ルール主義

copenhagenという動詞がある。
宣戦布告なしに敵国の港湾を急襲して艦隊を攻撃するという意味で、用例をみると、辞書には、たいてい to copenhagen a fleet と書いてあります。

ナポレオン戦争中の1807年10月21日、イギリス艦隊は、自国の船の北海の航行を保全するために騙し討ちにコペンハーゲンを急襲して、町を砲撃しデンマーク=ノルウェーの連合艦隊を破壊・拿捕して無力化してしまう。

1803年から1815年まで続くナポレオン戦争で起こった海戦のなかでも重要な海戦のひとつで、当時はもちろん、いまでも、世界中、海軍士官なら誰でも知っている戦いです。

太平洋戦争の歴史のなかでも最も奇異なのは開戦劈頭の真珠湾攻撃で、子供のときに初めて読んで、違和感があるというか、なんだかとても奇妙な気がしたのは、日本の海軍と政府がオアフ島奇襲前の宣戦布告に異様なこだわりをもつところで、後年、日本語で日本側の記録を読むようになると、その訝る気持は、ますます強くなっていった。

イギリスという欧州の田舎に育った子供として、当然、普段ミニチュアの軍隊を並べて模擬戦を戦わせたり、部屋のカウチに寝転んで午後のあいだじゅうビスケットをかじりながら夢中になって読み耽ったりするのは欧州の戦争史だったわけで、その頃は、日本の戦争は、遠くで起こった、植民地保全のための植民地軍を主体とした英国の戦いの敵国が太平洋で起こした戦争で、子供の単純な頭なのであたりまえだが、太平洋アジア戦域の戦争であるといっても、読んでいるほうは、欧州の戦争の文法で戦争を俯瞰していた。

それでも例えば、日本海軍が日露戦争時に旅順港とロシア艦隊をcopenhagenして勝利を収めたことは知っていました。

一般に、開戦にあたって海軍が他国の根拠地港を攻撃するときには宣戦布告をしないほうが普通で、これには陸の要塞砲と艦隊の砲撃戦では、ほぼまったく艦隊側には勝ち目がない、というおおきな軍事的な理由がある。
相手が、よっぽどダメな軍隊で、いっちょう恫喝してビンタはっちゃるか、というような気分で、いわば「オラオラ戦争」を仕掛けるときには、宣戦布告をして、我が国の威風堂々、天に代わりて正義をなす、このスポットライトを浴びた我が国のかっこよさを見てね、というつもりがある場合には、サッチャー首相がやったように、宣戦を布告しておいて、えっちらおっちら艦隊を移動させて、パンパカパーン、世界の注視のなかでフォークランド諸島を攻撃するというようなことはあるけれども、それは政治的なショーとしての戦争の演出であって、国運を賭けた、いちかばちかの戦いで宣戦布告をするようなバカな海軍はない。

だいいち子供のときに、いちばん「日本人のヘンテコさ」として意識されたのは、例えばパールハーバーに最初の魚雷が投下される一瞬の、30分前に宣戦布告書が交付されれば正義正統の開戦を主張できると考えていたようなところが日本側にあることで、近代の戦争の常識に照合して、そんな子供の屁理屈みたいというか、
すんごい早口で「ぼく、これからブツからね!」と言いおわりざま、間隙をおかず相手の子供のほっぺたをひっぱたくような宣戦布告では、ものごとには実質というものがあるわけで、どっちでも、狡いのはおんなじこっちゃ、などと考えて不思議な気持になったのをおぼえている。

日本の本には、魚雷の浅深度での暴発を防ぐために装着させた魚雷の姿勢を安定させるための安定装置を、なあーんとなく、真珠湾攻撃のために開発された日本の技術であるように書いてあるものが多いが、空母加賀が取りにいって、艦隊停泊地に急行して、真珠湾攻撃に間に合うように配ったあの安定装置は、超低空を突進して海面すれすれで魚雷を投下する攻撃方法と並んでタラント空襲のためにイギリス海軍が発明した技術だが、そのタラント空襲でも、イギリス海軍はcopenhagenな伝統に則って、攻撃予告をして、「これから、おまえんとこの戦艦をやっちゃるけん、首を洗って待っておれ」というようなことは、いっさいやってません。

内緒内緒内緒で、そおーと、そばによっていって、ソードフィッシュという、駆逐艦のほうが速度が速そうな、超鈍足な複葉(!)雷撃機を、ぷおっと空母から放って、戦艦コンテ・ディ・カブールを撃沈、超弩級戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級を大破、戦艦カイオ・ドゥイリオも座礁着底させてしまう。

でも、それは開戦後の港湾攻撃で宣戦布告とは話が違うんじゃないか、とほっぺを、ぷっとふくらませた、そこのきみ、ところがそれこそが要点で、おなじことなんです。

リメンバー・パールハーバーは、戦意高揚のために、一般に戦史の常識を知らない国民を煽情・憤激させて奮起させるための、いわば電通の広告キャンペーン的なキャッチフレーズであったことを忘れて、海軍ごと憂愁にひたってしまった理由は、ちょっとわかりにくい。

真珠湾攻撃時の日本帝国の宣戦布告書交付への徹底的なこだわりの奇妙さを説明するためには、宣戦布告そのものの定義や歴史を、ここで述べるべきなのかも知れないが、めんどくさいので、やめて、宣戦布告が海戦よりも、よりおおきな意義をもつ陸戦においてさえ、ドイツのポーランド侵攻、やはりドイツのバルバロッサ対ソ連侵略戦争、日中戦争、イタリアのエチオピア侵略(第二次)どれでも宣戦布告などまったくなしで始まったことを書いておくくらいで、ごまかしたい。

吉田茂の第4次内閣は、いまから見ると不思議な理由で提出された内閣不信任決議案が可決されて、吉田茂が衆議院を解散したことによって終焉を迎える。

西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか。
吉田(無礼なことを言うな!)
西村 何が無礼だ!
吉田(無礼じゃないか!)
西村 質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……
吉田(ばかやろう……)
西村 何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。(中略)取り消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」

という、社会党議員西村栄一の、はてな人か往年の2チャンネル人が得意な相手を攻撃する常套手段そのままのやりとりに吉田茂がひっかかってしまう。

まず失礼なことを相手に言う。ただし、言質にとられるような単語を避けます。
相手がいちばん怒りそうなことを述べる。
相手が日本語社会では過敏に忌避される言葉、ここではバカヤローと小さくつぶやくことを、おおきく採り上げて、相手が失礼であると騒ぎ立てる。

最近、日本語ツイッタではアカウントが凍結される例が多いようだが、いずれも、相手のこの手にひっかかって、無用な世故に長けた品性が卑しい側が、品性がしっかりしている側が凍結になってしまう例が多いのは、この日本社会の、かつて筒井康隆によって言葉狩りと命名されたような、この「喧嘩単語忌避症」によっている。

ははは。
真珠湾攻撃時の宣戦布告と、バカヤロー解散と、日本語ネットの議論ルールに何の関係があるんだよ、わけがわからない、とつぶやいたきみ、このみっつとも、同じ日本語人の思考の特殊性に基づいている、いわば、おなじことであるのが見えませんか?

10年間、日本語と付き合ってみて、よく判ったのは、「日本語世界では実質よりもルールや型のほうが大事である」ということでした。

侮辱的なことをさんざん述べて、嘲って、相手を言葉によって嬲り続けて踏みつけにするようなことを面と向かってやれば、英語社会では殴られる。
「暴力は絶対にいけない」という社会のルールはおなじだが、英語社会では、なぜか初めの一発は不問に付されてしまう。
倒れた相手を蹴りつけたりすれば、そこから先が暴力として意識される範疇で、屁理屈と正義の区別がつかない傾向が色濃くあるアメリカ人でもなければ、ま、たいていの場合、すぐそばにおまわりさんがいても、それ以上カッカしないように止めに入るくらいで終わってしまう。
暴力というよりも相手への失礼に対するconsequence だと強く意識されるからでしょう。

日本なら、どうなるか、警察が呼ばれ、「おまわりさん、このひと、ぼくをぶった!」になって、留置場行きではないか。
すくなくとも暴力をふるった側が絶対に悪いといわれて、人間ごと永久アカウント凍結になってしまうかもしれません。

以前、日本語には語彙としてintegrityが存在しないことの不思議さについて、ツイッタのTLで皆で話していたころ、淵源をたどって歴史を遡っていったら、戦前の日本では学校ですら「日本人は、アジア人や西洋人よりも人間としてすぐれているので、アジアにおける仁や、西洋における善のような考えをもつ必要がないのだ」と普通に述べていたことを知って、ぶっくらこいてしまった。

なんじゃ、これは、とおもって、だんだん遡ると、どうやら本居宣長くらいが淵源のようでした。

日本語の議論にはコンテキストやお互いにゴールと意識されているテーマへの軌道修正というものがなくて、ただただ、いろいろに、多くの場合は相手の感情を傷つけることによって失策をひきだそうとする言葉をぶつけあって、さまざまな分野にまたがってリスト化されている社会的な禁忌語をひきだそうとする。

相手が、「このクズ野郎」とでも言ってくれれば、おおよろこびで、これで俺の勝ちだ、とばかりにツイッタ事務局にいいつけて、まとめサイトに自分に都合良く編集した発言を並べて、「ぼく、被害者ですー。このひとが、こんな酷いことを言ったんですー」と言って議論全体をバカヤロー解散に導く。

そこに根本から欠けているものこそ、いまの日本社会の、例えば最近の韓国との関係にみられる、日本人だけに通用する憤慨を支えているもの、社会と言語の中心の、思考の中心となるべき場所に、ぽっかり空いているおおきな空虚で、まるでブレーキが壊れたクルマのような最近の日本社会の自己認識における暴走の原因は、要するに、そういうことでしょう。

そこでは、お互いが議論しあえるような言語は崩壊して存在しなくなっていて、ただ相手に対する好悪の感情のままに、2X6≠6X2であったり、5+7が11であったり15であったりする不思議な社会が出来上がって、加害者が勢をたのんで被害者を加害者として罵り、衆をなせば非道も正義に変わる、いつかみた社会を、すっかり復元してしまっている。

見ていて、言語というものは、おそろしいものだなあ、と感じる。
いまさらながら思考の実質は言語で、言語が建て直されなければ、まともに考えることなんて出来ないのだ、と述べた、ギリシャやインドの賢人たちの言葉をおもいだします。

Posted in Uncategorized | 4 Comments

教育について 1

人間は防御の姿勢をとって暮らすようになると、ろくなことはない、守ってはいけない。守りに入るのは、人間の一生にとって最悪のやりかただ、ということは、だいたい誰もが、子供のときに親に言い聞かせられる。
実際、人間の心理は常に前に進んで、常に自分の世界を拡張することに向いていて、そうしているときがいちばん平安な気持でいられるように出来ている。

論理のうえでも、自分の一生に保障を求めるくらい無意味なことはないのは、多少でも論理的にものごとを考えられる人なら、すぐに判る。

しかし、どんどん拡張して、どこまでも歩いていって、ふと丘のうえに立って遠くを眺めながら、考えてみると、さて、おれはいったいなにをやっているんだ、と考えついて可笑しくなる、という気持も、30歳を越えるころになれば、誰でも経験して、知っているとおもいます。

またガメは当たり前のことをいう、と言われそうだが、
人間の一生を生きるのは難しいとおもう。
まず一回こっきりで、瞬間瞬間をやりなおせない。
映画の撮影のように「カァァァートッ!」と叫んで、「はい、いまのところ生き直しね」が出来ればいいが、そうはいかないので、夜更け、冷たい床に足をつけて、
コーヒーを飲みながら、なんの脈絡もなくおもいだした昔のガールフレンドとの会話で、しまった、あのとき、こう言えばよかったんだ。
あのひとは、だから傷付いてしまったんだ。
おれは、なんてバカなんだ、という、お決まりの悔恨で、悩まされて、臍をかむことになる。

高校生のときだったか、カウチに寝転がって新聞を読んでいたら、人間はだいたい自分の生活範囲の半径300メートル以内で活動している人と結婚するのだ、と書いてあって、へえええー、そういうものか、人間て、意外とメイティングの範囲が狭いのだな、と考えたことがあった。

そのころの自分のことを考えると、何不自由もない環境に育って、日本の人が聴いたら、ぶったまげて怒り出すか、得意のウソツキ呼ばわりしそうな生活で、階級がある社会特有の、度外れた特権と優遇をあたりまえに享受して暮らしていた。
希望に満ちた毎日だったかというと、そうでもなくて、将来への不安と期待とが半々だったように思います。

おまえは歩く原子炉か、といわれたりしていた時代が終わって、ひとがましくなったのは、大学に入ってからのことで、大学というのはいいところで、なんだか不気味なくらい頭がいい人間が老若うろうろしていて、やる気が起これば延々と議論をして、お互いにお互いの不穏な知性を熟知しているので、少しくらいナイフでぶすっと刺すようなことを言っても、鎖帷子で跳ね返されて、斧のような言葉で、ぐわっと仕返しされたりする、変態的な快感に浸る毎日を送っても、誰にも文句を言われない。

日本の人は一般に学問の習得が前倒しになっていて、数学や物理や化学の教科書をみると、ずいぶん早くから高級なことをやっている。
いちど義理叔父が使っていた教科書をみせてもらったら、日本の有名な教科書検閲制度で認可された検定教科書とは別の、学校が自分でつくったらしい数学の教科書に、唖然とするような微分の話が書いてあって、これを何歳くらいで勉強するの?と聞いたら「14歳」と言われて、腰を抜かしそうになったことがある。

ところが、人間はどんなふうに生きていけばいいか?というようなことは、学校でほとんど議論しなかったらしい。
学校教育が全体に職人養成所風の思想で出来ていて、「学問」という技芸において左甚五郎育成を目指すとでもいいたげな思想で、子供の頭を訓練するという方法に見えて、それはやり方を間違えなければ、例えば数学や物理を考えれば将来の研究者を育てるにはたいへん有効な方法なのだけれども、それだけだと子供のほうはつらくないのか?という当然の疑問に突き当たる。

なんだか個人が自分の一生を形成するのを助けてもらえない学校みたいで、自殺率がほんとうに高いのか低いのか知らないが、たしかに鬱々として元気がないように見える日本の頭の働きがいい若い人の苦しみは、案外、そういうところに淵源がありそうな気がします。

ものを考える習慣をもたない人間は、元気な声でハキハキ返事をしていれば、それで実際に元気になっていくくらい、ものを考えないので、別に、ほっといてもうつ病にもならず、だいたいオカネをあてがって、エッチができて、病気にならなければ幸福で、どんな教育制度でも、ちゃんとしあわせになってゆける。
どんな国でも、最も悩みが少ないのは片方の耳からのぞくと向こう側の耳の向こうの景色が見えそうな美男美女のカップルと決まっていて、町を颯爽と歩いて、誰かが振り向いてでもくれれば、いちもにもなく幸福で、そのうえに乗り回すクルマが高級車でもあれば、言うことはなくて、こういう人びとは、なにしろ思考の言葉がなくて上滑りに滑っていくだけなので、特にどんな教育だからどうということは関係がない。

それでは禽獣の幸福と変わらないのではないでしょうか、とおそるおそるきみは聞きたそうにしているが、人間などは自分でおもっているよりも遙かにバカなので、
だいたいそのていどで別段もなく、丁度いいのだとおもわれる。

不幸にしてものごとを考える人間に育ってしまった場合がたいへんで、だいたい高校生くらいになると、われながら手間がかかる人間になってしまって、自分で考えて、これほどめんどくさい人間なのだから、他人にとっては、敬遠の対象でしかないだろう、
これじゃ友達だって出来やしない。恋人なんて、無理も無理、無理が積み重なって累卵の無理になって危ういくらい無理で、するといったいおれの人生はどうなるんだ、一生孤独で他人に疎まれて迷惑だけをかけて生きていくのか、第一、この低い鼻じゃ、ちっこくて、いっつも寝起きみたいな目ん玉じゃ、このはれぼったい耳タボじゃ、ぐわあああああ、ということになって、毎日、煩悶して生きていくことになりかねない。

そういうことは家庭でやることですよ。
学校が教えることではない、という人に会ってびっくりしたことがあるが、
あのね。
名前を呼ばれただけで、とびあがりそうな、腫れ物よりももっと触るのにやばそうな年頃の息子や娘に向かって、人間の生き方について無神経に説教をたれるような親がいたら、そりゃ、息子や娘は不良になりますよ。
そんな親に素直に従う子供を考えると、結末はもっと恐ろしくて、鈍感なのにペーパーテストベースの勉強みたいなことだけは出来て、おっそろしく傲慢で、その実、ほんとうの意味で知的な能力はなにもない、学問という曲芸を仕込まれた猿のような、不気味な生き物になってしまうだろう。

学校で教えることではないのは、たしかだが、学校で議論しなければ、どこで議論するのか聞いてみたい。
教師がレフリーになって、この世界には倫理は必要かどうか、それともルールがあればいいのか、というような一般のことから、日本で好評を博したマイケル・サンデルがステージのうえを飛び回って喜んで、吉本興業が契約しにやってきそうなトロッコ命題まで、おなじ年齢の人間同士で、議論して、考えることによって若い人間は救われるし、また、人間の防御機構はよく出来ていて、若いときには、そういうことが好きなのでもある。

わしなどは、もともとが社会性に欠けていて、ほっておくと、家のライブリに閉じこもってバカみたいに本を読み耽っているか、裏庭の川からボートをだして一心不乱にボートを漕いでいるか、なにしろひとりでいることばかりが好きだったので、学校というものがなければ、よくて久米の仙人、悪ければ謎の教団ナゾーの首領になって、ロンブローゾとつぶやきながら、世界の破壊を画策するようになっていたのではないか。

わしは、ごく簡単なヒントをつかんでいれば、なんなく一生を生きていかれたのに、その小さな、往々にしてひとことにしかすぎないヒントに逢着しなかったばかりに、苦しみながら生きて、悪くすれば自殺してしまう若い人を気の毒におもう。
例えば、親などは血が繋がっているというだけの他人で、親だといえど、嫌いな人間は嫌いでいいのだ、ということを知らないというだけで、いつのまにか、親の無言の期待に応えて、無我夢中で勉強して、親が喜ぶ学校へ行き、医者になって、親が夢に描きそうな夫をもち、ある日突然、心を訪問した「自分」という最も近しい友達に絶交を言い渡されて、文字通り心神を喪失して、まるでガラスで出来た心が粉砕されてしまったように、ある日を境に絶望のなかから抜け出せなくなった人を知っている。

子供のときに、母親が、家族の社交の範囲にいた有名な「良い子」の話をしていて、なんて素晴らしい子でしょう、というので、いたずらっけと、もしかしたら母親があんまり褒めるので嫉妬の気持が少しくらいはあったのかも知れません。
「おかあさまは、算数が出来る馬の話をしっていますか?」と述べたことがある。
母親は、その数学博士の渾名があった馬のことを知っていて、その馬が、実は自分の頭で計算しているのではなくて、ごく些細な観客の表情の変化を読み取って、正しい解答の数字がかかれたカードをくわえて運んできていただけだった、という故事を、なぜ息子が挙げたのか、すぐに気が付いて、嫌な顔をした。
われながら、嫌なやつだが、いまでも、子供というものの悲惨さについて考えるたびに、そのごくわずかな顔色を読み取って親と周囲の期待に応えてしまう数学博士の馬のことを考える。

学校という場は、ゆいいつではないにしても、子供を周囲や社会への反応としての自己という最悪の自我形成から救い出すには最も向いた場所であると信ずべき理由はたくさんある。

この記事を書こうとおもったのは、ニュースで、ある高校生の身の上に起きた傷ましい出来事を見たからだが、そのニュースをここでくだくだしく書きたくない気持が、いまのわしにはある。

それに、若い人間の心を社会のおとなが総出でズタズタに引き裂いてしまうというような事件は、毎日、どこにも、いくらでも転がっているので、特に書いておく必要もないのではないかとおもいます。

(画像は「軽井沢国際親善交歓会」開場寸前の軽井沢ホテルコンベンションホール。映画「シャイニング」っぽい雰囲気でしょう?)

Posted in Uncategorized | 5 Comments

東京十味 その1 うなぎ

マオリ族にとっては鰻は、神の使いであって、食用なんてとんでもない、神様を蒸したり、串に刺して焼いたり、ばちあたりで、まして照り焼きソースを塗りたくって、蒸したうえに焼いて、はふはふするなんて、とんでもないことだった。

子供のときは、珍しい食べ物で、ニュージーランドでも連合王国式に、ジェリーにつかった輪切りが缶に入って、変わったものを扱う小型スーパーで売っていたが、
日本食ブームで、eelのライスのせ丼というようなものが出回りはじめると、
初めこそ、うにょおおー、と顔を顰めて、人間の食い物ちゃうやん、をしていたが、食べてみると、おいしくて、これがほんまに缶カラで煮こごっている、ぶっといのと同じもんでっか?ということになって、最近は、どこの街角にもあるbento屋のメニューには、ほとんど必ず載ってます。

寿司種としても、サーモン、照り焼きチキン、ツナマヨ、エビマヨの次くらいには一般的である。

ずっと義理叔父につれられていった麹町の秋本が初めに行ったうなぎ屋だと記憶していたが、最近、子供のころの日記を読んでいたら、やはり義理叔父につれていってもらった「野田岩」が初めだったと判明した。
東麻布の店で、「う、うなぎって、そんなもん食べたら死ぬんちゃうか」とおもって緊張して店に入ったら、店のいちばん目立つところにイギリス人のおっちゃんがひとりで座っていて、日本人式にうな重を「かっこんで」いて、入ってきた子供わしをみてニカッと笑うと、

「きみ、ここのはうまいぜ。運がいいじゃないか!」と述べたので、案外、抵抗なく食べられてしまった。

eelと呼ぶからダメなのでunagiと呼べばいいのだ、と悟って、それからあとは、英語でも、だいたいunagiと呼号している。

「野田岩」には横浜にも支店があって、こっちは東麻布の店主の弟がやっていて、メニューもやや異なれば、味も変えてある。
生意気なことを述べると、どうも、こちらのほうが本店よりもおいしい気がする。

一軒屋になっているほうよりも、それも、駅ビルのなかにある支店のほうが好きだった。
そう、あの高島屋のなかにあって、鮨「青柳」の隣にあるやつです。
青柳程度の鮨は銀座のそこいらじゅうにあるが、野田岩クラスの蒲焼きは少ないので、両店の前に立つと、自然と右側にある野田岩に入ってしまう。
たいてい、手には有隣堂で買い込んだ日本の本を抱えていたとおもいます。

おとなになってから横浜に行くのは、たいていクルマだったが、電車ででかけると、西口で蒲焼きがぎっしり載ったうな重を食べて、横浜駅の東口に出て、水上タクシーで、終点の中華街まで、どんぶらこと海風に吹かれながら行く。

あんな楽しい公共交通機関は珍しいというか、水上タクシーは移動手段であるよりも、つかのま、海を楽しめる娯楽で、日が落ちるのが早ければ、横浜の夜景を見ながら、さて中華街に着いたら、どの店でたらふく食べようか、聘珍樓か北京亭か、と算段する楽しみは、横浜にいるときの醍醐味だった。

帰りは、ギリシャバーによってウーゾを飲んだり、いくつかあるジャズバーに寄ったりして、常連らしいアメリカ人たちと夜更けまで飲んでいることもあった。

美しい畳の床が広がった千住の尾花や、麹町の秋本、銀座の竹葉亭、考えてみると子供のときから、鰻屋はたくさんでかけていて、枚挙にいとまがない。
竹葉亭などは、銀座の歌舞伎座のそばにある支店が、まだ木造のころに何度かでかけていて、かーちゃんは歌舞伎は好きだがうなぎはあんまり好きでなかったので、記憶があいまいだが、多分、義理叔父と一緒だったのではあるまいか。
二階から、行き交う人やクルマを眺めて、なにもかも、あまりに異なるので、
ほんとにここは同じ地球のうえかしら、なんだか魔物にだまされて、銀河まで別の、見知らぬ惑星に来てしまっているのではなかろーか、でも、楽しいから、別に現実でなくたって、なんだっていいや、と考えたりしたのをおぼえている。

おなじ竹葉亭は取り壊されてしまった丸ビルの裏口にもあって、のれんをくぐると、失礼なことを言えば、みんな同じ顔、同じ髪、同じ服のサラリーマンのひとびとが、会堂と呼びたくなる広い、天井の高い店内をうずめつくしていて、しかし、その画一性が少しも嫌でなくて、アンディ・ウォーホルは、ここにきて、例の「誰もがみな同じ人間の群衆」というパラダイスをおもいついたのにちがいない、というのは冗談でも、記憶のなかでは、全体に知的な雰囲気で、ああ、近代小説に出てくる「丸ノ内のサラリーマン」、岡田隆彦が

それから僕は旅に出る
 そこは平たい太陽が今も覆いかぶさっているだろう
 砂ぼこりのたちこめるその里で
 ジンとサンチマンへの抵抗力を作って
 いっぱし月給取になり
 自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう
 もう君は愛してくれないだろうから

と述べた、「丸の内」は、こういう場所のことだったのだなあ、と考えたりした。

余計なことを書くと、取り壊された丸ビルは、文章や映像では伝えられない生きた近代日本文明の重厚さを伝える生き証人のようなビルで、
文明堂にのぼってゆく、幅の広い大理石の階段は、日本が戦前にたどりついた文明が、到底、西洋で言われるような「モノマネ西洋」などではなくて、独自の高みに達していたのがわかる質感をもったものだった。
おなじことを言ったら、あんなん、ロンドンにいくらでもあんじゃん、と義理叔父が笑っていたことがあったが、おっさんは観察と理解が浅薄なので、「だいたい似てればおなじもの」程度の杜撰な理解力だからで、第一、たどりつくパーラーにあるべきスコーンがカステラな文明が、ロンドンと似ているわけはない。

あれを壊してしまっては、後からやってくる日本人は、そーか日本人はモノマネ民族だったのね、と納得して、プライドもなにもズタズタになって、やけんのやんぱち、自暴自棄で、そうなれば、文化の継承などは、そこで止まってしまう。
一冊の本で、伝わることと伝わらないことがある。

欧州の人間が古い建物や町並を残すことに固執して、ドイツ人に至っては、いったん瓦礫になってしまった町を、忠実に昔の形に復元するのは、長崎ハウステンボスに感銘を受けたからではなくて、本や映像では伝わらないものが文明というものの核心には存在するのをよく知っているからでしょう。

吉行淳之介には、たしか、兄妹の近親相姦夫婦が切り盛りしていることを暗示する、うなぎ店の小説がある。
うなぎには、ぬめっとしたところに、精神的な不潔をおもわせるところがあって、
いちど、切り捌くところをガラス越しに見ていたら、顔をしかめたくなるような気持になって、それから微かに吐き気がしたことがあった。

おなじ魚が、一般にポリネシアでは神聖な神の使いとされて、西洋の文明では、いざとなれば食べてしまえる、間に合わせでポンコツなタンパク源で、日本では精緻な照りを見せつけて白いご飯の上に鎮座する極めて芸術的な食べ物で、三者三様の世界観が、水槽のなかでくねくねしているのを、小さすぎる椅子に座って、ぼんやりと眺めているのが、東京での生活の一部をなしていたことを、なつかしく思い出します。

もっとも、うなぎに人間の心理の陰翳を投射する言語の冴えをみせるのも日本の文明なら、おなじものをすさまじい勢いで食べつくしてしまって、女将、世界くん、もっとくれ、今度は白焼きでわさびがいい、鯨のコロ食べたときみたいにいちゃもんつけないでくれよ、と述べて地球じゅうの魚ごと食べつくしてしまいそうな勢いをみせているのも同じ日本の文明で、ほんとうは、こっちが真の日本の姿なのかもしれないけど

Posted in Uncategorized | 3 Comments

イギリスパン

日本にやってきた外国人たちが話題にする食べ物といえば、わりと顔ぶれが決まっている。
日本で暮らす外国人は、逆駐在さんとでもいうべき、アメリカ大企業の日本担当でもなければ、最近はビンボな人間が多いので、価格との相関において話題になることが多いが、例えばビーフシチューで、なぜ日本ではビーフシチューがあんなに高額なのかという話題は、かーちゃんシスターが日本にやってきた1980年代からのものであるらしい。
だいいち、それ以前に、日本ではなぜ構えも重々しいレストランでビーフシチューが供されるのか?

あのピザの値段は、いったいなにか。
おらが国ではMサイズのピザが、日本ではLサイズだと詐称していて、しかも2400円!
詐欺なのではないか。
もしくは外国人に対する嫌がらせではないか。

だいたい日本にやってきた外国人は日本という罠にはまってにっちもさっちも、サッチモ・アームストロングになりはててしまっている人が多いので、特に安直な気持で英会話講師としてやってきてしまった人は悲惨であることが多かった。

まず何年も日本にいるうちに頭が日本人になってしまっている。
いつか東京で、このひとは英会話講師でなくて某私大の英語講師だったが、アメリカ人の友達とふたりで久闊を叙して、そのあとで、ふたりでひさしぶりに酒でも飲もうということになった。

六本木の半地下のスポーツバーに階段をとんとんと降りて行ったら、突然、この友達の様子がおかしくなって「ガメ、ここは、やめよう」という。
なんで? と聞くと、「外国人が、たくさんいて、こわい」
だって。
冗談でいってるのかとおもったら、本気だった。

頭が日本人になって帰化してしまっているのに、日本語はまるで話せない哀れな外国人なぞ、例えば東上線の上板橋などというところに行くと掃いて捨てるほどいて、池袋の一定のバーに行くと、こういう英語人たちが蝟集して、日毎夜毎、日本のさまざまな悪い点について侃々諤々と議論している。

選挙権もないんだけどね。
自分たちのやりきれない日々の実情を、なにかにぶつけないではいられないのですよ。

最も多い類型は、日本人のガールフレンド、あるいはもっと深刻な場合には妻がいて、日々の、みすぎよすぎを英会話教授に頼っている。
そうこうしているうちに、あっというまに日本の経済は没落して、例えばイギリス人ならば、故国にもどるなんちゅうのは、経済的に言って、夢のまた夢です。
彼の貯えなどは1ヶ月で、いとも簡単に費消されてしまうであろう。

ところが、こういう人というのは、日本に対する憤懣で、もうはちきれんばかりになっているのね。

英語も日本人初学者にあわせて、わかりやすくしようと試みつづけた結果、アクセントが日本人にわかりやすく変更されているのは、もちろん、妙にゆっくりな英語で、しかも構文までおかしくなっている。

おかしくなっている、というのは、妙に正しい英語になってしまっていて、初めのうち、なぜだろう?と不思議だったが、日本人の受験英語の影響が強いピジョン化したすみずみまで日本的に正しい英語という不思議な英語になっているのでした。

Tokyo Pop

という、わしの好きな映画がある。
映画としてはBクラスムービーということになるのだとおもうが、バブル経済全盛期の日本における外国人たちの生活と気持をあますところなく精確に描いた映画として、かーちゃんシスターが、わしがひとりで日本に行くと決めたときに「観ていくといい」と教えてくれた映画です。

「ガイジンの女とセックスする」という動機で付き合い始めて、やがて同棲するに至る日本人の男とアメリカ人の若い女の人のカップルの純愛物語。

このカップルは、映画のなかで、日本のヒットチャートをかけのぼって、押しも押されもしない大スターになるが、やがて、女の人のほうは、自分の生活がfakeであると感じるようになってゆく。

日本社会そのものに現実感を感じられなくなっていって、バーであったアメリカ人とのやりとりを引き金にして、アメリカにもどって、一から出直そうと決心します。

アメリカ人たちに、まわりの日本人がいくら「この人は日本では有名なロックスターなんだよ」と述べても、アメリカ人たちは、たいして興味もなさそうに、知らない名前だな、というだけで、関心ももってくれない。

日本人のボーイフレンドと別れて、アメリカに帰ると決心して、
I don’t belong here.
と述べるシーンで、わしなどは、なんど泣いたかしれない。

日本のひとは、この映画を観て、あるいは英語人の日本社会に対する偏見に満ちた映画だとおもうかもしれない。
でも、そうではないのす。

この映画はKaz KuzuiとFran Rubel Kuzuiという日本人とアメリカ人のカップルによって作られた映画で、西洋からの一方的な視点で出来ているわけではない。

一見、似ているので、かえって本質的に全く異なるのだということが判らなくなる、ということがあるでしょう?

日本をわかりにくくしていているのは、西洋と似すぎていることで、民主制で、議論好きで、まったく西洋流儀の小説を書く、でもどこかが、本質的に西洋ではない、と、長く付き合っているうちに、西洋人たちは感じはじめる。

なにかが、おかしい、とおもいはじめる。
ほんとうは、なにかがおかしいのではなくて、単純に別の文明なだけなのだけれど、あまりに表面の相貌が似ているので、日本は少し劣った西洋社会なのだとか、アメリカと較べてどうだという議論が出てきてしまう。

なんだか、よくわからないが、おなじ文明の社会同士なのだという前提が間違っているからだよね。

現実の西洋にはビーフシチューのレストランは存在しないし、メニューに書き込んでビーフシチューをだす店もあるにはある(カナダなどは数が多いらしい)が、つまりはパブ飯で、日本でいえば、居酒屋でだす雑炊みたいなものだとおもう。

イギリスパンって、あるでしょう?
初めてみたとき、おおげさに言えば、ショックをうけてしまった。

イギリスパンって、なんだ?
とインターネットで調べたりした。

子供のときにも、あの背が高い食パンを目撃したことがあるはずだが、多分、日本語が話したり聞けたりはしても、まるで読めなかったせいで、気が付かなかったのだとおもう。

おとなになって、日本を再訪したときのことです。
あとでなじみになったベーカリーに行ったら、「イギリスパン」があって、
これはなんですか?
と聞いたら、若い女の店員さんが、一瞬怪訝そうな顔をしてから、頭の働きがいい人だったのでしょう、すぐに
「イギリスには、ないんですか?」と聞いて、
おもしろいですね!と述べていた。

きみは、ガメだなあー、おおげさな、と笑うだろうけど、そういうことに、わしは明治時代に「西洋の国にならなければ」と必死の気持で思い定めた日本が歩いてきた苦難の道に考えがゆく。

なにもかもがそうだったのだ、と言いたくにさえなる。
自分を西洋人のいるところまで引き上げなければダメになる、
アジアにとどまっていては、この国は終わりになってしまう、と強く思い定めたことで日本はアジア一の「強国」になっていたが、同時に、まるで不治の病であるかのように、自分のアイデンティティに常に苦しむことになった。
嫌ないいかたをすると、自分で自分に呪いをかけてしまったのだと思います。

エラソーにいうと、日本語がある程度のレベルに達して、わしは日本人の痛みが感じられるようになってきたのではないだろうか。
日本人の苦しみを自分のことのように感じられるようになったとは言わないが、日本という孤独な文明がなめた辛酸を少しは判るようになってきた気がする。

知ってのとおり、所謂「西洋」は歴史を通じて、どんどん横につながっていって、「西洋」と呼びうる共通性を持った一個の巨大な文明をつくるに至った。
いまはアジアの国々が、中国を軸にして、あるいは反発して、あるいは共鳴して、次第次第に、「アジア文明」という一個の文明をつくりつつある。

日本は、自分が仲間はずれになってゆくのを肌で感じながら、どうすればいいか判らなくて、青ざめた顔で学校の廊下に立ち尽くしている子供のようにして、ジッと床の一点を見つめている。

肩を落としている日本を見ていると、ときどき、「ああ、イギリスパンね。 名前のとおりイギリス人は、これが大好きで、バタを塗って、みんな毎朝これを食べているんだよ!」
と、ほんとうでないことを述べて慰めてあげたくなる。

いいよ、もう、これを西洋だということにしてしまえばいいじゃない。
「ほんとうの西洋」なんて、西洋人にだって、どうせ、もうありゃしないんだから、と言いたくなることがあるのです。

Posted in Uncategorized | Leave a comment

モーニングセット

ほんとうは、日本に行ったことなんてないんじゃないか、という気がすることが、この頃は、よくある。
考えてみれば、もう8年も行っていないのだから、あたりまえで、厳密にいえば4年前だったかに数日、ストップオーバーで立ち寄ったことがあったが、美術品店に用事があって、東京と京都で、ヘリコプターで移動する忙しい旅行だったので、日本にいたというよりは、日本の人にこちらから会いに行ったという印象だけで、5年にわたって11回滞在したはずの日本の記憶と、うまくつながっていかない。

記憶の映像はフォトショップ的なもので、例えば、記憶のなかの日本の町には、あの綾取りみたいに込み入った電線と電話線の網の目は存在しない。
こっちは、どういうわけなのか、判らないのだけど、記憶のなかで日本の人はどんどん背丈がのびて、アジア人にしては、とても背が高いが、現実の日本の人は、ごみん、小さくて、いつだったか、ひさしぶりに鎌倉に行ったときに、駅前にいる日本の人はみな、びっくりするほど小さくて、妖精の国のこびとのようで、ニコニコしてしまったことがある。

それから、ひとの数!
記憶のなかでも、ひとの数は、多いのは多いのだけど、いつか、横浜駅の東口の階段に立って、西口までの通路を見渡したら、20メートルくらいは幅があるのかしら、案外と広い通路が、びっしり、文字通り、隙間もなくびっしり人間で埋まっていて、その人間の津波のようなものが、こちらに向かって動いていて、
「こんなんで待ちあわせの西口まで歩いていけるわけがない」
と怯えた気持で考えた。

結局は、なんとか西口のシェラトンまで歩いていけたのだけど「勇を鼓して」という表現は、こういうときのためにあるのだ、と納得した。

いいこともある。
日本にいたころ、特に最後の1年は、いま考えると、すべりひゆ @portulaca01 というイタリアに20数年住んでいる日本語の友達が指摘していたように、ホームシックだったのだけど、なんだか、とても日本が嫌いになってしまって、見るもの聞くものが疎ましかった。

広尾山の家には帰らなくなって、軽井沢の家にばかりいて、モニさんとふたりで、シャンパンやカバばかり飲んでいた。
2010年は最悪の年で、そのせいで、予定を早く切り上げて英語世界に帰ってきてしまったのをブログでおぼえている人も多いとおもう。

なんだか、ひどくおいしくないものを食べて、口直しをする人のようにイタリアに行ってローマからコモまでドライブして、やっと人間にもどったような気がした。
その年は、一年中、日本語を勉強したことを、ひどく後悔していた。

ところが頭のなかで日本は綺麗に洗濯されて、新品同様になって、めりはりもされて、太陽のいい匂いがする国に変わっていく。

最近、また、日本がとても好きになってきたんだよ。

伊東屋の万年筆売り場。
銀座の割烹屋
地下の階段をおりてゆく数寄屋橋の鮨屋
電気ビルのてっぺんの、おもいがけない場所にあるバーと鮨店
室町の蕎麦屋
ミキモトの白髪の、素晴らしい日本語をつかう店員
由比ヶ浜から七里ヶ浜に向かって歩くと、目の前にある大気で屈曲された巨大な富士山
軽井沢のツルヤの駐車場から見える浅間山
箱根の富士屋ホテルのカツカレー

ははは。
なんだか食べ物がおおいけど、ときどき、おもいだして、手を休めて、そうか、やっぱり日本はいい国だったなーとおもう。

外国人で、ガイジンだったからかもしれないけどね。
いつか東京で鎌倉の話をしていたら、
「でも、ガメさん。ぼくは鎌倉に住んでみたことあるけど、あそこはヒマな人間が多いせいか、ずいぶん煩いことを言う近所の人がおおかった。ガメさんは、ああいいうことは平気なの?」という。

ところが!
鎌倉のなかでもシチメンドクサイ人が多いと名指しされた町に家を買って、ときどきはそこに滞在したんだけど、そんなことはいちどもなかった。
ゴミ出しの日を間違えても、分別がテキトーでも、夜中に、いつもの調子で、酔っ払って、ふらふら歩いて帰ってきても、道なかで
「ガメさん、御機嫌なんですね」
と小津映画のなかの日本の人のように挨拶されるだけだった。

暖かくなってくると、夜更けの材木座海岸に行って、わし伝統のチンポコ潜水艦が出来る全裸の姿になって、まっくらな海で、よく泳いだ。

知ってるかい?
日本の人は、めちゃくちゃラッキーで、海があったかいので、朝でも、夜中でも、いつでも泳げる。
イギリスやニュージーランドの海では「15分」という。
15分、海につかっているとコールドショックが起きて、死んでしまう。

そこにいくと日本の海は!
コールドショックどころか、人間クラゲになって、海のなかでヘロヘロして、
空を眺めて時々やすみながら、逗子から江ノ島まででも泳いでいけます。

酔っ払って、さんざん泳いで、夜更けの、朝が近い浜辺にもどると、夜光虫がふちどった波が打ち寄せてきて、ほんとうにこれが現実だろうかとおもうくらい美しい光景が目の前にある。

東京はマンハッタンと並んで、歩くのに良い町で、とにかく犇めくように思い思いに工夫を凝らした、小さな店が並んでいるので、あんな町に住んでいれば、ジムはいらない。

だいたい2万歩くらいは直ぐに歩いてしまうのね。

東京に較べれば、ロンドンなんて、たいそう間が抜けた町です。
シンガポールが、この頃はちょっと東京に似ているが、なにしろ暑いので、そう簡単に較べられはしない。

それに、東京くらい、びっくり! が多い町はない。
東京にいた最後の週に、モニさんと人形町や蛎殻町、日本橋や銀座を散歩した。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/20/hurdy-gurdy-man/

いま見ると記事に書いてないが、モニさんが裏路地の写真を撮っているときに、日本では基本的にモニSPのわしが、ヘンな人が近寄ってこないように見守っていると、後ろに、なにかの気配がする。
わしは伊賀忍者なみのモモチサンダユーな第六感を有しているので、振り返ると、
巨大なマグロの頭がテーブルの上に載っていて、目がこっちをみているので、
ぎゅわああああああーと絶叫して、ひとだかりが出来て、恥をかいてしまった。

あ。
ただの「びっくり!」の例です。

英語には「マジメ」という言葉は訳せないが、多分、わしが大好きだったのは、日本人の「マジメ文化」だったのだとおもう。
職人さんたちの文化。

下を向いて、手元に集中して、一心不乱になにごとかを作る文化が、とてもとても好きだった。
わしは、なんのことはない、チョー要領がいいゲーマー人なので
アスペルガー族と、兄弟のように仲が良いが

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/

日本の人は、ドイツ人たちと並んで、世界でいちばん、アスペルガー的なすぐれた資質を持っているのではないだろうか。

世界で最も愛している国をあげろと言われれば、そんなことを聞くヘンな人はいないだろうが、日本を挙げるだろうとおもいます。

神様の言葉で、もう二度とは行かないのを知っているけどね。

この頃オーストラリアでもニュージーランドでも、台湾のバブルティーショップが流行りで、ぶっといストローに、タピオカ入りの飲み物が流行っている。
バブルティーショップには魯肉飯や牛肉麺の台湾御飯メニューがあるのだけど、
メニューの最後には厚切りトーストが載っているの。

PappaRichという、日本でいえばデニーズだろうか、マレーシアのファミリーレストランチェーンもあって、ここでもメニューには厚切りトーストが載っている。

http://papparichnz.co.nz/menu/

もちろん、これは日本に出かけた台湾の人やマレーシアの人が、ひええええー、こんな変わったものが日本にはあるんだ!
うひゃっ、おいしいじゃないか、これ!!
で、故国に持ち帰ったものです。

わしも、大好き。

モーニングセット。

西洋からヒントを得ているんだけど、西洋にはないのね。
日本のものです。

とても、なつかしい。

アジアのなかで、西洋の侵略におびえて、まるで夢魔に備えて自分の家の玄関に「西洋文明」という護符を貼りたてたような、日々の生活も伝統も、なにもかも打ち捨てて、西洋という夢魔の襲来に備えてきたような
日本という国の痛々しさ、一所懸命さ、苦しみと栄光の歴史(おおげさだと笑ってはいけません)が、ひとつのトレイに載ってくるモーニングセットのことをおもいだす。

台湾の人やマレーシアの人は、親切で楽しい人が多いのだけど、日本の人の、この歴史的な苦しみだけは判らないだろう。

あの苦いコーヒーも、台湾やマレーシアの人にとっては意匠にしかすぎないが、日本のひとにとっては歴史の味なのね。
背伸びして、都市を焼かれ、息子や娘を失い、死に物狂いで西洋人になろうとした、不思議な民族の歴史の苦さなのだと思います。

日本語をやって、よかった。

Posted in Uncategorized | 3 Comments

Fine China

いつものように私書箱へ行ってみると、事務的な白い封筒のなかに、あなたからの手紙が混ざっていました。
ジャンクメールを選り分けたり、自分宛のではない郵便物にしるしをつけて局の専用ポストに投函したりするために設えられているテーブルで、なんだか家に持って帰るのを待ちきれなくて、読んでいた。

薄い青色の、みおぼえがある、ロンドンの文房具店でおなじみの封筒が、ニュージーランドの、強い西陽をあびて、薔薇色に輝いている。

I wore diamonds for the birth of your baby
For the birth of your son
On the same day my husband to be
Packed his things to run
Was bittersweet to say the least
One life begins one comes undone
I’ve always been a strong woman of faith
Strong like a tree but the unlucky one

I’m going down, now
With all of my

Fine china and fresh linen
All of my dresses with them tags still on them
Fine china and dull silver
My white horses and my ivory almonds
I guess they really got the best of us didn’t they?
They said that love was enough but it wasn’t
The earth shattered, the sky opened
The rain was fire but we were wooden

I wore diamonds for the day of our wedding
For our day in the sun
On the same day my mother to be said she wouldn’t come
It’s always been that way with me
No time for change no time for fun
It’s always been that way it seems
One love begins one comes undone

I’m going down, now
With all of my

Fine china and fresh linen
All of my dresses with them tags still on them
Fine china and dull silver
My white horses and my ivory almonds
I guess they really got the best of us didn’t they?
They said that love was enough but it wasn’t
The earth shattered, the sky opened
The rain was fire but we were wooden

All of my all of my fine china
All of my all of my fine china
All of my all of my fine china
Blue uh, blue

All of my all of my fine china
All of my all of my fine china
All of my all of my fine china
Blue uh, blue

Fine china and fresh linen
All of my dresses with them tags still on them
Fine china and dull silver
My white horses and my ivory almonds
I guess they really got the best of us didn’t they?
They said that love was enough but it wasn’t
The earth shattered, the sky opened
The rain was fire but we were wooden

Fine china, fine china, fine china
Fresh linen, fresh linen, fresh linen

Lana Del Reyの決して発表されることがなかった曲は、あなたとぼくが、共通に好きな曲のひとつで、その理由が、あなたとぼくの、グループの、女の友達が、毒を仰いで死んだあとに、自分の16年の生涯について書きとめて、向こう側から送ってきたとしかおもえない歌詞であることであるのを、日本語なのだから、ここには書いておいてもいいのではないだろうか。

ぼくは、あんまり自分で自分の生命を絶つことを悪いことだとは、おもっていない。
きみやぼくは、いつも、自分たちは「間違った時代に生まれてきた」と感じてきた。

もちろん、きみとぼくの自分が生まれた国での「恐竜的な立場」から生まれた感想でもあるのだけど、それだけではない。

危ない村もあるから、という理由で、ダラスの、床屋の奥に事務所がある、女のひとばかりで運営する旅行エージェントで、テキサス人たちと小さなグループを組んでくれて、メキシコの田舎めぐりに送り出してくれた。

20歳のぼくは、あのツアーで、40代の女の人の高校教師となかよくなって、ツアーのあいだじゅう、いろいろな話をしていたんだけど、もう教師は今年でやめるのだというので、なぜですか? と聞くと、生徒たちが年々「vicious」になってきたからだ、と答えた。

そのことは、いつまでもぼくの頭に残っていて、そう述べたときの、その、
アメリカ的な善意にあふれた女の人の、言語では到底表現しがたい、
世界への絶望と疲労に満ちた表情を思いうかべる。

ぼくのオークランドの家の隣には、ニュージーランドでは少し名前が知られた富豪のひとが住んでいてね。
このひとが犬を飼っているのだけど、いつだったか、彼の気立てはいいが、少し頭が足りないアーサーという名前の犬さんが、モニとぼくの家に生け垣をぬけてやってきて、その頃、モニが故国の料理のために飼っていたクエール(日本語では「うずら」かな?)の小屋を壊したことがあった。

この隣家とは当然、ニュージーランドの表面第一主義の伝統に従って表面は仲が良いが、夫は、ぼくを上廻ってテキトーな人なので、NZにおける、こういう場合の定石にしたがって、アニマルコントロールにemailを書いて、こういうことが二度は起こらないようにしてくれ、と述べたら、モニといまでもワインを飲んでは、きゃっきゃっと笑い合っておもしろがるが、300ドルの罰金を払わされて、塀をつくることを余儀なくされた。

彼もぼくも、モニさんも、朝、でかけるときに出くわしても、そんなことはなかったような顔をしているのは、世界がviciousになったのを知っているからだよね。

多分。

あるいは仕事上知り合った55歳の社長が、自分の会社を売りたいと述べて、
調べてみると、よい会社だったので、のんびり、買収交渉を進めていたことがあった。

居住用の不動産や商用ビルの賃貸ばかりやっていても退屈だからね。

ところが47歳の奥さんが、21歳の社員と駆け落ちしてしまったんだよ。
訴訟を起こして、会社の権利の半分は自分のものだと主張して、認められて、
買収話は潰えてしまった。

ヘンテコな事態のせいで、入り組んだ法的な交渉をしなければならないことになって、ぼくは、あの頃、年柄年中アメリカに行っていたわけだけど、目の下におおきな隈をつくって、あの社長は、世界がこんなにviciousになるとは思わなかった、と述べていた。

人間は、なんて愚かなんだろう。
モニさんは、よく述べている。

人間さえいなければ、この地球という惑星は素晴らしい場所なのに、と、あなたが書いている。

 地球は、まるで家畜列車のようだ。

あなたもぼくも、この愚かさで充満した列車のなかで、呼吸して、活動して、喜んでいたり、失望したりして、ときに怒りで身体が燃え尽きるようにして、あるいは歓喜で、身体が重力の束縛を逃れるようにして、生きている。

すぐれた装飾の洪水のようなヨーロッパから、なんだか社会全体が清潔な病院のような英語の新世界にくると、ときどき自分が人間であることを忘れて、最近開発された有用な薬品であるような気がしてくることがある。

いったい、いつまで、このくたびれはてた世界にきみやぼくは住んでいられるのだろう?
いま、この瞬間でも自分が呼吸していられることを訝っている。

 まだ、生きていたいと思っているのに。

Posted in Uncategorized | 2 Comments

サンドイッチ

自分の部屋のドアは、たいてい開けてある。
別に、なかにヘッジホッグさんをひきこんで、あんないけないことやこんなひとにはなせないことをしているわけではないことを表現しているわけではなくて、子供のときからの習慣です。
おおきく開いたドアの上に、大学時代以来の、

Beer is the Answer…I Don’t Remember the Question
という緑色の板に金文字で書かれた扁額がかかっている。

ドアが閉まっていることも稀にはあって、もうほとんどドアが閉まっているようなことはなくなったが、そういうときは、なにごとかに集中しているときで、誰かがノックでもしようものなら、もうめちゃめちゃ機嫌が悪くなって、なかから本を投げてドアにぶつける音がする。

わがままに育ったのが、よく、わかりますね。

それでも家のひと(←モニさんでは、ありません)は、開いたままのドアをノックして、サンドイッチは、どうされます?
きゅうりとハムとマスタードでいいですか?
と、聞く。

クラスト、オア、ノークラスト?

と訊ねる。

パンの耳というものが嫌いなので、もうかれこれ5年くらい耳付きのサンドイッチというものを、お願いしたことがないが、それでも律儀に必ず、

クラスト、オア、ノークラスト?

と聞くところが、家の人の器量というものなのであろうとおもう。

サンドイッチという食べ物は、小さなときからの記憶の至るところに出てくる。
最も好きなのは、きゅうりのサンドイッチで、子供のときには、この世界からきゅうりというものが消滅してしまったら、自分はどうやって生きていけばいいのか、とマジメに心配したことがあるほど好きです。

食べ物で、なくなってしまったら世を儚んで死んでしまうしかないとまで思い詰めたことがあるのは、きゅうりとチョコレートだけで、チョコレートはそのまま囓っていればすむが、きゅうりは、そんなもの、ただ囓っても自分が河童になって、やや水泳に熟達してきたような気になるだけのことで、つまりは、いかにきゅうりのサンドイッチが好きか、というだけのことです。

夏の午後、ビクトリアパークの芝生に腰をおろして、草クリケットの熱戦を眺めながら、魔法瓶に詰めたアールグレイをちびちび飲んで、タミヤ模型の箱のなかの部品のようにきちんと並んだ部品を組み立てて、新鮮な、きゅうりのサンドイッチを食べるくらい楽しい時間の過ごし方はない。

あるいは、34フィートか40フィートのランチ(launch)を出して、鏡のように凪いだハウラキガルフを滑って、例えば、ブラウンアイランドという何の工夫もない名前の、無人の小島の、近くに錨をおろして、ディンギ(船につんであるゴムボートのことです)をおろして、ホンダの8馬力の船外機を、ぶおぶおぶおといわせながら、浜辺に上陸して、ピクニックのバッグを開けて、サンドイッチを組み立てて、ランギトトとタカプナのあいだの廻廊を、なんだか茫然とした巨人のように、ゆっくりと港をめざして航行するコンテナ船を眺めている。

あるいは、実家でのクリスマスを早めに切り上げて、もどってきた自分の部屋で、
自然語がとどかない、数学の言葉でしかとどかない世界を凝視しながら、ぐわあああああ、をしている。

実家から持ってきたローストラムやハムやローストビーフを、見るからにテキトーなバゲットにバタを塗ったのに挟んで、いつも濃くいれすぎるコーヒーを顔をしかめながら飲んで、「才能」というような言葉のことを考えている。

外は雪の、ロンドンのカシノの、VIPクラブで、もう14番目のシューで、チップの山が高くなったり、低くなったり、一進一退で、朝に近くなって、一緒にブラックジャックテーブルを囲んでいた顔見知りたちも、みな手を休めて、ゲームから退いて観客になって、ブラックジャックがでると「やった!」「いけるぞ」などと言っているところに、金魚鉢のようにおおきなグラスにいれたグラスホッパーと一緒にハムサンドが運ばれてくる。

日本で言えば、おにぎりなのかしら?

窓のそばに立って、板チョコをはさんだサンドイッチを食べながら、あとからあとから流れてくる涙を頬からぬぐっていたのは、あれは、高校生のときに大好きだったガールフレンドが死んでしまったことをしらされた朝だった。

どうしてだかは知らない。
子供のときからの友達たちは、ひとつだけ共通したことがあって、マヌケなくらい善意のかたまりで、まるで無菌室で培養されたみたいで、ひとを疑う能力に欠けていて、ビジネスを始めたばかりで、電話をかけてきて、
「聞いてくれよ、ガメ、こんな素晴らしい話がきたんだよ! これで会社もめどがついた」と述べて、聞いていて、これは危ないなと考えて、
「騙されているのだとおもう」
「善意だけで出来たひとのような社長だと、きみはいうが、経済マフィアは善良な性格の借金で首がまわらなくなった社長を、自分たちのフロントの会社の社長にすえて、恫喝して、ほかの善良な人間を騙すというのね」

と述べると、
どうして、ひとの幸運を素直に祝えないのか、ガメ、きみにも嫉妬という気持があるとは知らなかった、と言う。
あの友達も、死んでしまった。

They really got the best of us didn’t they?

半地下になっている骨董時計屋をたずねて、女の友達に会いに行く、
なんだか、ほら、啄木が

ふるさとの 訛なつかし
  停車場の 人ごみの中に
  そを聴きにゆく

と言うでしょう?

あれに似ていて、自分でも笑ってしまう。

いまのエリザベス女王の母親は、美しい英語を話すので、ことさらに有名な人だったが、友達の英語は、アクセントも単語の響きも、その「クイーンマム」に、とても似ている人で、聴いていると、かーちゃんと話すときのように、気持がすうううーと落ち着いてくる。

なんだか悪戯っこのような笑顔をつくって、ちょっとくらいはいいわよね、と述べて、店の玄関のガラス戸にサインを裏返す。

あのときも、ふたりで食べていたのは、サンドイッチで、シャンパーニュ・ハムがおいしくて、会話の相の手のように、ふたりで、ほめていた。

ロンドンに移住してきた、貴族趣味のニュージーランド人の、母親の知り合いの知り合いがいて、なにしろ母親というものは息子たるもののボスなので、ボスの厳命には逆らいがたくて、御機嫌を伺いにいったら、
「ガメ、信じられるかい? もしカーディガン伯爵がサンドイッチという名前で、サンドイッチ伯爵がカーディガンという名なら、いまごろ現代のおれたちは、カーディガンをサンドイッチと呼んでサンドイッチをカーディガンと呼んでいたんだぜ? 面白いと思わないか?」

と言う。

もちろん「(面白いと)おもいません」というわけにはいかないが、
世界は、なんて生きがたい場所なのだろう、と我が身が気の毒になったりしていた。

あのときも、あのニュージーランド人は、手に、レッグハムのサンドイッチを持っていた。

日本でいえば、やっぱり、おにぎりだよね。

嵐の夜ふけ、台所で、7歳だかの、ぼくは小さな灯火をともして、詩を書いていた。

テーブルの上には牛乳とサンドイッチ。

ぼくは、ここには帰ってこないだろう
ぼくは、ずっと遠くに行くだろう

誰にもみえない遠くに

ぼくの手にはサンドイッチ

冷たいローストポーク
シャンパーニュハム
パストラミ
ローストビーフ
スモークサーモン

どうして、こんなところに来てしまったのだろう?
こんなところまで来るつもりはなかったのに。

Posted in Uncategorized | 2 Comments