陽だまりに休む権利

冬の寒い朝に、小さな陽だまりをみつけて、そこで暫くじっとしている権利は誰にでもある。
生まれてから、ここまで、自分では懸命に考えて、努力して、精一杯やってきたのに、やり方が下手で、あるいは時宜をえないで、うまくいかずに、疲労困憊してたどりついた場所で、その場所が成功の高みにある場所でも、低迷の窪でも、人間は疲れてしまうときには、疲れてしまうので、やっとの思いで、ベンチに腰掛けて、ああ、ここは暖かいなあ。
ここに、ずっといられたら、どんなにいいだろう、とおもう。

そのベンチに腰掛けることが、そのひとにとって、恥ずかしい事で、不名誉におもえるときも、文明が存在する社会では、道行く人の誰もが、そっと、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
その人が孤独に苦しんで、疲れて、その陽だまりでやっと息をついていることを看てとるからで、その人に「そこは、あなたがいつまでもいていいところではありませんよ」「いまはいてもいいが、すぐ立ち去らなければだめですよ」と述べるのは、人間がやることではなくて、いわくいいがたい、正しさの化け物と呼べばいいか、そういう気味の悪い生き物だけが口にすることだろう。

日本にいたときに、さまざまなニュースを観ていて、最もがっかりしたのは、生活保護を受けているひとたちに対する、ほとんど社会を挙げての、というと「ぼくもぼくの周りの人も攻撃したりはしなかった!」と述べる、日本特有の厚顔ないいわけをしにくるひとがいそうだが、ことの性質を考えれば、怒りを露わにして、通りに出ていかなければ、明日の生活にも困窮する人がいたのだから、ありとあらゆる機会をつかんで、「生活保護受給を自分のオカネを盗むような嘘をつくな」というべきで、いわなければ、この場合は、あの人間としての恥というものを知らない、心をもたない人間たちとおなじ生き物だと言うしかない、攻撃で、
あれほど、日本社会と無関係な人間が見ていてさえ、自分のことのように恥ずかしい気持になることはなかった。

お温習いをすると、生活保護は、もともと、そこまでの一生の試みに失敗した個人に対する慈悲の気持を社会がもって、つくりだした制度ですらない。
理屈は簡単で、たとえていえば、インフルエンザの予防注射とおなじことです。

医学を学ぶ人は、多分、公衆衛生学で、ごく初歩的な考えかたとして学ぶが、予防注射は、個々の人間を救うために実施するわけではない。
いま、平面に、疎に密に、広がっている点を考えて、この点から点にインフルエンザが感染していくことを考えると、感染しない点を増やしていけば、点から点にインフルエンザが伝播する機会が減って、確率的に、感染は減少していく。
点をどんどん増やせば、インフルエンザ自体が、スペイン風邪のような、えらいことになるまえに、終熄するはずで、予防注射というのは、つまり、もともと社会を防衛するための衛生思想に基づいている。

生活保護もおなじで、まるで流砂に足を踏み入れてしまった人のように、もがいても、もがいても、貧困と過剰労働の負のスパイラルから出られなくなった人に、休息と、いくばくかの金銭を与えて、社会の成員として復帰することによって、社会自体を繁栄させようとする制度として機能する。

生活保護を自分のふところに行政が手を突っ込んでオカネをもっていくように感覚する人が、例外なく愚かな人間なのは、つまり、観点を変えて、ものを見るときの足場を変える能力すらもたないからで、頭が悪いということ自体は悪いことではなくて、特に幸福になるためには必要な能力だが、それを悪用して、いまの瞬間に苦難に陥っている人間に向けるのは、愚かというよりも野蛮で、そもそも文明になどは縁がない人であるというほかはない。

人間は、さまざまな理由で、ごく簡単に苦境に陥る。

いつか、英語の世界ではチョー有名な例として、女優のシャーリーズ・セロンの場合について記事を書いたことがある

https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/01/20/survival-kit-e/

エンターテイメントの世界には、実際、自分で「堕ちるところまで堕ちた」と自嘲するひともたくさんいて、表だって語られない、たくさんの、麻薬の売人、売春、
食べるカネに困っての盗みの逸話に満ちているが、人間として堕ちることを拒否して、いっそうの経済上の困難に陥っていった、上のシャーリーズ・セロンや、十代で何年もクルマのなかで寝起きしなければならなかった歌手のJewel、浮浪者用のシェルターで暮らせねばならなかったHelle Berry、過去を悪びれずに話している現在の当人からは想像もつかないような「どん底」を経験している人は、いくらもいる。

なんだ芸能人ばかりじゃないか、というひとのためにいえば、日本人がめざすべき成功物語の典型のように語られるSteve Jobsにしたところで、Reed Collegeをドロップアウトして新しい生活を始めた当初は、公園をめぐって、ゴミ箱を漁って、コーラのボトルを集めては売って、かろうじて、その日の食事にありついて暮らしていかねばならなかった。
帰る部屋など持たないホームレスだったことは言うまでもありません。

貧困には、ちょっと死に似たところがある。
たいていの人間は、自分には起こりえないか、あるいは、起きたとしても長いプロセスを経て、何年ものあとに起きるものだと妄信している。

死ぬときは癌で死にたい、という人は、医学が発達した現代ではたくさんいるが、彼らに理由を尋ねてみると、癌は急死せずに、余命が12カ月なら12カ月で、猶予が与えられて、いわば、ゆっくりと死んでいけるからで、身辺を整理して、英語ではbucket listと言う、生きているあいだにどうしてもやりたかったことのなかから、やれることをやって、愛するひとびとに別れを告げて、死んでゆけるからで、違ういいかたをすれば、「丘のむこうにある死」を人間にもたらしてくれるのは癌くらいのものだとも言えるという、現実が背景にはある。

アパートの、ヨーロッパ式にいきなり通りに踏み出すように出来ている玄関を出た途端にクルマに跳ねられるひと、いつものようにlaunchに乗って釣りにでて帰らなかった人、工事現場で手際の悪い縛り方をされていた鉄材がクレーンから崩れておちて、下を歩いていて死んだ人、人間はさまざまな理由で、あっけなく、あっというまに死んでしまう。

貧困も、現実を観察すれば、意外なくらいに、たいていの場合唐突に訪れる死とおなじで、似ていて、例えば、オバマケアがまた廃止に向かいそうで、国民保険制度がどうしてもうまくつくれないでいるアメリカならば、重病に陥った瞬間に死よりも先に貧困が待っている。
実際、アメリカ合衆国では、自己破産の原因の一位が医療費であるのは、なんども報道されるので、知っている人も多いとおもいます。

日本は言うまでもない。
女の人にとっては最も離婚がしにくい社会で、世界的に有名で、いわば「離婚の自由」がひどく制限された日本社会でも、それでも人間なので、我慢には限界があって、まるで追いつめられて高い断崖から自分の跳躍を吸収してくれる深度があるかないかも判らない海に飛び込む人のようにして、離婚すると、今度は圧倒的に女の人に不利な職業社会が待っていて、子供がいれば、どうかすると月20万円にもみたない収入で、新生活を始めなければならなくなる。
その結果は、統計が存在する国のなかでは最高の貧困率で、数字を見ていると、いったいこんな収入で、どうやって暮らしていけるというのだろう、と、一応の生活についての知識をふりしぼって考えてみても、まったく見当がつかない。

子供のときから、日本の町のなかでは鎌倉に縁があったので、鎌倉に、60年代に出来た和風洋式建築としか呼びようのない面白い家を買ってもっていたが、あの町の市役所は、生活保護の申請窓口を、故意に掲示板で隠して塞いでいた。
生活に困って市役所を訪れたシングルマザーの女の人は、途方にくれたはずで、なんども、近所の人間が混じっていそうな市民が屯するロビーをうろうろしたあとに、最も人目が立つところにある、件の、案内カウンターで、顔を真っ赤にして、目の前が暗くなるような思いをしながら生活保護の申請にはどこに行けばいいのか、声にだして訊ねなければならなかったはずです。

週末に鎌倉にいくたびに、居酒屋で顔をあわせて、そのうちには仲がよくなった市役所の人がいて、その人の「唐竹を割ったような」人柄のよさと、野蛮で陰湿な残虐さをもった市役所の生活保護受給者への仕打ちと較べて、日欧混血の子供への差別や、貧困、在日コリアンへの差別、どの話題でも、ごく普通の日本の人が、
「え?ガメさん、考えすぎですよおー。わたしのまわりに、そんな人、ひっとりもいませんよ。なあんかインターネットとかで、おかしなことを吹き込まれて日本に偏見があるんじゃないですかあ?」と明るく述べる日本社会のからくりが判るような気がした。

生活保護の受給者は「弱い者」なのではない、社会制度や、運や、病気や障害によって、いまたまたま負けが込んで、というと言い方として下品だが、ほかに表現がおもいつかないので、知らぬ顔でつかうと、負けが込んで、ここでどうしてもひと息つかなければならなくなったひとたちの「陽だまり」で、そんなものひとつ用意できなかったり、吝嗇と残忍な本性を発揮して、意地悪い言葉を投げつけるようなものを「社会」とは到底呼べないだろうとおもう。
そういう人間は「社会はなんのためにあるのか?」という最も根本的な問いをわすれている。

社会は、もちろん、個々の個人のためにある。

陽だまりには、また、生活保護ではなくて、魂を保護するためのものもある。
性的被害のトラウマや、ディプレッションとの戦いで、旗色が悪くて、負けかけている人がいる。

なにもする気が起きない、どこへも出かけたくない、という若い人と話してみると、本人が気が付いていないだけで、鬱病であることが、びっくりするほど多いのは、別に、よく話題になるポーランドや韓国や日本に限らず、世界中の国に蔓延する病で、ひとびとは必死に戦っていて、ニュージーランドならば、パブやレストランで給仕してくれるウエイトレスの女の人の手首の内側に小さいセミコロンの刺青が見えることも、珍しくない。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/23/project-semicolon/

「それは大変だね。でも、若いんだから、もっとがんばらないと」というような、おっそろしいことを言わないですむために、鬱病についてのひととおりの知識を身に付けておくことは、いまの世界では、もちろん、愚にもつかないテーブルマナーなどよりは、遙かに大事な身に付けるべき常識になっている。

ぼくのところにも、よくツイッタのタイムラインやなんかで話題になる「はてなから来ました」の、やたらと他人をくさして攻撃するのが大好きなおっちゃんたちが来るが、あそこまで病的な人びとは別にしても、日本語社会は、もともと攻撃性が強い社会で、しかも、攻撃している本人は、見ていると、自分が他人にとってannoyanceになっているということすら自覚していなくて、いわば会話の習慣のようにして、たとえば「子供はつくらないの?」という。

「早く結婚しなくて、だいじょぶなの?」と、おでん屋のカウンターで中年のやたらと身なりに気を使った上司らしい男の人が若い女の人に述べていたりするのを聴かされると、まるで無関係な外国人にすぎないこちらが、「おまえこそ、頭、だいじょうぶか?」と聞いてみたくなる。
日本の人には、言われて不愉快なおもいをする当人以外は実感がまるでないらしいが、なんだか社会ごと失礼であるような、奇妙な社会で、なにしろ文化の比較が趣味のようになっていて、しかも最近は病膏肓に入っているのではないかと自分でも疑いだしている人間としては、こんな社会、ほかにあったかなあー、と、マイクロネシアの島社会のあれこれを思い浮かべてみたりするが、いわば、通りで知り合いに出会うと、おもいきり相手の頬をひっぱたくのが挨拶の習慣になっているようなもので、見ていて、茫然とする。

日本は訪問するには最高に楽しい国だが、住むのは、やっぱりちょっと無理だよね、と納得する契機に、よく、なっていた。

冬の寒さがゆるんで、あたたかくなってくると、社会全体が陽だまりのようになってゆく。
自分の一生のなかでは、立ち直りかけてはいたが、まだまだやることなすことヘマばかりだった、90年代のニュージーランドがそうだった。

小さなことです。
本屋のドアを開けて入ろうとする。
向こうから、女の人がやってくる。
横にどいて、ドアを開けて待っていると、女の人が、世にも陽気な声で、
「まあ、なんて素敵な紳士なんでしょう!」と明るい笑顔で、述べてゆく。
紳士だと呼ばれた10歳の子供(←わしのことね)のほうは、なんだかおとなになったような気がして、すっかり浮き浮きしてしまう。

あるいは、世紀の変わり目に近い頃になっても、横断歩道で、えんじ色の制服の小学生たちのグループのためにクルマを止めると、もちろん止まるのはクルマのほうが、あたりまえのことであるのに、みなが手をおおきくふりながら「ありがとう!」と口々に叫びながら渡ってゆく。

そのころは、なんども書いていて、ニュージーランドに気の毒だが、ものすごく貧乏な国で、まるで国がまるごと失業しているようなていたらくで、PhDを持っていてリンゴ拾いのアルバイトをしたり、大繁栄をしている日本に行ってなんとか稼ごうと考えて、時給350円のアイスクリーム工場で働いたりする女の学生がたくさんいたりして、遊びにきたアメリカ人の友達たちが、失礼にも、あまりの惨状に大笑いするくらい貧しい国だった。

ニュージーランドは、むかしから貧乏とは縁がある国で、なにしろスタートレックテレビシリーズには世界から遙かに離れて罪人を島流しにして隔離する世界連邦の国まるごとの刑務所として登場するくらいで、他の文明世界から遠く離れているのが禍して、若い人間のキャリア上の希望は、なんとか渡航費をやりくりして、稼いで、オーストラリアか他の英語国に行ってカネを稼げるようになることしかなかった。

いっぽうの連合王国の人間として、ニュージーランド人をうけいれる側からみると、ニュージーランドのイメージは、失礼なので、まさか口にだして言ったことはないが、ウエイター/ウエイトレスで、20000キロ離れたところから見ていても、ニュージーランドという国が、食うや食わずのドビンボ国なのは、よく判った。

ところが、この貧乏な国は、一方では、世界のなかで、そこにだけ、ただ一箇所太陽の光が射しているような陽だまりだったのですよ。
みんなが貧乏で、助けあって、食べ物が買えない人には、必ず誰かが食べ物をもってきて、一緒に食べていたし、少しでもオカネがあるような様子をみせるのは、考えてみれば良いことか悪いことかわからないが、最も恥ずべきことだと考えられていて、あの貧しさのなかで、やってきはじめたアジア系の移民が収入を偽って生活保護を不正に受給しているというニュースに怒ったりしながら、それでも生活保護を正当に受給する人間を蔑ろに見るようなメンタリティは想像の外だった。

ニュージーランドは連合王国の労働者階級が文明的な生活をすることを夢見て、遙々危険な航海をしてやってきて作った国で、「これは自分たちがつくった社会なのだ」という強い誇りがあったからだと思います。
いまは失敗している仲間も、たまたまうまくいっている仲間も、みな同じ仲間ではないか、という強い意識は、失敗した者をみくだすような態度を軽蔑させる。
連合王国には、うようよいる、強者の驕りをみせて振る舞う人間にうんざりしてやってきたのに、自分達の国でまで、そんなものを観たいとおもわない。

かつては訪問する外国人たちに「まるで天性の人民戦線主義者のようだ」と言わせた日本は、繁栄と、強者と弱者を生みだす社会に変容することによって、どうなったか。

いまの日本社会をつくったひとたちは、なんだか、みなが天を向いて掌をさしだしているというか、オカネもなにも、自分が言われたように暮らしていることの代償として、空から降ってくるのだと信じているような所があって、案外と、自分は社会の外側にいて、自分と社会とは交渉的な関わりしかないのだと考えているように見えることがある。
そのなかで高いところからオカネを撒く人の気持ちを最も汲んで、「模範的な支配のされかた」を演じてみせたものが社会の強者として振る舞うという不思議な習慣をもっている。

「え?暮らせない?あなた、社会に言われたように暮らさなかったんじゃないの?」と役所の福祉課の窓口で言われそうな、怖いところがある。

いつのまにか陽だまりを失って、凍えるひとびとを、突き刺すような視線でにらみつけるようなところがある。

その睨みつける視線が、いったい、どこから来たのか、なにに由来するのか、これから、考えてみようとしているところです。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

友達がいる夜

だだっ広い部屋に何千というフライパンが並んでいて、それぞれ二十個くらいの餃子が載っている。
中国の人であるらしい係のひとが、つきっきりで説明してくれていて、
「これらのフライパンは日本製で、日本人の悪意が超伝導で伝わることによって加熱されています」と言う。

加熱されるフライパンには順番があって、見ていて法則性が把握できないが、しばらくすると、一箇所に悪意が集まるらしくて、そこだけ集中的に加熱されはじめる。

煙があがっている。
傍らの中国の人が「あっ、あそこで目玉焼きが出来ましたね。
ガメさん、われわれの技術は、どうですか?
もう欧米に負けていないとはおもいませんか?」

目玉焼きが焼けましたって、あんた、あれは餃子ではないか、とやや憤然とした気持になったところで、目が覚めた。

ベッドサイドテーブルのiPhoneを手にとってみると、午前1時半で、ヘンテコな時間に目が覚めてしまっている。
目玉焼きが餃子である悪意の超伝導から現実にかえってみると、友達夫婦が来ていて、客用の寝室のひとつで泊まっていて、そういえば、早寝早起きの習慣の友達夫婦は午後10時には、もう眠くなったといいだして、それまでカネモチたちはいったいどういう理由で餃子なんて、あんなヘンテコな食べ物を好むのだという堂々たる論陣を張っていたのが、さっさと寝室に入って眠ってしまった。

それで、モニとぼくもつられて眠ってしまったのだった。

カネモチたちは、を連発して、おれはカネモチと秀才は嫌いなのだと威張っているが、このひとは現金だけで100億円だかなんだかが余って銀行に眠っていて、
頭がわるいくせに勉強したがる秀才くらい手に負えないものはない、ああいう人間たちは大学に入れないようにすべきなのではないか、と、大庭亀夫のようなことを述べるが、少なくともイギリスでは超一流ということになっている大学を卒業している。

おれは頭を使う職業は嫌いなんだ、と述べて、同級生たちをぶっくらこかせたことには、鉱山で働いたりしていたが、どこでどうオカネを工面したのか400ヘクタールの農場を買って、最近まで農業をやっていた。
その頃は、顔をあわせると、英語国の土地の値段をつり上げているのは、どこのバカだ、と怒ってばかりいたが、当人は「農業はもう飽きた」といって、農場を売り飛ばしてみたら、おおきな町に近いところにある農場だったので、折りからの不動産バブルで、なんだか口にするのも憚られるほどの大金が転がり込んできて、しばらく奥さんとふたりでウィスコンシンのマディソンだかどこだかに住んでいた。

なんでウィスコンシンなの?
と聞くと、ハンバーガーがうまいんだよ、という返事でした。

朝の9時半という、とんでもない早い時間にあらわれて、酒を飲むのはやめたんだと述べて、炭酸水を次から次に飲みながら、夜の10時まで、ノンストップで話をして、ほとんど森羅万象について述べて、楽しかったが、英語人にはあきあきしてきているようで、どうも英語で話す国の国民は、どいつもこいつもくだらない、と三度ほども繰り返していた。

どこの国のひとならいいの?と聞くと、なに言ってんだ、ガメ、おれは英語しか話さないから、他の国のことなんて知るもんか、と言う。

それから、やや居住まいを正す感じになって、
ところで、ガメ、ニュージーランド人は、なんだってこんなポリネシアの、そのまた向こうにある国で、英語を話してるんだ?
と質問する。
もとはイギリスから来たって、せっかく新天地に来たんだから、当時だと、エスペラント語かな、アボリジニ語でもマオリ語でもいいから、英語みたいなバカまるだしの不動産屋みたいな言語でなくて、もうちょっと気が利いた言語をつかわなかったのはなぜだ?

めんどくさかったんじゃない?
というと、
「態度がわるいやつらだな」と、また怒っている。

友達夫婦が寝静まって、自分は悪意超伝導で目がさめてしまったので、こうして日本語を書いている。

眠っている、きみの夢に向かって、話しかけている。

きみやぼくは、いったいなんだろうか?と考えている。

恐竜みたいなものか?
もし恐竜ならば、化石になって、冷たい海の底で、静かに眠っているべきなのではないか。

いつかきみは、自分は世界を愛しているが、その事実をどんなふうに表現すればいいのか判らないのだ、と述べていた。
人間は表現者と受け取り手の両方が観念の高みにのぼらなけば、なにごとか伝達することはできないが、自分には、どの観念の塔にのぼればもっとも自分に適合しているかがわからないまま、到頭30歳になってしまった。

「ガメのように、人生からなにかを受け取ることを望まないという態度はどうしても理解できない。
きみは頭がいかれているとおもう。

きみは自分の中心的な知的活動を世間に向かって発表したことはないでしょう?
そうして、きみは、わざと、世界とオカネだけで関わろうとしている。
そこまでは判る。

でも、なぜ、きみはその一方で、世界を故意に誤解して、しかもその上に、周到に準備して、世界の側からもきみを誤解させようとするのか?

きみは、なんだかモニさんとふたりの、孤島の城塞のような場所にいて、欧州に近寄ろうともしない。

狷介で、複雑で、誰が足を踏み入れても、二度と出られない迷宮のような自己をつくるのに、どんな意味があるのか」

恐竜みたいなものだろうか。
同国人でも、もう、きみやぼくを理解できる人間は、そんなにたくさんはいないだろう。
よくて、せいぜい昔は愛でる人がいた骨董品、悪ければ、ただの古びた、すりきれた家具。

きみやぼくは、もののけで、中空に腰掛けて、頬杖をついて、ぼんやりと世界を眺めている。
自分が知っていた世界は、とうの昔になくなって、見知らぬ世界が目の前に広がっている。

丁寧で、やさしい心遣いに満ちた言葉で話す、きみの世界の住人は、まだ、例えばロンドンの、そこここに点在するが、それも日の名残のようなもので、いまは、身も蓋もない、「英語カルチャー」が、通り一遍のチェーン店がならぶモールかなにかのように、退屈で凡庸な顔を並べている。

ホームシックの感情に負けて、遙かに遠い故郷に帰ってみたら、故郷はすでになくなっていた人のように、なんだか茫然として、新しくて、活気がある、多様性にみちた、かつては故郷であった町を眺めている。

ぼくは多分、人間の世界が好きだったことは、いちどもないんだよ。
考えてみると、ほかに、友達をつくった理由なんてないものね。

ほら、いつか日本語の詩を引用したでしょう?

おれたちは 初対面だが
もし会えなかったら、どうしようかと
そればかり考えていたよ

会いたかった友達に会って、初めて、われわれはこの世界が荒野にすぎなかったことを理解する。

地平線まで歩いていけるか、歩いていけば、地平線はただもっと遠くに移動してしまうのか、そんなことは判らないけど、
収穫が終わって、荒れ果てた世界を、どこまでも遠くまで歩いていくしかない。

自分の家が見える、あの丘にたどりつくまで

Posted in Uncategorized | 1 Comment

子供たち

反アジア移民の大立て者で、煽動政治家のウインストン・ピータースの娘、というと、なんだか凄そうだが、本人は、涙もろくて、友達の猫が死んだ話をするのにも声を詰まらせて、涙がにじんでくるような人です。
子供のときは、ウエリントンのインターナショナルスクールに通ったのだという。
第一日目に、あっというまにたくさんの友達が出来て、楽しくて、天に昇るこころもちだった。
学校みたいに楽しいところがあったとは知らなかった、と考えた。

ところが二日目に、昨日、親友だね、と誓い合った友達のところに息せき切って駈けていったら、「おまえのおやじはクソ顔じゃないか。おまえもクソ顔だ、ぼくの側に寄るな」と言われた。
ショックで、ボーゼンとして、それ以来、学校も世界も大嫌いになった。

インターナショナルスクールに、なんとか通えたのは、イラン大使の息子がかばってくれて、大の仲良しになって、意気投合して、いつも一緒に行動してくれた。
昼休みには、イラクに侵攻して、サダム・フセインを殺すための戦略案づくりにふたりで夢中になっていた。

でも、そのイラン人の子供がいたから、わたしはいままで生きて来られた。

ブリー・ピータースは、そう述べて、また、涙で声をつまらせている。

言うまでもなく、子供にとっての世界は、おとなから見た世界の数層倍は苛酷な世界で、しかも、多くの場合は理不尽です。

ブリー・ピータースは、もしかすると、いまでも気が付いていないようにみえたが、もともとが連合王国の労働者階級とマオリが力をあわせてつくりあげた平等王国であるニュージーランドには存在しない、各国の外交官として滞在する上流階級の人間たちなどは、ニュージーランド人たちの想像を遙かに越えていて、そういう無思慮な生き物が多いので、子供のときには、真に天使のような姿だったブリーに会って興奮した子供が、親に学校の第一日目の報告で、そのことを述べてみたら、
その子の父親がよくない人間であること、おとうさんとおかあさんとしては、そういう人間の娘と付き合ってほしくないこと、を告げられたのに違いない。

おとなは、子供たちに対して、ごく無造作に残酷である。
小学校のときに、虚言癖のあるOという友達がいて、ぼくはこの友達の気持ちのやさしいところが好きだったが、小さな嘘を述べる癖があるこの級友Oを、K先生はすごく嫌っていた。
もちろん、言葉にして述べたり、露骨な態度で示したりはしないが、潔癖な人で、まるで全身全霊で級友の小さな嘘を憎んでいるのが、微かな態度の違いににじんでいて、クラスの人間全体が知っていたとおもう。

この級友が夏休みのあとに、おとなでも手に余るような巨大な木の帆船模型を学校にもってきた。
みんなが大歓声で集まって、すごいね。
これ、カティサークだよね、と言いあって目を輝かせた。

ひとしきりカティサークの栄光の歴史について話し終わって、興奮の余韻が残っているうところで、みなの後ろから、
「おとうさんに作ってもらった帆船を、自分がつくったもののように見せびらかしてはいけません」という冷たい声がした。

K先生だった。

先生はおとなの目でみて、級友のふだんの虚言癖も勘案して、これは自分でつくったものではないな、と判断したのでしょう。

Oは泣かなかった。
唇をひきしめて、一文字にして、帆船模型を床にたたきつけた。

ぼくは、帆船模型をOがひとりでつくって仕上げたのだと知っている。
一緒につくったのでも、つくっているのを見たのでもないが、友達なので、そのくらいことはすぐにわかった。

K先生のところにいって、先生が言ったことは、なんの根拠もないし、Oに対して失礼であるとおもう、
謝るべきなのではないか、と提案した。

先生は、きみはまだ子供だから判らないのだとかなんとか、口のなかでもごもごと述べていたが、話を切り上げようとしても、一向にあきらめて立ち去りそうもない頑固な子供の態度を見て、薄気味がわるくなったのでしょう。
ほんとうに言葉だけの、おとなの詫び然とした、心がこもらない態度で形ばかりの謝罪の言葉を述べていたのを、いまでもいまいましい気持でおもいだす。

その手の出来事が、無数にあって、自分が子供のときの記憶に陰翳をつくっている。

ツイッタに書いたが、モニさんとふたりで、コメディフェスティバルに出かけた。
このブログにときどき出てくる、例のアオテアスクエアにあるQシアターです。
どういう理由によるのか、スタンダップコメディ、コメディアンがひとりでステージに立って、バカ話を繰り広げる、日本語なら漫談というの? それとも、あれは死語なのか、いま調べても適当な言葉が見つからないが、どこの国でも、客席は白い人ばかりで、コメディアンのほうも、白い顔が並んでいるのを見てとると、ワルノリして、politically incorrectな、もっと簡単に言ってしまえば、人種差別的なジョークを連発することがある。
なんだか、聞いているのが不愉快になって、劇場を出てしまったこともあります。

白い人同士でも、いつだかは、ブロードウエイの舞台で、ユダヤ人のブロードウエイのユダヤ人支配についての冗談とあてこすりをしつこく繰り返す連合王国人のコメディアンに怒って、顔を真っ赤にして舞台をみつめていたキッパをかぶった男の人がいて、はらはらしながら見ていたことがあったが、そのときも、やはり自分も不愉快になって席を立って、帰って来てしまった。

でもその夜は安心で、ホストが有名なマオリ人のコメディアンで、登場する人たちも、半分はマオリ人のコメディアンたちで、彼らがいつかウエリントンで見た最悪なポール・ヘンリーのクソコメディのような、マオリ人やポリネシア人をさんざん笑い物にするようなパフォーマンスをするわけはなかった。

モニさんは知っていて黙っているようだったが、スタンダップコメディであるよりも、TEDに近いような演し物が多くて、殆どの人は、ふつうのスタンダップコメディだと考えて来ていたので、いったいどこで笑っていいのかとまどっている様子がありありとわかりました。

そのうちに、笑い所どころか、有名コメディアンや俳優・女優たちが、自分や伴侶の、アルコール中毒との格闘の経験、人種差別に遭った痛み、社会に適応できない心の病に罹った子供を支えるための家族の凄惨な体験の報告、鬱病に苦しめられて未だに克服できないでいる自分自身の脳髄に対するいらだち、どれひとつとっても、単独ならば芸能雑誌がおもしろがって書き立てそうな深刻な話題を、みながいっせいに赤裸々な言葉で述べる試みなのがわかって、びっくりして、でも次の瞬間には深い感動に包まれて、涙をぬぐいながら、時に混ざるジョークに笑い声をたて、また啜り泣く声が劇場のなかに満ちてゆく、という感情の起伏の忙しい夜だった。

なんでもないことのように「わたしは先週まで二週間精神病院の病棟にいたのですが」と述べる、テレビや映画でみなれた顔のアイルランド系コメディアンや、若い人にたいへんな人気がある、ちょっとジョン・ベルーシのようなところがあるイングランド人のコメディアンが、いつものような漫談のスタイルでは、とてもではないが最後まで普通に話していける勇気がない、と考えたのでしょう、書いてきた文章を下を向いたまま早口で読みあげるという、およそこの人らしくないやりかたで、自分がいかに子供のときから鬱病に苦しめられてきたか、コメディアンになったのは、ステージにいて、観客の笑い声に包まれているときにだけハイな解放された気持になるからであって、舞台が終われば、いつものように鬱病と格闘する夜がこわくて、アルコール依存症にもなってしまったこと、いまは大丈夫で、鬱病は自分の場合はなおらないが、いまは自分の大脳のいちぶに住み着いたものとして慣れてきて、飼い慣らせるようになってきたような気がする、と述べていたり、どの人も、なんだか信じられないような勇気で、率直に勇敢に自分が抱えている問題を述べて、まるで非現実であるような、不思議な一夜だった。

二時間の予定が三時間に伸びていたのに気が付かないくらい、あっというまに終わったパフォーマンスのあとで、冬にしては暖かいクイーンストリートに出て、予約してあるレストランまでの道を、モニとふたりで、すっかり昂揚した気持になりながら歩きました。

人間は、すごいな、とモニさんが述べていたが、
自分は誰にも必要とされていないと感じながら、病気のせいで、神様は自分を苦しめるためにこんな仕打ちをするのだろうかと疑いながら、
「まるで頭を毛布かなにかでぐるぐるまきにされたようだ。もうなにを考えるにもいやだ。なにもしたくない。なにもできない」という気持に一日中苦しめられながら、それでも、なんとか気を取り直して、一日一日を生きていこうとする。
行く先のあてなどないのに、一歩づつ足を踏みしめるようにして、痛みに耐えながら死に近付くことによって、ただの生命の終端にしかすぎなかった死が栄光に包まれたゴールに変わってゆく

パフォーマンスの前に、みなで話しあったらしいコメディアンたちの結論は、子供のときにおとなから受けた言葉の傷が意識の奥底に潜り込んで人間を苦しめる例が多いのではないかということだったようで、ステージでも話はだんだんそこに収斂して、せめて、みなで努力すればなくせる、言葉による、特に子供の心に対しての傷害行為だけは社会のちからでやめさせよう、と繰り返していた。
それは必ず、鬱病や依存症も減らしていくことにつながるに違いない。

ツイッタに、

と書いたが、140文字で書ききれなかったことを書くと、おとなの心ない(心ない、ではいかにも表現として投げやりだが、ほかにおもいつかないので仕方がない)ひとことで、心が壊されて、心の欠片がなくなってしまうことも問題だが、その先で糊付けして助けてくれる人に出会えても、それが糊付けされたものにしかすぎないことを、もちろん当人は知っていて、そのことはそのことで、また、心にできた毀たれて、欠けてしまった欠落とは別に、いわば糊付けの傷痕がいつまでも残って、当人を苦しめる。

おとな同士は、否定されなければならない考えが蔓延っているときに声をださなければいけないことがある。
それが激しい糾弾の言葉になることもあります。
でも、子供に対して糾弾するのは100%おとなの側が誤っている。
子供は、もともとおとなに較べれば遙かに完全な統合体で、おとなになるということは、その統合体のあちこちが欠けて、悪ければ、そこに間違った修復部品が糊付けされて歪つになってゆく過程のことにほかならない。

最近の日本の事件でいえば、48歳の中年男が17歳の(性的には、まったくの)子供を襲って、子供が機転を利かせてやっとのことで逃げのびたのに、17歳の子供のほうにも責任があるという人がたくさんいて、すっかり驚かせられたりした。

子供にとって最悪なのは、子供のほうは人間がまともなので、おとながまるで自分は完璧な人間であるかのように装って子供の欠点を叱責すると、子供は態度そのままにおとなが完璧な存在であるとうけとって、自分が取り返しがつかないくらいダメな人間だとおもいこんでしまう。
おとなのほうで、自分にも欠点があること、ダメなところを乗り越えるのに苦労していること、人間であるかぎり、人間性のダメダメなところから逃れられないことを、理由は明らかだとおもうが、できれば親から子に直截ではなく、社会という共通のいれもののなかで、どんどん公開していくのでなければ、子供のダメージはおおきくなるばかりで、社会は、悪意の巣窟になってしまうだろう。

やっと、「おとなの攻撃的抑圧的なひとこと」が子供の耳に入ってしまうことの重大さは、いままで漠然と考えられていたよりも遙かに深刻な影響を個人の一生に与えていることがわかってきて、社会として意識化して、おとなたちがお互いを再教育して、戒めあいだしたところだとおもいます。

子供をいまのまま騙しているわけにはいかないものね。
社会がやっとそのことに気が付いて動きはじめたのは、ずいぶんのんびりではあっても、やはりいいことで、よいことをするのに遅すぎるということはない。

知らんふりをしていないで、子供を救わなければ。
闇のなかで途方にくれたおとなを救い出す能力があるのは、結局は子供だけなのだから。

Posted in Uncategorized | 3 Comments

Hへの手紙

人間が死ぬのだということが、どうしても信じられなかった。

「死んだら、いなくなるの?」
「そうよ」
「いなくなって、なにもなくなっちゃうの?」
「そのとおりですよ」
「ぼくもおかあさんも?」
「そう、あなたもわたしも」

かーちゃんは、ほんとうのことしか言わない人なので、その頃は、毎日、泣いて過ごしていたのではないだろうか。
そんなバカな、とおもうが、
内緒で、だんだん、家の人に聞いてみても、みな、ちょっと戸惑ったような顔はするものも、おもいきったように、坊ちゃんも、わたしも、みな死ぬのですよ。
おかあさまが仰ることがほんとうなんです。
残酷なことだけど、という。

があああああーん。

まだ始まったばかりの人生なのに、なんという打撃。

ほんとうの意味では、そこから一応立ち直るのに10年かかっていたのではないだろうか。

子供のときは満月が怖かった。
なにしろ、どこにいても、空からずっと、こっちを見つめている。
なにごとか言いたそうだが、どうも、言いたいことの内容は、ろくでもない、不吉なことであるような気がする。

子供部屋の外にあるスズカケの木も怖かったが、子供のときは月のほうが怖かった。

でも14歳というような子供からおとなの影のなかに入ってゆく歳になると、人間という存在が、老いて、やがては病んで、衰えて死ぬ運命にあることは、月の表情よりもずっと恐ろしいものになっていった。

で、ね、HTよ。
ぼくの一生は、そこから始まったのだと思います。

死によって始まった。
終わりがあるという恐怖から始まったのだと言えないことはない。

ぼくは若いときは数学ばかりやっていた。
いま考えてみると、ちょうど、いまの大学生がスマホを隙をみてはいじるように、小さな緑色のノートブックを持っていて、そのときどきに考えている問題について書き付けていた。
朝から晩まで数学語を話していた。
自分自身に向かって、だけどね。

永遠にむかって語りかけていたのだとおもう。
自分の一生は須臾の間に過ぎないが、永遠のどこかに立っている人に、あるいは存在に、自分が生まれて来て、この世界で見たことを伝えたかったのだとおもいます。

ひとよりもずっと早く入った大学は、かーちゃんの「子供」がおとなたちに混じって大学に入って受けるショックへの心配とは裏腹に、ぼくを世界から守ってくれた。

….まあ、そんなことはどうでもいい。

あいだを全部端折って話をすると、ぼくは数学は好きなままだったけど、アカデミアの世界に嫌気がさして、というよりも、どうしても自分に正直になれない、必要のない知性上の気取りに満ちたアカデミアの住人たちに嫌気がさして、それまで蚕の繭のように自分を守ってくれた大学を出ていきます。

ヒマツブシのようにして医学をやっていたが、あの学問は、いかにも自分には向かなかった。
出て行くドアはたくさんあるのだけど、どれもピンと来ない、というか、どれも自分が行きたい階には通じていない。

ところが医学部の学生たちというのは、どのひとりをとっても自分の目的地を、あらかじめ知っているようなひとびとで、これは大変な場所に来てしまった、と考えました。

嫌味に聞こえないことを祈るが、ぼくは幸運だった。
社会人として全然ダメでも、「社会人としてダメ」なのは家系の伝統で、誰も咎めるわけはなかったからね。
ダメでも食べられなくなることはありえなかった。

ぼくはNYCで疑似ビンボ人をやったり、メキシコで行き倒れになりそうになったりしながら、次第に自分を立て直していった。

ぼくは医学をゴミ箱に捨てて、祖父と父親のアドバイスに従って、おもいきり放蕩に身を投げることにして、人間の世界について学んでいった。

そうして、もどってきた場所は、なんだか5歳のときと、あんまり変わらない。

「死んだら、いなくなるの?」
「そうよ」
「いなくなって、なにもなくなっちゃうの?」
「そのとおりですよ」
「ぼくもおかあさんも?」
「そう、あなたもわたしも」

では、なぜ、ぼくはこの世界に生まれて来たのか。
ぼくは、ここで何をすればいいのか。
せめても、毎日の生活で出会う人を、喜ばせて、少しのあいだでも幸福にすればいいの?

HTよ。
きみは笑うだろうけど、ぼくは自分の幸運と幸福とを再配分する方法がわからないのでとまどっているのだと思います。
きみはバベルの塔を建てたがっているけど、そんなものは人間にとってはどうでもいいんだよ。

ほんとうのことをいうと、宇宙の秘密を解き明かしても、きっと人間の生活はなにも変わらないのです。
生活、がわからなければ、人間の宇宙への認識と言い直してもいい。

だから、HTよ。
きみの功名心にとてもよく似た新しいビジョンの建設の試みは、無意味なものに終わるのではないだろうか。

そんなことより、神を見る努力をすればどうか。
(笑ってはいかむ)
日本語の人には悪いが、日本語では神は見ることはできない。

英語でもちょっとつらいが、少しのラテン語の助けで、やれるかもよ。
「何事かを自分の人生のトロフィーとしてやりとげる」ことになんて、なんの意味もないんだよ。

人間が死ぬのだということが、どうしても信じられなかった。

もしかしたら、いまでも、同じなのかも知れないと思います。

日本語では、「非望」というらしいけど。

Posted in Uncategorized | 3 Comments

若いプログラマへの手紙

第二次世界大戦の爆撃機の後部銃手たちについて、まとめて、何冊か本を読んでいて、きみのことを思い出していました。
われながらあんまり良い表現ではないが、きみの遺伝子の半分を占める英語国民の血のせいか、軍事にも興味があるらしいきみはきっと知っているだろうけど、爆撃機の後部銃手は、戦闘機からすれば目の仇で、真っ先に沈黙させにかかる銃座で、もともと戦死率が高い爆撃機クルーのなかでも、特に戦死率が高いポジションで、しかも、例えばB17の後部背面旋回機銃塔やランカスターの後部旋回機銃塔は、小さな人でも身体を屈めて、まるで屈葬されるネアンデルタール人のような姿勢で、
必ず零下になる高空を、閉じ込められた空間にひとりぼっちで、9時間を越える滞空時間を孤独に戦いながら飛ばねばならなかった。

本から本へ、読み渉っている途中で、なつかしいRandall Jarrellの詩に、ひさしぶりに行き当たった。
こういうのです。

From my mother’s sleep I fell into the State,
And I hunched in its belly till my wet fur froze.
Six miles from earth, loosed from its dream of life,
I woke to black flak and the nightmare fighters.
When I died they washed me out of the turret with a hose.

あの人らしい、というか、この詩は、これで全部なんだよ。
いったいに、戦争ちゅうにパイロットだったひとびとは、
ロアルド・ダール、サンテグジュペリ、Randall Jarrellと、いったいに、感情からなにかが削げ落ちていて、素っ気ないが、この詩もそうで、
短くて、もの足りなくて、それでいて完結していて、なにかを足しようもない。

When I died they washed me out of the turret with a hose.

は、もちろん、旋回銃塔のなかの銃手が死亡したときの、後始末の手順を描写しているだけだが、その手順は、現代の世界で、生産性向上のためのツールとして酷使される、若い人の死を、うまく象徴しているとおもう。

事務的で無関心で冷たい手が、きみが流した血を洗い流して、そこには、人間性というような曖昧なものが介在する余地はない。

ぼくは、この世界の冷たさに驚くことがあります。
ただ運がよかったせいで、いままで、気が付かなかったんだよ。
まだ世界がよく視界として見えてきさえしない若者に、世界は襲いかかって、プログラムの能力があれば、コーダーとして、プログラマとして、あるいは生物学者としての才能があってさえ生物学者として、現代の世界は、若い才能を消費して、食い尽くしてしまう。

それが正しいことでないのは、皆が知っているが、明日のことより先の心配をする余裕がないので、申し訳ないとおもいながら、若い人のエネルギーに甘えるのね。
あるいは、なかには、若いちからは消耗品だと割切っている人もいるのかも知れないが。

ぼくは、子供からおとなになって、なんだかぼんやりしているうちに、物質的に成功して、よく世界を認識しないうちに、他人を雇うほうになってしまった。
自分の会社で直截雇っている人もいるし、自分が雇っている(という表現は変なのだろうか)会社が雇っている社員の人もいる。

自分で直截雇用しているひとびとは、日本語で書いたってわかりゃしないので平気で書くと、ぼくより、ずっとビジネスの世界では優秀なので、雇っているといっても内実は一味郎党のようなもので、向こうも、「自分がいないとガメはとんでもないことしか考えないからしっかりしなければ」というような理屈で仕事をしているもののようです。

なにしろ自分の会社の社屋に、いつものように、半ズボンとTシャツで出かけていって、警備員のおっちゃんに入れてもらえないで押し返されるくらいダメな社主なので、生産性もなにも、もしかしたら帽子の飾りみたいなものなのかも知れないが、それはそれで、ひらひらしていて、見栄えがいい羽根飾りになればいいけど、とその程度の考えで会社の社主をやっている。

だから、あんまり、ああだこうだと述べる資格はないんだけど、やっぱり、やっぱりがつくような日本語表現はダメなのだと日本語の先生に教わったが、やっぱり、
いまの世界の若い人への態度は、文明として間違っているのではあるまいか。

若い人は、マヌケでいいんです、とぼくの大学の先生は述べていた。
いま考えてみると、本人も若かったんだけどね。
社会の役割は、マヌケな若い人に、失敗をするだけの余裕をつくって、なんどかみっともない失敗を繰り返しても、見て見ぬふりをしてあげることなんです。
若い人に生産性を期待するような社会は、社会として失格であるとおもう。

で、ね、ぼくはこのごろ、この人が述べたことの正当性と重大さのことを、よく考える。
若い人間を、社会というプレスにかけて、最期の一滴までエネルギーをしぼりとるような、いまの世界は、ほんとうは、狂気に陥っているのではないだろうか。

先週、ぼくは、あることのインタビューにやってきた若いレポーターと話していて、その人が苦闘して、内心の苦しみと格闘して、おなじ家のフラットメイトと性的放縦のなかで乱交してみたり、ドラッグに救いを求めたり、ひどいディプレッションに陥って、手首を切ってバスタブに浸かっていたりしていた話を聞いていた。
「どっちがインタビューに来ているのか。ガメさんは、不思議な人ですね」と言って苦笑いをしていたが、この20代前半の人の話は、ぼくがいろいろな若い人から聞いている話と符丁があっていて、しかも、暗然とさせられるようなものだった。

多分、われわれが生きているこの世界には、だんだん個々の人間に対して冷酷になってゆくはっきりとした傾向があって、20代の若者から始まって、10代へ、さらに若い未成年へと、noviceを標的にして、消費しつくしていく、人間に対して容赦をしない性癖があらわになってきているのだとおもう。

きみは、「ここ二日で35時間も働いている」とツイッタで述べている。
自分は、こういうことをやっていると死ぬのではないかと何度も述べている。
でも、それが、ただの風景として聞き流されて、誰も慌てないくらい個人の運命に冷淡な世界を、ぼくやぼくの年長の友達たちはつくってしまったのではないだろうか?

現代の世界は、そのまま、むきだしの、悪意そのものに似ている。
若い人間にとっては、特にそうで、きみの肩をつかんで、生産マシンに放り込もうとする。
もしきみが女に生まれれば、状況はさらに最悪で、ハンディキャップを負わされた職場に向かうきみのスカートからでた足を、ほら、向かいの席に座ったおっさんがなめるような視線で見ているでしょう?

なぜ、こうなってしまったのか、ぼくには判らない。

と、ここまで書いたら、メモのつもりで書いたRandall Jarrellの詩に、きみがfavouriteのマークをつけている。
偶然が伝えようとすることは、時に、深刻であるとおもいました。

死なないで。
頑張ってしまうのは、どんな理由によっていても、よいことではない。
お母さんの国なのかな?きみが愛する日本の文化は、残念なことに、自分を愛する個人を殺すことを躊躇しない。
自分を愛する者から食い尽くす文明なのだと思います。

ぼくにはHermes @Hermes_trismというチョー変人の弟がいるが、アホで、スコットランドにいればよかったのに、到頭、日本の九州にいて、きみとおなじように過労死しかけている。

日本という狂気には、日本に愛情をもつ若い人には魅力があることは、ぼくの貧しい想像力でも判る。
でも、その魅力は、疲れ果てた人の目の前にあるクビを吊るロープの魅力に、似ていないだろうか?

やってみる価値があるだろうか?

ぼくは、いつかきみやhermesに、会いたいと思っています。
日本語という言語で出来た文明の体系をどう思っていたか、聞きたいとおもっている。

いや、くだらない理由づけをする必要はないか。
きみやhermesが歩いたアンビバレンツの道が、ぼくには、ほんの少し判る気がするから、と正直に言ったほうがいいのかも。

ふたりとも肉親としかおもえないのは、ぼくにとっては外国語である日本語の技量への見栄なのかもしれないけど。

どうしても、会いたいとおもっています。
だから、ひとりぼっちで、タレットのなかで死なないで。

ホーズから流れ出る、冷たい水で洗い落とす死を、死なないで欲しいと真剣に願っています。

Posted in Uncategorized | Leave a comment

日本と韓国

日本のひとから「ひたむきさ」が失われて、だいたい20年が過ぎようとしている。
それ以前の日本人は、ひたむきな自分を隠すために冷笑的な態度や自嘲的な態度、
なんでも笑ってすませる文化をもっていたが、ずっと見てくると、冷笑的な態度や衒った態度のほうが本質になって、研鑽というようなダサイことはやらなくなったのが1990年代の終わりくらい、というような話はブログのそこここに出てくるので、いまは、ここでは説明しなくても、よさそうな気がする。

ネットで見ていても、50代の、思索家・読書家だと述べる人が、大学で理論物理を講じている人と、「論戦」をしている。
専門の物理研究者に対して、議論を挑んだ、と聞くと、ふつうは、教室の後ろの席で立ち上がって、物理講師に疑問を述べて、専門的な議論を繰り広げて世間を唖然とさせた詩人のポールヴァレリーを思い浮かべることになるが、ヴァレリーはしかし後半生は、熱狂的に科学を好んだ人らしく、物理学への造詣が特別に深かったので、その50代の思索家の人の、3,4冊「議論」をしたかった問題についての一般科学書を読んだ、というのとでは、どうしても話が異なる気がする。

誰でもものを言っていい社会は、よいものだが、1を知った人が100を学んだ人間と同等だと妄信することをおもいあがりというが、日本語のネットでは、随分、「おもいあがり」と呼ばれても仕方がない人を、たくさん見かけたような気がする。

なぜ、こんなことを述べているかというと、日本語をやめてしまうまえに、と言っても、やめてしまう予定があるわけではなくて、なんだか日本社会に段々興味がもてなくなってきている自分を感じて、自分というわがまま勝手な友達とも、かれこれ30年を越える付き合いで、わかっていなくもなくて、こういう「感じ」がするときは、危ない、のが判っているので、警戒しだした、というだけのことだが、いきなり日本語をやめられると困るので、日本語をやっているうちに、類縁語である韓国語もやっておこうと考えて、やたら韓国語の文章を読んだり、韓国語の映画やテレビを見ているのだが、予測どおり、ほとんど兄弟言語で韓国と日本の文化はとてもよく似ていて、人の考え方や感じ方も、文化的な距離が遠い、ぼくから見ると、「おなじなんじゃない?」と言いたくなるくらい似通っている。

異なるところもある。
こういうことは歴史的事実を反映するものなのか、儒教、とりわけ儒教が学問化したうちの朱子学の優等生だった朝鮮民族は、儒教的な思想がほとんど感情となって血肉化している。
これはまたこれで違う記事で書こうと考えたので儒教や儒学的な文明の面白さについては、この記事では書かないが、まだ自分が初心であるせいで、正体不明の、しかし決定的に日韓で異なる点もある。

例えば、판도라、英語名をPandoraという
まるで韓国の人が観察した福島第一事故への文明批評とでもいうようなディザスタームービーがあるが、この、例えば映画をつくっている人が明らかに福島原発吉田所長の、原子炉の再利用を不可能にする、海水注入のような決断は韓国人では出来ないな、と考えているところや、
韓国の場合は、問題の隠蔽や、方針の頑なさにおいて、日本ほどの柔軟性ももてないだろうという内省的な視線にあふれていたりして、まるで、弟から見た兄の災難の乗り切りかたを描いてみせたような、日本の人にとってはおもしろいに決まっている映画だが、この映画に出てくる英雄的な行動に出る原発職員たちが、日本文明の基準では、やたら女々しい。
まず最後は自分の生命とひきかえに原発惨禍の拡大を止める主人公が、みなが決死でメルトダウンの拡大を止めに行こうとすると、ひとりだけ、おれは家族との生活のほうが大事だと述べて、家に帰ろうとする。

あんまり筋を書いてはいけないもののようだから、おおはばに端折って、最期だけを書くと、人知れず頑張って死んだりはしなくて、自分のヘッドカメラを全国中継してくれと上司に頼んで、あまつさえ、
自分は、ただ平穏な家族との生活を望んだだけだった。
それなのに、なぜ自分だけが、たったそれだけのことが許されないのかと泣き叫ぶ。
こんなふうに死にたくはなかった、こんな死に方は嫌だ、とかき口説くように述べる。

日本風の水準に照らせば、いわば泣き言という泣き言を並べてから英雄的な死を死ぬので、なんだか見ているほうは、おおおおー、日本人とは違うなあああーと感心してしまう。
韓国の人のほうが日本の人よりも、自分に関して、より正直である、と考える。

余計なことを書くと、ぼくのように、なにを見ていても文化的な差異やなんかばかり目につく碌でもない視聴者は、いよいよ死ぬ間際のメッセージを伝えるのにも、まず母親が初めで、孝行できなかったことを詫び、次が姉で、母親に孝養をつくしてくれ、と述べて、もう死んじゃうんじゃないのとハラハラしている長口舌をつくしたあとで、自分の妻に対しては、ようやっとそのあとで、観ている方は、またしても、おおおー儒教国だなあーと白痴的に頭のなかで繰り返している。

一般に映画をみていておもうのは、韓国の人は感情の表出が激しくストレートで、「勁烈」
という言葉を使ってもよい、ちょうど、ひどく漠然とした比較をすれば、スペイン人の衒いのないストレートな感情の表現と連合王国の、ひねくれた、斜に構えるのが第二の天性と化した我ながら気の毒な文明と、目の焦点をわざとぼけさせて、ぼんやりとさせれば、関係性として、似ていなくもないところがあるかもしれない。

翻って、日本の現在の底なしの不振と、危なっかしくはあっても、全力で民族としての力を伸長しているような朝鮮民族とを対比すると、似た者同士の兄弟民族とは言い条、21世紀も5分の1が経とうとしているいまの世界では、斜に構えて、乱暴に言えば、かっこをつけてばっかりいる日本の文明態度は古くなって、韓国の人の、他人の失笑を恐れない「ひたむきさ」、直截さ、勁烈さが、ふたつの民族の明暗をわけているような気がしてきます。

日本語が上手な韓国の女の人の友達がいて、旦那のアイルランド人相手に、この人はアジア各国の「文明度」の品定めばかりしている人だが、普段は、「日本人にもいいところがあるのよ、ガメ、わかってあげなさいよ」と言うが、いちど、
一緒にエールを飲んでいるときに、いろいろなアジア人の品評をしていて、
日本人のところに来たら、そこだけ日本語で「カッコバッカ」と言うので、エールを吹きだしてしまいそうになったことがあったが、乱暴でも、案外、いまの日本の人の病気を、単純に、うまく言い当てているのではないかとおもうこともあります。

格好ばっかり、という感想がでてくるのは、つまり、日本の人がいまだに、例の「他人の視線」のなかで生きているということでしょう。
他人がどう観ているか、他人から見て自分がどう映るか、に自己への価値評価がかかってしまっているので、卑俗なことを述べれば、大学は全部合格しちゃったんだけど、東大でなくて多摩美に行きたいなあ、とおもっても、やはり東大にすすみ、就職でさえ、名前の見栄えがいい会社に入り、ひどいことをいえば、一生の伴侶ですら、自分の人生の意匠として、最も適当だと思われる人を選ぶ。
そこには「自分という最大の友達」の意思は、まったく反映されなくて、自分の選択が、積み重ねとして、自分を疎外してゆく。

ちょっと考えてみればわかるが、この社会から見た自分を自分の価値とするやりかたは、社会が狂い始めると、歯止めなく狂っていって、バランスを崩すポイントをすぎると、際限なくおかしなことになっていきます。

一方の韓国は、明治時代、朱子学的世界観を絶対として、そのあまりの頑迷固陋にうんざりした福沢諭吉に「脱亜入欧」という、字面からして無理な、あんたはんは一億総鈴木その子をめざしていたんかいな、と訊きたくなるような、やけのやんぱち、癇性の爆発のような言葉を述べさせて、どうにもこうにも関節が硬い国だったが、この朝鮮民族から文明の柔軟性を奪っていた東洋的な志操となって、integrityの代用として機能して、小商人的な小手先でもうかってなんぼの、上目遣いの利益主義を忌む新しい世界のなかで、飛躍しようとしているのかもしれません。

そういうことどもは、文明的な距離が遠い遠くから眺めていると、「余計なものがとれてしまった日本文化」のようにも見えます。
近代の歴史には面白い暗合があって、映画が急激に勃興して、面白くなってきた社会は、必ず、次の瞬間、社会としての質が変わるスーパージャンプをしてみせる傾向がある。

まだ貧しさのどん底にいた50年代の日本は黒澤や小津の、普遍的な高みに満ちた映画をつくって復活を予感させたが、そのあとの大飛躍は、世界中の誰でもが知っている。
香港映画の興隆と衰退は、香港という中国圏ではあっても全くの独自の文明をあらかじめ解説している。
韓国もインドも、エンターテインメントへの嗜好が極めて保守的な英語人さえ瞠目する映画の質の高さで、ぼく自身も映画館や自分の家のプロジェクタースクリーンや大画面TVで、うみゅー、これはすごい、かっこいいと、ほれぼれしている。

地政学的な位置という、自分ではどうにもならない重病を抱え込んで、歴史を通じて、のたうちまわってきた朝鮮民族が、統一に向かって動き出して、西洋人は、ただひたすら祈っているが、韓半島には、おおきな文明の胎動が起きているのかもしれません。

だいいちさ。
「いけいけ」の文明て、いいよね。
それが朝鮮のひとびとの特徴で、いけいけ、どんどんいけというか、あのひとたちには不思議な民族としての「熱」がある。
もしかすると、やがては世界の文明の鋒(きっさき)をつくるような、百済観音を想起せよ、彼らの大好きな流線形の、見たこともないような文明が、あの刻苦を重ねた半島からは、生まれてくるのかもしれません。

Posted in Uncategorized | 3 Comments

Je tombe amoureux

冬の冷たい雨のなかを歩いている。
ゴドレーヘッドって言うんだよ。
田舎道の脇にモリスを駐めて、ぼくは歩いていったんだ。
髪をびっしょり濡らして目に入ってくる雨が、口実ででもあるように、ぼくは泣きだして、涙がとまらなくて、岬の突端につづく、細い、まがりくねった径が、もう見えなくなっていた。

すれ違った若い女の人が、なにか言いかけてぼくの顔を見たが、おもいとどまったように、やめて、黙って歩み去っていった。
きっと、とても、やさしい人だったのだろう。
あるいは、人間には、若い時には、まわりが素知らぬ顔でほっておくべき愚かさがあるという厳粛な事実を、よく知っていたのかもしれないね。

人間の最も強烈で崇高な感情が性欲に起点をもつのは、なんという皮肉だろう。
ぼくは、あの人のことが頭から消し去れなくなって、とても苦しいおもいをすることになった。

忘れなければならなかった。
だって、なにも出来ないんだよ。
朝から起きると、もうあの人のことを考えている。
ほかのことが、なにも手につかない。
紅茶を淹れるために電源をいれたジャグが沸騰して、もうサーモスタットが利いて切れているのに、そのままにして、キッチンの窓から外を見ている。

町を歩いていて、ほっそりした、背が高い金髪の女の人がとおると、1万キロも離れた町に来ているのだから、そんなはずはないのに、あの人に違いないという気がして、後をつけている。

テラスに腰掛けて、コプト風のドレスを着た天使の絵を描いている。
妹に冷やかされるのが嫌だから、つとめて、違い顔つきにしようとしているのに、どうしても、あの人の顔になってしまう。

One-night standで、歓楽から歓楽へ、知らない女のひとたちのベッドから知らない女の人のベッドへ渡り歩いていた自分は、なんてバカだったんだろう、とおもう。
神に恕しを乞うて、次の瞬間には、自分のやってことの大時代な滑稽さに、笑いだしてしまう。

ひどい、たちが悪い病気にかかったようなものだった。
カウチに倒れ込んで、頭を抱えて、うなっている。
妹が、やってきて、「おい、アニキ、しっかりしろよ。それとも、わたしがアニキも人間だったことを祝ってあげようか」と言うのは、励ましているつもりなのね。

論文も授業もおっぽりだして、ぼくは空港に向かったんだよ。
ほかに、自分を救う方法がおもいつかなかったからね。
一生を堅実にすごすための手続きは、もうとっくの昔にどうでもよくなっていた。

いつもなら二三日を過ごす乗り継ぎのシンガポールも、ただ空港の椅子に腰掛けてすごして、一睡もしないままクライストチャーチの空港に着いた。
ぼくはいまよりももっと若かったときには、とても感情がおおきくて、巨大な感情に圧倒されると、いつも、このゴッドレーヘッドをめざしたものだった。

なんの変哲もない、岬の突端の丘なんだけれど、クライストチャーチ人は、例えば大事な人を失った悲しみに打ちひしがれると、見渡す限り、どこまでもつづく冷たい海が見えるこの丘に来て、大声で泣くんだよ。
「身も世もない」って言うでしょう?
あれは、いまでは陳腐な表現だけど、きっと、初めは、そのとおり、文字の通りの感情だったに違いない。

人間は、ときに、身体のなかにある宇宙を全部しぼりだしてしまうような声で泣くことがある。

人間の知性などタカが知れている。
人類のご自慢の知性は、多分、せいぜい三十キロ四方の大地と空が生活圏であったころに成立した言語でできていて、そんなに遠くまで行けないんだよ。
人間は遠くへ行くために、あるいは確かな普遍性を獲得するために数式という言語を発明したが、人間の貧弱な知性では、そのくらいが限界だった。

自然言語に至っては嗤うべき機能の貧しさで、相対(あいたい)して、向き合ってしまうと、もう伝達すらできない。
人間は不思議な生き物で、あるいは情けない生き物で、伝達をしたいとおもえば、椅子をならべて、サイドバイサイドに座って、おなじ方角を見つめて、つぶやきあって、お互いの言語の草原にある対照を照応しなければならない。
あなたが述べていることは、わたしの辞書に書き込まれているこれのことだろうか、とたしかめあいながらでなければ、あますところなく伝達することすらできない。

冷たい肌と冷たい肌をあわせて、やがて吐息が荒くなって、肌そのものが灼けつくように熱くなって、熔鉱炉のふたつの金属が熔けあってアマルガムをなす、あの興奮のなかで、すべてのことは、一瞬に伝わってしまう。

それに較べれば、人間の言語の伝達能力は、なんと惨めなくらい低いのだろう。

人間は愚かさのちからがなければ、どうやっても真実にたどりつけない。
人間がすがっていけるものは、自分の跳躍的で不合理な愚かさだけであって、そのほかのものは、通俗な、くだらないガラクタにしかすぎない。
学校なんて、あちこちの時代の、雑多な知性から採集してきた、貝殻でつくったブローチほどの価値もない知識と思考の様式の品評会以上のものではない。

あんなものを知性と呼ばなければならなくなったら、邪宗の神様さえ赤面してしまうだろう。

ゴッドレーヘッドで、やっと少し落ち着いた気持になって、アートセンターに行った。
アートセンターは、むかしのカンタベリーの大学キャンパスで、ライムストーンの建物で、そのなかの、ぼくが好きだったカフェで、両手でパンプキンスープを抱えて、窓にうつる、自分で見てすら笑ってしまうほど若い顔を眺めていた。

目の下に隈をつくって、青ざめた白い頬で、鼻の頭が少し赤くなっていて、これでは「わたしは恋に狂っている男です」という、でっかいサインを掲げて歩いているようなものだよね、と自分でもおもう。

それから五日間、どうやって過ごしたのかおぼえていない。
何を食べたのかもおぼえていない。
もしかしたら、なにも食べなかったのかもしれない。

ぼくはバラバラになって、床に散らばった自分の魂を拾いあつめて、自分が住む大学町へ帰っていった。

打ちのめされた気持で、大雨のなかで、下水口に捨てられた仔犬のような気持で、ぼくは現実へ帰っていった。

こんなことは、きみにもぼくにも、誰にでもある経験で、「女にもてる男になるには」というような考えを、きみやぼくが、頭から軽蔑する、あの苦々しい気持の起源になっている。

「女にもてる」なんて考えは、あるいは考えの角度は、恋をして、自分の人生がなくなりかけた経験をもたない、計算高くて、周到で、鈍感なせいで、生きていくことだけは巧みな人間が考えることではないだろうか?

こんな言い方をすると大笑いをする人間がたくさんいるに決まっているが、きみやぼくにとっては女の人に恋をすることは、いつも、自分の存在を危うくすることだった。

誰かを好きになるたびに、きみやぼくは死んで、運がよければ、生き返った。
でも生き返ったときは、もうまるで別の人間で、二度ともとの自分にはもどれなかった。

自分が、こうやって生きていることが不思議なことがあるんだよ。
どうして、感情の嵐のなかで死なないですんだのだろう。

ぼくは、やがて、あのときに、まるで自分で自分の動脈をかききる人のようにあきらめた人と再会して、結婚するだろう。

いまでも、でも、あのゴドレーヘッドに行った午後のことを話したことはない。
なんだか話してはいけないことで、口にすると、いま現実だとおもっていることが、ガラスが砕け散るように目のまえで砕けて、なくなってしまうような気がするのだとおもいます。

乾杯。
せめても、きみとぼくとの、ささやかでも価値がありそうな、愚かさを慈しんで。

Posted in Uncategorized | 2 Comments