近所へのドライブ

天気がいいので海辺にドライブへ出かけた。
わし家からは、五分もかからずにハウラキガルフ沿いの道に出ます。

Judges BayからSaint Heliersまで9kmくらい、ずっと左側に海が見えていて、毎日色を変えて美しいハウラキガルフを見ながら運転していきたい気持はみなが同じなので、のおんびり運転しても、誰も急かしたりしません。

ほとんどの場合、モニさんと一緒だが、このごろは、ひとりででかけることもある。

ひとりで出かけるときは屋根があくツーシーターです。
十二歳で色鉛筆でつくった自作の運転免許をもってクルマを運転するようになってから、ずっとスポーツカーを持っている。

贅沢な、と眉をひそめる人がいそうだが、むかしからフランス人家族が置いて行ったオートマチックミッションが壊れた$800のプジョーや、そんなのばっかりで、日本でいえば原チャリだとおもえばいいのではないだろうか。

この手のクルマでは日本のマツダのMX5(ユーノスロードスター)が素晴らしいが、あのクルマは6フッターは乗れるように出来ていても、わしには少し小さくて改造しなければならないので、結局、乗らなくなってしまった。

いまはイギリス製の、もっと図体がおおきいスポーツカーに乗っている。

オークランドやサンフランシスコのような英語圏の町と、東京や大阪の風景で最も異なるのは、日本の町にはe-scooterが走っていないことだ、と誰かが述べていた。

ええええー、そんなことがあるのか、とおもって調べてみると、日本でもe-scooterは乗れるがナンバープレートをつけて車道を走らねばならず、原付免許が必要だ、とある。

日本らしい、とおもってなんだかニコニコしてしまったが、日本は「のりしろ」が少ない社会なので、社会を進歩させまいとするちからがこんな形でも働いていて、おもしろいな、とおもう。

ネット上をうろうろして探してみると、ちょうどいまのようなことを述べている「このひと、わしかしら?」とおもわせる人がいて、その人に「e-scooterを乗り回すことが社会の進歩だとはおもわない」と噛みついている人がいる。
怪我をしたらどうする、という人がいる。

オークランドの例を挙げると、ライムという、これは世界展開をしているたしかサンフランシスコに本社がある会社があって、この会社が「オークランドで商売をやりたいんですけど」と述べにきて、「じゃあ、まず3カ月間(だったとおもう)試しにやってみたらどうですか?」ということになった。

やってみると、初めの1ヶ月で重傷で病院に担ぎ込まれた人が40人で怪我人が200人だかで、乗ってる人も、ぶつかられる歩行者にとっても、めっちゃ危ない乗り物で、この区域では歩道で乗ってはいけません、とルールを決めても、ライダーたちのほうは言うことなんか全然聞かないのが判ったが、カウンシルとライムと市民でできた委員会の結論は「まあ、この程度だったら慣れればなんとかなるのでは」で、一年ごとに見直すだかなんだかの条件で、晴れて公共交通機関として取り入れられることになった。

もっとも、ライムにぶつけられて負傷するひとのニュースはほぼ毎日のように報じられていて、いま記事を書きながらNZヘラルドを見ても、バスから降りた途端にライムに当て逃げされた女の人の負傷記事が出ていて、ライムのライダーは逮捕されたと書いてあります。

だからルールがもっと厳しくなる可能性はある。
そのルールも守られないと警察が本腰をいれて摘発するようになる。
当然、ライム側にも負担を求めることになるので、嫌になって撤退するかもしれない。

いまはクルマで海を見ながら走っていると、海岸沿いに続く歩道をe-scooterが何台も通って、オークランドの新しい風物になっている。

海辺の、贔屓のベーカリーでクルマを駐めて、ステーキパイをベンチに座って食べていると、いろいろなことが頭を過ぎります。

モニが、ガメには記憶の反芻癖がある、といって笑うとおりで、ベンチに座って、ああそうか、あのときはこんなふうにやったほうがよかったんだな、あそこでこんな失敗をしたことが、あとでうまくいくことにつながってるのか、人間の一生って、なんて不思議なんだろう、と、そんなふうな他人が聞いたら笑いそうなことばかり考えている。

それにしても玄妙なのは、人間の一生は計画を細密にすればするほどうまくいかなくなるらしいことで、「のりしろ」をおおきくして、そのうえに、強く気持が働いたときには、計画もなにも踏み倒して、気持がひきずるほうに向かったほうがうまくいくものであるらしい。

マヌケなことに十数年もむかしのことをおもいだして、ああそうか、あの人は自分を愛してくれていたのだ、その気持を気づかれまいとしていただけなのだと突然気が付いて、途方もなく切ない気持になることもある。

人間にとっては過去は、実在をやめた幻影であるにしかすぎない。
とてつもなく奇妙なことだが、いまベンチの脇においたステーキパイは、2分前のステーキパイとはまったく異なった物体で、これが連続した同じステーキパイだというのは、哲学的な一見解にしかすぎない。

自分の肉体もそうです。
肉体は刻々と変化していて、7年たつと、もとの肉体とは材質的にもまったく異なったものになるというが、自己が時間を貫いて同一性を保っているというのはヒュームでなくても、かなり頼りない論理によらないと説明できない。

ある朝おきてみると、見た目は細大もらさず同じだが、どう気分を調整しても、その場所が昨日眠りについたのとおなじ場所だと感じられないということは普通の人間でも経験することがあるはずで、言葉を変えていれば、この直覚の頼りなさを経験しなければ、人間は世界の実相について考える能力をもちえないのかも知れません。

いまはスマホでtwitterを見ればいいだけだが、20世紀の終わりまでは、このオカフ・ビーチのベンチに座って海をみていて、ふと、この瞬間にニュージーランド以外の文明社会は消えてなくなっているのではないか、と不安な気持ちに襲われることがあった。

なにしろ隣のオーストラリアですら2400kmの先なので、世界が終末を迎えてもニュージーランド人だけは気が付かないでいることに、おおきな現実性があった頃です。

ニュージーランド人と、この孤立の感覚は切っても切れないものになっている。

記憶を遡って明滅する一場の光景や、なつかしい人が自分に語りかける姿を思い出していると、自分がどんどん自分になってゆく。

まぎれもない自分の姿が時をこえて、ナマな感覚を持って甦ってくる。

自分がいったい、この世界に生まれてなにがやりたかったのかを生々しく思い出します。

自分が自分の一生になにを求めていたか、なんて人間は滅多に思い出さないんだよね。

ステーキパイを食べ終わって、起ち上がって、むかしながらの匂いがする紙袋をまるめて海岸沿いのそこここにあるゴミ箱に捨ててクルマに戻る。

過去の自分に会うと自分が生まれ変わったように感じるのはなぜだろう?

もう、そこからあとは考えても仕方がないので、あとは寄り道をせずにまっすぐに家に帰りたいとおもうだけです。

自分が自分であることの幸運に感謝しながら

Touch wood!

Posted in Uncategorized | 4 Comments

クラインのつぼ

どこへ行こう。

たいした考えもなしに、ぶらぶらと歩いて来たらT字路に出てしまった。
標識もなく土地鑑もない。
また、こんなところに来てしまった。

ここから、どこに行こう。

日本語は十年以上、おおきな存在の友達だった。
その存在の貴重さを、西洋語を母語として、日本語を準母語と言ってもいいくらいに身に付けたのではない人に説明するのは難しい。

えらそーに、と言われるだろうけど、身に付けるのに費やした時間と労力を考えれば、そのくらいは自慢してもいいような気がする。

オープンロードに立って、センターラインが消える地平線の向こうをみている。
おおきな空を見上げて、自分の小ささを確認する。
自分が生きる限られた時間を、これからどう使おうかと考える。

「くだらない人間」の定義とは、自分の時間を大切にしない人間のことだろう。
日本語ではなぜか他人を糾弾するのが大好きな人間がおおくて、起きてから寝るまで、ありとあらゆる手を使って自分が気に入らない人間を攻撃する。
やっていたことがばれて、たくさんの人間に見咎められたら、
「敵とみなした人間を攻撃して、うんざりさせるのは大学教員の義務だ」と述べて、みなを仰天させたひとがいたが、内心では、他人を攻撃してくさらせることをやってみる価値があることだと見なす人は、日本語の世界では多い気がする。

日本語と真剣に付き合う気がしなくなったのは、なんだか生きるということの意味を勘違いしているひとたちが多くて、うんざりしたのと、
本を出版して、日本語世論の一翼を担っているはずのひとたちが、話してみると「カルト」「信者」「敵認定」というような単語を平気で口にする、品性のかけらもない幼稚さに辟易したからだが、
習得にかけた労力や、楽しかった古典との付き合いを考えれば、いきなりゴミ箱に放り込んでしまうのももったいない、吝嗇な気持が起きてくる。

あるいは若いときにオカネに煩わされるのも、そのために実家の財産の世話になるのも嫌だと考えて工夫した、オカネがオカネを生みだす仕組みも、やってみるとゲーム性が強くて、つい夢中になってしまうので、これも日本語とおなじで、そろそろ距離をおきたいと考える。

T字路に立っている。
交叉点に立っているのだけど、正面は高いhedgeで、向こう側が見えない。
自分がノルマンジー上陸作戦の後半で活躍したヘッジカッター付きのM4戦車なら楽なんだけどね、とバカなことを考える。

上ばかり向いて歩いていると疲れるよ、って、玉井夕海さんが歌っていたっけ。

では、なにを信じるべきなのか?

どこかには広い海がある、と信じてみるのはどうか?

いつかは、やわらかい、人間らしい言葉で話すひとと会える、と信じることをどう思うか?

夜明けに近い小さなアパートの部屋で、焦燥に駆られながら「自分の一生に生きてみる意味なんかあるのか」と思い詰めている若い男の人がいる。

もう今日のバイトのあがりの時間が終わったら、あっさり、家にもどって、軽い夕ご飯をたべるとでもいうような、普段の動作のようにして死ぬんだ、わたしは、と決めていたのに、最後のお客さんの手首にセミコロン(注1)の刺青があるのを見て、仲間の声が聞こえて、こらえきれずに泣きだしてしまったウエイトレスの人がいる。

旅とすらいえない。
ただ食べていくために苦闘する毎日のなかで、疲れ果てて、死ぬことも出来ずに、涙すらでない寝床で、ぼんやりと天井を見ている世界のどこかで暮らす、もうひとりの自分がいる。

三十五歳なのだから、まだ新しいことがやれるだろう。
バク宙の高さが低くなって、5キロ先の岬が、泳いでいくのに、少し遠くなってきた。

これからダンサーとしてデビューするわけにはいかないしね。

一生をただしく横切って歩くと、自分が世界の余剰としてそこにある空間が、移動するにつれてパイプの形をつくって、クラインの壷のように、固有の意味をもつ曲面がつくられる。

あるいは大通りを横切って、向こう側に渡るきみの軌跡そのものが、島宇宙から島宇宙へ大股で歩行する、神の奇跡と一致してしまう。

宇宙は、きっと、そんなふうに出来ている。

万物は照応していて、ノートに無限の宇宙の形状を書き込めるように、きみは自分の一生に宇宙を記録している。

いずれにしても、もう、他人とかかずりあうのは終わりだろう。
もっと若い十代には通りに出て石を投げて、たいして年齢が変わらない警官と争った。

拳をふりあげて抗議した毎日も、それを過去にもどれば意味があるのであって、これからやってみるわけにはいかない。

生活という自分の家に帰って、そっと柴戸を閉めて、部屋にもどるべきときが来た。

でも、きみが来れば喜んで、訪問の旅の苦労をねぎらって、もうずっと飲んでいないワインをセラーから出してきて、乾杯するだろう。

きみとぼくが同じ時代を生きていて、たいして通じもしない言語を共有して、心から笑いあえるのは、なんという奇跡だろう。

きっと、ぼくときみが暮らしているこの世界は、貘や麒麟がのぞきこんで笑いさざめいている絵本で、動く絵として、悩んだり、喜んだり、友達のために怒って目に涙をためたりしているのに違いない。

神様呼んで来なよ。
これまでの冷酷は許してあげるから、一緒にワインを飲もうって。

もう、この絵本も、まんなかをすぎてしまう頃だから。

(注1)
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/23/project-semicolon/

Posted in Uncategorized | 2 Comments

ある物理学者への手紙 7

きみが「われらのベーシスト」不破さんと一緒にウクレレで共演すると聞いて笑ってしまった。

ひとが懸命に練習して、上達して、やっと人前で腕前を披露してもいいかと決心したところで笑うなんて、失礼もいいところだが、きみとウクレレというのがなんともぴったりで、それで笑ってしまったのだとおもう。

そうか。
「笑ってしまった」という表現がよくないんだね。
「微笑させられました」がいいのかな。

ほんとは、でっかい声で盛大に笑ったんだけど。

 

 

どこかに書いていたようだけど、到頭きみも、ぼくが随分前から持っていた日本への認識、「とにかく、いまは、再生が可能な形で日本社会にまるごとつぶれてもらう以外に、日本語世界が救われる道はない」に到達したことを、よいことだっとおもっています。

ふたりの子供だけは海外に逃がさなければ親としての義務がはたせない、公務員の安月給でこれはつらいが、ゆずれない、と述べていたことも、いま上の娘さんが14歳だっけ? タイミングを考えれば、年長世代のデタラメぶりを一身に背負って、少なくとも60代までを過ごさなければいけない計算なので、無理もない、他に方法はないだろうね、とおもう。

ちょうど福島事故のあとに(放射能を)「正しく怖がれ」という、いまから振り返ると噴飯ものであるのを通り越して、どうして日本の人は言葉を、社会の良い方向の目を摘み取る、そんなふうにしか使えないのだろう、としかいいようがないネット上の流行り言葉があったけれども、

おなじ「さかしら」系譜の言葉として「おおきすぎる主語」が流行っている。

「日本人といってもいろいろな人間がいる。それをひとからげに日本人と言うな」という例のあれを、気取って言ってみただけの表現だが、要は日本人のダメなところを指摘するな、ということで、とにかくおれたちは誰にも指さされずに粛々と悪事を積み重ねたいんだから、ほっといてくれ、ということなのでしょう。

どこの国でも世代として、箸にも棒にもかからないほどダメな世代ほど、「世代論は無意味だ」と述べることになっていて、きみの国では1960年前後に生まれた人間を中心にした年齢層がこれにあたるようでした。

戦後日本は復員兵たちがつくった国だと言ってもいいとおもう。
平和憲法の理念も、民主主義も、世の中にあまねく喧伝される高邁な考えを、すべて「空疎な言葉」と聞き流して、「とにかく生き延びることだ」と文字通り、兵隊時代にたたきこまれた粉骨砕身で狂ったように労働して、80年代をピークとする繁栄を築き上げた。

世代には「運」があって、このあとにやってきた戦後生まれから1960年代生まれくらいまでの数世代は、無為徒食どころか、余計なことばかりやって、どんどん日本をダメにしたひとびとに見えます。

それでも、その厳然たる事実を意識することすらなく、日本の繁栄は自分達がつくったとでも言うような顔をして、際限なく安逸を貪って、冷笑を浮かべて、若いひとびとにお説教をたれて、自分達の世代でほぼ最終便の年金をつかんで、がっしりと放さないでいる。

悲惨どころではない近未来がもう目の前に来ているのに、手の施しようもない。
社会全体が未来を企画する機能を停止している。

それがなぜかを考えて日本語学習の後半数年を過ごしてしまったが、いまは皆で考えたとおり、倫理と善意の欠落が理由だとわかっている。

明治時代の日本人は、とにかく西洋「列強」に追いつかねばという強い思い込みで、脱亜入欧、アジア人であることをやめて、文明世界の一員になろうと考えた。

ふりかえってみると、「このままだと日本は西洋の植民地にされてしまう」という国民全員一致の危機感の根拠が、そもそも怪しくて、「朝鮮半島の確保が日本の生命線だ」というのは、絶対の前提だとされていたが、隣国に自分達の国を勝手に「生命線」にされてしまった朝鮮民族の迷惑という根本的な問題をいったん脇に避けても、仮にではロシアが朝鮮半島を取ってしまったとして、だからそのまま日本が破滅に追い込まれたかというと、そんなことはなかっただろう、としか言い様がない。

そもそも幕末に薩摩と長州をつき動かした「幕府を倒さなければ中国化されてしまう」というお話しがヘンといえば、大変にヘンで、なにしろヨーロッパの泥棒猫が清帝国に群がったのは、清がヨーロッパの国が束になって逆立ちしてもかなわないほど富裕だったからです。

富裕で、軍事力にほぼ無関心といいたいくらい無防備で、なによりも西洋の意味においての国としての体裁をなしていなくて、冨の偏在どころか、国と国富が皇帝個人の所有というすさまじい形態で、欧州人の目には、いわば、ひっくり返されたまま、蓋を閉じもせずに、路面いっぱいに宝物が広がっている広場のような趣の国だった。

日本のほうは、例えばディズレイリ内閣によって議会への報告書のなかで「貧乏で獲るべき冨がなく刀剣をふりまわす野蛮な民族が蟠踞していて、侵略しても到底採算がとれない」と報告されていて、日本を訪れたフランス人記者の「日本はあきれるほど貧しい国で、資源もまったく存在せず、国民が人糞を畑にまいて獲れた作物を食べて生きている、いわば人糞国家」であると記事を書いていて、欧州側の日本についての見解をみると、どうやって考えても侵略になどくるはずがないのは判っています。

しかし日本人の側には、その貧しい国土である事情を十分に知悉して、朝鮮半島と中国の富みを簒奪したい野心があった。

日本人の歴史を通じての野心は「いつの日にか、海を押し渡って、朝鮮と唐の冨を、全部でなくてもいい、ほんのお裾分け程度でもいいかが我が手におさめたい」だったからです。

日本人は不思議なほど貿易による冨の増大という思想と無縁で、民間の商人がわずかに東南アジアと交易して蓄財をはたしても、国家のほうはこれを禁ずることしか考えなかった。

その結果、「まず朝鮮半島をいただいて、そこを足場に中国を少しずつ切り取る」のは、中世以前からの日本人の基本国家戦略になっていった。

それがどれほど高くつく愚策であったかは、「日本の生命線」満州が日本に強いた膨大な赤字植民地経営と当時はたったひとりの加工貿易立国論者で、世間と議会の失笑をあびた石橋湛山の「植民地なんていらん。我が国は貿易で立国すればよい」がいかに現実的な政策であるかが証明された戦後の日本の歴史をみればあきらかだとおもう。

背景が、つまり、そういうことなので、日本での「洋化」「文明化」は、つまり軍事力を西洋並みにする、という意味であるようでした。

日本社会の問題を議論していたときに、みなで発見して驚いたように、そもそも語彙としてintegrityが日本語には存在しない。

あれ?commitmentもない。

そうやって眺めていってempathyもないんじゃない?ということになっていって、どうやら倫理と善意を理性的に検討するための一群の語彙が西洋語を翻訳するために発明された近代の日本語からは、ぞろっと抜け落ちているらしい。

北村透谷のころまで遡ってみてみると、理由は「日本の近代化に役に立たない。返って邪魔だから」ということであったようでした。

1970年代前半に作られて公開された山本薩夫監督の映画「戦争と人間」には北大路欣也扮する徴集兵が「胆力を養うため」に生きたまま立杭にくくりつけられている中国のひとを銃剣で刺殺しろという命令をうけて良心との葛藤に焦燥するシーンが出てきます。

日本は、産業を基礎から育てるようなまだるっこしいことをせずに、軍需産業を促成栽培して、それを支えるべき基礎工業力は「朝鮮と満州をぶんどってから考えれば良い」という基本国家戦略だったので、GDPの40%〜80%というとんでもない比率の軍事費を集中投下してつくりあげた軍隊国家を人間の倫理のようなルーズ・ベネディクトが日本人に証言させている「外国人のような劣った弱い者だけが必要とする絶対規範」を必要だとは考えなかった。

国家の建設にあたって倫理と理念を捨てる。西洋と対抗しうる巨大な軍事力をつくりあげることだけに国民を挙げて集中する。

その結果出来上がったのは戦前に日本を訪問したバートランド・ラッセルが繰り返しひとつ話にした「世界で最も危険な国民」が住む、全体が軍隊そのもののような国家だった。

しかもこの国家には日本語というマイナー言語でまとめられていて、この言語と他言語のあいだには殆ど交渉が存在しない、という特徴があった。

日本人がいまに至るまで漠然と世界について知識があると妄想しているのは翻訳文化の発達に拠っているが、特に翻訳が本質的に誤訳であって、系統がおおきく異なる言語から言語への翻訳は不可能作業にしかすぎないという言語学的な事実を述べなくても、もっと単純端的な例として、ヒットラーのMein Kampfの日本語版「我が闘争」には日本人を「人間のマネをするのが上手な猿」と述べた部分を含む、日本人はユダヤ人どころか、人間以下なので(犬や猿を憎み理由がないのと同様に)人種的な憎悪を燃やす必要がないと暗に示唆する部分がすべて省かれていて、日本人は戦後に至るまでヒトラーが人種差別主義者であることを知らなかった、という滑稽どころではない事実を述べれば十分であるとおもいます。

このブログ記事には、日本人がどのように民主主義を誤解してきたか、前提となる「個人がわがままにふるまいたい強い欲求」を欠いているか、自由への個々人の強烈な希求を欠いた「自由社会」がいかに破滅を宿命づけられているか、ということが何回も繰り返しのべられていて、きみとも、何度もそのことについてやりとりをしてきました。

自由よりも秩序を、もう少し現実に即していえば「何事も起こらない」事を望む国民性には、民主制はおおきな負担だった。
考えてみれば、当たり前だが、日本人にとっては自由社会はアメリカ人が「守れよ」のひとこととともに日本人の肩にのせていったおおきな重荷にしかすぎなかった。

そのことは選挙の投票にいくことすら「めんどくさい」と感じる日本の人の心性をのぞいてみれば明かだとおもう。

きみの年長の友達がSNS上で「投票に行かないのも個人の自由であって権利の行使だ」と書いてあって、やっぱりそう思ってるんだなあ、と感心したことがあったが、日本人にとっては、なんのことはない、自由であることが「義務」だったのだとおもいます。

必然性のない自由社会で倫理性も善意も欠いているとなれば、社会のモデルとしては軍隊モデル以外の選択肢はない。

競争と、そつのない、つまり減点主義の個人への査定と、絶え間のない緊張と抑圧からくる集団いじめの爆発、そうおもって考えると日本社会は軍隊としての特徴に満ちている。

21世紀にはいって、急速に冨が偏在に加速がついたのも、軍隊本来の1%に満たない将校と99%の兵卒への分化がおおっぴらに起き始めたのだと考えれば比較的簡単に説明できそうです。

ジェンダー文化的に軍隊となじまない女のひとたちへの差別がひどくなりこそすれ、一向に、よくなっていかないのも同じ背景ではないかと、ぼくはおもっています。

日本語で出来た友達に話しかける以外に日本語の使い途もなくなってしまったので、別に嫌気がさしたわけでもなんでもないんだけど、少しずつ日本語から疎遠になっていくのは避けられないようです。

だから何人かの友達に、日本語と付き合ってきて考えたことを手紙にしておこうとおもう。

ウクレレは、とてもいい思いつきだった。
ウクレレには、奏者がすごみようがない楽器なところがあって、ぼくはそこが好きです。

slackの、きみがホストのウクレレのチャンネルを見ていると、みんなが楽しそうで、助けあって、笑い転げながら幸福なやりとりをしているのが見てとれて、すばらしい、とおもう。

おおげさにいうと、ガキ大将だったオダキンが、穏やかに生きていく道をみつけたとでもいうような、リラックスした空気が流れてきて、
なにがなるほどなのかしらないが、「なるほどなあ」とひとりごちる。

また、今度は間をおかないで、続きの手紙を書きます。

次の手紙は、日本語を習得する過程で判らなかったことになるのではなかろうか。

日本の人で、いちばん最後まで判らなかったのは、「自分達が生きてきたよりも良い社会を子供達に残そう」と考えているようには見えないことでした。

そんなことがありうるだろうか?と何度も再観察してみたが、どうも日本の人たちは子供たちへよりよい社会を残そうという、ほとんど社会の存在意義の大半を規定する欲求を感じないらしい。

それは社会としては文字通りの自殺でしょう。
どうしたら、そうなるのか、考えてみてもわからないけれど。

では。

Posted in Uncategorized | 6 Comments

言論と暴力_1

この世界に暴力が存在するかぎり、自由は暴力によってしか生まれない。

One if by land, and two if by sea

1775年4月18日の夜、Dr. Warrenが送り出した使者のシグナルがアメリカの自由社会を生みだすことになるが、この北米の抑圧者イギリスの正規軍と戦ったのは、手に手に武器をとった一般市民だった。

あるいは1789年5月5日に開かれた三部会の「議論」に失望したフランス市民の絶望がたどりついた結論は、2万人の正規兵に対して廃兵院を襲って32000挺のマスケット銃と20門の大砲を奪取することだった。

アジアに目を移してもよい。
1980年、長い間の臨戦体制に窒息した光州の大韓民国市民は自由を求めて起ち上がって全斗煥の韓国空挺部隊の一斉射撃に倒れるが、ユン・サンウォンを先頭に武器庫を襲って市街戦を展開する。

この光州事件が、いまの韓国の、アメリカの属国として最前線国家に留まって欲しいというアメリカ人たちの虫のいい要求に抗って、韓国のひとびとが自由を希求する原動力になっているのは言うまでもない。

階級社会がそのまま保存されたことを手がかりに見ていけば他国民にも理解しやすいとおもわれるが、市民によるクーデター(←革命とは異なる権力遷移)とでもいうべき奇妙な「革命」をなしとげたイギリス人を除いて、世界中の市民が自由を手にするために武器をとってたちあがって圧政者を倒してきのは周知の事実であるとおもいます。

第1次湾岸戦争に勝利したあと、ジョージ・W・ブッシュは「イラクは日本方式によって、我々の最も成功した占領政策である日本と同様に自由社会として発展するだろう」と高らかに、誇らしげに宣言した。

日本方式、というのは、つまり、自由を知らない国の国民に軍隊のちからで自由を教えてやる、ということです。

少し詳しくいえば、この「日本方式」という言葉には具体的には「ホワイトハウスは積極的に関与しない」という意味が含まれていて、政治の世界では、日本国内では、あくまで「軍隊」が占領政策として自由社会を教導する。
最近になってホワイトハウスがなにを言ったって在日米軍が従う様子もないのを見てびっくりしている人たちがいて、日米地位協定がクローズアップされているが、
「安保条約第6条に基づく日米間で締結された地位協定」というのは、字面ではたしかにそうだけれども、現実の運用では、米軍に米政府が口をだせない仕組みで、米軍最高司令官の大統領個人以外は、誰にも口をだせない仕組みが出来ている。

日本が、いわばおざなりな自由社会になってしまって、自由社会としてはまったく機能していないのは、ぶっくらこくほど低い投票率と、その投票の、選挙以外の方法(例:街頭デモ)は違法行為だと嘯く人間が多いのを見れば一目瞭然で、原因は一義的には日本人がもともと個人の自由よりも秩序を、個性の発現よりも集団としての斉一性を重んじる国民であることにとっているが、次におおきな理由は、アメリカの初めの目論見では将来においても日本を完全な独立国と認めるつもりはまったくなくて、周恩来とヘンリ・キッシンジャーの秘密会談で典型的に語られているとおり、一個の、アジア全体の共産主義勢力への威圧と日本人の好戦性への重しを兼ねた一石二鳥の巨大基地として、アメリカからいちいち兵器の部品や軍隊の食料を輸送するのは手間もコストもおおきいので、基地である日本自体に軽工業と農業を興してまかなわせようと考えた「日本基地化計画」にある。

見た目だけ辻褄があえばよかったので、日本人がほんとに自由な国民になるかどうかはどうでもよかった。
当時の軍人が述べているように「殺されずにすんだだけ、ありがたいと思え」ということでした。

文字通り、砂漠のまんなかで、そこだけ緑に包まれている「グリーンゾーン」に陣取ったバグダードのCPA(連合国暫定当局)は、アメリカ自慢の「日本方式」によってイラクを自由社会に変えようとして無惨に失敗する。

時間をかけてイラク人たちを現実に自由社会に導こうとしたジェイ・ガーナーは「日本を見ろ、一朝で全体主義者が自由主義に鞍替えしたではないか」というブッシュアドミニストレーションに押し切られて、クビになって、軍人としては優秀だったが政治家としてはどうにもならないくらい洞察を欠いていたダグラス・マッカサーの更にマヌケ版とでもいうべきポール・ブレマーがあとを襲います。

イラク人は、いうまでもなく、世界最古の文明を築いた民の末裔として高い誇りを持っていて、まるで豚に餌を投げ与えるようなアメリカ人たちの自由の投げ与えかたに激昂して、まったくコントロールが利かなくなる。

そんなものは、おまえたちに都合がいい自由であって、おれたちの自由ではない、という当然の理屈に従って、いちどはアメリカ万歳で沸き返ったイラク人たちは、あっというまにアメリカの敵になってしまう。

なぜ、アメリカ人ご自慢の「日本方式」は、うまくいかなかったのか。

そう考えていて、すぐにおもいつくのは、「日本方式」で、日本が自由社会になったって、ほんとうなの?という疑問であるとおもう。

前にも書いたが、むかしガールフレンドだった米軍将校のひとは、ヒマが出来ると、どこにいてもすぐに飛んできてくれた。
一緒に横須賀基地で映画を観て帰りにポパイでフライドチキンを食べるとか、多摩のリクリエーションセンターで、旧日本陸軍弾薬庫が点在する静まり返った深夜の森を散歩するのは楽しかったが、ところが、この人は成田からではなくて例えば調布からやってくる。

パスポートもなにも日本の官憲に見せないで入国するので、なるほど日本は国全体がアメリカの基地なのだと納得したものだった。

その頃はちょうど、目が慣れて、日本の奇妙な点について気が付きだしたころでもあって、日本では「非暴力絶対視」が信仰になっていて、だんだん調べてみると、どうやらこの信仰が、国ごと核爆弾といいたくなるような日本というチョー危ない、攻撃性に満ちた好戦的国家の牙を抜き去るためにアメリカ占領軍によって布教されたことがわかってきました。

「マハトマ」ガンジーはインド知識人たちには極めて評判の悪い国父で、無理矢理ひとことで言えば「必要悪」とされている人であるように見えます。

インド知識人たちの集会に顔をだしてみると、そこでは、ガンジーを手放しで称賛する人にはまずお目にかかれなくて、条件がふたつもみっつもついて、そこでようやく、「あれほどの欠点に満ちた人間だったが、あの時点では仕方がない必要悪だったろう」という人がいる程度で、ひどい人になると、いまのインドの未来への期待がまったく持てない政治的大混乱のおおもとはガンジーにある、とまで言う。

先々月にArundhati RoyがNZにやってきたときも、ガンジーが国父であったことを現在の不幸の根源であると述べて「自分達には将来があるだろうか」と泣きだしてしまう若い女の人までいて、インド知識人たちにとっては、ガンジーの辛抱強い非暴力運動によって達成されたことになっているインドの独立も、ちょっと香港人たちがイギリスの領土返還に対してもっているセンティメントに似て、Arundhati Royのいう「Britain’s final, parting kick to us」、パキスタンとインドの分離独立も含めて、暴力革命によった場合よりも、結局、ムンバイ襲撃事件に典型的にあらわれているように、その後の歴史を通じてのインド人自体の死亡者は多かったではないか、と認識されている。

またあるいは、slackスペースで、ふらりと入ってきたjamesというひとが、

と述べている。

と、ここまで書いてきたら、悪い癖で飽きてきてしまったので、残りは「2」にまわそうとおもいます。

2が、あれば、だけど

Posted in Uncategorized | 1 Comment

普通の生活2 

子供が小さいあいだはニュージーランドに住もう、というのはもともとモニさんのアイデアです。
わしの感想は、ちょっと田舎すぎて飽きるんじゃない?だった。

わしはもともとロンドン、モニさんはニューヨークで育ったので、ニュージーランドのように、「そんなにたくさんのいろいろなことが起こらない」国では退屈するのではないか、と考えた。

それでもモニさんが決めたことにしたがったほうが万事うまくいくのは経験によって明らかなので、新婚にふさわしい家を探して歩いた。

モニさんが育った家はアパートだと言っても、表口には制服を着たドアマンがいつも立っていて、なかに入るとホールにはいかめしいレセプションがある。

その検問を突破して、と、いつも胡散臭いかっこのわしは言いたくなるのだが、二番目のホールに着いてリフトであがってゆく。

ドアがさっと開くと、そこには左右対称の螺旋形の階段があるエントランスがあって… という「アパート」なので、おなじニューヨークの「アパート」でも、玄関を入るとネパールから移住してきたTが野球帽をかぶってスタジアムジャンパーを着込んで座っていて、「なんか来てた?」と聞くと、積み上げてあるアマゾンの箱の山を指さして、あそこに積んである、と、これはこれで悪くない、ざっかけないビンボアパートとはえらい違いです。

お嫁さんに喜んでもらいたいのは、ぶち惚れて結婚した若い男のつねで、それまでオークランドの家だったパーネルの、あんまり悪くはないが敷地が狭い5寝室の家ではパッとしたところがないのが気に入らなかった。

ひとりでいるには十分なんだけどね。

ニュージーランドでも、わしは南島のクライストチャーチが好きで、いまでも好きだが、モニがなんといおうとも、ニューヨークで育ったモニにいきなりクライストチャーチは無理であるような気がした。

だからオークランドだが、オークランドにはロンドンやニューヨークのような贅をつくした欧州風のアパートはありません。
値段ばかりは10億円、20億円だが、つくりはチャチだし、装飾も、みっともないというか、悪趣味をもって鳴るアメリカ人以下で、下手をすると日本のラブホテルみたいなのまである。

オークランドで欧州スタンダードの家というとハーンベイかレミュエラしかない。

ほんじゃレミュエラだな、と決めたのは、レミュエラはおなじ住環境がいい地域でもハーンベイと較べて敷地が平均2倍であるという田舎っぽい特徴があって、もうひとつは人もクルマも窮屈なハーンベイに較べて、案外と道路もクレセントも行き止まりの道も、クルマもひとも少なくてスカである。

ニュージーランドの住宅地はもともと1000平方㍍が一単位というか、目安で、平均的な家は、だいたいにおいてながっぽそい形をしたこの1000平方㍍の狭いほうの辺を道路いっぱいに寄せたところに家をつくる。
道をいくクルマやひとや自転車からは目隠しをしておいて、裏庭におもいっきり凝ります。
早い話が、これは初期のイギリス移民が持ち込んだ考えで、わし家もかーちゃんが選んだクライストチャーチの「町の家」は、典型的にながぽそい、パラダイスをそのまま造園したような裏庭がある家で、でっかい樫の木とRobiniaの木が聳えている庭のおわりには小川があって、小さな船着き場があって、そこから小さなボートで近所の友達たちの家と行き来できるようになっていた。

結局、モニさんと一緒に住む家と定めて買ったのは2400平方㍍の敷地の家で、「数字が半端じゃん」と言われそうだが、これは1200平方㍍x2で、これはこれでスタンダードサイズで、現に家のまわりには同形同大の家の敷地がいくつもあります。

なにしろ日本のトロルは害意が盛んで怖いので南極に越すまでは安心して住所を書くわけにはいかないが、近所では平均的と述べてもよい家で、長いドライブウェイがあって、そこをずっと行くと、小さなロータリーがある。
以前には噴水があったが、新しい主人の片割れ(←わしのことですね)が「けけけ。噴水なんて悪趣味な」と有無を言わさず破壊してしまったのでいまはただの地面になっている。

わしはひところには日本好きがかなり嵩じていたのに3カ月以上は住もうと思わなかったのは、つまりは、スペースが必要な人間だったからで、手足を伸ばして、ぶんぶん出来るスペースが、何柄年中デコをぶつけていた天井の低さよりも重要だったのが、これで判りますね。

まだ小さい人びとが地上にあらわれるまえに、モニとふたりで、ちょっとこの家は狭いなとなんどか話しあったことがあっただけでパカップルぶりが知れるというものであるとおもわれる。

わしにはわしにまつわる不吉な噂というものが存在して、わしに見捨てられた土地は、そこから急激に失墜するという。

2010年に、いまおもえば取るに足りないかもしれないトロルと夏の暑さに腹を立てて、「こんな国に家を持っていても仕方がない」と広尾のアパート、軽井沢の夏の家、鎌倉の硝子戸の家と売り飛ばして、処分してしまって、根拠地のひとつとしての資格を剥奪してニュージーランドに根拠地機能を移してしまうと、そのあとではろくでもないことしか起こらなかった、と日本の友達がこぼしていたが、ここで神に誓っていうと、偶然であって、わしの責任じゃないからね。

興奮のあまりヘンな日本語になってしまった。

ちょっと、ひとりで買い物してくる。

ふたりで内緒でいろんなことをしてしまった結果、わしの風邪がうつって咳き込んでいるモニさんに告げます。
のどが腫れて声がでないモニさんがなにごとか伝えたそうにチョー形のいい唇を動かしているので、耳を近づけると、かすれかすれに、絶え入りそうな声で
「あ、アイスが欲しい…」と呟いている。

カピティがいい、というところまでききとると、カピティのアイスクリームのラインアップのなかでは洋梨のヨーグルトアイスクリームが好きなのは、ふたりのあいだでは周知の事実なので、了解して、階段をとんとんとんっと下りて、自動シャッターを、ぐわあああと開けて、屋根が開いたまま止まっているスポーツカーに、ジャーンプで飛び乗る。
やりそこなうとおもわぬところに打撃を受けて悶絶するが、むかしハリウッド映画でチョーかっこいい女の人がこれをやっているところを見て以来、すぐやってみてしまう。

なんてケーハクな、というなかれ。

あのね。
Being ケーハクは、幸福に暮らすコツなんです。
きみ悩みたもうことなかれ。
悩んでも悩まなくても現状はたいして変わらないんだから悩まなくていいじゃん。

一般的な理性の予測に反して、未来の危険を予測して防衛的に行動しても、考えなしに行動して困難に陥ってから考えても、実は個人の安全保障上の度合いは変わらない、とバートランド・ラッセルじーちゃんも述べている。

だからあんたは夫のある愛人とエッチするのに避妊しなかったのか、ダメなやつ、とわしは読んだときおもったが。

ほんとは、いまどき、もちろんスーパーに買い物に行く必要はない。
家で手伝ってくれているひとびとに頼んでもよいし50ドル以上の買い物をすれば、いつでも近所の巨大スーパーからデリバリサービスで持ってきてくれます。

でもね。
料理を自分で一日に一回はやってみない人とか、買い物に出向かない人とかは、生活の楽しみの過半を失っているのではないか。

スーパーの駐車場では横断歩道のゼブラを渡りかけた母親が、停車したこちらを見て、ありがとうと述べている。
そのやや斜め後ろを小走りについてゆく金髪のチビコが手をふりながらサンキューと言う。

もうそれだけで、なんだか一日分の幸せが造成される。

スーパーで買い物をするでしょう。
棚を見ながらトローリーを押していた人が、こちらに気が付いて「おや、ごめんなさい」とにっこりしながら言う。

目があっただけのひとも、笑顔をみせて、ちょっとだけとはいえど、人間性への信頼メーターを上げてくれる。

アイスクリームの冷凍棚の前で店員と、どのアイスクリームがおいしいかについて議論する。

途中でインドの人はリコリシュ(liquorice)を「リコライス」と呼ぶ人がおおいという興味深い事実を再認する。

チェックアウトカウンタでは、日本では「How are you?」という英語はありませんと英語人として満腔の自信をこめて述べたウソツキのアメリカ人が書いた本がミリオンセラーになって何億円を稼いだというが、その英語でない「How are you?」から始まるいつもの短い会話で、よい週末を、あなたこそ、とちゃんと笑顔で送り出してくれます。

このひとにつかまるといつもアイスクリームが溶けてしまうので危ない近所のラジコン飛行機好きのおっちゃんが、見ているとだんだんおおきくなってくるラジコンの、また新しいやつを手に入れてガレージの前の芝生で塗装をなおしている。

前を減速して通りかかるわしに、話をしにあゆみよってくるので、ブートを指さして「アイスクリームがある!」と叫ぶと、笑ってうなずいて、手をふりながらガレージへ戻ってゆく。

たったそれだけの毎日だけど、この毎日の麻薬性と来たら!

あらためて、モニさんは、なにもかもお見通しなんだなあ、と感心してしまう。

ヨットに乗る。
ディスプレースメントで釣りにでかける。
稀には飛行機を飛ばしにいくこともあるが、これは案外退屈な遊びなのでほとんどやらなくなってしまった。

そんな贅沢な、と日本の基準で考える人もいるかもしれないが、ニュージーランドでは、どれも普通の遊びで、それが証拠には普段は観光バスのドライバーだというUberおっちゃんと空港までの道のり、ずっとボート談義で、ハウラキガルフの釣り場について情報を交換するのに熱中していた。

なんだか、普通の、「退屈な」生活はいいなあ、とおもう。

近所のシェークスピア劇場にでかける。
週末はCBD(都心のことです)にスタンダップコメディを観に行く。

なによりも、これは英語社会全般といってもいいのかもしれないが、ニュージーランド以外は他の英語社会と較べて特殊なロンドンの、ある種類の社会しか知らないので、自分ではやはり「ニュージーランドの気楽さ」と感じる、なにをやっていても、誰にもなにも言われない社会の習慣が楽である。

実際、他人のせいで嫌なおもいをさせられたのは、なんと日本語用コンピュータをつけたときの日本語ネットを通じての嫌がらせだけ、という漫画のようなリアリティのなさで、ニュージーランドの暮らしは、いくつにも分かれて存在するコミュニティのどれかに属していなければ、いつまでたっても「異邦人」でしかないマンハッタンや、あんまりここに詳しく書いても仕方がないので書かないが、それよりもはっきり「仲間内」が強調されるロンドンの社会よりも、らくちんであるとおもう。

例えばマンハッタンではモニとわしが属していた(というのもヘンだが)コミュニティはフランス系人コミュニティだが、フランス人を中心として、ワロン人、東欧人くらいまでが出入りするこのコミュニティを通しての人間関係と、あとは仕事を通じた人間関係くらいしかもっていなくて、残りは「なじみの店」があるくらいで、良いことは、ケーハクというのも愚かしい、「あっ、テレビで有名なあのひとだわ」なよく見知った顔に会えるくらいで、案外と世間が狭くなってしまうだけのことです。

ロンドンでは頭がいかれたカナダ人の脳外科医やスキャンダルがオールドスクルージがひきずる鎖につながれた金庫のようにガラガラと音を立ててあとにしたがう、わし親と同系の背景を持つおっちゃん、考えてみるとロクな友達がいなくて、いま考えてみると、あんなところに住んでいたら、いまごろはとっくにモニに愛想をつかされて、作男に降格されているか、三行半をつきつけられて、楽園を追放されていたに違いない。

普通の生活も意志をもってデザインしなければ現実にはならないのだ、とモニは初めから知っていたわけで、なにしろ頭の出来が異なる人には、四の五の言わず黙ってしたがったほうがいいのだ、と、あらためて考えました。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

民主主義は可能か?

民主主義はdemocracyの訳語としても日本語の単語自体としても奇妙な言葉で、そのうちには、というのはdemocracy自体への理解がすすめばなくなる単語ではないかとおもうが、この記事では便宜的にdemocracyの訳語として使う。

2016年は、民主主義にとって劃期的な年だった。
悪い意味です。

いくらカネモチの味方で、倫理意識ゼロとみなされ、好戦的でありすぎるといっても本来ならば負けるはずのないヒラリー・クリントンが敗退して、あろうことか、ドナルド・トランプが大統領になってしまった。

当時、自分のまわりのアメリカ人たち、だいたいのおおきなくくりでいうと、これはまたこれで、誰が観てもいろいろな意見がありそうな問題種族の、ハーバード族、ほかの国や大学の出身であっても、すくなくともHBS(ハーバード・ビジネススクール)かHLS(ハーバード・ロースクール)出身のアメリカではエリートとみなされる人々の公約数的な意見は

「ヒラリーなら4年の我慢ですむがトランプでは、この次の大統領選挙があるかどうかわからない」だったようにおぼえているが、そういっていた彼ら自身、当のヒラリーとトランプが対決している選挙自体が、すでに旧来の「大統領選挙」ではなくなっていたことには気が付いていなかった。

気が付いていたのはアメリカを横断して反対側の、西海岸の、それもシリコンバレーやサンフランシスコではなくて南カリフォルニアのIT族の友だちたちのほうで、
かなり早い段階から、「これはたいへんなことになった」と述べていた。

悪名高いSCL Groupから派生してCambridge Analyticaが誕生したのは、たしか2013年のことではないかとおもうが、名前が会話にあらわれるようになったのは2014年頃だったのではないかとおもいます。
2015年になるとBreitbart NewsやTed Cruzの名前と関連づけされて度々口にされるようになっていった。

政治的なトンマでしかないはずだったTed Cruzが有力な共和党大統領候補になることによって「なにかがおかしい」と東部のひとびとが考え始めたころには、西海岸のIT族は、ほぼなにが起こっているか把握していて、気が早い人はさっさと緊急待避用の家をニュージーランドのクイーンズタウンに買ったりしていた。

SCL Groupの経営思想というか企業としての理念は、つまりこういうことです。

例えばアメリカが南米の社会主義政権を倒そうと考える。
この場合、ふたつのやりかたがあって、現地の反体制集団に武器と顧問を送り込んで戦争によって政権を打倒する。

もうひとつは、「情報戦」によって社会を少なくとも混乱させて政権崩壊にもちこむ。

伝統的には例えばCIAを使っていた。
SCLはビッグデータを使えば良いのさ、という思想をもった。

高橋太郎なら高橋太郎という人が毎日暮らしていくために、多分、このひとはグーグルで検索して、好きな本の書評を探す、紀伊国屋書店に在庫があるのを発見して、自動改札を使って地下鉄に乗る。

コーヒーが飲みたくなったので、いつも選ぶラテを選んで、サイズはSで、クレジットカードでピッと支払いをする。

少しお腹がすいたのでコンビニストアに立ち寄って、鮭のおにぎり2個と小ぶりな鶏の唐揚げが入った袋を買う。

このグーグルはもちろん、自動改札、コーヒー屋でラテを買ったこと、サイズがSであること、あるいはコンビニのPOSのDBには、おにぎり2個と唐揚げを買ったこと、どのメンバーカードを使ったか、そのメンバーカードに紐付けされたレンタルビデオで、どんな映画を借りているか、あれっ?このひと去年の5月にはクレジットカードをいちど止められているね、ということに至るまで、すべてネットを通じてデータベースのデータとして入っていくが、そういう個別データを使ったマーケティング戦略を軍事的な兵器として使えるように洗練させればいいのではないか、というのがSCL Groupがもった思想でした。
そして、アフリカ諸国や南米諸国を対象に、たいへんな成功をおさめた。

Cambridge Analyticaは、この手法を自由社会の根幹をなす選挙に使えばいいのではないかと考えた。

具体的には、ここでは詳しい説明を省くが、アメリカを陰から支配する熱心な野望をもつMercer一族が、多分、娘のRebekah Mercerの提案でおおきく肩入れしたのだと考えられている。

つまり、簡単にいえば、Cambridge Analyticaはビッグデータを洗練されたIT手法でもちいれば民主主義そのものを傀儡化して支配できるという確信をもったわけで、この方法の実効性を見抜いたRebekah Mercerが派遣したSteve Bannonの助言のもとにCambridge Analyticaは見事にアメリカ大統領選挙というシステムそのものを骨抜きにしてトランプをほとんど無理矢理に大統領の座につけてしまう。

あとはたくさんのドキュメンタリやノンフィクション本が出ているので、評判がいいものを探して読んでいけばいいとおもうが、
それがどのくらいの規模だったかを示すために数字をあげると、
Cambridge Analyticaはアメリカ民主主義を破壊するために使った主要な「兵器」だったFacebookに選挙のピーク時の数ヶ月間、一日に一億円以上の広告費をつぎこんでいる。

Project Alamoと名付けられたこの「見えない内戦」はデジタル側の完勝で、どれほど無能な人間を看板に立てても、投票時の選択に有効なイメージをつくりだし、現実そのものをでっちあげることによって自分たちが操れる指導者をうみだせることをProject Alamoは実証してみせた。

これほど有効で手に入りやすい兵器をあちこちで社会を混乱させ分断させて自分たちの恣意のとおりに支配しようとする人間たちが見逃すわけはなくて、トリニダードトバゴでは黒人の若い層に「選挙なんて行ってもムダだと働きかけてインド系候補が圧勝するようにもっていった。東欧の至る所で選挙をコントロールした。最近ならばブラジルやミャンマーで起きていることは、Cambridge Analyticaのコピーキャットによっていることがよく知られている。

通常はその国の大手の広告代理店やマーケティング会社によって行われる、日本なら日本の、一国の民主主義の「乗っ取り」は、その国の国民のあいだに、ヘイト、恐怖を煽って国民を分断することによって行われる。

政権を愛しましょう、というような単純な手法に終始するわけはなくて、例えばよく使われる手法のうち初歩的なものをあげると、有力な反対勢力からポピュリストを選んで、反対勢力をそのひとりの人間に集めて、初めから調べ上げてある彼女もしくは彼のアキレス腱を絶つことによって反対勢力を一挙に壊滅させる。

あるいは、大統領選挙ならば、民主党なら民主党の候補を乱立させることによって、共和党候補を安全水域から大統領の座につかせる。

どのような方法によるとしても、考えてみれば古代ギリシャの時代から知られてきた民主制のウィークポイントをビッグデータと呼ばれるものを使ってピンポイントで攻撃破壊するわけで、いまのところ、伝統民主主義の側からこれに対抗して民主主義を生き延びさせる有効な手段はないようです。

現時点で6〜900000項目弱といわれる個人を定義するデータは、やがてゼロがひとつ増えるに違いないが、NYCのParsons School of Design準教授David Carrollが連合王国で起こした「自分についてのデータを公開しろ」というCambridge Analyticaに対する訴訟は、Cambridge Analyticaが開示要求を拒否したことに対して有罪判決がくだされたがデータそのものは開示されないまま終わった。

論理的に考えてみればわかるが、ビッグデータを使う解析マーケティングそのものの本質を破壊してしまうことになるので、
多分、将来も、ある人間についてのデータが、その人自身に対して開示されることはないでしょう。

こうしたテクノロジーの揺籃期には同種の(と言っても遙かに素朴なものだったが)手法を用いたマーケティングがone-to-oneと呼ばれていたのをおぼえている人もいるとおもいます。
20世紀の終わりに、この手法を用いた有名な失敗例として、アメリカ某社の生理用品のマーケティングが知られている。

顧客のPOSデータから生理のサイクルを割り出したこの会社は、次の生理の時期が近付くと、「そろそろ生理が来るころですね。次の生理にも弊社の生理用品を!」とemailをだして、顧客を激怒させた。

いまになってみると、笑い話のようでなくもないこの頃の原始的なテクノロジーが、遙かに複雑で賢いシステムに育って、ついに民主主義を破壊する怪物になった。

最初期のパーソナルコンピュータのひとつApple IIを生みだしたスティーブ・ウォズニアックの夢は、どんな圧政下にあっても、個人がレジスタンスの武器と出来る一個のプライベートに所持できる小型コンピュータと、それをフックさせるオンラインネットワークだった。

その夢は実現して、いまはiPhoneと4Gネットワークとして世界をおおっている。

コンピュータコミュニティはもちろん、いまはジャーナリズムにおいても逮捕を免れているだけで自覚的に犯罪者であると理解されているMark Zukerberg, Sheryl SandbergはもちろんのことLarry Page, Jack Dorseyたちの世代は、「個々の人間を結びつけ情報を瞬時に共有して、これまでに存在しなかった娯楽を提供する」往時のインターネットの楽しい夢のなかでキャリアを始めたが、彼らが育てたインターネットという妖精は、彼らの理解力を遙かに越えた人間を支配する怪物に育ってしまった。

最近グーグル本社が「Don’t be evil」という有名なサインを撤去したというニュースがあったが、彼ら自身、もう現実についていけなくなっていることを象徴している。

テクノロジーが人間の理解を越えてしまうといういわば予期されていた事態が、民主主義という、そもそもなぜこの不完全きわまりないシステムが人間にとって最適な仕組みとして機能してきたか理解不能なシステムの破壊から始まったことには理由があるが、しかし、それならば民主主義に代わる社会の仕組みが見つかるのか、そもそも個人主義自体が回復できるものなのか、テクノロジープラットフォームの下を囂々と流れるデータの奔流の音を聴きながら、人間は途方にくれることになった。

それでも、民主主義は可能なのだろうか?

Posted in Uncategorized | 4 Comments

わたしという欠落

野原に立っていて、ぼんやりしていると、そうか、おれが空間を占有しているぶんだけ野原は欠けているのだな、と考える。

そう考えながら野原に出来ている、けものみちのような、人間が通った小径をたどっていると、「野原の欠損」が移動していって、一瞬前に移動した空間を、また野原の空気がうめもどしているような、空間の自己充填が察せられて、「人間が存在する」という不可思議のほうへ頭がかたむく。

友達と話していて、2014年に死んだ大好きな詩人Mark Strandの

KEEPING THINGS WHOLE   という詩をおもいだしていた。

In a field
I am the absence
of field
This is
always the case
Wherever I am
I am what is missing

When I walk
I part the air
and always
the air moves in
to fill the spaces
where my body’s been

We all have reasons
for moving.
I move
to keep things whole

完結した世界にぼっこりと生じて、ちょっと余ったような、世界のなかに存在する「自己」というものが、うまく表現されていて、巧みであるとおもう。

大通りを横切るときに、通りの向こう側へほんとうに着くかどうかを疑えないひとは、どこかで自己というものの存在を理解しそこなっているのではないかとおもうことがある。

暴走してきたクルマに勢いよく撥ねられて空高く自分の身体が舞い上がるのもそうだが、実際、通りを渡りきってしまう前に自分の肉体が消滅してしまうかもしれない、という気持が、心のどこかにない人とは、友達になれない気がする。

slackのスペースで年長の友人である哲人どんが

言語を使った複雑な思考のなかで意識される「私自身」とは、習得した言語体系に対する違和感としてくくり出される「余りの部分」と見るのが最もよい。習得した言語体系は、皆に共通の「欲求や事実認識の文化的シナリオ」になっています。その共通の文化的シナリオに違和感を覚えるのが、私自身、ということ。かけがえのない自分という存在は、共通の文化的シナリオで割り切ることができなくて「余り」になってしまう部分なのだ(と私は思います)。

と述べている。

言語がひとつの社会で果たしている役割についてのまっとうな洞察で、
特に日本語社会のような全体の側から個人の側への強制力を強くもった社会で、個人がどのように処していけば個人主義に基づいた人生を歩いて行けるか、おおきなヒントに満ちた意見陳述の一部だが、読んでいるほうは、
「余り」の悲哀ということも考えないわけにはいかない。

趣旨のほうにも反応して、実験科学の知見に基づいてdevil’s advocate的にデカルトの近代自我を仮定しなくても、認識哲学はなりたちうるのだと年長の友人が興味をもたなさそうなことを書いてはみたのだけど、「余り」としての人間の寂しさのほうに、より強い興味を感じていないと言えば、嘘になるだろう。

人間の存在の寂しさは、言語という、まるで洞窟の壁に書かれた「disk」のような表徴の寂しさから来ている。
まだ文字を持たなかったころの人間は、自分の感情をうまくいいあらわしえても、その言い表された言葉は、記憶の空中に消えていくほかはなかった。

自分が、野原のなかでは異物であって、しかも存在しうる時間が短い儚(はかな)い異物であることをつよく知っていた。

普遍語が共通してもっている、あの一種の「寂しさ」は、だから、
人間が自分の存在に対して持っている基本的な感情なのだろう。

では、どうすればいいのか、ということについてMark Strandは解答を示している。

立ち止まれば、停まっているあいだは、肉体は存在していても、きみ自身は消滅している。
歩きだすことによって、きみは、また存在を取り戻す。

言語の寂しさの広大な荒野を横切ってゆくきみの横顔の美しさだけが人間の尊厳を保証しているのだとおもいます。

Posted in Uncategorized | 3 Comments