日本語の死

さようなら、というのは、「そうでございますれば」という意味だろうか。

お名残惜しゅうございますが、わたくしはここで失礼いたします。

と述べて、横浜で、鎌倉まで行く友人達に別れのあいさつを述べる老女は、日本語が本来、長くて、省略を許さない言語表現をもっていたことをおもいださせる。

せっかちな日本語を指して、まるで車夫のような喋り方をする、と述べている人の言葉を読んだことがあったが、他のたいていの言語とおなじで、日本語もまた、そういうことに興味があれば、かつて階級社会であった日本の、労働者階級の言語に集約されてきた、ということなのでしょう。

ロンドンにいて最も楽しいのは、例えば骨董時計店に勤める友人をたずねて、よもやま話をするときの英語の美しさで、ひとつひとつのシラブルが精確に、正しく発音され、機知が織り込まれ、音楽のように発声される英語は、心地よい、という言葉は、こういうことのためにあるのだ、という気分にさせられます。

美しい英語は、階級制度が廃止されて75年が経ついまの日本の人にとっては、幸福なことに、正しく理解できない語彙になって、階層も階級も一緒くたになってしまうらしい階級という、人間が人間を不幸にするために拵えた化け物のような制度と同様に、恐龍で、すでに亡びつつあるのは、東山千栄子や久我美子たちの日本語が、いまの日本の人には話すことはおろか、聴いてもわからないものになっているのと、案外、軌を一にしているのかもしれません。

Decline and Fallという愉快な小説を書いたイーヴリン・ウォーがウィンストン・チャーチルに「きみが書く英語はどんどん古くなるね」と言われて、相好を崩して、終生、自分の小説に対する最大の褒め言葉として、好んで他人に語ったのは、言語というものの、そういう、のっぴきならない事情を反映している。

言語は、通常、普段に使い慣れている人間が印象しているよりも、ずっと恐ろしいもので、コミュニケーションや思考の道具として使っているつもりで、実際には、使っている人間の手をむんずとつかんで、予期しない方向へ連れていってしまう。

異なる角度からいえば、アンドレ・ブルトンたちが実験してみせた自動筆記は、普段は隠匿されている言語の知力を含む心理を支配する力をunleashしてみせた試みで、現実には、自分が主体となって考えているつもりでも、言語が物理装置としての大脳を間借りして、自律的に思考をすすめて、脳のほうは、体面上、まるで自分が言語を支配しているかのように意識に対して装っている、ということでしょう。

こんなことをいうとブルトンたちが腐りそうだが、ほら、「こっくりさん」というのがあるでしょう?

あれは実は参加者の自律言語を呼び出しているわけで、その結果が恐ろしいことになりやすいのは、自律言語のちからを完全に解き放って、制御できないものにすると、どういうことになるか、ということを暗示している。

古代の人間は、そうした機微をよく知っていて、言語を必要以上に簡略にすることを許さず、考えるためには、性急に考えたり、まして結論をだすことを許さず、ゆったりして、動かしがたい時間を言語に与えることによって自律言語が暴走することを防いでいた。

例えば翻訳でもかまわないので、カエサルの「ガリア戦記」やプルタークの対比列伝を読めば、そうした言語特有の事情は、一も二もなくわかります。

何度も書いたように、日本語にとっての生命力が湧出する泉は翻訳で、世界中の普遍言語のなかでただひとつ、世界への注釈語として生命をたもってきた。

本来、日本語に移植できない思考と言語表現を、大笑いに陥りそうなタイトロープを伝って、原義の深刻な表現をなんとか伝える不可能作業の過程で生まれた表現や、ある場合には造語が、日本語という言語をここまで生きた言語として生きながらえさせて来たのだとおもっています。

言語として、注釈語という不思議な渡世を可能にしてきたのは、もともとの出自が漢文の読み下し文という外国語の注釈そのものであったことの結果でしょう。

幸運なことに注釈語としての本流に、無意識の反発を感じた日本人が反作用として行ったことは日記と手紙と詩によって、「注釈されない自己」を表現することだった。
まるで鏡のない部屋で永遠に独語するひとのように孤独な心象を綴ってきた。

和泉式部日記や、和歌によって、日本人は精神の、ひいては文明としての、平衡をたもった。

いまを生きている日本の人も、文字通り昼食代ていどの価格を支払えば、文庫本という形で、その事実を実際に視認できます。

俳句という注釈語による詩の試みが芭蕉によって大成したのも、もちろん、この注釈語と「注釈されない自己」の統合があって、初めて可能なことだった。

そうして、和歌であるよりも俳句の成功の歴史的な時間の流れのなかで、西洋語の翻訳という例の言語生命の泉のなかから戦後現代詩が生まれて、日本語の生命を支えていく。

日本語は表層で起きたことだけを述べれば、テレビと商業コピーによって破壊されました。

最近は、このブログを書き始めたころには「なにを言ってるんだ、このひとは?」であったことが、だんだん社会のなかで常識になって、糸井重里、というような名前が(サラリーマン言葉でいえば)「戦犯」のようにして語られるようになったが、糸井重里というひとにおかしなところがあるとすれば、自分がコピーライターであることを否定しはじめて、吉本隆明だのなんだのと言いだしたことのほうで、コピーライターはなにしろ言語という、もともと自分の生命力をもったものをマーケティングの道具に使うという商売なので、そんな職業の人に節操がないというようなお説教じみた非難をしても、単に褒め言葉にすぎない。

問題は文学の役割をテレビと商業コピーに求めてしまった受け手のほうで、マーケティングの言葉を真実の言葉に置き換えてしまうことによって、日本の社会は思考能力そのものを失っていきます。

その政治世界における表現が、外から見れば軽薄としか言いようがない麻生政権であり安倍政権で、野田政権なのであるとおもう。

そういう日本の頽廃の仕組みは、たとえば百田尚樹のような小説家としては箸にも棒にもかからない低劣粗雑な三流作家が国営放送NHKの報道全体におおきな影響をもってしまうような現象によく顕れている。

新しい語彙の寿命が極端に短くなって、次々に死語になって、
一方では、映画を「鑑賞する」と言わざるをえないような、すでに現実を表現するちからを失った表現が、淘汰もされずに残っている。

言えないことがたくさん出来てしまって、しかも敬語の崩壊によって、いったいなにをいいたいのかさっぱりわからない、ぐずぐずして用をなさない表現がレストランのような場所でも繰り返されている。

日本語はすでに死語の体系になっているとみなすことが出来て、ちょうど糖尿病患者の足指が炭化して壊死するように、言語体系の隅っこのほうから言語全体の死語化がすすんでいる。

日本語の二倍くらいの言語規模で、普遍度がおなじくらいだとおもわれるベンガル語に較べても、いまの日本語の零落は急で、そろそろ意識的に再生させなければ、いずれは公用語として英語にとってかわられるか、言語というものの性質上、国民全体として痴愚化するか、どちらかになるしかない。

ひとりの日本ファンとして、それではならじ、と思っています。

「蟷螂の斧」だけどね

Posted in Uncategorized | 2 Comments

現実の「たしからしさ」について

人間にとっては認識が現実で、この世界が「現実に」存在するかどうかを確かめる方法はない。

当たり前ではないか、という人もいれば、そんなバカな、という人もいそうです。

数学者のなかには、人間が自分が生きている世界だと信じているこの宇宙は、それ自体、プログラムで、人間もまたプログラムされた意識としての主体なのだという仮説を立てている人もいる。

語彙が届かない領域にいる人間とは桁が異なる高知能が作った仮想空間の箱庭が、この最小でも137億光年の大きさを持つ宇宙だ、という意味です。

きみは待ちあわせのファミレスに出掛けて、ひさしぶりに会う友達を待っている。
降りしきる雨のなかを、友達は傘をさしてやってきて、すっかり濡れてしまった、これだから梅雨は嫌だ、と顔を顰めながらテーブルの向こう側の席に座る。

葉山ではいまでもタヌキさんたちが出没して人間をあざむいて笑いものにするという。

ジョナサンに出掛けて、友達に会っているはずなのに、傍目には、なんだか妙に身体がおおきなガイジンが嬉しそうに揉み手をしながら森戸の海岸の岩にこしかけて、向かいの岩に、おおげさな身振りで話しかけて、ひとりで笑いこけている。相好を崩している。

気の毒に、あのガイジンさん、このあたりはタヌキが出るのを知らないものだから、すっかり化かされて、午前2時の海岸で、お友達と会っているつもりなんだ、とおもっていると、そのガイジンさんも、すうっと姿がなくなって、第一、自分が森戸の海岸だとおもっていた場所はセントヘリオスの浜辺で、しかも奇妙なことに、いつも誰かが散歩している長い砂浜に見わたすかぎり人はひとりもいなくて、もしや、と考えて沖合をみても、まるで核戦争かなにかで亡びた世界でもあるように、一隻のヨットもない。

不安に駆られて、クルマに飛び乗って、オラケイのスウィングモアリングのヨットが固まっている浜にいっても、そこにもヨットはなくて、しかも左手に見えているはずのオークランドタワーがそもそも存在していない、よくみると、第一、80年代のCBDです。

現実の不確かさに気が付くと、その不安が心に定着して、現実が堅固に確からしいものだ、という気分が揺らいでくる。

誰でもデカルトが味わった不安のなかに立ち竦むことになって、この、自分と宇宙の存在を疑っている自分の意識だけが現実なのだということを嫌というほど思い知らされる。

30代も半ばになると、老人の楽しみの初歩になじみはじめる。

子供の頃、ニューヨークが大好きで、母親がニューヨークにでかけるたびにお伴をさせてもらうのが嬉しくて仕方がなかった。

ちいさい人がいくら頑張っても、現実には、当時の、まだ物騒なところが残っていなくもなかったマンハッタンで、たいした護衛になったはずはないが、本人は大張りきりで、母親のSPのつもりで、周囲に油断なく目を配りながら、いまではすっかり安っぽくなってしまったが、そのころはゴージャスで暖かいサービスのあるホテルだった、ウォルドフ・アストリアから59thのブルーミングデールまで、まるで北海を横切ってロシアをめざす輸送船団の護衛駆逐艦のような気持で、マンハッタンの荒々しい冷たい海を渡っていった。

思いだしてみると、情景のなかで、あれ?これはどの旅行のときだったろう?とおもうものがあって、例えばハーレムのアフリカンアメリカンのおっちゃんから買ったホットドッグが腐っていて、公園で、泣きたいような気持になって、引き返して、近くのコリアンが経営する店でホットドッグを買い直すと、頭に鳥の巣が乗っているみたにチリチリにパーマをかけたおばちゃんが、手にもっていたダメなホットドッグを見咎めて、事情を尋ねて、気の毒に、子供を相手にひどいことをする、と述べて、お代はいいから、このホットドッグを持っていきな、公園で食べちゃダメだよ、あそこは危ないから、という。

ベンチに陣取って大声で道行く女の人たちに猥褻な揶揄いを投げつけるアフリカンアメリカンのおっちゃんたちのラジオから、でっかい音でニュースが流れていて、「100度の夏」と述べるアナウンサーの声を明瞭におぼえている。

もっといけないのは、屋上で、向かいのおおきな、高層の衝立のようなビルを見た記憶も、はっきり保存されている。

強烈な記憶で、夏の華氏100度の暑さのなかで、目の前のビルは巨大な売春宿で、窓を開けっぱなしで、女のひとたちと男のひとたちが裸で抱き合っているところが、ちょうど蟻の巣を断面にして見るように見えている。

子供にとっては、その異様な光景は、たいへんなショックで、かなりあとまで、あるいはいまに至るまで、自分の人間という存在へのイメージに影響しているのではないかと思います。

ところが母親と、おとなになってから話してみると、こちらの話の途中で出てくるまるでオフィスビルの事務所のような入り口の飲茶パーラーも、公園も、たしかに知っているが、それはあなたが生まれる前の話で、あなたが憶えているわけはないでしょう、と笑っている。

第一、あの辺りに行ったことがあるのは一度だけで、と教えてくれた話を聴くと、ロンドンの家で働いていたジャマイカ系の女中さんがアメリカの実家に帰ったあと、病に倒れて、もういけないかも知れないというので、会いにでかけた。

おなかにあなたがいたので、たいへんでした、という。
当時のマンハッタンは、まだ冷房がない場所も多かったから。

まるで辻褄があわなくて、どういうことなのか。

思いたって、確かに自分が屋上に立って記憶があるビルに行くと、ビルはなるほどそこに立っているが、向かいにあるのは、あの衝立のようなビルとは似ても似つかないブラウンストーンで、ブラウンストーンなのだからあたりまえだが、20年や30年のあいだに建ったビルのようには見えなかった。

たしかに、あのビルの屋上から、通りの向かい側の、窓もブラインドも開け放った部屋で、ずらりと、腹がでた太ったおっちゃんや、面倒くさそうなところまでちゃんと見て取れる女の人達の、汗の臭いがしてきそうな、獣の営みの光景を観たんだけどなあ、といまでも合理的な説明を探してみたりする。

遠い記憶は大量の時間を隔てた向こう側にある現実だから、それでいいことになっているが、ほんとうは現在の、この瞬間もおなじなのでしょう。

五官から脳へ信号が伝わるまでの、どこに自分が現実を見ているという保証があるだろうか。
ファン・ゴッホがそうだったと言われるが、先天赤緑色覚異常に生まれてきたことに気付かない人のように、自分がまるで(そういうものがあるとして)絶対性がある現実を見ているかのように感じているだけで、ほんとうの現実はまったく異なった様相なのであるかもしれない。

記憶と現在の事物への認識は本質的におなじことで、いまこうやってコンピュータのスクリーンに向かってタイプしている自分は、ほんとうは存在していないのではないか、と、よく考える。

日本語には「自分がエリートだという『設定』の人」という心根の卑しさむきだしの低劣な嫌な語彙があるが、この自分が現に目の前に見ている現実世界は、すべて愚かなひとびとの語彙をわざと用いれば「設定」なのではないか。

考えながら、どおりゃキッチンでコーヒーでも煎れて飲むか、とドアをあけると、ホールウェイがあるはずの場所には、見渡すかぎり、地平線すら見えない、荒漠とした「Nothing」の世界が広がっているような気がしてくるのです。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

日本の衰退 1 低賃金と国家社会主義経済

日本の人は自分達の過剰な従順さで窒息死しかけている。

頼まれもしないのに、わざわざお節介を焼いて、よく考えてみるとたいして縁があるわけでもない他国の社会や経済の欠点を述べてみても仕方がない。

安倍晋三さんを首相に選んでしまったときは、さすがに慌てて、あんな人を選んでしまったら日本という国の基礎から掘り崩されて衰退から回復できなくなる、と考えて、なぜ安倍政権を成立させるとたいへんなことになるか、たくさん、無我夢中で記事を書いたが、あれから8年近くたって、予想通り、というか理屈どおり、日本は一見してみえない基礎工事にあたる部分がぶっ壊れて、これから、どうやったって、こうやったって、おいそれと立ち直るというわけにはいかなくなっていて、いまさら日本の根本的な問題について書いても仕方がない。

ふたつの「仕方がない」によって、書かないで来たが、たまには書いてもいいような気がしてきたので書いてみます。

日本の社会の、目を覆いたくなる、ちょっと傍目には信じられないよう凋落と低迷は、みっつの理由によっている。

ひとつは社会の高齢化で、これは投資や経済の世界を生きている人なら誰でも知っているが、地面にめりめりと崩落してゆくアッシャー家みたいというか、おなじことをやっても、振り子がいつもネガティブなほうに揺れる。

おなじ20%の成長を達成するのに200倍くらいエネルギーがいる。

しかし、例えば60年代におなじ問題を抱えて大低迷を迎えたフランスのように、苦労した先人の社会がいくらもあって、その例を検討して、移民政策やそのほか、なにが政策として有効で、なにが無効か、すでにわかっていて、切羽詰まれば、なにもしないためならなんでもする日本の人の社会も、よっこらしょと腰をあげて、解決に乗り出せば、またまた例を挙げるとニュージーランドではおよそ20年で解決している。

二番目には女の人が、本質的には近代以前の立場におかれていて、本人にとって最も苛酷な地獄だが、社会の側から見ても、簡単にいえば人口の半分が本来の生産性を発揮できないので、人口一億と言っても、5000万人のパワーしかもっていない。

これは、みっつの問題のなかで最もおおきな問題なのだけれども、文明的な根が深く規模がおおきいので、また違う機会に記事を書くとおもいます。

ここで書いておきたい問題はみっつめで、いまのところG7のなかでは日本だけの特殊問題、慢性的な低賃金社会であることです。

いつかCOVID前の町で、同じ職場の人なのでしょう、日本からの若い人とスウェーデンから来た若い人が、話しているのがカフェの隣のテーブルから聞こえてきたことがある。

日本の人が、話のなりゆきで、時間給を問われて、「一時間15ドル」と応えたら、ふたりのスウェーデン人に、プッとふきだされて、気の毒にたいそう傷付いた顔になっていた。

NZD15ドルは、USD10ドル、日本円で1100円というところなので、日本の若い人が特に安く見積もって時間給を述べたわけではなさそうでした。

なぜ、そんなに安い賃金で働くの?

と言われて、顔を真っ赤にして、自分達もおかしいとおもっている、でも、みんなそういう金額で働くから仕方がないんだよ。

低賃金が消費市場の縮退をまねくのは、子供どころか、犬さんでも、よく納得がいくように教えてもらえればわかる理屈で、だって、そうでしょう?

オカネがないんだから、ものが買えない。
消費行動とサバイバル行動の区別もつかないようなコンビニで弁当の価格をにらみつける暮らしになってゆく。

一方では、いまでも忘れられないイタリア料理店主との会話があって、日本では超高級とみなされる、そのイタリア店主が、客がすくないのを見計らって、いつもそうするようにテーブルの側にやってきて、お元気でしたか、に始まって、よもやま噺をしていく。

「歳よりがいくらカネをもっていても、ダメなんですよ」と、自分が70歳を越えている気楽さなのでしょう、あっさり言う。
「わたしの店のお客さんも、毎晩ご夫婦でやってきていたような方でも、一度どちらかが大病をしてしまうと、もういけなくて、日本で医療をうけるのに、どのくらいコストがかかるかわかって、オカネを使えなくなってしまうんですね」

日本は医療は健康保険でカバーされて安いのではなかったんですか?

と訊くと呵々大笑という表現ぴったりの大声で笑って、
「ガメさんね、中世の医療ならタダみたいなものですが、最新医療は保険の対象にならないのがおおいんです。それに、ほら、ガメさんが、あまりに汚いのでびっくりした、と言っていた築地の病院があるでしょう?あんなので入院費が安くていちにち12万円だそうですよ」

げげげ。

それと、やっぱり気が弱くなってしまうのですよね。
家にこもってなにもしないのがいい、ということになってしまう。
そこが若いときに趣味を育てない日本人の悲しさでしてね。

からくりが少しわかったような気がした。

数字の上ではひとり500万円の現金資産があっても、日本というひどい格差社会では、富裕な老人たちにオカネは吸収されていて実際に消費市場で末端を支えている消費者のふところには100万円という心細い金額さえないのではないかしら。

ずっと前に日本政府が他国で無効であるのが証明されたトリクルダウンという概念を使うのを聴いて、呆れ果てて書いたブログ記事があったが、
案の定、そんなことは日本でも起きませんでした。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2016/01/07/isgoddead/

日本は戦前から一貫して国家社会主義経済の国です。
「ええ?そんな馬鹿な日本は自由主義経済の国だ」というひとのために何度も説明を繰り返してきたが
「傾斜生産方式」の強烈な政府による統制経済の歴史、「おそるべきMITI」の時代を見ても、まだそう言い張る人は少ないでしょう。

国家社会主義経済は、たちあがりの見た目はいい。

日本では国家社会主義経済のチャンピオンは岸信介という「これほど頭がいい人間もこれほど人間性が悪い人間も見たことがない」と言われた人だが、この人が満州をそっくり手に入れて実験するまでにも、日本には明治時代からの国家社会主義経済の長い歴史がある。

国家社会主義経済の特徴は、経済の在り方が倒立していることで、
社会が個人のために存在せず、個人が社会のために存在する。
驚くべきことには国家すら国民のために存在せず、国民が国家のために存在します。

そんなバカな、とおもう人もいるだろうし、西洋ではありえないことだ、とおもう人もいるかもしれないが、そんなバカなどころか、日本から一歩外に出てみれば明瞭歴然、日本そのひとが現代を代表する国家社会主義経済の国なのは、誰にでもわかることだとおもいます。

アジアにはもうひとつ、共産全体主義国家の中国という国があって、これも遠からず日本とおなじ運命をたどるとおもわれているが、ここでは省いたほうが良さそうです。
あんまり知恵もない命名だが、「天然全体主義」と名前をつけることにした。

家庭と学校でのすさまじい、傍目にはヘンテコリンな教育は、1930年代に日本を訪れたバートランド・ラッセルを憤激させて、
「あれは学校ではなくて軍隊教育だ」と一生友人達に繰り返したそうだが、「よく考えてものをいいなさい」「他の人の迷惑を考えろ」どころか、自分でも目撃したことがあるが、むずかる小さな人に「ほおら、静かにしないと、おじちゃんたちに笑われるわよ」と述べる母親という恐ろしい光景もあったりして、日本の人は、全体主義体制に徹底的に従順であるように仕込まれていく。

一方では従順な群れのなかで優秀ともくされたひとは、今度は、体制と自分との一体化をこころみていきます。

そうなってしまうと、言うことが個人の観点ではなくて、霞ヶ関から世の中を見下ろしているようなことを言う。

「そうはいっても株価があがれば、企業の再投資がすすんで、結局はみんなが潤うんですよ」

「苦しいときに我慢するから、社会が豊かになって、最後には国民も楽になるんですから」

どれもいまの世界では実現するあてのない駄法螺にすぎないが、国家社会主義の社会などは古色蒼然とした社会のモデルをそのまま信じ込んでしまえる愚かさがあるから、いまだに30年代のアイデアにしがみついているので、こういうひとたちと議論するくらい無駄なことはない。

しかもインターネットの普及いらい、滑稽に滑稽を重ねて、屋上屋を重ねるよりももっとぶざまに滑稽なことには、ほんとうは社会の下層で呻吟しているのに、まるで体制と一体化しているような意見を述べる人の大群があらわれてしまった。

日本語ネットを見ていて、いつも思うのは、ネットでみるかぎりは、日本の社会はエリート層と支配層が国民の大半をしめていて、
たいてい女のひとの、生活の苦しさや不安を述べる、ほんのひとにぎりのひとを嘲笑している。

多分、自分が支配層であるような嘘をならべているあいだに、「その気」になってしまうので、まるで古来から知られた「嘘のほんとうのおそろしさ」自分が見えなくなってしまうことの見本市のような趣を呈している。

否も応もなく、低賃金で働かされた結果は、火を見るよりもあきらかで、経済の教科書どおり、経営者自体を直撃します。
ならべて考えると、アホなんじゃないかと誰でもおもうが、経営者という種族は、凡庸な人間がおおいので、どうしても、わかっていても、「人件費をさげる」という最も楽で知恵がない方法で競争に勝とうとする。

蒐集していた古雑誌の比較的新しいものに、倒壊寸前の木賃宿を一棟借り切って、設備もなにもなしで、純然たる手作業で歯ブラシを作る工場にした男の人が「現代を救うビジネスモデル、日本は、まだまだやれる」と紹介されていたが、情けないというよりも、どういえばいいのか、やるせない気持にさせられたものでした。

賃金がさがれば、参入障壁が低くなって零細な参加企業が犇めくようになるとか、その結果、研究開発費に巨費を投じられる大企業が育たないとか、ほんとうに優秀な人間が外国企業に就職して逃げちまうとか、賃金が低いことから派生する経済の病はよく知られているが、いまの日本は見事なくらい経済教科書どおりのbad spiralに陥っている。

解決策ですか?

解決策は簡単ですよ。

給料を倍にすればいい。

出せないって?

そんな貧しいビジネスモデルしかつくれないのに会社の経営なんかやるなよ、と乱暴な言葉で考える。

革新的な技術のアイデアどころか、ビジネスモデルすらつくれない人間には21世紀においては会社を経営する資格がない。

それはね、犯罪なんです。

はっはっは、言ってしまった。

でも、ほんとうに倍にしなよ、給料、そうしないと自分の首も、そのうちに絞まると思うよ。

でわ

Posted in Uncategorized | 1 Comment

友達への手紙

仕事の計算の手を休めて、鎌倉の静かな静かな夜更けのことをおもいだしていました。

橋の袂の、妙法寺と言ったかな幼稚園がある寺の入り口にあるお握り屋さんが、とても応対が親切だというと、あなたは急に怒りだして、「なに、おれには愛想がわるいぞ。外国人とみれば親切にするなんて、けしからん。差別ではないか!」と、冗談かとおもったら、案外真剣に怒っているのを見て、おかしかったのを憶えている。

あの寺の境内には、夜更けでも入っていけるのですよね。
鎌倉の寺は、いまはどうなのだろう?
判らないが、ぼくが知っていた頃は、表の門では拝観料をとっているのに、ほんとうは裏山にはハイキングコースがあって、そちらから入ればタダ、という不思議なシステムで、いちど、散歩の途中でひさしぶりに半僧坊を見に行こうとおもって裏門をくぐったら、中国系らしい女の人がいて、達者な英語で、「ここからどう行けばお寺の建物があるのか?」と訊くので、いや、ここはもう出口ですよ、と述べたら、「それじゃ詐欺だ!」と叫びだして、喰ってかかるので、ぼくに喰ってかかられても困ると、と考えて、往生したことがある。

鎌倉は、一面、そういう杜撰なところで、何も知らない観光客からは、とれるだけぶんどってやる、というところがあったと思います。

昼間は、そうやって、いかさまなところがある町で、夜にならないと鎌倉にはなってくれなかった。

終電が終わった、夜更けの小町通りを、よくふたりで歩いたでしょう?

あなたは、月の光に反射して輝く石英の粉のような白骨の細片を見るのが嫌いなので、段葛ではなくて小町通りを通ることが多かった。

ふたりで、誰の姿もない、夜更けの町をうろうろして歩いた。

ぼくには、とても楽しい時間だった!

あなたが子供のときに鎌倉駅で見た小林秀雄。

勤め人の波のなかで、ひとりだけ空を見つめて「ハッシ」と積雲を眺めていたという話は、見つめかたはハッシでなければならないし、見つめているものは積雲でなければならないのですよね。

横須賀線の車窓から、品川駅でみかけた江藤淳が意外なほど小さな人で、なんだか江藤淳の「気の張り具合」が判ったような気がしたこと、そのまったく同じプラットホームの、同じ階段をあがったところで堺屋太一が立っていて、自分がおもったほどたいした人じゃないんだ、と得心したこと、頭がいかれた人特有の声の出し方で、守屋浩の「ありがたや節」が聞こえてきて、通路をみると、そこを通っていくのは、ひょっこりひょっこりした足取りで、なんだか盆踊りの手振りをしそうな歩き方で、大声で歌っている井上ひさしで、「魂消た」というので、その古式な日本語も含めて、とても可笑しかった。

あの。

いま考えても、あなたが、どうしてあんなに親切にしてくれたのか判りません。

あなたはとてもとても我が儘な人で、朝、広尾の家に電話がかかってきて「ガメ、喧嘩そば屋に行こうぜ」という。

行こうぜ、って、鎌倉市役所の前でしょう、あの店、ぼくは東京にいるんだけど、と言っても「ダイジョブダイジョブ。この時間は横横はすいているから、クルマでビャッと来れば、あっというまについちまうさ」という。

そうですか、と観念して、あんまり人に言えない速度違反で「ビャッ」と着くと、まちかねたように「この時間この時間」と、その鎌倉市役所前の蕎麦屋が最も混んでいる時間帯をわざわざ選んででかけて、耳を澄ましている。

すると、いつものこと、厨房から猛烈にでっかい声で大将が
「こおんな書き方じゃ盛りなのか掛けなのか、わかんねえよ!だから、もっと丁寧に書けって言ってんだろうが!!クソババア!!!てめえ、いったい何年蕎麦屋やってんだ!」と叫んでいる声がして、怒鳴られた奥さんと母親らしい人も負けずに怒鳴り返している。

あなたはあの蕎麦屋を「喧嘩蕎麦屋」と呼んで、愛していて、何度も何度も連れていってくれた。

そこから佐助のトンネルを抜けて、常磐亭のあとの野原をすぎて、鎌倉山の林間病院との岐れ道を右に行って、と書いていて、あの気が遠くなるほど美しい、小さな富士山をあの七ヶ浜におりていく坂道の手間の林の向こうに見たのは、いつのことだろう、と不思議な気がしてきました。

ひとりで夜更けにあのあたりを歩くことはあっても、あなたと一緒に歩いたことがあっただろうか?

でも記憶のなかには、あなたは影のような姿で、たしかにぼくの横に立っていて、あまつさえ、「ガメ、ガメ、右を見てみろ、ほら、あれ」と教えてさえくれた。

言われたほうを見ると、夕陽の屈曲で実際よりもずっと巨大に見えることが多かった稲村ヶ崎の海辺から見える茜色の富士山とはまるで異なって、小さな小さな、それでいて、ぞっとするほど美しい、まるで過去の時間に立っているような富士山が月光に照らされて遠くに見えていました。

あそこから坂をおりて、小さな西友がある七里ヶ浜の新造地の西武の住宅地を抜けて、プリンスホテルの脇を通って、海辺におりていくのが定番の散歩コースだった。

その長い長い散歩のあいだじゅう、まるで学生の情熱で、憑かれたように林房雄や吉田健一、川端康成や三島由紀夫の話までしてくれて、まるで、自分の脳のなかにあるものをそっくり外国人の若者の脳に移植しようとしている人のようだった。

とてもなつかしくおもいだします。

あの頃は、はっきりとだが、なんだかぼんやりした深度でしかわからなかった、あなたの親切心が、もっと明確に判る歳にぼくもなりました。

生きていたら、もういちど会いたかった、とよく考える。
この日本語の文も、ただ考えているだけでは考えてないということだ、とよくふたりで話しあったとおり、書いてみれば、彼岸にいるあなたに聞こえやすそうな気がしたので書いている。

ぼくはあれから、到頭、あなたがあれほど愛した国を見限って、持っていた家もクルマも、なにもかも売り飛ばして、でもロンドンには行かずにニュージーランドに、愛する人と移ってきました。

小さな人がふたり、いつのまにか生活にあらわれて、猫さんたちがいて、幸福に暮らしています。

世界はあなたが知っていたように、ますますボロくなって、2050年まで、はたしてもってくれるのかどうか。

日本にいた最後のころ、モニさんがフランス人たちに別れの挨拶をしてくるというので、珍しくひとりで、むかしあなたとよく出かけたバーに行ったら、背中をまるめた様子がどう見てもあなたにしか見えない人がカウンターで酒を飲んでいた。

うしろの壁際のベンチ席に腰掛けて息をのむようにして見つめていました。

隣にいる、やはり亡くなったKさんとそっくりの後ろ姿の人に、なにごとか静かな声で語りかけている。

その声…

あなたにそっくりの声が、かすかに聞こえてきて、ぼくは酔ってぼんやりした頭で、あなたがなぜここにいるのか、混乱した気持で考えていた。

立ってあなたに話しかけにいきはしませんよ。
そんなことをするほど愚かではない。

どんなに酔っ払っていても、あなたとKさんが死んでしまっていることは明然と判っていましたから。

ぼくはテーブルでお勘定をすませて、ドアに向かったでしょう?

そのときふり返ってみたら、あなたに似た、そっくりなひとが今度はこっちを向いて小さく手を振っていた。

ぼくは階段に腰をおろして、短いあいだだけど、おもいきり泣いていた。

そのとき初めて、あなたがぼくに向けてくれた圧倒的な
善意が意味の重さとともに押し寄せてきて、人間が死ぬということの取り返しのつかなさを、生まれてから初めて理解した。

いつか鎌倉を再訪する日があったら、まだあるかどうか判らないけど、喧嘩蕎麦屋に行ってくるとおもいます。

ひとりであの木のテーブルの前に腰掛けて、いつものようにカツ丼で、向かいの席には天ぷら蕎麦とビールを注文しておく。

そうしたら、あなたにまた会えるだろうか。

Posted in Uncategorized | 2 Comments

銀座

厚切りトーストとゆで卵と日本式なフレンチドレッシングがかかったおつまみのようなサラダを前にして相好をくずしている。
そこに良い香りがする「ブルーマウンテン」コーヒーがやってくると、しめしめという顔になります。

傍からみていて、相当にヘンな人だが、そういうヘンテコリンな喜びに浸る外国人は多かったのではなかろうか。

ゆで卵をお代わりできる店もあった。

いわくいいがたし。

モーニングサービスはいかにも日本で、帝国ホテルのサービスが大層日本なのとおなじで、案外、当の日本の人には、全体がいかに「日本的」なものか理解されていないのかもしれません。

前に通いのお手伝いさんはいたが東京ではモニと家事はなんでもふたりでやるのが楽しかった、と書いた。

ふたりで肩を並べて料理したり、キッチンで居酒屋ごっこをするのは楽しかったが、ときどき、めんどくさくなることもあって、帝国ホテルに長逗留した。

なぜ山の上ホテルでもウェスティンでもフォーシーズンズでもなくて帝国ホテルかというと、まず第一に築地が近いからでした。

なんだかお上りさん然としているが、朝の5時に起きて、まだあまり人気(ひとけ)がない晴海通りを歩いて築地に行く。
ちゃんと、おのぼりガイジン定食コースのマグロの競りも見物します。

築地市場は素晴らしいところで、東京では合羽橋と並んで、こんなに楽しいところはなかった。

子供のころ住んでいた東京と、五年間十一回の大遠征計画と称しておとなになってからやってきた東京とでは、まるで違う町で、むかしの肩をそびやかしてのし歩くような元気はなくなって、青ざめて俯くような町になっていたが、築地だけは、子供のころの日本のエネルギーが保存されていて、元気で親切で、自分の仕事に対してプロフェッショナルで自信を持っていて、なによりも自分の仕事に対して情熱をもっているらしいのが伝わってきて、いつ行っても気持のいい市場だった。

そのうえ、朝7時は、ここのひとたちにとっては、もう夕方で、
場内に入ってすぐの鮨屋に入ると、もう、アジアのひとがアルコールを飲み過ぎたときの通例で、顔を真っ赤にして、「おにいちゃん、おおきいねえ」と軽口を利いてニコニコしている。

出来たてでアツアツのかまぼこや揚げ天を買って、包丁屋さんをひやかして、立ち飲みスタンドのコーヒー屋さんで、コーヒーとオムレツのオープンサンドを頬張って、ようやく目を覚ました銀座の町を歩いて帰ってくる。

いちど、もっと近いところに泊まればどうかと考えて築地の阪急ホテルに泊まったこともあったが、サービスが合わなくてダメだった。

帝国ホテルを裏切って、向かいのビルから見ていると、よさそうに見えたので、ペニンシャラホテルにも泊まったことがあったが、トイレのドアを開けて入ると、ことわりもなくトイレットシートの蓋が開いたりウエザーステーションがあったりして、ギミックはたくさんあって面白かったが、なんだか高級デニーズみたいな味気なさで、すぐに帝国ホテルの日本の旅館をそのまま洋式にしたようなサービスに帰っていった。

朝、ゆっくり眠って、築地に行かなければ、モニとふたりで帝国ホテルでいちばんおいしい朝食のシャンパン・ブレックファーストをモニとふたりでルームサービスで摂ります。

それから新館の最上階にある、普段は誰もいないプールで泳ぐ。

午後はゆっくり午寝をしてから、宝塚ファンがスターの到着を待っているのでしょう、ずらっと並ぶ通りを、なぜかこちらに手をふる人達に向かって手を振り返したりしながら、ずいぶんちっこいがハンサムでfierceな顔のゴジラの像がある広場を通って電気ビルや交通会館ビルに行く。

ビックカメラの有楽町店に寄って、旅行用のwifiルータやソニーの小さな小さな10インチディスプレーのコンピュータを買う。

ホテルに逗留する利点のもうひとつがこれで、日本にいるあいだじゅう悩まされた過剰包装のうえにIT機器特有の必要から来るでっかい包装で、開けると、ちょっとしたゴミの山が出来たが、それも部屋の人が片付けてくれるので自分ではなにもしないうちに綺麗になってしまう。

「お手伝いさんがいると楽でいいですね」という人がよくいたが、実際は、そういうものでなくて、お手伝いさんが来る日には、家がちらかっているとみっともないので、前日、モニとふたりで懸命に片付けて掃除する。

日本語と英語とフランス語を流暢に話す、驚異的な能力を備えたスーパーウーマンのお手伝いさんが「モニさんとガメさんの家は、わたしが来てもなにもすることがなくて、申し訳ないみたい」というのを聴いて、ほっと、安堵の胸をなでおろす。

そこへ行くとホテルは極くシステマティックに片付けてくれて、「部屋の隅に積んである箱も全部捨ててください」とメモを残して、あるいはレセプションに告げておいて、テーブルの上に、いらないと言われても、日本ではピローマネーは置かないことにしていたが、こればかりは置かなければなんだか落ち着かないのでチップをおいて、それで全部すんでしまう。

ミキモトに伊東屋、銀器の宮本商行、鮨も焼き鳥もおいしい店がいつくもあって、昼食は子供のときから大好きな天一本店の天丼と、こっちは名前を内緒にしておきたい気がする、モニとぼくが大好きな、友達と呼んだほうがいい老夫婦の天ぷら屋もあって、夜はイタリア料理屋に行くことがおおかった。

こうやって書いていても銀座は楽しい町だったなあ、とおもう。

十年、日本を再訪していない、というが、四年前か、ストップオーバーで日本に数日立ち寄ったことは何度も書いた。

日本の人は平気だが、モニとぼくは放射能が怖くて仕方がないので、麹町の「放射能フリー」を宣言しているイタリアンレストランで夕食を食べた。
嬉しかったのはむかし良く出掛けた築地場内の鮨屋は、別に放射能対策などしないが、福島のものにはむしろ誇りをもって「福島産」と壁にかけられた木札に明記してあるので、こちらは黙って、それを避ければいいだけだった。

事前に家宰さんが調査して、こことここは大丈夫、ここはダメですよ、と聴いて、銀座に寄っても西のものばかり食べていた。

そうやって注意して過ごしているうちに、悲しくなってしまったんだよ。

どうして、こうなってしまったのだろうと考えていた。

言うまでもない、福島第一事故を境に、日本語が急速に病んでいったことには理由がある。
どんなに社会で一致して「この程度の放射能は安全だ」と述べても、人間の本能と直覚という怖い審判者がいる意識されない心の底はごまかされないのでしょう、
それまでもテレビとネットを通じて、品性もなく、蛮性がむきだしの「ええええええ〜!?」な、ダメな日本語が日本を瘴気で満たしてはいたが、それに加速がかかって、日本語は言語としての意味性と真実性も失っていきます。

ほんとうではないことをほんとうだと述べてしまうのは言語としては自殺行為で、いつのまにか「日本人は嘘つき民族」だという常識ができあがってしまった。

日本語という宝石のような言語も、二束三文の出来合いの人造の贋宝石のような扱いになっていった。

それがどんなに自分にとって寂しいことであるか、英語や欧州語では述べる相手がいるのに、日本語では自分自身に語りかけるしかないことを、どう考えればいいのか、いまだによく判らないでいる。

もう戻れない道、というものがある。

せめて、この先に、日本語にとって、旅人が選択を許される、「岐かされの道」があることを心から祈っています。

Posted in Uncategorized | Leave a comment

BLACK LIVES MATTER

Struggle?
I’m a black man born and raised in Mississippi.
Ain’t a damn thing you can tell me about STRUGGLE.

ミラ・ネア監督の映画ミシシッピ・マサラの有名なシーンで、デンゼル・ワシントン演じるアフリカン・アメリカンの青年が、「(アジア人である)あんたたちに自分達黒人がさらされてきた人種差別が理解できるわけがない」と述べている。

あんまりアメリカに興味がない人のために余計な説明をしておくと、わざわざborn and raised in Mississippiとこの若者が言っているのは、ミシシッピは、なかでも人種差別が激しいので知られた州だからです。

あるいは、アフリカン・アメリカンの女の人が日系の女の人に、すさまじい勢いで、怒るのを見たことがある。

「なにが、共に戦おうだよ。おまえたち日本人なんかに、わたしたちの気持のなにがわかるというの? おまえたちの『人種差別』は白人として扱ってもらいたいのに扱ってもらえなかった、というだけのことだろう?ふざけるな」

短いあいだだったが、アフリカン・アメリカンのガールフレンドと一緒にいて、素晴らしい人で、モニと会わなかったら、あの人と結婚していただろう、といまでも思う。

そのときに、それまで、ぼんやりとアメリカでの黒人差別について判っているつもりだったのが、なああんにも判っていなかったことが嫌というほど理解された。

あんまり日本語で書いても仕方がない気がするので、書かないが、
一緒にいるときには主に高年齢の白い人から好奇の視線を感じたことがあるくらいで、露骨な差別に遭遇したことはないが、多分、あの人が冗談にいっていたとおりで、白い同族のなかでもでっかい若い男が横にいるので、お行儀よくしていただけなのでしょう。

そのころに垣間見たアフリカン・アメリカンのコミュニティは神経が細やかで、やさしくて、傷付きやすい魂を持った人が多かった。

日本で、汗をかいたボーイフレンドに、「はい」と言って自分のハンカチーフを手渡している女の人を目撃して、ぶっくらこいてしまったことがあったが、アフリカン・アメリカンの女のひとたちも、とてもよく似た気持ちの持ち方の人がおおいとおもう。
caringというか、いつもこちらに注意を払っていて、なにくれとなく面倒をみてくれる感じで、アングロ=サクソン族の女の人なら「おれは、おまえのかーちゃんじゃねーよ」と言うところだが、アフリカン・アメリカンのひとたちは、委細かまわず、玄関に向かえばドアをあけてくれる、コートをぞんざいにおけばたたみ直してくれる、ちょっとでも浮かない顔をしていると、だいじょうぶ? なにか、あったの?
と心配する。

それでは息がつまる、というひともいそうな気がするが、なにしろ子供のときから飼い猫みたいというか、ひたすら甘やかされて、しかし当然ながら、こちらから言い出さなければ特に面倒をみてもらう、ということはなくて、野放しの暮らしに馴れているので、おおげさにいえば感動的なことが多かった。

アフリカン・アメリカンはアメリカWASPよりも正統的なアメリカ人であるのは言うまでもない。
多少でもアメリカ社会への考察が出来る人なら、誰でも知っていることです。

多分、アフリカン・アメリカンたちのほうが先祖代々の習慣や考え方、文化を大事におもうせいで、もともとのアメリカ文明は、WASPや他の白い人たちよりも、アフリカン・アメリカンの側に保存されている。

万事、特に美徳において、たいへんにアメリカ的で、話していて最もアメリカ人と話している気分になるのは、アフリカン・アメリカンのひとびとです。

いまはどうなっているか判らないが、マンハッタンのアッパー・ウエストサイドから北のハーレムに向かって歩いて行くと、途中にアフリカ系移民のコミュニティがあった。

くだらないことをいうと、ここにはお気に入りのエチオピア料理屋があって、よく出掛けたが、アフリカ系移民たちは、アフリカン・アメリカンたちとはおおきく異なっていて、もう顔の表情から違って、ほんの数ブロック先のハーレムのアフリカン・アメリカンの友達と会う度に、このひとたちは、ほんとうにアメリカ人だよなあ、と愚にもつかないことをおもったりした。

アフリカン・アメリカンたちに向けられた差別は、アジア人に向けられた差別とは質が異なるもので、頭がトーフのひとびとからアジア人に向けられる定番のyellingに「てめえの国に帰れ!」というのがあるが、アジア人差別の本質をよくあらわしているともいえて、とにかく、この国から立ち去れ、おれたちの価値が理解できない、おまえらなんか見たくないわ、ということです。

ところがアフリカン・アメリカンに向けられた人種差別意識は、常に「殺して地上から抹殺したい」という衝動に駆られている。

おとなしくしていたり、めだたないように生きているだけでは許されなくて、とにかく死ね、おまえらを全部殺してしまいたい、という理屈もなにもない憎悪で、アフリカン・アメリカンのひとびとは積極的な殺意のなかで、毎日を過ごしている、と言ってもよい。

Recy Taylorは、住んでいる人間がお互いに、みんな名前も顔もおぼえている小さな町で、教会のミサに行った帰りに、ピックアップトラックのなかにひきずりこまれて、おおぜいの白人の男たちに4時間にわたって強姦されつづけて、襤褸くずのようになって家に帰ってくるが、家族がまず神に祈ったのはRecyが殺されなかったことへの感謝だった。

アメリカの田舎の小さな町では殺されて、誰もが犯人を知っていても、被害者が黒人ならば警察はなにもしないからです。

George Floydの例で典型的に示されたように、職務中の警察官がアフリカン・アメリカン殺人の実行犯になりやすいのは、単純に口実がつくりやすいからにすぎない。

ニュージーランドで、COVIDロックダウンのルールを破って、3000人のデモが起きたとき、しまった行かなかった、とはおもわなかった。
頭で考えて「なるほど、たしかにニュージーランド人も法を破ってでもアフリカン・アメリカンとの連帯を表明すべきだよな」とは考えたが、ピンとこなかったのは、おおぜいのアフリカン・アメリカンの友人たちの顔が思い浮かんだからでしょう。

生まれた土地で殺意に囲まれ、誰にも理解されることなく、まるでロードローラーで踏みつぶされるようにして、日々、魂を殺されるアフリカン・アメリカンたちと連帯できる人間が、この地上に存在するだろうか?

できるとしたら、彼らが恣に殺す権利を与えて、われわれは逃げ回るだけの世界にするしかないのではないか。

ねえ、きみ、どうおもう?
とガールフレンドであっただけではなくて、かつて、最も知性的な友人であった、あの人の面影に訊いてみることがある。

モニさんには、内緒だけど。

Posted in Uncategorized | 2 Comments

東京の思い出 1

20代の終わりくらいまでは旅行ばかりしていた。
特に後半は、好きな町ができると、そこに数ヶ月いるということを繰り返した。

東京は、そのうちのひとつで、子供のときに住んでいたことがあって土地鑑があったし、「だからガメは日本語ができるんだ」と言われるのがなんとなく嫌で、そうでなくて、おとなになってから、ちゃんと勉強したんだよ、という気持があって、なかなか認めなかったが、この頃はそういうこだわりもどうでもよくなって、あっさり頷いてもよいが、子供のときというのは、バカであるぶんだけ、苦もなく知らない言語をおぼえてしまうもので、読んだり書いたりは出来なかったが、聴いたり話したりは、もう出来るようになっていたから、普通の英語人が苦労する、「バスク語よりひどい」と言ってみたりする、言葉の垣根が低かった。

いまに至るまで、たいへんな人見知りで、知らない人とは軽口も利けるが、知っている人となると、なかなか会いたがらない。

ところが日本では、そんなことはなくて、まるで異なる人で、世界が広くなって、気ぶっせいなことがなにもなくなる。

「東京」というときには、日本の人は呆れてしまうだろうが、鎌倉も葉山も入っていて、だから青山も一色海岸も、渾然としていて、頭のなかではひとつになっている。

土地と人間には相性があって、例えば普通に考えて、シンガポールや台湾のほうが日本より住みやすい、良い国であるとおもうが、なぜか日本が好きで、あのゴミゴミして、安っぽいつくりの建物が並んだ町も気にならなくて、数寄屋橋を、カレー丼めざして歩いていったりするのが好きだった。

日本も、目を凝らせば、ヨーロッパコンプレックスのようなところはたくさんあるが、例えばニューヨークのように深刻なものではない。

どちらかといえば子供が新しいものに出会って、年中、そのマネをしているようなもので、模倣の仕方が子供っぽいというと嫌がられるだろうが、なんだか笑ってしまうていのもので、あれを真剣に嫌う人もいるのは知っているが、そのくらいのことに眼を剝いて怒るほうがどうかしている。

でも、あらためて何が好きだったんだろう?
と考えると、よく判らないので、この記事を書いている。

食べ物は誰でも認めるように、もちろん、おいしい町で、英語ではCheap Eatsと言ったりする、安い食べ物が特においしい。

六文や箱根蕎麦という「立ち食い蕎麦」が好きで、モニに「あんなものが、なんで好きなんだ?他においしいものがいっぱいあったではないか」といまでもよく言われるが、考えてみると、あれは味そのものではなくて、 店から券売機がある注文の仕方から、すべてが一体になって好きだったのだとおもう。

経済飯、という。

中華圏の、たとえばニョニャなマレーシアなどにはどこにでもあって、たいてい屋台で、道路工事現場のひとたちが群がって、立ったまま食べていたりする。

日本の「丼めし」の起源はあれではないかとおもうが、日本では、案の定、別途に進化を遂げて、ショートグレインの米飯の上に、ぶっかけ飯のようにして食べていたものが、上品になって、これは比較的最近のことらしいが、重箱にいれるようになったりして、いまに至っている。

考えてみれば、立ってかきこむのでなければ、別皿のほうがよくて、現にベトナム料理店などは、日本ならカツ丼になるはずのものが別々に出てきます。

ところが日本では経済飯の構成はそのままで、いわば構造的な変化はなしで、洗練が繰り返されてゆく。

考えてみると、一杯の、あの丼に、日本の、おおげさにいえば文明のありかたが盛られているのかも知れません。

夜になれば、酒場へ行く。
英語人の友達たちに会える会員制のバーに行くことが多かったが、ちゃんとマジメに探索して、居酒屋に行くことも多かった。

数寄屋橋や三原橋の割烹にいくこともあったが、なかでも好きだったのは、「山形」や「長崎」、郷土の名前がついた居酒屋で、始めは入るのが怖かったが、馴れると、酒を飲むのに、こんなに楽しい場所はなかった。

ちいさなことです。

なにしろ、こちらは身体がでっかいので、なるべく小さくなって座っていることにしていたが、長いベンチのようになった壁際の席では、どうしても隣の人の丁寧にたたまれたコートが邪魔になる。

ところが、ところーが。

そういう居酒屋になると、なにも言わなくても、すっとコートが引き取られて、空間があく。

初めのころは、びっくりして眼をまるくしていたが、そうすると、こちらの顔をみて、ニコッと笑う。

あまつさえ、メニューをみて、注文の声を張り上げかねて、もじもじしていると、隣の席の女の人が、でっかい声で、「XXちゃん、こちらのガイジンさんが注文待ってるわよ!」と言ってくれる。

そういうところで、「ガイジン」は差別語だと感じて怒る外国人もいるが、アホウであるとおもう。

そういうポリティカル・コレクトネスを軽薄という。

大好きだった曾祖母は、ときどき「真夏のニガーのようによく働く」という昔の英語の定番表現を使った。

みな笑ったが、べつに嫌な気持ちを持つことはなかった。

曾祖母には曾祖母が生きた時代と、その時代の英語というものがあって、いわば限界があるのを皆が、あたりまえだが、知っていたからです。
外国人との接点が少なければガイジンが差別語だと知らないのは普通のことで、少しも嫌であるはずがない。

閑話休題。

そうして「立山」と「ひろうす」で酔っ払って、いい気持になって外にでると、文学史のなかに出てくる名前の割烹屋をめざしたりした。

日本は冬がいい国で、友達に「ガメ、日本に行こうとおもうが、どの季節がいちばんいい?」と訊かれたりすると言下に「1月か2月」と応える。

江ノ島の低い空や、金沢の雪、軽井沢の凍った森。

日本の、異世界とおもえるほど美しい記憶は、ほとんどが冬であるからで、友達はびっくりしてしまうが、実際に冬に出かけると、みなが日本の冬の素晴らしさを称賛する。

特に南半球人は、クイーンズタウンの人でもなければ、雪をみなれないので、雪におおわれた鎌倉を見たりするとノックアウトで、完全に参って、友達のメルボルン人などは、そのまま日本に住み着いてしまった。

東京もおなじで、東京の西原で生まれて育った義理叔父は自分の一生で目撃した最も美しい光景は「日本橋の三越の前で見た、雪の通りで電線とパンタグラフのあいだで青い火花を散らしながら走るトローリーバス」だというが、トローリーバスを見たことがなくても、想像はつく。

最後の日本での滞在はモニとの新婚生活のときで、あんまり書くと意図を誤解されてしまうが家宰さんをはじめ、ふたりとも、たくさんの人が家事をとりしきる暮らしのなかでおおきくなったので、「自分でなんでもやっていい生活」というものが楽しくて仕方がなかった。

ふたりで、スーパーマーケットに買い物に行く。
ただのハムが「骨付きハム」という名前で100グラム1200円というベラボーな値段で売られているのを見て、大笑いする。
チーズの売り場で、試食するのに、ほんのちょっぴり小匙の半分くらい差し出されるのをみて、もっとないと味がわかりません、と憤慨して身振りで述べるモニを横でみていて、横隔膜を痙攣させそうになる。

今度は逆に、銀座の「デパ地下」で、大盤振る舞いの「試食」のパレードに眼をまるくする。

買って来た食材を、ふたりで並んでキッチンで料理する。
通いの、フランス語も英語も信じられないくらい達者なので、こっそり「スーパーウーマン」と呼んでいた、お手伝いさんはいたが、たいてい夜更け、ふたりだけのキッチンで、冷蔵庫をあけて、品定めをしてつくる料理は、小津安二郎の「お茶漬けの味」みたいで、途方もなく楽しかった。

日本は1年の大半が熱帯のように暑いうえに、こちらはクリスマスは昔からクライストチャーチで過ごすことになっていて、一家の集合のときなので、日本の最も良い季節である冬を、泣く泣くあとにしなければならなかった。

それでも、楽しかったなあ。

新幹線を降りて、エスカレーターをあがっていくと、軽井沢の駅には改札口の正面に気温計の電光表示板があるが、30℃を越えていて、やれやれ軽井沢でもこれか、とタメイキをつきながら改札を通る。

左に折れて、階段をおりて、そこから右に曲がって、水抜きや庭の手入れをお願いしてある地元の人が運転して矢ヶ崎の駐車場に置いていってくれたクルマに乗って、そこから2分ほどの夏の家につく。

ずいぶんヘンテコに聞こえるとおもうが、軽井沢までも含めての「東京の暮らし」が、あんまりアジアの国に馴染みを感じないらしいモニでさえ好きなもののようでした。

オークランドの芝生が夏の光に輝いている裏庭で、ガゼボのなかでランチを食べながら、突然、モニが「ガメ、日本は楽しい国だったな」という。

びっくりしてモニを見つめると、「ガメとわたしの出発点」と述べて、ニッと笑っている。

そうか、そうだよな、出発点だったんだな、とあらためておもう。

日本は日本の人が信じこんでいるのとは異なって、全体主義の国だとおもうが、
不思議なことに、そういうことが頭にのぼるのは、日本語で考えているときだけで、英語で考えているときには、日本は、ただひたすら「楽しい国」です。

暗い灰白色の層雲がいちめんに広がっている富山の郊外の町を、モニとふたりで歩いている。

「燃えるような」と、どうしても形容したくなる、エメラルドのように輝かしい緑色の眼で、モニが日本海の鈍色の海を眺めている。

水平線のむこうで、雲が突然切れて、夕陽が姿をあらわすと、水平線そのものが、あっというまにオレンジに染まっていく。

モニのこの世のものでない美しい眼に、みるみるうちに涙がたまっていくが、その感情は、この広大な世界で、モニとぼくだけが共有しているものなのだと知っている。

あの夕日が沈む海に、また帰っていくことがあるだろうか。

Posted in Uncategorized | 5 Comments

日本人と民主主義 その7

シンガポールを見ていて、いつも思うのは、と言っても考えてみると日本とおなじことで、もう十年くらいも訪問していないので、いつも思ったのは、と書くべきだろうが、新鮮な驚きというか、人間は別に自由社会でなくても幸福でありうるのだ、という事実です。

こっちはまるで行ったことがないので、皆目わからないが、上海で教師をしていた友人に訊いても、全体主義中国も事情はおなじであるらしい。

自分では自由社会でないと生きられないのはあきらかで、簡単にいえば、猛烈にわがままであるからで、不貞腐れて吸いさしの煙草を指でピンと弾くと、おまわりさんがぶっとんでくるような社会では到底生きられない。

煙草、喫わないんだけどね。
ものの譬えです。
なんの譬えかというとシンガポール政府が最も嫌いなタイプの市民を視覚化しようと考えた。

あんまり、いいおもいつきじゃないか。

女らしくしなさい、や、女のくせに、のような表現がある社会では、一応、いまあらためてみてもチ◎チン(←二重丸であることに注意)がついていて、もうひとつの、ややややこしい見た目のほうの性器はついていないので、男と女に分類すれば、男だが、それでも無茶苦茶腹がたつので、そういうときに猛然と、指をたてて、舌をだして怒れない社会も、自分には向いていない。

そそっかしいひとのために述べると、別にシンガポールで「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、このガキ」と述べても、おまわりさんがぶっとんでくるわけではありません。

ぜんぜん、ダイジョブ。

余計なことをいうとシンガポールは、日本などよりは遙かに女のひとたちの権利が強い国で、その権利の強さは、経済力に裏打ちされている。

もっと余計なことを言いつらねると、シンガポールは女の人が仕事に集中しやすい国でもあって、わし知人の女のひとは、インド系のひと、中国系のひと、マレー系のひと、どのひとも、結婚したあとでも家事をいっさいしません。

若い時は日本語では共働きという共倒れみたいな言葉があるが、ダブルインカムで、朝は夫婦そろって階下のホーカーズで食べる。

ラクサ、ミーゴレン、トーストと目玉焼きもあれば、もちろん、カレー粉をかければシンガポール、シンガポール・ビーフンもあります。

いま見ると、むかしよりだいぶん価格があがっているが、住宅地のホーカーズで300円〜400円であるらしい。

首尾良く夫婦で成功すると、今度は、たいていインドネシア人かマレーシア人のお手伝いさんを雇って、本人たちもトイレとシャワーが独立についている「お手伝いさん部屋」があるアパートに越す。

閑話休題(それは、ともかく)

ところが、首相に向かって「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、この豚野郎」とかいうと、ちゃんとおまわりさんがぶっとんで来るはずです。

あるいは、よおし、今日は天気がいいから、いっぱつ世界をおどかしちゃるぞ、と考えて、永久革命論を書いて、こんなクソ政府なんてBBQにしてくれるわ、てめえら銀行の地下金庫に閉じ込めて蒸し焼きにしてやるからそう思え、と書いてサイトにアップロードすると、おまわりさんがビッグバンドでやってくるとおもわれる。

うるせえな。

おれの勝手だぜ、というわけにはいかないのですね、これが。

かつて、バルセロナには、ランブラのいちばん人混みが激しい往来で、裸で、でっかいチンチ〇をデロンと出して佇んでいるおっちゃんがいた。

あのひとも、シンガポールなら豚箱行きだが、バルセロナでは観光資源化して、名物じーちゃんになっていた。

子供が寄っていって、おっちゃん、ちょっとさわってもいいですか?

つんつん。

おお、でっけえ、とか述べていたりしたもののようである。

あと、ほら、タイムズスクエアで、デロンはないが、アンダーパンツとブーツにカウボーイハットでギターを抱えて歌っている人がいたでしょう?

あれでも逮捕される。

しかし、永久革命を唱えたり、チンチンをでろんと出して交叉点に立ったり、裸でギターを弾いたりしてみたくない場合は、シンガポールは快適な国です。

前にもなんどか述べたように、なにしろ、「見せかけは民主社会だが、ほんとは一党独裁全体主義」の国を作るにあたって、お手本にしたのが日本なので、本質的に日本と似た社会だが、ひとつだけ、日本社会がトヨタクラウンみたいな国であるとすると、シンガポールは、どう見てもベントレーのスポーツカーを目指していて、わしが何度も訪問していたころでも、年々、社会から「ダサさ」が消滅していた。

「絆」とか「美しい国」とか、国語がんばろうな、だっさい言葉で国民をだましちゃろう、という底の浅いマーケティングは消えて、
Crazy Rich Asiansを見れば判る、繁栄と成功で、自由のような西洋イデオロギーを圧倒してしまった。

日本は、たいへん不運な生い立ちの国で、戦争に負けて、国民が求めてもいない、どころか、どんなものかよく知らない「自由」をアメリカが押しつけていった、という歴史を持っている。

戦後すぐは、あわてて「自由って、なんだ?」という議論が沸き起こったが、空転する、とっかかりがない議論を繰り返して、そのまま、みんなめんどくさくなって忘れてしまった。

アメリカは、と書いたが、日本の戦後のグランドデザインをつくったのは、アメリカ政府ですらなくて、精確に言えばアメリカ軍、です。

「天皇なんて、ぶっ殺しちまおうぜ」といきりたつニュージーランドやオーストラリアを、まあまあ、と抑えて、天皇を中心とした「国体」がある全体主義の枠組みをそのまま残しながら、「封建主義」や「軍国主義」を弾圧して、「自由を受け入れなければ刑務所にぶちこむぞ、こら」という不思議なことをやった。

世界史に稀な「自由の強制」です。

その結果、日本の戦後文明は、口では自由だあ自由だあ、と言いながら、全体主義がそのまま保存された日常生活で、軍隊となにも変わらない会社文化のなかでエコノミックアニマルとパキスタンの政治家に冷笑される経済尖兵生活を送ることになっていった。

「他人の迷惑を考えなさい」と言われながら育った人間が自由人になるわけはないが、日本では、おどろくべし、それが70年余も続いた現実だった。

それが日本という「自由社会」の正体だった。

もっと投げやりな言い方をしてしまえば、初めから嘘と本音の使い分けで出来た社会で、不幸にも「自由」は嘘の皮のほうだった。
国政選挙の投票率がバカバカしいくらい低いでしょう?

あれは、なぜであるか、最も納得がいきそうな説明は後藤田正晴という保守政治のチャンピオンみたいな政治家によってなされている。

まず普通の人間では理解できないくらいオカネがかかる。

わし自身は外国人でも選挙権があるニュージーランドと異なって日本では国民以外に選挙権がなかったが、義理叔父の友達の、いわゆる「有力者」の友達の家で、毎日、あちこちの候補者の宴席をハシゴしているというじーちゃんが、「K先生、あのひとは、もうダメだね。このあいだの選挙では鯛のお頭(かしら)付きだったが、今度はコンビニ弁当みたいな、しょぼい弁当で、おまけに封筒は1万円ぽっきりだよ。
ありゃあ、ダメだ。もう勢いがない」と述べるのを聴いて、ぶっくらこいたことがある。

驚愕を顔にださないのがたいへんでした。

義理叔父は、他の機会にも長野県の地元に住んでいると勘違いした顔見知りの業者から、あんた、来た方角から言って、I先生のところに行ってきたんだろう?
正直に言いなよ、いくらだった、7万円?

と軽トラックのなかから訊かれて、腐り切っていた。

後藤田正晴は、公平に述べて金銭的に清潔な人で公正な人間だったが、初めの選挙では「金権選挙」で逮捕されている。

きっと、いろいろ言いたいことがあったでしょう。

何億円、なんて金額じゃないんだよ、きみ、と驚くべきことを周囲の人に洩らしたこともあったそうです。

もうひとつ。

選挙にオカネがかかりすぎるので、赤旗の売り上げがある日本共産党やもともと新興宗教グループが母体の公明党以外の政党は、桁違いに安上がりなテレビタレントに候補として目をつけることになった。

元弁護士のタレント、なんていうのは、票が安く集まる上に、あんんまりものが考えられないひとびとにとっては賢げに見える、というので、特に重宝したようです。

その結果、政治の世界がバラエティショーの三流タレントのゴミ捨て場みたいになってしまったが、員数あわせなので、たいして気にも留めないでいまに至っている。

候補のところで、すでに普通の人間が、一念発起して立候補する、というのがドンキホーテ行動になる、という巧妙で驚くべき仕組みは、民主社会を阻止するには、たいへんよく出来た仕組みで、その結果、オカネをかけてもいいと判断された「主戦力」の元官僚と芸能界では大成できなかった将来のない芸人がずらりと顔をそろえて、さて、この豚さんたちのなかの、どれがおまえの親か当ててご覧、な、Spirited Away的な状況のなかで投票しろと言われるようになっていった。

ま、あんまり、よそさまの国を云々するものではないが、あれで投票する気になるのは、よほど変わった人であるとおもわれる。

そういう仕掛けをつくっておいて、「民主主義ってのは投票だけで意思を表明するものだ。通りに出るなんて邪道もいいところで、民主主義が判っていない」と述べておけば、ははは、なんのことはない、もうそこで社会の体制としても全体主義が出来上がってしまっている。

嘘っぽい、というよりも、嘘そのものの民主制のなかで、日本人は、だんだんに自由への関心を失っていった。

火事で全焼してから燃えてしまった自分たちの家の価値を議論している趣があるいまの政権批判も、目を近づけると、自由への主張よりもビンボ暮らしを強制された怒りのほうがボリュームがおおきいように見えます。

わし観察では、日本の人は、あんまり個人の自由がいらない国民性で、どちらかといえば、自由社会よりも、なにごともきちんとして気持よく暮らせる社会のほうが望みであるように思える。

もしかすると日本の人が憧れる「自由社会」は、西洋の社会ではなくて、シンガポールなのかも知れません。

そのことも、また、そのうち、考えてみたいと思っています。

Posted in Uncategorized | 10 Comments

名前のない土地

こけつまろびつ、という日本語は、こういう状態を言うのだろう、と自分で考えてもマヌケなことをおもいながら、走り去っていくひとを見ていた。

鎌倉ばーちゃんの家に遊びにいって、いつもの悪いくせで、皆が寝静まったあと大酒(たいしゅ)して、酔っ払うと、草木も酔い伏す丑三つ時、鎌倉ではいちばん好きな海岸である材木座に行って、素っ裸で泳ぐことがあった。

気持いいのよ、すごく。

海にも砂浜にも誰もいないところで泳ぐ。
沖に出て、空をみあげて、ぷかぷかと浮かんで遊ぶ。

あー、いい気持、とおもいながら砂浜に泳いでもどって、さて自分の服はどこに脱いだんだっけ、と立って考えていたら、背後で、ぎゃああああ、という声がした。

ふり返ると、40代くらいの男の人が、顔をひきつらせて立っている。

ひきつらせている、といっても、材木座のあの辺りは暗いので、よく見えないんだけどね。

次の瞬間、その気の毒な男の人は、まるでダメな刑事ドラマの演技のように、ときどき転んだりしながら、駈け去っていきます。

わしをなんだと思っているのであるか。
鬼ヶ島から、ドンブラコと流れて来た鬼か。

ガイジンだからだろうか。

それとも、日本の男の人よりもおおよそ30cmちょっと背が高くて、でかいからかしら。

きみは、「なんで、そんなことを書いているの?」とおもうであろう。

日本のことを考えていたんですよ。

日本のことを思い出そうとするが、なにしろ最後に滞在してから十年以上経っているので、だんだん記憶がこすれて滲んできて、ぼんやりして、水に映った風景のようです。

夜更け、暗闇のなかにぼんやり立って空をみあげている巨人たちのような電波望遠鏡がある野辺山や、やはり深更になって、用水に沿って森のなかを歩いていると、置き捨てにされた売春婦たちの無縁仏がならぶ墓地から、けものなのか、地上に残っている魂なのか、なにかが微かに動く気配がする追分、日本の精霊達が向こう側から提灯を先頭に歩いてやってきそうな発地の畦道、

旧軽井沢や広尾は、土地としては大層退屈な町で、失敗だったが、
いったん佐久に出て、そこから向かう「名前がない土地」は素晴らしかった。

長野県で、だんだん判ってきたのは、良い場所を見つけようとおもったら、地図をひろげて、名前がついていない土地を見つけるのがコツなのでした。

このブログにも、よく出てくる、その道をずっといけば山梨の県境に至る、細い、山間の、だが妙に立派な舗装がほどこされている道などは、モニとの秘密のピクニックのスポットで、落ち葉が覆い尽くした道路を見れば一目瞭然、クルマなんて一台も来やしないので、敷物を広げて、シャンパンを開けて、のんびりサンドイッチを食べた。

この森は、たいそう美しい森で、雑木林というのか、日本やカナダに特徴的な、色とりどりの葉がつく、さまざまな落葉樹の混淆で出来ていた。

やはり佐久の、天狗山トンネルというトンネルの向こう側に広がる、広大な稲田や、深い豊かな森林の記憶で、自分の日本への気持が、どれだけ洗浄されたかしれない。

夏の葉山の海、秋の布施や立科の森、

軽井沢も、町は退屈を極めるが、ニュージーランドに移動するので、いつも数日しか味わえなかった、冬の、凍り付いた森の姿の美しさには息をのんだ。

クリスマスが近付くと、町中で電飾を飾るお祭りがあって、その頃になると、広尾からクルマでいったん軽井沢に行って、帰るときに地元の別荘を面倒みてくれているひとたちに冬の「水抜き」をお願いしてから、とって返して、すぐに成田へ行く習慣だった。

日本の文学とかなんとか言っているが、なんのことはない、おもいだすのは鐙摺の山の背後に聳えたつ積乱雲、凍った森、春に咲き乱れるこぶしの花で、自然ばかりで、落ち着いて考えてみると、自分がいまでも日本にゆるがない好感を持っているのは、あれほど乱開発に痛めつけられても、ふらふらになりながら立って、まだ美しい存在であることをやめない、自然のせいであるようにおもえる。

名前がない土地を言葉にして呼ぶことはできない。
「あのあたりに地上の風景とはおもわれない美しい土地があった」と漠然と思い出すだけで、検索も出来ないのだから、画像として甦らせることもかなわない。

命名されない美しさは、しかし、自分にとっては日本と日本語そのもののことで、自分の内部に感覚としてだけ残っている「美しい日本語」や「美しい日本」は、これのことです、と手のひらに指して明示することができない。

それでもたしかに「美」は風景から自分の魂のなかに歩みいって、日本語とともに、住家(じゅうか)をさだめていることが感じられる。

日本の人が、もちろん、よく知っているように、東京から成田へのJRやクルマから見える風景は、水田に囲まれたかつての地方豪族の館跡の森が点在する、世界でも最も美しい空港への道のひとつです。

あの暗い照葉樹と水田がつくる風景を厭うひともいるが、とても好きで、定宿のヒルトンの部屋から外を眺めて、また来るぞおおお、と力んでいたころがなつかしい。

荷物を解いて、リフトに乗ってバーにおりていくと、
「ヘイ、ジェームス! あなた、また日本に来ていたの?
ほんとにこの国が好きなのね」

と、前に、たまたま顔見知りになったユナイテッド航空の女の人が呆れている。

そう。

好きなんだよ、きっと。

でもね、ぼくが好きなのは、きみが知っている浅草でも、銀座でもなくて、日本という国でもなくて、きみが知らない、名前がない、まだ名付けられていない土地なんです。

名付けられないことによって、きみが見たことがない土地に、ぼくは立っている。

この地球の上に、そっとおかれた、宝石のような国に、また、もどって来る日があるだろうか。

Posted in Uncategorized | 8 Comments

政治の言葉

演技だとすれば超一流の俳優だと言うしかない。

ニュージーランドはCOVID禍で21人の死者を出したが、その多くは認知症患者の老人ホームの老人たちだった。

アーダーン首相は、公式に老人たちを死なせてしまったのは対策が甘かった政府の落ち度だと死者と家族、友人たちに謝罪したのだが、そのときに唇が戦慄き、やや声がつまったのだという。

涙を流せばリーダー失格なので、まさか涙は浮かべないだろうが、
演説を見ていなかったぼくも、さもありなん、と考える。

クライストチャーチでモスク襲撃事件が起きたときは、演説を見ていた。

AR15半自動小銃で武装したオーストラリア人ブレントン・タラントが51人のイスラム教徒を射殺したこの事件が起きると、まだ「首相というより首相見習いだった」と、いまになってふり返って自嘲するくらい、経験のない39歳の首相は、世界中の西欧人がぶったまげてしまったことに、イスラムの女の人々に倣ってヒジャブをかぶって会見場にあらわれた。

日本では大学教授で有名なイスラム学者であるという人が「異教徒がヒジャブを被って公式の席に臨むなどは、イスラム人たちに対して、とんでもない失礼で、無知にもほどがある」と記事を寄稿して怒っていたが、当のイスラム人たちは、もう、そのヒジャブ姿であらわれた首相のイスラムコミュニティとの連帯を示す姿を見ただけで、感動して、男も女も泣き出して、感謝の祈りを捧げ始めていた。

演説は、その会見のあとで行われた。

演説を見ていて、この人はすごいな、とおもったのは、抑制に抑制を重ねても、隠せない、身体全体のボディランゲージで怒りを現していたからで、たしかに、そのときも唇はふるえていた。

その怒りの凄まじさは、静かな言葉とともに会場に伝わっていって、

「ニュージーランド人は、いまこそ団結しなければならない。
極右白人至上主義者には、この国には生きていく場所はない」

「ニュージーランド人の団結は人間性に基づくものであるべきだ」

というメッセージは、あっというまに全国民に伝わって、一朝にして「国風」が出来たといいたくなるくらいだった。

次の日から起こったことは、ニュージーランド人なら誰でもおぼえているに違いない。

どんなに微かな知り合いでも、もちろん、ただ近所に住んでいるというだけでも、午後になると、イスラムの主婦がいる家に女のひとびとが押しかけていって、買い物にはいつ出かけるのか、出かけるときに、自分たちがあなたに嫌なことが起きないように護衛したいが構わないか、と訊いている。

町中の至る所に、ひとりのイスラムの女の人を、3、4人のベールをかぶったキィウィの女の人々が取り巻いて、護衛して、汚い言葉を吐きかけたりする人間がいないように、周りのなりからして危なさそうな若い男たちを睨めつけて、制圧しながら歩いていくのが見られるようになった。

アメリカ人たちと違って、近所に人が越してきても、素知らぬ顔をしているのが礼儀のニュージーランド人としては異例も異例、びっくりするように異例なことです。

子供のころ、ニュージーランドの人びとと歴史の話をしていると、だいたい第一次世界大戦くらいを境に、いつのまにか連合王国の歴史を遡っているので、奇妙な気持にとらえられたことがある。

オーストラリア人などとは異なって、ニュージーランド人は、つい最近まで、普通の意味での「国民」としての意識は持っていなかったとおもう。

いまでも20ドル札はエリザベス女王の肖像だが、過去には20ドル札だけでなくて、5ドル札、2ドル、100ドル札にもエリザベス女王の肖像が刷り込まれていて、それが自然な国だった。

国民意識は、ボルジャー首相のあたりから、だんだんに育ってきたが、明瞭なアイデンティティとしての国民意識は、ジャシンダ・アーダーンのモスク襲撃事件後の演説が生みだしたのだと言ってもいいかもしれない。

では、それが常に選び抜かれた、とっさの受け答えのときですら最適な表現を選ぶ能力に恵まれたアーダーン首相の言語能力だけから生まれてくる伝達能力かというと、意外と、そうでもない、というのが、この記事を書いている理由です。

人間の言語は、もともと伝達に向いていない、という主題は、このブログのあちこちに出てくる。

何度も繰り返されているテーマのひとつです。
あらかじめお互いに判っていることを、お互いの台帳を照らし合わせるようにしてしか日常言語は伝達を可能にすることができない。

言語によって伝達をはたそうとすれば、言語が形成された途上で出来た「定型」にカチッとあった表現を見つけ出すしかない。

いつか、日本語で、この話をしたら比較的有名な作家の人が五七五の話だと思い込んでしまったので、びっくりしてしまったことがあったが、もちろんそうではなくて、

保谷はいま
秋のなかにある ぼくはいま
悲惨のなかにある
この心の悲惨には
ふかいわけがある 根づよいいわれがある  *

というような、これを伝えるには、この言葉の選択しかないだろう、という言葉が持つ定型に到達することを言っている。

定型によって、少し、観念と情緒のレベルが高くなって、ほんの少し中空に浮くような場所に送り手と受け手が共にあるようになったところで、初めて言語は伝達能力をもつ。

政治の言語による伝達はもっと複雑で、身体の動き、手振り、映像時代のいまで言えば、極端にいえば目の輝きに至るまで動員されて、やっと伝達される。

もちろん、例の「天才」という、いまいましい例外はあります。

誰でもが知っている例でいえば、ウインストン・チャーチルが好例で、あの、ゆったりして、物憂そうな、上流階級をそのまま体現した調子とアクセントで、ほとんどマルスが起草したような文章が声にだして読まれたせいで、ヒットラーは圧倒的に優勢な軍事力をもっていたにも関わらずイギリス侵略をあきらめざるをえなくなった。

ただ、チャーチルの場合は時局がつくりだした緊張の上に立って、観念と情緒の高みをつくって、いわば芸術家とおなじやりかたで伝達を果たしたのであることは、平時の演説は、打って変わって精彩を欠いていることで判るとおもいます。

民主制と自由主義は、すべてが政治家の言語にかかっているが、
当の言語は、伝達が大の苦手で、とりわけ政治のような、本来の化けの皮が暴力そのものである世界では、正常に機能することが望めない。

自由社会を標榜する、ある国が、真正の自由社会であるかどうかを判断するのは、おもいのほか、簡単で、その国の政治家の演説を出来れば映像付きで聴けば事足りる。

さすがにいまどきは多少でもまともな国では官僚が書いた原稿を棒読みする政治家の国はないだろうが、平たく言えば、何の気持もこもらない演説をする政治家がいる社会に、かけらでも自由など存在するわけはないのは、ここまでに述べた事情からもあきらかでしょう。

ほとんど子供にでも見分けがつく見分け方で、たまには、暇を作って、さまざまな国の政治家の演説を眺めるのも、おもしろい時間の過ごし方なのかもしれません。

*保谷 田村隆一

Posted in Uncategorized | 3 Comments

日本人と民主主義 その6 シンガポール

シンガポールが「世界で最もうまくいっている独裁制全体主義国家」であることは、以前にもなんどか書いたことがある。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/1512/

ぼくはこの国が昔からたいへん気に入っていて、冗談ではなくて、かつ、きみが信じようが信じまいが、と日本語では付け足したくなるが、いったい何十回行ったかしれない。

マンハッタンや東京、バルセロナのように数ヶ月住んでみる、ということはなかったが、それは単純に暑すぎる気候のせいで、暑いと、日中はプールサイドでゴロンチョになって、シンガプーラで、泳いだりしていて、夜になるとゴソゴソと這い出して町に出る、という単調な暮らしになりやすいので、何十回も訪問したことはあっても、一回の訪問は数日です。

シンガポールは国策でストップオーバーをプロモートしていて、連合王国から、ぶおおおおおおんんと飛んで来て、4泊まで、だったかな?であると、一流ホテルも半額以下で、10代後半から20代前半のビンボ男だったときには便利だったことには、チャンギの空港からダウンタウンまでのバスも無料だった。

むかしは、などといいだすと能楽の翁か、むかしおとこの亡霊のようだが、わしガキの頃などは、シンガポールは正真正銘のパラダイスで、タイ人の友達などは、「ガメ、おまえ、シンガポールみたいにばっかみたいに高いところに行ったらバカだぜ。バンコクに来いよ」などと言っていたが、十分に安くて、おまけに消費税もゼロで、その上、なんと言っても例えば行き先を示す標識や、カーブのスピード制限、あれもこれも連合王国オーストラリアニュージーランドで、デザインがおなじなので、なにがなし、なじみやすいということがあった。

シングリッシュとシンガポール友が自嘲したりする訛りは、いまは普通程度の教育を受けた人はひどくなくて、「いやあ、シンガポールの訛りは、ぼくにはわからなくて」と述べる日本の人は、たいてい自らの英語能力を恥じて相手のせいにして誤魔化しているだけだとおもわれるが、当時は、中国語っぽい破裂音おおおきさで、わかりにくくて、聞き返すと、「え?あ、いや、いいです」と、日本の人とおなじように黙ってしまう人もおおかった。

7歳か8歳、1990年頃のことです。

アジア文化の先生、のような国だった。
本格的なDim sum(飲茶)は、ここでおぼえた。
中国の、おいしい店に行けば、あの天にものぼるような味がするコンジーも、ここで初めて食べた。
海南チキンは、初めは、昔はなんだかチョー薄暗い店内だったマンダリンホテルのチャターボックスだったが、すぐにマクスウェルセンターの天天海南鶏飯で、大嫌いなはずの行列に嬉々として並んだ。

リトルインディアに行く途中、干し肉がぶらさがった屋台が延々と並んでいた、強烈な印象が忘れられない。

インド料理のタリも、ここでおぼえた。

ロンドンにあるのは気取ったインド料理屋ばかりで、コンテンポラリーインディアンが多かったが、シンガポールは異なっていて、
300円からそこらも出せば、プラスチックの皿に盛られたアルゴビにロティが一枚ついてきた。

その一方では、例えばインターコンティネンタルホテルには、ちゃんとハイティがあって、かーちゃんのおともで、くっついていけば、ロンドンとなにも変わらない午後の時間が冷房が利いたロビーのカフェにはあった。

シムリムセンター、Bugis Junction、飽きるということが難しい町で、身体がでっかくなってからも、子供のときとおなじで、 なんだか内心できゃあきゃあ言っているうちに滞在が終わる楽しい町だった。

段々、友達が出来てくる。
初めの友達らしい友達は、同じ大学の、普通の人間なら必死に隠す大学訛り(←イギリスという国には、そういうヘンなものがあるのです)をバリバリに利かせた英語をスーパー完璧なクイーンズイングリッシュを話すインド人の友達で、この人はあとで画廊の経営者になったが、シンガポールに数年住んでいて、よく会っては、パンパシフィックホテルのなかのインド料理屋で遊び呆けた。

話には全体主義国家だと聴くけど、来てみると、みんなのびのび暮らして、なんのことはない自由社会だよね、というと、屈託のない、おおきな笑い声で、はっはっはっと笑って、
相変わらずガメはシアワセなのねえ。

シンガポールには自由なんてありませんよ。
テラスに立ってメガホンで政府の悪口を言ってごらんなさいよ、5分もしないで警察が来て、豚箱行きだわよ、という。

密告社会でもある、という。

いつかタクシーでインドネシアから出稼ぎに来ているのだ、と述べるドライバに、春節なのに、シンガポールの人は、行儀がいいから、決まった場所でしか爆竹ならさないんですね、と言ったら、こちらも、わっはっは、なんて無知な奴だ、という調子で大笑いされて、ダンナ、そんなことしたら、あっというまに、お巡りがぶっとんで来ますよ、まっすぐ豚箱行きだわ、とわし友と同じ事を言う。

シンガポールには、近所の1ブロックに3人はパートタイムのスパイがいるんでさあ。
こいつらはね、密告一件でいくらと決まった報酬をもらえるんですよ、と俄には信じがたいことまで述べている。

あとになって、だんだんわかってくると、国民の政府に対する反感もたいへんなもので、いつか投資友の会社の若い社員たちにレストランを案内してもらってランチを食べた帰り途に、リフトに乗ったら、別の若い人たちがどやどやと乗り込んできて、当然、禁煙のリフトのなかで、「ここのはカメラがないんだぜ」というひとりの声に3人がいっせいに煙草に火をつけたのには、びっくりしてしまった。

あたふたと、ふかして、降りるときに「ざまあ見やがれ」という調子で踏みにじっていく。

シンガポールは、なにしろ煙草の値段が高いので、もったいないこと夥しいが、彼らにしてみれば、鬱憤ばらしで、もしかすると内心では、一種の反政府行動なのでしょう。

そういえば子供のときマウントエリザベスの裏の小路に煙草の吸い殻がいっぱい落ちていて驚いたことがあった、と言うと、「あっ、あそこ煙草を喫っていてもつかまらないんで有名だったんです」という人がいる。

「お巡りが巡回に来ないんですよね」

リー・クアンユーの自伝を読むと、シンガポールが、あらかじめ、「自由社会に見せかけた全体主義国家」としてデザインされたことが、よく判る。

地図を見ると簡単に理解されるが、マレーシア、インドネシアというイスラム国家に囲まれていて、シンガポールはしかも国内にもイスラム系が多いマレー人と中国系人の鋭い対立がある。

いつか、ラッフルズシティで1月1日を過ごして、ホテルのレセプションで「シンガポールは、1年に二回お正月があって、いいね」と述べたら、レセプションの、いつも愛想がいい若い女の人が、
ほんとうに憎しみがこもった声で、「シンガポールの正月は今日だけです。中国人のあいつらが祝っている正月は違法です!許していいことではない!」と形相もものすごく、語気を強めて述べたので、ぶっくらこいてしまったことがあった。

あるいはマレー系のタクシーに乗ってセントーサへ向かっていたら、隣を走っていたクルマが、ふらっと、こっちに寄って、危うくぶつかりそうになると、「中国人!」と舌打ちをする。
「お客さん、知ってますか?中国人ってやつらはバカだから、クルマの運転ひとつまともに出来ないんだ」という。

一事が万事。

リー・クアンユーは、民主主義などでは、根っからの個人主義者の、わがまま自由人である中国系人がまとまるわけはないと考えていた。

だがいっぽうでは、イギリスを初め、自由諸国の援助を必要としていた。
周囲のイスラム諸国は、いまにもシンガポールをたたきつぶしそうなくらい敵意をむきだしにしている。

ほら、ついこのあいだも、若い中国夫婦がインドネシアから出稼ぎに来たお手伝いさんが逃げないように窓がないお手伝い部屋(←シンガポールの高級アパートには、よく、トイレと小さなキッチンがついた「女中部屋」が付いている)に鍵をかけて閉じ込めておいたら、気の毒なお手伝いの若い女の人が熱地獄の部屋で死んでしまって、怒ったインドネシア人が、というかインドネシア政府も率先して怒りだしてしまって、コンクリートの原料になる石灰岩の輸出を止めてしまったことがあったでしょう?

おかげで、シンガポールでは数ヶ月のあいだ建設現場という建設現場は仕事をストップせざるをえなかった。

そこで極めて聡明な革命家だったリー・クアンユーが考え出したのは民主主義社会の服を着た全体主義社会を建設することだった。

ここからは、その建設のために彼がやったことを知っている人も多いと思います。

日本社会を翻訳してコピーした。

日本こそが、彼が目標とした「自由社会を演じる全体主義社会」であることを、この抜群の知能を持った反日活動家は、よく知っていた。

いまでもおぼえている。
いちどだけ子供のときに、おもしろがってガイドさんを雇ってもらって、案内してもらったことがあったが、タイガーバームガーデンの次に連れて行ってくれたところが戦争博物館のような場所で、日本人がいかに残虐な侵略者であったか、それこそターガーバームガーデンの色彩の毒々しさで、マネキンを使って案内していた。

そのときにガイドの女の人が、ふとおもいついたように「この場所は日本から来た観光客にはないことになっている、絶対に見せないことになっているのですよね」と笑っていたのは、多分、そのころは日本からの観光客がまだ多かったからなのでしょう。

最近は、随分変わったが、わしガキの頃は、まだ、ニュージーランドやオーストラリア、連動王国に歩調をあわせるように反日感情が強かった。

まして、リー・クアンユーが建国を開始したころの反日感情の激しさなどは、想像するのは簡単です。

それでも現実主義政治家であるリー・クアンユーは日本の偽造自由社会をまねることをためらわなかった。

そうすることによって、西洋自由社会からも日本からも中華社会からもオカネをひきだすことに成功した。

中国本土の経済市場デザインの根本的な欠陥が、香港とシンガポールをまねた結果、都市ばかりが繁栄して、その繁栄が地方に波及しないことであることは前に述べた。

ところが、そのデザインのおおもとは、実は日本で、日本近代に興隆をみた国家社会主義はシンガポールで「明るい全体主義」に姿を変えて世界で最も繁栄する社会を築いている。

シンガポールの実業家や投資家の友人たちと話していると、「別に自由社会じゃなくてもいいや」という気持が、年々、強く感じられる。

なぜ民主制が必要だろうか?
と、やや遊び半分ながら議論になることもたびたびある。

旧イギリス軍弾薬庫にある、わし贔屓のシーフード・レストランで、民主制と自由社会は西洋人の妄想にしかすぎないのではないか、という議論をしていると、周りの学生たちも加わって、途方もなく楽しい夜になったこともある。

ヒントがある。

シンガポール人の友達に案内されて、人気があるフードトラックの長い行列にならんでいたら、前のほうの学生たちが、いま順番がめぐってきた女の人に「どうして順番が来る前に財布を用意しておかないんだよ!後ろに並んでいる人間が目にはいらないのか!」と罵声を放っている。

ところが、日本でも、まったくおなじ光景を観たことがあるのです。

全体から個人を見るか、個人から全体を見るか、どちらの視点にたって社会を眺めるか、ということに自由社会の成立はかかっている。

民主主義というものが、個人の側から規定した社会の仕組みだ、ということを、次は説明したいとおもっています。

Posted in Uncategorized | 2 Comments

災厄日記 その10 5月21日 the aftermath

ライドオンムアやリーフ・ブロワー、チェーン・ソーの音が5月の終わりの乾燥した大気に響き渡っている。

8週間に及んだCOVID禍の下で、気味が悪くなる静けさだった町が活気を取り戻している。

クルマで出かけてみると、混雑で有名なグリーンレインのラウンドアバウトが渋滞している。

モニとふたりで、おもわず顔をあわせて、にんまりする。

交通渋滞に遭遇して嬉しい気持になるのは、生まれて初めてなのではないか。

人情の常、というか、4段階ある警告レベルのうち、レベル4からレベル3レベル2と立て続けにさがってきて、レベル2になると、COVID以前よりもカフェは混雑するようになった。

レストランも満員で、マジメなレストランは、それでも、テーブルとテーブルを優に2メートル離して、あんまり閑散とした印象なので、着席禁止のテーブルにはマネキンを置いたりしているが、ときどき出かける海辺のスペイン人夫婦経営のカフェなどは、テーブルとテーブルがぴったりくっついていて、規制もどこふく風、まったくの平常営業になってしまっているようでした。

それでも、いまのところは、あな不思議、二次感染も起こらなくて、毎日新規感染者ゼロがつづいて、今日辺りはICUももちろん含めて入院患者自体がゼロになりそうです。

英語では感染の危険がない生活圏をbubbleという。

次の節目は、多分、拡張バブルで、2400km離れているとはいってもお隣の、むかしからトランスタスマン、ANZACの結び付きが強いオーストラリアと結託して、「拡大bubble」をつくることになっているが、そのときに感染者が紛れ込んでくるのではないか。

オーストラリアもニュージーランドも、むかしからボーダーコントロールが下手で、空港職員はなれていなくて、偽造パスポートは見破れないは、COVID禍になると、ノーチェックで入国できてしまった中国や香港から訪問客が、逆に「あまりにチェック体制がひどい」と怒りだしてしまうくらいで、さて、どうなるか。

いまこれを書いているコンピュータのセカンドスクリーンにはCOVID禍のロックダウン期間中を通じて、毎日午後1時に登壇して、アーダーン首相とともに、篤実をそのまま人間にしたような姿で、国民的人気者になってしまったブルームフィールド博士が現況を説明しているが、そういう性格の人なので、「やっと、なんとかこれで終わりそうだ」という安堵の気持ちが滲みでてしまっている。

ほんとうは国民を油断から守るために、安心の気持を隠しておかなければならないんだけどね。

COVID禍で変わったことは、なんだっただろう?

このままオフィス通勤をやめて家で働いたほうがいい、支障もなかった、という国民が8割近くを占めている。

いや、やっぱりオフィスのほうがよかった、が1割ちょっと。

狂ったように増員したにも関わらずクーリエや運送サービスは、どんどん滞貨して、今朝、NZ郵便は20万パーセルだかの滞貨になってパニクっているのがニュースになっていた。

ロックダウンで最も長かったレベル4ルールが他国よりも厳しくて、外食はおろか、テイクアウェイ、日本でいう持ち帰りも禁止だったので、出前が発達した。

教育のオンライン化が進んで、まだ完全に整ってはいないが希望すればほぼ在宅でも学校教育が受けられるようになった。

Air NZが倒産寸前の株価になった朝、一時帰休になったスチュワーデスがストリッパーに転業しているというニュースを読んでいたモニさんが、飲んでいたカフェ・オ・レをおいて、「わたし、Air NZが好きだから、株を買ってみる」と述べて、やや、ぶったまげるような数の株を買って、まあ、いいか、寄付だ寄付、善意には出費はつきものだ、とケチンボな夫は品のわるいことを考えたが、豈図らんや、弟謀るや、株価は、その日を境に上がり続けて、まだひょろひょろとあがりつづけていて、あれ以来株価を見ないモニさんは知らないが、もっかは株長者であることを夫のほうはちゃんと知っている。

表面に出てくるニュースにはならないが、最もおおきな変化は、ニュージーランドと英語世界との直截のつながりが以前とは桁違いにおおきくなったのは、例えばニュージーランドのマイクロソフトやグーグルの社員は、ことあるごとにアメリカに出張しなければならなかったのが、どうやらCOVID後は、ほとんどの用事はオンラインですむようになったことをみるだけで理由はわかる。

「言語によるまとまり」がおおきくなって、言語別ブロック化が世界では進んでしまった。

あとは、世界中で報道されているとおりのことで、ここに書くまでもない、独裁国家の欠点がおおきく目につくようになった中国の孤立は決定的になり、台湾に独立を与える動きまででてきている。

日本語で、「脅したり賺したり」という表現があるが、そのままで、経済関係を元手に恫喝を繰り返してみたり、妙に外交上の猫なで声で、新しい取引をちらつかせたりしているが、どうやら、中国の孤立は決定的になってゆくように見えます。

それに伴って例の「困った人たち」がアジア人排斥の動きを強めている。

困った人たちが困る所以で、なにしろ中国人も韓国人も日本人も区別がつかないので、全部いっしょくたで、この動きが固定すれば、日本も結局は中国圏に入ることを希望するもなにも、独裁の傘の下に追いやられてしまうでしょう。

こうやって外交未来を書いているときは、いつも、だいたい2050年頃を念頭においているが、気が早くてそそっかしい友達は、「アベの次は、自分が収拾しなければならない国情がわかっていないマヌケな誰かで、その次はシー・ジンピンだったりして」とおっそろしいことを言う。

ともかく、かくとも、ニュージーランドとオーストラリアは、SARS-Cov-2との共存をめざす他国の方針に背を向けて、根絶をめざして、いまのところは、うまくいっているように見えます。

当初の方針どおり、国内のCOVIDを完全に抑え込んで、社会の維持に最低限必要な経済活動で生き延びながら、有効な治療薬かワクチンが完成するのを待つ。

いわば「命あっての物種」政策で、オカネモチのオーストラリアはともかく、ニュージーランドのようなビンボ国では、ふりかえると、ほんとに細い切り通しの道で、それしかウイルスの虎口を逃れる方法がなかった。

今日は、うららかな日で、冬の初めの小春日和で、COVIDが荒らしまわった社会は、傷口を少しずつ癒やしていこうとしている。

英語社会のことで、もちろん誰もなにも言わないが、自分の机にむかってバランスシートを見て歯をくいしばっている夫や、政府がつくった6ヶ月のモラトリアムのあとでのホームローンと教育ローンの支払いのあてがなくて途方にくれるシングルマム、トラブルに足をとられている人間が桁違いに増えたのは、たいした想像力がなくてもわかる。

南半球の、世界地図に載らないことすらよくある、物理的には絶海の孤島と呼んだほうが適切な、ちいさなちいさなひとりぼっちの国が、ウイルスに吹き消されるのをようやく免れて、今度は、ズキズキ痛む経済的な肉体でよろよろと起ち上がって、歩いていた道にもどろうとしている。

ニュージーランド人がCOVID禍で学んだ最大の教訓は、人間の最大のちからは善意であることで、現実の問題として善意だけが苦境のなかでは国民を結束させて、困難を克服するちからを発揮させる、ということだった。

ニュージーランド人自身も、びっくりしたでしょう。

ぼくも、びっくりしたもの。

まさか、善意にいわば功利的なちからまであるとはおもわなかった。

Be Kindと首相が言い続けて、ニュージーランド人は、単純なので、ほんとにやたらkindになってしまった。

2m間隔で、ぽつりぽつりと立って待つ、長い長い行列も、いくら待っても来ない荷物も、売り場で疲れ果てた顔で品物を並べる店員や、やっぱりくたびれはてて、笑顔をみせようとしても顔がわずかにひきつるだけの配達員の表情をおもいだして、なんだかもともと途方もなく我慢強い国民性だったかのように、じっと待っていた。

500万人のチームだ、と首相は述べたが、誰が考えてもわかる、あまりにダサいから首相が避けた言葉、家族、という言葉で考えていたひとも多かった。

500万人のビンボ家族。

手に手をとって、倒れた人を助け起こして、ようやっとここまで来た。

職業柄、なにごとによらずworst-case scenarioしか考える習慣がないぼくも、これなら、なんとかやれるかなあ、とおもっているところです。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

日本人と民主主義 その5 バルセロナで

土曜日のディアグノルを、ふらふらと、と形容するのが最も正しいような走り方でメルセデスのSクラスが走ってくる。

クルマの流れに乗らないで、ゆっくりゆっくり走っているので、人目を引きます。

なんであんな走り方をしているのだろう?と訝しんで見ていると、パッサージュ・ド・グラシアとの交叉点の、ど真ん中で停止してしまった。

へ?
とおもってみていると、なかから中年の、立派な仕立てのスーツを着た紳士然とした男の人と、いまどき、ロンドンなら時代遅れとみなされそうな、ニューヨークなら真っ赤なペンキをぶっかけられそうな、ゴージャスで残酷なミンクのコートを着た女の人の、いかにもオカネモチなかっこうをしたカップルが降りてきて、すたすたすたと通りを渡って歩いていった。

駐車、しているんです。
交叉点のど真ん中に。

なるほど、大通りの交差点のまんなかならばクルマ2台分の駐車スペースはあるので合理的だよな、とおもおうとしたが、あまりに唖然としたので出来なかった。

おなじ日。

モニとふたりでご贔屓のレストランの、歩道に面したテラス席で食事をしていると、向かいの駐車場の出口でクラクションを鳴らす人がいる。

なんという無作法な、とおもって、そちらを見て、こけそうになってしまった。

出口にクルマの頭を突っ込んでパジェロを駐めている人がいたからです。

クラクションを遠慮がちに鳴らして、それから出口で雪隠詰めになったランドクルーザーのドアを開けて出てきたおおきなおおきな男の人は、しばらく左右を見渡してから、レストランを一軒ずつ、訪問しはじめた。

そのうちに小さな小さな女の人と戻って来て、口論している。

口論、というよりは、女の人が一方的に激怒している。

もれ聞こえる単語は、ここに書くのが忍びないような単語で、
お上品なほうだけ並べると「このオタンコナス」「マヌケ」「アホ」
というようなことを述べている。

どうやら、オントレが終わって、食事が佳境に入って、豚の頬肉が出てきたところで、おまえがわたしを探しに来たものだから、週末の食事が台無しになってしまったではないか、と怒っている。

そのあいだ、男の人のほうは、おおきい声ではないので聞こえないが、自分は駐車場から出たいので、出口を塞いでいるクルマを動かしてくれ、「駐車場の出口にクルマが駐めてあると駐車場から出られないのでクルマを移動させて欲しい」という、あたりまえすぎて説明するのが難儀なほどのことを依頼している。

しばらく口論していたが、プンプン怒りながら、それでも、クルマを動かして去った女の人を見ながら、感動しないわけにいかなかった。

相手は自分の倍は優にある大男で、しかも当然のことながら怒っていることが予想される。

いくら野蛮で知られるロンドン人でも、まさか女の人を男が殴りはしないが、物理的なおおきさの違いは直截に恐怖につながる。

そのちいさなちいさな女の人は、しかし、欠片も怖がらずに相手を罵り倒している。

言葉の応酬以外には起こりえないことを熟知した社会だからできることだとおもう。
もうひとつは、実は、このころにはもう気が付いて、びっくりはしなくなっていたが、他人のわがままに対する途方もない許容度の高さで、イギリス人なら、とっくのむかしに、まさか怒鳴りはしないが、例の嫌味たっぷりの表情で、寸鉄ひとを刺すような鋭い言葉づかいで怒りをぶつけているところでも、知らん顔をしていられる。

決して、乱暴な人間をおそれて知らん顔をしているわけではないことはギターバー

https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/14/guitar-bar/

にいた、多分、ハイになっていて、失礼な野次をとばしている客が、ギターの人が「静かにしてくれないか」と述べたのに口応えをして、失礼な野次が「会話」の形になりだすと、申し合わせたようにいっせいに「シィィィー!」と鋭い音を立てて、ハイ男の隣の女の人が、「黙りなさい」と厳しい口調で命じたのでもわかるとおりで、彼らが共通に常識として持っている「ここまで」というわがまま許容線が、アングロサクソン文明のひとびとと較べて、すごく高い値で、そこまでは、ほっぽらかしにする約束になっていることが見てとれる。

そういう他人のわがまま許容度が高い社会に生きていれば、ストレスはたまって、朝、ピソの近くのワインの瓶を捨てるでっかいビンからは、ガッシャアアアーン、ガチャアアーンという、すさまじい音が聞こえてくる。

何の音か。

主婦がワインの瓶をビンのなかの他の瓶(ああ、ややこし)に向かって、おもいきり、ちからの限り、叩きつけている。

スペインで、わがままと自由がおなじものだと教わった。

子供のときも、なんどか行ったことがあるのだけれど、他人に訊かれても行ったうちに数えないのは、なにしろ子供という人間が最もバカなときのことで、自分を客観的に見ることすら出来ない子供というバカ時代が終わった人間のことをおとなと言うのだから当たり前だが、頭が単純で、スペインはきったないだけで、なんだか病気がうつりそうな町だ、という印象しかなかった、

思い返すのも嫌なくらいバカである。

おとなになってから見たスペインは別の国でした。

特にカタロニアは、まるで人生の教師のような国だった。

女も、子供も、老人も銃をとってフランコの軍と戦い、自分達の自由を守る為に必死に戦って、戦闘で傷付き、敗勢のなかで仲間の裏切りに傷付き、ひとりまたひとりと戦いをあきらめていくひとびとに傷付いて、カタロニアは青ざめていった。

血の気を失って、表情をなくしていった。

1972年までは、デモの自由どころか、自分たちのダンスを踊る自由さえ持たなかった。

そのひとたちがついに手にした自由社会は、ひとりひとりがわがままを尽くせる社会だった。

おとなになった目で見ていて、初めに疑問におもったことは、「もし、こんなにひとりひとりがわがまま勝手で社会がまがりなりにもやっていけるのならば、イギリス人が教わる。義務と権利の秤のような自由社会は、いったいなんだったのか?

ということだった。

A man who neglects his duty as a citizen is not entitled to his rights as a citizen.

のような言葉はアメリカ以外の英語国がどこも国権国家を卒業しつつある現代でも、まるで昨日のみすぎたアルコールの残りが引き起こした宿酔いの頭痛のようになって、頭のどこかで残響を鳴らしている。

スペインのような国を旅行したり、しばらく滞在したりしていて判るのは、スペイン人は、どの王国の人間も「社会なんて、こんなものでいいのさ」と考えていることで、長い文明の経験から、まるで「国なんて、あんまり繁栄するのは、個人から見ると危ないんじゃないのか」とおもっているもののようです。

国のGDPは高いけど、個人の幸福度は低いのではないか。
あんた、ほんとに豊かで効率的な社会が幸せなの?

カタロニア人は1936年のスペイン内戦以来、一貫して自由のために戦ってきて、いまも戦っている。

今度は、いまより完全な自治、国としての独立を得ようとしている。

そういうひとびとの「民主主義」はカタロニア語を中心にした結束で、いわば言語的な友愛を中心にしている。

観光地区を離れて、ちょっと、あの小さな映画劇場や、カフェがある迷路のような街路の下町に行けば、英語はもちろん、スペイン語で注文しても、ちらっと見るだけで、誰もテーブルにやってこようとしない店も、案外ざらにあります。

狭小な他国人排斥主義だが、わがままと相俟って、カタランの民主主義の中核をなしている。

それはなぜか。

カタロニアでは民主主義とは、わがまま同士の友愛のむすびつきであるからで、誰かが起草した枠組みとは、魂の別の次元にあるからでしょう。

スペイン、イタリア、フランス、イギリスの順番で公共は小さく、自我がおもいのままふるまえる余地はおおきい。

アメリカは、この順番で整列させると、ずっと右側に位置して、ほとんど全体主義とみまがうばかりのところにあるのは言うまでもない。

アメリカという国の「民主主義」は、つまりは手続き主義で、次々に手続きを破壊して平然としている中西部人とトランプは、ヒラリー・クリントンに代表されるウォールストリートの拝金主義者への怒りのあまり、アメリカの自由そのものを破壊している。

「その4」で見たとおり、日本は、言うにいわれない自然の「他人と交感する能力」をもった人間の集まりです。

日本に戦後アメリカがもちこんだ民主主義がついに根付かなかったのは、日本人には「手続き主義」が馴染めなかったからでした。

「なぜ、そんなことをしなければいけないのかわからない」が、戦後ずっと本音だったでしょう。

だって、もっと簡単な近道があるではないか。

手続き主義の怪物のような原発の運営に、一度目は廃棄にショートカットをつくってバケツで投棄しているうちに連鎖反応が起きてしまい、二度目は、年1億円を節約するためにバックアップ電源の位置を妥協して、二度も失敗したのは、到底、偶然とはいえない。

いま日本が憲法を形骸化して、あわよくば骨抜きにしてしまおうとしているのは、要するにそういうことなのだと、理解しています。

Posted in Uncategorized | 2 Comments

日本人と民主主義 その4

日本の人の「不躾さ」が、ときどき、ひどく懐かしくなることがある。

短いあいだ四谷に住んでいたときにオオハラと言ったかな?服部半蔵の槍があるお寺の坂の下にある中華料理屋さんで、麻婆豆腐を注文したことがある。

でっかい丼に入った、細かく壊れた豆腐が入っているスープが、どちらかといえば酸辣湯のように見えたので、「あの、これ、麻婆豆腐、ですよね?」と訊いたのがよくなかった。

ただ注文を間違えたのかもしれないとおもって、なるべく失礼にならないように尋ねただけのつもりだったが、カウンターの例の身体で押せば開く低い両開きドアをおしてノシノシとやってきた女将さんにえらい勢いで怒鳴られた。

「あのね。うちじゃ、これが麻婆豆腐で、一生懸命つくってるんです。ガイジンなんかに説教されてたまるもんですか。これで文句があるんなら、とっとと出ていきなよ!」

いやいや、そういう意味ではないんです、とパニクって青くなりながら、なんとか誤解を解いて、食べてみると、おいしかった。

ご飯も頼まないヘンな客で、相変わらず歓迎されない様子だったが、ともかくも、「おいしかった」と述べて「お勘定」を払うころには、でっかい女将さんの機嫌もなおっていたようでした。

もちろん、誤解に基づいた怒りが「不躾」だったのではない。

チョーおいしかった麻婆豆腐に味をしめて、ほとんど毎日のように通って、熱燗と麻婆豆腐を毎夜楽しんでいるうちに「ヘンなガイジン」という渾名を賜って、顔を突っ込んで、ガラッと引き戸を開けてのれんをくぐって店に入るたびに「おや、また麻婆豆腐なの? あんた他に食べるものないのかい?」から始まって、「ちょっと太ったんじゃないの?ビールをあんまり飲みすぎないほうがいいよ」

「おや、痩せたんじゃないかい? ちゃんと食べてるの?
ガールフレンドをつくらなきゃダメじゃないか。
日本の女はいいよお。あんたの国の女もいいかもしれないが、妻にするなら日本の女が世界一って、知らないのかい」

だんだん江戸言葉になっていきそうな舌のまわりかたで、太った痩せた、眠ってないんじゃないか、酒の飲み過ぎだとおもう、
西洋のルールなら、おおきなお世話もいいところの軽口がとんでくる。

ぶっくらこいたのは、短い滞在がおわって、明日、国に帰るんです、と述べたときで、むかし言葉で、初めて名前で呼んでくれて
「ガメちゃん、抱っこさせておくれ」と言って、割烹着を慌ててぬいで胴体に手を回して、胸に顔をつけて、おいおい泣きだしたのには驚いてしまった。

おばちゃんはね、ガメちゃん、息子みたいなもんだとおもっていたの。

そうだよねえ。あんた、いつかは帰る人だもんねえ。
と、述べて、おおげさもおおげさ、まるで新派のような愁嘆場です。

あんたは蝶蝶夫人か、とおもえればよかったが、まんまと、だらしなくも、涙がでてきて、一緒においおいと泣いてしまった。

ほんとにきみはガイジンなのかね。

ニセガイジンなんじゃないの?

あるいは、こっちは、いつかも書いたが、ストップオーバーで日本に寄って、むかし、よく酔っ払いにいったバーに行った。

ぼくとこの店の「マスター」は日本にいるあいだじゅう、友達だった。

極端に無口な人で、カウンタに並べた酒瓶の陰に隠れるようにして、下を向いて、客とは目もあわさないで、注文されたナポリタンやピラフをつくる人だったが、ある日、客がひとりもいなくなったあとで、ブッシュミルズをストレートで飲んでいたら、「どこからいらしたんですか?」と話しかけてきたので、驚いてしまった

ニュージーランドです、と述べたら、ニヤッと笑って、
「じゃあ、イングランドからニュージーランドに越したんですかね」と言うので、またまたびっくりしたのをおぼえている。

そのすぐあとで、酔っ払った中年の客が入ってきて、そんな時間には珍しいコーヒーを注文していった。

その客は、コーヒーが好きな人だったのでしょう。
あの欧州コーヒー党特有の「ぐいっ」と飲む飲み方で底まで飲みきると起ち上がったが、お勘定の段になって、750円、というと、
「たけえな」とひとこと単簡に述べてドアを開けて帰っていった。

マスターは、「たしかに高いよな」とひとこと述べてドアを閉めて階段をおりて帰っていった客を見送っている。

なんだか、そのときから、友達になったような気がする。

向こうはどうして興味を持ってくれたのか知れないが、それから、客がいなくなると、よくふたりで話をした。

もとは美術大学の教師だったことも話してくれた。
自分が好きな画家や彫刻家の名前をあげると、
「ガメちゃん、趣味が悪いな」と言ったりした。

草間彌生なんて、どこがいいの?

なんで大学教師やめちゃったんですか?と訊くと、小指を立てて、
「これで」と偽悪的な笑顔で、へへへ、と笑ってみせた。

あるとき、あんまり酔っ払ったので、正体がなくなって、ほんとうのことが訊きたくなって、「なんでぼくと話してもいいとおもったんですか、むかし?」と訊いたら、マジメな顔になって、
カウンターから身をのりだして、

「きみは、ここに座って、友達と話していたときに、『去年と今年とおなじことを繰り返す人間は愚か者だ』と言ったんだよ」と言う。

おれはね、そのときに、このガイジンは、おれにとっては灯台だとおもったんだ。

そういうものですか?
そーゆーもんだよ。

と取り付く島もない会話が交わされたりしていた。

ひさしぶりに会ってみると、日本語の発音がヘンで、ヘンだとおもっていることを気取られないようにしたはずだが、
訊きもしないのに「舌癌にかかってしまったんだよ」と言う。
魚の目が出来た、くらいの口調です。

閻魔さまに会う前に舌を切られちまって、ケツの筋肉を移植して、また話せるようになったんだ。

ケツが話してるんだから、そりゃ、発音、不明瞭だよね。

それきり、金輪際、舌癌の話はしなかった。

今日は、東京にもどるから、というと、おおそうかい、じゃあ、おれも店を閉めて藤沢に帰るかな、と驚くべきことを言う。

小さい声でいうと、この常に驚嘆すべき人は、ぼくと、昔なじみの、自然な形であうためだけに、店を開けていてくれたもののようでした。

グリーン車の切符を買うと、大船で乗り換えて藤沢に行くだけのこのひとも、グリーン車の切符を買う。

東京に帰るぼくと同じ950円のグリーン車料金を払っている。

大船に着いた。

そのとき、この人がとった行動は、一生忘れられない。

この人は、ホームにおりて、ただ手をふっていたかとおもったら、電車が動きだすと、電車に負けまいとでもいうように、ひとけのないプラットフォームを走りだした。

頭脳が意地悪くデザインされているぼくは、この人の年齢を探り始める。

いくつだっけ。

もう60歳は絶対にすぎている。

その人が、ちぎれるように手をふりながら、全力疾走で、大船駅のプラットホームを走っている。

並走している。

その日、グリーン車の乗客がぼくだけだったのを神に感謝しないわけにはいかない。

あたりまえだが、ぼくは、顔を覆って泣き出してしまったのだから。

泣いたよ。
自分でも恥ずかしくなるくらいに。

ニホンジン、とぼくがいうとき、たくさんのたくさんのことが絡みついている。

ぼくが日本の文明を非難するとき、ぼくの脳裏には、たくさんの(西洋人にはおもいもつかない)素晴らしい日本人がいる。

その、他文明人には、想像もつかない、こまやかな、たゆたう、あますところがない友愛を、言葉はあらわすことができるだろうか?

ぼくの、日本語の、原点なのだと思います。

Posted in Uncategorized | 13 Comments

日本人と民主主義 その3 短い春のあとで

神保町の「餃子の三幸園」を出て、タクシーを止めると、もう午前1時になっている。

習慣になっていて、酔っ払うと六本木の香妃園で鳥そばを食べる。
二人用だそうだが、ぼくには一人分でちょうどよかった。
いまは瀬里奈とかなんとかいう、下品なビルに入っているが、義理叔父が高校生のときは、麻布署の隣の、日産ビルの二階にあったのだと言っていた。

あの人は、この古いほうの香妃園で、六本木通りを眺めながら、まっすぐ義理叔父のほうを見ようともしない東洋英和女学園の、1歳年上の女の人に、こっぴどくふられた。

高校が学園紛争をやってたころのことなの?ときくと、そのすぐあとだ、という。

新聞に「民主主義の敵、あまったれお坊ちゃん学校の叛乱」という調子で書かれて、高校生と中学生の連合軍は、高く積み上げたバリケードの上で、機動隊が、見た事のない食べ物をカップから啜っているのを眺めていた。

おれがカップヌードルを見たはじめだぜ、と義理叔父が笑っている。

機動隊のやつら、新しいものには目がないんだ。

結局、四面楚歌のなかで、生徒たちが雇った会計士が、実は生徒達を激しく弾圧した理事長が3億円の横領をはたらいていたことを発見して、学園運動は生徒が勝利して収束する。

日本の高校学生運動のなかで、都立青山高校とならんで、有名な麻布学園紛争です。

紛争期間中よりも、生徒達が勝利してからのほうが学校が荒れに荒れて、徹底的に荒廃した、というところが、戦いというもののリアリティをもって胸に迫る。

義理叔父が日本の社会に見切りをつけて、もう隠遁して生きるのだと決めたのは、そのころだったようでした。

あるいは、ロンドンからやってきて、成田から長い旅路で、西洋人の目にはスラムにしか見えない東東京の高層「マンション」群を眺めながら、やっとこさ当時の定宿だった「山の上ホテル」に着くと、義理叔父が待っていて、「行くか?」という。

行くか?というのは、どこに行くかというと白山通りの北京亭という餃子屋で、ほんとうは中華料理屋だったのかもしれないが餃子屋で、なにしろ当時はロンドンにもクライストチャーチにも、こんなのおいしい餃子を出す店はなかったので、小さくて、パリパリした餃子を食べに行った。

いまも同じ箸袋を使っているかどうかは知らないが、当時は、「支那は差別語です」という意味の文がでっかく袋の裏に印刷されていて、その悔しさがエネルギーになったような、力任せに踊っている不思議な文字を見ると、「ああ、日本に来たなあ」とおもったものでした。

身体がおおきかったので14歳でも、ビールを飲んでいてもばれやしなくて、ロンドンではお巡りが乱暴なのでやれるわけはない未成年飲酒にひたって、東京はいいなあ、と毎度考えた。

驚いてはいけない。

日本はね、むかしは、ごく短いあいだだけど、自由社会だったんだよ。

いまは話を短くするために若い人に絞って話そう。

パリに憧れてつけた名前なのでしょう、カルティエラタン、という学生たちの自称は、いくらなんでもおおげさだが、いくつもの大学が集中していた神田は、「自由とはなにか?」を議論し、学習する場として機能していた。

ただ、ここではくだくだしく述べないが、「政治」というものが人間性を呑み込んでしまうものだと知らなかったナイーブな学生たちは、やがて左翼として組織化され、国家社会主義の素顔を急速にあきらかにする自民党の側とは、また別の、全体主義者の集団になっていきます。

やがて宏池会に拠っていた保守勢力が自民党の派閥力学に呑み込まれる形で消え、欺瞞に満ちた党派の日本共産党に反発して「反代々木派」を形成した新左翼も観念の海に溺れて革命勢力たりえなくなっていく。

日本にも鶴見俊輔や小田実を思想的な軸に持とうとした「ベトナム平和連合」というリベラルを吸着する、党派とも異なる緩やかな「グループ」があったのだけれど、なにごとによらず勇ましさを好む日本人の国民性に合致しなくて、不活性になってゆく。

ずっと歴史を読んでいった感想は、「日本人は自由という動的な状態が嫌いなのではないか」ということでした。

日本の人は「変わらない」ことが好きなのではないか。

もうひとつ。

日本の人にとっては、社会は「与えられたもの」であって、すでに決定されたものとしてある状況で、それについて不平は述べても、社会というものが常に自分たちが建設する動的で可塑性が高いものだという意識がないように見えます。

ツイッタでも述べたが、まるで運ばれてきた料理がおいしくないと不平を述べる客のようです。

多分、なにかならなにまで覆す革命が、昔から日本のひとびとを捉える変化の概念で、年柄年中、ぐにゃぐにゃした粘土をいじっているような、連合王国やオーストラリア、ニュージーランドの人間の感覚を持たないのは、そのせいであるような気がする。

少しだけ、わかる。

9歳くらいのとき、それまで溺愛していたユークリッド幾何学を捨てて、ベクトルと微分の概念を受け入れざるを得なくなった、わしガキは、毎日、憮然とした気持で暮らしていた。

世界が安定していない、なんてことがあっていいものだろうか?
と、毎日ひどくいらいらしていた。

Q.E.D.で、すべてが語り終えられる世界がなくなっていいはずがない。

物理学はもともとあんまり好きではないが、量子論に初めて接したときもおなじで、なんだこれは、というか、数学頭の人間には、いかにも「美しくない」気がした。

多分、日本の人が、観念としての薔薇色のお題目としてではなくて、現実に欧州やオーストラリアにでかけて実見する「自由社会」に対して持つ気持は、あれに似ているのではないかとおもう。

落ち着かない、気持がするのでしょう。

世界は、調和して、安定した存在であるべきである

いま日本は、どんどん生来の全体主義社会に返ってゆく。

「神田カルティエラタン」の春が結実に失敗したからです。

その失敗には、さまざまな理由がある。

就職の時期がくると、あっさり長い髪を切って、「社会人」として、ヘルメットをかぶっていたことはおくびにも出さずに明日の生活と将来の栄達を優先する、若い人たちに内在的な理由であるよりも、
連合赤軍にまでつきあわされた後藤田正晴の苦い後悔に立った、神田周辺大学の郊外への移転や、東京教育大学の解体、上智大学の渡部昇一あたりを嚆矢とする国家社会主義者への支援、国全体の右旋回、2chのようなアングラサイトまで動員しての若い世代の思想改造、…そういった政府が直截意図した国民の思想改造がうまくいっている結果、という面がおおきいようです。

その結果、日本では民主社会へのソフトランディングは、すでにほぼ望めない状態になっている。

仮に日本がいまの「民主社会を装った全体主義社会」を真に自由な社会にしたければ、いままでの民主制の枠から離れた直截行動、例えば国民の心のなかに生まれて、連帯する「うねり」が結びつける100万人デモ以外には道は残されていないことになる。

一方、既存の戦後民主主義の枠にしがみつけば、1票の格差、後藤田正晴が「日本の民主主義を確実に殺す」と述べたカネがかかりすぎる選挙、そのカネを節約するための員数合わせにすぎないはずだったのに、あまりに大量に政治世界に潜り込んできたので、すっかりポピュリストの潮流のおおもとになってしまったテレビタレントの跋扈、与野党、どんな組み合わせでも絶望的な日本の議会の構成を考えれば、韓国型の、通りをうずめつくすデモが起きていかなければ国民の政治への絶望を背景にやがてはクーデターが起きるはずです。

変化を求めるならばクーデターか大衆革命か、では、およそ先進国らしくないが、日本の現実は、すでに、そこまで追い込まれている。

それがいまとは異なる「視点」というものを失っているからだ、という議論は、またこの次にしたいと思います。

Posted in Uncategorized | 7 Comments

坂をのぼる

東京に住む楽しみのひとつは、坂に名前がひとつひとつ付いていることだった、という話は前にもしたことがある。

ブログだったかtwitterだったか、もう忘れたが、日本語だったのはたしかです。

通りに名前がついていないのに坂には名前が付いている、というアベコベの面白さについても、そのとき書いた。

魚藍坂
狸坂
幽霊坂
暗闇坂
行人坂
仙台坂

通りに名前が付いているのは座標を定める便宜だが、坂の名前はなんのためにあるのだろう?

とよく考えた。

ヨオロッパの道を歩いていると、ここは可も不可もないカフカが1915年から1917年まで住んだところだ、とか、BATTERSEA DOGS & CATS HOMEはここに2016年9月7日に開所されたのだとか、英語ではCommemorative Plaquesという、時間のある一瞬を切り取って、場所に貼り付けておこうという努力がよく見られる。

なかには

QUI FURONO LE CASE DI MARCO POLO CHE VIAGGIO LE PIU LONTANE REGIONI DELL ASIA E LE DESCRISSE PER DECRETO DEL COMUNE

なんていうのもあって、消失したとあるが、マルコ・ポーロ自体が架空の人なので、幸徳秋水神社みたいなものなんじゃないの?

とおもったりして可笑しいが、坂の名前は、きっと、おなじような働きのものなのでしょう。

通りの名前とは異なって、不要なものを歴史への愛しさに駆られて、ひとつずつ坂の名前を記した杭と説明板を立てていくのは、たいへん日本人らしい行為だと感じたものだった。

凡人社、という出版社に行こうとおもって清水谷公園を通ると、ああ、ここが中核派がよく集会をやったという公園だな、ずいぶん小さいなあ、と感心する。

もっとおおきな公園だと思っていた。

官邸に近いから都合がよかったのだろうか?

でも、これなら氷川神社のほうが近くて、広いような。

紀尾井坂にさしかかって、ラフカディオ・ハーンに出てくる若い娘の狢は、きっとこの辺りで癪を起こしたふりをしてしゃがんでいたのだな、となにがなし楽しい気持で考える。

上智大学のほうへ、うんとおおきく曲がった、この辺りまで息せき切って走ってくると屋台のおやじが、「こんな顔でしたかい?」と述べて、のっぺらぼうの顔をみせる。

あれはたいそう怖い話だが、しかし考えてみると、下でしゃがんでいた狢と上でとどめに脅かす狢は、おなじ狢なのだろうか?
それとも父娘か。

いろいろ調べてみると、モモンガが出たという暗闇坂もそうだが、大名屋敷が並ぶ地区で、江戸時代はたいそう暗かったらしい、風呂敷で荷物を背中にくくって、行商にいく丁稚たちにとっては、町屋と町屋のあいだにある、この大名屋敷がならぶ通りが、最大の恐怖の難関であって、よく見ると、怪談話は、どれも大名屋敷が並んでいるところに集中している。

闇はひとに恐怖の妄想を起こすのだ、と考えることもできるが、笑うなかれ、だいたい、ぼくからみると、曾祖父、曾祖母、というような世代の日本の人が残した話には、言語に馴染んだものの勘として圧倒的なリアリティがある。

戦後、すぐ、物資が決定的に不足しているころには、官憲の目を避けて、歩いて峠を越えて、闇米を担ぎ、野菜や醤油を抱えて、運ぶ人が多かった。

隣人に気取られると通報されたりたかられたりするに決まっているので、ひとりで、行かねばならなかった。

90歳をすぎているのだという人が、母親の話として、「わざわざ買い出しに行った先で温泉に入って、濡れた髪で顔を半分隠して、いざとなるとお化けのふりをしたりしたそうですよ」と笑っていた。

夜更け、心細い気持を必死に押さえつけて、暗闇のなかに、わずかに白く続いていくのが見える細い径をたどって、一心不乱に歩いていると、突然、バンッ、と音がするようにして目の前に壁ができる。

横にいっても、どうしても、壁はどこまでも続いていて、まわりこみようもない。

考えてみて、あっ、とおもいあたることがあって、荷物を全部おろして、「ぬりかべさん、ぬりかべさん、お願いです。道をあけてください。わたしと家族は、これがないと明日から食べていけません。

ぬりかべさん、ぬりかべさん、どうか、私を通してください」と手をあわせて一心に願うと、あらわれたときと同じ唐突さで壁が消える。

きみは笑うだろうが、ぼくは、いちもにもない、ああ、これは真実が語られているのだ、と決めてしまった。

なぜかって?

言葉には言葉の真実性の決まりがあって、だんだんコツがのみ込めてくると、ああ、これは嘘だな、これは本当だ、と判るときがくる。

まあーたー、と笑うなかれ。
そーゆーものですよ。

いつかアイルランドの人が自分の家のガーゴイルが気に入らないので取り壊したら、それ以来「黒い魔物」が通るようになったのだ、と述べて、妹などは、あの人はいつからあんな迷信家になったのだろう、と心配していたが、ぼくは、単純に真実を述べているのだろうと考えて、妹とは別の心配をした。

言葉が、すんなり腑に落ちたからです。

その人は6カ月しないうちに亡くなった。

ここまで読んで気が付いた人もいそうにおもうが、坂の名前は、あれは、呪術的な封印なのでもあるかもしれない、と、だから思うのです。

坂は、名前がつかなければ存在しない、という厳粛な事実を考えると、わざわざ坂に命名することには、呪術的な気持がなければならない。

ただ起伏があるだけでは日本語の「坂」にはならないのは「峠」と同じことだろう。

と、そういう何の役にもたたない、くだらないことを考えながら、あまつさえ、モニに説明して、あのモニの、人の話を一生懸命聴いていくれる、聞き上手な、夫たるものを有頂天にさせるきらきら光る目で見つめながらお話しに興奮に、すっかり良い気持になりながら、それぞれの坂の、いま表示板で読んだばかりの受け売りの、知識を開陳したりしていた。

この頃、日本にいたときのことを思い出して、坂に名前を付ける習慣や、あちこち、ビルの屋上!にまであるお稲荷さん、義理叔父が、神田駿河台下のロシア料理屋で、ヴォッカを飲み過ぎて、うっかり主人のロシア人の、もう当時は80代を過ぎていたという女の人に、「おばあさんは白ロシアの人だとおもっていたけど、壁のお札は『幸徳秋水神社』なんですね」と述べたら、烈火のごとく怒りだして、「あんた、なに言ってるの!幸徳秋水は、立派な人よ!!
共産主義の神様ですよ!」と義理叔父の歴史知識とは矛盾したことを述べて、壁をバンバン手のひらで叩きながら、「これは、わたしたちの神様!バカな日本人がたくさんいるでしょう?あのひとたちから、わたしたちを守ってくれる神様なの!!」と叫んで、若い義理叔父は涙ぐんだという話を思い出して、日本という世界を覆う、あるいはかつては覆っていた、一種の「やさしみ」のことを考えていた。

そうして、きみには判りにくいかもしれない回路で、その「やさしみ」は坂の名前になって、ぼくの記憶にならんでいるのです。

とりわけ夏の夜、まるでシンガポールの町を歩いているような、湿気がおおい、生暖かい夜、モニとふたりで、坂の名前を声にだして呼びながら、東京の夜更けを歩いていった。

鳥居坂
芋洗坂
魚藍坂
狸坂
幽霊坂
暗闇坂
行人坂
仙台坂

モニ、明日はイサラーゴーに行ってみよう。
信じられるかい?

日本語の地名なんだよ。

イサラーゴー!

あのとき、鳥居坂で、姿は見えないが、いっせいに現れて唇と唇をあわせるモニとぼくを祝福してくれた、もののけたち。

日本の人が「役に立つこと」ばかりに気がいって、その結果、だんだん身体が半透明になって、絶え入りそうな、もののけたち。

その、もののけたちのためにも、まだ日本語を書きつづけていきたいのかも知れません。

Posted in Uncategorized | 6 Comments

日本人と民主主義 その1

国政において、全員が納得するまで、よく話しあって、その上でどう対処するか決めることを民主主義という、と述べているので、びっくりしてしまったことがある。

それは全体主義じゃないの?と述べると、きょとんとしている。
ネット上のことで、ほんとうをいうと顔が見えないので、きょとんとしている、は適切でないが、なんだか、そんな様子がうかがわれる。

全員が納得するまでとことん話しあう民主主義、というが、そもそも全員が納得するというのは、決定の場には、めいめい考え方や利害が異なる個人が集まっているのだから、COVID-19の蔓延なら蔓延という現実に対処できないのは明らかであるとおもうが、そっちのほうは、どうも「明らかである」とは考えないもののようです。

個人主義社会では「全員が納得する」unanimousな事態は例外に属する。
もし、多少の議論を経ても毎度毎度全員一致の結論が出る社会が、職場という小社会にしても国家にしてもあるとすれば、それは参加者がもともと同質性が強い天然全体主義社会とでもいうべき社会をなしているからでしょう。

あるいは全体の趨勢を読んで納得したふりをしているわけで、なんのことはない、かつてのナチのドイツ、いまの中国や北朝鮮とおなじ独裁社会そのものです。

日本は、大変つらい民主主義の歴史を持っている。

戦争に負けて、アメリカという国家からですらない、アメリカ占領軍に強制された民主主義です。

ここまで慣例にしたがって民主主義という言葉を使っているが、考えてみればすぐに判るとおり「民主主義」というのは実体がない、なんだかヘンテコな言葉で、民主制や自由主義はありえても、「民主主義」は気分語でしかありえない。
主義として民主であろうとしても、なんの意味もないからです。

でもまあ、固いことを言わずに、ここでは、日本の人がなれた言葉の「民主主義」でいこう。

衆愚、という。

誰にでもわかる考え、というのは通常、近視的で洞察を欠いている。
特に「大衆はバカだ」と述べているわけではなくて、日本でいえば例えば「七博士意見書」というものがあって、これは当時では叡知の殿堂そのものであるとみなされていた帝国大学の、七人の博士たちが政府に「はやくロシアと戦争を始めろ」と強硬に迫った、おっそろしい建言です。

言うまでもなく当時の「博士」は世俗的な権威がある存在で、号はとってみたものの、ポジションがなかったので、オックスフォードから、わざわざ地球の反対側のクライストチャーチまでやってきてリンゴ拾いをしていたりする現代のPhDとは到底同列に語ることはできない。

自分の学寮と名前がおなじだからといって、あたたかく受け入れてもらえるとおもっては困るのです。

なんちて。

この「七博士意見書」は明治大衆に、やんやの喝采で迎えられた。

ほれみろ、頭のいい博士たちだって「早くロシアと戦争を」と言っているではないか、くよくよ迷ってないで、イッパツやっちまおうぜ。

周知のとおり日露戦争で「勝った」というのは言葉の綾のようなもので、もともとドイツのケーハク皇帝にそそのかされた気の良いロシア皇帝が気まぐれに始めて、のっけから後悔した戦争で、やる気のない戦争でロシア軍が必ずやる「戦線後退補給集結」を繰り返しているあいだに、イギリスのメディアが「勝った勝った日本が勝った」と嫌がらせのような報道を連日繰り返して、腐り切っていたところにツシマで、これは世界中が茫然となるような正真正銘の完勝を日本海軍が果たして、この海戦におけるたったの一勝で、ロシア皇帝はやる気をなくしてしまった。

なんのことはない、なにしろ日本などは軍事おばけの非力な小国にしか過ぎなかったので、ロシア軍が、ほんのちょっとでも反転して、どこかの小戦線で攻勢に出れば、そのまま日本は国家ごと瓦解したが、ロシアは後半はあれほど気の良い皇帝みずからが「黄色い猿」と呼ぶようになっていた日本人たちに顔に泥を塗られた恥ずかしさと悔しさで、戦争が嫌になってしまって、放り出して、なかったことにした。

そういう経緯なので、ほんとうはロシアとの戦争は、これから国の近代をスタートさせようとしていた日本にとっては重大な判断ミスだった。

満州と朝鮮半島が生命線だ、とこのあとも続く日本人全体の判断は、落ち着いて考えれば根拠がなくて、ずっとあとで「貿易立国」を主張して狂人あつかいされた石橋湛山と政敵たちとの議論を読めばわかるとおり、つまりは国家としての自信がなかったので、満州と朝鮮というもともとは人のものである「領土」をとって、いわば強盗した冨で国を運営するほかはない、あんたはイギリス人か、な非道な国家経営方針にしがみついて、それだけが日本の生きる道だと、国民全体が信じていた。

そのほとんど直截の結果が、年柄年中GDPの70%から80%に達するというとんでもない軍事費をかけた戦争国家の成立であり、ちゃんと賞味期間が存在する兵器の性質に従って、年柄年中戦争を起こして、挙げ句のはてには、世界中の国を怒らせて、1945年には石器時代にもどされた、と表現される瓦礫の山の国土に、悄然とたちつくすことになっていきます。

ところで、ここまでの歴史を「軍部の暴走」と表現することを日本の人は好むが、なんのことはない、いまと変わらない、国民の「戦争やろうぜ」の要望が国を突き動かしていたので、いまの日本の社会が民主社会ならば、戦前の日本社会も、また十分に民主社会だった。
民主制社会ではマスメディアがおおきな役割を担っている。

いまの英語世界に目を転じると、ふつうの、特に政治に関心があるわけでもないオーストラリアのおっちゃんやおばちゃんは、アメリカやイギリス、カナダ、インド、香港、…の新聞にオンラインで目をとおしている。

典型を述べれば、講読を申し込めばウォールストリートジャーナル(WSJ)もただになるThe Australianを有料購読して、The AustralianとWSJを毎日、バタとベジマイトを塗ったトーストを食べながら読んで、午後のヒマを持て余した時間にはデイリーメールやテレグラフも読む、というくらいでしょう。

そうやってボリスが古典にかぶれたオオバカをぶっこいていたり、ビヨンセが結婚するまで処女だったことを知ってタメイキをついたりしている。

戦前の日本では「戦争はやらないにこしたことはない」という記事が出ると、その新聞は売り上げが激減した。
「どんどん戦争をやって、がんがん中国人を殺しちまうべ。
全部やっちまえば、中国人の土地はおれたちのものではないか」という記事を書くと、売り上げが爆発的に述べた。

なにしろGDPの半分以上は必ず軍事に行ってしまうお国柄で、戦争をやらなければビンボなだけなので、「あるものは使おう」ということだったのでしょう。

ほぼ国民が一致して戦争をやることは良いことだと信じていた。

それが衆愚にすぎないのがわかったのは、戦争にボロ負けして、食うや食わずの数年が終わったあと、来し方をふり返る余裕がやっと出来て、峠で過去を振り返った、やっとその時でした。

日本人は、そのとき、全体主義よりももっと恐ろしいもの、「誤解された民主主義」こそが自分たちを、あそこまで徹底的に破滅させたものの正体だと気が付くべきだった。

COVID-19では自由社会で基本的人権から始まって、個人の天賦、人賦の権利が当然のように守られている社会ほど、国民の私権の制限が速やかにおこなわれた。

簡単にいってしまえば「首相」や「大統領」や「議長」の一存で、移動の自由のような、ごくごく基本的な権利が制限された。

それはなぜかというと国民が信頼していたものが「民主主義」ではなくて「民主制」という手続きの堅牢さであったからです。

緊急時には自分たちが民主制の手続きにしたがって択んだリーダーが、毎日の決断を次々にくだして、それに従って行動する。

緊急な事態が切り抜けられて、そこで初めて批判が起こり、ロックダウンの法的根拠や、補償の額の妥当性への批判が起こる。

ニュージーランドでいえば、収入を失った国民やスモールビジネスに補償を支払いすぎで、いったいなんでそんなにオカネを払ったんだ、ビンボ国なのに、と議論の真っ最中です。

おかげで、すんごい借金ができちったでないの。

民主制が欠陥だらけの、いわばオンボロ制度で、まったく良いものではないのは発達した民主社会の国民ほど、よく知っている。
世にもダメな制度で、民主制の国の国民は年中愚痴ばかりこぼしている。

あの野党のブリッジスのチンコ頭はいったいなんなんだ。
いったいなにをどうしたらトランプのCOVID政策にも良いところがあるなんて言えるんだ。
ジョン・キーがトランプとおなじゴルフチームに入って喜んでいるのを見て、おいらは泣きたかったぜ。

ジャシンダはジャシンダで、いったい経済回復をどう考えているのか。
このままじゃ国ごとオシャカになりかねない。

民主制が世にもサイテーな制度であるのは、当の民主社会の人間がいちばんよく知っている。

じゃ、なんで民主制やってるの?
コンジョがないの?

それともバカなんですか?

答えはいろいろな人がおなじことを述べていて、「民主制よりマシな政体がないから」です。

多分、国権国家という存在自体が道理にかなっていないせいで、デッタラメといいたくなるポンコツ制度の民主制が、おどろくべし、他の政体よりはマシであることを、少なくとも西洋の人間は歴史的経験を通じて知っている。

いままた歴史的な試練がやってきているが、そこまで書くと記事ではなくて一冊の本になってしまう。

オンボロシステムである民主制が日本において特に機能しないのは、日本文明の特性によっていて、見ていると、そもそも日本の人には「起きてから寝るまでわがままでいたい」という自由への欲望がない。

民主制はもともとオンボロなりに採用されているのは、国民ひとりひとりが強烈にわがままで、やりたいことを、やりたい放題にやる欲求をもっていて、その個人の内奥から来る圧力を調整する圧力得制御弁の役割を中心にしているのに、日本の人にはそもそも個人の自由への渇望というものが存在しない。

日本の人のおおきな美点は内省的であることだとおもうが、日本人の場合は、個人の奥底から社会に向かう「なんで、やりたいことがやらせてもらえないんだああああ」という欲望のベクトルがないもののようで、自分の内側で、ぼそぼそと自分自身と相談して、まあ、みんなとおなじようにしたほうがいいよね、と個人の身内で解消してしまうもののようでした。

別に民主主義などはなくても、あんまり困らない国民性に見えます。

ところが1945年以来、民主主義をやらなければならないことになっているので、投票率に端的にあらわれているように、民主制そのものが機能しなくなってしまった。

民主制は、ダメ制度なので、選挙だけで機能するほどちゃんと出来ていないので、なにごとかがあれば国民が通りに出て、百万人というような単位で通りを埋めることになる。

それでも政府が動かなければ、社会がぶっ壊れるリスクを冒して、石を投げ、覆面をして火焔瓶を投げつける。

そういう個人が国家という何千トンという巨大な岩を素手で動かす努力が「民主主義」の一面なので、その行動に自分を駆りたてる自由への欲望をもたない人間ばかりの社会では民主制は絶対に成り立たない。

誤解された民主主義は必然的に国家社会主義者の擡頭をまねくので、その結実が現在の安倍政権なのだということでしょう。

日本のひとたちの奮闘を眺めていて、その(そういう言い方は失礼だが)健気さに触発されて、とつおいつ書いているうちに、ブログ記事としては長くなって、書いている本人も、午前4時半で、眠くなってきたので、続きは、次にしたいとおもうが、いまは「戦後民主主義」と名前がついた民主制の衰退であるよりは、ようやっと日本にも自覚的に「自分は自由でいたいのだ」と感じる人が増えて、自分たちが「民主主義」という名前で教わってきたものが日本型の全体主義に他ならないことを漠然と感じ始めた「自由社会のはじまり」なのだと感じています。

だから、ほんの少しでも足しになるように、よそものの目に映る、いまの日本の「民主」社会を、何回かに分けて書いてみようと考えました。

では。

また。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

「日本」に向かって歩いていく

最近、日本という国を自分がどれほど愛していたかに気が付いて、茫然としてしまうことがある。

多分、もう行かない、と決めたからでしょう。

いったい、なにが好きなのか?

日本の人のナイーブさが好きである。
この場合はnaiveと、ほんとは英語で書いたほうがいいのでしょう。
「繊細さ」という意味の日本語のナイーブよりは、例えばdictionary.comならば

having or showing unaffected simplicity of nature or absence of artificiality; unsophisticated; ingenuous.

と書いてある、世知に疎くて、いろいろな現実がよく判っていない、というほどの意味です。

ひどいじゃないか、と言われそうだが、ぼくは世故に長けた人間というものが嫌いなので、立派に好きになる理由になる。

日本語でやりとりをしていると、日本の人は、マジメというのがいいのか、芭蕉が折角発見したのに「軽み」ということには興味がなくて、悲憤慷慨、ものごとを思い詰めて、「そんなことは許されない」というような論調が好きである。

あるいは「役にたつ」ということが、とても好きで、あ、それはこうすればいいんですよ、と軽い気持で述べたりした日には「情報ありがとうございました!」と若い参謀のような答えが返ってきて、面食らうこともある。

どうしてそういう国民性になったのかという詮索には、もうあんまり興味がないが、日本の人がやや過剰に生真面目なのはたしかで、むかしはそういうことが嫌だったが、時間の経過がつくる距離というものは偉大なもので、いまは、日本の人の、そういう風変わりな特性こそ、好ましい、と感じる。

むかしは、といえば、日本語で遣り取りできるようになってから、若いタワシは、日本が表面だけ民主制で、実体は揺るぎもしないほどの全体主義社会であることが不愉快で、よく日本語でカッカしたが、考えてみると、ほぼ同じ国情のシンガポールには腹をたてたことはなくて、つまり、日本にばかり過剰に期待して、いわば「ないものねだり」をしていただけで、全体主義に乗って、またぞろ侵略戦争に乗り出されては困るが、別に民主主義じゃなくたって、日本が日本である魅力には遜色がない、と思うに至った。

日本が全体主義社会であるのは、簡単にいえば、さまざまな日本文化のうち、最も日本人が憧れて、自己像として考えることを好む「武士道の日本人」が、そのまんま、わがままよりも規律を、生の謳歌よりもストイックな死を好むことによっている。

日本文明の最大の特徴は…前にも述べたが…死の側から生を眺めていることで、その哲学に必然的に伴う個人の否定が、日本社会全体を全体主義礼賛の世界として運営されることに役立って来ている。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2020/03/05/bushido/

マヤの文明に大変よく似た価値体系で、日本は、そうして西洋文明によって理解されることを、いまに至るまで拒絶してきた。

言語を習得するということは、その言語を使うひとびとの血のなかに分け入っていくことであるのは、言うまでもない。

この世界は言語の数だけ別々に存在する。
なぜなら「現実の世界」は言語による認識が実体で、言語が異なれば、眼前にある同じフォークでさえforkでありforchettaであり、fourchetteで、tenedorで、fourchetteを考えれば特にわかりやすいかもしれないが、おなじフォークなのに別のものです。

日本文明が小さくとも、あきらかに別個な独自の文明であるのは、いまでは広く認められていることだといっても、日本語という世界への風変わりな認識が日本人とおなじ視点で出来なくては、なぜ日本人がこれほど奇妙でファンタスティックな世界を生きているのかは到底理解できない。

ひとことでいえば、日本は、ほかのどんな文明にとっても

“N’importe où! n’importe où! pourvu que ce soit hors de ce monde!”

と詩人が述べた。
その、「ここではないどこか」の土地の役割をはたしている。

いまは愚かな宰相のもとで、噴飯もの(失礼)の国家運営におちいっているが、
ぼくは、日本人を信頼している。

多分、たいていの日本人より信頼しているでしょう。

理由は簡単で、透谷を生み、谷崎を輩出し、まして、草間彌生や観阿弥や世阿弥を生みだした文明が、たとえ西洋人であるぼくにわかりにくいところがあっても、民主や自由主義、個人主義の価値を苛立たせる日本的な全体主義の道を歩いても、必ず、本来の「日本」へ帰ってくるだろうと考えるだけの理由があるからです。

ほら、西洋で日本を「論評」しているひとたちは、日本語が判らない人ばかりでしょう?

いま、この瞬間にはうまくいえなくても、ぼくの言いわだかまる言葉は、エラソーに述べると、ぼくが日本語を彼らより遙かに理解しているということに拠っている。

日本の知識人たちは、日本語を使って考えているかぎり民主社会の実現など起こりえないということにそろそろ気が付くべきなのではないか。

西洋の骨法ではダメダメな国だが、ぼくの文法のなかでは、そうでもないのさ、と考えることがあるのです。

Posted in Uncategorized | 7 Comments

災厄日記 その9 5月10日 ノートを閉じたあとで

まだレベル3で最高警戒レベルのレベル4から、ひとつレベルがおりただけだが、拭いがたいというか、人々の心の奥底から染み出すようにして「やれやれ、ウイルス禍がやっと終わった」という安堵の気持ちが社会全体から滲み出ている。

落ち着いて考えれば、大層危険な気分で、現にウイルス対策ではニュージーランドからみれば先生にあたる韓国は、警戒レベルをゆるめた途端に明洞のレストランやカフェにどっと人が繰り出して、見事に新しいコミュニティ感染の集団が出来てしまった。

救いは検査体制に余裕が出来て、新規感染者が発生しそうなスーパーマーケットなどでは入り口でランダムに検査をおこなえるほどになったので、新規感染者ゼロが続いたあとに新規感染者が出ても、ああこれは大変だった老人ホームで介護をしている人、これはコミュニティ感染が発生した高校の生徒、と感染経路がはっきりわかっていることで、これがひとりでも判らなくなると、またレベル4に逆戻りなので、自然、はしゃぎがちなひとびとのブレーキになっている。

ニュージーランドは、なにしろリソース不足で、減圧室ベッドはたった150床、感染経路をいちどに追える人間の数も30人だかなんだかで、ビンボでもあって、ことのはじめから、いきなり国境を封鎖して、家から出るな、レストランとバーはもちろん閉鎖、
テイクアウェイ? 夢を見るんじゃありません、で、たいそう強烈なロックダウン体制に入った。

最近は20年ほど続いたバブル経済のせいで、オカネがどんどん市場に流入して、やや様相が変わっていたが、もともとはビンボ習慣で、外食なんて特別な機会にしか起こらず、まるで昔の連合王国のようにして、なんでもかんでも家のなかですませる習慣で、友達たちと会うのも、テニスも、泳ぐのも家ですませる。

まさか家の庭で40フィートのヨットを走らせるわけにはいかないので、マリーナくらいには行くが、少し裕福な家でいうと、そもそも「価格を観に行く」ときくらいしかスーパーマーケットに出かけることもなく、散歩も家の庭ですませる人が多くて、ロックダウンと言っても、スーパーマーケットから配達される時間帯のスロットがあっというまに埋まるようになって、当初2週間くらいは、誰かが午前零時をまわって新しいタイムスロットがあくのを手ぐすねひいて待つくらいしか、普段の生活と異なることはなかった。

自分の暮らしを考えると、習慣にしていたポケモンGOのジム巡りにでかけなくなって、あとはスーパーマーケットから定期的に配達されてくる肉類とは別に贔屓にしていたハラル肉店に行けなくなり、お気に入りインド料理屋に行けなくなったくらいで、他には変化がなかった。

言語の習得は、その言語が使われている社会への関心を自動的に呼び起こす。

日本語は日本社会への興味を呼び起こすことにおいて、他の言語より強い誘引力があるように見えるのは、日本社会が日本語という理解できる人間の数が少ない言語の壁にみっちり囲繞されていて、秘密の小部屋じみているからでしょう。

COVID-19についても、主にツイッタを通して、誰か日本語の友達が記事を紹介していれば見に行ったりして、主にNHKのサイトと朝日新聞、日経新聞を通じて、日本の状況について日本語で書かれた記事も読んでいた。

期待通り、と言っては日本の人に失礼かもしれないが、日本は独立独歩で、よく言えば我が道を行く、悪くいえば目を放した隙にふらふらとあさってのほうへヨチヨチ歩きでいなくなってしまう幼児の振る舞いで、検査を抑制する、という不思議な方角へ歩き出していた。

他にも検査なんてマジメにやらなくていいや、という国があったのは、この世の中にはherd immunityという多分に優生学的な思想を背景に持つ「感染したがなおって抗体ができたひとの壁をつくって、最終的には弱者も守る」という強者の思想に基づく衛生思想があって、一個の人間を感染確率、感染から治癒する確率、死亡確率、などのデータがくっついた点とみなして、ちょっとおおざっぱに計算してみると判るが、数字の上からは悪くなくもない考えです。

案の定、差別思想は昔から大好きなイギリス人は、これにとびついて、大失敗することになった。

当初考えたほどイギリス人はCOVID-19に対して強くなかった。

同じ人間ながら、当たり前なんだけどね。

Brexit以来、とっくのむかしに死亡した英帝国の長い影のなかで考える習慣がついてしまっていた連合王国人は、ここでも、意識にのぼってすらこない優越の思想に拠って、オオマヌケな方針をとってしまう。

そういう国がいくつも出てくるのは、特に「おれたちつわもの」が好きな白い人主導の国において予想できたが、日本は意外だった。

極めて優秀な全自動検査機が日本製なのを知っていたからで、これとドイツ製だかなんだかしかなくて、比較すると優秀なのは日本製なんだよね、という話を訊いていたからでした。

ところが始まってみると、意外や、どころではなくて、一向に検査をやらなくて、どうも記事やセンモンカのひとびとの話を読んでいると世界でただ一国、この全自動検査機を信頼がおけないと敵視しているのは日本のひとびとで、例の自分でこさえた標語、
「何もしないためなら何でもする」ひとびとという表現を自分で思い出したが、あとのことはあまりに面妖なので、それきり、ニュースを見ても、へえ、と思う程度で、日本の状況について考えるのをやめてしまって、いまに続いている。

ただ「何もしないためなら何でもする」日本の人の国民性が、以前に考えたような失敗を恐れる気持や縄張り主義、減点主義の評価方法の混淆体というような判りやすいものではなくて、ちょうど幕末の老中会議に似た、文化のもっと奥深い場所に根ざしたなにごとかに淵源をもつことがわかって、また日本文化について考える楽しみが増えてしまった。

日本のCOVID-19対策の印象は、ここからあとは希望的観測ということになるのかも知れないが、神経症的と述べたくなるほどの、細心な普段の生活での気の配り方から見て、イタリアやアメリカのような、アウシュビッツさながらまとめて屍体を処理したり、通りに駐めた冷凍トラックに屍体を放りこまねばならなくなるような感染爆発が起きるようにはおもわれない。

D-dayを上陸舟艇に身を屈ませて海浜に波をかきわけて走りこんでいった個人の視点から視ると、おおきく運に左右された。

最悪だったのはオマハビーチに上陸したGIたちで、屈むどころか障碍物の後ろに伏せていてさえMG42の弾丸に撃ち抜かれる人間が続出した。

戦争に譬えるのは、本質的によろしくないが、COVID-19の場合は、戦争の比喩が大嫌いだと自ら述べるアーダーン首相ですら「これは戦争だ」と言い切るくらいなので、許してもらうことにしよう。

北イタリアのロンバルディアなどは、オマハビーチそのもので、イタリアのひとたちの、いつもひとの温もりと接しないではいられない個人と個人の物理的距離が近い社交的な社会習慣もあるが、最も濃密でタイプとして強烈なウイルスがたまたまロンバルディアを襲ったのだと考えるのが良いような気がする。

ロンバルディアのコモという町の近くの、スイス国境に面したチェルノビオという、途方もなくおいしいジェラートの店が有る、ちいさなちいさな町には両親の別荘があって、縁があるので少し判るが、ロンバルディアなどはイタリアと言っても「イタリア語を話す欧州」という色彩が強い地方で、公平に述べて、衛生観念も日本の人より発達している。

そういうことは、たとえば「手の洗い方のていねいさ」というようなものを観察しているだけでも、よく判るものです。

だからイタリア人の衛生観念は、という随分盛んだった議論が的を外れているのは、特に考えなくても判る。

手前味噌だが、日本では別名を立てて「スカイプ飲み会」というらしいが、なに、ずっと前の、スカイプがサービスを開始したころからやっていることで、スカイプで話しながら、酒を飲んで、ゲヒヒヒヒと笑い転げたりするのは昔からのことだが、疫学研究者の友達と話したときに、ふと友達が口にした「SARS-CoV-2って、数が多くて密度が高いように見えるんだよね」がイメージになっている。

なにしろこっちはトーシロなので「一定面積あたりのウイルスの数」というイメージが新鮮だったからなのかも知れないが、そのイメージで、ずいぶんいろいろなウイルスの不思議な振る舞いの説明がつくような気がしました。

日本のCOVID-19を巡る状況を検討したり、批判したりする気持は、あんまり起こらなくて、特にいままでやりとりがあった、日本の友達たちの顔をひとりひとり思い浮かべて、ただ「生きていてください」と祈っています。

祈っています、って、もうほんとうにニュージーランドはCOVID禍が終わっているようなことを言っているが、こっちだって、まだまだ判らないわけだけど、社会のムードというものから自由にはなれなくて、勘弁してもらうほかはない。

ありのままに気持を述べて、祈っていて、こういうときは人間は桁外れにわがままで、自分が多少でも知っている日本の人が無事であることを祈っている。

レベル4でも、おもわず庭師のひとに握手の手をさしだしたりしてモニに叱責されたりしている自分より、日本の人のほうが、ずっと気を付けていて、ずっとダイジョブなのは判っているが、それでも、「祈っています」と書かないではいられない気持です。

Posted in Uncategorized | 5 Comments

災厄日記 その8 4月17日 闇の中の出口

来週の月曜日になるとニュージーランド政府は難しい決断の発表をすることになっている。

昨日(2020年4月16日)の新規感染者数は15人だが、まるでモニター数のように国民が「あ、もう大丈夫かな」とおもうと、数人分、ピンッと数字が跳ね上がる。

一方で回復者数の増え方は勢いがついているので、今朝、台湾は「新規感染者数ゼロ」のニュースに沸き返っていたが、うまくいけばニュージーランドも台湾に追いつけるかも知れない。

台湾に先に新規感染者ゼロを達成されて、くやしがっている人も、もしかしたら、当の台湾系キィウィのなかにはいそうだが、競争であるよりも、ニュージーランドは、集団免疫と寝言を言っていた連合王国や、なあに、こんなものはただの風邪ですぜ、と述べていたアメリカの西洋諸国には目もくれず、初めからアジアの台湾と韓国を先生にすると決めていた。

アーダーン首相自身は、メルケルやTsai Ing-wenのような学究出身の指導者とは異なって、科学的なバックグラウンドを持ち合わせないが、若いということは便利で、「自分には知識がないが、科学者としてどうおもうか?」と虚心坦懐に訊くことができた。

自然の猛威なのだから科学に頼るほかはない、と述べていたそうです。

レベル4のロックダウンはうまくいった。

たいへん厳しい、徹底的なもので、ツイッタで話しかけてきたウェールズ系のニュージーランド人で、ノースショアに住んでいる素晴らしい日本語を使う人が「わたしの家の近所では、みなビーチや公園の散歩はいいことになっている」と述べていたが、リミュエラのわし家近所では、半径500メートルの散歩は禁止、と信じられていて、わし自身は、せいぜい庭を片付けたりして、庭と家のなかでトントントンと動き回って、前に日本の主婦が妻にばかり過剰な家事の偏りがあるせいで、家から一歩も出ないまま一日にいかにたくさん歩くかという記事を読んだことがあったが、
その伝で、家のなかだけといっても、一万歩は歩くもののようでした。

もっとも歩数カウント自体がApple Watchのチョーええかげんな歩数カウンタによっているが。

スーパーマーケット以外は、食料品店でも営業を許されず、ニュージーランドではたいへん普及しているUber Eatsもダメ、持ち帰り、Takeawaysもダメで、わずかにdairyと呼ぶ、牛乳やパン、卵を売っている店が営業を許されるだけだった。

レストランやバーは、もちろん御法度です。

スーパーマーケットにしても、いちど、クルマのバッテリー充電をかねて偵察にでかけてみたが、ラインが描いてあるのでしょう、きっかり2mおきにポツンポツンと立つ人の列が、ぐるりと、普段は人気のない、そのカウントダウン(←オーストラリアのウルワースがこの名前でニュージーランドでは営業している。ロゴはおなじ)の支店の、駐車場のまわりをぐるりと取り囲んで、後で訊いてみると入店もひとりひとり許可されたものだけが入店できて、カップルで楽しく買い物、などは夢のまた夢のありさま。

びっくりしたのは、世界に名高いテキトー国民のニュージーランド人たちが意外にマジメに、真剣にロックダウン・ルールを守り抜いてきたことで、もちろんなかにはマヌケなおっさんがいて、例えばクライストチャーチでは、スーパーマーケットで、わざと他の客や棚に向かって咳き込んでみせて、自撮りしたビデオのなかで「おれはCOVID-19に罹っているんだ」と述べた40代の男の人が逮捕されて、結局は保釈も取り消されて数ヶ月監獄にぶちこまれることになった。

アーダーン首相は演説のなかで、この男を「大馬鹿者」と名指しで非難して、政府がその手の人間を絶対に見逃したり容赦したりしないことを国民に印象づけることになった。

高名の木登りといひし男、人を掟て、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るゝ時に、軒長ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。

 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

と兼好法師が徒然草で述べている。

兼好法師なる卜部兼好は、人間は早く死んだほうがカッコイイのだ、と述べて、ずっと後生の本居宣長に、そんなこと言って、自分は70歳近くまでへろへろ生きていたではないか、と笑われたりして、なかなかカッコがつかない人だが、ベンジャミン・フランクリンみたいというか、漢意(からごころ)の割にはプラクティカルな知恵に感心する能力があった人で、上の、木登りでいちばん危ないのは、自分でも危ういと感じる高みにいるときではなくて、仕事が終わって、するすると下におりて、もうすぐ地面におりたつというときがいちばん危ないのだ、という記事のように、いまでもサバイバルマニュアルに加える価値がある記述も残している。

いままさに地表に降り立とうとしているニュージーランドが、最大の難所にあることは、つまり、14世紀初頭の日本人でも知っていたことになります。

経済からいうと、言うまでもない、例えば試算によれば、初めの予定どおり4週間で終われば失業率は10%だが、もう4週間のばすと26%になる。

既存経済は、この4週間でも、おおざっぱにいって半分が吹き飛ぶ計算で、もう4週間となると計算のしようもない。

繰り返すと、ニュージーランドは、小国ながらいつもの果敢さで、経済優先の諸国の「専門家」たちが、「ウイルスは根絶なんてできない。共存するしかない」と述べるたわごとに耳を貸さず、「経済よりも国民の生命がすべて」と述べた国の専門家たちに耳を傾けて、賭けに勝った。

それがアーダーン首相にとって、いかに難しい決断であったかは、いったんは「必ずやる」と述べたクライストチャーチのモスク襲撃の追悼集会を取り止めにすると発表したのが前日であったことにもあらわれている。

あとでふり返って、専門家たちが、あそこで追悼集会をひらいてもいいと政府の姿勢を示せば、たいへんなことになっていた、としみじみ述べていたが、コミュニティの結束や経済を優先するか、生命を徹底的に優先するかは、むしろ指導者の哲学の問題で、アーダーン首相は、結局、自己の年来の主張「国家は人間性に依拠すべきだ」で自分自身とニュージーランドという国全体を救ったことになります。

おとといは、83店舗を展開する Burger King NZが倒産するというニュースがあった。

初めの決断はうまくいったが、今度は、ながびけば3倍になると言われている自殺者数や、見当もつかない増え方だろうと言われる生活の不安から鬱病になる人の数、あるいはこの3週間のロックダウンだけで22%増えたアルコールに起因する病気を発した患者、「ウイルスを避ける生活によって引き起こされる生命の危機」の問題と向き合うことになった。

ひとつだけ救いになるのは、ニュージーランド人全体が、労働党支持者も、不支持のひとびとも、アーダーン首相が積み重ねた難しい局面での判断を支持していることで、危機をのりきるリーダーとして、全幅の信頼を寄せている。

いまは、国民みんなが息を潜めて、月曜日のアーダーン首相の決断を見守っているところです。

Posted in Uncategorized | 4 Comments