砕かれた敬神
January 22, 2012
日本人が無宗教だというのはオオウソである。
葬式仏教だと自嘲するが、あの日本人が無宗教なら
「神様?はっはっは、神様だってさ!友よ、疲れているのか?頭はダイジョーブか?」
なニュージーランド人や連合王国人などはどう呼べばいいか判らなくなる。
もともと日本人の宗教的なアイデンティティを破壊したのは明治政府だった。
明治3年に起こった、廃仏毀釈がそうであると思う。
日本人の信仰の基盤であった仏教寺院はこのとき破壊されたものが多かった。
「仏教寺院の破壊をめざしたものではなく、政府の指示を誤解した民衆が勝手に寺院を破壊してまわっただけである」というが、それは日本の政府が常習する詭弁だろう。
国家の部品となってよろこんではたらくバカタレ国民に「空気」をつくっておいて、残りはバカタレ国民に政府の代行をさせ、「ぼくは、そーゆーつもりじゃなかったもんね」というのは日本政府が歴史を通じてバカのひとつおぼえ(ごめん)のように繰り返し用いてきた手口です。
標的になったのは誤魔化してもらうカネも人縁もない田舎の小寺が多かった
(鹿児島県一県で1616寺、という)が、天理の内山永久寺
http://www.d1.dion.ne.jp/%7Es_minaga/sos_eikyuji.htm
のような巨大な寺院も、このときに更地になってしまった。
理屈は国学の「からごころ排斥大和心礼賛」だったが、実際には当時、新興宗教に近かった近代神道の原理主義的運動の嚆矢と見えなくもない。
そう思って見た場合は、1941年12月8日に宣戦布告した戦争は、この原理主義運動の集大成で、大規模なタリバン・アルカイーダみたいなものなんちゃうか、と考えることも出来るでしょう。
ところで、ここで推奨されるに至った神道は、やがて国家神道に統合されることによって、かえって宗教であるよりは国家のイデオロギーになってしまい、1945年の国家崩壊によって元来の宗教としては一気に消滅してしまう。
そういう表層の記憶によって戦後日本人は「自分達は無宗教なのだ」と考えるに至ったと思われる。
つい最近おおきな地震で破壊された長野県の栄村から津南を通って、起伏の激しい山間の村へはいってゆくと、途中に鬱蒼と茂った密度の高い森がある。
ひとつではなくて、いくつかあります。
どの森にも社があって、神社の体裁をなしているが、どこをみまわしても「○x神社」という名前が掲げられていない。
数段の階段をあがっていっただけで、木々のあいだから精霊が囁きあう声が聞こえてくるような不思議な場所です。
鎮守の森、は、ややケーハクな学問であった国学がイデオロギーとしてでっちあげた新興宗教としての神道とは、まったく別の、言わば自然発生した神道だった。
実はこの言わば「本物」の神道のほうは、1906年に出された神社合祀の勅令によって破壊されてしまう。
特殊な事情があった京都や栄村や十日町のような政治的中心から遠い場所には生き残っているが、日本全国で13万以上、という数の鎮守の森が破壊されてしまった。
これも広く見れば神道タリバンの運動の一環とゆえると思う。
南方熊楠などは、ものごとの本質しか見えないあのひとらしく、猛烈な勢いで反対したが、地方に住む日本人は自分達の宗教心を発現する方法を奪われてしまう。
知性のはたらきのうち最高のものは「盲信への飛躍」であると、わしは思っている。
そういう言い方でわかりにくければ「狂信」と言い直しても、言葉の響きにとまどうひとはいるかもしれないが意味することの本質は同じであると思う。
日本語の機能の不思議さは、この大飛躍に向いていると思われることで、
「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候。」というようなことを、あっさりと言ってのけられる言葉というものは、さまざまな言語のなかでも、そうたくさんはない。
日本人は主に神道タリバンであった国家神道によって、自分達の宗教心発現の場を破壊されてきたが、それはもと破壊されるに足りうる強烈で根の深い信仰心があったからである。
社会の病弊の側からオウム真理教を眺めてゆくことが流行っているが、もう一方の観点からは「行き場を失った宗教心がパチモンでもなんでもいいから破壊されていない形のある宗教に向かったのだ」とも言えるだろう。
バカタレなこの「宗教」の性格と引き起こした惨禍のせいで、自然にも、オウム真理教に多少でも宗教の性格を認めるのはタブーになっているよーだが、(怒っちゃダメよ)あれはあれで宗教としての骨格は満たしている。
わしはむかし韓国人は、殆ど何の疑いもなくキリスト教を受け容れる人が多かったのに、日本人はほぼ本能的生理的と呼びたくなるような反発をもつひとが多かった、という日本でのキリスト教布教の歴史に興味をもったことがある。
調べてみる、というほどもなく、事情はすぐに判明して、日本人には宗教心をもつ資質が乏しいからキリスト教が普及しなかったという西洋人側の報告はオオウソであって、実際はすでに高度な宗教心を日本人が形成していたのではいりこめなかったのであると思われる。
それは「絶対」を必要としないばかりか、神の名前さえも必要としない宗教であって、全体の名前すら与えられず、「日本語」として日本人の心を満たしている。
国家権力と結びついて全能の権力を帯びていた神道タリバンたる国家神道がいったん蹉跌をみるや、あっというまに雨散霧消したのも、西洋のサルマネで絶対一神教の体裁をとったからでしょう。
西洋的な視点から見えない日本人の宗教は、まるで異なる角度から見直さなければ可視化されないのではないだろうか。
そうして、その浮きだしのように「日本人の神」が見えて、姿をあらわす角度を発見するには日本語そのものに拘泥しなければだめそーだ、と考えます。
(画像は、ほんちゃん「トルコライス」 無茶苦茶辛い新鮮なトマトのソースをかけて食べます 一口たべるとオイオイ、オイモイと泣きたくなるほどうまいんだぞ、これ。イスタンブルに行くと食べられます)
クリスマスの朝
December 25, 2011
ひさしぶりにモニとふたりだけで朝食を食べた。
件のブーゲンビリヤが咲き誇る花棚の下のテーブルで郵送分のクリスマスプレゼントをふたりで開けながらのんびり食べました。
ファンテール
http://www.whiteherontours.co.nz/piwakawaka.html
は、ひとなつこい鳥なので、生け垣にじっと隠れているブラックバードなどとは違って、
ごく近くまで寄ってきて、モニとわしをじっと見ている。
きみがニュージーランドへやってきたとして、丘から丘、入り江から入り江へと歩く「トランピング」をするというと、枝から枝へ飛び移りながら、いつまでもついてきて、可愛い声を聴かせてくれるのは、この鳥です。
しっぽの羽根を広げると、扇のようなので「Fantail」というのね。
今年は、わしのわがままでクライストチャーチではなくオークランドでクリスマスを過ごすことにした。
妹は、「なんで、おにーちゃんのために、わたしが、あんな湿気が多いところでクリスマスを過ごさなきゃいけないのよ。フコーヘイだ」とゆっておったが、性格が悪いわりに地震を怖がるので、23日のクライストチャーチ地震のあとでは沈黙しておる(^^)
わしが事をよく知っておる妹なれば、わしのわがままを正当化するために、偉大な法力を乱用して地震を起こしたのかと邪推しそうなものだが、近代知性に毒されておるので、そーゆーコンジョワルが当然うたがいそーなことを疑わないものであるよーだ。
(もちろん、わしは冗談にも地震を起こしたりはしない。そーゆー悪事は神様がやることだとむかしから決まってます)
隣の家の生姜色の毛並みが美しい若い猫がやってきて、わしの足下にじゃれついてモニとわしにクリスマスの祝辞を述べておる。
遠くからクリスマスソングが聞こえている。
わしは、今年も、モニとわしにとっては良い年であって、こうしてまた静かなクリスマスを迎えられたことを神様に感謝している。
いつもは仲が悪いがな。
だいさんきゅだぞ。
神様。
2
言語は、夏の晴れた日に、高速で青空の高いところを巡航する積雲が地上に映す影に似ている。
自然が脳髄の表面に映し出す影が言語であって、シンボルの形をしたその影をとおして、人間はさまざまなことを考える。
ある人間が物事について考えるというときには、言語も彼女もしくは彼につきそって考えているのであって、よく観察していると、考えている主体も、語彙が含んでいる歴史的な意味や情緒それ自体と、脳髄の表面に射した影としての言語を機能させている個人と、半々である。
人間は言語がさししめしている方向を振り向いてみることは出来るが、その方向の遠くにあるものに目を凝らしてみることは出来ない。
人間を拘束しているものは肉体においては物理の法則だが、精神においては言語に他ならない。
言語は人間の精神の実体であるのと同時に人間の魂の牢獄でもある。
人間はときに世界の相対化を拒否して、絶対に、あるいはそういう言葉のほうが実感をもちやすければ狂信に跳躍することが出来るが、たいていの場合、そうした投企の試みは神の手ですくいとられてしまう。
ところで神にすくいとられた人間の精神の投企とは、人間性の無効化にほかならないだろう。
バネを奪われたゼンマイ仕掛けの人形、二度と箱からとびださないオモチャ。
言語に拘泥することには、そういう罠がつねにある。
3
遠くで「a king was born today」と歌っているアメリカ人の声がしている。
あれほど東洋的な考えが西洋人の世界に伝播したのは、結局は、西洋語のなかに神が内在していて、そこに「王のなかの王」が容易に屹立しえたからである。
どんな時代でも、西洋世界ではクリスマスは家庭内暴力がいちばん多い日だったし、いまでも、それは変わらない。
それは皮肉な言い方をすれば、本来は混沌でしかないこの世界に、神が過剰に存在してしまうからである。
「ガメ、踊ろうか」とモニがいう。
モニの頬に顔を近づけると、この世界でモニの体だけがもっている、あの良い匂いがします。
ようやく夏らしくなった、乾いた、あたたかいそよ風が吹いてきて、モニの長い髪をとおりぬけてゆく。
神様がいてもいなくても、どーでもいいいわしも、
クリスマスには特別な気持ちになる。
自分ではなくて、言語の世界の外側の、なにごとかが、この世界を祝福しているような気がするのです。
Merry Christmas.
散歩やねん
September 22, 2011
1
ポプラの長い影が射しているカンタベリーの道を歩くと、人間が小さな存在であるというしょーもない事実が実感される。
自然と人間の物理的な縮尺比って、こんなんだったんだなあー、とマヌケなことを考えます。
間尺に合わない、と日本語でいうが、こんなだだっぴろい、歩いても歩いてもすすまないようなところにおっぽりだされてしまうと、人間の文明というものの心細さが実感されてしまう。
人間は、長い歴史のあいだ、ずっとたいへんだったんだ、と妙なことを考えます。
カンタベリーの田舎道を歩く、というのは(あたりまえだが)町を歩くというのとは随分勝手が違う。
ちょっと油断していると曲がる角を間違える。
間違えても、もうよく判っている近所であるはずなのに、しばらく気がつかないのは、簡単に言って右も左も後ろも前もパドックで、何の変哲もなくて、区別がつかないからです。
そのうちに、ありー、黒と白の斑でなくて、茶色い牛さんなんていたっけ?
と牛の種類の相違で、いつもと様子が違うことに気がつく。
気がつくと、ですね、そこから10キロくらい余計に歩かないと家に戻れないのですね。
「行き倒れ」という言葉が頭を掠めます。
龍馬は死んでも仰向けのままだった。
木口小平は死んでもラッパを話しませんでした。
三河の侍は、ことごとく敵のほうに頭を向けて討たれていたぞよ。
どれも、ほんとうではないそーだが。
大きな、まったいらな草原に、たったひとりで立っていると、世界がおおきいことよりも自分の存在の小ささが胸に迫ってきて、神がいなかったりすると、ひとりでやってけるわけがねーだろ、という気持ちになります。
2
カンタベリーというのは、変わった気象で有名な土地柄で、連合王国もところどころ、たとえば丘の上に立つと、立っているところはよく晴れた夏なのに、少し向こうでは雪が降っていて、そのまたもうちょっとむこうかしでは、土砂降りになっている、というようなヘンタイみたいな天気が散見されるが、カンタベリーは、もっとヘンテコな天気がある。
パドックで馬の世話をしていて、ふと上を見ると積雲が手がとどきそうなほど近くまで、というのは低いところに降りてきている。
「積雲が低かったら、層雲でしょーがね。きみは定義というものを知らないのか」ときみは言うであろうし、まことにもっともなご発言でありますが、でも積雲なんです。
あの、夏の空高く、白く輝きながら巡航する、ほれぼれするような美しい雲。
それが、なんだかはしごで届きそうなところに、ぼおおおーんと浮いている。
お手、もめんどうくさいとやらないバカ犬のJが、ぶっくらこいて吠えまくっておる。
馬さんのEも、悲しげに雲をみつめている。
馬は草食動物で顔の両側面に目がついているので「見つめる」ということは出来ないが、
表現上、みつめているのね。
あるいはむかしどっかのなまけものの技師が定規でまっすぐの線をひいてつくったに違いない、どこまでもどこまでもまっすぐでスピードを出しすぎて死んだバカガキどもを記念して立てた白い十字架がいっぱい並んでいるオープンロードをクルマで走っていると、突然、雲につつまれてしまう。
そうすると、きみはまた、地上にあるなら、それは雲でなくて霧というのだぞ、というだろうが、そんなことはわしも判っておる。
しかし、「雲」という質感と量感を備えた霧なので、目撃すれば、みな「雲」と証言したくなる霧なのです。
しかもそれが丁度腰までの高さしかない。
ところがそれが薔薇色の、光に包まれた、どう言えば少しは表現できるのか、この世界にはあるはずがない、と言いたくなるほど美しい色彩の光に満ちた雲であって、そのときは、霧のなかの運転に慣れているワイマカリリ・ドライバーたちも、みな路肩にクルマを駐めて、あるひとは肩をだきあって、うっとり、というよりは呆然と、その、この世界のものとは思われない輝きをみつめていた、というか、もう少し精確にいうと、輝きのなかに包まれてたちつくしていた。
ああいうところに住んでいると、神を信じる、なんて、へっへ、旦那、ぞうさもねえことでごぜーやすよ、という気がします。
十字をきって、思わず、祈っているひともいたが、特にカスタードプリンに祈っているとも思われなかったので、多分、神を感じたのであると思われる。
3
都会を歩く、というのは、同じうろうろするのでも、田舎道を歩くのとは、形態は似ているが本質的に異なる行為です。
チェルシーのアパートを出て、階段を、どどどどどと、ブローニングM2のような勢いで降りる。
ホールのおばちゃんに、おおおーし、と挨拶して、通りにでます。
チェルシー、といってもわしのアパートはヴィレッジとの境界にあるので、ストランド書店
http://en.wikipedia.org/wiki/Strand_Bookstore
まで、歩いて30分もかからない。
途中、ユニオンスクエアの雑踏のなかを通っていきます。
スクエアでは、もちろん、いろいろなひとびとが、いろいろなことを試みていて、
世界が終わる、という日にはイエス・キリストが十字架に打ち付けられてコーラを飲んでいた
http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/23/世界が終わった次の日に/
し、福島第一のあとでは、日本の若いひとびとが、細い声をふりしぼって、募金をよびかけたりしていた。
広場の反対側の、B&Nの数少ない生き残りの店にも行くが、わしはたいていはストランドに行きます。
なにしろ神保町を小規模にしてひとつの建物にまとめたような店なので、一時間くらいは飽きないで、探偵にあまりに魅力がないので誰も買わなかったミステリや、たくさんの人に読まれすぎたせいで、読まなくても読んだことがあるような気がしてやはり誰も買わなかった、過去の名作を渉猟して歩くことも可なり。
ストランドを出て、だらだらと東へ移動する。
ミシュランガイドブックでべた褒めされていて、年柄年中大行列が形成されている(行列がないように見えるときでも、本来バーのところに人間がたくさん充満しているよーだ。店内にはいったことがないので判らないが)「一風堂」ラーメンショップの前を通って、ウクライナ人たちが経営しているカフェへ向かう。
http://www.yelp.com/biz/veselka-new-york
(次のリンクはPDFでがす)
http://www.veselka.com/veselka_restaurant_menu.pdf
そこの表に出ているテーブルの前に腰掛けて、Blintzesを食べながら買ったばかりの10ページくらい読むといきなり犯人がわかってしまいそうな推理小説を読むためです。
それから。、ぶらぶらと歩いて行って、たとえばZinc Bar
http://zincbar.com/homepage
でジャズを聴いて帰るだろう。
マンハッタンと並んで散歩に都合がよく出来ている町は、なんとゆっても東京で、一年の大半は気候が暑すぎて歩くと文字通り死亡するが、涼しいときなら、銀座や神保町、青山、というような通りを歩いてうろうろするのが好きでした。
銀座は文盲の人が多いのか、むかしから本屋が少ない街だが、いまはなくなっていても、最近まで旭屋書店、という本屋があって、近くのホテルに泊まると、その本屋まで歩いてでかけて日本語本を渉猟するのが楽しみだった。
道を渡って、天ぷらやにでかけたり、交詢社ビルのてっぺんで中華料理を食べたり、あるいは特派員協会のバーで友達と待ち合わせて、(あのクラブは会員でないと払えないので)死ぬほどおごらせたりした。
ブログに全然書いたことがないことをつけくわえると、そこからお堀端を歩いて麹町にでかけることが多かったが、なんだか、まだ差し障りだか差し込みだかがあるそーなので、東京の散歩のなかでは出色のおもろさであった、ある場所のことがまだ書けない。
歩いて移動できる都会は楽しい。
ロンドンやパリのように、それぞれの事情で、歩いて移動できそうなちっこさなのに、歩いてもあんまり楽しいとは言えない都会や、いくらいったん散歩に出ると10キロは歩かないとおさまりがつかないわしでも、歩いてどこかに行く気がしないロスアンジェルスや、土地の値段があがりすぎて散歩できる街としては大崩壊を遂げたサンフランシスコのような街もあるが、マンハッタンや東京のような、のんびり出来るクラブやレストランがあって、あちこちに本屋や、ギャラリー、わしの特殊な好みからいうとパーツ屋がある街での散歩は人間が発明した娯楽のうちでも、かなり良く出来た娯楽で、数少ないそういう街のうちでもおもろい街だった東京が原始的な技術の運営に失敗して放射能まみれになって、もう誰かが散歩を出来る街でなくなってしまったのは、とても残念なことだと思う。
4
カタロニアの幹がごつごつしたコルクの林を抜けて、村から村に歩いたり、ポーのような小さな、造作のよい町を歩いたり、むかしのトンブリッジウエルの木の枝が風に揺れるざわめきが聞こえる裏道や、カモメの声が響く、オンダリビアの海岸へ続く石畳の道、あちこち歩いて考えると、人間が考える宇宙の大きさは、「歩いて行ける範囲」がいまだに基礎をなしていて、言葉が間尺にあわないので、ついに数学の言葉でも、感覚がいきつけない「時間も空間も同一の語彙で説明するしかない途方もない大きさ」が把握できない、というところに人間の思考の欠点があるよーだ。
人間が「神」というようなけったいな概念を発明したのは、もともと人間という個体の大きさが生まれ落ちた自然の大きさと釣り合いがとれないほど小さかったことに加えて、その割には採集と狩猟が混淆した移動の感覚をもっていたせいで、小さく縄張りをつくることがなく、長大な距離を歩いて移動できた、という人間の生物としての特徴によっているのかもしれません。
宇宙の大きさ(あるいは極小さ)と人間が宇宙を説明するときにすがらねばならない、成立した当初にはまだずっと小さかった宇宙を神の無限の大きさであると誤認した言葉の大きさへの感覚の違いが引き起こす問題は、通常、人間がまさに縮尺のあわない当の言葉で意識しているより、ずっと深刻であるような気がします。
余白に記された神について
September 3, 2011
1
神が意識をもっているとすれば、その意識を形成している語彙は人間の語彙が知覚する対象の集合よりも大きくてしかも稠密な集合でなければばらない。
しかも、神が絶対の存在である以上、その言語は相互の意思疎通を前提としない、純粋に思惟のために機能する言語のはずである。
そのことから導かれる結論は、人間にとっては真に恐るべきものであって、神は人間の意識から見れば、理解を拒絶した巨大な狂気でなければならないはずである。
宗教教団が狂信なしに成立しないことは、ほぼ自明だが、この「自明な事実」にいつも脚注のようについてくる「教団の初期においては」という説明は、ほんとうだろうか?
どの教団も歴史的には経験している「狂信」は、実は教団に本質的なものではなくて「神」というものに本質的なものではないのか。
2
仏教は常に宗教の「例外」である。
そこには、どんな種類の狂気も存在しない。
あるのはただひととしてのシッダルータがもっていた狂気だけです。
シッダルータの言葉は、論理的な冴えに乏しいが、光に満ちていて、どんな人間にも自動的に「知性」というものを連想させる。
救いのまったくない絶望を語りながら、釈迦に依って説明される世界に安らぎが満ちて、やさしいのは、シッダルータが説いたものが宗教でなくて哲学だったからだろう。
インドの土地には、いまでも哲学を宗教として死んでゆけるひとびとがいるからである。
3
「遠くから無言で見つめるやさしい眼差し」をもった神などは、いいかげんな気持ちでそれまでの人生を過ごしてきたものの自らの甘えの反映が自分の感覚に引き起こした極めて通俗な幻覚にしかすぎない。
宗教が狂気であることを理解できない人間が、どうやって神に近づいてゆけるだろう。
4
例題1: すでに神は昏倒している。
Ooh La La!
July 19, 2011
1
わしはビルバオにいる。
ビルバオのホテルの部屋で日本人の友達からきたe-mailを読んでいる。
結局、日本語では正しく何事かを考えるということはできないのではないだろうか?
ガメ、どう思う?
われわれの言語はこの世界にたったひとつの神様が関与しない言語で、ぼくもぼくの友人達も、それをたいそう誇りにしていたものだった。
きみが、日本語に興味をもったのも、そういう理由だった。
長野の山のなかの、あのレストランで、闇のなかに聳え立つ木々の影をながめながら、神と人間の言語の関わりを、われわれが声帯をけいれんさせ舌をふるわせてわずかな語彙で神を考える事の意味を、議論したときの興奮をおぼえている。
だが、結局、神が関与しない言語など悪魔の言語にしか過ぎないのではないだろうか?
われわれは、ほんとうのところ悪魔的な民族で、いわば世界のなかで悪魔的な文明を繁殖させているだけなのではなかろうか。
Kさんのメールを何度も読み返してみるが、そうしてわしは、なぜKさんがそう考え出したかも知っているが、
答えなんて判らねーよ。
判りたくないのかも知れない。
それとも、もう人間の言葉で考えるのがめんどくさくなったのかもしれません。
Ooh La La! Ooh La La!
人間の文法で出来たこの息がつまりそうなシンタクスと語彙で考えるくらいなら、意味のない声を挙げて、踊り狂ったほうがいいのではないだろうか。
Ooh La La! Ooh La La!
この知能には、この知恵には、この羨望や、この洞察には、
なんの意味もない。
どんな建設性もありやしない。
2
わしはチェルノブイリの結果だという、一つ目の胎児や双頭の幼児、手足が四方八方に生えた不思議な形の人体の標本を見ている。
日本人の若い医学者たちの意見に反駁するアメリカ人やUK人の友人達のメールを読んでいる。
標本の扱い方について初歩的な知識に欠ける、ある種類の日本人たちの統計の取り方を冷笑するドイツ人たちの手紙を読んでいる。
なぜ日本人は、こういうバカどもを訴えないのか?
それとも国民ごとバカなのか?
ガメは、なぜ日本人たちのために意見を述べてやらないのか?
それともきみが日本語が出来るという噂は嘘なのか?
Ooh La La!
Ooh La La La!
あんたの知ったこっちゃねーよ。
わしの舌はわしのもので、あんたの脳にくっついているわけじゃない。
わしの良心はわしのもので、あんたの「良識」に付属しているわけじゃない。
一つ目の胎児がホルマリンの瓶のなかから、わしを凝っと見つめているからといって、彼(ちんちんがちゃんとついているからな)は、わしを非難しているわけではないだろう。
日本人を非難しているわけでもなければ、ましてケーサンショーやトーデンを非難しているわけでもない。
ただ自分の形質を悲しんでいるのさ。
なぜ自分の染色体だけを神様が「修復」してくれなかったか、ホルマリンのなかで漂いながら訝っている。
それだけのことです。
3
わしはビルバオの、世界中からやってくる(はず)の観光客めあてに大金を掛けて開発した川沿いのウォーターフロントを、両手をジーンズのポケットに突っ込んで歩いている。
モニが、その恰好が、不良のチビガキのようだとゆって笑っている。
日本語にスイッチさえ入らなければ、結構ノーテンキなんだけど。
モニが「ガメ、また日本のことを考えているのだろう?」と
わしの広すぎる肩に手を回して、背伸びして囁いている。
モニ、わしは、このごろ、ときどき山も海も川も、森林ですら、もう見たくない、と思う事がある。
空も、雲も、地平線も、神様がつくったものは、どれも見るのはうんざりだ。
あいつは、なんて嫌なやつだろう、と思う。
広がりもなければ終わりもない。
細部もなければ全体もない。
神の言葉で見渡すこの宇宙はなんと殺伐としていることだろう。
どうして、わしはここにいるのだろう?
Ooh La La!
Ooh La La!
Ooh La La La!
水の映像
March 13, 2011
CNNで見た内陸に向かって速やかに広がるツナミの映像が頭から去ってくれないので、嫌気がさして、
CBDのシビックシアターにThe Manganiyar seduction
http://www.roystenabel.com/manganiyar.html
を観に行った。
あの殆ど滑らかにすらみえる水の広がり、やすやすと内陸をめざして広がってゆく水の広がりの下で何百あるいは何千という人間が自然の力で殺されてしまったのだ。
レポーターの声も泣いていたが、観ている人はみなあまりのことにショックを受けて押し黙ったままだった。
ツイッタでクライストチャーチの地震を観て、「災害など、もともと観る側にとっては、ただの楽しむためのショーである」とわざわざ言いに来た日本人がいたが、ああいう人にとっては、破壊がこれほど大がかりになれば、ますます興奮させられるショーだったのかもしれないが。
日本にいて日本語が出来ない友人たちのためにフォーラムの一部を開放した。
日本語情報をチェックしてメールでの質問に答える。
医者の友人達が加わり、地震の専門家の友人が加わり、…というふうに、あっというまに、いつもは悪態をつくのが専門の友人達が、あまり馴染みのない名前の(わしの)友人達の質問に答えている。
あっというまに知識ということに関しては無限にパーであるわしなどは不要になってしまう。
電話がかかってくれば、それに応える。
しかし、電話のほうは、もともと大した危険のなかった東京の友人が多かった。
たいへんだった、たいへんだった、と言いながら、よく訊いてみると電車がなくなったのをよいことに、そのヘンの浮浪者のおっちゃんや名も知らぬ女や男の会社員たちと酒盛りをしていたのであって、「たいへん」なのは二日酔いの頭痛らしかったりした。
言葉が出来ない国での災害は、ひどい孤立感に悩まされる。
お腹に子供がいるイギリス人の女の友達は、東京にいるが、風向きが変わっても大丈夫か、という。
むろん原子力発電所の事故のことを訊いているのだろう。
当座は30キロ以上離れていればとりあえずは大丈夫と思う、と答えたが、未来の母親としては何百キロ離れても、ほんとうは不安だろう。
実際、しばらく考えているようすだったが、「交通渋滞がひどいが南にいけるだけいってみる」と言っていた。
そういうことがあったあとで、モニとふたりで The Manganiyar seductionに行った。
The Manganiyar seductionは、北インド、Jaisalmar, Barmer, それにJodhpurがあるTharの砂漠地帯のムスリムたちのビッグバンドが演じるパフォーマンスで、
その中休みなし90分の、パワフルで圧倒的な演奏は楽しいものだった。
誰でも知っているとおり、北インドの人々は中東や近東、トルコや、最近ではアフリカの人々ととも音楽世界を共有しているが、
西洋の音楽とはまったく異なるが素晴らしい構成力、機知、太古の文明がもっていた感情に現代人を力ずくで引き込む力において、畏怖すべきものがあると思う。
なんの脈絡もないことだが、The Manganiyar seductionの砂漠のにおいのする音楽に身を任せているあいだじゅう、わしはニュージーランドと日本の地震のことを考えていた。
しかし、今度はそれは頭にこびりついて離れない、いわば慢性のべっとりとした残酷性として思い浮かべられていたのではなくて、音楽によって、脳細胞の別の領域から喚起された、別の方角からやってきた悲哀として思い出されたもののようでした。
あの巨大な津波、
あれほどの圧倒的な暴力は神がもし存在するものならば、神の「意志」によって起こされたものでなければならないが、現代人であるわれわれはすでに神には「復讐」や「懲罰」という感情をもつ能力が欠落しているのを知っている。
言語というものを調べていってだんだんに判ることは、旧約や新約を書いた言語の構造では神が成り立たない、ということにつきている。
無限、ということについてちゃんと考えられない言語に神が関わりをもつとは到底かんがえられないからです。
同様に思惟の自立性ということにおいては人間の一個一個が宇宙と等価であるのでなければ、神の事業はうまくいかないが、そのひとりひとりの人間をあっさり殺戮してしまう暴力の棍棒をもっている事には、神の側に盲目な暴力をもつ必然性があるのでなければならない。
それはあくまで無慈悲、あくまで残酷を極める意志だが、人間の側からつくられた言葉の事情を修正して考えれば、当然であるともいえる。
人間のほうから見て、神というものがいかに自然そのものに近い馬鹿者としてしか扱いがたいか、というそれだけの事である。
The Manganiyar seductionのアンコールは、43人のバンドのなかでただひとりのヒンズーの奏者のために、みなが奏でるヒンズーの曲だった。
Slumdog Millionaire
http://www.imdb.com/title/tt1010048/
の冒頭に、ムスリム達がヒンズーの集落を集団で襲撃して、殴られた主人公の母親が絶命するところがあるが、インドの国内での二宗教の抗争は深刻きわまりない。
ところが、音楽を仲介にして、いわば思考を暫時停止することによって、The Manganiyar seductionの面々は、ただひとりのヒンズー音楽家を労り、28人が「カーン」という名前のムスリム達を引き連れて合衆国に入国し、「敵対する神の国」を旅行することの困難を笑い飛ばしてきた。
それが人間の側にとっては、どれほど重要なことであるか。
あるいは、開演の前に、モニとわしは劇場のバーでワインを飲んでいたが、
中年夫婦がくれば、わしはわしらのテーブルの席をさして「Help yourself! 」ともちろん言う。
夫婦が、ちょっと迷って、はにかんだように礼を言いながらテーブルの向かい側にかければ、わしらは、天気の話やインドの話をする。
劇場の美しいインド的装飾の話もします。
いままでも、ずっと見てきたように、神にとっては人間の思弁や叡知よりも、そういう無意味な親切や偽善と言われればひとたまりもないかもしれない思いやりのほうが、ずっと「こたえる」に違いない。
神が人間の愚かさによって混乱させられる一瞬なのだと思います。
単子的
March 26, 2010
ライプニッツがでっちあげた単子(モナド)に窓がないのは「違法でない範囲ならば人間の活動は自由であるべきである」という当時の上流階級の人間の考えにライプニッツが阿ったからである。おっさんは、おとろしいくらい賢いやつだったが本来の意味のモラルはかけらもないプロシア的人物だったからな。
大衆小説を書くようにして哲学を書いたひとです。
人間はあの頃から生きてゆくということの本質的な意味を見いだすのに塗炭の苦しみを味わうようになった。
「神様」という言語の構造が生み出した病気を治そうと志すようになってしまったからです。
スピノザが神様とまじめに対話できた最後の哲学者だった。
スピノザが死んだあとは、「神様がいてもいなくても、どっちに仮定しても世界が成立する」という、ほぼやけくそみたいにえーかげんな世界を人間はつくりあげた。
神様が「いても」「いなくても」成立するならば、それは神様とは何の関係もない仮説じみた社会であるのはあたりまえで、だからニーチェは、論理的に完全な暴論を構築することができた。
気の毒にも「正しいこと」だけを信じれば人間の健全な繁栄が達成されると狂信したドイツ人たちは国が他国人に暴力的に制圧されるのを目撃されなければならなかった。
人間は自分に命令する内なる言葉の体系が「正しさ」を主張しだしたら顔を背けなければならぬ。
「正しさ」というものがいかに危険なものかわからない人間は言葉を使ってはいけないのだ。
ちょうど、爆弾に関する正確な知識をもたない人間は爆弾を見たら一目散に走って逃げるのがいちばん正しいのと事情はたいへん似ている、と思います。
無神論者の祈り
January 1, 2010
神を信じるということは愚かしさの証明でしかない。
無理ですよ、絶対、無理。
人間が編み出した「スーガク」という言葉は皮肉にも人間の理性の限界を開示してしまったが、神様は仮に存在するとすると、その「理性」の実体である語彙の外にあるわけで、
であれば存在しても存在しなくても論理的には同じである。
存在してもしなくても論理的に同じであるなら、それは『存在しないか、存在するとすれば存在しないよりも悪いか」でしかない。
だから存在しているわけはない、のです。
そーでなければ仮説として二流ではないか。
antonianさんは、「言葉を捨てよ、信じよ」というが、わっしは自己に対して言葉によって自己の存在を保証しているので、出来ないんです、そんなこと。
大脳捨てて、左の耳から右の耳の向こうの景色が見えることを売り物にして観光業をするわけにはいかんしな。
そーゆーわけで、わっしは神様を信じておらないが、っちゅうかもうちょっとちゃんというと、神様がいるのは「知って」おるがいないよりもっと悪いと考えていないことにしておる(そうすると論理的には閉じてくれるしな)が、困ったことには普段使っている言葉のほうでは神様を前提としておるよーだ。
だからクリスマスや新年というようなときになると、思いもかけず祈ってしまう。
なにを、って?
決まっているではないか。
モニが健康であることを祈る。
かーちゃんや、(シブシブだが)妹の幸福を祈る。
それからおもむろに、
友人の息災を祈るのです。
antonianが行き倒れにならないように。
シャチョーがオトーサンにならないように。
腕の中の自分の赤ちゃんの顔をうっとりと見つめる15歳のおかあさんが幸福になるように。
あるいは来年こそはアフリカに奇跡が起こってガキどもが死ななくなりますように。
自分には救えないいっさいのことを思って、祈るであろう。
そうして、わっしは一年の始まりをボロボロに論理が崩壊した不愉快なやりかたで始めることになる。
無神論者の祈りは、神様には聞こえない。
虚空に響くばかりでしょう。
ムダであるうえに、終始が一貫しておらない。
わっしは今年もたくさん泣くに違いない。
その100倍は笑うであろう。
ありとあらゆる友人どもの期待に反して、今年もわっしはへらへらと笑いながらすべての勝負に圧勝するに決まっておる。
なにしろ敗けたことなんかないからな。ははは、ゆってしまった。
(タッチウッド)
世界はもっと弱肉強食になって「ムダ」を切り捨ててゆくに違いない。
でも、そうして勝負に勝ったものたちはどこへ行くのだろう。
われわれはいったい何に「勝って」いるのか?
今日会った欧州人は「責任のある者は頭が悪い人間と話すべきではない」という。
簡単に言うと「バカが伝染る」からだそーだ(^^)
明晰、というのはなんと冷たい言葉であることか。
刻々と増えてゆくエチオピア人の赤ん坊の死者の数のカウンタを眺めながら
無神論者は、神を信じさえしないで、地面に座り込んで愚かにも泣くであろう。
なすすべもなく、ただ死にゆくアフリカのガキどもの隣に座りたいと願うだろう。
やがて彼は祈ることをすら拒むに違いない。
そうすると(論理的にゆって)言葉をちゃんと使えなくなってしまうが、それでも、泣くことは出来る。
だから無神論者は泣くであろう。
身も世もなく号泣するに違いない。
親に見捨てられた子供のように。
おおつごもり
December 31, 2009
「キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うなんて」というひとがいるが、そーゆーひとの「西洋」は空想の世界か日本でゆえば昭和初期くらいまでの時代の「西洋」なのでしょう。
そーゆー架空な「欧米」を信じていると曾野綾子になってしまうかも知れぬので注意しなくてはいかむ。
現代の「西洋」のクリスマスは日本でゆえばぴったり「お正月」です。
家族が一同に会して一年を振り返ってお互いの努力をねぎらい来る年の息災を願う。
そんでもって「新年」のほうが日本でのクリスマスに近いのね。
ヘンだのい。
日本のひとも60年代から80年代のような大騒ぎはしなくなったが、まだ名残がある。
若い男は一年貢ぎあげてクリスマスには乾坤一擲、媾合(まぐあい)の勝負に出る、という。
「婚活」という身も蓋もない索漠とした言葉や「東京いい店やれる店」というようなオソロシゲな名前の本がベストセラーになる日本人世界だけのことはあります。
今年も「おおつごもり」がやってきた。
男のひとびと。
きみには、どんな年でしたか。
クビにはならなかったか。
もう「ニコニコ動画」や「2ちゃんねる」のような奴隷世界の娯楽場に出入りしなくてすむようになりましたか。
奥さんの肩をちゃんと揉んであげましたか。
疲れているときでも家事を手伝ったか。
去年よりも少しでもきみのパートナーの社会的地位の向上に寄与しただろうか。
ベッドでも自分勝手なことをしないですんだかね。
女のひとびと。
男たちを傷つけないように別れの言葉を述べることが出来ましたか。
自分を繫いでいる鎖が何であるかしっかり考えたか。
旦那さんの肩を抱いて一緒に失敗を嘆いてあげられましたか。
カウチで並んで座って声を揃えて歌えましたか。
ちゃんと頬をあわせてスローダンスを踊った?
ダンスを忘れてはいかんからな。
かけがえのない微笑も。
ガキンチョのひとびと。
宿題は全部やったかね。
跳び箱を一段でも多く跳べるようになった?
天使の絵を今年は上手に描けるようになっただろうか。
世界へ冒険に出る準備は着々とすすんだか。
神様、
今年は少しは人間どものことをおもいだすことがありましたか。
もうそろそろ救済に乗り出してもいいころだと思ってくれただろうか。
今年は秒単位で死んでゆくアフリカのビンボガキどもを見殺しにしたことへのうまい言い訳を思いつきましたか。
戦場で無惨に死んだ若い兵士は、きっと今年もあなたを信じて死んだでしょう。
あなたの知恵は人間を遙かに凌駕するが、しかしそれは「冷たい知恵」なのではないだろうか。
暖かくない叡知をも叡知と呼びうるのでしょうか。
わっしには、とうとう(今年も)あなたのことがわからなかった。
おおつごもりには、わっしは酔っ払ってテラスに出て通りのあちこちから上がる花火を見ている。
ダウンタウンに行けば、ガキどもが通りに屯して、ネッキングをしておる。
男ガキや女ガキが蹴るマネをしたり抱き合ったりしてじゃれておる。
ときどきクルマで走り去って懸命につがってもおるのい。
ちゃんと避妊をしておればよいが、と、あの空中に張ったタイトロープの上を足下も見ずに走ってゆくような頃を思い出してわしは考える。
大人たちも酔っ払って大声で新年を祝う。
新年おめでとう。
今年はなんとか生き延びた。
ホームローンの支払いでひいひいゆったがな。
まことに予想外な給料の下がりかたであった。
来年は、きっと良い年でありますように。
ハッピー・ニュー・イヤー。
メイク・イット・ア・グッド・ワン
We really should.
愚者の栄光
October 19, 2009
「俊頼髄脳」という本は、読みたい、と思ったときに手元にあった試しがない、という点でガルシア・ロルカの詩集と似ている(^^)
意識をもつに至ってからの人間は地球といういまの生命体数の規模から言うと比較的狭い生態系にとって邪魔なだけではないかと思うが、そうやって考えていると、わしの頭は紫式部の弟・藤原惟規の、あの物語
http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080412
に向かってしまう。
人間にもし、万が一、「存在の栄光」というものがあるとすれば、それは「愚者の栄光」であるに違いない。
論理学が出来て修辞の問題として証明する前から「神」が人間の語彙の外にいるのは直観的に理解されていた。
簡単にいってしまえば、神が存在するとも存在しないとも、人間には判断することができない。
以前ここに来てくれたことがある人で言えばantonianさんやportulacaさんは、それゆえに神の存在を信じ、正に同じ理由によって、わっしは神を信じなかった。
科学をやっていればバカでも「神のようなもの」を信じるようになるが、それがカソリックの神様であっては困る。
それがどのような叡知からでたものであっても、強姦された娘の子宮で育くまれつつある生命を殺すことを許さない宗教に肯くわけにはいかない。
太陽が地球のまわりをまわっている、という、科学的な誤謬であるのみならず自然の世界において「主と従」を見ようとするような哲学を受け入れるわけにはいかないのです。
少しでも話しをしてみれば、antonianさんというひとが豊穣で寛容、しかも強靱な魂をもっていることは誰にでもわかる。だから日本人式に「カソリックでもいいじゃん」と微笑んで言いたいのはやまやまだが、そういうわけにはゆかないのです。
念のためにいっておくと、わっしはプロテスタントはカソリックよりも、もっと実感的に嫌いである。こっちは理屈ではなくて子供の時から理性よりも先に感覚が拒否している。
宗教でもっとも納得がいくのは原始仏教だが、「宗教」と呼ぶのはためらいがあるのです。
読めばきっと皆そう思うが、あれは真理を求めて一生を棒にふった桁外れに優秀な哲学者の絶望の表白である。
その絶望の言葉が人間的な暖かみに溢れている点で神秘的だが、しかし、そこから希望をくみ取ることは出来ない、という点では絶望は絶望である、というしかない。
そして「哲学」という体系は希望をゆいいつの前提としているのです。
わっしが現代のカソリック教会について最も疑いをもつに至ったのは「教会を信じても信じなくてもよい」というひとびとに出会ってからである。
そこには途方もない欺瞞がある。
キリスト教に興味をもったひとが必ず気がつくのはキリスト教というものが極めて大乗的な宗教であって、小乗的な要素はみな中近東の荒野に置いてきてしまっていることです。
天上の世界の王者に仕えるためには、ひとりでも多くの人間を天上の世界の王者へ眼を向けさせなければならない。
そこには「信仰の自由」などが分け入る余地はないはずである。
もともと、あらゆる宗教は個々人の「信仰の自由」などを認めては成り立つはずがない論理の上に立っている。
キリスト教を非難するひとびとのなかで特別に知能が劣る人間はよく「十字軍」や「インディオに対する破壊と殺戮」を持ち出すそうだが、後者はキリスト教とは何の関係もないピサロやコルテスのようなならず者の事績であるからどうでもよいとして、前者は宗教が宗教たりうるための必然であることは、先進国であったアラブ側の賢者にして勇者、当時の世界にあって、ただひとりの文明の擁護者であった宰相サラディン自身が理解していた。
宗教というものは、それ自体がアジアの思想なので「自由」と言う西洋的な概念をもともと許容するように出来ていない。わっしは宗教が「自由」という意匠を身につけ始めたのは単純に政治的な理由によっている、と思っています。
百歩譲って、仮に宗教というものが人間の生み出した最高の叡知であるとして、そこでは人間が住んでいる段階の知性を「奴隷的知性」としてしか定義できないのではないだろうか。
そこには宗教というものの皮肉があると思う。
すべての宗教に拠れば人間は神に較べて痴愚の存在に過ぎないが、人間が痴愚の存在であるとすれば宗教は哲学の一様態でしかありえない。
そうして、そうだとすれば信仰をもっても信仰をもたずともよいという現代の宗教は、戦争を引き起こし、現実にありとあらゆる非寛容の源泉となっているぶんだけ(人間が使う言語の地平に見えている範囲では)結局は悪魔が人間の知性に対して仕掛けた罠にとてもよく似ている、といわねばならない、と思います。
カソリック教会全体が悪魔が仕掛けたおおがかりな罠でない、と保証するためには大乗的な「信ぜよ、さらば救われん」という言葉が正しくなければならないが、そうなら、
教会への信仰は強制されるものでなければならないはずである。
antonian さん、portulacaさん、おふたりに出会ったときから、ときどきわっしはおふたりの神様のことを考えてみたが、(少なくともいまのところは)、これがわっしの考えのようです。
わっしは人間が愚かであるからこそ好きなのだと思う。
そうして「神様」が介在しなくなった、この現代の痴愚の世界が途方もなく好きなのです。
わっしは神様から授かった生命を2ヶ月(日本の数え方では3ヶ月)で殺して恬として恥じない女たちをわれわれの社会が持つに至ったことを誇りに思っています。
快楽だけのためにセックスをする現代人の習慣を、誇りに思う。
神様が永遠に照らして人間の生を一瞬と見なすとき、人間は人間の考えに照らしてみて須臾を永遠とみなした。
神様が人間の語彙の外側に立って真理を照応していたあいだじゅう、人間は誤謬のなかで苦しむことを学んでいたのだと思います。
人間は千年を経て愚者の栄光と孤独のなかで死ぬことを学んだ。
それこそが文明の意味なのではないでしょうか?






