英語を学んで世界へ出て行こうとしている友達に

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ある日、ぼくは劇場の椅子に腰掛けて、シェークスピアのコメディを観ていた。
観ていた、といっても、その日の出し物を観るのは、もうその月だけで3回目で、セリフも、工夫された演出も、暗誦(そら)で言えるようになっていて、ステージのうえに釘付けになっているべき眼は、テーブルに運ばれてきたワインとオードブルの盛り合わせと、それがシェークスピアコメディのいちばんの楽しみの、観客と俳優たちの掛け合いのほうにばかり気をとられていたのだけど。

観客席を眺めていると、シェークスピアが初演された16世紀の終わりから、タイムトラベルでやってきたような髭とヘアスタイルのおっちゃんや、でっぷり太って、なんだか不思議の国のアリスの女王のようなおばちゃん、そうかとおもうと、盛装して、三階席で身を乗り出している、びっくりするように美しい、身なりの良い若い女の人、平場の立ち見席で楽しそうに笑い転げている3人の、大学生だろうか、ジーンズ姿の若い女たち… 社会のさまざまな階層の人が、さまざまな装いで観劇していて、シェークスピアの時代から一向に変わらないこの雰囲気が、つまり劇場まるごとがシェークスピアの世界なのだと判ります。

シェークスピア劇には、子供の時からのたくさんの思い出があって、俳優に抱きかかえられてステージに立たされて、突然劇中人物として扱われてしまったり、長じては、ワイングラスの手をすべらせて、ちょうど出番だった俳優さんの頭からワインをぶっかけてしまったこともあった。
機嫌のよい日で、われながら冴えた相の手をいれて、大声で叫んで、それが劇場中にあまりに受けてしまったので、俳優たちに、「これ、そこの若者、われわれから劇を盗んではダメではないか」と本人たちも大笑いしながら言われたりした。

気がおけない、という言葉があるが、シェークスピアのコメディの最もよい点は、観客と舞台とが一心同体になって、機知のあるやりとりをしながら物語が進んでいくところで、ニューヨークで観たときには、舞台と客席が分離していて、ただの「歴史的見世物」じみて、観客席と舞台がグルなのはイギリスだけのことかと思っていたら、ニュージーランドでも、ロンドンと変わらない雰囲気で、なるほど、われわれが共有している文化の何事かが、この雰囲気をつくるんだなあ、と考えたりする。

言葉の話をしようと思っていたんだよ。
そんな言い方はひどい、ときみは言うだろうけど、英語人たちに較べて、日本語の人は、あんまり言葉のやりとりを楽しんでいないんじゃないか、と考えることが、日本にいるときにはよくあった。

もちろん、例えば、いまはなくなった銀座のビル地下の「山形屋」のような居酒屋で、畳の席に座って、どういうことなのか、安居酒屋であるのに他の居酒屋に較べて人品が圧倒的に良い人が多い、八百万の神様たちがこっそり地下に集まって宴会をしているような、隣客のひとびとと、訊かれて、イギリスの話や、わたしは庄内の出身なんですけどね、と述べる女の人が方言を実演してくれたりして、あの和気藹々の雰囲気を、もちろんぼくも知っている。
そういうときの日本の人たちは、ごく自然に親切で、朗らかで、楽しい人達だが、それが、おなじ郷土料理でも、でっかい茶碗蒸しが楽しみでよく出かけた長崎料理の「吉宗」では、もう、しゃっちょこばった、見慣れた日本人スタイルになっている。

そういう場所も、どこも隣のテーブルが、ぎょっとするくらいに近いのに、まるで不可視な衝立や架空な距離があるようにして、みな隣は眼中にないように振る舞っている。

その違いはどこからくるのだろう?

あるいは、シドニーの街で、モニさんに「まあ、なんて素敵なドレスでしょう?
どこで買ったの?」と話しかけてくる見知らぬ人がいる。
あるいは交差点で眼があって、にっこり笑って、「今日は、いい天気だな、兄弟」と話しかけてくる若い男がいる。
みなが言葉を使おうと手ぐすねひいている感じの社会が英語社会で、ずいぶん違うなあーと思わないわけにはいかない。

どうせ日本は特殊ですから、とむくれるきみの顔が見えるような気がするが、そうじゃないんだよ。

バルセロナの目抜き通り、日本でいえば銀座の晴海通りになるだろうか、パッサージュ・ド・グラシアで、チョーかっこいいドレスのアフリカ系の若い女の人がいて、イギリス人の観光客然としたおばちゃんが、
「あなたの、その素晴らしいドレス、どこで買ったの?」と聞いている。

ところが、訊かれた女の人はそっぽを向くようにして歩いていってしまう。
イギリス人のおばちゃんは、聞こえなかったと思ったよりは、無視されるという(英語世界なら)普通では考えられない反応にあって、気が動転したのでしょう、追いすがるようにして、もういちど同じ質問を繰り返したら、今度は立ち止まって睨み付けられていた。

しかも悪いことに、その次の瞬間、そのアフリカ系人の友人であるらしい地元のカタルーニャ人の若い女の人と偶然出会って、いかにも愛情にあふれたハグを交わしている。

タパスバーの外に出したテーブルで眺めていたぼくは、ここに働いている心理的メカニズムは日本人とおなじものであるよーだ、と独りごちている。

実際、バルセロナ人のひととひととの距離の取り方は、とてもとても日本人と似ていて、英語人には理解して納得するのが難しくても、日本の人には何の苦労もなく理解できそうなタイプのものです。

それが社会の、どんな機微によるのか、ぼくには判らないけど。

英語という言語は、ドイツ語やフランス語との関連などよりも、なによりも北海文明の言語で、英語人の強烈な仲間意識は、ヴァイキングに典型的な北海人の同族意識に根を持っている。
英語では見知らぬ人間同士のあいだでスモールトークが他の言語よりも頻々と起こるのは、多分、そういう歴史的な社会の性格があるからで、人種差別的な考えの持ち主のおっちゃんが、特定の、言語的にウマがあう中国系人と親友同士であったりするのは、英語に限ったことではないといっても、やはり英語世界に多い事例であるような気がします。

緊密な結び付きを持つ集団は、当然、他に対して閉鎖的な集団でもあって、Brexitやトランプで明らかになった白い人々の相変わらずの閉鎖性は、要するに言語の性格から来ているんじゃないの?と思うことがよくある。

このブログ記事に何度も出てくるように、いまの世界語としての英語は「外国語としての英語」で、体系や機能はおなじでも、北米語であったりUK語であったりするわけではないのは、英語人自身がいちばんよく知っている。

日本人も含めて、英語を身に付けていく人達がいちばん最後にぶつかる壁は、「外国語としての英語」と「母語英語」のあいだに立ちはだかる超えがたい壁で、この「壁」の嫌らしさは、たとえアクセントがまったくおなじでも、同族の両親ゆずりの英語でなければすぐにばれて、拒絶の反応が待っている。
いっぽうではニュージーランド人と連合王国人なのに、お互いのアクセントをいとおしくおもって同族としてふるまっている。
どんなに美しい英語でも、このレベルでは頑として認めなくて、英語人は陰口が大好きだが、「あいつの英語はいったいどこの英語なんだ。正体不明で気味が悪い」というような、いかにもな嫌らしい言葉を、例えばイングランドで生まれ育って、アメリカに長く暮らした人に向かって述べることは、とてもよくある。

現代の「定義がてんでんばらばら」と言いたくなる人種差別は、連合王国ならばトランプの奥さんのような東欧人も差別の対象で、オーストラリアやニュージーランドならばアフリカンアメリカンはダイジョブだがアジア人とミドルイースタンは差別される。アメリカに至っては「白ければなんでもOK」の杜撰さで、じゃあ、浅黒い肌のイタリア人はなんでいいの?とからかいたくなるが、人種という現代科学がすでに遺伝要素として否定しさった概念を無理矢理信じようというのだから、結論が白痴じみているのは当たり前でも、なんだか出鱈目なのは、やはり言語がおおきく絡んでいるからだと思います。

よく観察してみると、メラニアよりもイヴァンカのほうが風当たりが弱いのは、英語のアクセントと関連していると思えなくもない。

ぼくは、人種差別はやっぱりなくなるだろうと思っている。
いま世界を覆い尽くす勢いに見える人種差別の潮流は、あとで振り返ってみると、世界の哲学的な進歩についていけなくなった人間たちの最後の抵抗ということになるのではないかしら。

日本人のきみが、ようやっと勇気をだして日本の外へ出て行こうとしているときに、ファラージュやトランプのような愚か者が喝采を博して、ぼくのところにまで
「おまえは日本を出たほうがいいと言ったが、人種差別の世界になったじゃないか、ざまーみろ」という、なんというか、大幅にピンボケで、アンポンタンとしか呼びようがない人たちが来たが、現状は、「人種差別の考えにとらわれたひとたちが口にだしてもいい時代になったと考えて、いままで言わなかったことを言葉にして異人種にぶつけはじめた」ところで、ぼくがきみなら、バカな人間と口を利く手間が省けて返って好都合だとおもうだろう。

ぼくが子供の頃は、シェークスピア劇は、観客席をみると悲劇にだけアジアの人の姿があって、喜劇は全部白い人だったんだよ。
それがいつのまにか、中国系人のにーちゃんが立ち見席で、ステージに肘をついて、俳優に踏まれそうになったりしている。
その後ろで、やっぱり中国系の若いカップルがステージにむかって笑い転げている。
貴賓客用のボックスで、インドの裕福そうなカップルが満足げにステージを見下ろしている。

ごく正統的なシェークスピアのコメディの大団円で、みなが16世紀メッシーナの衣裳を着たまま、ポリネシアのダンスを踊り狂ったり、パーティの夜会のシーンでボリウッドダンスをみなで熱狂的に踊って劇場が盛り上がったりするのも、ふつうのことになってきた。

日本語ツイッタで、両親とも日本人なのに、真っ白な時代のスコットランドを懐かしんで、いまの多文化社会のスコットランドを疎む人に会ったことがあったが、ぼくはチョー飽きっぽい性格なので、白人ばっかりの英語社会は、もういいや、と思っている。
つまんないよ。

あの頃は、いま考えるとお笑いで、おいしいカレーを食べに島の西の端っこになるペンザンスまで行ったことまであった。
それ以上おいしいカレーを食べたければ、シンガポールに行くくらいしか手がなかった。
おとなたちはアジア人やジャマイカ系人の悪口ばかり言っていて、ネガティブ人間の共同体のような、世にもアホい姿をさらしていた。

ぼくは英語社会がそこにもどってゆくとは、まったく思っていない。
人間は、結局は、楽しいことが好きだからね。

きみらしく、慎重に、ビザが出るまでニュージーランドに来ることを黙っていたんだね。
日本ではトーダイだが、ニュージーランド人も流石にいまはトーダイの名前くらいは知っていても、知識のなかで判っているていどで、この国に来てしまえば、きみもただの、これから空中ブランコから空中ブランコへ跳び移って、虚空の闇のなかへ、自分の筋力と反射神経だけを頼りに跳躍していこうとしているひとりの青年にしかすぎない。

でも特権のない若い時代を経験するのは、とてもとてもいいことだと、擬似的なものにしかすぎなかったけど、誰もぼくの背景をしらない皿洗い場で、皿をジャグリングして遊んでいてシェフに怒鳴られていたりしたぼくは、よく知っているつもりです。

きみのは、どんな冒険になるだろう?
楽しみにしています。

でわ

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Jさんへの手紙3

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ほんとうは仲が良いもの同士で冗談を言い合いたいだけだったのを憶えているのは、もうjosicoはんくらいのものではないだろうか。

このブログは元元は零細なゲーム通販サイトの右端の隅っこに載っているゲーム・ブログで、オンラインeコマースの実験をやってみたかった義理叔父が、知っている人にお願いして開いた通販サイトが、あまりに索漠としていて非人間的に冷たいので、まず自分で書いてみて、うまくいかないので、外国語の天才をたくさん生みだした母親側の家系につらなって、日本語を含めた外国語が人並み外れて堪能ということになっていたぼくに、「練習代わりにやってみない?」と言い出したのが始まりだった。

義理叔父とシャチョーは輸入ゲームの通販サイトをやってみて、英語が少しはわかるふりをしている人が多いだけで、日本人がおもったよりもずっと英語が出来ないのを見てびっくりしたのだそうです。

あのころ純益はどのくらいあがっているの?と聞いたら、月に600万円から1500万円という答えで、あまりに少ないので、なんだか笑ってしまった。
どこから仕入れているのかと思ったらロサンジェルスやロンドンで、日本の人らしく、あんまり頓珍漢なので、ヒマなときにネットで調べたり電話をかけてまわったりして、スウェーデンの卸屋を教えてあげたら、特に少し古いゲームは一桁安かったとかで、義理叔父とシャチョーに感謝されたのをおぼえている。

いま、頑張って思い出そうと思ってたのだけど、もううまく思い出せないんだよ。
もしかしたら、一番初めの記事が、あの奇妙なゲームサイトの右上に現れたのは10年前ではないだろうか。

違うかな?

いまは「長すぎて読めない」という人が多いのでワードの3ページに収まるように書いているけど、ワードの1ページの半分を書くのにほぼ一週間かかっていたのをおぼえている。
テキトー、えーかげんを他人に対しては求めるのに、自分はなんでも完璧でないと嫌だという嫌な性格のぼくは、一行書くのにもネットで検索して用例を調べて、おなじ用法がないと日本語教科書や辞書にあたって、アケオメで始まる、たった数行のブログを書くのに、まるまる一日かけて、途方もない時間を注ぎ込んだりしていた。

josicoはんは、仕事の用事で、英語のゲームを買う必要に迫られて、サイトを探してたどりついたのだったとおもう。
そのうちに、ほんのときどき更新されるだけの、チョーいいかげんなブログがトップページにおかれているのに気が付いて、読者として、コメントをくれるようになった。

初めの頃は「日本人は、そこまでひどくない! いくらなんでもあんまりな言い方だとおもう!!」と瞬間湯沸かし器のjosicoはんらしく、よく怒っていたが、そのうちにウマがあって、仲良くなった。

ほら、emailでだったか、josicoはんがバルセロナへ行って、ぼくが初めてバルセロナに住んだときの、アパートへの坂道を歩いていくところがあったでしょう?
地下鉄の駅をおりて、地上に出て、緑のなんちゃらな名前のレストランや、やたらとおいしい蜂蜜を塗ったクロワッサンとカフェ・コン・レチェを出すベーカリーをすぎて、多分バルセロナでいちばんおいしいハモンを切り出してくれる肉屋を通り過ぎると、病院の手前に右側に曲がる上り坂があって、そこを上がっていった右手にグラシアでもあんまり治安がいいとは言えない側にある、ぼくのピソ、日本語で言えばアパートがある。

josicoはんは、なんとブログ記事だけを頼りに、あのアパートを探し当てて、あのちょびひげを生やして、頭がつるりんと禿げた、無暗矢鱈に親切なおっちゃんから、ハモンイベリコを買って、おお、ブログの通りじゃないか、と感想を述べてくれて、ぼくを驚かせた。
あの頃から、ネットと現実世界とを問わず、大親友のひとりに、josicoはんを数え始めたのだと思います。

あのアパートは、実はいまも持っていて、いま考えると大笑いしてしまうが、英語圏の人間の浅はかさで、英語圏市場と同様にペントハウスが中層階よりも高いのだと誤解していて、6階の、遠くにサグラダファミリアがみえるテラスがあるアパートで、まだ付き合いだしてからそんなに経っていなかったモニとふたりで、あの親切ハゲおっちゃんからハモンを買って、滅法うまいベーカリーからパンを買って、パンコントマテ、カタルーニャの言葉でいえばバンアムトマカをつくって、テラスに出したテーブルで食べたりしていた。

その頃のことを考えると、josicoはんもモニもぼくも、子供のように若くて、失敗ばかりしていて、他人の言葉に傷付いたり、うまくいかないことが続いて椅子を蹴飛ばしてみたり、いらいらしたり、寂しいと思ったりして、世界には自分と意思が通じる人間はそんなにはたくさんいないこと、友達になりうる人間の数はとても少ないことを学んできたのだと思います。

Casa Gracia、だっけ?
ディアグノルを渡って地下鉄のグラシア駅の行く途中にあるホテルの近くにタコ焼き屋を出そうか?と話していたことがあったでしょう?
Josicoはんが、日本のマネジメントに馴染めなくて、というよりも湯沸かし器のスイッチが入って、もう日本に住んでいられないと考えて、外国に移住してゲームデザイナーとしての一生をやり直すのだというものすごい決心をして、考えてみると日本語しか判らないので、これでは移住は無理だよねと考えて、ふたりで相談して、取りあえず連合王国のブライトンの語学校に行った、あれは、2008年のことなのだっけ?
もう随分むかしのことで、ちゃんとおぼえていないのだけれど、josicoはんがゲーム業界からは足を洗ってタコ焼き屋をやりたいと言い始めて、現実の世界では投資家同士の関係のjosicoファンになっていた義理叔父と、「Josicoはんなら、もう仕方がないだろう」ということで、いざとなったらjosicoはんの人間を見て、どうせダイジョブに決まっているから、あんたとぼくと半分半分で出資して、josicoはんはそんなのは嫌だろうけど、チェーン化を前提にしてタコ焼き屋を支援したらどうかと話がついていた。

あのとき義理叔父は、なんだか日本へ出張(でば)って、銀だこチェーンやなんかに行って見て、「これなら勝てる」とかなんとか、チョーシのいいことを言っていたの。

ところがjosicoはんは、うまく採用されて、いまはアマゾンの開発部門として買収された会社に入って、ゲームデザイナーとして復活して、あのときは言わなかったけど、義理叔父はかーちゃんシスターと一緒にわざわざやってきて、祝杯を挙げたんだよ。
4人で、不安そうだったjosicoはんが就職して、またゲームの世界の人になったことを、思い切り祝福したのだった。
おおきい声では言えないが、あの地区ではたしか禁止の打ち上げ花火まで上げたのね。
ぼくたちはみんな勇敢なjosicoはんが、とてもとても好きだった。

ぼくが、いつまで経っても、何年でもつきまとう、はてなに蟠踞すると自称するおっさんトロルたちや、ときどき明滅的に現れる、こちらは万国共通の、自分の生活がうまくいかなくて人生の失敗者となって、そのフラストレーションをぶつけにくるらしいネットストーカーたちに、ときどきうんざりしながら、日本語をやめないで来たのは、やっぱりjosicoはんがいたからだとおもう。
日本語用法上は「josicoはんたち」とか「josicoはんをはじめとする」とか言うべきなのは判っているが、そんなのは、ぼくが育った社会ではウソなので、ほんとうのことをそのまま述べるべきで、josicoはんがいたからいままで日本語に対して興味を失わないですんだんだよね。
そういう事情のことは、もっと後景にある、源俊頼が好きであるとか、北村透谷が好きであるとかとは、ちょっと別のことです。

josicoはんは職業人である以上、この仕事をクビになったらどーするんだ、と不安に思うことがあるとおもう。
ぼくは投資家おっちゃんやおばちゃんたちからは、ガメはオカネをコンサーバティブなほうにどんどん逃がすから狡い、と羨ましがられていて、投資家なのに借金がないというヘンな暮らしだけど、人間の運命はヨットみたいなもので、順風満帆のときはスルスルと水面を滑っていて他人がうらやんでも、嵐がいつくるかは、ほんとうは誰にもわからない。
ぼくも、これで大丈夫だと考えたことはいちどもありません。

これから先、どうなっていくか、お互いに判らないけど、ずっと友達でいようね。
ブログがなんだか公(オーヤケー)な感じになってしまって、裃を着て、口をすぼめて政治の話やなんかしそうで、自分でもうんざりだけど、josicoはんの目があるのが判っている限り、日本語でも正気でいられるのではなかろーか。

この頃、あんまりゲームの話しないけど、ちゃんと一日に一時間はゲームをやって、マウスを机にむかってバンバンしすぎて、バラバラにぶち壊してしまったり、後からしつこくついてくる敵機をマヌーバーでふりきろうとしてPCジョイスティックを、ぶち折るくらいには夢中になって遊んでいます。

VRが面白いので、VR専用につくった部屋でPS4も多くなったけど、やっぱりSE30以来のことで、机の前に座って、PCでゲームをやるのが、アットホームちゅうか、リラックスした感じがする。

ファイアフライ・スタジオがStrongholdシリーズを、クルセーダーやクルセーダーエクストリームも含めてsteam向けに作り直したので、全部買って、誰がみてもひと目でサッカーのフーリガンがモデルだと判る「おれたちゃ、メースマン!」や
スティーブ・バノンたちの白人至上主義者を思い起こさずにはいられない、重装騎士の、「鎧が重いぜ」と不平を言いながら頭上から熱した油をぶちかけられたり、矢を浴びたりしながら、ガッチャンガッチャン突撃して、なんでもかんでもぶち殺してしまう声を響かせたりしながら、毎日を暮らしています。

josicoはんは、どんなゲームをやっているだろう?
Civ6?

また会おうね。

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十代という地獄

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ふと横をみると、ぶざまにでっかいペニスのジャマイカ系人が、透きとおるような白い肌の、18世紀に流行った上流階級人の肖像画から抜け出てきたようなブロンドの女の子に、自慢のペニスにコカインの白い粉をあますところなくかけさせて、「おまえ、これが欲しいのか?」とお決まりのセリフで訊ねているところで、
女の子は欲情に火が付いた薄い青い目を燃えるように輝かせて頷いている。

酔っ払ったときに義理叔父に尋ねてみたことがあるが、日本の高校生たちもおなじようなもので、宮益坂に近い地下にあるレストランに、無理矢理買わされた「パー券」をもって出かけてみると、夏目雅子の母校で有名な広尾山の女子校の女の生徒が、酔っ払って、下着を脱いで、カウチを囲んでいる義理叔父男子学校の生徒たちが食い入るように見つめるなかで、後で警察幹部になるOさんとセックスを始めたところだったそうでした。

「むごたらしさ」という、使われているのか使われていないのか、ついぞ分明になったことがない日本語があって、この言葉がいちばんぴったりなのではないかとおもうが、十代という文字通りすべての人間が通過する時期は残酷で、むきだしで、露出した神経に直截こたえるようなところがある。

「図書室の高い窓から入ってくる太陽の光で鮎川信夫詩集を読んでいたんだよ」と義理叔父が述べている。
司書係は鼻持ちならない反動野郎の同級生のWだったが、案外なところがあるやつで、ぼくが、これみよがしにジーンズの尻ポケットからフラスコを出して生(き)でウイスキーを飲み出したら、ニヤニヤしてみていたと思ったら、「水を持ってきてやろうか?」というのさ。

そうして、ガメも好きだと言ってくれた、橋上の人の、例の

あなたは愛をもたなかった、
あなたは真理をもたなかった、
あなたは持たざる一切のものを求めて、
持てる一切のものを失った。
というところへ辿りついたら、みっともないことに、ぼくは泣きだしてしまった。
そしたらWのやつが、みないふりをして後で陰口を利いて笑い物にするだろうとおもったら、図書カウンタをまわって、カウチにやってきて、
大丈夫か、と聞いたんだ。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/02/10/ayukawa/

おれたちは、結局、まるで不倫カップルのように、(見つかると、お互いの学校のなかの政治的立場で、おまえは裏切ったのかと言われるからね)人目を忍んで、
その頃はまだ坂の下にあった日赤産院におりてゆく坂の途中にあった「味一」という名前の定食屋でビールを飲みながら、絶対に一致しない政治的意見を述べあった。

Wの父親が汚職事件でつかまったのは、その年の冬のことだった。

おにーちゃん、この青い塗料、なに?
と妹に聞かれて、ぎょっとする。

自分の服は自分で洗うと言ったじゃないか、おぼえてないのか、と怒ったときは、もう手遅れで、

おにーちゃん、昨日、Kに出た暴力男の記事を読んだ?という。
顔を青と白に塗りわけて、満月の夜にひとりで現れて、両手にクリケットバットを握りしめて、集まっていたスキンヘッズをひとりで全部殴り倒して、夜空に向かって吠えていたというの。
マンガみたい。
この頃は単純な人間が増えたというけど。

どこのバカ男だろうと友達と笑っていた。
スーパーマンのつもりなのかしら。

世の中には、自分が正義だと思えば、他人に怪我をさせてもいいと考えるサイテーなやつがいるのね。

まさか、おにーちゃんの知り合いじゃないでしょうね?

いま考えてみると、あれはカップヌードルだったんだよな、多分。
大学生たちに誘われて、応援に出かけたロックアウトの、積み上げた机と椅子のてっぺんに腰掛けて、
ははは、アルチュール・ランボーの「一番高い塔の歌」みたいと思いながらマルキ(機動隊)のほうを観ていたら、あの図体ばかりでかいやつらが、なんだかマグみたいなものからラーメンを食っていた。
暖かそうでいいなあーと思ってうらやましかった。

やがて、夜になって、放水車が迫ってきて、高校生同士、来たぞ、みんな油断するな、顔を伏せろ、と述べあって、ふと後ろを振り返ったら、肝腎の大学生たちはひとりもいなかった。
その夜に警察署にひきずっていかれたのは、全員、おれたち高校生だった。

おれは問題学生のなかでは勉強ができるほうだったので、指名されて、ネリカン(←練馬監獄)に収容されていた、先輩の家庭教師を仰せつかったが、意地でも東大に受かってやるという先輩が鹿の絵を指さして、これはなんというんだ?と聞くので「deer、ですね」と答えたら、「そうか、絵のことは英語ではdeerというんだな」と深くうなずく始末だった。

その先輩が、自分の調査書を盗み見たら、担任の憎しみをこめた文字で
「この学生は過激思想の保持者で大学教育には不適格」と書いてあったそーだった。

そして、ぼくは冬のロンドンで、いつも凍えていたんだよ。
寒いのに、いきがってTシャツ一枚でいたからだけどね。

雪が降り始めて、雪が降って、降り積もって、なにも人生に蹉跌が起きているわけではないのに、
涙が止まらなくなって、なんだか頭がおかしくなった人のように泣きながらリーゼントストリートを歩いていた。
ぼくは、この世界が好きになれなかった。
どうすれば、この残虐であることを隠しもしない世界が好きになれるのか判らなくて途方にくれていた。

パーティで、望まなかった(でも、ちゃんとNOと言えなかった)セックスの結果、妊娠して自殺してしまった女の子に「突っ込んだ」大学生は、あきれたことに若い下院議員になった。

ぼくは、この世界を愛さなかった。
野蛮なだけで、何の取り柄もない文明のなかに生まれたことを呪っていた。

十代のぼくに、いまなら、教えてあげられるんだけど。

きみは、子供のときに何度か行った、大西洋を渡ったアメリカの、ニューヨークという町が好きになるだろう。
その町のセントラルパークの東の住宅地で開かれたパーティで、ひとりの、途方もなく美しい女の人に会うだろう。

そのひとは、きみのベアトリーチェで、手をとって、きみの一生を思いもしなかった色で塗り替えてしまうだろう。

その人が教えてくれることには、自分と最愛の人を愛することだけが人生の価値なのだということが含まれている。

人間の一生は、とても単純なものだという真実が含まれている。

そうして、そのひとは、きみを途方もなく幸福にするだろう。

こうやって、振り返っても、十代という「剥き出し神経の時代」を生き延びられたのは、不思議な気がする。
十代の人間の行く末は本人の分別には依らない。
うまくいくのも、クソ世の中に殴られ続けるような十代の終わりになるのも、ただの運にすぎない。
すぐれていたから、なんとか十代を生き延びられましたなんて述べる人間は嘘っぱちなんだよ。
信じちゃダメだよ。

あきらめちゃダメだよ。
この世界のどこかに、きみが出会ったことがない真の友達がいる。
きみは、ひとりであるわけはない。
いまは、どんなについていなくても、きみを探している同じ世代の人間がいるのを忘れないでね。

きみに会えたら、いいのに

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コレスポンデンス

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日本語ツイッタを通じて出来た友達の千鳥という人は、たいそう変な人で、生まれて初めて商業出版した本はフランス語で書いた本だった。
(アマゾン・フランスで誰でも買えます)
おおきな声で正義を述べるというようなことは皆無で、

というようなことを、ときどき、思い出したようにタイムラインに戻って来て、ぼっそりと述べて、また靄の向こうへ歩いてもどっていってしまう。
ツイートを「つぶやく」と日本語に変換して述べるのはぼくの好尚にかなっていないが、千鳥のツイートは、文字通り、呟いているので、なんだか午後になって起きてきて、風呂場の鏡に向かってヒゲを剃っている人が自分に向かって話しかけているようである。

むかしCueva de El Castilloについてブログ記事

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/

を書いたら、しばらくして、千鳥が「行ってきた」という。
行ってきた、だけで要領をえないのは、千鳥らしいというべきで、こちらはどこに「行って来た」のか判らないので、どこへ?と聞くと、
Cueva de El Castilloに行ってきたのさ、と事もなげに言います。
クルマがなければ到底たどりつかない田舎にある洞窟なので、クルマを運転するとは知らなかったと述べたら、
バスを乗り継いで行ってきたんだよ、というので驚いてしまった。

あの洞窟の山の上には、六畳敷きくらいの広さがある平らな頂上があってね、そこでまわりを見渡していたら、いろいろなことを考えた。
ガメは、変わったところまで行くんだな。

変わってるのはぼくではなくて千鳥だが、変人較べをしていても仕方がないので、めんどくさいが、だんだん本題のほうに向かうと、行ってみてきたのならば千鳥も知っているはずで、アルタミラもラスコーも閉鎖になって、現物が見られなくなったいまではただひとつ見られる現実の洞窟のなかへ入っていくと、酸化鉄で描かれた手のひらと、ディスク、無数に描かれた円盤がある。

巨大源氏パイを頬張りながらシトロンのC5を運転して辿り着いたぼくも、バスをのりついで、なんだかここはすごい田舎だなあーと思いながら洞窟へやってきた千鳥も、等しく感銘をうけたのは、人間の抑えがたい「表現欲」とでもいうべき欲望だった。

このあいだ日本語の世界の歴史についての本を読んでいたら、おもいもかけずラスコーの壁画についての記述があって、「どこに行けば効率よく狩りができるかという伝達のためだった」と書いてあって椅子からずり落ちかけたが、そうではなくて、狩りの成功を祈る呪術的な意味あいだったという一般に行われている記述もほんとうとはおもえなくて、現実に洞窟画を目の当たりにしてみると、真相は、
ただ表現したかったから描いたのだ、という実感が起きてくる。

表現したい、という情動のベクトルがすべてで、なにを、や、どんなふうに、は二の次だったのではないだろうか。
あの「ディスク」を一種の方向を示した標識なのだと解釈する研究者もいて、本だけ読んでいるともっともらしいが、現実には、標識ならば、なんでこんなところにもあるの?ということもあって、自分では、どうしても「ただ表現したかったから」説に傾く。

何度かこのブログでも書いたように、戦争が終わったあと、エズラ・パウンドは70年代に及ぶ長い沈黙のなかで生活した。
かつてはあれほど饒舌で、しかも話術に巧みで、ファシストたちのためにイタリア人よりも巧みな表現のイタリア語を駆使して、弁じ続けたアメリカの詩人は、戦争が終わると、ぴたりと何も言わなくなってしまった。

30年に及んだ長い沈黙のあと、エズラ・パウンドは「なぜ沈黙していたのか?」と訪ねるインタビュアーのひとりに答えて
「人間の言葉は伝達には向かないからだ」と述べている。

これも前に書いたが、このパウンドの言葉はほぼ自動的に、同じように言語の伝達機能に懐疑的だったW.H.Audenを思い起こさせる。

言語に興味がある人が、まず初めに学習することは言葉にはふたつの異なる属性があって、ひとつは論理のレゴと言いたくなるような、論理的なベクトルの部分で、この属性が極端に出ているのは、むろん数式です。

数学者には全裸の美男美女のカップルも不完全な「2」にしか見えない、というのは有名な冗談だが、情緒を削ぎ落として、論理構築としての道具としての言語の解析は、たとえばエロ爺バートランド・ラッセルの全集でも読めば、あますところなく解説されている。

一方では言葉には、「死者のおもい」が堆積されていて、例えば外国語として日本語を学習する者の目には、どんなに日本人たちが半島人たちを侮蔑し、軽蔑の念を執念深いやりかたで述べ続けても、「朝鮮」という言葉自体が持つ日本語としての輝きに、日本人が過去の歴史を通じてもちつづけた、半島人の優雅や、美術的感覚の洗練への、抑えがたい羨望を透かしみることができて、なんとなく微笑ませられる。
百済観音の優美な表情を仰ぎ見て、半島の、自分達よりも遙かに進んだ文明に憧れる日本人たちの姿が「朝鮮」という、ふたつの文字にはこもっている。

あるいは、もう、どうだっていいのさ、とつぶやくとき、
その音や平仄には意味を遙かに越えて、過去の時間のなかで絶望して死んでいった人の感情が表出されて、生きて目の前に居る人の口を借りて、死者が語りかけてくるような気持ちに囚われる。

伝達を「水平な言葉」と呼ぶとすると、ただ自分の自己の暗闇のなかへ螺旋階段をおりてゆく「垂直な言葉」が存在して、洞窟のディスクを思い出すまでもなく、言語の本来の機能は、伝達よりも自閉であるという気がする。
庵を閉じて、暗闇のなかに歩みいって、じっと、畳が浮いてくるような感覚の揺れが感じられるまで、考えに考えぬくことには、あきらかに言語の始原的な機能に触れる喜びがある。

ぼくが伝達を機能とする言語をたいして信用しないのは、数学をバックグラウンドとしているからなのは、自分では、あんまり考えてみる必要がないくらい自明なことで、物理が嫌いで数学が大好きだった若いときの嗜好を考えれば、数学の言語としての明晰に快感を感じていたのは明らかであると思う。
物理学などは世界の物理的な運動を説明するという余計なことを数学を道具として使うというヘンテコな学問で、そんな目的に使役される数学は気の毒であるといつも思っていた。

数学のような美しい言語を、そういう下品な理由に使われるのは嫌だなあ、という気持ちがあったのだと思います。

自然言語も同じで、人間と人間が言葉で通じ合うことが出来ないのは、自分の普段の生活を観察すれば自明どころではなくて、相手が知らないことを言葉で解説するということはまったくの不可能で、せいぜい、同じようなことを自分の精神の井戸のなかで掘り下げていっているもの同士が出会って、ああ、この人は自分が昨日井戸のなかで見た、あの映像のことを話しているのだな、とおぼろげに重ねてみているにすぎない。

つまり、すでに垂直に掘り下げた思惟と思惟を照応させることは出来なくはなくても「伝達」というほどのことには及びもなくて、このあいだからまた考えているのだけども、言語で人間と人間が考えていることを伝達するというのは、まったくの虚妄ではないだろうか?

言い方を変えると、言語には照応の機能はあっても伝達の機能は備わっていないのではないか?

それがもっかの疑問で、疑問を再訪するたびに、ぼくの「存在の寂しさの盟友」である千鳥が、何時間もバスに揺られてたどりついた、あの洞窟の、まるで声そのものであるかのような酸化鉄の手のひらや、「ディスク」が、頭のなかに蘇ってくるのです。

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サバイバル講座3

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夏の、突然涼しくなった夕暮れ、有栖川公園を、ひとりの若者が歩いてた。
肩幅が狭くて、なんだか真横からみたら見えなくなってしまいそうなくらい、薄い、頼りない胸板で、少し躓くような、よく見ると自分の自意識に躓いてしまっている、とでもいうような、ぎくしゃくした、不思議な歩き方で、図書館をでて、暗い色の緑のなかを、地下鉄の駅のほうに歩いてゆく。

思い返すたびに、あれはきみだったんじゃないかと思うんだよ。

年齢を数えてみれば、あの青年は21、2歳の年格好で、いまきみはたしか21歳で、公園に立って、きみの姿を眺めていたのは10年も前なのだから、どんな酔っ払いが数えても勘定があわないが、人間の出会いは常に不思議なものだから、時の神様が、いたずら心を起こして、ほんのちょっと時間の表面に皺をつくって、10年前のぼくに、現在のきみを見せてくれたのかもしれない。

若い人間にとっては世界は巨大な壁に似ている。
しかも思いがけないときにあらわれる不可視の壁で、水木しげるが「ぬりかべ」という愉快な妖怪について書いていたが、道を歩いていると、どおおーんと突然あらわれて、回り込んで、避けていこうとしても、どこまでもどこまでも
続いている。

ぬりかべは、むかしは実際に存在していたらしくて、ぼくの日本語の先生である義理叔父の祖母にあたる人は、敗戦後、鹿児島と熊本の県境の山を、夜更け、買い出しの帰りに、その頃は日本中の買い出し道に現れたという若い女を強姦する目的の男たちへの対策として、わざと長い髪を濡らし、おばけのような姿で、歩いていたら、突然目の前にかすかに続いていた道がなくなって、どんっと壁にぶつかった。

疎開していた先の親戚の言葉を思い出して「ぬりかべさん、ぬりかべさん、どうか通してください。わたしは、このたべものを朝までに歩いて家に持って帰られなければならないのです」と一心にお願いしたら、かべがすっとなくなって、ああよかった、と思った耳に、「今日から悪い男たちのことは心配しなくてもよい」と幽かな声が聞こえたそうでした。

人間の世の中のほうの「ぬりかべ」は、そんなにやさしい気持ちを持っていなくて、ただ壁で、世界中の若い人間は、蹴っても、頭をぶつけても、肩から体当たりをしてみても、
びくともしない壁に阻まれて途方にくれる。

見たこともない、巨大な、絶対的な拒絶で、問いかけても、考えても、拒絶の理由さえ教えてくれない壁は、しかし、ほんとうは誰でも経験するものなのだということが、この記事を書いた理由なのね。

誰でも、と書いたけれども、100人の人間がいて、100人が、という意味ではなくて、真剣に、例の自分というパートナー、最良の友達を幸福にしようと考えて生きてきた人だけが「誰でも」に含まれる。

ほら、いまはどうしているか判らないが、マサキという風変わりな大学生がいたでしょう?

空をみあげる若い人への手紙
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/15/letter5/

ときどき、びっくりするようなケーハクなことをいうが、一方では、年長のぼくが聴いていて、そうか世の中にはそんな気持ちが存在しうるのかと考えるような情緒に立った言葉を述べて、そのまま小さな沈黙を抱えて渓谷にわけいってしまう。

あれはきっと、ついさっきも

「町田で日雇いバイトの登録を済ませ、受験期によく食べていたまずいラーメンを食べ、帰って地元のコンビニに寄ったら、泣き叫んでいる中年女性が万引き常習犯のかどでつまみ出されていた」

と述べた、泣き叫んでいる万引き常習犯の中年女性を、路傍の、石になったように見ているきみとおなじことで、神様がつくった沈黙の影がさして、その影の下で、言葉が凍り付いた一瞬を経験したいのだと思います。

拒絶をおそれてはいけない、という単純なことを書こうとおもったのに、なんだか妙な寄り道になってしまった。

あるいは、もう少し親切ごかして言葉を注ぎ足した言い方をすれば、
正しい道を歩いていれば壁に必ず手痛くぶつかるのだから、ああ、あれかと思って立ち止まれ、ということを言おうと思っていた。

ハシゴをかけてみたり、東へずっと歩いて壁を端から回り込もうとしてみたり、おおそうか、こういうものは人間性の低さを掘り下げて、トンネルを下に掘って通過すればいいのだなと考えて、懸命に下品になってみたりしても、壁は上下左右、どこまでも続いていて、どうすることも出来ない。

議論する、という方法はあるよね。
友達に恵まれていれば、あるいは、そういう場所を常に与えられていれば、議論を積み重ねていくことによって、自分でも予期しなかった高みに言葉がつれていってくれて、その高みからは、壁が足下に見えて愕然とする、という幸福な体験を持つ人もいる。

でも残念ながら、そんな止揚の言葉を持っているのは、例えば大陸欧州の、週末にはパブすら開いていない大学町で、他にすることがないので、欧州や中東や東欧から集まってきた学生達が議論ばかりを娯楽にしているような土壌でなければ無理で、日本語のような狭く同質な世界では望めない。

100人の人間がいても、ひとつの頑なに等質な孤独が100個、判で捺したように整列してしまうだけで、孤独が百倍になるだけで終わってしまうだろう。

日本語で私小説が発達した、おおもとのおおきな理由は、そういうことで、作家は自分の足下に井戸を掘ってみるしかなかった。
ただもう闇雲に掘り下げて行って、運良く水が湧いてくると、さまざまな所から拾い集めてきた石を組んで、井戸をつくって、満月の夜になると、そっと身を乗り出して、自分の姿を映してみる。

そうして、そこに映った、まだ真実は子供にしか見えない自分の姿に失望したり、悪魔を見て戦いたりして、顔をあげてみると、壁は正当にも消滅している。

そこで、やっと壁は、世界への誤解という、自分自身の姿にしか過ぎなかったのだと思いあたることになる。

ぼくのきみへの自分の一生の説明には虚偽が存在して、「おもいもかけず発明というヘンなもので初めのおおきなオカネの塊を手にした」と述べているが、ほんとうは少し異なっていて、他人が聞いたら大笑いするだろうが、それがいちばん第二段階の投資を始めるためのスタートアップのオカネをつくるには簡単だろうと考えて、意図して、計画した。
そんなバカな計画を持つ人は、自分で考えてもぼく自身以外には存在しなさそうな気がするが、例の「他人にとっては確実なことが自分にとっても確実とは限らない。他人にとってはロトのいちばん当選じみたアホい夢にしかすぎないことが自分にとっては最も堅実な道でないとはいえない」という思い込みにしたがって、発明の努力をして、当時は大学総長だった大叔父の助力で、その考えを大金に変えることができた。

つまり、ぼく自身は世界の約束を頭からシカトすることによって自分の一生をスタートさせたのでした。

余計なことを書くと、この奇妙な自分の将来への提案を考えたきっかけは、ポール・ヴァレリーの有名な逸話で、あの偉大な評論家/詩人は、「姪にポニーを買い与えるために」、ひと夏苛酷に働いてオカネを稼いだと自分で述べている。
この、「ひと夏苛酷に働く」という科白にすっかり参って、ぼくも同じ事を、マネしてやってみたのね。

ひと夏、苛酷に働いて、ぼくは、(下品なので金額は言わないが)普通の人間が輪廻転生を繰り返してやっと稼ぐ、七生涯賃金よりも、さらに一桁異なる金額を、気が付くと手にしていた。

前にも述べたように、こういうことを自分で言ってしまう人間も変わっているが、実家はそもそも富裕な家なので、両親にゴロニャンをすれば、昔からおぼえもめでたいので、同じ金額など、あっさり恩賜になったに決まっているが、親のカネをもらうと人生全体が腐敗するというあんまり論理的とはいえない信仰を持っていたぼくは、そんなのは嫌だった。

でも「労働」なんかするのは、もっといやだった。
時間のムダとしか思えなかった。
従兄弟はガメの自分の一生に対する思想に脆弱点があるとすれば、そこだろう、とニヤニヤするが、脆弱でもなんでも嫌なものは嫌で、嫌なことは些細なことでも頭から受け付けない性格なので、工夫として、投資くらいしか考えられる道はなかったのだと思います。

ぼくの場合は、世界と折り合いをつける初めは、そんなふうだった。

テキトー変心を常とするぼくは、またまた変心して、サバイバル講座をつづけるべ、と気が変わったのだけれど、その準備に、まず自分がどんなふうに、このクソ世の中、いや、失礼、ちょっと言葉が悪すぎるのでオホホ語を選ぶと、人間として個人として生きていくのが難しい世の中を生き延びていくのに、聞かせられているほうは退屈でも、まず初めに、自分がどんなふうに世界と折り合いをつけてきたかを述べて、その手始めに、物理的基礎をなす収入は、もともとはどこから来たかを説明しようと考えた。

きみは「これじゃ、あんまり参考にならないんじゃない?」というに決まっていて、ま、そーなのだけれど、想像力を働かせてくれれば判るが、なにしろぼくは自分の一生以外は知らないんだよ。
だから、参考になってもならなくても、ほかには説明のしようがない。

サバイバル講座であるのに、こんなことを述べているのは、どうやら、ひとりの若い人間が人間として生きていくには自分の人間性を保持しながら収入を確保していくことが存外大切なことだ、と考えるようになったからであるみたい。
自分では、あんまりこの部分で困難に直面しなかったので、ちゃんと考えてみたことがなかった。

オカネの面で世界と折り合いをつけるためには、自分に対して、よく質問を繰り返して、何によって収入を得るのならば幸福が阻害されないのか聞いてみなければ、いかにも、千差万別、人によって異なるので一般化できない。
自分のまわり、年長者や、自分より若い人や、同じくらいの人を見渡すと、研究をしていたのにハリウッド映画のスターになってしまった人や、アカデミアと折り合いをつけて、週10時間(x3)と引き換えに、オカネについて考えることをやめる環境を整えた人、富裕な女の人と結婚して哲学と歴史に明け暮れることになった人、…様々で、この部分だけは、やはり本人が「何を最も楽と感じるか」に依るようです。

世界はだんだん壊れてきて、いままでの文法では未来を見ることは出来なくなってきた。
全体の側にしか視点がもてない人は、次つぎに全体に飲み尽くされて、個々の視点で世界を認識する人間だけが生き残っていくのは、いまはもうほぼ自明で、もともと全体の視点なんてくそくらえ(←言葉わるい)なぼくですら、難儀な時代になったなあーと思っています。

でもね、こーゆーことはあるの。
ぼくはボートやヨットに隙さえあれば乗るが、おおきな船で面白いのは接岸くらいで、冗談みたいに高い波を乗り越えたり、逆に、凪いだ海でイルカたちと遊んだりするには、小さい船のほうが楽しいんだよ。

次第に荒野に似てくる世界では、民族が集住する城塞よりも、天測を重ねながら砂漠を移動する、ノーマッドのほうが「安全」な世界を生きているのだと思います。

次はコミュニケーションを目的として発達しながら、逆に、個と個のコミュニケーションを阻害する壁としての機能を持つに至って、次第に孤独な思考の乗り物に変わっていった、言語について、きみと話をしたいと思っています。

でわ

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インド洋の世界

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旅客機が発達する以前、船が大陸間をつないでいた頃は、インド洋は「危険な海」で有名で、三角波が多いとか、暴風の日が多いという理由かといえば、反対で、あまりにベタ凪の日が続くので、乗客が倦んで、船から投身して自殺してしまう人の数が多いので有名だった。

あるいはインド洋の海底は、伝説のアトランティスそのまま、海に沈んだ大陸が初めて科学の力で発見されて、モーリシャスの最も古くても900万年前でしかない地層に、そっとくるまれるように見つかった30億年前のジルコン(ZrSiO4)塊の謎が解明されて、インド洋があるところには、大昔には大陸があったのだということがいまでは判っている。

日本との関連でいえば、太平洋戦争初期、まるでさすらいの盗賊団の趣があった大日本帝国海軍機動艦隊は、スリランカのコロンボまで遙々でかけて空襲して、このときマジメに作戦されたらイギリス東洋艦隊はいきなり壊滅だったが、南雲忠一らしく、「やりました」というだけの中途半端な攻撃で終わってしまったので、イギリス側は、「なんのこっちゃ」と思いながらも、胸をなでおろすことになった。

閑話休題

ぼくの部屋、というか投資部屋の壁には世界地図があって、というよりも世界地図が映し出されているでっかいスクリーンが二枚あって、ひとつは伝統的なユーラシア大陸と北米大陸が爪先立ちでのびあがって、塀ごしにキスしてるような、例のあの地図で、もうひとつは、インド洋がちょうどまんなかにあって、左端が西アフリカ、右端にニュージーランドがやっとひっかかっているくらいの位置関係の地図です。

この地図によれば主役はインド洋に面している諸国で、インド、インドネシア、イエメン、イラン、サウディアラビア、ソマリア、オーストラリア….というような国が並んでいる。

もうひとつ簡単に気が付くのは東南アジアで中国がやっていることは何か?ということで、タイランドに浸透しようとしていたり、メコン川を支配しようと努力していたり、要するにナチ・ドイツがダンチヒ廻廊を取り戻して北海へのアクセスを確保しようとしていたようにインド洋へのマラッカ海峡を経由しないですむアクセスが欲しくてたまらないもののようである。
中国が無理矢理な強引さでSpratly Islandsに要塞と飛行場を建設しているのは、インド洋への直截アクセス戦略の展開が芳しくないので、ここに軍事根拠地を建設して、日本で言う「シーレーン」を確保しようということでしょう。

大西洋から始まった近代経済世界は太平洋に焦点が移行して、いまはほとんどの投資家はインド洋を中心にした経済世界に視点が移行している。

地図をじっと眺めていてわかるのは、インド洋世界は、太平洋世界と異なって、特にわかりやすいものを挙げれば例えば石油において資源的に自足している。
金融をみるとシンガポールが中心に座っていて、今日の世界では無視できないムスリム圏の、宗教規律のせいで西洋の概念とはまったく異なる概念のムスリム金融が急速に発達している。

そして、このブログに何度も繰り返し書いたように2050年を越えて、まだ世界が存続できるかどうかの、最もおおきな鍵を握っているアフリカ大陸がある。
いまソマリアやイエメンで起こっていることは、チョー荒っぽいいいかたをすれば日本の戦国時代と同じで、現実には、社会の人口と生産性が高まって、社会内部の成長圧力が強まった社会がおおかれ少なかれ経験する動乱期であると見ることが出来るとおもいます。

中東もおなじで、こっちは別稿を設けて、そのうちに書くとして、「パルミラの破壊なんて、野蛮でお下品な」みたいなことをマスメディアは述べるが、日本で言えば、
日本の古城破壊や廃仏毀釈や鎮守の森破壊は、規模だけから言っても比較にならないものすごさで、単に「お上がやることは仕方がない」国民性が南方熊楠を数少ない例外として記録させなかっただけで、読んでいるとISISなんてうぶいじゃん、と呟きたくなるくらいの酷さだった。

アフリカ、それも西洋に馴染みの深い北アフリカとヌビアンのアフリカだけでなくて、バンツー族が浸透していった「真アフリカ」と呼びたくなるアフリカの興隆はケニヤのIT産業くらいを皮切りに、進み始めている。

自足しているのと、世界の三大宗教がバランスされているのとで、インド洋世界は、最もおおきな可能性を秘めている。
問題は政治の安定ということになっているが、考えてみると、さっきの例でいえば結局は日本全体の生産性が飛躍する淵源になった戦国時代にしても、イギリスやフランスが介入していれば、メチャクチャなことになって、当の日本は搾り滓にされて、ただ日本人同士の憎悪のなかに置き去りにされていたはずで、あれやこれや、
いろいろな例を見ていくと、「要するに欧州とアメリカが余計な口出しをしなければいいだけなんじゃないの?」と言いたくなってくる。

投資家というのは儲かってしまったあとでは、ヒマをこいて、いろいろなことを述べ始めて、甚だしきに至っては「投資哲学」とか口走りはじめるが、要するにもうかりゃいいのよで出だしをはじめる種族なので、暢気でマヌケな種族であるマスメディアや政府人よりも世界を冷静に眺めている。
読みがええかげんだと、口座からぞろっとオカネがなくなって、二回くらい読み損なうと投資タイプによってはおとーさんになってしまうので、よっぽどのバカでもなければ新聞記事を丸呑みに信じたりしません。
陰謀説おっちゃんたちに耳を貸しているヒマもない。

では何をやっているかというと、データデータデーターあああの毎日で、例えばわしならば「ねえええーニュージーランド観光にくれば?ね?ね?航空券代も全部こっちで出すし、わしゲストハウスに泊まりなさい」と人をだまくらかしてニュージーランドに来させて、生の声を聞くためのインタビューを繰り返すことを別にすれば、データを眺めて、そこから現実を読み取っていきます。

その結果、現今、投資家たちがなにをやっているかといえば、北朝鮮とのパイプを強くして、シンガポールに移住して中国圏と英語圏の接点で両岸を眺めて、あるいはイランのひとびととのネットワークを作ったりしている。

その結果できあがった世界地図を眺めようとおもうと、インド洋のまんなかくらいを地図の中心にして、世界の未来を眺めることになって、ここまで読んできて勘がいい人は判るとおもうが、
例えば2050年の「インド洋がまんなかにある世界」を考えると、なんと、なああああーんと、ヨーロッパも北アメリカもいらないのよ。
邪魔っけなだけです。
向こう行け、しっしっ、です。

多分イランの宗教勢力が倒れて、「イスラムよりもペルシャ」の伝統にイランが帰るとき、インド洋世界は大興隆時代に入るとおもわれるが、もういまの時点でも実はインド洋世界に属する諸地域がすくすくと伸びて、大西洋と太平洋の二世界がさまざまな齟齬を来しだしているのは毎日のニュースを観ていても一目瞭然であるとおもわれる。

ときどき、ちびちび酒をのみながら、グーグルマップの中心をインド洋にあわせて、じっと世界の様子におもいを巡らすことは、きみの一生をおおいに助けることになると思っています。

ほら、地球が、世界が、違ってみえてくるでしょう?
なんだか意味不明な文脈で世界が変化していくように見えるのは、太平洋をまんなかにした、きみの思考のせいなんだよ。
世界を捉える文脈が間違っているのだとおもう。

視点は、なにも観念のなかにだけあるわけじゃない。
物理的な地図のなかにも眠っているのね。

人間が現在だと思っているものは、たいてい過去が夢見た未来であるにしかすぎないという。
いまの要点を欠いた、調子っぱずれの「西」世界を見ていると、
ほんまだよなあーとマヌケな感想を持ちます。

古い地図で、新しい航海に乗り出すわけにはいかないんだよね、きっと。

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若い友達への手紙4

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金曜日なので田舎へ遊びに行こう、と誘うと、
ガメのくるまは床の穴から道路が見えていて怖いから嫌だ、とわがままなことを言う。
いや、あのクルマはギアチェンジシフトのスティックがすっぽ抜ける癖がついて危なくなったので、新しいクルマに変えたから大丈夫、と言いかけて、今度のクルマは助手席側のドアが取れてなくなっていて、色違いではあるが新品同様のドアが手に入るのは来週で、いまはまだ「透明ドア」のままなことを思い出して、口をつぐみます。

ぼくは20歳だった。
ダッシュボードがあるだけ美品であるとおもうが、その女の人はオカネモチの娘なので、中古車のsubtleな美が理解できるともおもえない。

親にねだれば、いくらでもオカネを振り込んでくれて、明日からでもひとりで高級アパートに住めるのでは、ビンボもいんちきであると言わねばならないが、たとえば上に書いた元わしガールフレンドは黒の、ちょーカッコイイ、ベントレーのヴィンテージスポーツカーに乗っていたが、日本円で計算しなおせば一億円を軽く超えるああいうクルマに乗って、いいとしこいてもいないのに、夜毎、赤いカーペットとシャンデリアのある高い天井の下を歩いて過ごすような生活は正しくないように感じられていた。

「正しくない」はヘンだし、言葉としてカッコワルイが、その頃の自分の感情を表現するのには、いちばんしっくりくるような気がする。

ロンドンにいればイーストエンドの、隣のテーブルで中東人たちがファラージュやトランプが聞きつけたら大喜びしそうな談合にふけっているレバニーズカフェで、ファラフェルを食べていたり、マンハッタンならば、いまはもう閉まってしまった、ビレッジの英語なんか金輪際通じないラティノ人たちの定食屋に入り浸っていたりした。
きみは「定食屋に『入り浸る』って表現としておかしくない?」というかもしれないが、あの店にはバー、日本語でいうカウンターがあって、そこで赤豆がいいか黒豆がいいか悩んでいると、隣に腰掛けたおばちゃんが、「あんた絶対赤豆よ。黒豆なんて、ろくな人間の食べ物じゃないわよ」と話しかけてきて、それを聞きつけたおっちゃんが「なんちゅうことを言うんだ、ばーさん。ここの黒豆スープは世界一だぞ。」と述べにきて、「ばーさんて、なによ、この洟垂れ小僧」と言い返して、言葉だけ聞いているとすごいが、みなニコニコしていて、カウンターの向こうでは店主のおっちゃんがニヤニヤしながら見ている。
客は昼ご飯に来ているというのは口実で、話しかけやすそうな人間を見つけては、ダベって、午後のひとときを過ごしにくる。

ドレスダウン、という。
スピードダウンとは異なって、ちゃんとした、というか、ちゃんとした、は変か、普通に使う英語です。

冬空の下でも、Tシャツにジーンズで、お尻のポケットにはぐっちゃぐちゃなベーオウルフのペーパーバック版が突っ込まれていて、スケボーを抱えて雑踏のなかを歩いていた、20歳で、途方もなくバカタレな自分のことを思い出す。
なつかしい、という見苦しい要素が混入してきたのは、それだけ歳をとってきた、ということでしょう。

冬の低い空が好きで、鈍色の空の下で、通りを歩きながら、金融バブルでにぎわう街の、角角におかれた不幸の暗示であるかのような、ホームレスの人々や、よく見ると何日も着古した服の、顔まで少しよごれたティーンエイジャーの女の子たちをスポットして、「あそこに社会の実相へのドアが開いている」と若い人間らしい考えをもったりしていた。

その頃はまだ、日本語が子供のとき日本にいた頃の言語能力の続きみたいで、ちゃんと判っていなかったから、岩田宏の「神田神保町」を読んでも、意味が判るだけで、岩田宏というひとの、出口という出口を自分の日本的心性に満ちたすぐれた知性で塗り固めてしまったような、やりきれない閉塞と哀しみを理解してはいなかった。

自分のブログ記事を引用するのも変な人だが、めんどうなので(ごみん)
自分で書いた記事の引用を引用する横着をすると、

****************

「神保町の 交差点の北五百メートル
五十二段の階段を
二十五才の失業者が
思い出の重みにひかれて
ゆるゆる降りて行く
風はタバコの火の粉をとばし
いちどきにオーバーの襟を焼く
風や恋の思い出に目がくらみ
手をひろげて失業者はつぶやく
ここ 九段まで見えるこの石段で
魔法を待ちわび 魔法はこわれた
あのひとはこなごなにころげおち
街いっぱいに散らばったかけらを調べに
おれは降りて行く」

という出だしで「神田神保町」は始まるが、自分で記録したとおり、そのとおりの姿勢で
岩田宏は
「街いっぱいに散らばったかけらを調べに」
出ていった。
60年代の政治の季節のなかに。
巨大な鉄鋼の歯車に挟まれるようにして、たくさんの若い女や男が血を流している街のなかに。

「とんびも知らない雲だらけの空から
ボーナスみたいにすくない陽の光が
ぼろぼろこぼれてふりかかる」

「神保町の
交差点のたそがれに
頸までおぼれて
二十五才の若い失業者の
目がおもむろに見えなくなる
やさしい人はおしなべてうつむき
信じる人は魔法使いのさびしい目つき」

「おれはこの街をこわしたいと思い
こわれたのはあのひとの心だった
あのひとのからだを抱きしめて
この街を抱きしめたつもりだった」

さっき、この詩を思い出していたのは、チョー散文的な理由で、日本の人のひとりひとりの実質的な収入が1960年代に戻ってしまったようだ、と日銀の統計ページを見ていて、思ったからなんだよ。

国はまだ先進国なのかもしれないが、日本人に生まれたきみのふところは、どう考えて、どんな角度からみても、ビンボ国の若者の財布の薄さになってしまった。

この頃は、英語世界にも、先行世代が築いた富をただただ取り崩して借金を積み上げてゆくだけの、いまの日本の信じがたいほどのダメっぷりは、年長世代の、主に男達の「考え方」に起因していて、労働の実質よりも労働時間の長さを尊び、現実を直視せず、他人の言うことに耳を傾けるどころか、ちょっとでも自分達の社会を変える善意志を持たないなまけぶりがバレそうな方向の言葉を耳にすると狂人の集団のように群がって中傷誹謗を繰り返して相手が沈没するまで攻撃する、というような内情がばれて、さっきも日本の男達の時代遅れなダメッぷりについて書いた英語新聞記事を紹介したツイートをした人がいて、読んで見て、まあ、繰り返しというか、日本の当の男達だけが呪文ような決まり文句を唱えて認めないだけで、誇張でなくて世界中の人が繰り返し述べていることがまた書かれているだけだったが、読んでるほうは、もう飽きたというか、いくら言ってもムダでっせ、な気持ちしか起こらなくなっている。
なにしろ日本語世界では、トロルでしかないおっさんたちがマジョリティで、たいていは外国で生活しているらしい、まともなことを述べる人々は絶対少数派なのは、どんな人が見ても明らかです。

では日本に残る選択肢はないかというかというと、選択肢としてはバカまるだしで救いがないほど愚かだが、このあいだもきみに述べたように、仮に自分が日本に生まれた日本人だとして、想像力を逞しくしてみると、どうも日本にいることを選ぶような気がする。

数寄屋橋公園ですら、茂みにシンチレーターをかざすと、ぎょっとするような数値だという。
軽井沢は、どうやら東と南の、いつもの霧の進入路とおなじ経路で放射能雲が進入したとかで、ぼくがよく散歩した森がある追分などは、ホットスポットと呼んでいいくらいであるらしい。
「それなのに、近所のフランス料理屋はきのこ祭りといって、地元のきのこをふんだんに使った料理を出してるんだよ」と軽井沢の友達から憂鬱げなeメールが届いたのは、去年の9月だったろうか。

自分の現実世界での履歴から考えて、日本のサラリーマンとーちゃんの家に生まれて、郊外のベッドタウンで育っていれば、多分、案外、社会のその他おおぜいの兵隊生活に放り込まれたら死んでしまうと考えて、あるいは話が通じる友達と会えることを期待して、一生懸命勉強して、トーダイなり、試験が難しい大学に入っているのではなかろうか。

ガメは相変わらずヘンなことを言うね、と思うかも知れないが、数学と物理が得意で、英語が苦手な、国語は縦に書いてあるから嫌いじゃ、と述べるストロングスタイルの受験生になっていたかもしれない。
義理叔父や例のトーダイおじさんたちから、東京大学の入試は真冬のクソ寒い日に会場からおんだされて、二時間くらいも寒空の下で難民みたいに、凍えながら午後の試験の開始を待つんだよと聞いて、大笑いしてしまったことがあったが、ぼくは自分の性格のゲーマー部分を発揮して、要領もよく、暖かいカフェで昼ご飯を食べて、「午後もがんばるどおおおー」とノーテンキなことを述べるいやな受験生だっただろう。

修士までやって、就職して、やってられんと考えて、会社をやめて、テキトーに役所かなんかでバイトをしているのではなかろーか。
ときどきアパッチサーバーをつくって、余剰の収入を得たりしながら、めざせ年収400万円で、高田馬場の、小さなアパートで、明日はどの定食屋に行くべきか研究していそうな気がする。

それからぼくは旅にでる。
留学や移住じゃないんだよ。
高田馬場の見るからにインチキな航空券屋のカウンタで買った、一枚の、スターアライアンスの世界一周チケットを握りしめて、ふところの500ドルと、からきしダメな英語と、銀行口座の、外国にでかけてしまえば引き出せるかどうか覚束ない30万円だけを頼みに、とりあえず、なんだか正体が判らなくて怪しげな、背がめだって高くて綺麗な奥さんがいるらしいヘンテコな外国人の書いたブログ(しかも日本語)を信じてしまったことを半ば後悔しながら、ボーイング777のいちばん後のトイレの臭いが漂うエコノミークラスで、「どうしていいか判らなければ、とにかくスマイルじゃ。スマイルしまくっておればどうにかなる」という、あのガメ・オベールとかいう、ゲームオーバーな、ふざけた名前のブログ人の言うことを思い出して、ぎくしゃくした不自然な微笑いをうかべながら、コーヒーを頼むのに慌てて「アイムブラック!」と叫んで周囲の爆笑を買っているかもしれない。

先進国は大都市にかぎって、日本料理屋や日本食材店でバイトをして、ベトナムやマレーシアやタイの田舎を巡って、アフリカの町や、南米の湖を見て歩くだろう。

そうしているうちに、ビンボは若いときにはたいへんではなくて、歳をとってしまったときの生活の展望が持てないからたいへんなだけだという単純な現実に気が付くのに違いない。

天然全体主義を制度的な全体主義に変えようとして必死な安倍政権や、国を覆う勢いの放射性物資ですら、自分にとってはたいした問題ではなくて、自分を幸福にすることだけが自分の焦眉の問題なのだと、世界を見て歩いたあとに実感しない人間はいないだろう。

旅は人間に「明日」を与える。

The Motorcycle Diaries

http://www.imdb.com/title/tt0318462/

を見ると、若いゲバラが、南米を初めて理解してゆく様子がよく判るが、日本語という架空な現実と書き割りに囲まれた社会で育ったきみが、だんだん自分が「外国」や「世界」という名前で呼んでいたものこそが「現実」だったのだと、特に理屈立てて言われなくても判ってくるに違いない。

ガメ、それで、世界を1年かけて一周して、帰ってからどうすればいいって言うんだい?
ときみは聞くかもしれないが、
なにもしなくていいんだよ。
また同じバイトで、その日暮らしで、ホームレスになって、乞食になったって、別にいいじゃない。

ぼくは、ぼく自身が考えたこともなかっただけでなくて、友達も、妹も、両親ですらぶっくらこいてしまったことには、意外にも結婚して、あまつさえ冨まで形成したうえに小さなひとびとが走りまわるようになって、美しい人と幸福な家庭をつくって、なんだか冗談みたいというか、これがほんまにおいらの暮らしかという生活をしているが、本来は、ポケットにしわくちゃの20ドル札を一枚だけ突っ込んで、ヒースが広がる丘の上に腰掛けて、古本屋で買った、もう誰も振り返りもしなくなった作家の本を読んでいるはずだった。

日本でも、先週サイトで見たチョーおいしそうなトンコツラーメン目指して時給1200円で労働したり、正面から話してみたが止めさせてくれそうもないので、ぶっちして、来週は四国のお遍路道を歩いてまわってみようと画策したり、
生産性が低いどころか、ゼロの一生を歩いているだろう。

日本の社会となるべく関わりあいをもたずに、ひとりで、見届けたいものを見届けて、聴き取りにくい声に耳を傾けて採集して、なにも言わずに、なにも書き残さずに、野良猫がふっといなくなって死んでしまうように死ぬだろう。

さよならも言わずに

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