確率ブルース

なんだか怠け癖がついてしまって困っている。
生まれてから、このかた、ずっと怠けているわけだから、いいかげん癖になるのは、当たり前だが、料理の人にご飯のしたくを頼むのがめんどくさいところまで来てしまうと、自分でも、いくらなんでも、酷すぎるのではないか、と想わなくもない。

家には何匹か猫がいる。
三匹なら、三匹とはっきり書けよ、と言う人は、曖昧の美を理解していないのだとおもわれる。
チビ猫のときにもらわれてきたのや、客人として逗留している猫など、おおきな声では言わない方がセキュリティ対策としてすぐれているが、家のなかで、一部屋だけセンサーを切ってある部屋で、日がな、夜がな、ひねもすのたりのたりしているのが、わし家の猫たちの特徴で、そのなかでも黒一点、この猫がわし猫で、子供のときからのしきたりに従って、黒猫です。

ほんとうはQで始まる名前だが、ここではウイリアムと呼ぼう。
ウイリアムは、猫さんなのに飼い主に似て、あんまり四本の脚で立っていたり、
猫座りというべきか、前脚を立てて、すとんと腰を落とした、見るからに安定してカッコイイ座りかたもしないで、たいてい寝転んでいる。
そばを通ると間違えて踏み潰しそうになるが、本人は、より精確には本猫は、まったく気にしていなくて、怖がりもせずに、それどころか、おおー来たあーとばかりにおなかをみせて、purringを始める。

purring、日本語でなんというのか忘れた。
ごろごろ、かな?

ぜんぜん関係のないことを書くと、purringがどうやって起きるのか、実は、まだ物理的なメカニズムが判っていない。
声帯が振動するのだ、ということになっていたが、先月、どうやら違うみたい、副声帯とでもいうべきものが備わっていて、それが鳴っているようだ、という論文がニュースになっていた。

猫の鳴き方がわからなくて火星に行けるとおもっているのか!
と科学の神様が聞いたら怒るのではないかと思われるが、科学は可愛げがないやつで、神様を否定したがっているくらいなので、神様がいくら地団駄を踏んでも、興味がないことには手をださないのです。

おなかを見せて、なにをしろと述べているのかというと、猫のくせに、いや、くせにではpolitically incorrectなので、猫なのに、のほうが適切だが、足でおなかをさすってくれ、と要求している。
母指で、つんつん、ころころしてやると、きゃあああーと喜んで、4本の脚でつかまろうとする。
噛むふりをする。
見るからに至福の時を味わっていて、単純で、みていると、幸福な人生をすごす秘訣が得心される。

家では、最もえらいのは猫さんたちで、完全な自由を保証されているので、おもいおもいに、タンスからタンスに飛び移ろうとして、こけたり、庭に出て、他家の生姜色の巨大な猫と遭遇して、命からがら駆け戻ったりしている。
次は小さいひとびとで、その次は家を手伝ってくれているひとたちで、その下が、わし、という厳然たる階級社会になっている。

え?モニさんは?
というお友達の声が聞こえるが、モニさんは、家全体をhaloで包みこむ女神さまのようなものなので、猫やわしが形成している階級社会を超越しているのです。
当たり前ではないか。

で、怠けていて、ウイリアムと一緒に、ごろごろしていて、猫さんたちが無造作にわし顔を踏んづけて歩いていったりしているカウチで、なにをしているかというと、この頃は本を読んでいることが多いよーだ。
ひとにはツイッタで「賢明なる投資家」を読め、社債の本もええぞ、と述べながら本人は、あんまりオカネが儲かりそうな本を読んでいなくて、Teju Coleや村上春樹を読んでいる。
なんでか日本語能力の維持が脅迫観念になっているので、村上春樹は日本語で読むが、おおきな声では言えないが、めんどくさくなると、まんなかは、英語訳で読んで、ワープして、また日本語で続きを読んだりする。
ひどいが、手抜きは人間の友であるという。
お友達とは、なかよくしなければいけないと孔子さまも教えているでしょう?

閑話休題

インターネット上でニュースを見ていると、ぜんぜんそういうふうには見えなくて、文大統領の捨て身の外交努力で、戦争の危機が一時的にせよ、遠のいているように見えて、日本語では相変わらず白紙みたいに稀薄なニュースしかないが、英語ならネットにも載っていて、自分で探してみるとよくて、シンクタンクや、元政府高官、自由にものが言える立場になった元高級将校、はては現役のハリス太平洋軍司令官まで、「戦争は、ほぼ避けられない」と考えているようで、つまりは、「北朝鮮が核ミサイルによる本土攻撃を材料にアメリカを恫喝することだけは絶対に許さない」のがアメリカ合衆国の国家的な決意であるらしい。
人事を通じて戦争回避派を排除しているように見えます。
読んでいて、どうも、どうあってもトランプたちは北朝鮮と戦争をする気なんだなあ、とおもう。

韓国が反対しても、歯牙にもかけないのではないか。

2014年あたりからスウェーデンは対ロシア戦の準備にかかっている。
なんでまた、と不思議におもって調べてみると、こちらは東アジアよりも更に緊迫していて、スウェーデンの諜報機関の発見に基づいて、ロシアには明瞭な欧州侵略の意図があると判断したもののようでした。

それもプーチンが再選されてから、あまり時間がたたないうちに行動を起こそうとしているのだ、という。
行動を起こす、といっても、いきなり戦端を開く、というわけではありません。
最近のロシアの戦略は、浸透型というか、KGB的なやりかたで、例えば、ロシア人なかよしであるAは、話の途中で、ロシアはアメリカとの戦争の第一ラウンドは勝ったわけだから、と述べるので、マヌケな反応をもって友人間に鳴り響くわしとしては「どっかで戦争やってるんだっけ?」と聞き返して、大笑いされてしまった。

「そうではなくて、トランプが大統領になったじゃないか。アメリカ人のナイーブさが生んだ敗北だよ」という。
そういえばファラージュもロシアから情報とオカネを受け取っているという噂があったな、とぼんやりと考える、わし。

スウェーデンとしては、2018年秋の選挙でのKGBの干渉くらいから露骨な敵対が始まると考えているらしい。

スウェーデンは、向こう15年間だけで軍事費を倍増することを、すでに決めている。
購入先は大半がアメリカです。
トランプはプーチンのために働いていて、見返りはモスクワにおけるホテル業利権だけでなくて軍需産業を通して受け取っているのではないか、とツイッタに書いている人がよくいるが、そう考えたくなるくらい、プーチンに有利に働くように安全保障政策を変更して、不安に駆られたあちこちの国に兵器を売りまくっている。

スウェーデンでは徴兵制が復活して、18歳以上の男女は1ヶ月の軍事教練が必須になる。
フランスも「国内テロ対策として」徴兵制が復活される。
まさか、「国内テロ対策」だと言われて、そうですか、とそのまま信じる人はいないだろう。

中国は台湾併合の意図を隠しもしなくなった、というよりも「軍隊で上陸作戦をおこなって、武力で併合する」と繰り返し「警告」するようになっている。
台湾の人のほうは、中国は必ず現在の名目だけの併合から現実の併合へ、しかも、ここ数年で動くだろう、とほとんど覚悟していると述べているが、「武力行使は中国の得意の圧力をかけて不安にするための脅しで、現実には、親中国政党に圧勝させることによって併合へのステップをすすめるつもりではないか」と考えているようです。

めんどくさいので、もう説明を省くが、ここで困るのは、当然、台湾を中国が併合すると、緩衝地帯を設けるか、侵略・戦争に向かって圧力をかけ続けるかの二者択一の伝統をもつ中国外交の考えかたからすると、次の目標は、台湾から目と鼻の先に島嶼群が存在する日本であることで、日本を緩衝地帯にしようとするにしろ、戦場にしようとするにしろ、日本がいまのような気楽な独立を保つのは、夢のまた夢、無理なことになってしまう。

例の、中国政府が自分の息がかかった研究者たちに政府の方針や見解を書かせるので有名なアジアフォーラムを始め、英語記事と議論をずっと追ってきたひとは判るとおもうが、「アメリカが中国の東アジア支配を許すわけがない」というナイーブな意見をもっているのは日本社会くらいで、当のアメリカの軍事専門家たちですら、中国と全面戦争をして勝てると予測する人間は、だんだん少数派になりつつある。
長期戦になれば100%中国が勝つ。

まず、なんだかマンガじみているが、アメリカの兵器そのものの部品が中国人の手によらねばつくりえないという現実がある。
電子部品の供給をとめられて在庫がなくなったら、それでお終い、という兵器がたくさんある。

もうひとつ、アメリカ地上軍には、士官学校でも繰り返し教える、「チョシンの地獄」の記憶が鮮明にあって、「少なくとも地上戦では中国軍には絶対に勝てない」は、信念にすらなりつつある。
いまだに当時の恐怖をおもいだして、泣きながらいかに中国兵がおそろしかったかを話すアメリカの老人たちの経験談を聞けば、もう二度と中国兵と戦闘をしたくない、という気持は判るような気がする。

空軍の評価は、いろいろだが、空軍無力化のテクノロジー(例:Drone Swarm)では中国のほうが格段にすぐれていると一般に信じられている。
なによりも、中国軍幹部が繰り返し明言しているように、「いざとなればアメリカ人が核攻撃について人道の観点から会議を開いているうちに、我が国は、さっさとニューヨークやロサンゼルスに向けて核ミサイルをぶっ放すさ」で、最終兵器使用への敷居の低さ、という決定的な利点が中国の体制にはある。
驚くべきことに、事実上、習近平の決定さえぬきに、(やろうとおもえば)人民解放軍の決心だけで核戦争をおっぱじめることが出来るのは、軍事上は、実は、中国の側の強みです。

海軍だけは、なにしろ育成に時間がかかる軍隊なので、まだ人民解放軍は、まったくアメリカに及ばないが、いまのところ洋上補給線が考えられるような戦場は南沙くらいしか存在しないので、ゆっくりやればいい、ということなのでしょう。

この頃、オカネモチのアメリカ人友達が、やたら問い合わせてきて、ニュージーランドに不動産を購入している。
決まってインベスタープログラムについての質問を伴う。
見ていて面白いのは不動産を購入する町がウエリントンやオークランドではなくて、見ようによっては大自然のまんなかにある、天然のシェルターであるクイーンズタウンであることで、どうやら、世界規模の戦争になる、と考えているオカネモチが増えている。
もちろん、普段の生活で口にだして述べても、いいことはなにもないので、黙って、友達だけに打ち明けて、クイーンズタウンに家を買ってゆく。

ガメがニュージーランドに本拠を移すと言い出したときは気が狂ったのかとおもったが、先見の明があって驚いた、と最近は口を揃えてほめてもらえる。
もっとも、このブログをずっと読んでくれている人は知っているとおり、ほんとうの理由はひと見知りがこうじて、ちょっとやそっとでは遊びに来られない遠くに越そうと考えて、来られるもんなら来てみい、のド田舎ニュージーランドに本拠をかまえただけのことで、先見の明があったとしても強力に話をすすめてしまったモニさんの聡明だが、特に訂正する理由もないので、ゆったりと構えて、莞爾と微笑んでいる。

きみとぼくが住んでいる世界は、どうやら、戦乱のおおきな渦に向かって動いているようです。
34年間、生きてきて、歳ふるおっちゃんになって、わかってきたことは、変化は、ちょうど花が咲くように起きる。
じっと見ていても、なにも起きないが、目をはなして忘れていると、いちめんに血の色のカンナが咲いている。
別に慌てて逃げ出さなくたって、日本にいても準備できることはたくさんあります。
将来に備える、ということの具体的な意味は、自分を危険にさらしたり、家族が危機に遭遇する「確率をさげる」ということで、常にそれを念頭においておけばいい。

職業の機会が、たまたま東京と軽井沢にあったとして、ちらっとでもいいから、(他人が聞いたら笑うだろう)「軽井沢のほうがミサイルが飛んでくる可能性が少ないな」と思い浮かべることが大事なのだとおもう。

郡山と岡山のどちらかに住む機会があったら、ほんとうの健康への影響は判らないと考えていても、放射線によって、例えば最近よく口にされる糖尿病になる影響は岡山のほうが少ないのではないか、と、ちょっとでもよいから脳裏に浮かべば、それだけ、きみの判断は安全の側にきみの一生を動かすことになる。

どうすれば何の確率があがって、何の確率が下がるか、人間の生活は確率判断の絶え間ない繰り返しだが、どういう確率のセットをめざすかに、ほんとうの「生活の叡知」はあるのかもしれません。

たいへんそうだけど、なげやりにならずに、友達同士、みなで励まし合って、やっていくしかないのだものね。

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政治的でない政治の話について

日本の政治の本質は鎌倉幕府の問注所なのだろう。
近代以降にあっても、日本には少なくとも西欧的な意味合いの「政治」は現れない。
どちらかといえば政治への禁忌が存在するだけで、考えてみると、このことは、日本という国/社会の一大特徴をなしているのかもしれません。
例外は、例えば最近でいえば田中角栄だが、この人の「列島改造論」は、途方もないくらい中国的な考えで、本人は今太閤と呼ばれていたようだが、どちらかといえば、十全ガイジン、いや、間違えた、十全老人乾隆帝に似て、自然、公共事業に使われるオカネの流れも、田中角栄自身が、あたかも黄金がわきでる温泉であるかのような図式にならざるをえなかった。

道路をつくり橋をかけるのに、欧州では、絶対君主といえども商人から借金をしなければならなかったが、乾隆帝は中国全体を個人として所有していたので、別に借金をする必要がなかったのは、言うまでもありません。

政治の側から「じゃ、ひとつ、山を削って、愚公山を移す、山からでた土で海を埋め立てて、国土を広くしようじゃないか。ガハハハ」の角栄風例外はあるが、普段は、なにが政治かというと、民意上達、行政の末端や、利権の末端から、「ここの河川をふさいでダムにしちまいたいんですけど」、あるいは、「この川に立派なお国自慢にできるような橋をかけたい村民の希望がありまして」で、「カネくれ。カネ、カネ、カネよこせ」の手がどっと差し出されて、どの掌に税金からつかみどりした数十億円単位の「おひねり」を乗せてやるかが行政であるよりは「政治」の仕事になる。

そういう意味では、もともと日本などは、憲法が必要のない国で、なにしろ政治のダイナミズムが存在しないので、それを絶対的に規矩する文字などは、考えて観れば判るが、為政者がシカトすると決めてしまえば、ただの死語の列です。

え? 軍隊が持てない?
そりゃ困るよ、アメリカ軍は要請者のなかで最大手で、こっちにはどうにもならないんだから、ちゃんと裁定だしてよ?
憲法九条? なんて書いてあるの?
バカだな、おまえ。
そしたら「軍隊」ちゅう呼び名やめて保安隊とか自衛軍、軍は字面がまずいか、じゃ。自衛隊ぐらいのことにしとけよ、キャリアで課長補佐にまでなったのに、やっぱり若い奴はマヌケだな、気が利かないと、あとで上にいったときにたいへんだぞ、きみ。

外国人は巨大な軍隊を「自衛隊」と呼び変えて、「うちとこは平和主義やさかい、軍隊みたいなぶっそうなものは、ありしまへんのや」とすましている日本人たちを見て、あんたの国の軍隊は援助交際みたいなものなのか、おい、と考えるが、
次の瞬間、
ええ、あれ、ほんとは、軍隊なんですよね、
と笑いながら明るく述べる日本のひとびとを見て、ボーゼンとする、というか、
取り付く島のなさを感じる。

これも法の規矩に挑戦して、現実を変えていこうとする政治という力が日本には存在しないからで、その証拠に、といって、変な証拠だが、中曽根康弘以来、拍車がかかって馬力がついた、「日本は戦争をしません、なんて屁理屈をこねるのはやめよう。憲法の条文ごと変えちまおう」という運動は、憲法改正を党是とした自民党に、かつてないほどの支持が集まっているいまに至っても、まだ変更されていない。

よく見ると、これも、話として判りにくそうで、ごみんだけど、政治が政所であるよりは問注所のスタイルで連綿と続いているからで、観衆としての国民は、御成敗式目が変更されると、御恩と奉公の大枠までなくなってしまいそうで、守旧的な国民でなくても不安なのだとおもわれる。

なぜ不安かというと、改正条文そのものよりも、改正しようとする「政治的な勢力」の恣意を見て取っているからだろう。
そして、恣意が御成敗式目をさえ書き換えてしまえば、政治が存在しない以上、あとは一気呵成、恣意がみずからの意志で突っ走って、またぞろ国土が廃墟になる未来が訪れることを直観しているからに違いない。

わしなどは、せっかく70年余もうまく機能していた、憲法の条文をわざわざ身動きできない戦争へひた走る国家へのレールになるように書き換えるくらいだったら、御成敗式目は、「十七条憲法」x3=五十一条の体裁なので、いまの103条から一条減らして、「十七条憲法」X6=102条に変えるほうが、祖宗の英霊の満足がえられて、国家安泰につながって弥栄めでたし、とおもうが、
というのは、もちろん冗談です。
いまの日本国憲法を、102条でやれたのに、103条にしてしまったひとたちは、数字に弱かったのではないかとは思うが。

ところで、なんで、こんな「日本の政治って、問注所政治なんじゃないの?」と述べるヘンテコなブログ記事を書こうと思い立ったかというと、愛国思想というか、愛国主義思想といいなおしたほうがいいか、およそ時代遅れで陳腐な右翼思想によって、ひさしぶりに「政治によって国を動かす」試みの時期に入った日本が、その上滑りで唐突な「政治」によって、財政は瀕死、経済は旧態依然で賃金の徹底的な抑制によってかろうじて競争力を保つありさま、しかもそれに対する経済政策は、それこそ「政治的」な市場への国富の大量投下、他のアドレナリン作動薬には目もくれず、カンフル剤を打ち続けて、それのみで経済を浮揚させようとする現代経済の地平に立っている人間からすると荒唐無稽な路線をひた走る日本にも、ようやく自分達が落ちていく奈落がみえはじめた様子であるからにほかならない。

この辺で、いままでやってきたことのうちの「政治」を包括的根底的に論じて、みなで、なんでこうなったか考えてみたくなった、ということです。
多分、まだツイッタに頼ることになるのだろーか。

裸にしてしまえば勢力や権力にしか愛着をもたず、その当然の帰結として、言うこともいちいち立場主義で、思考力などというものはいらず、いかに(彼らにも、そういうものがあるとして)自分を謀るかの能力だけが問われる政治的な人間には、政治ということが考えられないのは、論理的な帰結でしかない。

さいわい、きみやぼくは、政治的人間ではないので、ツイッタのタイムラインに戻ったら、少しづつ、日本社会においては政治とはなにか、あるいは政治はどこに行ってしまったのか、それとも初めから存在しないのか、話す事はたくさんありそうな気がする。

その話の肴の第一弾として、書いてみました。

経済同様、政治もまた、正面から向き合わねば、どんどん、後ろから羽交い締めにするようにして、きみの生活を不自由にする。
政治的人間などは、人間みたいなそうでないような存在で、論外だし、あまりに反知性的で薄気味が悪いだけだが、政治的であることをさけて政治について議論することには、おおきな意味があるとおもっています。

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キッチン

夜中に、おなかがすいてサンドイッチをつくりに台所へ行ってみると、見知らぬ宇宙人が座っていて、表の嵐でぐっしょり濡れた靴下を椅子の背で乾かしているところだった、という出だしの子供向けSFが好きだったことがある。

この作家が好きな理由のひとつだが、夜中の台所には、たしかにそういうところがあって、自分だけの秘密な記憶を形成しやすいのだとおもわれる。

ぼくが生まれた家には、普段の台所とは別に、家族の朝ご飯だけの台所があって、トースターやオブンや、例の電気で湧くジャグや、朝ご飯に必要なものがひととおり揃っていて、壁際には緑色の小さなテーブルがあった。
朝ご飯はなぜかここで食べることになっていて、さもなければ、もっと儀式ばった、といいたくなる、大仰なテーブルに、給仕する人がいる午餐にも使うテーブルがある部屋で食べることになるが、こっちは、お客さんが泊まっているときに使うだけで、問わず語らず、簡単な朝食を家族の誰もが好んでいたので、卵が2個とベーコンとソーセージと焼トマトが載った皿を手前に抱え込んで、まだ世間では紅茶が主流だったときでも父親の好みでコーヒーが並んだ食卓で、わいわしがやがや話ながら朝のひとときを過ごすの毎朝のことだった。

その朝の、ざっかけないほうの台所で、眠れない夜に起きてきて、牛乳をのみながら本を読んだり、ノートブックを広げて絵を描いたりするのが、子供のときの習慣で、そんなことは、もちろんいけないことになっていたが、母親も知っていたのに違いないが、見て見ぬふりで、いちども怒られたことはなかった。

長じると、牛乳は紅茶になって、やがてエールになって、大学の頃には寮から実家にもどった夜更けのウイスキーに変わっていった。

深夜の台所は、ものを考えるには、よほど向いたところがある。
ねずみが躓いても聞こえそうなほど静かな夜更けに、昼間はうまく考えられなかったことを考える。

あの威張りくさっている新しい先生は、なんだって、あんなにバカなのだろう?
とか、中国系の留学生たちは、どうしてあんなになにをやっても賢いんだ?

あるいは、あーあ、あんな女の人、あわなければよかったなあー。
会ってしまったものだから、世界がパッと明るくなるような笑顔や、まるで音楽のように心地よい声や、美しいアクセントが、頭のなかで映写されて、ほかのことを考える邪魔をして、集中力を削ぐこと著しい。

待てよ、待てよ。
ひょっとして、おれは恋に落ちたのではないか。
起きてから寝るまで、ほとんど、あの人のことを考えているものな。
だが、そんなバカな!
16歳で恋に落ちてしまっては、恋である以上、通常の生活を送るような凡俗な営みが許されるわけはなくて、一心不乱に恋情を燃やさなければならなくて、…そうすると、おれの人生は破滅に向かっていることになるではないか!
定義、というものがあるからな。
自分の一生が台無しにならないような感情は、恋とは言わないだろう。
恋であるならば、自分もまた人間らしい人間ならば、着実な生きる努力などは捨ててかからなければ!

うむう、こうしてはいられない、と考えて、朝食用の小さな緑色のテーブルに向かって、一所懸命にラブレターを書いたりしていた。

あるいはバルセロナ、もう少し厳密に言えば今はバルセロナに編入されているグラシアの町に初めて買ったアパートで、なんだか無暗矢鱈と広いテラスがあって、向こうにサグラダファミリアが見えている、年柄年中一台しかないエレベータが止まって、水が止まって、電気が止まる、
気難しいアパートで、ちょうど反対側には台所があって、こちらはコートヤードに面した小さなベランダがあって、疲れて眠っているモニさんの傍らから、そっと起き出して、電気もつけないまま、手探りで台所に行って、冷蔵庫からヴィッチイカタランを取りだして飲んでいた。

その頃、ぼくは、英語世界に愛想がつきていて、やまだしで薄っぺらな人間があふれたロンドンは、もううんざりで、アセニアムの地下でのパーティで脳外科医と盛大に酔っ払った夜を最後に、もう帰ってきてやるものか、とおもっていた。
子供のときに、少しだけおぼえた日本語を手がかりに、日本の谷崎や三島をどんどん読んで、「ここではないどこか」に行こうと考えたが、日本人もおなじ穴の狢で、どうかすると、これならまだしもイギリス人のほうがマシなのではないかとおもうことすらあって、関心が、恋人であるモニさんだけに集中していっていたころだった。

炭酸水のヴィッチイカタランの瓶が空になると、今度は木箱から取り出したワインを開けて、台所の椅子に腰掛けて、あるいはシンクの前のカウンタに凭れて立って、案外と暗い眼下のバルセロナの町並を見ていた。

唐突に、昼間、もしそんな疑問が頭に浮かんだら、自分ながら苦笑いしてしまうような、結論のない、堂々巡りへのドアしかない疑問、
「人間の一生って、なんだろう」
「人間には、どんな特別な価値があるかみっつあげてみたまえ」
「ところで、自分にはいったい何が向いているのだろう?
それに、自分に向いているもので、うまくいけば、満足できる一生になるの?」

考えるだけ、無意味で、時間のムダにしかならないことを、執拗に考える。

夜更けの台所にいる時間は、つまりは夢のなかの時間と似ていて、ふだんの理性が制御している起承転結とは異なる構造になっているようにみえる。
玄関をはいったら、突然寝室の家、とでもいうような、突拍子もない文法の思考で、あっちへいってみたり、こっちへいってみたり、とつおいつ、いきつもどりつ、あるときは跳躍して、しかも向こう岸がなくて、そのまま漆黒の闇のなかにおちてゆく思考….

自分で自分に話しかける、という作業を、生まれてからずっと、夜更けの台所でおこなってきて、いわば深夜の台所は、自分と膝を寄せて話し込む、作業スタジオのようなものなのかも知れません。

たいていワインを飲みながら、そうやって自分自身と話し込んで、おなかがすくと、スパゲティをゆでて、塩を鍋のなかのお湯がぶっくらこくくらい投入して、油断せずにアルデンテで茹でて、缶のトマトと、ニンニクを炒めたオリーブ油をかけて食べる。

スパゲティは不思議な食べもので、レシピが単純なほどおいしい。
ペペロンチーノが最もおいしいが、チョーおいしいペペロンチーノをつくるには気合いが必要なので、夜更けに酔っ払った素人料理ではペペロンチーノの神様が顔をしかめるような出来になってしまう。

だから缶のトマトと、にんにくオリーブオイル。

この夢のなかに似た時間から、ぼくがほんとうに出られたことがあったのかどうか、これからまたブログを再開して、少しづつ書いて、英語とは眼差しも、立つ場所も、見る角度も異なる日本語の力を借りて、たしかめていこうとしているのだと思います。

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餃子II

なんだか、この頃、料理ばかりしているような気がする。
家で料理を担当している人が、「ガメは料理が上手だから、わたしは商売あがったりだわね」と言うが、もちろん冗談で、コンサルタントというか、先生で、いろいろなことを教えてくれる。
モニもわしも大好物の、地中海料理が得意な人なので、来てもらったが、オーストラリアやニュージーランドの風物が珍しいらしくて、「すごい田舎だな」と言いながら、人間がのんびりしているところや、肌触りが荒々しくて、まだ明るい内から通りで喧嘩していたりするのを眺めて、にやにやして、「もうひとつの別の世界」を楽しんでいるようです。

春節が近付いて、といって、これを書いている時点ではもう数日前だが、中国社会のお正月なので、中国系人の人口が多いメルボルンやオークランドは盛り上がっていて、自然、いろいろな知識が増える。
そのひとつが餃子で、つい最近まで知らなかったが、中国の人にとっては、もともとは大晦日に、家族団欒で、みなでひとつのテーブルを囲んで、過ぎ去った1年間の話をしながら、がやがやとつくって、新年ともなれば、大量につくった餃子を食べまくるものであるらしい。

あちこちを移動しながら住むのをやめて、人並みに、1年のうち三ヶ月くらいしか旅行しなくなったのは、たしか2010年くらいのことだが、オークランドにいて、5年目くらいになって目が慣れてくると、いろいろな人の姿が、たしかに目の前に見ているはずなのに観念にやや具体的な翳がついたくらいであったものが、色彩を帯び、いきいきと呼吸しだして、生の人間として見えてくる。

モニとふたりで、でかけるところ、でかけるところ、白い人ばかりなので、前にオークランドは意外なくらい中国の人が少ない、と述べて、大笑いされたことがあったが、目がなじむと、2割だったかなんだったか、留学生やワークビザの人やなんかをいれると、3割を超えるのかもしれない中国系の人たちの姿が見えてきます。

見えてくると、いろいろびっくりすることがあって、きっとこのブログにおいおい書いていくとおもうが、例えば、中国の人が、いかに麺と餃子が好きかを知るにいたって、ぶっくらこいたまま、目をまるくしている。

ニュージーランドには、ひとりで昔の秋葉原電気街をやっているようなPB Techという(多分)香港資本のチェーン店があるが、ここの店員と話しているときに、ふと思いついて「オークランドで、おいしい中華料理店って、どこだろう?」と訊いたら、誇張ではなくて、たいへんな騒ぎになってしまったことがあった。

店員さんが自分が薦められると信じる店を5つくらい書き出してくれたのは、マンハッタンの韓国系人にKタウンの韓国料理店を訊いたときや、オレンジカウンティでメキシコ系人にメキシコ料理店を訊ねたときとおなじだが、そこからが中国の人の本領で、やおら、近くにいた別の店員に呼びかけて、「なあ、おまえ、このリスト、どうおもう」(←中国語なので想像です)と訊ねると、訊ねられたほうは、おもいのほか、というよりも想像を越えた真剣さでリストをみつめて、あの店が入ってない、この店よりもこっちのほうがおいしいと言いながら書き込んでいる。
そうしているうちに店員さんたちが集まってきて、土曜日のかき入れ時の客そっちのけで、わいわい言い出して、げらげら笑ったり、怒ったりしながらリストを編纂している。

その熱中ぶりは、圧倒的で、なるほど、わしがときどきおおはずれの店に、ふらふらと迷い込んで、まっずうううー、をしたりしているのは、コンジョが足らんのだな、と納得させられます。
中国系人には、おいしいものを食べるための集中力と度胸とエネルギーがある。

折角、書いてくれたのだから、とおもって、PB Tech中華料理臨時研究会の編纂になるリストを片手に、一軒づつ訪ねてみると、期待にたがわず、無茶苦茶おいしい小籠包や水餃、担々麺に牛南面が待っていて、ぶっくらこいてしまった。
中国は広大な国土に地方地方でまったく異なる、すんごいdiversityの料理が広がっているので、そのあちこちからやってきた料理自慢の中国系人たちが、お国自慢のレシピで腕をふるって、例えば日本でおなじみの長細い焼き餃子もあれば、その同じ形で、ややおおぶりで、日本でいえば、日本で初めての餃子屋(神保町にもおなじ能書きのスヰートポーズなる店があったはずだが)という「天龍」くらいのおおきさの餃子に、小籠包に似たスープがたっぷり含まれていて、食べると滅茶苦茶うまみがあるスープがピュッと飛び出して口蓋を火傷するに至る、上海焼き餃子がある。
まるいのもあれば、水餃子も蒸し餃子も揚げ餃子もあって、四川料理屋に行けば薄皮でぱりぱりの羽根餃子があり、餃子専門店に行けば、厚皮でもちもちのストロングスタイルの餃子がありで、あるいは、西安料理やウイグル料理屋チェーンの店に行くと、羊肉や鶏肉の餃子のバラエティが並んでいる。

麺に至っては餃子どころではなくて、例の、挽肉をカリカリに炒めたのが載った四川担々麺や怪味麺、胡麻ソースにあえただけの、なんとも言えず上品でおいしい味の台湾の名前を忘れた冷そば、田舎から出てきた老夫婦が始めてみた家庭料理店のおもむきなのに、妙な具合にロゴやなんかが強調されているので調べてみたら、ぬわんと、中国国内だけで6万店を越える世界最大のレストランチェーンの支店だったSha Xian Snack
https://www.zomato.com/auckland/sha-xian-snack-mount-eden
だったりした。

バオが売り物の店もあれば、ロブスターが売り物の店もあって、こちらは「中国はすごいな」という凡庸な、自分でも呆れてしまう退屈な驚きの言葉をもらすだけで、なすすべなくボーゼンとしてしまう。

メルボルンやシドニーのほうが、たくさんあるんじゃないの?
と訝る人の顔が見えるようだが、大都会であるメルボルンやシドニーと較べて、コンパクトな都会であるオークランドは、15分もクルマを運転すれば、どこにでも行けてしまうので、アクセスが楽ちんで、早い話が東京や大阪と京都の違いを思い浮かべれば判るが、生活圏にあるものはアクセスが悪ければ存在しないのとほぼ同じで、実感として、オークランドのほうに多文化性の軍配があがる。

ツイッタ友の中国系アメリカ人、トニーどん(@TonyChin)のツイッタを読んでもサンフランシスコのような土地柄の町には及びもつかないが、オークランドでも十分、マルチカルチュラルな食生活は送れるもののようです。

ツイッタでさんざん自慢しておいて、ここにも貼るのか、とお友達たちに言われそうだが、わしは人並みに餃子が手作りできるようになったのが大層自慢なので、ここにも貼っておく。

餃子は、どうやら「幸福」と分かちがたくイメージが結びついた食べ物のようで、判ってみると、餃子をつくるたびに、なんだかニコニコしてしまう。
いつか餃子を家族でつくっているところに突然日本兵が乱入してくるシーンがある物語を読んだことがあったが、あれも、読んだときには気が付かなかった意味があったのだなあ、とおもう。

中国の人が、例外なく、あれほど食べ物に夢中になって、みなが一家言をもっているのは、あのいつまでも疲弊しない文明をもつひとびとにとっては、食べ物が幸福と分かち難く結びついているからなのかも知れません。

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My Blue heaven

数の感覚がある人ならば、伝えられる数字を聞いて、一般に言われているのとは異なって日本の労働人口ひとりあたりの生産性は意外と高いことに気が付くはずです。
日本の労働人口は、多分、6000万人を少し越えるくらいだと思うが、それでいて、ひとりあたりGDPが22位〜25位をうろうろしているということは、非労働人口の多さをおもえば、ひとりあたりGDPがちょうどおなじくらいのニュージーランドのような国に較べて、かなり労働者の「生産性」が高いことは、今度は、特に数字に明るくなくても、直観的にわかりそうな気がする。

それに加えて、日本の文化や社会に興味がある人ならば、苛烈、と表現したいほどの男女差別のせいで、女に生まれると、さまざまな形で、人間としての能力を十全に発揮するのは無理だ、というか、もともと人間としての能力のうち、社会性がある能力は男に較べて劣っているのだ、と徹底的に刷り込まれるので、6000万人の労働人口のうち、2000万人程度は、ほとんど産業社会から見ると予備戦力で補助的な労働しか期待されていないので、残り4000万人の個々の労働者の生産性は、思いのほか高いのが数字を眺めているだけで判ります。

ここで「生産性」というと聞こえがいいが、日本にいるときに現実に見聞した観察の結果を述べると、その正体は途方もない長時間労働で、朝起きてから寝るまで、家にいるときも職場にいるときも、仕事仕事仕事の毎日で、生活が仕事一色で、
個人の生活は抛擲して、兵士のように労働に邁進する、人間性を代価に給料をもらっているようなひとびとで日本の経済は成り立っているのだと考えられる。

21世紀も2割近く22世紀に近付いて、勤勉が国是のようなドイツ人ですら午後3時や4時という時間に帰宅する世界で、日本では午後8時9時になっても職場に灯りが灯り、長時間労働の疲労を癒やすために、オアシスにたどりつく砂漠の民のようにして居酒屋で終電までを過ごしたりする。

この頽廃は、百年一日、なんの工夫もないマネジメントと、そのマネジメントに口を出すことを許さない、ゆるぎない天然全体主義の国風から来ているが、個々人を十分やすませることによって労働の生産性を高めていこうとする西洋諸国と、真っ向から反する行き方で、個人は押し潰されて、社会全体から個人主義がしめだされて、個人主義の喪失が社会全体に蔓延する苛立ちとなって、善意までもが社会のマネジメント側に消費されてしまう、という未曾有の事態に日本は立ち至っている。

解決策は判っている。
国策で吊り上げた日経平均が3万になろうが4万になろうが経済の背骨がしゃんと伸びる可能性はゼロで、まず労働人口が2割程度増えて7000万人を越えなければ、日本の経済は立ち直れない。
日本の政府は、戦前の経済小国時代を崇拝する退嬰的な発想の政府らしく、産めよ殖やせよ、で、そのうち役人が若い妻がいる新婚家庭を訪問して、国民の義務として、夜伽の相手をさせそうな勢いだが、よく考えてみると、それではもう間に合わなくなっているはずで、衆目の一致するところ2025年を目安に、遅かれ早かれやってくる財政破滅に間に合わない。
今年になって、どんなのんびりな人の目にも明らかなほど、税の取り立ては、酷吏という言葉そのまま、苛斂誅求を究め始めて、おめこぼしはしない、の税徴収の隙間埋めから、自民党にとっては禁忌だった富裕層への重課税案まで、目白押しで、財務省の危機意識が見てとれるが、なにしろ信用を失っているので、国民のほうは「なあに、あれも、誇張された危機で、ほんとは財政危機なんてありゃしないのさ」と述べる人までいる始末で、傍目には断末魔の様相で、もうあまり時間が残っていない。

養うほうと養われるほうの数字のバランスからいえば、実効性のある対策はふたつで、移民の大量受け入れか、年長世代の集団自殺か、どっちかしかないように見えます。
働かざる者食うべからず、と言うではないか、退職して仕事をしない年長者は絶食して、すべからく即身仏になってもらえばよい、というわけにはいかないので、
つまりは移民の大量受け入れしか解決はないわけだが、火急の要に見合うだけの移民数でも、どう考えても一千万人は必要で、移民の受け入れを奴隷の輸入とあんまり区別できないでいる日本社会の現状で、日本の伝統社会の完全放棄を意味するに違いない移民の大量受け入れがやれるかとなると、やれるかどうか。

次いで早急にすすめなければならないのは、女の人びとの同権化と社会的な洗脳から女の人たちの思考を解放を解放する努力だが、これは社会の側にほんとうにやる気があれば、すぐにでもやれて、即効的な生産性への効果がある。
例えば役員や管理職の半数は女性でなければならない、というような男の側から「逆差別だ」と激しい反発が起きるくらいの法制をつくることが出来れば、多分、数年で社会の生産性は劇的に上昇するのではないか。

運悪く、いまの日本の政権は、国民の評判は上々で、なんどスキャンダルを起こしても、よほど品性や功利主義のありかたの点で日本の国民性にぴったりあった政府で、支持はゆるぎなくて、傍目には余計なことしかやらない内政も外交も、やはり支持されているので、多分、根本的な策を打ち出せないまま、2025年には労働人口がさらに1割減少して、静かに破局を迎えることになりそうです。

どうにもならないなら、ほっとけばいいじゃないか、というのは、尤もな意見だが、一応、遠くから見ていると、「いまからでも、こうあることが出来た日本」を書き留めておくのも、まるきり意味がないことではないだろう、と考えます。

まさに労働人口に該当する個々の、特に男の労働者にとっては、日本の不振は腑に落ちないことで、外国で就労した日本人たちに「おまえの働き方が悪いんじゃ、ボケ」と言われるたびに、憤慨して、しかし聞いてみると、向こうさんは労働時間も自分達より遙かに短く、自分が常々悩まされているバカなミーティングも最小で、仕事の邪魔をするために、でかい机の前でふんぞり返っている本来ならば神社に祀ったほうが相応しいような古色蒼然とした管理職からも自由で、言い返すこともできず、しまいには「出羽守」だのなんだのと、みっともないくやしまぎれの罵詈雑言を弱々しくつぶやくだけという状況に至るのはなぜかというと、彼が感じているように、彼自身から見れば、自分は子供のときから「こうするのがよい市民なのだ」と教わったとおりに生きてきて、精一杯がんばって、なんだかぼんやりして、大脳全体が毛布にくるまっているような、実は、その状態はすでに精神的疲労から病に陥っているのだけれども、気づきもせず、いいとしこいてアニメやアイドルに救いをみいだして、言われたとおり、がんばりにがんばって、挙げ句のはてには、「おまえの労働の仕方は後進的で、なっちょらん」と言われて、目もあてられないありさまだが、その原因は実は、最も根本的には労働人口が減って非労働人口が増えている、という誰でも知っている現実が、ほとんどすべてなのだ、と実感したら、どうおもうか、
知っていることと、自分とその現実がどうつながっているかを理解することは、昔から言うように、まったく別のことで、気の毒ともいえれば、バカなことだともいえて、あちこちにいろいろな、さして重要でもない社会の低生産性の原因を見いだす努力をするくらいなら、もうすでに判っている、不振のおおかたをなす原因、人口減少への対処、性差別の撤廃、…に集中すればよいのに、と思うが、問題に正対するのは、なかなか難しいようで、どうも日本は産業経済的には、しばらくあかんかなあーと、ときどき、投資家頭になって考えているところです。

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integrity

もしかしたら話してはいけないことで、この記事がブログに出たら、ひゃああー削除してください、ということになって、この冒頭の一文はなくなるのかもしれないが、lada @spicelada さんはCCさん@_cc_bangkok の奥さんで、大変聡明なひとです。
CCさんの証言によれば、酔っ払いでもあって、 こういうことを書くと、またはてなから大軍があらわれて、7年間くらいは散々囃し立てられるに決まっているが、女のひとで盛大に酔っ払うひとは、善人であるに決まっていると旧約聖書に書いてある。

旧約聖書のどこに書いてあるか、何ページの何行目か言ってみろって?
知らねーよ、そんなこと。
自分で探せよ、ばかばかしい。

ともかく、ことの発端はlada さんの発言だった。

ある勘違いおじさんについて、lada さんが、知恵をつくしての他人への攻撃にあけくれる彼のような人間が大手をふって歩けるのは、

「でもいいこともしてるじゃん」「いっぱいRTされてるじゃん」という思考で判断している人がいるからで、彼に善意があるかどうか見ていない人が多いからだ。

と述べている。
言われたわしのほうが、ほんとだよねー、でも、それはあまり英語では見かけないことで、日本語では性犯罪者が右翼系の出版社から出版した本が反体制の本として持て囃されていて、一応、「そんな人が書いたものを」と言う人も現れて、ところが、ずっとおおきな声で、「でも、いいことを書いていて、仕事は人間性とは別のところで認められるべきですよね?」という圧倒的な声にかき消されたりしていた。

見ていて、ほええええー、と思ったが、なにしろ、この頃は、相変わらず日本語世界で起きることには興味津々でも、「それは、ヘンなんじゃない?」という気持のほうは、どっかに行ってしまっているので、日本語社会では、そんなものか、で終わりになっていた。

ふと、integrityという言葉を思い出しました。

ネブラスカに、好々爺然とした、有名なじーちゃんが住んでいる。
おもしろい人で、空港に着くと、オンボロのフォードで迎えに来たりするので有名だった。
この人の名前がアメリカの国内外で噂になりだしたのは、だいたい40年くらい前で。
ネブラスカあたりで、40年も前であると、クルマがおんぼろなのは普通のことで、いわば普通のクルマで、普通の格好をした中年のおっちゃんが、なぜ話題になったかというと、1973年、ワシントンポストを買収して、アメリカ社交界のチョー有名人、社主のKatharine Grahamの親友になって、一躍知られるようになった、この風采のあがらないおっちゃんが、やたらと投資が上手な億万長者だったからです。

この人は、すさまじい読書家で、美しい、ユーモラスな文体で書かれたたくさんの書簡や報告書があるが、当然、有名になった言葉もたくさんある人だが、そのなかでも飛びきり有名な言葉に、

We look for three things when we hire people. We look for intelligence, we look for initiative or energy, and we look for integrity. And if they don’t have the latter, the first two will kill you, because if you’re going to get someone without integrity, you want them lazy and dumb.

というのがある。
たしか、フロリダ大学のビジネススクールの学生たちへの講演で述べた言葉で、あとに、おなじ内容をジョージア大学で述べている。

このintelligence、energy、integrityは、バフェットじーちゃんが、いまでもよく挙げる「成功する人間の三条件」で、しかも
「integrityはみっつのなかの最重要条件で、これがない人間には、残りのふたつ、intelligenceとenergyは、あっても仕方がない、いや、ないほうが世の中のためである」と言い切っている。

言わばintegrityこそが必要条件で、残りのふたつは十分条件であるに過ぎない、と言う。

もちろん、ツイッタでも書いたが、このバフェットじーちゃんの「人間、integrityがチョー大事なんだぜ」という考えは、じーちゃんの独創というよりは、質朴で健康な社会を好む英語人には18世紀くらいから遍く共有されている考えで、おおもとは、というよりも家庭や職場の至る所で語られていた内容が文章で書かれて、有名なものになったのは、
Samuel Johnsonの

Integrity without knowledge is weak and useless, and knowledge without integrity is dangerous and dreadful.

くらいからだろうと思います。
このイングランドのリッチフィールドに生まれたジョンソン博士も、たいへん面白い人で、書いた本の中で最も有名なのは「英語辞典」だとおもうが、
「オート麦」の語釈を「イングランドでは一般に馬が食べるが、スコットランドでは人間の食べ物」と定義して、大物議を醸したりして、傑作なおっちゃんで、読んでいると大笑いな逸話がたくさんあるが、ここでジョンソン博士の話なんかしていると、夜中になっても記事がおわらないので、やめておく。

ときどき、わしは日本の人口の半分くらいブロックしているのではないかとおもうが、甲斐があって、ヘンな人は、見えない所で、ぐだぐだ悪口を言っているだけになったので、twitterのバグで、ブロックしているのに突然タイムラインにあらわれる「やーい、ガメ・オベールのウソツキ」みたいなのを除くと、平穏で、最近ではツイッタは、ほぼ、日常のよもやま噺と、なんだかよく判らない考えやなんかが出てきたときに、みなで、これはこうなんじゃないかなあー、あっ、それは違うんですよ、ほら、こーゆーふーなの、と皆で議論する場に変わっている。
仲良し同士で話をして、くだらない、と言う人がよく来るし、ひどいのになると、信者だ、とかいう、例の、あの目も当てられないくらい低能で退屈な語彙で攻撃する人が、現れるが、言われても、なんじゃそりゃ、というか、仲良くない同士で話をして、どーするんだ、と考える。
どうも仲が良い人同士は、考えがおなじなのだと思い込んでいる様子だが、あのね、ふつーは、仲良し同士というのは、考えがまるで違うことのほうが多いんです。

だから大学の近くのパブから始まって部屋に場所を移して、明け方近くまでペールエールを飲みながら議論するのが楽しかったんでしょう?
意見がおなじだったら、さっさと酔っ払って、寮の床を踏みならして男同士でラインダンスでも踊っていた方がマシである。

わしタイムラインのなかで最も聡明で、あんたはX線か、というくらい身も蓋もない本質を一瞬で見抜いてしまう人に哲人どん@chikurin_8thがいます。
聡明なうえに、それを、よく判んないよう、とおもってうんうんうなっているわしらに、ごく簡明に、判りやすく説明する能力は、どんな国でも頑迷で、意地っ張りで、自分が頭がいいと思い込んだ結果、いろいろと理解する能力を阻害されている若者が揃っている名門大学で哲学教授として、ながいあいだ教えてきたことで身に付けた職業的なスキルなのでしょう。
ゴーゴリのヴィィに出てくる大地の精霊みたいというか、ものごとが混沌として、全員わけがわからなくなってくると、「哲人どんを呼んでこい!」という声が、タイムラインのどこからともなく起こって、ほんとは教員業で忙しい哲人どんが、やれやれよっこらせ、と腰をあげてやってくることになっている。

Wikipediaに他言語記事が並んでいるのに日本語版記事がないことから、みながもった疑惑にあっさりこたえてくれています。

個人としては日本語に、integrityという単語そのものが存在しないことは、だいびっくりのn階乗(n>5)くらいの!!!!!!で、そんなことがあるのか、ひょえええーと考えて、ぶっくらこいちまって、椅子からずり落ちそうなくらいの驚きだったが、ここから、やはりびっくりしたらしい、タイムラインのお友達たちの発言が続いていきます。今回は不用意な始め方をしたので、ぬけがあり、排列の手際もわるいが、あとでおいおいなおしていくとして目についた限りを並べてゆくと、

まあ、いつものことで、もう少しゆっくり考えて、みなで議論したりしながら考えをまとめるとして、どうやら、この「能力や業績があれば、人間性に欠点があっても、いいじゃないか」という、おもいきって言うと、日本人に特有な考えは、またしても日本の社会では「個人」は一顧だにされなくて、「日本」という全体にどれだけ奉仕するかによって価値の値札を貼り付ける、天然全体主義の価値観が関係があるように見えます。

日本の社会が、いま血を流すようにして、女のひとたちが自分たちも人間なのだ、と叫び、かつては企業戦士ともてはやされた男たちが、「もう限界なんです。お願いです。休ませてください」と声をしぼりだすように抗議しているのは、21世紀も18年目になってしまって、世界がいままでの歴史とは桁違いの生産性を社会に要求するようになって、西洋型の社会が、どれも、「他の人間にはマネができない個人の能力」を極限までひきだすことで社会の生産性をあげる方法に習熟しつつあるときに、旧態依然の全体主義文化で競合しようとしている無理が、軋んで、限界を越えてしまっているからでしょう。

その無理を無理でないかのようによそわせているのは、多分、integrityという考えが存在しないマネジメントにあるのかもしれません。
あるいは、社会が天然全体主義文化にしがみついたまま、当然の帰結として、どんどん沈み込んで、停滞を極め出すと、従来では相手にされえなかったような低劣な人間が大集団で闊歩し出すようになって、思考の軸からすでに歪んでいるような、いわば「箍が外れた」状態に転落していったのも、なんとか踏み止まって、正しいことを行おう、善から遠ざかるのはやめようという内から湧くintegrityがなくて、外からの、他人の目、企業からの評価、社会からの要請というような外からintegrityの代替として機能する「よい日本人としてふるまう強制力」が個人をすりつぶした結果、無惨なくらい人間性を軽んじた、目もあてられない品性の人間が大声で喚きちらしながら大道を往還する社会になってしまった。

日本人が、文明の仕組みをもち、個々の教育程度も高く、なにより、ごく自然な気持から勤勉に働いてくらしたい「マジメ」な国民性をもちながら、なかなか立ち直れない理由のひとつはintegrityを欠いた社会そのものの評価軸にあるのかもしれません。

実は、哲人さんやmagicpro @magicproと、前に、ツイッタをなんとか自分の思考の限界を越えて向こう側にたどりつけるような道具に変えられないかしら、と話しあったことがあった。
そのときは全然ダメで、マストドンでやってみようと考えたが、こっちは、わし自身の日本語能力が500字という大きな枠で会話することに耐えられないことが判明してダメで、あきらめてしまった。

ツイッタは問題がおおく、使いにくいSNSだが、いまのところは話して遊ぶのに使いものになりそうなのは、このくらいしかないので、使い方を工夫して、話によいところがあれば、どんどんブログに転載して、といっても、文句がでれば発言を削除しなければならないのはあたりまえだが、少しまとまった形で見られるようにして、それを見て、また会話をする、というふうに持っていきたいと考えています。

今回はintegrityという、ややおっかない、厄介なおおきな言葉が相手だったが、おいしい食べ物の話でも、逆立ちの仕方でも、多少でも話がまとまって、おおー、こんなことがあるんだ、こんな考えがあるのね、に至ったことは、ツイッタ記事としてまとめておきます。

もとよりツイッタには、Momentsのようなまとめ機能があるが、それはだいすけさんなり誰なりにまかせることにして、Togetterが日本語では広く使われているが、あれは悪意による編集が簡単で、案の定ろくでもないまとめが並んでいるので、そもそも見たくない。

ふだんは、相変わらずの茶飲み噺がよいが、なにかの弾みでおもしろい議論にいきあたったら、また、記事にまとめてみます。

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Night Market

マーケットというものが、もともと好きなのだとおもう。
どんな町にいても、「マーケット」という文字を見ると、ふらふらふらと、そっちに足が向いてしまう。
狭い道を抜けて、あるいは大学の構内を横切って、歩いて行くと、ひとのざわめきが聞こえてきて、視界がひらけると、まるで絵本を開けたら、そこに美しい草原の絵が広がっていたとでもいうような、走ってとびこんでいきたくなる、人波と屋台が会場を覆いつくしている。

その国によって特徴があるのは、もちろんで、風変わりで最も楽しかったのは、イタリアの田舎町で遭遇した自転車市で、古いビアンキや、自転車のパーツやフレームがずらりと並んで、飽きることがなかった。

日本やイギリスなら、身体が引き締まったサイクリストたちが、筋肉質の足を誇示するように剥き出しで集まっていそうだが、あにはからんや、予見に反して、どてっと太ってお腹が出たおじさんたちが、三々五々、あちこちに集まって自転車談義に花を咲かせているのがおかしくもあった。
イタリアぽい、と考えた。
イタリアの人が聞いたら、怒るだろうが。

オークランドにも、もちろんマーケットはあります。
いま見ると、70にちょっと欠けるくらいの数のマーケットがあるよーだ。
家の近くでは、パーネルといって、パーな人が眠っているような名前だが、ほんとうは高級住宅地である町に隣接した、目抜き通りのはしっこのところで毎週土曜日と日曜日に開かれるFrench Marketがある。

http://www.lacigale.co.nz/french-market/

クレープの屋台が出ていたりして、小さいひとびとのお気に入りだが、価格が高いものが中心で、オカネを使うのが嫌いなわしは、「高い。なんじゃ、これわ。ぼっているのではないか」とブツブツ言ってモニに笑われる。

欧州料理に欠かせないハーブがひととおり揃っているのが取り柄で、庭のバジルをとりつくしてしまったのに、スーパーマーケットでも、収穫が少ない年で、軒並み売り切れている、というようなときに便利なのは、しぶしぶ認めなくもない。

オークランドから南東に、クルマを40分くらい走らせると、小さな村、Clevedonがある。ここには毎週日曜日に近在の農場が集まって開いているマーケットがあって、むかしドイツ人の一家が玄妙な味わいの手作りソーセージ用カレーソースを売っていた頃は、や、やばいカレーソースが切れそうだ、とつぶやいて、禁断症状で手が震えだしたりしないうちに、というので大急ぎで駆け付けたりしていたものだった。

なんだか、ものすごくおいしい搾りたてのオリーブオイルを出している屋台もあって、シーズンになると、そろそろ出るかなあーと呟いて、買いにでかける。

Clevedonは一年を通して収穫する牡蠣の養殖で有名な村なので、帰りには当然牡蠣を買って帰ります。

週末の朝は野菜や果物、ポリネシア系の店はタロ芋やココナツ、アジア系のものならば豆腐やバオを売っているマーケットのどれかに行く。
なんだか微妙に背が高くて縮尺がやや誤っているおおきさで、でへでへした顔で、チキンサテの串をくわえて、口の端やほっぺにピーナッツソースをくっつけたまま歩いている若い男がいたら、多分わしで、よくみると背中には、十全外人と漢字が書いてあったり、真っ赤なゴジラが火を吹いている絵がついていたりしているのではなかろーか。

オークランドには、もうひとつ、毎週、平日もほとんど毎日どこかで開かれているナイトマーケットがある。

http://aucklandnightmarkets.co.nz

野菜や果物のストールが中心の朝市と異なって、こちらは食べ物の屋台がずらりと並んで、ペナンやなんかに馴染みがある人は、あれもシンガポールのようにホーカーズというのかどうか、あの屋台が集まって、チョーおいしい食べ物が、うっそおおおーんな低価格で並んでいる、ハンサムでケチな人(例:大庭亀夫)なら心が躍る常設食べ物大会の雰囲気が、そのままニュージーランドに越してきているのだと思えばいいかも知れません。

アジア系も欧州系もポリネシア系も、おおきな夜市ならば、よりどりみどりで、マレーシアのサテ屋さんの隣では、韓国系のおばちゃんたちがプルコギを並べて売っている。
うー。おいしそー。
涎をたらしそうな顔をして見つめて立っていると、胡乱な男が、涎をたらしながら、店の前に立っていると売り上げが落ちると心配するのでしょう、「ちょっと食べてみる?」と差し出されて、辛い鶏の焼き肉を食べてみると、ちくそー泣きたい、とおもうくらいおいしい。

15個で5ドル(400円)の焼き餃子や、焼売、焼きソーセージ、と食べていると、あっというまに時間が経って、最後のチーズケーキを平らげてタメイキを付く頃には、7時過ぎにやってきたのに、あっというまに9時くらいになっている。

ポリネシア系の子供が裸足で走っていって、そのあとから、見るからにビンボなおとうさんとおかあさんが、なんだかヒソヒソ話しながらついてゆく。
そのうちに、おとうさんが、財布をとりだして、名残惜しそうに5ドル札を子供たちに渡している。
オークランドは、どんなに政府が頑張って隠そうとしても隠しきれないほどインフレーションがひどくなってきているので、統計の数字など誰も信じていないほど、生活は苦しくなるいっぽうで、night marketのような場所があることで、やっと家族団欒の外出で息をつけるおもいの人は、たくさんいそうな気がする。

駐車場には、ニュージーランド名物の一枚だけ車体とドアの色が違うカローラや、気息奄々とした音を響かせながら、駐車場に滑り込んでくる、屋根やボンネットの塗装が南半球の強烈な紫外線で剥げたサニーが並んでいる。

そういうものを眺めていると、オカネって、個人の生活にとって、なんなのだろう?
幸福と持っているオカネの量は、グラフにすると、どんな相関関係があるのだろう?
と、バカなことを考える。

ロンドンでもニューヨークでも、あれは多分、日本の蕎麦屋さんやなんかの影響で、コミューナルテーブルがすっかり定着したが、オークランドのビンボ夜市でも、ほんとはただのテーブルなんだけど、あんまり人が多いので、どのテーブルもコミューナルテーブル化していて、隣のフィジーから来たインド人のおばちゃんに、山芋の料理の仕方を教わったり、サモア人のおっちゃんに歌を訊いたら、突然、おおきな美声を張り上げて、8小節も歌ってくれたりする。

ナイトマーケットは、人間が人間らしく活き活きしていて、ケチわしとしては重要なことに、5ドルが15ドルに使えて、大好きであると行くたびにいつも思う。

ガメは、屋台の食べ物を食べてるときには、すごく幸福そうだなあー、とモニが感嘆するように述べている。
もう一緒に暮らすようになってから長いので、そのあとの「子供みたい」という科白を、言わずにのみ込んでいるのが手に取るように判ります。
家では、ひとりでアイスクリームをぐわしぐわし貪り食っていて、ふと顔をあげると、モニさんと、小さなひとびとと、猫さんたちが横一列に並んで、立って、猫さんたちは前足を立てた例の猫いばりの座り方で座って、じっと、わしを見つめていたりする。
父親の威厳ということを考えて、内心、周章狼狽する。
ナイトマーケットでは、ひとごみのどさくさにまぎれて、懐に忍ばせた特製餃子ソースや、紅酢、はたまた辛子に至るまでをかけて、サモサ、餃子、焼売、ホットドッグ、サテ、…と、ハシゴして満悦に至る。
らくちんの秘術を、いかんなく発揮できます。

モニさんは、あんまり食べなかったのに、なんだか、とてもニコニコしていて、
幸福そうで、もしかしたらこのひとは、わしの胃袋におさまった食べ物で満腹できるのではないかという年来の疑いを新たにする。

この辺で、やめておきます。
でもね、ナイトマーケット、すごおおおおく、楽しいんだよ!
マレーシアのペナン島には、食べ物のおいしさの点で到底かなわないが、あそこは暑すぎるんだもの、オークランドでいいや、オークランドで、と独りごちてみる。
人間の一生なんて、どうなるかわかりゃしないので、小さいひとびとがおおきくなったら、ビンボな中年になっていくのかもしれないが、それでも、人間は必ずこういう場所を発明して、オカネがあるのがなんぼのもんじゃい、の、都会の楽園を生みだすに違いない。

死ぬときには遺言で、吾子(あこ)よ、ビンボになったらナイトマーケットに行くのだぞ、らくちんを忘れてはならぬ、と記しておこうと思います。

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