bluewater

gulf3

イースターホリデーの、ひとの数が少ない通りを歩いて行くと、イースターエッグハントの子供たちの声が生け垣の向こうからきこえてくる。
テニスコートでボールを打ち合う音や笑い声がきこえる。
芝刈り機のエンジンの音や刈られた芝のにおいが夏のにおいの代表だとすれば、イースターホリデーは秋のはじまりの音で、毎年、イースターエッグハントのチビガキたちの声が聞こえると、また1年が経ったのだなあー、と思う。

きのうツイッタで会った70年代後半から80年代という、ちょうどぼくが生まれる直前の連合王国やアメリカで酷い人種差別にあった、というひとのことを考えていた。
連合王国はいわずと知れた階級社会で、日本のひとは階層という意味で「階級が違う」というが、平民、士族、華族とあって、その下に不可触賤民がいた戦前の日本社会と同じで、貧富や学歴にはよらず、社会制度として固定された「階級」が存在する国である。

あのひとはオカネモチで階級が違うから、というのは、だから戦後日本の平等社会が生み出した言葉の誤用で、ただ無軌道な人を「アウトロー」(「捕まっていない犯罪者」という意味です)と呼ぶ人がいる日本らしくて、案外、日本人が誇りにしていい謬りなのかもしれない、と思う。

小さな声でいうと階級社会にもいいことがまったくなくはない、とこの頃おもうが、
いまは恐竜化して意味を失いつつあるシステムとはいっても、やはり「階級」の存在は社会全体におおきなストレスを加えていて、毎年たいへんな数のイギリス人が「新天地」をめざして他国へ移住してしまうのは、イギリスという国のとんでもない天候のせいもあるが、やはり階級社会のせいだろう。

マーガレット・サッチャーは上流階級の人間が自分のアクセントを(もちろん何も言いはしないが)冷え切った冬の底のような気持ちでバカにしているのを知っていて(といって、そんなことを知らないイギリス人はいないが)懸命に発音矯正教室に通った。
それでもイギリス人同士にしかわからない、きわめて些細な、しかし歴然としたやりかたで侮蔑されるので、心底イギリス社会を憎んですごしてきた。

簡単に言えばイギリス社会のいっぺんつくったものは変えたがらない、そういう歪みが生み出した国国が、労働者階級の夢の実現をめざしたニュージーランドであり、もっと野放図なコントロールのない自由をめざしたオーストラリアであると考えることができる。
オーストラリアは、前にも書いたが、なにしろNed Kellyが国民的英雄であり、ユーレカの叛乱

http://en.wikipedia.org/wiki/Eureka_Rebellion

が国民の自由の背骨として記憶される国なのである。

大量の移民と並んで、階級社会がうみだした圧力は、お互いにお互いを、気でも違ったひとびとのように差別する習慣とお互いを労りあう心とを同時につくりだした。
イギリス人の他人に対するすぐれた想像力がなければ絶対に出来ない、魂の中心にささるような、あるいは、猫がねずみをいたぶるような意地悪や、まるで相手が自分自身であるかのような、これも魂にまで届くあますところのない気持ちの暖かさは、両方とも同じ淵源から出たものであると思う。

差別に苦しんだ、と述べていた日本のひとは、世界でも超一流のイギリス人の差別(^^;)にあって、さぞかし苦しんだだろう。
イギリス人の差別は、社会に長くとどまればとどまるほどわかってくるていのものである。
そしてイギリス人の心の底にある、ぞっとするほど冷たい利己心に触れると、いたたまれない気持ちになって国から逃げ出すしかなくなる。
「いまは違う」というひとがいるが、ぼくには、「よかったですね」という以外には挨拶がない。
そんなことは信じていないから。

イギリス社会における差別は暴力と並んでイギリスの文明の本質に根ざしている。

お互いにお互いを階級によって、貧富によって、階級とはまた別の生い立ちや育った環境によって、偏執狂的な精確さと微細さをもって差別するのだから、相手がもっとも嫌がることを知っていなければダメで、そう考えていけばわかると思うが、アジア人が相手ならば、十分にsubtleな共通の基盤がないので、頭の悪い人間はてっとりばやく人種を道具にする。

吉田健一の本には「草の家に住む者は石の家に住む者に刃向かってはならない、という言葉を知らないのか」と言われて若い吉田健一が悔し涙にくれるところが出てくるが、このイギリスじじいは、イギリス的意地悪の規範から外れているというべきで、そんなありきたりの格言をつかってあからさまに相手を侮蔑するような頭の単純さでは、自分が仲間はずれにされてしまうが、人種差別主義者というのは概して脳の容積が足らない人間が多いので、この程度の退屈な意地悪しか思いつかなかったのかもしれない。

人種差別は差別されたと感じるほうの定義によって100%差別であるかどうかが決まるというのがルールで、「黒人のひとはリズム感がいいね」と言われればアフリカン・アメリカンは差別的な発言であると感じる。言われたときに頭のなかで条件をいわば計算して、言った人間がたとえばアメリカに留学してきたばかりのそういう事柄についてナイーブな日本人留学生なら、笑って、ふざけて答える可能性があるが、アメリカで生まれて育ったコーカシアンがそう述べた場合には、少なくとも心のなかで警戒するだろう。
「プエルトリカンの女のひとは美人が多いな」というのも同じだし、アジアの女のひとはやさしい、と述べるのも、人種差別であるとみなされる。
少なくとも、そんな危ない人間をパーティに呼ぼうと考える人はいないに違いない。

アジア人が述べる自分達への人種差別などくだらない、コーカシアンがアフリカ人に対してもってきた「人種差別意識」はそういうこととは別のものだ、とデンゼル・ワシントンが演じるアフリカン・アメリカン青年が恋人の父親であるインド人に激怒する有名なシーンがミラ・ネアの映画のなかに出てくる。
アフリカンアメリカンにすれば、「これ以上くるな」と嫌がらせとともに述べられるアジア人への罵声は「差別」というようなものではなくて、差別というのは、(アフリカから遠いむかしに連れてこられて自分はアメリカ人でしかないのに)自分そのものが否定されて、この国に生きているのは許さない、と言われることである。
アジア人はアメリカにいてもアジア的な文化や思想をもって逃げ道をつくって暮らしているくせに、なにを言うんだ、おまえらは白人のふりをしたいだけじゃないか、という理屈をもっている。

ハイチではフランス人はハイチ人たちを文字通り家畜としてあつかった。
少しでも反抗的な態度をみせれば足や手を切り落としたし、気が向けば女たちを鎖につないで強姦した。
ブードゥーという不思議な宗教は「呪い」と「毒」がもつ比重がおおきいが、その理由は、このハイチの苛酷な、人間としてどころか、生物としてすら生きることそのものを許されない環境だった。

吉田健一(元首相麻生太郎の叔父さんです)はキングスコレッジを中退した理由をさまざまに述べているが、この繊細な魂をもった、あとに日本の首相になるエリート外交官の息子がなぜケンブリッジを去ることに決めたかは、活字にするわけにはいかなかっただろう。
書いたものを読んでいて田舎者まるだしの態度が原因なのが看てとれる、大半の欧州人の冷淡な相手の態度に腹を立てて「人種差別」と日本語で述べ立ててまわるのが好きな「作家」たちを、彼等よりもひどいものを見て、何を見たか、ひと言も述べないまま死んだ吉田健一が見たら片頬をゆがめて笑うだろうが、その吉田健一が死んでから、38年が経っている。

上で述べたツイッタで出会ったひとが連合王国の醜さに脅かされ辟易してから、30年が経っている。
ちょうどその頃は、日本という、まったく自分達とはルールが違う、休みもせずに、狂いでもしたように低賃金で働いて、会社の部品になりきることが幸福だとでも言うような、いままで欧州人たちが見たこともないような人間の集団が、自分達の仕事をどんどん奪って、あまつさえ会社の幹部たちには「お前達が遊んでばかりいるから日本人に市場をとられるんだ。もっと低い賃金で日本人なみに働け」と自分達が人間並みの生活をするのが悪いと言わんばかりの態度をとられ、あいつら日本人は自分達が人間でなくてもいいとおもってるのか、そんなゲームのルールがあってたまるものか、という怒りに駆られていた頃なので、考えてみると、実際に大変だったはずである。

この人がスーパーマーケットにいれてもらうことすら許してもらえなかったと述べている当時のアメリカ合衆国の地方都市、たとえばGMタウンのミシガンのフリントでは、1978年を転がり落ちる初めの年として、過労死を繰り返しながら、それでもまったく企業戦士であることをやめようとしない日本人の(アメリカ人にとっては)狂気としか見えない労働文化をもった日本の自動車企業に進出によって町が失業者であふれるようになり、フリーウエイをまたぐ橋の上から日本車を狙って狙撃しようとする人間があらわれるところまで日本人への憎悪が高まっていった。
どこかで日本の自動車や家電製品をハンマーで叩き壊して気勢を挙げるアメリカ人の群衆のフィルムを観たことがあると思う。

湾口を出た外洋の深い色の海のことを英語ではbluewaterという。
そこでは人間の人種はおろか、生物間の区別もあまりない。
海によく出るひとは知っているが、あの、どこまでもつづく、みっしりとした感じの莫大な水の表面の下の世界は、まったく容赦のない生存闘争の世界で、共食いなどは当たり前で、たとえば鰺を釣ってまごまごしていると、その鰺に鯖がくいつき、その鯖の半身をヒラマサが食いちぎってゆく。
釣り上げた鯛の体が、すでに何者かに食べられて半分しかないこともある。
それでもまだ半分しかない身体の力をふりしぼって鯛は餌に食いついている。

くだらないことを書くと、ヨットでbluewaterを行くひとは、猫を飼っていることが多いが、猫が水におちれば、ときに、あっというまに鮫がさらってゆくので、載せる前に、ヨットのなかの猫を水から拾いあげるためのラグに爪を立てて素早くヨットに戻る練習をさせておく(^^)

bluewaterへでると、自然のなかで人間の小ささを感じる、というようなことではなくて、人間という存在自体たいした意味はないのだ、と実感としてわかる。
小さい存在なりに宇宙を知覚していようが知覚していまいが、そういうことにも意味はなくて、宇宙にとって、ではなくて、何にとっても意味などありはしない。
ただ肉体があって感覚の集中したものとしての意識がある。
そうして宇宙のすべてのものは、「意味」を洗い流された「内側にある燦めく光」のような人間の感覚に照応している。

このブログには人種差別についての記事がいくつかある。
いまちょっと読んでみて、むかしは、こんなふうに考えていたのか、とびっくりして笑ってしまう。
人種について何事か考えたのは、どういうわけか日本語でだけで、なんだか日本語の文明には「人種」という言葉がべったり塗りつけられているのではないか、という気がする。

ツイッタでバジルさんに話しかけたように、(バジルさんは少し驚かれたようだが)アメリカやイギリスでは「人種」について話すひとは、ほぼ自動的に本人が人種差別主義者だとみなされる。
オーストラリアの都市でも、世紀が変わってからは、ほぼそれに準じている。
ニュージーランド人は、同じ英語人であるのに、行き方が正反対で、相変わらず、というよりも、ますますおおっぴらに人種ごとに一般化されそうなことについて議論しているが、多分、アメリカやイギリスが歩いた道を歩いてゆくと思う。

ぼくはもう(日本語でも)人種の話をしないだろう。
モーガン・フリーマンが、おおきな話題になった「60minutes」インタビューで述べた「人種差別をなくしたければ人種についての話をするな」という考えに立ってというよりも、めんどくさい、というか、話題としてダサイ、というか、そういう言葉使いでは酷いが、いろいろな日本の人に人種差別についてどう思うか聞かれて書いてみはしたものの、どうも自分では人種差別を「過去のもの」と抜き難く感じているからのように思える。
それを日本のひとが信じられなくても、もう、そういうことにも興味がなくなってしまった。

人間は7万年もとどまっていたガルフを出てbluewaterに乗り出したのだと思う。
湾内に較べれば遙かに危険に満ちて、どんな一瞬で破滅するかわからないbluewaterの上では、余計なことを考えているひまはない。
退屈で悪意しかもたないもののひまつぶしなどに、つきあっている時間はない。
なぜ人間がbluewaterに出ていかなければならなくなったかは、また、この次に説明したいと思います。

あんはっぴー

lotus35

日本ならば「私小説」というものがある。
構想もなにもなくてただ自分の生活と内心を書き綴ったような本が好きで、日本にいたときは、田舎の町の小さな古本屋で自費出版の「自分史」の本をワゴンのなかに漁ったりしたものだった。
重層性や「企みに満ちた」物語という娯楽は欧州では20世紀文学の特徴でやや古い。
読めば物語らしく知的神経が刺激されてコーフンするように出来ていて、物語が氾濫している、「物語中毒社会」と言えそうな、いまの西欧語世界でも面白いが、なぜそれを苦労して(外国語である)日本語で読まなければならないかわからない。
日本のひとは城郭の縄張りをするように言語を張り巡らせて物語を設計するのが苦手なようでもある。
自分の心を井戸の暗闇を見下ろすようにして、じっと見つめることのほうに、ずっと才能があるように見えます。

たいていは自分にとってだけ特別な自分の一生をただだらだらと書いてあるにすぎない「自分史」を読んでいると、しかし、人間の一生はそのひとひとりにとってはかけがえがないものなのがわかって素晴らしい。
皮肉ではない。

戦争がおわったあと国民党軍に投降して、そのあとの4年間を国民党の通信兵として戦った、などというひとは日本にはごろごろいる。
一生の最も活動的な時期といってもよい18歳からの10年間を破壊と死、同胞たちの集団強姦、容赦のない暴力をともなった悪意というもののなかで過ごして、ほとんど人間の道徳の彼岸に到達して菩薩に似た境地に達してしまっているひとが書いた「自分史」を読んでいると、人間の神などは人間の魂にもともと内蔵されている言語の機能にしかすぎないのではないかと思ったりする。

カウチに寝転がって、他人の人生の記録を読んでいると、人間が希望に燃えて生活したり、絶望にとらわれたりするのは50歳くらいまでであるようにみえる。
だいたい50歳をすぎると、(観念の)鏡に映った自分ではなく、手をのばした先にみえる自分の手のひらを見るような、ありのままの自分がみえてきて、その「自分」と一緒に過ごすしかないのだ、ということが悟達されるもののよーである。

このブログ記事で何度かふれたRay Kroc

http://en.wikipedia.org/wiki/Ray_Kroc

のように(マクドナルドの成功という意味だけではなく)実質的に52歳から一生を始めたようなひともいるが、数は少なくて、50歳をすぎると、いわば「自分に馴染んでゆく」というタイプの人が多い。
絶望や希望という概念が機能しなくなって、ただ起きてから寝るまでの一日を見つめる生活になってゆくもののようで、健全というか、余計なものがとれてしまうようだ。

このブログには老いたひとびとについての記事が多い

http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/11/夕暮れの交差点で/

ので、それに気づいた人が「お年寄りが好きなんですね」といって寄越すことがある。はなはだしきに至っては精いっぱいの、だが稚拙な悪意をこめて「ガメ・オベールは老人であるに違いない」とあちこちに書き込む人もいる(^^)

事実は逆で、わしは人間が老いるということが子供のときから怖くて仕方がなかった。
自分が、ではない。若い人間の頭の悪さで、「自分が老いる」ということはなんとなく起こらないような気がしていて、実を言うと頭でぼんやり理解しているだけで、いまのこの瞬間でも自分が老いるのだということはわかっていないようにみえる。
もっと小さい子供のときは、怖い、というよりも老いた肉体や相貌というものにかなり明瞭な嫌悪をもっていた。
もちろん礼儀正しくはしていたが、曾祖母などは、いちど春の芝生の上で開かれたパーティで、5歳のわしに向かって「ガメは年寄りが嫌なのね。なんて正直な子供でしょう。よいことを教えてあげるわ。わたしも、若いときは、自分のまわりの年寄りが薄気味悪くて大嫌いだった」と述べて、曾祖母の特徴であった闊達な感じのするやさしい声で笑った。
いくら隠そうとしても傍目には明かだったもののようである。

昨日、「もう死んでしまったものたちのやさしさ」と記事に書いたら「意味がわからなくて困った」というメールがきた。

理解しようと思って理屈を使って考えるから判るのが難しいと思うので、簡単に言って解剖台に横たわっている死体をみて、同じことを感じない人、というものを想像するのは難しい。
棺のなかでもよい。
死んでしまった人間の肉体というものは、多分、人間が一生のなかで目にするもののうちで、最も安らぎを感じさせる自然であると思う。

50歳をすぎた人間は理想的なスタート地点にいる。
人間の肉体はだいたい50年もつように設計されているので、設計上の耐用年数は実はもう過ぎている。
このあとはmRNAやtRNAがへまをこいたりコドンを写し間違えたりして、肉体の維持体制がだんだんデタラメになってくる。
いわば50歳くらいから人間は少しずつ確実に死んでゆく。

だから50歳で「希望をもつ」というのは実はほとんど論理的な矛盾である。
途中で必ず墜落するとわかっている飛行機に乗り込んで行く先のカリブ海に面したホリデースポットでの午後を夢見る人はいない。
よく目を開けて落ち着いて考えてみれば一生はとっくに過去のものになって肉体が残映のなかで生きているにすぎない。

だが絶望もない。
老いた人間が「絶望」する場合には単に精神的なディプレッションであることのほうが多いだろう。
希望が存在しないのに絶望だけが存在することはできない。
「死」に向かう人間は自己の消滅という究極の破滅に顔を向けているので絶望も希望も、もうそんなところにとどまっていては、人間として自己を維持するのが難しいものになってゆく。
現代小説全体の古典で20世紀に書かれたオデッセイアである
「Do Androids Dream of Electric Sheep?」のなかでレプリカントがつぶやく、
「なぜわれわれだけが若くて死ななければならないのか?」という疑問は、
実はむかしからの人間全体の疑問であると思う。

永遠の生命を求める、というよりは、人間は自分達が50年そこそこの年齢で人間でなくなってゆく現実になにものかの「悪意」を感じてきた。
あるいは悪意を感じることによって自分のヒューマニティを確認してきた。
なぜそれが「確認」でありえたかは、現代人の想像を遙かにこえた人間のかつての貧困をおもえば簡単で、キリスト教やイスラム教仏教が生まれた当時は実際に死は圧倒的大多数の人間にとっては苦しみからの救済だった。

死は人間が直面する最期の絶望だが、死んでしまった人間たちの肉体が懸命に語りかけてくるのは「恐れることはない」ということにつきている。
神など信じる必要はない。
天国も地獄もありはしない。
こわがらなくてもいい。
死を比喩や類例あるいは経験によって考えようとするから絶望なのであって、死は現実には言葉の外にある。
言葉であなたが説明しようとすればするほど誤解が深まるだけという、人間の語彙の外にあるものの特徴について考えてみるべきである。

こんなことをいうと大笑いされてしまうが、解剖学教室で肺胞に喫煙者特有の茶色の細滴のある40歳代の女のひとの生きるのをやめてしまった肉体を眺めていたら、雷鳴の明瞭さで「人間の子よ」と呼びかける声が聞こえたことがあった。
ぼくはそれを神の声だとはおもわない。
それは大きな圧倒的な光のなかから聞こえてきた声で、どんなにうまく工夫して使おうとしても、だいたい18歳から50歳までの30年しかない自分の「時間」が呼びかけてきた声だと思っている。
時間が意識とぴったり間尺があったときに聞こえる、
人間からも神からも遠く離れた、語彙の宇宙の遠くに閉じている囲繞からすらも離れたところにある、
ある明瞭な意志の声であったのだと思います。

荒っぽさの効用について

aigua

初期の艾未未 (Ai weiwei)の有名なパフォーマンスに漢王朝時代の壷を床に落として割ってみせる、というのがあった。
あるいは、Ai weiweiは、これもたいへん有名だが古美術価値ばりばりの新石器時代の壷に「コカコーラ」の商標を朱で描いてしまう。

http://dailyserving.com/2010/07/ai-weiwei-dropping-the-urn/

Alison KlaymanがつくったAi weiweiについての素晴らしいドキュメンタリ
「Never Sorry」のなかで、Ai weiwei自身がインタビューに答えて「両方とも本物だよ」と述べている。

Ai weiweiは殆どの作家がなんらかの集団に属している中国の芸術家のなかでは極めて異例な「一匹狼」で、いまに至るまでどこにも属していない。
いつもひとりで、自分の二本の足で歩いて、尾行してくる中国の公安警察の開けさせたクルマの窓にクビを突っ込んで「なぜ、おれを尾行する? ふざけるな。イヌ」と悪態をつく。
天安門の前にたって中指をつきたてた(中国政府にとっては)とんでもない写真を世界中に公開する。

http://nyogalleristny.files.wordpress.com/2012/06/aiweiwei_finger.jpg

中華人民共和国60周年の記念で鼻高々の政府の面子をたたきつぶすように、ビデオカメラの前に立って「Fuck you, motherland」と述べる。

夜中に嫌がらせにやってきた警官に銃の台尻でなぐられて重傷を負って入院開頭手術で生と死の境をさまよい、戻ってきてやったことが、この「Fuck you , motherland」だった。

初めてAi weiweiを見た人が不思議に思うのはAi weiweiには「自由への闘士」や「勇敢な政治運動家」というにおいが少しもないところであると思う。
大地の上に自分の2本の足で立っている自然の人が、政府という絡みつく根のように自分の行動や思考を妨げる組織を煩わしがって、怒っている。
ときどき、自分でも制御できない怒りが突然あらわれた龍のように空を割って暴れだす。

Ai weiweiは自分を逮捕しようとする警官に「やれるものならやってみろ、このクソ野郎」という。
ツイッタでは「通りで独裁に向かって投石するくらい愉快なアウトドアスポーツはない」と書く。

ある欧州人は「Ai weiweiのなかのフーリガン」という表現を使った。
Ai weiweiというひとのなかの「湧きだして奔出する怒り」を表現し得て妙であると思う。

中国の知識人たちはAi weiweiの感情にまかせたような政府へのすさまじい個人の怒りの表現をみて、「これまでの自分達のやりかたではダメなのだと悟った」とインタビューで述べている。中国人の芸術家や知識人は伝統的にもっと穏やかな口調で、しかし巧緻な皮肉で政府を揶揄する伝統を持っていたが、そんなやりかたではまったくダメだということをAi weiweiが教えてくれた、という。
「知性のきらめき」などは国家にとっては鳥の糞ほどの影響もない。

Ai weiweiは「戦う芸術家」などではない。
Ai weiweiはどんな場合でもAi weiwei以外のものであろうとしない。
驚くべきことに、全体主義の圧政下の中国社会のなかですら、Ai weiweiは一個の気儘な芸術家としてふるまってきた。
自由人として自分の足で歩き、でかける先々でやりたいことをやった。
相手が自分の自由を邪魔していると感じれば、それが14億人の国民を恐怖政治で戦かせ口を結ばせている政府に対してでもおおっぴらに中指を立てて怒った。
自分という人間は中国の部分などではなくて、一個の全体であって、国家はその厳たる事実をうけいれなくてはならない、ということをあますことなく表明してきた。

絵描きが絵を描くのは、そうしないではいられないからである。
音楽家が音楽を作るのも、そうしないでいると自分のなかの「音楽」が出口を失って魂が爆発しそうになるからだろう。

自由を間断なく必要とする人間が自由を規制しようとするものに対して(自分の予測をすら裏切って)牙を剥いて戦うのも、事情が少し似ている。
自由がなくなれば、自分の肉体は生き延びていても魂は死んでしまうと知っているからであると思う。

日本の伝統的な統治のやりかたは「国民に自由を求める気持ちを起こさせないようにする」ことだった。
外国人から見ると道徳的に無軌道にさえ見える中国人の「なりふりかまわぬ個人の自由への希求」を中国政府が日本式のやりかたでバネを外すようにして従順な無力のなかへ落とし込んでいかなかったのは、日本のひとが考えるよりもずっと意識的になされたことで、冒頓単于の昔から、北虜南倭、他民族に侵略され、あるときは、清王朝のように長期に渡って支配された経験から、「個人の内部の自由を保存する」のは中国文明の知恵であって、それこそが漢民族がいままで生き延びてきた力の源泉だった。
中国人は、自分達の「わがまま」こそが民族の生命だとよく知っている。
あれほど他人をロボットのように扱うのが好きだった毛沢東でさえ、中国人たちが時に死を賭してまで野放図を発揮することを自分達の民族の健康さのバロメーターとして喜んだ。
むかし、中国人の友達に「しかし日本人は個人を部品にするような社会をつくって成功したじゃないか」と述べたら、表情も変えずに「周辺民族というのは、そういうものなんだよ」と言うので驚いたことがあった。
中国人たちの考えでは人間の魂そのものが、「わがまま」でなくなってしまえば、民族は衰退に向かって一直線にすすむしかないものであるらしい。

落ち着いて本を読んでみると、毛沢東とAi weiweiにはフーリガン的な野放図さを爆発させるデーモンのようなものが内在するという点で重要な共通点があるが、当たり前でもあって、その強烈な野放図さと妨げるものが何もない欲望と自由の追究に中国人の原像がある。
中国人にとっては心を枉げてなんだか人間でないもののようになって黙々と規律に従うのは文明をもたない野蛮人であることと同義である。

中国人はだから日本のように教育や社会道徳、文化をとおして人間を従順に改造してゆく方法を選ばずにわがままな人間の集団を行政的に強圧支配する方法を選んだ。
その端的な結果のひとつが「天安門事件」で、年長のひとたちのなかには鄧小平があのとき、「3千万人程度の人間を殺したところで中国という国にとっては痛くも痒くもない」と述べたのをおぼえているひともいるだろう。

天安門は一方で無数の中国人たちを「覚醒」させた。
Ai weiweiが政治的メッセージに関心をもつようになったのもやはり天安門事件がきっかけだった。

日本は天安門事件のように自国民を血の海に沈めるようなことはしない国である。
子供達が学ぶ教科書を政府が綿密に検定し、小さいときから反抗心は入念に取り除いて、学校では「静かにしなさい」「よく考えてから意見を言いなさい」「他人の迷惑を考えなさい」と「まず全体を見て、それから自分の行動を(全体の理解が得られるように)決めなさい」と言われるもののようである。
そうやって社会の部品として学校から社会に出てくる頃には高いクオリティコントロールを経てつくられた「Made in Japan」の高品質な国民としての諸条件を満たしていることが期待される。

もしかすると訓詁的な科挙を意図的に積極的に活用して清朝の漢民族を骨抜きにし、反抗の気力を萎えさせていった故事が頭のどこかにあったのかもしれないが、日本は近代に至って「賢い」ことに国民を溺れさせる、という方法を思いついたように見える。
首相になった宮沢喜一は「あなたは大学はどちら?」というのが初対面の若い人への決まった挨拶で、帰ってくる大学の名前が「東京大学」か「京都大学」でない
場合には、すっ、とそっぽを向いて、それきり何も言わなかったという。
日本のひとは、そういう試験のスコアが疑似階級をつくる社会で、12歳と18歳の二度にわたって深くおおきく傷つき、「賢さ」への屈折した憧れを強めていった。

日本語インターネットの世界には子供じみた顕示欲に駆られた歴史研究者もどきのひとびとが特に多いようだが、ネット上の、いかにも「わし賢いし」のポーズをとる人たちがいちようにみおぼえた研究者口調を借りて、福島第一事故のあとでも「生物屋は、こう言うが」「物理屋には物理屋の考えがあって」というような大学言葉の口吻でいいあっているひとが、「現実の世界ではこのひとはどこの大学で教えているのだろう」と人に尋ねて見てみると、工業高校の出身であったりするのが判って、なんとも言えない気持ちになったりした。

中国人たちのように個人の自由への希求を万力で抑えつけるような社会がうまくいくのか、日本のひとたちのように、個人の魂を改造して、国家が必要とするような形に広義の教育を通じてQCを発達させてゆく方法がうまくいくのか、わしには判らない。
ただ自分がどちらかを選べと言われれば、暴れることに衆目が一致する「理」が明然としているだけ、中国のほうがまだいいかなあー、と思う。
でもそうそう銃の台尻で頭をどつかれたり、広場で暴れていたら戦車に取り囲まれて兵隊に撃たれまくったりするのもかなわないので、やっぱり「国」とかは、さっさとなくなってしまえばいいのになあ、と思う。

Ai weiweiはAlison Klaymanのドキュメンタリのなかで、「自由は奇妙なものだ。
自由がないときにはどうでもいいように思えるが、いったん自由を手にいれてしまうと、どうしても自由なしではいられなくなる」と述べている。

Ai weiweiが飼っている30匹の猫のなかで、ただ一匹だけが正面玄関のドアのノブに飛びついてドアを開ける方法を知っている。
その猫がドアをあけたあとを、他の猫たちがぞろぞろと抜けて歩いてゆく。
「でも、ドアを閉める方法は知らないのさ」というとき、きっと、Ai weiweiは自分のことを考えていたのだと思います。

(画像はカタロニアのド田舎の公衆水飲み場。チョー不味いす)

「欧米」という幻

fr59

日本が本来もっている文化的な肉体と取り入れてきた外からの文化の不整合は、ほとんど無意識のようにして、普通のひとは職業を通じて知っているものである。
編集の仕事をしている女のひとが、ガメ、連雀町で蕎麦おごってやるよ、というのでついていって話をしたことがある。
表紙のデザインについて話していたときに「表紙をほんとに洗練されたデザインにするのって良い考えじゃないのね」というので、不思議に思って理由を訊いたら「日本語がはいると、それだけでデザインが壊れるから」という。
「デザインの人間にとっては常識だと思う」

日本語が絵柄にはいると完璧なデザインは望めないので「強いデザイン」を考える、という話を聴きながら、そういうことを「織り込み済み」の条件として仕事をするのはたいへんだべな、と考えたのをおぼえている。

日本人は着物のほうが似合う、というと侮辱されたように感じるひとがいるのは知っている。
言っているほうのオタンコナスガイジンたちのほうも機微を察知して、このごろは、あまり言わなくなったのではないかと思う。
若い人には洋服が似合う日本のひともいて、特に細い薄いシルエットが好きな十代の女の子たちには、日本の女びとは返ってうらやまれたりする。

前にも書いたがサンフランシスコの住宅地の道を歩いていたら、目の前を着物を着た女のひとが歩いていて、その歩く姿の美しさにびっくりしてしまったことがあった。
東アフリカの民族衣装には背の高い女のひとが着ると、その場に居合わせたひとがどうしても抗いがたい力でみてしまう体(てい)のデザインのものがあって、黄色を基調としたロングドレスに身を包んだそのエチオピア生まれの女のひとを、モニもわしも、パーティにいたひとはみな、感動するような気持ちで見つめていたことがあったが、表面の形象の美しさを越えて、時間の向こうのずっと遠くからまっすぐにこちらに向かってやってくるような美しさで、着物にもやはり同じ力がある。

ポール・ジャクレーの浮世絵のおもしろさは、浮世絵という日本の伝統木版/絵画と欧州人の感受性と熱帯の習俗という遠く離れた3つのものをひとつの作品のなかにあわせたところにある。

http://www.artelino.com/articles/paul_jacoulet.asp

http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/05/ポール・ジャクレー%E3%80%80(paul-jacoulet/

いまの日本文化のおもしろさは、たとえばポール・ジャクレーの浮世絵のおもしろさに似ている。
若い頃のDavid Bowieのステージ衣装をデザインしたりした山本寛斎

http://www.carteblanche-x.com/blog/2011/06/04/the-musician-and-the-designer/

のように意識して歌舞伎などの伝統文化をとりいれたひともいるが、
Yohji Yamamotoのように、欧州と日本という遠く離れたふたつの文化が昇華された、しかし歴然とした形で顕れていることもある。

http://meetthedesigner.co.uk/2012/12/meet-the-relentless-yohji-yamamoto/

言葉の世界でも西脇順三郎などは、日本語の側に「かるみ」を与えることで、日本語と欧州語という何光年もと呼びたくなるくらい離れているふたつの言語の懸隔をうまく利用して根源的な「存在の寂しさ」を表現することに成功している。

マンガやアニメは言うまでもなく日本の奈良時代以来の長い絵巻物や他の物語性のある絵の伝統が戦後に日本に洪水のように流入したハリウッド映画と、ウォルト・ディズニー、より重要なのはいまの日本のテレビ番組表からは考えられない数のアメリカのテレビ番組が出会って形成されたものだが、そこに登場する目が異様におおきな登場人物というような「どこにも存在しない人間」は結局は具体的な形象を伴わざるをえないアニメのなかで遠くのものを結び合わせる、普遍性への自然な工夫なのだと思う。

芸術の世界ではうまくいったが、社会のほうではそれほど成功したとは言えなかった。
森鴎外などを読んでゆくとわかることは、欧州の社会システムや軍事、学問を「吸収」するために欧州へ派遣された日本の選良たちには一種の自分が「選ばれた者である」ということから来たらしい「軽薄さ」がつきまとっていることで、欧州人で森鴎外のある種類の体験談の半分以上が作り話、あるいは「言わない部分が途方もなくおおきい」影を切り取った話の数々であることに気づかないひとはいないだろう。
自分の見てきたことを正直に述べたのは夏目金之助漱石ただひとりで、あとはみなウソツキであると言ってもよいくらいであると思う。

この頭の働きはよいが物事の理解が深いところまで届かなかったという意味で軽薄な青年たちは、日本に歴史上珍しいほどの惨禍をもたらした。
「富国強兵」というような名前の下に輸入されたただひたすら機能化をめざして人間を抑圧する「欧州」は、欧州人の目からみると、どこにも存在しない欧州で、西洋が「輸入」した日本の文化でいえば、ニューヨークのマフィアがニンジャの暗殺手法を研究したような奇妙なものだった。

最も典型的なものでいえば「時間の感覚」があるだろう。
19世紀は英国の歴史のなかでも特殊な時代で、「時間厳守」ということが流行のようになっていた奇妙な時代だが、日本にはその「時間厳守」の流行が更に誇張された形で導入された。
プロイセンはなにしろ北ドイツ連邦をつくりはしたものの来年は周辺国にひねりつぶされるかもしれないという緊張のなかにあったので、「すべては国家のため」という準軍事体制をとらざるをえない特殊社会だったが、日本はこれを恒久的な欧州の一類型なのだと受け取って輸入してしまった。

日本のひととオペラや古典音楽の話をすると、すぐ「ワーグナー」「モーツアルト」と言われて苦笑を我慢する。
ちょうど「ビートルズは素晴らしいですね」という人にたくさん出会ったり、「アバってごぞんじですか?」と言われるのと感じは似ている。
ワーグナーもビートルズも、それは「良い」に決まっているが、あんまりそういう名前を褒めるのは、言葉が悪いが田舎染みているというか、なんとなくヘンで、理屈ではなく、「そういうことはしない」という範疇にはいっている。

あるいは戦争に完敗するとアメリカ人たちが占領した日本に乗り込んできて、アメリカ人たちの靴のつま先をなめるようにしてひれ伏している日本人達を、鞭で追い使う主人そのままの態度で日本をどんどん変更していったが、このときにやってきた「アメリカ民主主義」は、当のアメリカ本国にある「民主主義」とはまったく異なる、いわば「存在しないアメリカ民主主義」だったのはよく知られている。
観念的原理主義的な、経済的にはケインズ主義、社会的には当時萌芽のままアメリカでは大弾圧にあった「アメリカ型社会主義」とでも言うべき観念を信奉した若いひとびとが居場所を失って日本にやってきた例も多かった。

明治と1945年の二度にわたって、肉体のない観念だけの「西洋」が日本にやってきて、それまでの日本の文明的な肉体にあたる部分をぶちこわした結果はどうであったかというと、日本人は現実からまったく剥離した奇妙な世界、ひらたく言えば「絵に描いた餅」の世界を生きだしたように見える。
へ理屈、というのか、頭だけで考えて、机の上に観念を並べて、はっはっは、これでうまくいってしまった、とひとりごちる態度は、戦争中にニューギニア島のチェーンソーでも切れない熱帯の凶悪な蔓(家の庭にはブーゲンビリアがある一角があるが、美しく華やかで、しかも「清楚」という言葉を思い出させる花を咲かせるが、このあいだ庭師がはねかえった蔓に打たれてひどい怪我をした。だが、もちろんブーゲンビリアは熱帯の蔓植物としてはまったく獰猛ではないほうである)がからみあった200キロのジャングルに、現地にはいちどもいかないまま定規でまっすぐに直線をひいて、1週間で行ける、と命令した日本陸軍参謀たちに似ている。

日本人全般に対して人間性というものとはかけ離れた、悪い冗談のような要求を日本の支配層が歴史を通じて繰り返すのは、「現実」というものから感覚が剥離してしまっているからで、なぜ剥離してしまうかと言えば「自分ではなにもしない」上に、現実を見に行くことすらしないからである。

そうして、彼らの怠惰と軽薄を権威付け正当化してきたのは常に「現実には存在しない西洋」だった。
これほど長く、これほど深刻に幻影に悩まされ、自分達の生活を破壊されてきた民族は世界史のなかに日本人のほかにはないが、その悪んだ手品のタネが西洋であることを発見して、ひとりのぶわっかたれな「西洋人」が、やりきれない気持ちになったことを、ここに誌しておこうと思います。

カレーライスの味

gd

クライストチャーチよりもオークランドにいることが多いのは、モニがオークランドのほうが好きであるというのが第一の理由で、モニがオークランドのほうが良いといえば第二の理由はあってもなくても同じだが、インド料理がクライストチャーチよりも遙かにおいしいという理由がある。
インド料理はカレーだけではないのはあたりまえだが、思い出してみると日本のひとと話す時にカレーは楽しい話題であって、なんとなくカレーの話がしたいと考えた。

郊外のジャクソンハイツというようなところへ行けば別だがマンハッタン島のなかには、あんまりおいしい店はない。
Lexington Aveのマレー・ヒルあたりに何軒か固まってあるが、MSGが多いのと味がアメリカ人向けにスパイスを減らしてあるのとで、あんまりおいしくない。
まして昼間は、バフェで、自分でカレーをみつくろってよそう方式なので、想像が付くというか凡庸な味です。下の写真のような感じのお皿をつくって食べることになる。

curry1

ニューヨークと東京のインド料理屋のシェフたちの悩みは、話してみると共通しているようで、「スパイスの違いがわかってもらえない」ということにあるよーでした。
いくら高価で新鮮なスパイスを使っても、よい反応が返ってこないし、安いスパイスでごまかしても文句が出ない。
レストランの主人はそうなればスパイスの原価を安いものに抑えようとするので自然カレーはどんどん不味くなってゆく。

インド人シェフ達からみると「東京もニューヨークもカレーの味がわかってくれないからつまらん」ということになるが、日本人からすると、インドのカレーだけがカレーではないので、自分達がアレンジしてきた「カレーライス」はすでに悠久の歴史を誇っているのよ、という言い分がありそーです。

アメリカでは実はカレーがいちばんおいしいのはミルピタス

http://gamayauber1001.wordpress.com/2009/01/27/milpitas-ミルピタス)/

のようなコンピュータ産業の工場やウエアハウスがたくさんある町で、インドのひとびとがごちゃまんと住んでいるので、下の写真のような無茶苦茶おいしいカレーが並んだタリの上にでっかいドサやロティあるいはチャパティがのって出てきてたった10ドルである。

curry3

イギリス海軍はなにしろ階級社会ばりばりの国(ちょっと信じがたいがいまでもそうです)(ほんとうに先進国なんだろうか)の海軍なので、水兵の食事などはかぎりなく豚の餌に近い食べ物で遠洋航海の終わりになると肉が腐るので、腐った肉を食べさせる工夫として、インド人もすなる、スパイスをぶちかけた「カレー」というものを発明して、ライスの上にぶちかけて食べさせることにした。
これがイギリス海軍のコピペで発祥した日本帝国海軍に受け継がれたのがカレーライスで、日本人らしい洗練がくわわって、海軍水兵の豚の餌から、仲間にうまいものを食べさせたい一心の海軍厨房人の努力が加わって英国海軍カレーよりとだいぶん違った遙かにうまいものを出したもののよーである。

歴史を調べてさかのぼると銀座「Tops」というレストランが嚆矢に見えるが、もしかすると神保町の高山書店があるビルのなかにある「ボンディ」のほうが早いのかもしれない、そのうちに「欧州風カレー」という、不思議なものが出来て、それは1960年代の終わりだが、だって欧州にカレーないじゃん、とふくれっつらをするのはお行儀が悪いというべきで、たとえば「ボンディ」の公式ページをみればちゃんと「欧州風ソースを使ったカレーなので欧風カレーと呼ぶ」と書いてある(^^)
欧州にあるような高級なカレー、という意味ではないのです。

日本のように広汎ではないがイタリアにもイタリア風カレーというものがちゃんと存在して、リゾット風のものです。(下の写真はフロレンスのチキンカレー)

curry2_1

自分の文化のなかでよそからやってきた食べ物をとりこもうとする努力の様式においてイタリア人と日本人は似ていると言えなくもない。

連合王国ではインド料理が国民食で、スコットランドやウエールズ、北アイルランドといったイングランドとはまるで共通点がない国々がまがりなりにも連合しているのは、ゆいいつの共通点としてカレーを食べるからだとゆわれている。
インド人がもたらした偉大な食文化が、偏狭なイギリス人をして心を開かしめているのだとゆってよいと思われる。
インド人に聞くとヨハネスブルグのほうがおいしいと言うが、それでもロンドンが二番目でオークランドが三番目くらいにインド料理はうまいという。

日本とは異なって、オークランドのカレーはだから、まったくのインドのカレーで、ロンドンのようにコンテンポラリー・インディアン
Exif_JPEG_PICTURE
はないが、普通のカレーはケララ、ムンバイ、…いろいろな地方のカレーが食べられる。
ランチで10ドル(750円)、夜で16ドルくらい。

日本にいるときには、特に初めの頃はCoCo壱番屋によくでかけた。
わしは日本の田舎が好きだったので、よくクルマで旅行に出たが、食べられるものがいまいちよく判らないのでCoCo壱番屋に、2時や3時という時間に行くと、ブラジル人のカップルであふれていて、カレーという食べ物の普遍性にカンドーしたりした。

1964年にS&Bカレーが「インド人もビックリ」

http://www.sbcurry.com/qa/history_2.html

の「特製ヱスビーカレー」を発売して、日本にライスカレーブームが訪れる。
日本語の文章を読んでいると、ライスカレーがいかに「家庭の幸福」と分かちがたく結びついている食べ物なのかがわかって、こういう食べ物は英語世界で言えばなんだろう?と考えてみるが、適当な食べ物が思いつかない。
じゃがいもがごろごろとはいっていて、家庭によって異なったらしい輪切りのニンジン(注意してみると初めの頃のライスカレーはニンジンが縦切りでなくて輪切りのものが多かったようだ)
前にブログ記事で書いたように実際に自分で作ってみると豚バラ肉がいちばんおいしいようだったが、日本ではカレー用という、多分チャックステーキをダイスに切ったものだと思うが、牛肉をいれたものが人気があるよーでした。
たまねぎをいれて、色が変わるまで炒めて、牛肉をいれて、また炒めて、ニンジンをいれて、ぐつぐつと煮て、ジャガイモをいれる。
ジャガイモが崩れて粘度が高くなるのが嫌なひとはジャガイモを別に水煮、あるいはコンソメで煮てルーと一緒にいれる。
日本のひとなら誰でも知っているチョー簡単な料理だが、ニュージーランドのように味覚が保守的なひとが多い国でも、日本の「インスタントカレー」は好きな人が多くて、ふつーのスーパーマーケットでどこでも売っている。
マンガにも小説にも映画にも家族が一緒にカレーライスを食べる光景は日本という国ではなんども繰り返しでてくる。
「カレーライス」という歌まである(^^)
https://www.youtube.com/watch?v=jrLRPXxTcCI

カレーライスといえども文化なので、国によって著しく異なる。
いつかわしの好きな日本語インターネット人がバターチキンについて書いているのを読んでいて、バターチキンはインド料理がインドからの移民とともにダイレクトにはいってきたイギリスやニュージーランド、オーストラリアというような国では、「初心者のカレー」というか、カレーの味がよくわからない人が注文するカレーなので、「バターチキン」を精確に定義しようと試みている文章を読んで、おおおお、と思った。
決して皮肉な気持ちではなくて、ひとつの文化から来たものがもうひとつの文化に取り込まれてゆく現場を目撃したような気持ちがしたからです。
余計なことを書くと、その文章を読んでからインド人の友達と会ったときにふと思いついて「バターチキンの定義ってなんだ?」と訊いたら、「きみたちイギリス人が食べられるカレーの総称だよ」と言って可笑しそうに笑っておった。
初めインドから来た移民がスパイスの味がわからないマヌケな味覚のイギリス人客への対応に困り抜いて「マヌケイギリス人」用に発明したのがバターチキンというメニューで、予想通り、というかベースはチキン・ティカ・マサラだそーでした。

オークランドではたとえばモシャムというフィジーから来たインド移民が経営するおおきなスーパーマーケットがある。フィジーはB.C.時代(紀元前という意味ではなくてフィジー人の隠語でBefore Coupという意味です)においてはインド人の南太平洋における貿易センターだったので、オーストラリアのおおきなインド系スーパーマーケットもフィジー系のものが多い。
フィジー系のスーパーで飽き足りない場合はもっと規模が小さい店が多いいろいろな地方の(それぞれの地方色がある)インド料理素材店へ行く。

現代の若い共稼ぎインド人夫婦に招かれて家に遊びに行ってみると、日本と同じ、というか、「Mother’s Recipe」シリーズで有名なDesai Brothers

http://www.mothersrecipe.com/InnerPages/Indian/Default.aspx

や、Parampara Foodのスパイスミックスを使って、それに鶏肉をいれて終わり、という日が多いようだ。
細かいことを言うと、たとえばギーはバタの代用品だから、という言葉が出てきて驚いたり、びっくりすることがたくさんあるが、そんなことを述べていると永遠につづく「うしなわれたときを求めて」のようなブログ記事になってしまうのでやめる。

書いているうちに飽きてしまって書けなくなってしまったが、カレー自体はインドのカレーにずっと近いのに豆腐やなんかの点で日本料理の影響が強いと本人たちが自認するマレーシアのカレーやシチューだと言うが誰が食べてもカレーなエチオピアのカレー、インド人たちが「インド風中華料理」と呼ぶだけで中国人たちが「こんなんが中華料理のわけないやん!」とぶんぶんぶんと首をふるインド風中華料理カレー、ついでに述べると、どっからどこまでも日本のカレーなのに名前はポルトギーズチキンである中華料理のカレー。それとは別にあって、上から照り焼きソースがかかっていたりする中華料理屋の「日式カレー」、そしてもちろんタイランドの洗練されたソースのカレー、カレーは世界中にあって、無限に近いバリエーションをもち、しかも定義がなんだかよくわからないところがオモロイ食べ物であると思う。

日本の友達とニューヨークの鮨屋に行くと、ほとんど例外なく「こんなの鮨とはゆわん!」と言って怒る。
ところがインドの友達は、みな、これ、うまいなと言いながら「日式カレー」を食べる。
狭量だというようなことではなくて、ものにこだわる、こだわりかたが異なるので、文化が違うのがよく見えてこれもオモロイ感じがする。
そんなことに理屈をつけてみるのはバカだが、記事そのものがバカ記事なので、バカバカバカにも理屈を述べると、インドというのは国そのものが巨大なdiversityの国であって、言語も違えば宗教も皮膚の色も異なって、ほしたらインド人ってなんやねんと他の国のひとがいいそうなものなのにインド人は厳然としてインド人です。
わしは自信をもっていうが、当のパキスタン人やインド人が絶対にそんなことは起こらないというのも知っていてもパキスタンとインドも遠からず(と言っても50年という単位だが)ひとつになるに決まっている。
インドを「インド」たらしめている力は西洋人には定義できない異様な求心力をもつ力であるからです。

「カレー」は、そういうインド文明がうみだした食べ物らしく、あちこちの国でカレーはガラムマサラのことだ、カレーと言うものは存在しないのだ、ともっともらしくいろいろなひとが述べている。
そういうしかつめらしい議論を聞き流しながら、インド人たちはアルゴビミックスやチキンティカマサラミックス、パラクパニルミックスと並べてへーきで「チキンカレーミックス」や、外国人たちが唱える正統カレー理論によればありえないはずの「ビーフビンダルー」まである(^^;)

むかし義理叔父がみせてくれた日本のドキュメンタリーに両親に虐待されて、何日もアパートメントのテラスに放置されて餓死した子供の話があった。
近所のひとたちが何度も電話したのに何もしなかった児童福祉相談所の所長が、「わたしたちとしても最善を尽くすべく議論を重ねたのですが、虐待されているという確かな証拠をみなさんが集めてくださらなかったので、手をだすわけにはいかなかった」と述べるインタビューで終わるそのドキュメンタリーで、子供が息をひきとる前に最後に言った言葉が「おなかがすいた。カレーがたべたい」だったというところで義理叔父とわしと従兄弟のいいとしこいた3人の男は、身も世もなく、おいおいと大声で泣いたものだった。

カレーは日本では人間の家庭の幸福とまっすぐにつながっている食べ物であるような印象はだいたいその頃にできあがって、日本でカレーを食べるたびに、それが蕎麦屋のカレーであれ、インド料理屋のチキン・ティカ・マサラであれ、駅のスタンドの不思議な味のするカツカレーであれ、いつも「日本の家庭」ということを考えた。
遠くから「カレーがたべたい」という、空腹にたえられなくなったちいさな子供の声が聞こえるような気がしたものでした。

いつかどこかで

fr105

Tamaki DriveはCBDの埠頭があるQuay Streetが名前を変えて、Judges Bay,Okahu Bay, 海辺の繁華街であるMission Bay, (いまグーグルの地図を見ると名前は載っていないが沿道で最も美しい)Kohimaramaの浜辺をめぐってSt. Heliers Bayに至る、海沿いの風景の美しい道です。
前にも書いたが、ところどころには戦争中に日本軍が南下して来たときに大慌てでつくったトーチカがある。
海の向こう側にはなだらかな山容が美しいランギトトが見えていて、たとえばコヒマラマの海辺にあるドイツ料理屋でポークソーセージに山盛りのマッシュドポテトとザワークラウトがついた皿を肴にビールを飲んで、そのあとも物足りなければ白ワインを何杯か飲んで、砂浜や遊歩道、あるいはボードウォークをふらふらと歩いて酔い覚ましをするにはとても良い道だと思う。

もちろんいまはGoogle Street Viewというものがあるのでグーグルの地図のなかに降りてみれば、どんな道なのかはすぐに判る。
地図の中のコヒマラマの浜辺で海の側を向いてみれば真向かいにおおきく広がっているのがランギトトで右側の遠く遙かに微かに見えているのはフェリーでオークランド中心市街と結ばれた、大きな住宅地とヴィンヤードがあるワイヒキ島です。

ボードウォークに沿ってベンチが並んでいる。
ベンチは(たいていは遺言による)寄付で贖われるので、
ベンチの背には寄贈したひとの名前をしるした小さな真鍮のプレートが付いている。
なかにはサカムラxxという日本の人の名前のものもあって、ベンチに腰掛けて、どんな一生を過ごしたひとだろうなあ、と考えてみたりする。
亡くなった年がニュージーランドがアジア人排斥運動のただなかにあった1996年なので、なおさら、いろいろなことを考える。

ベンチに座って、波打ち際を身体を前屈みにして懸命に凝視して、波が返し始めると、怖くてたまらないというような、歓喜をきわめたような、あの小さな子供の特有の叫び声をあげて全速力で走ってやってくる波から逃げてくる子供や、おもいおもいに水着をつけて、あるいはトップレスで、日光浴をしている女びとたち、広い肩を真っ赤に日焼けさせて、ビールの瓶を手に持って沖合をみつめている男たち、浜辺にいるひとびとを眺めているだけで1時間くらいはすぐに経ってしまう。

わしが子供の時と異なるのは、行き交う人々の話す言葉が英語だけではなくて、イタリア語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語と随分いろいろな言葉が増えたことで、まるで東欧の町みたいだとgrumpyなじーちゃんやばーちゃんたちが鼻を鳴らすロンドンほどではないが、多い日には半分以上の人が大陸欧州人であると感じられて、ニュージーランドも変わったよねーと考える。

世紀が変わって21世紀になったちょうどその頃から人間と国の関係は音を立てるようにおおきく変わった。
個人が生まれた国ではなくて自分が住みたい国に住むのは、特に決意が必要なようなおおげさなことではなくて、当たり前のことになった。
高校生活を終えると、あるいは大学生活を休憩して、アイスクリーム工場やマクドナルド、ファームハンドのパートタイム仕事でためたオカネで、30万円もあれば買える世界一周航空券を買って、ワーキングホリデービザやおおきい声ではいえないが就労ビザなしで、アジアから欧州へ、欧州からアメリカへ、アメリカからオーストラリアへ、少しづつ移動しながらいろいろな国や社会を見て、気に入った国があれば、そこにとどまって生活を始める。
日本のひとでもそういう若い人はたくさんいて、こうやって書いていて思い出すだけでも、メキシコのホテルのコンシエージュで、「よく理由がわからないけどメキシコが気にいっちゃったんで、観光旅行に来たままもう5年も住んでるんですよねー」と屈託なく笑っていた女のひとや、バリバリのハマッコで、日本人の女なら要するにsexually availableでちょろいよなと考えて言い寄ったアルバイト先のインド料理屋のマネージャーを横浜人らしい啖呵で怒鳴りつけて以来、当のマネージャーも含めたインド人店員全員の尊敬の対象になってしまい、マネージャーの真剣な求婚も笑いとばして3ヶ月が経ってニュージーランドからオーストラリアに去る頃には、「あの子、いなくなっちゃったんだよ」とインド人たちが目に涙を浮かべて教えてくれるほどだったYさん、何人も思い浮かぶ。

わし自身もだが、まわりを見渡してみても、パスポートを複数の国籍にまたがってもっているひとは普通で、むかしから愛国心がぜんぜんないので有名な連合王国人兼業者が最も多いが、ベルギー人でアメリカ旅券をもっていて、ありっ?ベルギーとアメリカってパスポート両方もてないんじゃなかったっけ?と気が付いて訊くと、唇に人差し指をあてて「シィイイー」と眉根を寄せてみせるベルギー人おばちゃんのようなひともいる(^^)

国のほうでもマジメにやらないと選んでもらえないのが判ったので、移民プログラムを工夫したり、法人税をゼロにしてみたり、綺麗なねーちゃんやハンサムなにーちゃんを大量に他国から特別ビザで移民させたりして、という最後のはウソだが、もう最近では「やれることはなんでもやってみる」必死さで、優秀な他国人に定着してもらおうとする。

義理叔父が初めてニュージーランドにやってきたのは1980年代だが、その頃はクレジットカードやトラベラーズチェックの日本語のサインをうけいれてもらえない店がたくさんあったという。
本物かどうか目がなれなくて判断が難しい、という理由だそうでした。
帰りがけに空港の売店で「ウォークマン」の電池を買ったら空港のセキュリティチェックで電池を捨てさせられた。
まだその当時は連合赤軍が起こしたダッカ事件やテルアビブ空港乱射事件の記憶が生々しい頃で、外国人の扱いになれていなかったニュージーランドでは日本人だけを別のグループにして、ほとんど容疑者扱いだった、という。
日本のパスポートは情けないほど信用がなくてグループツアーなら別だが大陸欧州でも日本のパスポートでひとりで旅行しているとあちこちの国で別室に連れて行かれることが多かったと他のおじちゃんたちも述べている。

義理叔父は空港で買ったんだけど、と抗議しかけたが、クライストチャーチ空港職員のあまりに横柄な態度にむっとして、もうどうでもいいや、と諦めかけたら後ろに立っていたアメリカ人にーちゃんが猛烈な勢いで怒り出して、「その電池は、このひとの所有物じゃないか!それを勝手に没収して捨てるなんてバカがあるか。いったいどんな規則があって、そんなことが出来るというんだ。バカか、おまえは」としまいには大声で怒鳴りだしたので、セキュリティゲートが騒然となった。

わしでも目の前でたとえば中国の人が中国パスポートだというだけで不当な扱いを受ければ同じように怒ると思うが、アメリカ青年の奮闘もむなしく結局電池は捨てられてしまった。

あるいはずっと後で、かーちゃんシスターと結婚したあと、サムナーの浜辺に近いハンバーガー屋で、こんにちわー、と入っていって、ブラックボードをみあげて注文しようと目をもどしたら、店の主人が黙って奥にはいっていったまま、いくら呼んでも戻ってこなかったそーである。

義理叔父の人種差別、あるいは日本人嫌いに対する反応は簡単で、「人種差別は、差別する方の問題でおれの問題じゃないから、おれの知ったこっちゃねーよ」というものです。もうひとつの義理叔父の人種差別についての意見の「白人の人種差別と言いたがる日本人は自分が人種差別主義者なんだよ。経験から言って人種差別の話をしたがる人間は必ず人種差別主義者だと思う。ガメは、ブログとかでそういうヘンタイみたいなバカなやつにいちいちマジメに応対しすぎる」と並んで、ぬわるほどと思う。

個人が住む国を選ぶことが普通になったことには、現代の個人が社会の側から世界を眺めることをせずに個人の側から世界を見て、社会を相対化する視点を獲得したことにも関係がある。もともとは欧州の思想である「愛国主義」は当の欧州では国権主義の衰退とともに流行らなくなって、とうとう国境まで「一応ここまでフランスだからね」という象徴としての線に変えてしまった。
わしガキの頃はまだもぎとるようにパスポートをひったくって威張りくさっていたフランス国境の役人のことを思い出すと、呆気にとられてしまう変化で、
人為的に作られたものは人為的に廃止できるのだ、というのは理屈の上ではあたりまえでも、いざ現実をみると、なあーんだ、たったこれだけのことなのか、と拍子ぬけしたような気持ちになったのをおぼえている。
フランスとイタリアの国境などは、なんだか面白いというか、橋を渡ると突然言語がフランス語からイタリア語にかわり、橋のフランス側ではバゲットにエメンタールとハムをはさんだサンドイッチを売っているのに、イタリア側ではいきなりパニーニに変わる。
「放射脳のバカどものせいで福島の風評被害が広がり、福島県経済が打撃を受けるのが判らないのか」というのを大阪のひとが言っていたりすると、一瞬、頭が混乱して、なにがどーなってるんだ、と考えるのは、日本では社会の側にたって物事をみるのが普通で個人の立場から世界を見る習慣がないことを、こちらが忘れてしまっているからだと思う。
自分があたかも政府や自治体の部分であるかのように頭のなかで想定してみると、日本の社会で行われる理解しがたい議論の殆どは理解できるようになるもののよーでした。

イギリス人、ロシア人、日本人、というような「レッテル」を自分の魂から剥がして、ぼんやりと浜辺に立って海をみていると、自分が向かい合っている世界の向こう側から「自然」としての世界が立ち上がってくる。
人間がつくったルールよりも自然に内在するルールのほうが遙かに普遍的で強力であることが実感される。
同じ人間である仲間にロシア人であればロシア語で、フランス人とはフランス語で話しかけて、なにを言ってるんだか判らないイルカたちとは、手をふったり甲板の上で跳びはねてみせたりして意思の疎通を試みる(^^)

うまく言えないが、自分がひとりで地面の上にたっていて、どんな場所へも自分の意志ででかけて、どんなことも自分とだけ相談して決める「自分が、一個の閉じた全体である」感覚は自分が人間であるという感覚の基礎であると思う。
日本国国民であったり、トーダイ人であったり、ましてやソニーの課長さんが自分なのではレゴのブロック一個にしか過ぎなくて、自分というブロックが全体のブロックにぴたっと合うのが達成感の源では、いくらなんでも「自分」というものが気の毒であると思う。

夏になると、インド人たちは大家族で浜辺にやってきて、まるで家庭バッフェと名前をつけたくなるような、ダル、チャナ、アルゴビ、さまざまなカレーをひろげて、ロティをちぎり、バジやサモサも片手に、芝にひろげたおおきな布の敷物の上でラジオもつけて、ボリウッドの音楽をかけて、子供たちはふざけて踊ったりしている。
ポリネシア人たちも、タロや豚のグリルを食べながら、おおぜいで寛いでいる。

アフリカの小さな村を7万年前に出て、「緑のハイウエイ」をたどって世界中に拡散していった人間は、いままた世界中の街角で邂逅している。
人間の魂が不滅で、肉体だけを取り替えながら意識の奥底の冥海で記憶を保持しつづけているという信仰がほんとうなら、「長いあいだあわないうちに、ぼくはすいぶん白くなってしまったし、きみはずいぶん黒くなっちゃったんだね」と魂同士が呼び合って、可笑しがっていることだろう。
最新のDNA解析の結果が「人種」という概念を科学的には意味のない概念として否定しさった、もっと簡単に述べれば「人種」などというものは種のレベルでは存在しないのだと証明してみせたことには未来から振り返ったときには、いま考えられているよりもずっと大きな意味を人間の文明にとってもたらすことになると思う。

コーナーをまわって、肩と肩がぶつかって、うひゃあ、すまんすまん、と言いながら相手が道路に取り落とした紙袋からこぼれた品物を拾って渡しながら、このひとはアフリカ人だが、どっかで見たことがあるひとみたいだ、なんだか懐かしい感じがする、とじっと相手の目をみつめる金髪のにーちゃんがいる。
知らないひとなのに、いきなり私の目をじっとみつめるなんて、なんて失礼なパツキンにーちゃんだろう、と考えながら、でも初対面なのに、なんだか会えなかったら途方にくれてしまったかもしれないような不思議な感じがするのはなぜだろう、と訝るアフリカ人の女びとがいる。
もういちど、どこかででくわせば、ふたりはきっと一緒に夕飯を食べにいくだろう。
やがて週末のカウチで、アフリカ人のねーちゃんは欧州人のにーちゃんの太腿の上に褐色の足を載せて、美しく伸びた腕をカウチの背にくつろがせて、やさしい声で朝まで語り明かすだろう。
7万年の時空を越えて魂たちが呼び合う声が、またお互いに聞こえるようになった。
もう会えないと思ってたよ、と、世界中の町角で、肌の色が違い、骨格が違い、母親が話す言語も違うひとびとの魂が、ふたたびめぐりあえる時代にもどってきたのだと思います。

(いえーい!)

アナバシス

lc8

文字は自転車の補助輪のようなものではないかと思うことがある。
ホメロスのイリアスやオデュッセイアは文字によらず暗誦されて世代から世代へと伝えられた。
日本でも古事記は稗田阿礼の口承を筆録したという。
平家物語は、いまで言えばロックンロールのライブショーのようにして琵琶語りの法師たちが平曲を述べた。

前にも書いたが母語でない言葉の体系を頭のなかにつくる第一歩は詩をまるごと憶えてしまうのがいちばんよい。
英語人もいわばそうやって良い英語を学習して内なる英語を形成したのだとも言えるからで一般的とは言えないかも知れないが、それでもT.S.EliotやDylan Thomasの詩をまるまるおぼえているくらいは普通のことで、シェイクスピアの気に入った戯曲を暗誦(そら)でいえる友達も大勢存在する。
自分の日本語でいえば西脇順三郎岩田宏や岡田隆彦、田村隆一、鮎川信夫というひとたちの詩を暗記した結果であって、ブログ記事をさかのぼっていくとそっくりの言葉の調子がたくさんあって読んでいて恥ずかしい感じがする。

日本語は同音異義語がたくさんあって、実業界において性交してしまったり、トーダイを出て賤民だと思い込んでしまったりする、音の機能が退化した不思議な言語だが、それでも言語は言語であって、音がすべての思想を支えている。

文字を補助輪であると述べたのは、たとえば論文を活字で読むという行為は実は筆談で会話するのと本質的に変わらない行為だと言いたかった。
マンガという表現の形式がアニメに較べると遙かに西洋人にとっては受容が難しいのは自分を観察していて西洋人は「絵を見て」それから「吹き出しの文字を読む」からであると思う。いっぽう、同じ大脳の持ち主であるのに日本語モードに切り替わって大庭亀夫でいるあいだは絵と吹き出しを同時に見て了解している。
このあいだ西洋語と日本語・中国語では使っている大脳の部位が異なるというのは実は謬りで実際には同じ部位がスパークしているにすぎないと書いている記事を読んでいたが、信じるのが難しいと感じた。
器質的に起きていることが同じならば、不可視の処理の過程で異なるプロセスがあるのではないかと思う。

日本語はおおすぎる同音異義語のせいで、語彙が増えるにつれて、音声化されている語彙を花火のように脳裏に視覚化して思い浮かべないと相手の言っていることを理解できないことがあるように思われる。
これは何を反映しているかというと、日本人がもともと生得的に形成した和語とより複雑な観念を形成するにあたって膨大な量をとりいれた漢語のあいだに通常の言語では見られないおおきな断絶があることを映している。
無論、同音異義語が途方もない数であるのと同根であると思う。

日本語を使うことの恐ろしさは言語のなかに実体や現実の感触をまったく伴わない語彙が大量に存在していることで、日本語を使うということは特に現実から剥離した観念の迷宮をさまよい歩くことと同義になりうる。
身近で簡単な例を挙げると「ご飯」と「ライス」の区別を外国人にちゃんと納得させるのは不可能な作業であると思う。
いちど築地の定食屋で注文を取りに来た、後で判明したところによると素晴らしい英語を話す若い女の店員が、ふたり連れの客がアジフライとハンバーグを注文したのに
アジフライのご飯はどうしますか?ハンバーグのライスはおつけしますか?と訊いていて、横で聞いていた大庭亀夫の目を輝かせた。
なんというクールさであろうと考えた。
アジフライの盆にのってくるご飯とハンバーグのライスでは炊き方が違うわけではないだろう。日本のひとは言葉の歴史的コンテキストを無意識的に選択して臨機に呼び方を変えている。
まったく同じsteamed rice(ほんとうは水で煮たライスでも英語人は米に関しては感覚が粗野なのでそう呼ぶ)を、ご飯と呼びライスと呼んで、そのふたつはまったく同じものでありながら、ふたつのまったく異なる食べ物である。

軽井沢の夕方、蝉がないている森のなかに出したテーブルを囲んで件のトーダイおじさんたちがビールを飲みながら、ライスカレーとカレーライスの違いについて延々と議論している。
カレー&ライスも違うからな、とひとりのおじさんが厳粛な顔をして述べる。
カレー&ライスはカレー&ナンになりうるがカレーライスはカレーナンに変化できやしない。ライスカレーに至ってはもうカレーがご飯の上にかかってやり直しが利かなくなっている。
もうひとりのおじさんがカレーライスはご飯ではなくてライスにカレーが寄り添っているものね、と相槌を打っている。でもあれもカレーロティやカレーナンというわけにはいかないのさ。

リコリシュという西洋世界ではチョーありふれたお菓子(liquorice)を示す言葉は、ずっと前に記事 「昆布石鹸の味」

http://gamayauber1001.wordpress.com/2012/11/23/昆布石鹸の味/

に書いたが、日本語に氾濫するカタカナ語の素性を、というべきか、形成の過程を少しうかがわせてくれる言葉で、向田邦子という人が生きた70年代から40年が経ったいま、ようやく語彙が実体を微かにもちつつある。
実体と言っても、それは言葉によって解説された実体であって、ひとちぎり噛みとると口のなかいっぱいに子供時代がひろがるような、あのなんとも言えない落ち着いた気分にさせてくれる味が日本語に翻訳されたわけではなさそうである。
逆の場合を述べると、英語で解説された日本料理のメニューほど不味そうな食べ物の表現はない。
「boiled soy beans」から塩水でゆであがった「枝豆」を想像するのは難しいし、「bonito flake」から、あえやかな、湯気にさえゆっくりと身もだえする削り節を想像するのは熟練した悪魔でも無理だろう。もっと簡単なもので言っても鮨のトロが「fatty tuna 」では口に含んでからでもトイレに走って行って吐き出したくなってしまう。

「現人神」(あらひとがみ)という言葉は実は戦前の日本人が天皇が神などではなくてただの貧弱な体格の近眼の人間の男性にしかすぎないことをよく知っていたことを顕している。「神様」でないことを知っていたので、わざわざ観念だけを表現して現実が背後に感じられない「アラヒトガミ」という語彙に固執したのだと思われる。
一方で、日本人がアラヒトガミの英語訳であるliving godを崇拝していると教わった戦前のアメリカ人たちは日本人をなんという未開な人間の集団だろうと鼻で嘲笑う気持ちをもった。
戦後おおく行われた真珠湾奇襲を許した責任を問う数々のインタビューでは
「しかし、きみは予測できたというが、どうしてliving godみたいなばかげたものを崇拝する未開な人間たちが文明の産物である機械を操ってハワイまで攻めてくると予想できる?」
出来るわけがないではないか、と述べて憮然とするひとが多かった。
日本人が天皇という神を信仰していたのではなくて天皇が神であると擬すことによって「悲壮」を演出した共同体の観念を信仰していたのだということは「アラヒトガミ」という日本語が介在しなければ到底思いもよらないことだった。

書割建築あるいは看板建築と呼ばれる建物が日本にはあって、いまでは殆ど残っていないが神保町から須田町までの一帯にはまだいくつか残っている。

http://darumamuseumgallery.blogspot.co.nz/2010/12/kanban-kenchiku.html

モルタルの安普請の建物の正面に建物自体の正面よりもおおきな板状の壁をつけて、そこにペンキで西洋風の煉瓦建築やなんかの建物をペンキで描いたのがもともとの標準的な姿で、そうやって「立派な建物のつもりになったモルタル建築」がずらっと並んでいたという神保町界隈の町並みは壮観だっただろうと想像する。
こういうことは、もちろんどこの国にもあって、カリフォルニアのペブルビーチというゴルフクラブで有名なリゾートは「classy」で「posh」な家が並んでいるので有名だと言う事になっているが、現実の建物は欧州人の目からみるとハリウッド映画の舞台装置のように安手でペラペラな感じの建築で、子供のときに初めてみたときには、「なんじゃ、こりゃ」とふきだしてかーちゃんに怒られたりした。

しかし、書割建築は戦前日本人の西洋的概念に対する暗喩をなしていて面白いと感じる。
輪郭をなぞって、こんな形だろうとやや粗描に近い観念をつくって、それが頭のなかでまとまると、そのまま「現実」ということになって西洋人が作った概念は大学を通じて社会のなかに拡散されていった。

自由といい民主主義といい、日本がアジアでは嚆矢であって、そのことを疑うひとはいない。
知り合いの中国人たちや半島人が羨望のまなざしで語るのは日本の「自由であった時間の長さ」であり「民主主義を採用していた時間の長さ」で、自分達がいま飛び込んだばかりの世界が日本ではすでに歴史性を帯びているという事実である。

ところが日本では十分な長さの歴史をもった、正にそれが理由で、もうひとびとは自分達がまるのみにして信じてきた「自由」「個人主義」という観念に身尺にあわない空疎な部分があるのに気づいてしまっている。
学校の教室の壁にプロジェクタで「これがみなさんが住んでいる建物です」と言って映し出されているコンクリート製の快適で楽しげな生活の容れものとしてのアパートメントが、ほんとうは同じコンクリートではあっても、よく見ると刑務所なのではないかと気づきはじめている。
為政者や為政者と同じ洞窟からやってきた知識人たちやマスメディア人が述べているのは自分達に都合が良いようにすりかえたオリジナルとよく似た空疎な観念で、その空疎さを利用して自分達に過酷な現実を納得させようとしているのではないかと強く疑いはじめている。

深い井戸をみおろすように、という。
まわりをきょろきょろと見渡して、なにが可笑しいかほんとうは判らないのに、おおきな声でわっはっはと笑ってみせるような「社会の部分としての自分」であることをやめて、自分の心をまっすぐにみおろしてみれば、「自分にとっての自由とはなにか」というようなことには、どんな人間にとっても「微かで見えにくい影」として見えてくるものであると思う。
もう投げ与えられた観念を拾い集めてはツギハギして西洋風ではあるけれども似合わなくて滑稽な服を着るのはやめて、自分の魂が発する「聴き取りにくい声」に懸命に耳をすませて、「自分にとっての世界」にでかけてゆくときなのだと思う。

もういちど自分の一生を生きなおす、というわけにはいかないのだから。

(画像は前にブログ記事に書いた「ジョン王」の家に至るモニとわしの散歩道。夏の夜、この静かな道をたどっていってジョン王と一緒にワインを飲むのは夏の重要な楽しみです)

Le Penseur

che_pierre2

ロビーのコーヒーテーブルに投げ出すようにイーディッシュ語の新聞が置かれている、あなたが住んでいるアパートの館内の匂いを思い出す。
ヴァニラのような、それでいて、もっと透明度が高いような不思議なにおいだった。
ニューヨーク人が「ブラウンストーン」と呼ぶ、名前そのままの色の煉瓦をつみあげてつくった、どんな映画にどれほど脈絡がないタイミングで映し出されても一瞬でその場所がマンハッタンの一角だと判る建物の4階にあなたは住んでいて、ぼくは金曜日の深夜のバカ騒ぎや女の子たちの髪の毛をおろすやさしい仕草、すごんではみせるくせにいざとなるとてんで意気地のない不良たち、というようなものにすっかり飽きてしまうと、フリークライミングの次の手がかりの岩の突端を探すようにして、あなたの部屋を訪問したものだった。

どの壁にも天井まで届く本棚がつくりつけてあるのに、それでも収めきれない本が籐の籠やカウチの隅やコーヒーデーブルにまで積み上げられている部屋の隅の、小さな机の前に座って、あなたは水晶球をのぞきこむようにして、この世界をのぞきこんで暮らしていたのだと思う。

いま考えてみるとぼくは余程運がよくて、あれほど忙しい人だったあなたが、ぼくが電話をしたときだけは、いつもヒマを持て余していて、思い出してみても5回のうち4回は「手があいている」ときだったと思う。
散らかっているときには、肘でそこいらじゅうの政治論文をおしのけてマグをのせる場所をつくると部屋でベルギーの味がおもたいビールを飲みながら、あなたはX線カメラの無慈悲さで、最近出会ったひとの誰彼の知性の形を的確に描き出して冷たくこきおろす。
日本語なので平気で書いてしまうと、ぼくはあなたの皮肉に満ちて精確な描写に大笑いしながら、人間の数倍の知能をもった神の眷属が謬ってこの世界に生まれついたら、誰も自分を理解できず、理解したいと願う他人もあらわれない日常に苛立って、こういう口調を身につけるのではないか、と思ったことがよくあった。
もう、あの頃には、すでに、あなたはこの世界の淵の深みから天の高みまですっかり読み通して、倦きてしまっていたのかもしれません。

絶望も知性の光によって明然とした姿になれば明るい感じがするように見えてしまう、と言えばいいのか、「技術的なブレークスルーは物質世界においてだけではなくて、予測しなかった方法で、この世界をまるごと救済すると思う」というぼくの稚い意見に対して、すべてのドアは結局はどこにも通じていないのだ、ということを念入りに証明してみせながら、反駁して、希望というものは叡知がないものにしか宿らないもののよーだな、ガメ、と言って笑ったりした。
自分が徹底的に反論されて粉微塵に(あなたによれば)「甘い」希望を打ち砕かれているのに、そういうときですら、あなたの意見には「冷たさ」というものが微塵も感じられなくて、ぼくはその時に真の知性には「匿しようのない暖かさ」という明瞭な刻印があるのだと学んだ。

お腹がすくと、7thアベニューのベス・イスラエルの近くのバーベキューレストランに歩いていって、外のテーブルで、アメリカ式に紫色のクームラとスペアリブをほっぺにまで盛大にソースをくっつけて食べた。
シラズを飲み過ぎて、そのままバー・クローリングになってしまうこともあった。

人間の知性の大半は、ほぼ、「なにもしない」ための言い訳に使われる。
ものを究明するための組織だった方法論をもたない場合は特にそうで、これはこうで、きっと本質的にはこういうことなのだな、と観想するひとというのはたいていの場合無為のひとである。
無為のひと、というよりも簡単に「なまけもの」と言った方が良いのかもしれません。
不活発な知性にはだいたいに分けて2つの型があって、ひとつは、念入りに検討しても誰にもケチがつけられないように思われるかわりに、乾涸らびて、そこからは何もうまれない「正しいこと」を後生大事にためこんで、これはありがたいアリストテレス様のお言葉、これはアインシュタイン様が自信をもって述べておられた仮説、と、どの本の何ページの何行目にそれが書いてあるかまで涙ぐましく書きとめて、そこから少しでも外れた意見をみようものなら大騒ぎで異端の出現を騒ぎ立てるタイプの知性であり、もう片方は、遠くにあがる核爆発のキノコ雲を窓の向こうに眺めて、ああ、あれはトールボーイ似の初期型だな、そうすると中国の攻撃ではないはずだ、とひとりごちて、そのまま読みかけの本に目を戻してしまう型である。
どちらのタイプの知性も、子供を抱えた母親が通りに飛び出して、「たいへんだ、逃げないと私の子供が死んでしまう!」と叫ぶ声に窓を開けて、いままでに放射性物質で死んだと確証のある例はないから危険な事態とは限らないこと、そんなに大声で慌てふためいては子供にストレスがくわわって返って子供の健康に悪いこと、自分がいままで図書館で積み重ねてきた知識によればそんなに危ないとは思われないこと、を親切にも列挙して、お願いだから、無知をまるだしにして大声で泣き叫ぶようなみっともないことはやめて部屋に戻って静かにしてもらえませんか、と冷静に述べて、やや顔をしかめながら机に戻るだろう。

ちょうど食べ物を過剰に摂取すると人間の体はなにはさておき脂肪としてためこんでしまうのに似ている。
肥満で悩むひとにとっては皮肉なことに、筋肉運動の負荷がない状況下で人間の体物質をエネルギーに変えるときには、今度は脂肪は手つかずで残しておいて、まず「余剰な」筋肉からエネルギーにまわすほど人間の体の構造は「どれだけ脂肪をためこめるか」を優先度の一番目において設計されている。

「無為」は体脂肪に似ている。
意識しないで「知的」生活をおくれば、鬱病を起こして無為の状態を保存しようとすることがあるほど、人間の精神は「無為」を保存することに熱心である。
ものごとの本質を見極めようとする本人にとっては真剣な努力が、実際には、本人の意識からは見えない所で、潜在意識が画策した、何も行動を起こしたくなかったことへの言い訳にすぎないということは、よく知られているとおり、いくらでも例がある。

「考える」ということが一種の病であることを知っていたアテネ人たちは、議論以外の認識の深まり方を軽蔑した。
ローマ人に至っては、そのアテネ人を含むギリシャ語世界全体を「人間を怠惰にみちびく言葉」の体系であるとして、ギリシャ人の巧緻な修辞を娼婦が身に纏う宝飾品のように愛でて大切にするべきことを自分達の息子に要求した。
強固で鋭利な光をたたえた剣や実用の形にデザインされたヘルメットのようなものとは峻別されるべきことを教えたのでした。

友達から来た手紙のなかにあった「フクシマに直面した日本人たちのようにパニックのあまり防衛機制が怪物化して、自分の本能的な感覚すら知覚できなくなったら、われわれの社会は結局最終的な破滅に向かうしかなくなってしまう」という、(経済に関連して述べられた)一文を眺めながら、人間の知性とはなにか、どのような評価の仕方があるだろうか、ということを考える。
多分、食物獲得や外敵に打ち勝つツールとしてよりも76000年前のトバ火山の破局的な噴火(Toba supereruption)を生き延びる過程で形成され始めただろう「現実から乖離した言葉を伝って物事の真の姿」を見ようとする人間の強烈に特徴的な奇妙な意識のありかたは、少なくとも現代の現実問題を処理するには体脂肪のように働くか、あるいはもっと悲惨な場合は、密林にほんの少し開けた草地に出した小さなテーブルで、長い間文字通りの「机上の空論」に耽ったあと権力を握ったポルポト派に典型的に見られるように、現実から剥離した観念の化け物になって人間性を破壊することになる。

北村透谷という人の「哀詞序」には、よく全体を読んでみると、悲傷を述べているのではなくてただ現実の感覚を述べている「われは既に万有造化の美に感ずるの時を失へり」という驚くべき語句がふくまれている。

よく出来た人工の花と自然の花の区別を一瞥してではつけられない意識のありかたは、時に、笑い話ですまない深刻な現実と自分をつなぎとめる感覚の欠落を示していることがあるのかも知れません。

misery

remuera29

イランではSigheと呼ぶが、他のムスリム世界ではMutahと呼ぶのだと思う。
「期間を限定した結婚」のことで、6ヶ月は長期とみなされるだろうし、短ければ1時間ということもありうる。
信仰のない人間には複数の妻をもてることを利用した体裁の良い売春としか思えないが、ムスリムの世界では律法で定まった厳とした制度であって、Ulamaたちが厳かに成立を述べる。
期間は限定されていても婚姻は婚姻なので、sigheの期間中は女びとは近所に出かけるのであっても夫の許可を求めなければならない。
ムスリム人は、「夫婦間の話し合い」と呼ぶが、夫のほうは妻の許可を求めたりはしない。
日本でも「進歩的なひとびと」はムスリムを好む傾向にあるが、話し合いといっても文化が異なれば内容は異なるのだと思われる。
実際、男たちは、さんざんsigheで支払う金額を値切っておいて、「念のために述べておくが、これは私の性欲のためなどでは到底なくて、アラーの御心に適おうとするためにするのである。
あなたが不特定の男と寝床をともにするような不道徳からあなたを守ろうという善行であることを忘れては困る」という。
するとUlamaがおごそかに頷きながら、「この人は良い人間で立派な行いをしているのだと、私はあなたに言わなければならない。アラーも祝福するであろう」と森厳な面持ちで言う。
夫の年齢は65歳であって、「2ヶ月間」の約束で「妻」になる女びとは17歳である。

地震が来る前のクライストチャーチで、午前1時、ひとりでぼんやりカセドラルスクエアの広場の階段に腰掛けてフラスクからウイスキーを飲んでいたことがある。
50人くらいはいるのではなかろうかと思われる中国系の若い衆から少し離れて、遠巻きにするようにして、何組も、2,3人づつ佇んでいる欧州系の、いかにも顔つきが悪い若い衆がいる。
ふらふらと踊るような足取りで3人組が近寄ってくると、
「ヘンなやつが座ってる」と奇妙な節をつけて言い出す。
「ヘンなやつが座ってる」
「いけすかないフラスクから、すました顔で気取ってウイスキーを飲んでやがる」
「話さないところをみると唖かまぬけかどっちだろう」
ひとりが腕に手を掛けたので、相手の薄汚い刺青のある腕をつかみ返す。
黙ったまま相手をすると、3人とも靴もひろわずに逃げてゆく。
目の前にある警察官たちの詰め所の前には、中年の警官と若い警官が立っていて、にやにやしながら、こっちをみている。

どこかから悲鳴がきこえてくる。
「このクソアマ!」という声がきこえる。
3、4人の若い男たちがげらげら笑う声がする。
警官達は、相変わらず、立っている。
中年の警察官のほうが大欠伸をすると、若い警官をうながして建物のなかへはいっていった。

クライストチャーチの、いつもの、週末の夜の光景である。

ビクトリア通りに出る代わりにマンチェスター通りのほうへ歩いて行くと、
売春婦達がたむろしていたものだった。
目の前を通り過ぎると、なんともいえない目で、じっと顔を見上げられているのを感じる。
手をのばして体に触れる女びとはいるが、声をかけてきはしない。

男が運転するプジョーから降りてきて、煙草をくわえたまま、服のしわをのばして、下着をなおす女のひとがいるが、それとそっくりの情景を、アビニョンから20キロくらい離れたオープンロードの交差点(大陸欧州では、そういう場所に売春婦たちがよく立っている)で見たことがあったが、クルマも同じプジョーの207で、男もでっぷり肥った50がらみの大男、降りてきた女びとは、そっくりの、小柄で華奢な10代にしかみえない女びとなので、同じ売春婦と客が、フランスとニュージーランドに同時に存在するような不思議な気持ちになる。
呆気にとられて、じっとみつめていると、女びとは気が付いて、小首を傾げて、なによ?という様子をする。
わしは首をふって、女びとに向かって手を挙げると、もうすぐ夜が明けそうなハグレーパークのほうへ歩いていった。

いつかラジオのZM

http://www.zmonline.com/player/listenlive/

を聴いていたらEd Sheeranの「The A Team」

が流れてきて、不意をつかれてしまって困ったことがあった。
心の準備がないときに流れてきては困る曲というものが世の中にはあって、「The A Team」も、そのひとつだからです。
バランスシートを眺めていた目に涙が浮かんで、そのうちにボロボロキーボードの上に落ちてきて、難儀、どころではなかった。

世の中には「売春は悪だからなくさなければいけない」という人がいて、「身を持ち崩すのは必ず理由があるのだから本人に責任がある」というひとがいる。
韓国人の慰安婦といったってカネをもらってたんだろう、と嘲るように意見を述べるうらやましくなるほど卑しい心根をもった人間もいれば、売春を根絶するために一生を投げ出す修道女もいる。
一方で現実の問題として自分の身体を売らなければ生活できない人間はいるのだから、せめて強姦の泣き寝入りやギャングの支配を避けるために「非犯罪化」をすすめるべきだと主張して修道女と激論を戦わせて売春の「非犯罪化」を達成したフェミニストたちがいる。
あるいは売春婦の境遇に唇をかみしめる人間を偽善者と呼んで自らの「偽善のない知性」を誇る愚か者もいるだろう。

きみはなんだか部屋の天井の明かりをつけるのが鬱陶しい気持ちがする夜に、テーブルの上にいくつかろうそくを灯して、そのろうそくの揺れる炎のなかをみつめながら、人間の脳のはたらきにもスイッチがついていればいいのに、と考える。
耳のうしろに、ONとOFFのスイッチがちゃんとあって、もうこれ以上なにも考えたくない夜には「パチッ」と音をさせて切って、安らかに眠れるようになっていればいいと思う。

考えてばかりいるのが嫌になって、きみはコンピュータをつける。
「ほんものを探し求めて歩くような田舎くささには耐えられない。この世界のものが全部贋物ならいいのに」と書いてから、きみは、ほんものも贋物もほんとうはどうでもよくなってしまっている自分に気が付いて唖然としてしまう。
遠くから叫び声がきこえてきて、絶望にみちた声の調子は聞き取れるのに、なにを言っているかがうまく聞き取れない。
悲惨が夜を取り巻いて、あちこちでひそひそと囁きあっている気配はわかっているのに、悲惨の姿をみようとして目をこらすと、それは闇に溶けて、また視界の端で微かな形象をつくっている。

政治であり、社会であるというが、ほんとうはそれが「人間そのもの」であることを知っている。
なぜ、そうなのか、尋ねる気もおきないほど、きみはそれを熟知しているのだと思う。

きみはろうそくを吹き消して、考えていたよりもずっと深い暗闇に安堵しながら、光なんてなくたっていいな、と呟いてみるだろうけれど。

(画像はモニとわしが花棚の下のテーブルで夕飯を食べていたら顔をのぞかせたポサム。まだ赤ちゃんだのい)

社会の自由はどこからくるのか?

nyc183

橋下徹というひとは書いてあることを総合すると「弁護士資格をもつテレビタレント」であるらしい。大阪では地元の長きに渉る問題である暴力団問題に初めて手をつけた勇気が買われて、ゆるがない人気があるようだ。
それ以上のことは何も知らないのに橋下徹という名前をもちだしたのは、このひとが国政選挙に「維新の党」とかなんとかいうチョーださい名前の政党を率いて自分は地方の首長を努めながらなんとか国政を牛耳りたいと願う選挙運動の途中で、「いくらでも議論は受けて立つ。ぼくは喧嘩は強いんだ」と言ったというので、それはおもしろい、と考えた。

カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツネッガーが「ぼくは喧嘩は強いんだ」と述べたとすれば、テレビの前のひとびとはバドワイザーを口から鼻から下品にもふきこぼして大笑いするだろう。
隆々たる筋肉とは別に「喧嘩」と「議論」はふたつのまったく別のことだと、ばっかなラップにーちゃんたちでも知っているからで、喧嘩ならこっちのほうがはやい、と腰の拳銃のクリップに手をやってふざけたりするだろう。

議論は終点をにらみながらするものである。
典型的なもので言えば、ナチが大陸を制圧して、スウェーデンも圧倒的な親ナチ、オランダもナチ支持、イギリスでもナチは大人気、戦力はナチの3分の1以下、アメリカ人もナチの広告塔リンドバーグの演説行脚のせいでナチ支持の声が広まっているときに、どうすれば生き延びていかれるか、というようなときに「議論」は行われる。
途中で口喧嘩になるのは勝手だが、時間の面からみて、そんなことは着々とブリテン諸島侵攻準備をすすめるナチに手をだすだけのことなので、本題に戻らなければどうにもならない、なんとか現実的な解決策をみいだすしかない。

古代ギリシャ人は喧嘩と議論の区別がつかなかった。
ただ相手を言い負かすことが議論の腕だと信じたせいで、どれもこれも国ごと滅びてしまった。
生産性のない議論を軽蔑して、「ギリシャ語を学ぶのはよいがギリシャ人の政治における議論の態度を学んではならぬ」と子供達に言い聞かせたローマ人たちに、社会としての叡知が較べるまでもなく欠けていて、抗すべくもなかったからです。

その頃以来、中身の人間がすっかりいれかわったいまになっても、ギリシャ人と言えば「結論がだせない国民」の代表のような印象になってしまっている。

日本の人の「議論」もまた、同じようなもので「罵倒芸」という「芸」まであるそーだ。トーダイおじさんのひとりのMさんが「日本人てのはね、ガメちゃん、プロレスと戦争の区別がつかない国民なんだよ」と言っていたことがあったが、言われてみれば上田馬之助がダブル・リストロックを決めるのも、MRVの雨を浴びながらその半数をパトリオットで破壊してみせる防衛戦略を議論するのも口調が同じであるよーな気がしなくもない。
罵倒「芸」という言葉にあらわれた、日本人に一種独特の自分だけは距離をおいたケーハクさは、要するに現実への感覚の無さなのだ、ということがよく判る例でもある。

日本が戦後、民主主義の完成と発展に失敗したのは、要するに民主主義がアメリカによってもたらされた「洋モノ」であったからであるらしい。
憲法もお仕着せであるから変えなくては仕方がない、という。
機能してるんだったら、誰がつくったんでもかまやしないんでねーの?と思うが、誇り高い日本人としてはそういうわけにはいかないらしい。
いまの安倍晋三内閣の勢いでいくと憲法も改正され国防軍が誕生し、戦後民主主義の物理的な遺事は、何から何まで徹頭徹尾戦後民主主義的な教養で一身をつくって、若いときには、民間出身の美智子妃と一組になって、朝刊に琉球2紙を含めてくれと要求して一歩も譲らず、昭和天皇や宮内庁と険悪な関係になるほどだった今上だけになりそーな皮肉な形勢である。
軽井沢会のテニスコートでの出会いばかりが有名だが、このふたりは、その出会いにおいてよりも、その後の付き合いにおいて、天皇家内の「ふたりだけの自由主義秘密結社」とでもいうべき存在で、たとえばお互いの理解を深めるためのデートは六本木のピザレストラン「ニコラス」ですごしたりした。
当時の「ニコラス」は簡単に言えば外国人たちのデートの場で有り、フランク・シナトラのようなアメリカの芸能人たちが東京にやってくれば必ず訪れる、ざっかけない空気の料理屋であり、一方ではタイと東京を往復する元米空軍パイロットの麻薬の運び屋や半島人が結集する大アジア主義の暴力団町井久之が率いる東声会(東洋の声を聴け、という意味です)や稲川会が出入りする「悪徳の巣」でもあった。
宮内庁が特に天皇家を守る気のない左遷役人の行き着く果てになったいまでは、週刊誌の餌食になるに違いなくて、考えられないことだが、当時は宮内庁はまず満席になるまで宮内庁の役人と警護の人間数を送り込みつづけて居座らせ、ニコラスの客席を自分達の人数で満席にしてから、おもむろに今上カップルをレストランに送り届けた。
今上がデートにあらわれるときには、ピザを初めてみて目を白黒させている刑事が、箸はないのか?と店員に訊いたりしていて、いつもの華やかなアメリカ人たちの服と異なる、ねずみ色の背広が店内を埋めて、異様なことこの上なかったそーである(^^;)

(余計なことを書くと、創価学会の飲食店における警備方法もほぼ同じで、軽井沢は創価学会の一大金城湯池だが、池田大作会長が近所のコーヒー屋に朝ご飯を食べに行くとなると、40台くらいも自転車がぞろぞろあらわれて、まずコーヒー店を満席にする。
「だからさ、池田先生ってのは、すごくいいお客さんでさあー」とコーヒー屋のおっちゃんが愉快そうに述べていたという(義理叔父談))

もう歴史的役割をはたしたのだから、それでいいのさ、とぼくは思うが、日本はアジアにおける民主主義国、という役割を他国に渡しつつある。
かつての日本は、まがりなりにも民主主義を標榜する、アジアのなかではゆいつの国で、そこに「価値」があった。

CBDを通行するバスのなかで6人のギャングにボーイフレンドと一緒に乗っていた若い女びとが目の前で強姦され殺されるという事件に怒ったインド人たちは、街路を埋めつくして立ち上がり、死んだ「自分達のひとり」のために制圧に乗り出した警官隊と激しく争った。
政府や首相が必死になって陳謝し、事態の改善を約束してもまったくダメで、インド人たちは昼には怒りの拳をつきあげて投石し、夜には路上に皆で集まって、ろうそくを灯して、女びとの無惨な死を傷んだ。

この事件に対して西洋人のコミュニティがざわざわと音を立てているのは、「インドの性犯罪のひどさ」のせいではない。
もちろん、日本の評者のように「女びとのスカートが短すぎて挑発的だったかどうか」を論議するためでもありません。

前にも何度か書いたことがあるが、西洋ではインド社会の「性的粗暴」は有名で、白人女性は白昼の人通りの多い街路でも胸をつかまれたりするので気を付けるように、というようなことは気の利いたガイドブックならどれにでも書いてある。

日本では「インドは性犯罪への対処や女性への権利の尊重という点でまだまだ遅れている」というような論調が多いようにみえるが、西洋人の反応はやや異なって、フォーラムでみると、まず「インドの民主主義の成熟」というような言葉が目に付く。
中国では暴動が年中起こっているが、報道されるようなものは「官製」で政府の指示によるものであることは誰でも知っている。

ところが今度のインドの街路を埋めつくすひとびとは「自分達のなかのひとり」が無惨に強姦され殺されたことに怒りをもって立ち上がったひとびとの行動で、「待てないから立ち上がったのさ。政府にまかせていたら何年かかるか判りやしない」とインタビューに答えているひとがいたが、その通りで、社会に民主主義の原理が働いていれば当然起きることが起きただけであると思う。

あるいは香港でも梁振英の辞任を求めて13万人がデモを行った。
巨大な全体主義国家中国のすぐ隣にありながら、怖れもせず、「返還から15年経ったのに中国政府による締め付けは厳しくなる一方で約束が違う」と言って香港人たちは怒っている。

何れも民主主義が体にしみこんだひとたちの態度であって、「いてもたってもいられないから外に出てきた」ので、政府を打倒するために出てきた、というのとは異なる。

日本でも福島第一事故のあと金曜日の官邸前を中心にデモが生まれかけたが、ひとつには「仕切り屋」としての能力を発揮した「主催者」への反撥から、ひとつには「政府の打倒もめざさず、暴力もなく、ただ烏合の衆の集まりで叫んでいるだけ」という日本特有の「知識人」のクールな知性から生まれたお言葉にあらわれる「こんなデモはお子様のもの」といういつも道理の「玄人発言」に負けて、いつのまにか問題にならない規模に雨散霧消してしまった。

民主主義が発達していかなかった社会では個人のなかでの自由の内圧が低いので、街路での運動は常に過剰に組織化される。あるいは傍観者の「知識人」「ジャーナリスト」、参加者ともに過激化を渇望する。
実際には単純に個人が個人という全体としての精神のまとまりをなしていないために、個人と銘打ってはいても社会の部分でしかなく、部分であるがゆえに「組織化」という「部分としての自分がはめ込まれる全体」を求めているにすぎない。
十分に民主主義的でない社会では、そうして、常にセクト化への衝動が社会運動のなかで起きつづける。

おおきく眺めるとアジア全体の「民主主義」や「自由社会」の総本山は日本からインドに極が移動した、ということが出来ると思う。
個人からみると、実は、インドはまだまだ日本の半分ほども自由が「保障」されているとはいえない社会で、女にうまれつけばなおさら、都会の男に生まれついても、繁文縟礼が猖獗する官僚制度や前近代的な警察のせいで、個人がおもわぬ事態に遭難する可能性がたくさんある社会です。

しかし、多分観念的なもの思いや「議論」にとらわれすぎることからくる混乱から自由の価値を自分で否定してしまったようなところのある日本の社会に較べて、インド人たちの自由の価値をつかみとろうとまっすぐにさしのばされた手は、より本質的な「民主主義」に向かってのばされている。人間が自由である、ということについての日本のひとに千倍する欲望がある。
考えてみれば当たり前のことで、個人がさして自由を望まない社会に、いつまでも自由がのんべんだらりと逗留しているわけはない。

「戦後民主主義はアメリカ人という勝者であった他人から与えられたものだから、ありがたくない」という意見にも一理はあって、いま日本の歴史をふりかえってみると、結局、自由というのはアメリカ軍のレーションパックにはいっていた見慣れない嗜好品のようなもので、食べてみると甘くておいしいが、どうもピンとはこないな、という程度のものだったのかもしれません。
さっきお友達のオダキン先生odakin_tumblrの手に導かれて日本のインターネット世界を眺めて歩いていたら、「まだ放射能ネタやってんのか、もう飽きたよ」いうようなことを書いている人がたくさんいて、年が変わったので福島の事故はすっぱり忘れて楽しくすごそう、という趣旨のようで、まことに慶賀すべきと思うが、いちども民主主義の価値が深刻に検討されたことがない証拠に正しい意味での議論というものが日本では起きることがない。
起きても口喧嘩で、「罵倒芸」にすぐれた個人や、以心伝心の集団サディズムがお家芸の国民性なのは、「まだやってんのか、バカなんじゃね」と言われながら、相変わらず愚直に両腕をふりまわして集団サディストの群れのなかにがむしゃらに殴り込んではボロボロになって戻ってくる内藤朝雄や、折れてしまいそうな魂の背骨をまっすぐに匡して、瓦礫の拡散をとどめようと懸命に腕をひろげて立ちはだかろうとする下地真樹もじもじ先生の身の上に起きていることを見れば、このうえもないわかりやすさでみてとることができる。

日本という社会では「必要以上の自由」を求める人間は常に孤立無援で、社会的信用を失うものだと決まっている。
そうして、どれほどの自由が必要かは、常に「オカミ」が決めることになっている。
それがなぜそうなのかは、いくつもの宿題が並行して机の上に載っている、このブログ記事のまわりで、きみとぼくが、一緒に考えてみるべきことなのだと思います。