシュ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC_%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

のような戦艦ビスマルクと速度競争したら負けるのではないか、という噂があったくらいのシブイ艦上攻撃機ならともかく、もののシブイ味、というものに興味がなかった日本海軍は九七式艦上攻撃機

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%B8%83%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F

という全然かわいげがないマジな高速艦上攻撃機をもっておった。

おまけに魚雷ひとつを較べても艦舷に当たっても「コツン」という音を立てるだけで相手に深甚な心理的恐怖心を与えることを最終目的としていたかに見える、「不発魚雷」というこれもかなりシブイ兵器であるアメリカの魚雷に較べて、逆に航跡が見えず恐怖心は与えない代わりに大爆発を起こして艦にぽっこり大穴を空けることを真珠湾で実証済みの日本海軍の酸素魚雷とでは比較が難しい。

このころまだ垂直旋回の頂上で失速してはゼロ戦の餌食になっていたF4F

http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/08/31/f4f-ワイルドキャット/

もあわせて、どうやったって負けるしかない立場に立ったことをニミッツは再確認しただけでした。おまけに、こういう事態のために協調性のなさに目をつぶって任命した艦隊指揮官「ブル・ハルゼー」は皮膚病で入院してしまった。

ニミッツはスプルアンスを呼んで言います。

「南雲の空母が発見できない場合は犠牲が出てもかまわんから全軍突撃して大和に乗っている山本を殺せ」

ニミッツは役人根性のない日本海軍士官は山本だけだ、と思っていたかのようである。

(他には小沢治三郎と山口多聞を買っていたようです)

このとき、ニミッツはワンサイドゲームの零敗だけを避けたかった。

しかし、ニミッツはやがて、こんなふうに考え出したように見えるのです。

思考の焦点にはふたつの事実がある。

「日本海軍はアリューシャン攻略とミッドウェイ攻略というふたつの作戦目的を立てている」

「大和武蔵を中心とした艦隊主力が機動部隊の500キロ後方をついてくる」

日本の本にはよくアリューシャン作戦(AO作戦)はミッドウェイ作戦(AF作戦)の「陽動作戦」であった、と書いてありますが、AO作戦は陽動作戦の体をなしていません。これに敵がつられて出てくる、というのは相当バカな参謀でも考えるはずがないことです。では、AO作戦はなんのためにあるか。

大和武蔵を中心とした三十隻を越える(!)「主力部隊」は陣容こそものものしいものの、機動部隊に較べると鈍足な亀足部隊で後で実際にも実証されてしまうように前方の機動部隊が戦闘を始めても戦闘に加われるわけがない。

では「主力部隊はなんのために出てくるのか」

ニミッツは「ははーん」と思います。また日本人のビョーキが出たな。

アメリカの海軍士官が学校で教わる日本人の「ビョーキ」とは「形式主義・官僚主義」です。実質を危険に陥れてすら官僚的な計算を立てたがる。

なにしろ開戦直前になって、しかも年功序列にしたがった「平時配転」で、それまでたまたま適材適所に近いかたちになっていた人事をわざわざ破壊するくらい日本の海軍には「お役所仕事重視」の顔があった。

よく知られている通り、開戦時の航空艦隊長官はもともとから「飛行機なんか役に立つけい、ばかばかしい」と言っていた「水雷屋」南雲忠一です。

ちょっと理解不能な人事である。

ニミッツが理解したようにAO作戦は万が一機動部隊を補足できず上陸も失敗した場合、ミッドウェイ作戦に加わった将官たちが左遷されないための配慮でした。

うっそぉー、な感じがしますが、何人もの旧海軍将校が証言してます。

主力部隊が出てくるのは、陸軍にも華をもたせるために海軍が提案した「ミッドウェイ上陸」作戦に絡めて、「鉄砲屋」、大艦巨砲組の将官にも華をもたせるためであったようにしか考えられません。

山本五十六は「柱島艦隊」(航空部隊の将兵はただ柱島に座って遊んでいる戦艦群をそう言って蔑称していた)の出撃について問われると

「情だよ」

と答えたそうである。

ここに至ってニミッツは役人どもには思いもつかぬ「バカヤロウ、ガッツだ」戦法でいけば案外勝てるかも知れぬ、と考え出します。

リスクの許容値を高いところにもってゆけばよいのではないか。

実際、ミッドウェイ海戦でのアメリカ人たちは気が違った人間の集団のような戦いぶりを見せる。

闇雲に戦ってドン・キホーテのようである。

結果は、いまだにアメリカ人のガキどもが血湧き肉躍らせるアメリカ側の「奇跡の大勝利」となり、 日本軍はこれ以降、攻勢がとれなくなってしまう。

ニミッツが99.9%の大敗を覚悟しながら、奇跡の勝利をもぎとることが出来たのは、彼の考え通り日本の官僚主義ゆえであることは日本側の戦後の処理にも感ぜられます。

海軍は敗北の実体を驚くべきことに陸軍や東條英機首相にすら報告しなかった。

ただでさえ配分が少なすぎる、と感じていた予算配分を考えてのことです。

生き残った将兵は本土に返さず、これらのひとたちは「戦死」するまで戦地をたらい回しにされました。

こうした経緯を知っていた源田実参謀は、都合が悪いことはすべて口をつぐんで戦後参議院議員になった。好戦的で大艦巨砲主義の海軍首脳と、それに抗して戦う源田たち少壮参謀、というのは、彼ら自身の証言によっているのであって、性格のわるいわっしは調べてゆくうちに思わず、「死人に口なし」という日本語の表現を思い出したことをおぼえています。

ふえー、長くなってしもうた。

わっしは、ファニーちゃんとフレディちゃんのバブル・バカップルをアメリカ政府が助けることになったせいで、明日から暫く仕事である。

(ところで会社の名前がFannieって、あのなあ。Fannieという言葉の秘められた意味を知らんのか。アメリカ人って、本当に英語がわからねえんだから。英語ではFannieって…とても恥ずかしくてここでは言えん。アメリカ語というのは、ほんとうにヒドイ。流石は「パンティ」なんてオッソロシイ間抜けな名前で「婦人下着」を呼ぶだけのことはある国です)

洋の東西を問わずみな諸手をあげて賛成してますね。このニュースで今日の日本の株式市場は412円もあげておる。簡単に言うと、財政の側から考えれば、この決定で打撃を受ける可能性があるのは時間軸上ではいまの若い世代、空間的には中国である。

これから経済上起こりそうなことを

http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080811/1218804934

にちょこっと書きましたが、事態はそれより、もうちっと複雑になった。

わっしはもともと静観していたわけで冬眠したままモニといちゃいちゃもんもんしていてもよいわけですが、こーゆー事態になれば、やはり仕事をはじめないわけにはいかん。

日本語学習のための、このブログも多分しばらく週末くらいまでお休みでしょう。

「ミッドウェイ」とかという単語を見ると、アメリカのガキどもよりもコーフンして「ガイジン死ね」を喚きちらしにくるおっさんたちがいるのが通例(文の内容のほうは日本語が読めないおっさんの集まりなので関係がないよーです。漢字はとばして平仮名だけ読んでいるのだと思う、多分。アメリカとカナダの国境の町ミッドウエイについて書いても、ミッドウェイで勝ったからと言って白人のほうがすぐれていると思うな!と言いにきます。見事なくらいバカである)なので、ブログを構わないでいると閉鎖にすぐなりそうですが、ま、ものには縁というものがある。

もしかして、そーゆーことがなければ、多分、14日にはこのブログに戻ってこられるでしょう。

めんどくさいのう。

(あっ、会議をしなくちゃいけないほうのことです。仕事はまことに美容にわるい なんちて)

手を動かしてものをつくるのが大好きなので、わっしは、ガキガメの頃、よくものをつくった。いまでも犬小屋やつくりつけの本棚をつくるのは大好きであるし、朝起きてやる気があるといきなり壁紙を剥がしにかかって部屋の模様がえをする。

先週のように沈思黙考&才能のひらめきによって部屋の壁をピンクに塗りかえて「二時間以内に違う色に塗り替えないと離婚する」とモニに言われたりすることもなくはないが、作業の結果も通常はおおむね良好である。

自転車も「コルナゴ」のようなフレームと部品を別々に買って組み立てるのが好きであるし、自動車も18歳のとき買ったミニ・クラブマン以来、必ず一台はキャブレタのクルマをもっていて、エンジンルームをいじりまわすのが好きである。

もっともむかしむかし手入れ中のクルマに乗せられたガールフレンドの皆さんは、ダッシュボードなどという上品なものはとうの昔にはぎ取られていて、スタータは鍵など不要、リード線直結、あまつさえ床の穴から道路の表面が見えるクルマでデートさせられて顔がひきつりまくっていたが、そのぐらいのことで顔がひきつるのにドライブの後では「今日は大丈夫である」という度胸はあったのであって神秘であった。(下品でごめん)

かように「手を動かしてものをつくる」のが好きであったわっしはもちろんプラスティックモデルも好きであって、とりわけ飛行機が好きでした。

スピットファイアが好きだったのはもちろんですが、イギリス圏ではぜーんぜん人気が無いF4Fがわしは好きだった。遙か昔に生産中止になったエアフィックスもモノグラムも持っていた。レベルはもちろんである。

日本のひとなら必ず知っているに違いない、F4Fはミツビシが誇る軽戦闘機「ゼロ」と正面から激闘した機種であって、特に伝統的に先進兵器が与えられた試しがない海兵隊は

かなり後になってもこの戦闘機で戦わなければならなかった。

日本のパイロットで多少でも腕があるひとたちは、F4Fと出会うと垂直旋回、という破天荒な戦法に出ることが多かった。(日本の本を読むと誤解しているひとが多いようですが洋の東西を問わず、空戦で後上方に敵を見て垂直旋回するのは完全な自殺行為です)これに追従しようとして(もし追従できれば空戦の常識として旋回性能に関わらず、目前の零戦はもう撃墜したも同じだから)F4Fが 同様に垂直旋回に入ると、機体重量に対して絶対的にパワーが不足していたF4Fは旋回の頂上で失速、水平錐もみにはいって零戦の餌食になった。

実は、この「楽にF4Fを撃墜できる必殺技」が仇になって、空中で遭遇した場合、F4Fと誤認されやすかったF6Fに対して同じ戦法を用いた日本のベテラン操縦士たちは次々に逆に撃墜されてしまう(F6Fはパワーレイシオが桁違いに大きかったので、垂直旋回の半径はともかく旋回スピードは零戦よりもかえって早いほどだった)のですが、F4Fは、この手にひっかかって零戦との戦いに惨敗します。

その後、サッチウイーブ戦法を編み出してキルレイショでほぼ五分五分の戦いにもっていきますが、わっしがむかしコーフンしたF4Fの戦いはサッチウイーブ以前の空戦であって、F4Fが苦戦を重ねている段階です。たとえば真珠湾から引き上げてくる南雲中将はウエーキを空襲しますが、海兵隊のF4Fは寡兵でもって艦隊に打撃を与える。

出来の悪い飛行機に乗った出来の悪い操縦士たちが闇雲な勇気だけで戦った開戦初頭の何ヶ月かがわっしは好きなのす。

「優等生」(零戦21型)対「ダメガキ」(F4F)の戦いであって、しかし、アメリカ人たちは、しつこいほどの勇気で日本人たちを次第にうんざりさせてゆきます。

防弾装備のない零戦は一機撃墜されるとひとりの搭乗員が死んだわけですが、F4Fの搭乗員たちは、4回も5回も撃墜されても、「今度はぜえったいにまけねえ」と思いながら戻ってきた。

わっしはスマートで優等生的なことがすべからく嫌いなので、こーゆー状況になれば当然

出来が悪いF4Fのほうに心情は傾きます。早川義夫先生も言っているではないか。

「かっこいいことは、なんてかっこわるいんだろう」

わっしの尊敬するMLBの大打者テッドウイリアムスも乗っていた、このF4Fはスピットファイアや零戦のような第二次大戦中の「エリート」たちとは違って、どんな航空博物館でも冷たい扱いですが、わっしは、たとえばワナカの空中ショーにあらわれるF4Fを見ると胸が熱くなる。

ムスタングP51Dなどは当然レシプロの最高傑作ですが、「だからなんだよ」と思ってしまう。

わっしが1942年の戦闘機乗りなら、零戦には乗りたくなかったと考えます。

理由は簡単で零戦は「一瞬の失敗」も許容してくれない戦闘機だったからです。

わっしは何回失敗しても、装甲鋼板と防護ゴムとでともかく生き延びる可能性だけはあるF4Fの操縦席から脱出して落下傘の下にぶら下がりながら「くっそぉー、ゼロめ。次は負けねえぞ。目に物見せてくれるわ」と負け惜しみをつぶやくほうが良い。

機械といえど、文化の違いは出ます。

もっとも敗者復活戦のない零戦の設計者であった堀越二郎の自伝を読むと、堀越技師そのひとは日本帝国の「弱い者、失敗した者は死ね」という思想に強く反発を感じていたのが判ります。

1945年、防空壕から出てF6Fを目撃した堀越技師が「自分は、こんな戦闘機をつくりたかった」 と思うところは、感動的であるだけでなく、日本という当時背伸びをしまくっていた国に真正の航空機技術者がいたことが判って不思議の感に打たれます。

F4Fは装甲をやめて、防護ゴムも外せば垂直旋回を全うできたそうですが、それがわかっていても、どうしても装甲だけは外せなかった当時のアメリカ人エンジニアの技術に対する考え方の「健全さ」は素晴らしいと思う。

さんざん議論をつくした挙げ句装甲板を外すに至る三菱技術陣の記録と読み比べてみて、

文化の違いというものは、これほど深いのか、と考えて息をのんでしまいます。

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