マンガ家の友達への手紙

ひとりの人間が生きていくということが、どれほど大変なことかは、女の人のほうがよく知っている。
多分、女のひとのほうが、医師なら医師という職業から、職業も社会的な位置も、観念さえもはぎとられて、なんのラベルもない、裸の「自分という個人」に押し戻される機会が多いからで、出産を経験する人は、なおさら、そういう言い方をすれば「ナマ」な自分に引き戻されるのではないかと思います。

どこまでも迂闊なぼくは、あなたがエッセイ集をだしているのを知りませんでした。
手に取ってひらくまで、あなたが生業にしているマンガなのだとおもっていた。
ところが、ページを開いて、そこに現れたのは垂直に文字が積み重なった縦書きに書かれた言葉で、スピードボールを期待していてチェンジアップを投げられたベースボールの打者のように、なんだか腰砕けで、あなたの文章世界に入っていきました。

マンガ家だとおもっていたのに、文章が上手で驚いた、というのは、考えてみると、随分失礼な言い草だが、さっきそう書いたときまでは、理屈がのみこめていなくて、書いてから考えて見ると、なるほど、マンガ家は絵を描けるうえに文章家としても才能も同時にもちあわせないと、やれないのですね。
書いてから気が付いた。
なんだか、いつものことだが、ずいぶんバカなことを言ってしまいました。

現実が、少し突き放して、淡々と書いてあって、いまの日本社会を生きていく女の人達が、どんなふうに考え、どんな経験をして、どんな理不尽と付き合わなければいけないか、わかりやすい本でした。
多分、もう二、三回読むとおもうが、一回読んだ時点で、手紙を書きたくなったのは、なるほど言語を伝達に使うためには、自分がおもっている観念を書かずに、こうやって細部を伝えようとすればいいのだ、と教わったことへの感謝を伝えたかったからです。

日本の人の謙遜は、聴いても仕方がない。
聴いても、ああ、またか、と思うだけなので、あんまり期待していませんが、Q太さんは、きっと、この本を書いてしまったことを誇りに思っていると思う。
うまく自分が感じたことや考えたことが書けていて、(笑ってはダメですよ)まるで現代版の「千曲川のスケッチ」のように、いまの日本社会におかれている日本の人の、まるのままの姿が描かれている。

ポンッと放り出すように描かれている。

逆子を正常位置にもどす回転施術や、元夫の義父がいわれのない言いがかりを述べることに、くやし涙を流すことを描くことによって、安倍政権がうんちゃらかんちゃらで、トランプがどーたらこーたらで、日本会議が、うほっほでほっほな言説による百倍も、読む方は世界の現実を実感する。

おおげさな、と言われそうだが、わしはひさしぶりに「世界はどんなふうに存在しているか」ということについての、おおきな示唆を含む本を読みました。
これが奇妙な言い方に聞こえれば、世界というものを、どんな角度から見ればわかりやすいのか、ということについて教えてもらったと言ってもいい。

長いけど、とても気に入った箇所なので引用したい。

逆子になっている、と診断されてから1ッ週間後の検診。やはり位置は変わっていなかった。毎朝毎晩、お灸に体操にと頑張ったのだけど。
黙ってモニターを見つめる、T先生と私。
T先生はおもむろに切り出した。
「直したい?」はい。「陣痛起こっちゃうかもしれないけど、いい?」いいです、いいです。「そうだな、推定体重も3千超えてるしな」

そうしてT先生による外回転術がはじまった。お腹の上から、赤んぼうをひっくり返すのだ。粘土のようにこねくり回される、私のお腹。「ここが引っかかってるんだな….」
ブツブツ言いながら、こねるT先生。
「あっ浮いた」
T先生はそのまま、ゆっくり、ゆっくりと、手のひらで赤んぼうを回していく。
「直った」
痛いらしい、と聞いていたけど、全然痛くなかった。あんまりあっけなかったので、笑いそうなほどだった。T先生は机に戻って、カルテにいろいろ書き込みながら言った。
「回転代、3千5百円ね」

この「回転代、3千5百円ね」がいたく気に入って、何度も読み返してしまいました。
Q太さんとわしが住んでいるこの世界は、ちょうど人間が呼吸しているように、言語によって呼吸しているのですが、その呼吸に、この「回転代、3千5百円ね」は、ぴったりあっている。

「よく子供をつくるヒマがありましたね」と「さらり」との述べる後輩に、

「夫婦のセックスって、ひまだからするんじゃないだろう。時間をつくってするものだ。いたわり合いだもの。」

と書くQ太さんの叡知のダイレクトな発露がある文も、そこここにあって、おお、すごい、とおもうが、わしは外回転術について述べる文のほうに、おおげさにいえば、日本語の未来を感じました。
まだまだ日本語は、自分が見たことを、そのまま書ける言葉なのですよね。

自分に引き寄せれば、ほかにも驚いたことはたくさんあります。
Q太さんは、ラフカディオ・ハーンが大好きな、わしの夢のアルカディア、松江の出身なのでした。
ほかにも、Q太さんて、わしじゃん、と不遜にも考えるところがたくさんあって、本を読み終えるころには、そーか、おれも女の人に生まれれば3回結婚して子供を4人産んでいたのだな、と確信するに至っていた。

Q太さんが「いつかどこかで」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/

について述べてくれたことによって、わしはちょっとだけ、わざわざ無理をして、自分にとっては外国語の日本語で記事を書いてきてよかったかな、と思っているの。

若い時には、わしは「ムダなことにしか自分の時間は使わない」と決めていて、およそ実利が伴う可能性がないことに、傾斜的に時間を投入してきました。
ダンスも絵も彫刻も詩も数学も外国語の習得も、みなそのベクトルのなかにあった。
ほとんど偏執的に、「無益なこと」にエネルギーを傾けてきた。
どんなに無益なことに時間を費やしても、誰も自分に勝てるわけがない、という若い人間特有の傲慢な考えもあったのではないかとおもっています。

でも30歳をいくつかすぎると、時間に吝嗇になるのですよね。
本質的でないことに時間を使うのが、だんだんめんどうになってくる。

わしのものの考え方は単純を極めていて、そういうとき、やることにプライオリティをつくって、順番をふって、上からやっていく、という方法をとります。
そのプライオリティの順位をいれかえることによって、一生の方向を決めているのだとおもう。

オダキンたちの「いいじゃん。もっと書けば、おれは読むぞ」という言葉にかろうじて支えられて、はてな人やなんかの8年も続く罵詈雑言に辟易しながら、ようやっと興味をつないでやってきた日本語を、Q太さんや一色さんが「きみは、おれの同族じゃないか!」と述べにやってきてくれたときは、だから、どれほど嬉しかったか。

もうずっと昔、何度かブログに願いを込めて書いた、

おれたちは初対面だが
もし逢えなかったらどうしようかと
そればっかり考えていたよ

という岩田宏の言葉そのまま、Q太さんや一色さんたちに会えたのでした。

うまく言えないけど、わし同族は、同族であるQ太さんたちは、物理学者であったり、天文研究者であったり、ゲームデザイナーであったり、マンガ家であったりしながら、そもそもデザイン的にわれわれを排除するために出来ている現代社会を、なんとか生き延びているのだと思っています。

「今日も夫婦やってます」という本を閉じて考えたのは、
この人と、会えてよかったなあーということに尽きる。
自分の言葉が通じる相手に会えるということを夢見て、誰でも、言語を習得するのだけど、わしは、その凡そ本来は非望と呼ぶしかないはずの願望の点ではチョーラッキーで、通常に言葉を述べて、止揚された場も、芸術上の定型も必要としないで、そのまま考えた事が伝達されてしまうという相手に、十指を越えるほど出会えてしまいました。

同じ時代を生きてきてくれただけでも嬉しいが、その上に、日本語の橋の上を歩いて渡ってきてくれて、「あなたの、あの記事が好きだった。あなたの言葉でベルリンに来た!」と述べてくれて、サイコーにありがとう。

日本語を習得するくらいのことが、こんな、サイコーx2な幸福を運んでくれるとおもってみたことはありませんでした。

Q太さん。
だいさんきゅ

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鎌倉のおもいで

夜の中を白い道がボオッと光るように続いている。
町並が闇の中に沈んでいて、なにも見えないが、歩いていて、鎌倉の、二階堂の国大附属小学校の前の道だというのは判っている。
あのタイル張りの道ならば、「町並」というようなものはなくて、ただ学校と住宅があるだけのはずだが、夢なのか記憶のなかなのか、影の軒先は、たしかに店のものです。

そこだけ、ぽっくりと空いた空間があって、駐車場になっている。
後ろには、そんなところにあるはずがない小さな山があって、常磐の山に似ているので、これは記憶が合成されているのだろうか、と訝しい気持が起こる。

あの駐車場にはおぼえていることがある。
段葛に桜が咲いて、麻布からわざわざ見物にやってきた友達と、夜更けの桜をひととおり見終わって、瑞泉寺の近くの鮨屋に行こうということになった。
もう12時をまわっていて、夜が早い鎌倉で、そんな時間に開いているのは小町通りで人気のある店を開いていて、博奕がやめられなくて大阪に逃げてクビを括ったのだという噂があった店くらいしかないが、そのときは、瑞泉寺の店に行こうということになっていた。

帰りに、じゃあ、今度買った家に泊まっていけばいいじゃないか、ということになって、ふたりで歩いていく途中で、駐車場の前を通ると、小さな子供が走り出てきて、こちらに向かって駈けてくる。

なんだか黒い影のようにしか見えない子供だな、と不思議におもって、見つめ直していると、後ろから若い母親の声で「しょうちゃん、こんなに遅くまで遊んでいちゃダメでしょう!」と呼ぶ声がして、子供は、引き返していった。

後ろで観ていた友達が、すっかり酔いがさめた、という様子で、
「あの親子が引き返していったほうには、家はないね」と、なんだかぼんやりした声でいう。

なにかがおかしいのは、それだけではなくて、考えてみれば、もう午前3時をまわっていて、そんな時間に遊びに出るのは遅いもなにもないものだ、ということに、やっと気が付いている。

おい、ちょっと、ここやめよう、と言うなり。
友達は、急ぎ足で立ち去ろうとする。

ふと見上げると、さっきの山がなくなっていて、月が皓皓と光っている。

鎌倉は、そんな記憶ばかりがあって、混濁した記憶や、夢を見た記憶、細部を失った現実が渾然となって、振り返っても、よく見えない景色のようになっている。
たしかに自分の身の上に起きたはずのことだ、とおもって、いあわせたはずの義理叔父に確かめてみると、それは義理叔父の経験であったりしたことすらある。

鎌倉はだから、自分にとっては夢のなかにある町のようなもので、だいたいが非現実的で、たしかにあったこととして二階堂の首塚からテニスコートへ向かって曲がったら、出会い頭に今上天皇と身体がぶつかってしまったことがあったが、SPもたくさんいて、厳戒体制のはずなのに、どうしてそんなことが起きたのか。

いま考えても、なんだかヘンなことがたくさんある町だったなあ、とおもう。

広尾山の家にいて飽きると、週末を避けて、鎌倉の家にいくことが何度もあった。
住むために買ったというよりも、昭和40年だかに出来た、薄いおおきなガラスがある縁側がある、その古めかしい家が気に入って、高くもなかったので、手に入れた家だった。

ここにあまり書きたくないが、いまは自殺してしまった友達が鶴ヶ丘八幡宮の裏手に住んでいて、この小柄な日本人の年長の友達と不思議なくらい気が合ったせいもあります。

この人と、水木しげるのマンガや、西田幾多郎の哲学、夏目漱石の「心」の話をしたりするのが楽しくてたまらなかった。
また、このひとは、とても鎌倉に詳しい人で、例えば漱石の心の話をしていると、散歩に行きませんか?と述べて、材木座海岸につれていってくれて、ほらここが、と立って微笑んでみせる。

「先生」と主人公が初めて会ったのは、どうしても、ここなんです、という。

由比ヶ浜ではないんですか?と聞くと、文章の様子からして違うとおもう、と述べる。
すぐ後ろを走っている国道の向こうを指さして、あの頃は、ここの一帯がおおきな別荘が並んでいたところでね、つい最近までは、美智子妃殿下の実家の別荘もありました。

いまは12軒の家が建ってしまったけどね。
といって、この人の笑いかたの特徴で、ふらっと笑う。

そのとき、もしかしたら、この人は自殺してしまうのではないだろうか、とふと考えたのをおぼえている。

或いは鎌倉山から林間病院のほうへ行って、岐れ道を右へ曲がって、七里ヶ浜の富士見坂におりてゆく道もよく歩いた。
鎌倉山に行ったのだから、これも友達の家に行ったはずだが、記憶のなかではひとりで、ちょうど鎌倉山の頂上にあたる、西側に林が広がる道を歩くと、満月のときは、遠くの、小さな小さな富士山が、人造物のようにくっきりと照らし出されて見えたのをおぼえている。

20代前半で、ひとりのときでも、ときどき、めんどくさくなると家のすぐそばのホテルであっても泊まってしまう癖はおなじだったから、もしかしたら七里ヶ浜のプリンスホテルに泊まった夜なのかもしれません。

あのホテルは、いまはどうだかわからないが、きちんとしていて、鎌倉では最も不便と形容したくなるところにあって、しかも部屋の造作は案外なビジネスホテル風で索漠としていたけれども、静かで、眺めがよくて、最後の頃は目の前の松林が松食い虫にやられてなくなって禿げ山ホテルなんて失礼な名前をつけて喜んでいたが、割と好きなホテルで、用事もないのに何日か逗留して、あの辺りから腰越は、犯人が潜伏していた黒澤明の「天国と地獄」の舞台なので、鎌倉学園前駅から腰越駅までうろうろして、犯人の隠れ家の住所の目星をつけたりして遊んでいた。

いわしをだす店があったり、珊瑚礁という、あんまりおいしくないのに長い行列がある店があったり、よく考えてみると、そこだけ切り話されたキャンプ場のような住宅地の七里ヶ浜で、ぼんやりして、海に面した駐車場でウイスキーを飲んだりしていた。

家を買ってもっていたといっても、住んでいたわけでもないのに、鎌倉は日本を思い出すと、いつも自動的に思い出される町で、いまでもなつかしい気がする。

仲のよい年長の友人がおおく住んでいて、そのひとたちは面白い、気持のいい人が多くて、元新聞記者だったひとなどは、腹切り櫓に念願の「縁側のある家」を建てて、どりゃ、これから記念すべき縁側ビール第一回といくとするか、とおもって、奥さんに盆にビールと枝豆をもってこさせて、腰をおろして、内心「やったやった」という気持で、それでも容儀だけは「鎌倉人らしく」静かに、グラスを傾けていたら、目の前の庭を塀からでてきた鎧武者が、すうううっっと歩いて、というよりも滑って、また反対側の塀へ、すううううっと消えていったのだという。

「それでさ、ガメちゃん、縁がわ使えなくなっちゃってさ。夕方になると雨戸しめきりなんだよ。興醒めだよ」と笑っていた。

この人も死んでしまった。

そうだ、あの人も死んでしまった、と考えてみると、鎌倉で子供の頃から知っていた人達は、みな鬼籍に入っていて、鎌倉のことを考えると彼岸の町のように思えるのは、そのせいであるのかもしれない。

軽井沢に「敵性外国人」たちが閉じ込められていたころ、鎌倉には西脇順三郎たち文人が逼塞していて、
学問もやれず、絵も描けず、
とふてくされてて、釈迦堂の切り通しで小石を蹴っ飛ばしていたりしたのだとおもうと、事態は深刻でもなんだか可笑しいが、あの小さな土地に犇めくように人が住んで、たくさんの人の死をみつめてきた鎌倉の町が、いまでもなつかしいとおもう。

読めもしない本を買いに行った目耕堂もカウンターだけのカレー屋も、みんななくなってしまって、鎌倉の友達に聞くと、「鎌倉はもう鎌倉じゃなくなっっちゃったよ。ブームだとかで、なんだか現実の鎌倉の環境じゃなくて、カマクラという名前で越してくる人がわんさか来ちゃってさ。ガメちゃん、もう来ないほうがいいよ」という。
この人の家は600年前から檀家帳がある家で、「こんなひどいのは、600年間で初めてだ」と八百比丘尼のようなことを言うので大笑いしてしまった。

鎌倉、もういちど行くことがあるかなあ。
また遠くに江ノ島が見えて、夕方には、その向こうに大気で屈曲して数倍の大きさに見える、巨大な薔薇色の富士山が浮かんでいるだろうか。

あの町のことを思い出すと、まるで、ほんとうは想像だけにしか存在しなかった、小さなときの大切な友達をなつかしむ人のような気持になる。
皆がいうように、もう、いまさら、どこにもない町なのだろうけど。

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孤立する日本語 その1

前にTeju ColeとMin Jin Leeを読んでいて、やがて英語文学を代表する作家になるに違いないこのふたりの作家が、ふたりとも、英語で書いているが母語は英語でないことに気が付いて、文学にも新しい時代が到来していることを思った。

小説という文学上の形式がそれぞれの国の国語の勃興期に発展を遂げて、なんだか夢中になって「自分達の言語」で、カンナをかけ、トンカチをふるって、建築ブームのようにして広まったことはよく知られている。
フランス語でもドイツ語でも、小説が発達したのは国権主義国家や国民意識、「われわれドイツ人」タイプの意識の昂揚が小説という文学形式を聳え立たせたのだということができそうです。
日本もことに自然主義文学においておなじことが言えそうな気がする。

ネット上で、日本語をやりとりしていると、
「わたしは日本人だが、あなたが日本人の通弊として指摘する思考癖をもっていない。ひとくくりにしないでくれ」
という人が、よく現れる。
日本語人の一般性を抽出して民族的な傾向について考えようとすることを「自分がひとくくりにされた」と感じるのは単なる幼児性にしか過ぎないが、それはここでは、めんどくさいので言わないでおく。

日本語人は、以前に述べたtu quoqueが大好きであるというような論理の癖とは別に、異なる側面から眺めると、そう言っている本人が気が付いていないだけで、日本語では、「われわれ日本人」意識が、どんどん薄くなっているのかもしれない。
薄くなっている、というよりも、未だに戦前の日本帝国からアイデンティティを引き継ごうとする無意味で、いかにも「反省なんてしねーよ」な強引な試みに激しく反発する世界の実相を見て、日本人であることに誇りがもてなくなっているようにみえる。

「日本が国際社会で疎外されるのは、なぜだろう?」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2018/06/23/japan2050/

戦前の大日本帝国が犯した戦争犯罪について、他人事のように気楽に批判してみせるいっぽうで、国のアイデンティティは戦前の日本を引き継いでいるのでは、理屈があわないが、気分を想像すると、
銀行強盗に入って一網打尽につかまった強盗団のなかで、「おれは銀行に強盗に行ったわけじゃない。ただ頼まれて通りの反対側のクルマのなかに座って見張りをやっていただけだ」と嘯く人のようなものだなのだろう。

棒杭に縛り付けられた中国人を銃剣で突き刺して殺害するのは、日本陸軍の歩兵のあいだでは、各部隊で年柄年中おこなわれる「訓練」にしかすぎなかった。
ごく稀に、生きた中国人を刺突して殺害することがどうしても出来なくて、「自分には出来ません!」と述べる兵士は半殺しにされるまで殴られ蹴られたが、そういう兵士の証言をみると、逆に、中国戦線に参加した兵士はほとんどが、この訓練に参加していたことが判ります。

戦後、お互いをかばうために口を拭って「あれは戦争という狂気が生んだ一場の悪夢だった」と忘れてしまえたのは、一にも二にも、「命令だったから仕方がなかった」
「皆が、やったんだよ。良いや悪いじゃなかった」
という強い気持ちがあったからで、そういう元兵士の機微は、例えば原一男監督が撮った極めて攻撃的な糾弾病者奥崎謙三が、いまは平和に生活している元兵士たちを苛烈に追究することによって、上官による兵士の部下殺害命令や友軍兵や敵兵を問わず人肉食が蔓延していた事実をあかるみにさらしていくドキュメンタリ、「ゆきゆきて、神軍」にうまく描かれている。

しかし、その前提にはもともと日本語は個人の倫理を前提としない言語である、ということが当然、存在する。

ウォール街の結局は富者の都合によって罰せられなかった金融犯罪のドキュメンタリはたくさんあるが、そのうちのひとつに、下っ端の行員として高給を稼いでいた韓国系人が、自らガイドとなって観光客に、ウォール街の犯罪について解説するツアーを企画して生業にしている様子をドキュメンタリに仕立てたものがある。
ウォール街が、いかに一丸となって、一個の低所得層からカネを巻きあげる巨大な機械となって、アメリカ社会を疲弊させて、健全な社会を破壊に導いたかよく判るように描かれていたが、その最後に、ドキュメンタリ制作者が、その韓国系人に
「では、あなた自身は、自分の責任についてどう考えているのか?」と質問するところがある。

その直後に起きたことは、なんでもかんでも韓国と日本をいっしょくたにして「兄弟国」と考える乱暴な考えを習慣にしていた人間(←わしのことね)にとっては、おおげさにいえば、衝撃的で、この韓国系人は、それまでの利発で快活な様子と打って変わって、うなだれて、黙りこくって、その沈黙のあと、大粒の涙が頬を伝う。
なんと言ったか精確に憶えていないが、「もちろん、わたしにも人間としての責任がある」という意味のことを述べる。

このドキュメンタリを観たのは、ウォール街で働いて、うまく立ち回って稼いだとかで、わし友メグどんの表現によれば「日本の不動産バブルのときに、もうかった自慢話を嬉々として話していた不動産業者とおなじ」だと述べていたが、日本語ツイッタの世界ではたいへん人気がある日本人の女の人に自慢の仕方がいかにも道徳ゼロでみっともないのでツイッタで「犯罪のお先棒を担いで儲かったことを自慢するのは見苦しいからやめたらどうか」と述べたら、ほんとうのことを言われてびっくりしたのでしょう、えらい悪態のつかれようで、あとは日本人の十八番「おまえはニセガイジンだろう」から始まる定番セットをずらずらと並べられて、このひとは4万人だかなんだかのフォロワーがいる人で、他の人たちも加わって、おーすごい、な、トゥルーカラーまるだしの下品攻撃で、
眺めていて、外国に何十年住んでも日本語で思考して暮らしている限り、日本式思考からは逃れられないのだなあ、と再認させられた直ぐ後のことだったので、
韓国人の強烈な倫理意識を観て、びっくりしてしまった。

うーむ、と考えて、そのあと立て続けに韓国のテレビドラマや映画を大量に観たが、光州事件を題材にしたA Taxi Driverや韓国大統領のノ・ムヒョンの弁護士時代を描いたThe Attorneyを初めとして、最近のテレビドラマシリーズ「ストレンジャー」に至るまで、これでもかこれでもかというくらい社会倫理と個人の葛藤やintegrityを保とうと苦闘する人間たちの物語で、韓国語がよく分からないので英語字幕をずっと見つめて観なければならず、クビが痛くなってたいへんで、もっか韓国語理解能力を改善すべくベンキョーちゅうだが、その過程でも、どうやら韓国人と日本人のあいだにはおおきな乗り越えられないほどの分断の壁があって、その壁は「倫理の有無」で出来ているらしいと判ってきた。
日本語人が功利でおきかえている場所に韓国語人は倫理をおいているらしい。

余計なことをいうと、もうちょっとベンキョーしないと判らないが、それは実はわしにとっては困ったことなので、韓国語と日本語のような兄弟言語で片方は倫理バカみたいなところがあって、片方は倫理ゼロの国民性では、言語と思考の深いつながりを述べてきた自分にとってはなはだしく都合が悪い。

倫理と言語機能の密接な相関関係をおもえば、もしかすると、「都合が悪い」どころの話ではないのかもしれない。

ここで、倫理とは異なる側面から言語の選択が社会に与える影響の話を慌ててしておくことにする。
先行きへの準備です。

最も有名な例では「ミハウ・カレツキの悲劇」がある。
誰でも知っているはずの話で、いまさらブログなんかで説明するのは気が引けるが、もしかしたら知らない人もいるかもしれないので、詳細は自分で調べてもらうことにして、おおまかな話を書いておきます。

ミハウ・カレツキはポーランドの経済学者で、統計や数学モデルを使ったマクロ経済学の創始者です。

え?えええ?
ガメ、冗談きついよ。
マクロ経済学の創始者がケインズ、ジョン・メイナード・ケインズに決まってんじゃん、まあーたテキトーこいちゃって、というはてなおじさんが現れそうだが、
「これ、ケインズのパクリなんじゃねーの?」と言いたくなるカレツキの経済の諸問題への統合的な新アプローチのアイデアが述べられている

Próba teorii koniunktury (‘An Attempt at the Theory of the Business Cycle’)

をカレツキが公刊したのはケインズが

The General Theory of Employment, Interest and Money

を出版する3年前で、未来に書かれる本をパクるのは、いくら天才が多いポーランド人でも難しそうなので、ケインズのアイデアはカレツキが先に着想していたことになる。

ケインズが下品なひとびとから「パクったんじゃないの?」と言われないですんだのは、ケインズにとっては幸運なことに、なにしろ語学がダメな人だったので、経済学に通暁したポーランド系の愛人がいたのならともかく、ケインズにはカレツキが書いた本を読むことはできなかった。

そう。このミハウ・カレツキという気の毒な経済学者は世紀の大発見と呼んでもよい経済学の論文をポーランド語で書いたのでした。
ポーランド語で書くと読むのはだいたいにおいてポーランド人だけで、そのポーランド人は経済学頭が権威主義的で遅れているので、うけないどころか、全然、誰も読んでない、ということに気付いてカレツキは、今度は外国語で書いてみることを決意する。
今度はフランス語で書きます。
でも、まあ、予想通りというか、「数学は純粋でないと、やだ」のフランス人にはマクロ経済などは腐れ数学みたいなものなので、やっぱり誰も興味をもたない。

そうこうするうちに、ケインズが英語で書いた本は名声を博して、男爵位をもらい、イングランド銀行の理事をつとめたりして、あんまり経済学と関係がないが、ケインズは学者の傍ら投資家でもあって、こっちでも冗談みたいに儲かって、幸福な一生を終える。

もうひとつ、こっちもチョー有名な例だが、20歳をすぎるまでロシア語、ポーランド語、フランス語しか話さなかったジョゼフ・コンラッドが作家として有名な存在になるのは、なんと、おとなになってから学習した英語で書いた
Heart Of Darknessでした。

コンラッドは、知られているとおりの、ロシア・東欧語文脈を背後に隠した英語の名文家だが、実は理解できる数カ国語のなかで最も不得意なのは英語だった。
それでも英語で書くしかないと決めたのは19世紀末〜20世紀初頭の当時ですらすでに、少なくとも文学世界では英語のひとり勝ち状態だったからで、実際、30年後に起きる「ミハウ・カレツキの悲劇」をおもえば、正しい判断であり、正しい言語の選択であったとおもいます。

日本文学がアジアのなかで突出して読まれているのは、太平洋戦争の影響がおおきいのは、たいていの人間が知っている。
アメリカ軍が急造した日本語情報士官の大群が戦争後、翻訳者や紹介者となって大量に日本文学を英語に翻訳したからで、例えばドナルド・キーンは、そのひとりです。

実際、日本語が読めない英語人の日本作家への評価を聞いていると、おおく翻訳者の英語の質への評価で、ペダンティックすぎてなんだか読むのに骨が折れる吉田健一が英語で書いた本などに較べると、素直なよい英語で、それがラフカディオ・ハーン以来の日本の、幽玄で謎めいた、エキゾティックなイメージとも重なって、日本文学は例えばベトナム文学やベンガル文学などと較べて、ずいぶん得をしてきた。

村上春樹などは、この機序をよく理解していて、一歩進んで翻訳作業に自分も積極的に関わることによって英語版の小説の質を保っている。

最近、というよりも、ここ数年のすぐれた英語作家を見ていると、さらに一歩すすんで、コンラッドの孫世代というのがいいのか、一群の素晴らしい英語文章を書くEFL(English as a Foreign Language)作家たちがあらわれて、英語を母語とする作家たちを圧倒する勢いをみせている。

おもしろいのは、Min Jin Leeにしても、巧みな英語表現の裏側には、母語が隠れていることで、細部への目の行き方や、相手と自分の存在の関わりをみる視線に
韓国語が生きていて、朝鮮語を使うひとびとの細やかな感情や、やさしさ、悲哀の気持が、まるで息づかいのように文と文のあいだに広がっている。

彼ら外国語としての英語で書いている作家たちは、母語の影を英語のうえに落とすことによって英語母語人よりも、すぐれた英語を書いている。

いま、ざっと見ただけで50人はくだらない中国語母語の英語作家たちがいて、インドにいたっては、数えるという行為そのものが無意味に感じられる。

日本語に興味をもって、ここまできたわしとしては、日本語が肝腎かなめの自分たちの言語においても、考えの奇妙なくらいの偏狭さを発揮して、言語的な自殺の道を選んでしまっていることを、とてもとても残念であると考える。

次は、ドアを閉ざしてしまった日本語の部屋で、お互いの顔を穴があくほど見つめながら暮らしている日本語世界に、どんなことが起きているか考えてみたいと思っています。

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食べ放題の思想

「結城アンナのお母さんって、むかし、六本木のスウェーデンセンターでバイキングをやっていてね」と言う。
聴いているほうは、話がのっけからのみこめないので、着物を着たアンナさんが、ヘルメットから角が生えた、例のヴァイキングの兜を被って、六本木のスウェーデンセンターの屋上で剣をかかげて空に吠えているところを映像として想像します。

あ。ガメ、そうでなくて、結城アンナというのは日本の人にとってはテレビのハウスジャワカレーのコマーシャルでおなじみの人でね。
20代の独身のときから、ずっとハウスジャワカレーで、岩城滉一と結婚してからも、まだジャワカレーなんだけどね。

その母親がスウェーデン人で、六本木でバルハラめざしてバーサークしていたりしたのか、と聴いているほうは「岩城滉一」という人も知らないので、だんだん混迷を深めてゆく。

だから、なんで、その人が六本木で海賊をやっていたんですか?
「ガメ、ヴァイキングは海賊ではないとぼくをやりこめたのはきみではないか」
だから、それはモンティパイソンのスパムなんて古臭い話題をもちだすから、いらいらしてきて、ええい、無知なおやじめと、頭にきて、いいじゃないですか、ここでは海賊で。わかるんだから

と得心がいかない会話のなかで、やがて判明したのは、言われてみればなるほど、そういう言い方があったなとおもう食べ放題の意味のバイキングで、いま見るとフランクロイドライトの代表的建築であった旧帝国ホテル本館をぶち壊していまの帝国ホテルビルヂングをおっ立てたので有名な、里見八犬士の末裔帝国ホテル社長犬丸徹三がデンマークでスモーガスボードを見ておもいついた食べ放題システムを「バイキング」と命名していまに至っているそうでした。

相変わらず、表計算の数字の羅列を見たりしながら、サブモニターで、ちらちらツイッタを眺めるくせはなおっていない。

というやりとりがあって、それでこの記事を書いているのだけれども、このマコトさんという人は、奥さんがニュージーランドの人で、ときどきオークランドのボタニーダウンズというところにある奥さんの実家で何日かを過ごしに帰ってくる。

ボタニーダウンズはオークランドの東郊外にある新興住宅地で、Botany Town Centreという、チョーでっかいショッピングセンターがあるので有名です。
ここから少し北に行くと、接して、Howick、むかしから中国系移民の人がオカネモチになったら住むのが夢のやたら部屋数が多くてでっかい大家族向けの家がたくさん並んでいる住宅地があって、少し南に行くと、インドのパンジャビからの若い中流階級の移民が多い、Flat Bushという住宅地がある。

そういう土地柄なので、オークランドのあちこちに支店があるタイピン中華スーパーマーケットのでっかい支店があり、やはり中華スーパーチェーンのDHがあり、朝の7時からやっている飲茶屋もあれば、一方ではチャイとお菓子や軽食を出すインド式のchaat屋もあります。

その名も「チャイナタウン」という、なんだか体育館がでかくなったような建物もあって、一歩足を踏み入れると上海の裏通りをそのまま再現しましたとでもいうような館内で、ヘンなショッピングセンターだが、言われてみると、たしかに「食べ放題」と日本語でいうバフェ式、あるいはビュッフェ式なのか、カタカナとして英語式かフランス語式か、どっちか知らんけれども、ともかく欲しいもんは自分で立っていって食べろや、のレストランはボタニーには多くはない。

韓国の人は、例の、サービスでドバドバと、これでもかこれでもかと出てくる、キムチや魚の揚げたのや、海藻サラダや、日本ではたしか「大学いも」なる、いよいよ訳のわからない名前がついている甘い味付けの芋やの小鉢料理の影響でしょう、意外とたくさんの「食べ放題」レストランを開いていて、いま頭のなかでザッと数えてみただけで韓国料理食べ放題レストランはオークランドにも6軒ある。

いちど、ノースショア、橋の向こうのオークランドの北新地にでかけて、入ってみたら、食べ放題の焼き肉がことのほかおいしくて、カルビを2kgくらい食べて、ビビンバと、ついでなので冷麺も食べたら、帰りに運転するのが眠くて、ままならなくて、やむをえず、途中でモニさんに交代してもらったことがあった。

インド料理屋は、ランチはバフェ式のほうが普通です。
カレーが肉入りがチキン、ラム、ときどきなぜかビーフもあって6〜8個くらいの深皿トレイに入って並んでいる。
横には、ここが興味ぶかいというかなんというか、一応、「わたしは隣の不浄なやつらとは交渉がありませんからね」と主張するものであるがごとく、40センチくらいの距離をもたせた別のテーブルに、Shahi paneer、Palak paneer、ダルやアルゴビ、いろいろ並んで、出来たてのナンやロティが絶えず厨房から運ばれてくる。

と、ここまで書いて当然気が付くのは韓国レストランの「食べ放題」では、なんだか妙におおきい、胡乱な服装の、ときどき韓国語を口走ったりする白い外国人のにーちゃんが、千尋の両親のごとくガツガツガツと食べまくって、ゲエエエーップッをする下品さで、やたらと食べまくる人が散見されるのに、インド料理屋では、そういう光景を見たことがない。
いや、よく見ると、ナンを4人で10枚くらい重ねて、わいわいがやがや、そんだらこったー、なんだってわかんね、と楽しそうに述べながら、たくさん食べてはいるが、どうも詰め込むというようには見えません。
あの人らがいっぱい食べるのは、いつものことである。
でも、がっつかなくて、のんびりです。

メキシコのカンクーンに行くと、砂州のような細長い砂浜の連続に沿って、何十というホテルが並んでいる。

Hard Rock Hotel
Marriot
Grand Oasis
The Westin
Club Med

….

なんだかリゾートホテルの博覧会をやっとんのか、ここは、とおもうくらい有名ブランドリゾートホテルがずらりと並んでいます。

で、ここの名物を知ってますか?

美しい砂浜?
おお、行ったことがあるのか。
あの、どこまでも続く美々しい、防護ネットもなにもない、実は陸のすぐそばにうようよいる鮫で有名(←下町に行くと鮫の顎の骨を吊していっぱい売っている。有名な特産品のお土産なんです)な海でたくさん観光客が泳いでいる砂浜ですね。

もうひとつある。
カンクーンが一躍人気リゾートになったのは、メキシコの飲酒年齢の低さが若い衆に受けたのもあるが、オールインクルーシブディールと言って、食べ放題で飲み放題、なんでもかんでも宿泊費に初めから含まれていて、いったんホテルの敷地内に足を踏み入れると、オカネというものを考える必要がない。

自分の定宿はケチなので教えてあげないが、例えば、いま
リッツカールトン

http://www.ritzcarlton.com/en/hotels/mexico/cancun

を例にとると、

ビーチのバー、鮨屋、メイングリル、地中海料理レストラン、バーラウンジ、メキシカン・カフェ、プールサイドカフェとあって、
これが全部食べ放題飲み放題になっている。

どうなっているかというとですね。
チェックインする時にシリコンの腕輪を付けてくれる。
これがホテル側から見た符丁になっていて、来週の火曜日まで逗留する客はオレンジ、木曜日に帰る客はパープル、と色で識別しているもののよーである。

で、レストランやバーに入るときに、店の人に腕輪がちらと見えるようにいたしまする。

わし定宿には、アメリカ本土ならばコーシャホットドッグスタンドで2ドルくらいではなかろーかという、滅法うまいホットドッグを出すホットドッグ屋があって、高いほうはカンクンでも有名なファイブスター地中海料理屋がある。
こっちは、例えばロサンジェルスでおなじくらいの店に入ればひとり頭200ドルくらいは軽く取られそーな店です。

ところがところーが。

アメリカ人は、ホットドッグを食べたいときは、夜であってもホットドッグですませてしまって、朝ご飯も窮屈なのがいやだとおもえば、豪華絢爛なシャンパンブレックファストを摂ったりしないで、カフェで、テキトーな卵2個とベーコンな、例の典型朝食を食べる。

子供のときから好奇心のかたまりであったわしは、観察魔でもあって、自分で言ってしまったが、ともかく、「世界で最も下品な国民」と認識していたアメリカ人のイメージを修正することになった。
なるほど、この国は真の意味でも豊かな国なのであるな、と考えた。

メキシコにいてアメリカ人の考察してるんじゃねーよ、と言われそうだが、そこのきみ、あんた、カンクン、行ったことないでしょう。
あそこはメキシコとは名ばかりで、一乗車10ペソのバスに乗って下町に行かない限りは、あくまでアメリカの行楽地なのです。
通貨も、下町までいけばペソをもっていればペソも使えるが、支払いはアメリカドルでする。
ホテルのなかは、例えばわしの定宿ではペソは使いたくても使えません。

おなじ年だったか、次の年だったか、同じ頃に、ガキわしは南カリフォルニアにも家族で出かけたのであって、ここでも、同様の観察をする機会があった。

多分、かーちゃんが「普通のアメリカ人の家族旅行」の雰囲気を故国では、むっちゃくちゃ甘やかされて暮らしている息子と娘に教えてやろうとしたのだとおもわれる。

アナハイムのEmbassy Suitesという、いまはヒルトン傘下になった、アメリカにはあっちにもこっちにもある、のんびりスペースが売り物のホテルに泊まった。
このホテルは、アナハイムのEmbassy Suitesのなかでもディズニーランドに近いので、日本の人にも泊まったことがある人がいるかもしれません。
わしは日本人客を見た記憶はないけれども。
そう。
TGI FRIDAYとBuca di Beppoがそばにある、そこです。

Embassy Suitesは熱帯雨林ぽくしてある中庭が売り物である場合が多かったが、そこもそのひとつで、朝食は緑がどっちゃりある中庭のあちこちに置いてあるテーブルで食べるようになっているが、これがアメリカによくあるバイキング+卵/パンケーキ料理のスタイルになっている。

大皿に食べたいものを食べたいだけ取って、今度は忙しく料理しているシェフの前に並んで、「サニサイドアップ」「サニサイドダウン」「卵みっつでポーチドエッグ」「スクランブル」「ハムとチーズのオムレツ。あ。ハラペーニョもいれてね」と好きなものを注文していくが、一週間くらいも経つとシェフのおばちゃんと顔なじみになって、軽口を利くようになるのは自然なことだが、
「でも、ほら、ここって鍵をみせてチェックするとかしないでしょう?
これで、近所の人が食べに来ちゃったりしないの?」と、せこい欧州人らしい疑問を述べたら、おばちゃんは、可笑しそうに笑って、
「もちろん、来るわよ、来るけど、そのまま朝食つくってさしあげますよ。
そのくらい、たいしたことじゃないじゃない」
という。

ガキわしは、そのときもアメリカ人へのポイントが5ポイントくらい上昇したものだった。

航空機会社のクラブも、当然、「食べ放題」です。
最近は、ヴァージン航空の成功が刺激になって、ドケッチAir New Zealandでさえ、自分達のKoru Club を改善する気になった。
むかしは半乾きのしょもないツナやチキンのサンドイッチと、チーズと林檎やブドウで誤魔化していたが、このあいだクライストチャーチにでかけたときは、むっちゃくちゃおいしいダルスープがあって、ぶっくらこいてしまった。
場所もあろうに、いまだに田舎のモテルに行けば「インド人お断り」というサインを平然と掲げている国で、あんなにおいしいインディアンスープが食べられるとは思わなかった。
コーヒーも、ちゃんとバリスタがいるコーヒーバーがあって、iPhoneのappでブブッと注文すると、数分でビビッと「出来ました」のお知らせがあって、取りにゆくと、うんまいラテが飲めるようになっている。

多分、空港のああいうラウンジや、ホテルの朝食が契機になって、ニュージーランドのようにドケッチ・ケッチンボな国でも「食べ放題」は普通になってきた。
普通になってくると、「食べ放題」は、いかにも実情にそぐわない呼び方であって、いくらでも食べていいことになっているといっても、腹八分でやめにするのは、たいていの人の習慣でしょう。

ツイッタで書いたように、いつかニュージーランドの朝の「世界の珍風景」みたいな番組で、日本のバイキングの元祖帝国ホテルの「高級バイキング」の開店風景を映していたが、フロアのリフト(エレベータ)のドアがあくなり、着飾ったおばちゃんたちが、ドバッと飛び出してきて、レストランめざして疾走して、そのうちにおばちゃんのひとりがこけると、それにけっつまづいたおばちゃんもこけて、こけつまろびつ、どうやら予約はできないらしいテーブルめざして生存を賭けたレースを展開する。

あるいは、義理叔父はひと頃、短い間、高田馬場に住んでいたが、午後4時までは飲み放題の「ダルマ」という居酒屋があって、そこのビルに用事があって4時頃にいくと、小さなエレベータのドアが開いた瞬間に、飲み放題の焼酎を詰め込みすぎたホームレスのおっちゃんたちが、おえええええー、と床に嘔吐をぶちまけていたりしたそうです。

おもうに、そういうことどもは、「食べ放題」という命名や「二時間制限」という、多分、あれは日本だけの習慣だとおもうが、時間制限を設けて、いかにも、さっさと詰め込めといわんばかりに煽るものだから、お下品なことになるのではあるまいか。

食べ放題というコンセプトの最も良い点は「なんにも考えなくてよい」点であるはずだが、そこに「二時間までですよ」と、食事のときに最も考えたくない時間に制約を被せられては、興醒めというか、なにもかも台無しだろう。
どうしてもやりたければ、「五時間まで」くらいにすればいいのではないかしら。

最後に、イリノイの小さな田舎町にあった食べ放題ステーキ屋の思い出を書いておく。
シカゴからメンフィスへ行くインターステートハイウェイの途中にある、その小さな田舎町に、どういう縁があるのか、わしは子供のときから、おおきくなったあとまで、なんどか寄ったことがある。
ただ立ち寄って知り合いとコーヒーを飲んだり、あるいは泊まってもひと晩泊まりだけです。

いまはもうなくなってしまったそうだが、あの町には食べ放題のステーキ屋があって、壁の一方を埋めつくしたおおきなガラス張りの冷蔵庫から、自分の好きな部位の牛肉を、好きなだけ切り分けてもらって、店のまんなかにあるグリルで、知らない人たちとわいわい言いながら自分でステーキを焼く。

何度も切り分けてもらうのは面倒なので、たいていの人は、みんな肉の塊がおおきすぎて残してしまう。

それを見ていて、ビールを飲み過ぎたのでしょう、カウボーイハットとカウボーイブーツのおっちゃんが、
「人間はバカで貪欲だなあ。どいつもこいつも、みんな食べきれないくらい肉を抱えて困ってるじゃないか」と大きな声でいう。

一秒の半分くらい緊張した沈黙があったが、「おまえだって、半分しか食べてなくてビールばかり飲んでるじゃないか」と遠くのテーブルから述べた人がいて、店内のみんなで、大笑いになって終わってしまった。

なにによらず、おなじことだが、制限をなくすと、人間は一気に節制や品位の保持という自分で自分を制御する機能の発揮を強いられて、おもいがけないめんどくささをおしつけられるもののようです。
人間が最も苦手な自律性を求められる点において「食べ放題」は、実は、人間性の試験というか、たいてに人間にとっては、ほんとうは嫌がらせに近い制度なのかもしれません。

藤沢の千円食べ放題焼き肉、おいしかったけどね。

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太平洋戦争へのノート2 大西瀧治郎と神風特攻隊

特攻の発案者大西瀧治郎は1945年8月16日、腹を十文字に切って割腹したうえに喉と胸を突いて自殺します。

切腹は激痛を伴う死に方で、クビを刎ねて介錯するのは、よほど豪胆な人間でも、腹に刃を立てて一文字に切り裂くと激痛で気を失うからであるという。
むかしの、いわば死ぬことのプロであった侍でも、一文字に切腹するだけでもたいへんなことで、まして一文字に切ったうえに縦に切って「十文字腹を切る」のは未曾有のことであるよーでした。

大西瀧治郎は、そのうえに喉と胸を突いて、それでも死ねなかった。
切り裂き方が浅かったからではないのは、家人の連絡によって駆け付けた軍医の証言があります。

大西中将は、その駆け付けた軍医と看護の人に対しても、「もう階下に行ってくれ、おれは苦しんで死にたいのだから」と述べて、ずたずたに裂けた内臓と、穴が空いた肺腑と、裂けた気管から大量の血を失いながら、血の海のなかで、なお数時間を生きて死ぬ。

この人を、ここまでの苦悶の死に駆りたてたのは、彼が献策した「特別攻撃」、英語ではカミカゼと呼ばれた自殺攻撃戦術で、4000人の若者に死を命じたことへの自責の念でした。

どうも読んでいくと、大西瀧治郎自身は、神風(しんぷう)特別攻撃隊、取り分け、その嚆矢となる敷島隊を組織するにあたって、作戦家としての合理的な思考を積み重ねた結果の、一時の便宜的な方策として、愛国心はあふれるほどあるが技量があまい操縦士を選抜して、敵の不意をついて突入させる、一度限りの奇策として考えついたもののようでした。

必死にものを考え詰める、各国海軍軍人によくある、計算に計算を重ねるゲーマー頭脳の典型というか、人命の絶対価値よりも作戦としての奇想の魅力に勝てなかったもののようである。

前に「ふたつの太平洋戦争」で、激突時の初速、炸薬量、角度から考えて、正規空母を撃沈するというような戦果は考えられない、と書いたら、どこで仕入れてきたのか、誤りに満ちた「事実」を延々と大長文で送ってきて、こういう勉強をしない知ったかぶり人間特有の「わかりましたか?」という言葉で結んだコメントで、苦笑させられてしまったが、特攻攻撃が兵器として有効でないことは特攻の可否を議論する参謀を交えた会議でも、たびたび確認されている。
みな、どんなに条件がよくても体当たり攻撃で正規空母や戦艦に有効な被害を与えられる可能性がないのは知悉していた。

現に第一回目の神風攻撃であるフィリピンの敷島隊も、小沢治三郎ひきいる残存空母の機動艦隊に引き寄せられて、ハルゼーの主力艦隊が北方に引き寄せられた留守を狙って、マッカサーの上陸部隊の上空を掩護するために残っていたキトカンベイ、その他、軽装甲の護衛空母群に対して行われたもので、しかも、本来の作戦目的は栗田提督の大和や武蔵以下のレイテ湾襲撃艦隊が無事輸送船と揚陸物資への砲撃を終えるまでの時間稼ぎに、うすっぺらな飛行甲板を使えなくすることだけを目的としていた。

ところが、商船船体の設計でつくられた、つまり防御装甲がゼロに近い護衛空母セント・ローが敷島隊の特攻機による搭載爆弾の誘爆という不慮の事態によって大爆発を起こして沈没する。
やはり護衛空母のキト・カンベイも甲板脇の通路に体当たりされて、短いあいだ甲板が使えなくなり、カリニン・ベイには二機が空母の急所と言われるエレベータに命中して、エレベーター自体は無事だったが、体当たり機の炎上によって、やはり暫時使用不能になります。

レイテ湾突入をめざして、全速で航進する栗田艦隊にかかるはずの航空攻撃の圧力は、小沢治三郎の残存機動艦隊の全滅と引き換えの囮北上作戦と、レイテ湾上空を直衛する護衛空母のうち3隻が使えなくなったことでかなり軽減される。

海軍ではエリートである海兵学校出身の関行男に率いられた敷島隊が戦果と呼びうるものをあげえたことで、海軍は、特攻を国民精神の中核に据えようと決心したように見えます。

実は、敷島隊とほぼ同時に、同規模の諸隊、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」も、それぞれの基地から発進して米艦隊めざして突入をめざしたが、そもそも海軍の宣伝士気高揚作戦の中核というか、エリートの海兵将校が国を守る為に志願して自殺攻撃を行ったのだということが主眼で、その主隊がうまくいったので、敷島隊が成功したあとの残りの、たかだか予備学生あがりが指揮するバックアップ諸隊は、全員戦死したことだけはたしかでも、主隊が成功したあとでは海軍首脳部にすればもうどうでもよくて、その証拠に、いったい海域突入後どうなったのか、いまに至るまで判っていません。

国のために喜んで死に赴いたエリート将校代表として選ばれた関行男は、「勇者」の取材に訪れた同盟新聞記者に対して、こう述べている。

「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう」

日本では美談として伝えられ、英語世界では「日本が負けたら妻が強姦されるから」では、いかにも勝てば相手の国の妻や娘を強姦することしか考えなかった日本軍の将校らしい、と評された談話をどう考えるかは、ひとによって異なるだろう。

大西瀧治郎は「特攻などは統師の外道である」と自嘲していたが、この言葉の意味の裏に、「物理学で戦争をせよ」と叩き込まれる日本の海兵出身将校の、そのなかでも論理と数理によって計算して戦うことの大事さを日頃からうるさく述べていた大西瀧治郎が、「特攻攻撃によって実効のある戦果をあげることは絶対にできない」と度重なる実験によって確信していた事実があることを知っているかいないかでは、言葉の響きそのものが異なる。

神風特攻攻撃の最も奇妙で、ひとによっては呪わしいと感じる点は、立案者、評価者、攻撃に関わったすべての人間が、特攻兵器が兵器としては効果がないことを知悉していた点で、特攻攻撃の無力を知りながら最後には「2000万人特攻」を協力に主張して、参内資格のない宮中にまで軍刀をにぎりしめて押し入って、降伏などという考えは受け入れられないこと、日本人は、降伏するために戦争を戦ってきたのではないことを声涙をくだしながら説いた大西瀧治郎はゲーマー族軍人の焦燥を代表している。

大西瀧治郎は、海軍大臣米内光政に対して、「徹底的に負けること。いまの日本人は、負け方が足りない。この国のゆいいつの希望である若い人間が、ひとりひとり手を挙げて自殺攻撃をすることで初めて、日本は新しいスタートを切れるのだ」と懇懇と述べたという。
「負け方が足りない。こんなぼんやりした負け方では、日本人は目覚めない。日本人はもっと悲惨な目にあわなければ民族として滅びてしまう」
という大西瀧治郎の晩年に一貫して流れる思想は、実は、鈴木貞一の企画院や軍需省、綜合計画局を通してみる日本の戦争努力の「集中力のなさ」
アメリカ、イギリス、(特にシュペーア以降の)ドイツが国力の全力を挙げて、戦争努力に集中した経済体制を組んで、いわば真剣に戦争を戦ったのに較べて、日本はイタリアと並んで、なんだかぼんやりした戦争努力というか、やる気があるんだかないんだか判らないというか、のんべんだらりとした努力のまま終戦に行きついていて、戦後、連合国側に立って日本の戦争努力を調査した将官たちに失笑される、日本の国家としての戦争の「やる気のなさ」に対する実感だったのがいまでは判っている。

戦後、大井篤たちが声高に述べて、「日本は補給思想がなかったから負けたのだ」と述べて、それが定説になって、それはそれで正しいのだけれども、現実にもっと近しく述べれば「いまのままの商船製造量では喪失量に到底追いつくわけがない」と戦前から皆が了解していたのに、問題を先延ばしして、補給について述べてもなにもいいことがないので保身のために誰もなにもいわない状態に陥ったまま、手を拱いて、「補給できなくなっちゃいましたね」と頷き合っていた、というほうが遙かに現実に近い。

大西瀧治郎が割腹自殺を遂げる瞬間まで苛立っていたのは、この日本人の、掛け声のおおきさとは裏腹な、「得体のしれない、やる気のなさ」でした。
駿馬のふりをしているロバというか、言うことだけを聞いていると、まじめで弛まず努力をして身を滅して仕事をしていそうなのに、よく目を凝らすと、仕事をしているふりをしているのが上手なだけで、ほんとうの仕事の進捗は唖然とするくらい何もやっていない、という現実を前にして前線で戦う将校たちは霞ヶ関の赤煉瓦を呪詛するが、大西瀧治郎は、その中でも、若者を次々に殺しながら、気が狂いそうな煩悶のなかで、なんとかゲームに勝つ方法はないかと日夜、焦燥していたのが戦後に証言された会話によってわかっています。
終戦近くになると、ほとんど夢遊病者のように、ひとりごとで、「勝つ方法はないかなあ。なにかあるはずなんだが。どこかにアメリカに勝つ方法はないかなあ。
どうして何もおもいつかないんだろう」と繰り返して、狂った人のようであったという。

当初、ただ一回きりの、便宜的な「外道戦法」として神風特攻をおもいついた大西瀧治郎は、採るに足りない戦果とはいえ、ひさしぶりの、発表しうる戦果を得たのに気をよくして、特攻を軍令部として正式の作戦として採用して、大西瀧治郎を驚かせます。

ここで気合いをいれて一発、全将兵の前で海兵出身の将校をギロチンにかけることによって、ショック療法で、気をひきしめようと思ってやった作戦が、作戦として効果がないことが判っているのに、いわばギロチンロボットが待つコンベヤの終端に、次々に若者を載せて送り込むようにして、神風自殺特攻という無意味な処刑をオートメーションでおこなってゆく決定をくだした首脳陣の決定をみて大西瀧治郎は深刻な衝撃に見舞われる。

敷島隊のときには、例え同調圧力のせいで否とはいえない雰囲気があったとは言っても、まがりなりにも志願の意思を確認してからだった特攻隊員の選出も、

1 絶対に特攻を希望する
2 熱烈に特攻を希望する
3 特攻を希望する

の三つの選択肢からひとつに記しをつけさせておいて、これを「志願」と呼ぶ、日本的な頽廃に陥ってゆく。

連合国側の兵士が、カミカゼ攻撃被害による戦死を狂信者の自殺爆弾に巻き込まれた犬死にと捉えたのはあたりまえで、その「狂った民族」の日本人への印象は、諸国民の奥深い魂に刻印されて、残念ながらいまでも消えているとはいえない。

大西瀧治郎は「離陸して、やっとまっすぐ飛べるかどうかの未熟な飛行技術しかない部下を、よりよく死なせてやるのも将帥の務めだ」と述べたが、大西の残した名言として語り伝えられているところを観ると、日本の人には判るのだろうが、わしには「なにいい気なことを言ってやがんだ、このじじい」というか、理解を遙かに越えている。

最後に、日本語の原典が見つからなくてもうしわけないが、英語記事やフォーラムで、よく引用される半藤一利の神風特別攻撃評を、引用しておきます。

ついでにこの評言への感想を述べると、それまで気分が悪くなるような狂人の発想にばかりつきあわされてきて、ここに至って、やっと日本語人の文明人に会えた安堵でほっとするといえばいいのか。

かろうじて世界の普遍的な文明とつながる日本人の良心の言葉に出会えて、よかったなあ、と考えました。
この一文を読む、ほかの英語人もおなじ気持だとおもう。
日本人ジャーナリストには珍しく足で稼いで、インタビューを積み重ねて歴史をしるしたこのすぐれた編集者は、こう述べている。
いまの日本語人の社会では、たいそう評判が悪い人なのは知っているが、そんなことはどうでもいい。

The complete irresponsibility and stupidity of the nation’s military leaders drove the troops to their deaths. The same can be said for the kamikaze special strike force strategy. They took advantage of the unadulterated feelings of the pilots. People claim it’s a form of ‘Japanese aesthetics’, but that’s pure nonsense. The General Staff Office built it up as some grand strategy when in actuality they sat at their desks merely playing with their pencils wondering ‘how many planes can we send out today?’ This lot can never be forgiven.

これほどすぐれた特攻隊員への哀悼の言葉は、ほかには見あたらない、と考えます。

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太平洋戦争へのノート 1

日本の太平洋戦争くらい何がやりたかった判らない戦争はない。
直截の発端は、フランスがドイツに負けて、あっけなく占領されてしまったことで、これによって出来たインドシナの真空地帯を、日本はどうしても手にいれたかった。

のっけから余計な話をする。
ツイッタで「無害なはちへお」@hachiheo さんという、ベトナムに留学後、2007年からハノイに住んでいる豊かな常識をもった人がいて、こっそり愛読しているが、たしかはちへおさんであったとおもう。
ベトナムに戦時中日本がかけた迷惑について話していたら、さっそく「例の類の」と形容したくなる日本人がやってきて、
「白人からベトナムを解放したのは日本人です。そんなことも知らないのですか」と述べていて、はちへおさんのげんなりする顔が思い浮かぶようだったが、
日本がベトナムの欧州人からの解放に手を貸して功績があったというのは日本人だけが信じている伝説で、日本人観光ツアーのガイドがお愛想で述べることくらいはありそうな気がするが、事実ではない。

東遊運動で有名なファン・ボイ・チャウが日本政府に期待したことがあるのは現実の歴史だが、日本の反応はベトナム人を裏切ってフランス側に立つことだった。
1909年には日仏協約を結んで東遊運動に賛同して日本にやってきていたベトナム人たちを容赦もなく一方的に全員国外追放します。
はっきりと自分達を欧州人の同族と規定していて、やがて今度はフランスがドイツに屈すると、気分を述べれば、いわば枢軸側の欧州国家としてベトナムを乗っ取りにやってくる。

すっかり欧州国家のつもりで行動した日本の誤算は、「そのくらい大目にみてくれるだろう」と考えていたアメリカが、激怒してしまったことで、石油の禁輸を始めとする強硬策をとり、また、外交的には「日本のようなウソツキ国家のいうことはいっさい信用しない」という態度をはっきりと示すようになる。

それまで暫定協定を結んだりして、ぎこちないなりに外交交渉を行っていたのが、このベトナム進駐からあとは、日本のいうことはいっさい信用しない姿勢に変わっていきます。

いっそ、すがすがしいくらいの外交的な失敗だが、国民に自分達の失敗を知らせる習慣をもたない日本政府は「バスに乗りおくれるな」という世にも品の悪い標語で、ナチの世界支配のおこぼれにあずかりたい一心で新体制運動をすすめてきた国民とともに「棚ぼた」で手に入ったインドシナを、濡れ手で粟の、おこぼれ第1号として歓迎する。

アメリカは戦前日本では、もともと大変な大衆的人気がある国でした。
えええええー! そんなバカな! 鬼畜米英を知らないのか!という人がたくさんいそうだが、例えば、おおきなアルバムくらいのサイズの蒐集帳に5冊、戦前のマッチ箱の絵を集めてあるが、ベティブーブや、分厚く真っ赤な唇に漆黒の肌の誇張されて戯画化された、いまなら当然人種差別的として問題になりそうなアフリカンアメリカンをあしらったマッチの箱は、おもいがけないくらいたくさんある。
これも、たくさんある、スマトラやパラオというような南洋の地名をあしらったマッチ箱絵とおなじくらいの数があるのではなかろーか。

当時のエンターテイメントの中心地、浅草六区の演し物でも洋モノはアメリカのものが最も人気があって、あるいは、例えば1928年の二村定一の大ヒット「私の青空」は、ウォルター・ドナルドソンとジョージ・ホワイティングがつくった「My Blue Heaven」の日本語版でした。

大衆文化から目を転じて軍人の留学先をみても、日露戦争の参謀として日本海海戦を勝利に導いた秋山真之から始まって、山本五十六、大井篤、アメリカに派遣された海軍軍人はたくさんいます。

一方でドイツ、イタリア語圏で具に観察を行った井上成美のような軍人もいて、日本はアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、というような国について豊富な知識と、より重要なことには、感触をもっていた。
ローマに住んで、イタリアの文化について造詣が深かった井上成美が、こと軍事のことになると、「あんな国と組んだらたいへんなことになる」とよく洩らしていた、というのは鎌倉のような元の海軍将校町に行くと、いまでも語り継がれている。

軍人にとっては、陸軍も含めて、ドイツと組むのは危ない、というのは実は常識に近いものだった。
軍事の頂点にある昭和天皇そのひとも、「ドイツと組めば日本は滅びるかもしれない」と何度も口にしています。
「あんな、信義のない国はダメだとおもう」と述べている。
「古来、ドイツ人と組んだ国が栄えた試しはない」とも言っている。

戦後、ジャーナリストや作家のインタビューに応えて、なぜ素人でも危なっかしいと感じていたはずのドイツとの同盟へ、ごり押しにすすんだのかと問われた当時の各省課長級将校だったひとたちは、ドイツ人の規律正しさ、愛国心の強さ、勤勉、几帳面が日本人の国民性とあっていたからだと述べている。

考えてみると、「国民性が似ていたから」というのも、イチかバチかのような投機的軍事同盟を組む理由として酷いが、だいいち、そんなことが理由で、あれほど瘧にかかったような親独運動が軍人たちのあいだに起きるだろうか?という疑問が、少しでも人間性というものへの理解があれば起きるとおもいます。
しかも、つぶさに観ると、ドイツに出張する前は歴とした新英派将校だったひとたちが、帰日した途端に親独、新ナチ、ヒットラーばんじゃい!
になった例が少なからずある。

戦後、水交社のなかでも、正直誠実で嘘がいえない人柄で親しまれた千早正隆という元は海軍中佐だったひとがいます。
お互いに戒め合って箝口令をひいてあった当時の軍人の現実を、明かしてしまったのは、正直だった、この人で、
ドイツ政府は、国家の情報戦略のひとつとして、日本の三十代を中心とする若手将校たちに、「女」をあてがっていた。
それも、ナチの例の手口で、貴族の娘だということに仕立てて、なんちゃら伯爵令嬢、というような女の人達に毎夜、夜伽をさせていたと証言している。

これには、おもわぬ方面、イギリス側からの証言もあって、ドイツを経て次の任地イギリスに出張してきた日本の海軍将校が事情はドイツと同じだろうと考えて「申し訳ありませんが、今晩、わたしの相手をなさってくれる女の方はどこですか?」と訊くので、接待の担当士官が「申し訳ありませんが、我が国ではご婦人と同衾するためには、その前に恋愛をなさらなければならないことになっているのです」と応えた、という有名な日本人士官たちについての言い伝えが残っている。

いまでいえばハニートラップで、いまもむかしも、日本の人が女の人とエッチする誘惑に勝てないのは、伝説なだけではなくて、真実でもあるようでした。

とても書き尽くせるものではないが、さまざまな要因によって、勝てないとわかっているほうに賭けた日本の指導層は、指導者の誰に訊いても「勝てるわけがない」と応えていたアメリカ相手の戦争に乗り出してゆく。

日本語の本を読むと、あんまり書いていないようなので、少し解説すると、この「勝てるわけがない」と日本の軍人たちが考えていた理由には、通常言われている「資源の不足」「工業力の劣勢」というようなことのほかに、純軍事的な理由もあって、軍事思想として、日本軍は、陸海軍とも、戦後の自衛隊ではないが、防御的な軍隊でした。
早期に戦争を終結するために必要な攻勢打撃力をもたない防御的な軍隊であるのに国力の制約から先進諸国との長期の戦争を維持するのは無理であるという不思議な軍隊を持ってしまって、日本にはアメリカのような工業大国と戦争をやって勝てる自信はまったく持っていなかった。

独断専行の伝統を悪用してすぐに国境地帯で紛争を起こす、統帥からいえば下剋上そのものの将校達、例えば辻政信や服部卓四郎のような侵略マニア的な若手将校を常に優遇する癖があった軍隊としては奇妙だが、軍備そのものからみると、現実には防御的だった。
本来、防御用のMG34/42のような重機関銃を軽機関銃のようにも扱えるようにして攻勢戦闘に使えるようにしたドイツ国防軍のような軍隊とは戦争思想が根本から異なる。

推測すると、日本は第一次世界大戦には、義理でつきあった程度の参戦しかしていなくて、近代戦というものが理解できなかったのではないかとおもわなくもないが、「打撃力」という近代戦には必須の思想を欠いていました。

海軍は机上の推定でしなかったが「航空艦隊」と「潜水艦」という打撃力を準備していた。
航空機、特に零戦のような1000キロを進空して敵地上空を制圧するというような兵器は、当時の軍事常識を遙かに越えたもので、これと空母を組み合わせることによって、ちょうどグデーリアンが戦車部隊を洋上の巡洋艦隊として作戦したのと同様に、一級の打撃力として働くのではないかと期待されていた。
一方の大和や武蔵は46センチの巨砲といっても、明治時代とは異なって、すでに第1次世界大戦のユトランド沖海戦であきらかになっていたとおり、結局は敵が近海に侵攻してきて、決戦を求めてきてくれるというかなり空想的な戦争展開になったときにのみ有効な防御的なスーパー兵器だったことは言うまでもない。

現実には、この机上の打撃力も計算通りではなくて、実は開戦前には潜水艦隊によりおおきな期待をかけていた海軍は、決戦への漸減作戦用くらいに考えていた航空機が、実際には巨大な打撃力として戦争を支配する力になるとは夢想もしていなかった。

その考えをあらためたのは、根っからの賭博好きだった山本五十六大将が考えた投機的な作戦である真珠湾奇襲に成功してからです。
実際に使用してみると、この空母+零戦+九九式艦爆+九七式艦上攻撃機という組み合わせは、1941〜1942年当時最強の海上打撃戦力で、真珠湾でおもわぬ戦果をあげたあと、西はインド洋のコロンボにまで進出して空襲したりしている。
あっというまにハワイ以西の太平洋全体を制圧してしまう。

面白いことがある。
1991年に出た、Betrayal At Pearl Harborという本があります。
筆者のJames RusbridgerはCIAから小遣い稼ぎにキューバ産砂糖の価格暴落調略を請け負ったのをきっかけに戦後はMI6のスパイを稼業にしていた人です。
経歴が経歴なので、というべきか、経歴が経歴なのに、というべきなのか、陰謀論の大家で、陰謀史観に基づいた本を何冊か出しているが、自分が陰謀を実現するために働いていたので、そんじょそこらの陰謀史家とは、やや異なるといえなくもない。

ともかく。

この人がFECB(Far East Combined Bureau)は1941年11月25日に山本五十六連合艦隊司令部から南雲忠一の機動部隊に対してJN-25に拠って発令した命令を解読していた、と証言している。
Far East Combined Bureauというのは、主に対日諜報を担っていた香港とシンガポールに本部をおくスパイ機関です。

「機動部隊はヒトカップ湾を11月26日朝出撃、12月3日午後に集結ポイントで会合して、速やかに燃料を補給すべし」

これは軍事知識があれば、たいへんなことで、少なくともイギリス海軍省は、日本海軍が機動部隊の全力を挙げて、

1 真珠湾
2 マニラ
3 シンガポール

のどれかを奇襲しつつあることを知っていたことになる。

理論的に可能な軍事拠点は1〜3の三箇所でも、どんなに勘が悪くても目標が真珠湾でしかありえないことは、当時の海軍軍人ならば、誰にでもわかったはずで、この情報は25日の夜にはチャーチルの手元に届いていました。

やがて、12月8日、アメリカ大統領特使アヴェレル・ハリマンと共に夕食を摂っていたウインストン・チャーチルは、日本の真珠湾攻撃を伝える電話連絡をうけとって、小躍りして喜んだという。
ブラック・ドラゴン然としたナチと激闘を繰り返して疲労困憊していてるところに、日本がインドシナに進駐して殆ど戦争準備が行われていないシンガポールという大事な裏庭を脅かす事態に苦しんでいたウインストンじじとしては、神の救済というか、法悦の至りで、何度も「これで戦争に勝てる」と何度も述べたというが、
天にも昇る心持ちだったでしょう。

一方、ドイツ国防軍の将軍たちは、日本の真珠湾奇襲の報を聞いて、激怒していた。
あろうことか、折角、自縄自縛、自分で自分の手足を縛って立ち上がれないでいたアメリカという工業力の化け物であるゴリアテの縛めをマヌケにも解き放ってしまったうえに、ジューコフのソ連軍を東方に足止めしておくという暗黙の約束を、のっけから日本が踏みにじったからで、その瞬間、シュリーフェン・プランの破綻とおなじ状態に陥った、あるいは、より悪い状態にドイツ国防軍は陥ったわけなので、当たり前といえば当たり前の怒りでした。

ただひとり、不思議にも怒りらしい怒りを見せなかったのは、真珠湾の報に接してアメリカに即座に宣戦を布告したアドルフ・ヒットラーそのひとで、当初、まじめにアメリカの参戦を1970年代と踏んでいた独裁者は、多分、骨の髄からの人種差別主義からくる日本人への軽蔑によって、日本人の裏切りは問題にするに足りないという姿勢をみせたかったのではないかとおもわれる。
ヒットラーの日本人に対する態度は、このときに限らず、終始一貫して、ドイツに忠義をたもつ未開民族への寛容に満ちている。

さて、この連続するはずの記事を、わしは、自分のための備忘録として書いています。
自分の戦争観を日本語練習を兼ねてまとめてみたくなったからで、とりあえず、日本人にもおおいに関係がある太平洋戦争から始めようと考えた。
わしについて、「戦争オタクの一面もあって不思議なひとだ」と書いている人がいたが、たしかにオタクなんだけどね、しかし、日本の人に較べると、英語人、特にイギリス、ニュージーランド、オーストラリアの三国の人間は戦争、なかんずく兵器や作戦について話したり本を読んだりするする機会が多い。

若い女の人でも、スピットファイア各タイプの最高出力や武装くらいは諳んじている人はたくさんいます。
このくらいで戦争オタクならば、いわば国民を挙げて戦争オタクなのであって、この三国の人間が一般にたいへん反戦的なのは、戦争について大量に読書している人が多いからであるとおもう。

こんなことを言うと、ぶったまげてしまう人が多いのは判っているが、太平洋戦争で、日本は二度、戦略として勝つチャンスがあった。
GDPの80%を軍備に費やしてしまうような正に気違いじみた軍事国家だったが、それだけ戦争に国ごといれこんだだけのことはあって、案外、太平洋ではうまく戦争をやっている面もあった。

例えばオーストラリアの昔のVJデー記念番組を観ていると、判で捺したように「優勢で物量豊富な日本軍」という表現がでてきて、日本側がつくった戦争ドキュメンタリとは、まるで印象が異なっている。

そういうことも含めて、おもいつくままに、書いていこうと思っています。

だから、「戦争の話なんて読みたくなあーい」という人は、このタイトルの記事は避けるとよいと思われる。

ふたつの太平洋戦争

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/

は、連合国側からみた(特にVEデー以降の)太平洋戦争への最も常識的な観点が日本語では意外に書かれていないことに気が付いて、日本語でも書いておいたほうがよさそうだ、と考えて書いたが、
この続き物になるはずの記事は、英語人が英語側の知識をもって日本側に立って太平洋戦争をみるとどうなるか、という倒錯した観点に立っている。
リデル・ハートが採用したやりかたで、なぜそんなヘンタイなことをするかというと、日本語人にとって必要な太平洋戦争観、ひいては日本社会への観点は、そうすることによって最も得やすいと考えられるからです。

ひとつ、述べておくと、日本の人が考えるのとはかなり異なって、戦争は発起から展開、終了に至るまで、実は兵器という要素におおきく依存している。

日本が開戦を決意したのは極端ないいかたをすると零戦があったからです。
日本が終戦を決意したのは異論があることを承知でいえば、やはり原爆を落とされたからでした。

だから兵器についての話も増えるかもしれなくて、お退屈様であるとしかいいようがないが、まあ、やってみます。

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通りの向こうにいるともだち

自分が書いたものを見ると、何語であれ、「友達は、いらない」と、よく書いている。
孤独な人間が書くべき言葉だが、現実は、もともと大変社交的な人間で、呼ばれても、パーティでもパブでも、断ったりはしない。

巧言令色すくなし仁。
色を令して、言を巧みに相手を喜ばせるのも上手であって、世が世なら、結婚詐欺師として大成したのではないかと思う事がある。

個人としての外交能力を他人に取り入るために使う人もいるのだろうが、自分の場合は、他人との距離をおくために使っているもののよーです。

ATMの前に出来た行列をみると、フィンランド人は有名で、一見すると、ひととひとが、ばらばらに、お互いに遠く離れて立っているように見える。
田舎の小さな町であると、ひどければ、3〜4メートル離れて立っている。
ニュージーランド人も、フィンランド人とおなじか、もしかすると、もっとひどいかもしれない、かなり間隔があいていて、もちろん人によって違うが、最近はオークランドのような都会では新しくやってきた世代の人なのでしょう、アジア系の移民の人達に、永遠に割り込まれてATMにたどりつけないのが知識として普及してきたので、日本の人よりもやや間隙がおおきいくらいの距離で立っているが、本来は、2〜3メートル離れて立っているのが普通で、いまでも南島の田舎町や北島の東側へ行くと、むかしながらの、並んでるんだが、三々五々立っているんだが、判然としない距離をおいて立っている。

逆に、これは映画や画像でしかみたことがないが、インドの人は故国では、お互いの距離が、ものすごく近い。
冗談に聞こえるが、ムンバイなどでは身体と身体を密着させて並んでいる。

下品な読書経験をもつ人なら「城の中のイギリス人」を思い起こしそうな光景で、
きっと、写真をみると、カンタック空港で、日本の女の人がスリにあって、「いやあああーん」と大きな声で叫ぶのを振り返った香港人の若い男のようにお下品なニヤニヤ笑いを浮かべてしまっているのではないか。

ある写真についていた解説によると、あれは、ボディランゲージとして観察するべきような文化人類学的な事象ではなくて、ちょっとでも隙間があると容赦なく割り込まれるからだ、と書いてあったが、ほんとうかどうかは、しりません。

自分は、だいたい、大通りの向こうに相手が立っていて、顔はぼんやりとしかみえないが、懸命に手をふればお互いに気が付く、というくらいの距離が好きなようです。
交通量もおおい片側三車線のクルマが次から次に走り抜けていって、なつかしさに、懸命に手をふる。
ときに両手でラッパの形をつくって、なにごとか述べるが、よく聞きとれない。
バスやトラックの大型車が走り抜けると、どうしたことか、いつのまにか姿がかききえている。

友達との距離の理想は、そういうもので、逆に、距離がそのくらいであるときに最も見知らぬ人であった人との切実な友情を感じる。

一方では、同族と感じる人々がいて、このひとびとは、大半が子供のときからの知己・友人です。
しかし、こちらは、やたらと数が多い兄弟や親戚のようなもので、他人が聞いたらぶっくらこいてしまうようなポリティカリー・インコレクトな発言が交換されていて、あるいは、よく考えてみると友達だとおもって意識されていなければ、到底、鼻持ちならないようなエリート意識の固まりのような人間もおおい。
別に友達だから我慢しているわけではなくて、いまさら蛇にうまれついた存在をゲッコーではないと怒っても仕方がないというか、われながらこの例えでは訳がわからないが、ダメはダメなりに友達としては可愛い、ということであるよーです。

むかし、大学にいるときに、「きみは付き合いの長さによってしか友達を評価しないんだよ!」と、えらく憤激した調子でいわれたことがあったが、考えてみればその通りで、その人の趣旨は、当然、新しくめぐりあった友達であっても、相性があえば、旧然の友達よりも、より親しい友達として遇されるべきだ、ということであるらしかったが、なるほどなあ、もっともである、とおもうだけで、では革めましょう、とは一向におもわなかったのをおぼえている。

ときどき、そのときの相手の大憤激の表情をおもいだして、ほんとだよね、と考えてニヤニヤする。

自分だけのことなのか、他の人もそうなのかは知らないが、そもそも友情というものについて意識的でないのが原因であるらしいのは、ずっとむかしから判っていて、
どうも、そういうことでは人間として具合が悪くて、付き合いが長い順に信用のブロックチェーンが雲までとどいて頭の上にゆらゆら揺れているのだといっても、その一方で、ひさしぶりに高校のときの友達にあって、「うーむ、こいつって、こんなに退屈なやつだったろうか」とおもったりしているのだから、手の施しようがないというか、なんというか。

昨日、メールボクスを開いてみたら、なつかしい名前があって、ダブルクリックしてみると、長大なemailが出てきた。

奥さんとの、そもそものなれそめから、結婚した理由、行き違いや交感の歴史が書いてあって、奥さんに愛人ができて、離婚することになっったと書いてあった。
冗談ではなくて浩瀚な文章で、出版するためにはボリューム1とボリューム2に分けたほうがよさそうな手紙でした。

読んでいるうちに、涙でみえなくなって、鼻をばっちくずるずる言わせながら読んでいたら、折悪しく、モニがカクテルのトレイをもって部屋に入ってきて、はなはだしくバツの悪いおもいをした。

その手紙を、ほとんどおいおい泣きながら読みおわって、盛大に鼻をかみながら初めに考えたことは、脈絡がないといえば脈絡がない、
「自分はモニとあわなければ、結局、ずっとひとりでいただろう」ということだった。
恋人もなく、友達ともだんだん疎遠になって、中年に至るころには、大きな家に、家の世話をしてくれるひとびとと、ひとりで住んで、案外それで幸福だったのではないだろうか。

自分のことをかんがえると、 特に用事があって、この世界に生まれてきたようには思われない。
やりたいことは、たくさんあって、どうやら、よっぽどのんびりに見えるらしい自分の影の、いろいろな人達が考えるよりも、ずっとたくさんのことをおこなって暮らしているが、しかし、どれもただの好奇心で、自然に興味があれば数学を身に付け、いや、数学を身に付け、などというと気難しいに決まってる数学の神様が怒るだろうから、数学の方法を身に付け、人間の社会に興味をもてば、自然言語を習得する。

前に書いたように日本語という自然言語を身に付けようとおもいたったのは、自分のまわりを見渡して、ふたりの例外を除いて、誰にも読めない言語で、都合がいいことに、日本語は相当に高度な普遍語として機能してきた歴史をもっていて、始めたことには、すでにもう死相がでていて、どんどん死語が生まれて、表現できる世界が、年々、狭小になりはじめていたが、多分、最後はいっそ水村美苗の「私小説」のように、足りないところは英語でもなんでも補って、混ぜて書いてしまえる文体を発明すればいいだけのことで、そういう言い方をすれば、巨大な独り言の体系として身に付けたかった。

いくつかの言語を身に付けて、自然や世界を記述して、ひとりでヨットに乗って、360度どこにも陸地がみえないブルーウォーターを渡れば、誰にでも理屈ではなくて実感されるように、人間はみなひとりで、人間が社会的動物であるのは本質であるよりは方便で、サバイバルの方法論が定着しただけで、それが証拠には人間の言語は伝達ということに最も向いていない。
垂直に見下ろしたり、高いところを見上げるには向いていても、同じ地表に立っている他の人間に、自分の思惟の内容や感情を伝えることに全く向かない。

「友達は、いらない」と述べる自分は、ゲートのインターコムを鳴らして、
「ガメ、一杯飲みに行こうぜ」と電話もしないでやってきた友達に、
「おお、いいね」と述べて、パブにでかける。
パブに到着すると、見覚えのある顔があって、やあ、こっちに来て、一緒にやらないかい?という。

楽しい時間を過ごします。

だいたいはスモールトークで、あるいはバカ話で、例えばニュージーランドにいれば、ときに首相のブレストフィーディング休暇や、オーストラリアのてんでばらばらな、ガリポリでの若い連合王国将校の「オーストラリア人ほど規律がなくて集団行動ができな国民はみたことがない。第一、この国民は喧嘩と戦争の区別がついていない。かっかして、個々に塹壕を飛び出しては、ひとりずつトルコ兵に射殺されて、こんなひどい兵隊はみたことがない」という怒りとうんざりの感情に満ちた戦場日記をおもいおこさせる政治、イギリスのダメダメぶり、アメリカのナチ化、と話が遠くにいってしまうこともあるが、ときどきは、お互いに消息を知っている誰彼の話になって、
若いのに癌で死ぬなんてと、みなでしょんぼりしたり、愛人がいるのがばれて、奥さんにぶん殴られて頬骨を折って入院した先で、事情を知る看護の女の人に手荒に扱われて、もっか地獄を通行中の哀れな男の境遇を、失礼にもゲラゲラ笑ったり、
友達たちと、夕方を愉快にすごす。

しばらくすれば帰ります。
笑い顔や、泣き顔を背にして、
木に触って、パブにも神様にも支払いをすませて、
あるときは、立ち止まって、振り返って、別れを告げなければ。

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