EFL

どうして、それほど日本のことが「気になる」のか判らない、という。
そう述べるのは必ず日本の人で、英語人からは聞いたことがない。
多分、日本の人のことなので、何らかの嫌味を述べて、こちらの気分を悪くしようとしているだけのことなのかもしれないが、ぼくは言われたことを字義通りにとるほう、というより、まず字義通りにとるように自分を訓練してきたので、言われたことを、そのまま考えて、そういうものだろうか、と不思議におもう。

この世界には、英語が母語なみに出来る人は日本語人の想像を越えた数で存在する。
子供の時に連合王国にいました、というような人が多いのはたしかだが、そうでなくて、例えば「水平社」について知りたかったので、物理の勉強の傍ら勉強したんだよ、という人もいます。

数学は学問コミュニティの在り方の上で、むかしから国際性が強いので、大抵の分野で、言語を超えた協業が盛んで、そのせいで、3,4カ国語が話せる人は普通に存在して、バルト三国あたりの出身であると、なんだか母語が6つくらいあるような、愉快なじーちゃんが現役で存在する。

中国の人であって、英語が母語並に出来て、英語社会の、さまざまな問題に興味を持たない人が存在しうるかというと、そんなことはあるわけはなくて、たいていは、自分の生活と利害の相関がなくても、トランプはなんてバカなんだ、一方のヒラリーも、いいかげんに何の反省もなく白いキャリアウーマンの鈍感をひっこめればどうなのか、のような「大きな問題」から始まって、いったい何の権利があってキャドベリは、ニュージーランドの工場を閉めて、連合王国の工場に生産を集中してしまったんだ!
あんな甘いキャドベリなんて食べられたもんじゃない、というチョコレートの義憤に至るまで、英語人と世界への感情を共有している。

ある言語を習得することは、その言語を使う人間たちの「血の中へ分け入っていく」ことで、日本語を身に付ければ、日本語人とともに喜び、日本語人とともに怒り、日本語人とともに嘆くのは、ごく自然な、あたりまえのことで、
どうして、それほど日本のことが「気になる」のか判らない、
という感想のほうが、ぼくには理解を越えている。

だって、日本語への共生の感覚がなければ、言語の習得のしようがないでしょう?
ルーク・ミツミネ@soloenglishjpはツイッタ上で出会ったオーストラリア人で、カタロニア人の奥さんと一緒に京都に住んでいる。
テキトーをこいて、奥さんのアイダと会うまでは、ファッションモデルのバイトをしたり、オーストラリアで働いたり、台北に住んでいたりしたが、奥さんと出会ったのがよくて、更生して、とーちゃんとして、ビジネスを起こして、忙しそうに暮らしている。

ファミリーネームでわかるとおり、ルークは片親が日本の人で、本人によればそのせいで、日本語が「母語並」に使える。
母語は英語で、たまたまぼくが好きな町であるブルーマウンテンの少し手前にある町で育ったので、こちらは当たり前というか、多分、普段の生活で悪態をつくときに出るのは英語なのでしょう。

ここには、面白いことがあって、ルークは日本語で怒っているときには、まったくの日本人として、ただし日本以外の世界を十分に知っている日本人として怒っていて、やりきれない気持ちや、日本人の狭い了見に憤懣を爆発させたりしている。

当たり前なんじゃない?ときみは言うかもしれないが、ぼくは日本語で考えているとき「だけ」日本語世界について憤懣をもって、次の瞬間でも、モニさんがお茶とケーキを持って現れると、さっきまで確かに身内に存在した憤懣は見事に雨散霧消してしまう。

スイッチが切れたように、といえばいいのかもしれません。
日本語にひたっていたときの感情は、綺麗さっぱり姿を消してしまって、もっと踏み込んでいえば、別の人格になってしまうのだとしか、言いようがない。

観ていると、ルークには、それが起こらなくて、ぼくのほうは、なるほど言語はどんなに上達して、あるいは母語人よりも巧みに乗りこなせるようになっても、それとは関係があるのかないのか、スイッチのオンオフがある言語と、スイッチがオンのまま、ずっと自分の魂と干渉している言語があるのだとおもう。

その、言語の底の底のようなところに、日本語学習者であるぼくには、まだ見えていない秘密が蟠っているように見えます。

どうして、それほど日本のことが「気になる」のか判らない、という、と冒頭に書いた。
そう述べるのは必ず日本の人で、英語人からは聞いたことがないのは、つまりは日本人は言語の習得ということを、思想の時点ですでに誤解しているからで、骨がらみ、というが、ひとつの言語を「コミュニケーションの手段」や「仕事の道具」、まして、「キャリアを充実させるためのステップ」として身に付けることなんて出来るわけがない。
言語は、ひと言でいえば血肉そのもので、手にもって使える斧やナイフとは異なる。
いわば、まだ見ぬ自分の魂の培養で、極端にいえば、ふたつの言語に通暁することは、ふたつの魂を持つことであると思います。
実際、やってみれば判るが、母語なみになった言語は、その言語によって、自我がすこおおおし、異なるような気がする。
英語のJames と日本語の大庭亀夫は、なんだかひとつの身体を取り合う、二重人格のそれぞれであるような錯覚に、よく陥る。

前置きが長くて、なんだかもう終わりの頃になって本題に入るのは、このブログの特徴だが、ここからが本題で、現代の世界の参加資格のようなものは、「自分の英語人格」を獲得することなのではないか、と考えることがある。
そうあるべきだ、と述べているのではなくて、出来上がって眼前に現れてしまった現実として、そういう世界になってしまっているんじゃないかなあー、というくらいの意味です。

マレーシアのペナンで、ジョージタウンに用意してもらった宿泊施設は豪奢で文句のないもので、やる気になればペナン島の精霊たちと運動会がやれそうなくらい広くもあったが、なにしろ暑くて、建物内部は無論クライメイトコントロールが行き届いて、どこか欧州の、夏のピレネーの村かなにかにいるような快適さだったが、
ここにCCさん@_cc_bangkokという悪い人がいて、名前を書いてしまっていいものかどうかいつも判断がつかない聡明な奥さんと一緒に、ペナンに住んでいて、ツイッタを通して、とんでもなくおいしいそうな屋台料理を、これでもかこれでもかこれでもかと日夜見せつけ続けている。

生来いやしい人間としては、それを見逃すわけはなくて、ペナンでは発達しているuberに乗って毎日、今日はChar Koay Teow、明日は蒸し鶏でないローストのチキンライスと、食べに行きます。
その結果、モニもぼくも、たった一週間で夏バテに至ってしまった。
モニさんは一日16時間は軽く眠って身体の恢復の要求に応え、ぼくのほうは、だんだん、楳図かずおの蛇女のように床を、ズルズルズルと床を這って蛇行するようになっていった。

蛇さんであるのをやめて、ある日、すっくと立ち上がって、「こうなったらビーチしかない!」と叫んで、やや西のビーチに数日移動したのはそういう理由によっています。

ホテルの部屋で、なにをしていたのかというと、モニさんと、とても人に言えない、あんないけないことや、こんな人には言えないことを、ぐふふふふ、していたのだけど、食事は全部ルームサービスで、普段は観る機会がないテレビ番組を、勢い、観たりしていた。

ブータンとインドの外交官が、中国の外交官と、マレーシアの討論番組で互いに通訳ぬきの英語で激論を交わしていて、なにがなし、これからの世界はこうなっていくのだなあ、と感じた、ということを話しているのです。

アクセントからして明らかに英語が母語ではない双方が、しかし、「公的人格」とでもいうものを獲得したうえで議論していたからで、多分、あの中国の外交官もインドの大使も、銘々の母語では、出てくるわけはないパースペクティブから発語していた。

英語の発想に立っていて、絶望的に異なるお互いの立場を、しかし、かろうじて議論の場として共通の舞台にしているのは、その、「英語の発想」だったのが簡単に看てとれました。

EFL、という。
English as a foreign languageの略で、ESL 、English as a second languageとも言います。

つまりは母語でない英語のことで、世界は、急速にEFLを共通の普遍語として共有する方向でステージをつくってきた。

日本の人にEFLの概念の話をすると、なんだか覚束ないアクセントの英語を思い浮かべてしまうらしいが、そうではなくて、
ここで述べているEFLは「母語並」の外国語としての英語ということを考えている。

英語には、誰が聴いたって歴然と異なる、スコットランド英語、イングランド英語、アイルランド英語、オーストラリア英語、ニュージーランド英語…..があるが、EFLは、出自はそのうちのひとつと見做すことも出来て、お里は、多分、大学であるとするのが説明するのに最適でしょう。
パンの匂いがちゃんとするラテン語というか、生活の匂いもちゃんと身に纏ったラテン語のような役割で、言語として、よく出来ている。

この言語のパースペクティブの光源は、「お互いを理解しやすい地点に立つこと」で、この俯瞰光源にあたる点を獲得したことで、EFLは思考・議論の言語として不動のものになった。

ぼくの好きな映画「English Vinglish」には、娘が、英語をまったく話さない母親を恥ずかしがって、ベンガル人で、というのはインドでベンガル人であることの意味を述べれば諸事を英語で情報処理する日常である校長と会わせないように画策するところが出てくるが、ここに出てくるインディアン・イングリッシュは、EFLに近い機能を持っている言語です。

いつものことで、ごみんごみんだけれども、ここまで書いてきたら、なんだかくたびれてしまったので、駆け足にするが、EFLの言語としての俯瞰光源をもちうるかどうかは、ここから先は、そのまま「世界に参加できるかどうか」という問題につながる。
多分、大学受験のせいで、日本の人は、英語を学問と捉えるひどい悪癖があるけれども、英語をベンキョーしている場合ではなくて、英語の世界の血の流れのほうに、自分から分け入っていかなければ、日本人全体が世界から疎外されていくのは、知っていて知らないふりをして、訳の判らない詭弁を構築するのでなければ、どんな人間にもわかることだと思います。

日本語のほうからみれば、EFL世界であっても英語世界は「翻訳されなければ判らない世界」かも知れないが、おなじ事象をEFL英語の側からみれば、日本語は「言語のない世界」の影のなかに逼塞している世界であるとしか認識のしようがないことを、もっと日本人は、ちゃんと理解すべきだとおもう。

それに、ほら、「わたしはあなたを愛している」と述べるのは、
相手の言葉のほうがいいでしょう?
それが、お互いにとって「相手の言葉」であるのは、いまのところEFLだけで、
土曜日の朝、シーツの上で手をしっかり握りあって、「わたしは、この人と一緒に、この世界を冒険していくのだ!」と決心するには、母語であるよりはEFLのほうが相応しいのかも知れません。

夢のなかに分け入っていくには、希望の言語が必要なのだとおもいます。

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Despacito

夢のなかでは、まだ古い丸ビルが残っていて、丸ノ内の駅前でタクシーを待っているぼくのまわりを薄い灰色の影のようなサラリーマンたちが歩いている。
1999年に取り壊されたはずの丸ビルがあるのならば、日本にいた時期から考えて、まだ子供のはずで、ひとりでタクシーを待っているわけはないが、夢は夢で、きっと、この丸ノ内は、おとなになってからもういっかいやってきたら、こんなふうにやってみたいと考えた、夢のなかの丸ノ内であるのに違いない。

行列の前のひとが、唐突に振り返って、きみ、知っていますか?
このサラリーマンたちの半分は、実はもう死んでいる人達で、自分達が死んだことにも気付かずに、こうやって毎朝、出勤してくるのですよ。
ほら、あの鼻の下にチョビ髭を生やした丸眼鏡の男は、ずいぶん旧式な三つ揃いを着て、随分太い傘をもって、ご丁寧に帽子まで被っているでしょう?

ぼくは、あの男をたまたま知っていて、清瀬で結核で死んだのは、戦争前のことだった、ぼくは….

と言いかけて、急に霧のなかへ溶け込むように消えてしまった。

ああ、このひとも、もう死んだ人だったのか、と当たり前のように思って、日本はヘンな国だなあ、と考える。
日本? 日本は関係がないんじゃない?

ぼくの一生のすべてのスタートは、ビクトリア公園の、低い丘の上に立って、霧雨のなかで、タシットを見下ろしていた、あの午後にある。
人間は死ぬのだから、十分に生きなければいけない。
競走のように歩くのをやめて、自分にはどんな歩幅が最適で、どのくらいのスピードで歩くのが最も快適なのか、見いださなければならない。

歳をとった人間が忘れてしまっていることは、若い人間のまわりにも死んでゆく人はたくさんいて、若者は、十分すぎるほど死について考える。

死について考えることは、生きることについて考えることで、産まれてから、だんだん人になって、まだ子供は子供だが、ほんとうに人らしくなるのが15歳くらいだとして、それから、多分、70歳くらいまでは、ただ寿命があるだけではなくて、人間として考えられる確率が高いだろう。
もちろん例外はあって、例を挙げればラッセル卿のような人もいるが、早くから人間である実質を失う例は遙かに多くあって、若年のうちから痴呆症になる人もいるし、器質的な病でなくても、例えば強姦にあって、魂そのものが死んで、死んでしまった魂が、ただ苦悶しながら、肉体をもてあましているようなこともある。
あるいは、他人、例えば母親が生きたかった人生を歩いてしまう人もいて、ひたすら勉強して、医師になって、それが如何に自分の魂にとって、寸法があわない職業であっても、ただ世間が口を揃えて褒めそやしてくれることだけを生きる縁(よすが)に、自分は正しい一生を送ってきたのだと、自分自身に対して、虚しい説得を続けることで生きてゆくひともいる。

カウチに寝転がって、自分の足を眺めていると、なんだか他人の足のようで落ち着きがなくなった経験は、誰にもあるに違いない。
肉体は、必ずしも、きみ自身であることを意味しないのは、しばらく鏡をのぞかない生活をしていて、何ヶ月も経って、ふと自分の顔を鏡のなかにみると、他人が立っているようにみえることでも判る。

ぼくの場合は、ときどきやってみる無暗矢鱈に日本語を書いてみたりする時期がそうで、日本語を、狂った人のように書きなぐって、日本語で世界が構成されたようなときに、ふと鏡をみると、そこには異形の人が立っていて、ぎょっとすることがある。

また違う夢のなかでは、ぼくはトランピングの途中で、タスマントレイルを数日歩き続けて、疲れて、ネルソンの町に降りて、土手に背中を預けて、ステーキパイを食べている。

土手の上の道を、数人の人が歩いて来て、そのうちにひとりの声が、自分が子供のときに死んだ曾祖父で、あの最後に息を引き取るまで快活だった声で、
「人間の一生なんて、たいしたことはないのに、まったくご苦労なことだ」と述べている。

ああ、これは本当に曾祖父だ。
この人は、これが持論なんだ。
なつかしいなあ、でもどうして死から蘇って、こんなところにいるのだろう?

夢のなかの現実の排列はデタラメに見えるが、実は法則がある。
覚醒の生活のなかで、最も夢の現実に似ているのは本棚だろう。
この棚は外国語で、フランス語の古典はここがいいだろう。
こっちは宗教の関係にしてみようか?
でも、そのときには、フランス語の宗教の本はどこにいれれば、うまく収まるのだろう。

夢は、あるいは夢のなかの現実の排列は、どこまでも永遠に本を並べ替える作業に似ていて、考えていると、人間はみんな、自分の過去と思惟についての司書にしか過ぎないのではないかと思えてくる。

では覚醒した現実はどうかというと、夢や死と、それほど変わらないような気がする。
覚醒した現実を保証しているのは大脳による認識だが、認識がほんとうに自我の主体によって行われているかどうかには、常に、よく知られた、おおきな疑問がある。
自我は、自分が選択したふりをしているだけで、意識を欺すことによって、支配者を気取っているだけなのではないか?
たとえば思考ということを例にとれば、ほんとうに考えているのは与えられた言語の、いわば歴史性による自立運動であって、意識はそれを追認しているだけなのではないか。

だが肉体の感覚は、リアルである。
よく知られているように、視覚も聴覚もあざむくことは簡単で、世界の上下などは、被験者にVRデバイスを被せて、そのまま一週間も生活させれば、簡単に上と下は逆転する。
でも重力は?と問う人は事情に通じない人で、飛行機を操縦する人ならば、自分が見ているのは水平線だとして、空はほんとうに水平線の上にあるほうの領域なのか、ほんとうは自分は飛行機を裏返しにして飛ばしていて、海を空と錯覚しているのではないか、と混乱した経験を持つ人はざらにいる。
実際、航空機事故の理由のひとつになっている。

そうやって感覚の真実性そのものは、あてにはならないが、感覚のリアルはこの上もなく確かで、神が人間をうらやむ理由があるとすれば、神には感覚受容器が網羅された肉体がないことであるのは、簡単に想像がつく。

性の興奮や、愛する人の髪に触れるときめきや、肌と肌をあわせる恍惚を、神は持ちえない。
人間の肉体という、滅びやすい受容器を持たないからです。

30余年を生きてきたが、なんだか、ときどき退嬰的な気持ちになると、およそ人間が自分の一生に期待するようなことは、すべてやってしまった気持ちになる。
それはきみの想像力が足りないからだよ、という父親の声がすぐに聞こえてくるが、人間の一生には、ほんとうにやってみる価値などあるのだろうか?
ほんとうは、ただ肉体という受容器で、つかのま、この世界を感覚するために戻ってきているだけのことなのではないか。

いつもの疑問が、また夢のなかにさえやってきて、夢のなかの不眠をつくりだしている。

それとも、覚醒の生活と認識している時間のほうが、実は夢と定義しうる時間で、夢は覚醒した時間が把握できない秩序の時間が意識の流れになっている現実なのだろうか。

笑うかもしれないが、それがぼくの頭を占めるおおきな疑問で、つまり、大雑把に述べてしまえば、「自分はたしかに存在しているのか?」という疑問であって、同時に、きっと自分が死を迎えるまで、答えることが出来ない疑問なのではないかとおもっています。

それで、一向にかまわない、という気持ちはあるのだけれど

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2017年のサバイバルキット_3

モニさんは、「鉢木」という能楽な名前の日本料理屋でフランス人の友達とあうことになっていたので一緒に北鎌倉で降りた。
もう日が傾きかかっていたが、ひさしぶりに鎌倉まで歩いていきたかったし、約束の時間までは、まだだいぶん時間があったからです。

浄智寺の脇から、鎌倉の、特徴がある低い山に登っていける道があって、化粧坂(けわいざか)を通って、源氏山公園に出て、お化けが出るので有名な日野俊基の墓から道を降りて、佐助に出る。
佐助に出れば隧道を通って鎌倉の駅はすぐで、その鎌倉の駅の近くに用事があるのでした。

ハイキングコースの標識があるブッシュに入った瞬間に、ああ、鎌倉はいいなあ、と考えた。
町の空気が、一瞬で田舎の空気に変わって、昔は売春街として賑わったという化粧(けわい)坂をのぼりきったあとは、なんとなく、精霊たちが茂みのあちこちや、枝のうえから見詰めているのを肌で感じます。

昔は、鎌倉にいれば、東京では味わえないこの田舎の空気を吸いに、普通に舗道を歩けばあっというまに着いてしまう道を、例えば港南に行くのにも天園をのぼって、わざわざ岩から岩に飛び移るようなことをしながら、無駄な苦労をして、歩いていったりしたものだった。

鎌倉の自然は、例えば、わしガキの頃のトンブリッジウエルという町の自然に似ている。
野放図な、湖の岸辺に立って見渡すと、どこか知らない惑星に来たのでもあるような、人間を寄せ付けない美しさのニュージーランドの森林とは異なって、人間が何世紀にも渉って手を加えて、慈しんで、いわば人間の吐息がしみ込んだ自然で、天園にしても、源氏山にしても、腰掛けて空を眺めていると、過去の人間たちが、周りにぼおっと現れて、銘々、朝ご飯の仕度をしたり、立ち話に興じたり、夫婦で喧嘩をしたりしはじめそうな気がしてくる。

さっきの化粧坂にしても、13世紀にはすでに50万人を越えていたという鎌倉の稠密な人口のなかで、掘っ立て小屋のような家を林立させて、道を通り抜けるには袖をひく女の人達を避けねばならなくてたいへんだったのだという。

それが、いまは切り通しなどは、ただの自然に帰っている。

あるいは義理叔父とふたりで、横須賀線の終電で帰って来て、酔い覚ましに段葛の道を歩くと、満月の光で、何かがきらきらと光っている。
「細かい石英みたいなものがありますね」と口にすると、義理叔父が笑って、
「ああ、それはね、昔の侍の人骨なんだよ。この辺りは、ほら、この右手が官庁街にあたる武士屋敷が続いていてね、この段葛を挟んで、何度も何度も戦闘があって、葬ってもらえた者は良いが、置き捨てにされた者もいて、そういう死体が朽ち果てて、こんな細かい骨の欠片になってしまったのだよね」と言う。

歴史が何重にも堆積して、地に埋もれて、層をなして、この辺りで家を建てようとすると、ほとんど必ず遺構が出て、開発業者は大損をする、という話をずっと後で知った。

イギリスや日本では、そういうありかたで、自然もまた文明なので、自然にしか過ぎないと軽くみていると、いつのまにか、言語も習俗も染みついた、自国の文明に溺れこんでしまう。

放射能汚染を厭い、破綻寸前の財政に青ざめて、これはやはり外国に逃げなければダメなのではないかと悩んでいるきみの袖をつかんで放さないのは、案外と、この長い文明をもった歴史かも知れなくて、実際、外国に移住してしまえば、自国の呼吸のようなものからは、断ち切られてしまうことになる。

これから先の日本で生きていくには、まるで荒野を歩く人のように生きていかなければならないのは、ほぼ判っている。
自分の感覚と思考だけを頼りに、五官を研ぎ澄まして毎日を暮らせなければ、あっというまに、いま始まったばかりの、狂躁的で浅薄な文明崩壊に巻き込まれてしまうでしょう。

文明崩壊の大渦巻きに呑まれないで暮らそうとおもえば、大渦巻きのなかで自分の一生をコントロールできなければ自分を見失うことになるのは当たり前で、そのためには、なにかひとつ自分が拠ってたつ思考のよすががなければならないのは、ほぼ自明だと思います。

観念は役に立たない、ということを憶えておくと、良いのではないか。
読書家が殆どの場合、自分はなんでも知っていると思い込んでいるだけの愚か者なのは、たいていこれが理由で、観念には、観念と自分を結びつけるだけの切実さが欠けているということが判っていない。

では何が現実へのアンカーとして働いて、自分をつなぎ止めてくれるかというと、多くは生活のディテールで、それも些細な、二階堂の見栄えはパッとしない鮨屋が出前で運んでくる絶品の細巻きや、神田のまつやの、ご飯が江戸風にちょっと固いが、それさえ大目にみれば十分おいしい天丼や、あるいは神田食堂で、日式タリというか、トレイに並べた卵焼きや鮭や、明太子にひじきで、奮発して冷や奴までつけて、いそいそと席について、むふふ、と頬を緩めながら、箸を割ってとりかかる定食の、食べ物の楽しみでもいい、あるいはキッチン南海で色の黒いカレーを食べて、ついでにスヰート餃子で味噌汁と餃子を食べて、おもむろに東京堂書店の棚のあいだを徘徊する習慣でもいい、要するに自分に滋養を与える毎日の生活で、それが壊されない限り、社会は見限って、もうそんなもんは知らんわ、という態度で暮らせれば正常でいられて、此処も彼処も、どっちでも質の高さは同じであると述べるに足るだけの文明の実質を、まだまだ日本語世界は持っている。

ここまで書くと気が付く人もいるはずだが、例えばおなじ読書にしても、翻訳された本というものは、たいていの場合、害しか与えない。基盤になっている現実がないまま日本語に置き換えられた思想や感情は、空疎なエキゾチシズムに過ぎなくて、例えば日本語を十分に理解しているという前提でエラソーを述べれば、英語の「春の雪」は、正真正銘の駄作で、日本語の詩と俗の危うい境界を揺れながら辿るような、三島由紀夫の特長がなにも出ていない。
同じように、日本語でフォークナーを読んだところで、トランプを大統領にした、アメリカの血と肉が、感じられるわけはない。

そのくらいなら、いっそ居直って、日本語で思考された日本語の本しか読まないことにして、空間的に読書対象を広げるかわりに、どんどん時間を遡行して、イーブリン・ウォーの有名な逸話ではないが、「随分、古い日本語ですねえ」と言われて相好を崩すくらいになったほうが良いような気がする。

実際、耳袋などは誰が読んでも面白いし、今昔物語は日本語の弛緩ぶりがいまひとつでダメだが、同じ題材でも、例えば源俊頼の手にかかると、紫式部の弟の臨終の物語のような、素晴らしい一場の情景に居合わせることが出来ます。

日本昔話
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/04/30/dildo/

なんだか話が復古主義者のようになってしまった。

いろいろ言っているが、自分のほうが、異文化が大好きで、世界の表面をウロウロと歩いて、こっちの町に6ヶ月、あっちの町に3ヶ月と住んで、挙げ句のはては、やっぱり英語社会がいちばんいいのい、と呟いてモニに笑われたりしている、自分の姿が脳裏にうつって、やはり人によっては、どんなに住んでいる社会がボロボロになっても、生まれついた社会がいいのだろうか、という迷いが出ているだけなのかも知れません。

最後の冬、モニとふたりで低い空をみあげて、この国をこれほど好きだったのはなぜだろう、と考えたのをおぼえている。
他人に聞かれれば文学と答えることになるが、実はそれは理由の一部でしかないことは、自分ではよく知っている。

黙っていたけど癌で、やっと治ったんだよと言うので、会いに行ったら、見送りに駅まで行くよ、と述べて、断っているのについてきて、突然、おれも途中まで一緒に乗るよ、と言い出して、たったひと駅のために新橋までのグリーン券を買って、誰もいない終電のホームに降りて、観ると、病み上がりで、60歳をすぎたじーちゃんなのに、まるで健康な子供でもあるかのように電車が動き出したのにあわせて、走りながら手をふっていたKさんや、
ただの定食屋の持ち主と客にしか過ぎないのに、日本にやってきたので何年かぶりに訪ねていったら、カウンターの客が呆気にとられて、大笑いするなかを、キッチンから跳ね板をあげて飛び出してきて、 わしの胴体に細い両腕をまわして、「ガメちゃん、会いたかった! 元気だった? おばちゃん、あんたに会いたかったのよ。どうして手紙もくれないの? ダメじゃないの」と涙を流してまで大袈裟に再会の喜びを表してびっくりさせたおばちゃんや、感情過多と笑わば笑えで、泣いたり怒ったりばかりしている人達が、何世紀にもわたってつくってきた日本語の世界は、正面から見詰めれば、豊穣で、馥郁として、この世界に類稀なほど美しい言葉で、いくら考えても、これだけの美しい言語をもった文明が、そう簡単に、卑しさと放射能にまみれて滅んでよいわけはない。

どこに遊びに行くかモニとふたりで話していて、「日本は?」というので、もう絶対いかない、怖いもん、と答えたらモニが、なんだか謎めいた、可笑しくてたまらないとでもいうような顔をして笑っていた。

そう。
自分でも知っているのさ。

わしはまた、いつか、あの20世紀から一向に出てこない、国ごと座敷牢に入ってしまったような国を訪問するだろう。
どんどん進歩してゆく、この世界で、ひとつだけ、まるで生きることに興味をなくして立ち尽くしているかのように、立ち止まってしまった国。
自分の、すぐ後に窓があるのに、鏡を見つめて、自分の顔の向こうの景色を観ようとばかり努力している国。

日本という不思議な国を。
わしの奇妙なパラダイスを。

いつか、きっと。

(いまは、まだ怖くてダメだけど)

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2017年のサバイバルキット_2

あんまり東京が暑いので、もう少し涼しいところへ行こうと考えた。
いろいろ聞き合わせてみると、軽井沢という町がよさそうなので、出かけて探索することにしました。
鳥井原というところに、西洋式に駐車場が広い「つるや」というスーパーマーケットがあって、しめしめ、ここなら同類の外国人がいて、この町に住むのが良い考えかどうか聞いてみることが出来るだろう、と考えた。

店内に入って、誘拐する幼児を物色する目つきになって、歩いている人をスキャンする。

おっ。白いおばちゃんがおるな。
しめしめ。

話しかけてみると、「ここはパラダイスですよ!」とアメリカ人の訛りでいう。
ミッショナリの人で、日本の町にいくつか住んだが、こんなに住みやすい町はない。
このスーパーだって、駐車場が広いでしょう?
クルマで、あちこちでかけて、探さなくても店の前に駐車スペースがある。
夏は、人で大混雑でたいへんだけど、道の数がたくさんあるから、地理が判るようになれば渋滞につかまって難儀することもない。
絶対に薦められます。

そーかそーか、と考えて、軽井沢に昔から別荘をもつおっちゃんとおばちゃんの友達に全面的に家探しを依存して、夏のあいだ、こっそりやってきて、「あー東京はあちかった」をする家を買い求めた。

住んでみると、あんまり涼しくもなくて、日中はちゃんと30℃を越えたりして、これでほんまに避暑地ですかあ、コモ湖のほうがまだ涼しいのお、と考えたりしたが、この「夏の家」の購入には予想もしなかった「おまけ」がついてきて、おまけのほうが本商品の夏の家よりもゴージャスで、それが「日本の田舎」でした。

軽井沢自体は東京の飛び地のようなところで、退屈、というと怒られるが、東京の巣鴨あたりな感じの生活で、面白いことは何もない。
現に、軽井沢でいちばんおいしい天ぷら屋は万喜という店で、家の掃除にくるおばちゃんに、万喜の天丼を買ってきてくれるように頼むと、
「え?また天丼食べるんですか?ガメちゃんて、天丼男ですね」とか、
頭が揚げ物の怪人のような言われかたをしたりしていたが、うまいものは仕方がない。
話がそれたが、この天ぷら屋は、中目黒の店で、夏になると東京の店を閉めて、軽井沢にやってくるという愉快なひとびとで、この天ぷら屋に限らず、東京の店が多くて、わしが夏の家を買ったときは、もう存在しなかったが、その昔は紀伊國屋スーパーまであったそうでした。

鹿島の森ホテルというホテルの前から、ゴルフ場の脇へ折れて、離山(はなれやま)の森のなかをクルマで上がってゆく。
くにゃくにゃくにゃと曲がりながら、とんぼの湯という銭湯風な温泉の脇へ出ます。
まっすぐいくと嬬恋村という、チョーよい名前の、森が深い、広大なキャベツ畑がある村に出る国道を横切って、ややクランクっぽくなっている道に入っていくと、1000m道路で、いまなら、まっすぐ行くと、ビル・ゲーツの、学校よか大きな、アホなサイズの家がある。

ウインドーズで、世界のオフィスを下品にしてボロ儲けをこいたおっちゃんの家をすぎて、ますます真っ直ぐに行くと、満州開拓団がやっとここで定着した大日向で、それをまたずんずん行くと、追分で御代田で、…と続いている。

モニとわしは、あの道をいったい何回通っただろう?
わしは生来ボログルマが好きで、軽井沢でも、必要なことがあるのでやむをえずピッカピカのクルマを、東京から乗ってきたのとは別に一台おいてあったが、普段乗るのは歴戦の勇者というか、買ったときにそもそも8万キロ走っていた4WDで、サードギアに入れられるのがわししかいなかったので、森のなかのフランス料理屋とかで酔っ払って代行サービスを頼むと、ストールして、「すみません、このクルマのサードギア、どうやったら入るんですか?」と泣きつかれて、代行サービスのおにーさんを助手席に移らせて、自分で運転して帰ったりしていた。

サードギアが入らないくらいで泣き言を言うのでは、わしガールフレンドは務まらない。
代行サービスに来てガールフレンドにされては、たまらないが、そういう意味ではなくて、かつては、デートにやってくると、オカネモチの倅だと聞いていたのに、やたらボロいモーリスマイナーで現れて、いまにも襲いかかりそうな顔でニタニタしながら運転しているうちに、「あっ、やばい、ブレーキが利かない」と言い出して、信号のたびにパーキングブレーキを、ぐわっと引いてクルマを止めていたりして、「今度、あのクルマでやってきたら、マーシュランドの沼に捨てて帰ってくる」と言われたりしていた、強い人で、ことほどさように、ボロクルマが好きで、菅平の下り坂でクルマが減速できなくなってモニさんが悲鳴をあげたりしていたが、ははは、田舎めぐりほど楽しい遊びは、日本では存在しなかった。

国道18号線沿道の汚さはイタリアのラチオよりも酷くて、錆び付いた「ラブホテル」の看板や、半分倒壊しかけている倒産したパチンコ屋や、なんだかよく判らないクルマのスクラップやタイヤや家具が積み上げてあるゴミの山が、あちこちにある。

ところが国道から折れて狭い細い道へ入ってゆくと、これはまたびっくりするような美しさで、人間が金銭欲に駆られてゴミの山を積み上げるまでは、いったいどのくらい美しい国土だったのだろう、とよく考えた。

丸子町や御牧村、東部町、立科、浅科、佐久穂、別所、美しい田舎は軽井沢から近いところでもたくさんあったが、なかでも素晴らしかったのは広大な「名前がついていない森」や「名前がついていない野原」で、多分、名前がついていないせいでガイドブックにも載らないからでしょう、クルマから降りて、辺りを見渡して、モニさんと感嘆の声を挙げることがよくあった。

それまでは日本が美しい国だとおもったことは一度もなかったが、そのとき初めて、なるほど19世紀の母国のおっちゃんや、やたら文字を書くのが好きだったデンマークの水兵や、イザベラ・バードのおばちゃんは、こういう景色を観て「美しい国」と述べたのだな、と得心しました。

なにを長々と書いているの?
あんた、サバイバルキットの続きを書いているんじゃないの?
と言われるはずで、当然だが、なにを述べているのかというと、このあいだ述べたように「よそもの」として田舎にやってきて、ほんとは日本人だけどガイジンみたいにして暮らしているニセガイジンとして、暮らしてゆくのは、よい考えなのではないかと書こうとしている。

大雑把な人は大雑把で、日本に住んでいてはダメだと述べて、自分が住んでいるニューヨークじゃないとダメだとかメルボルンはいいよおーと述べて、それはたしかに本当なのだけれども、仔細にみれば日本も住めなくはない。
それも単に住めなくはないだけではなくて、外国に住むのと相応な、あるいは、外国に住んでも不思議なくらい一向に英語が身につかなくて、20年くらいアメリカに住んでいて、旦那さんもアメリカ人なのに、ちょっと話しているだけでも「単語を拾って話している」だけなのが判って、日本の人にとっては、なんらかの理由で、英語を身に付けるのがこんなにたいへんなのか、と、まさか口に出しては言わないが、心のなかで思ったりする。
言語などは、よく例に出すコンラッドを初めとしておとなになってから英語をベンキョーしはじめて名文家として知られた人などはいくらもいて、
母語人よりも上手になったりするのは、それほど大変なはずはないが、日本人はなぜかダメで、そういう苦労を差し引いても外国に移住してよかったという人はいくらでもいるはずだが、差し引いてしまうとマイナスで、こんなことなら日本にいたほうがよかったと考えて舞い戻ってしまう人も、また、たくさんいる。

福島事故が撒き散らして、その後は、なんだかこうやって考えていてもぶっくらこいてしまうが、政府が積極的に全国に向かって散布した放射性物質を怖がるのは、ただのまともな反応にしかすぎないが、

例えば長野県ならば汚染は千曲川の東岸で止まっている。
もっと大事なことは、長野県の人は昔から「千曲の東でりんごを食うな」というくらいで、りんごひとつとっても千曲川の西へクルマで買いに行く人が多い。

これが重要なことなのはなぜかというと、そういう偏見が土地に長くある場合、伝統的な流通がそこで切れているからで、たまたま汚染されていないまま千曲川の西が残ったのと相俟って、千曲川の西に越して農家や牧場の直販品を食べて暮らせば、汚染された食べ物を食べる確率はぐっと小さいものになります。

金沢や富山の人は自分たちの食べ物のおいしさに誇りをもっていて、その結果、流通のサークルがひどく小さいもので、遠くはせいぜい京都になっている。
もちろんスーパーマーケットは、そんなことはなくて、全国から食べ物が来ているが、それでも、伝統的な流通のせいで、金沢周辺の、地元のものが多いように見えました。

要は自分の生活なのだから、社会問題として捉えないで、自分が生き延びる方法を考えることに集中して、個人の立場から生活を組み立てていけば、あるいは北朝鮮とアメリカの戦争に巻き込まれても、北朝鮮という国がまともな通常兵力を持たないこともあって、案外と普通の生活を楽しんでいけるかもしれない。

次の回では、一歩進んで、日本でしか出来ない楽しみを並べて、外国に移住したくない/できない人たちと一緒に、問題だらけの日本の生活を、いまの慢性症状がついに劇性に変わったあとでも、楽しんで、いえーいな生活をすることを考えたいと思っています。

社会なんて脆いものだが、個人としての人間はしぶとい。
社会がダメになって個人の生活も一緒にダメになるのは、要するに全体主義的なものの考え方をしているからで、個人主義の強さは、社会が破綻したときこそ発揮されるのだということを、一緒に考えたいと思います。

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2017年のサバイバルキット_1

あちこちでテロの爆弾事件が起きて、ショッピングセンターで逃げ惑うひとびとに向かって半自動小銃を撃ちまくる白い男がいて、ほんとはやはり隣国は核ミサイルを撃ちこもうとしているのではないかと、不安な眼差しで空を見上げている人がいる。

ウサマ・ビン・ラディンはアメリカ人と一緒に肩を並べてアフガニスタンで戦う戦士だったが、いざ苦しかった聖戦が終わって、故郷のサウディアラビアに帰ってみると、イスラム人の口からは「傍若無人」としか呼びえない米兵たちの振る舞いに次第に怒りを募らせていった。
ニカブの女たちを指さして手真似で嘲笑して野卑な言葉をなげかけるGIや、イスラムの神にかけらも敬意をみせない米兵達に苛立ったからです。

ある日、ウサマ・ビン・ラディンが通りに立っていると、目の前でアメリカ軍の女兵士が着替えはじめた。
木陰に立って、さっさとTシャツを脱いでブラひとつの姿になって、着替えている。
ビン・ラディンがアメリカを滅ぼすべきだと心に決めたのは、このときだといいます。
なんでも検証好きの日本の人のためにいうと、わしはこんな経緯は勉強したことはなくて、子供のとき、朝のテレビで観たことを受け売りに述べているだけなので、信用できないが、少なくとも英語人に流布された物語では、そういうことになっている。

カネモチのドラ息子の特徴は、突拍子もないことを頭のなかだけでこね回して作り上げて、その計画を現実に実行した場合の現実の地獄絵に対しては一片の想像力ももたないことだが、ウサマ・ビン・ラディンも、その通りの人で、霧がたちこめた朝、ニューアークに着陸しようとしてエンパイアステートビルに激突して危うくビルを崩壊させかけた有名な事故が頭のどこかに残っていたのでしょう、旅客機をハイジャックして、世界貿易センターに突っ込ませると、思いがけない爆発を得て、ふたつのビルは完全に崩壊してしまった。

ベルギー人友は、9月11日は良く晴れたので、テラスで洗濯を、と考えて、テーブルにワインとグラスを並べて、あの生活を楽しむのが得意な人のいつものことで、手作りのサンドイッチも並べて、爽快な午後を楽しもうとしていたところに、視界の横の低空を、旅客機が横切っていった。
飛行機がつっこむと炎を黒煙があがって、これは大変なことになったと思ってテレビをつけたら、二機目が突っ込んでいった。

自分で気が付かないうちに、みるみる涙が両目にあふれてきて、何が起きたのが判らないが、何が起こったにせよ、この数年続いた平穏な幸福は終わったのだと悟ったといいます。

もっと大袈裟にいうと、アメリカの幸福は終わったと感じていた。

実際、この記事を書いている2017年までの時点では、アメリカは、この事件のショックから立ち直ることはなかった。
ちょうど日本の歴史でいえば福島第一発電所の事故のようなインパクトで、アメリカ人たちは怒り、悲しみ、なにごとかと戦おうといきりたったが、自分の「敵」が正当な戦場に軍隊として姿をあらわすことはなかった。
行き場のない怒りは、ニューヨーカーを駆りたてて、イスラム人が経営するお土産家電店につかつかと入っていって大声で中東人を罵倒したり、イスラム人を町でみかけると、すれちがいざまに「自分の国に帰れ」と言わせたりした。

欧州人は、むかしから、テロというようなものにはなれている。
そのころはまだフランスに向かう新規開業のユーロスターがウォータールーステーションから出ていたので1994年のことではないかとおもうが、親の目を逃れてこっそり買ったマクドナルドハンバーガーの空き袋を捨てようと考えたら、ゴミ箱というゴミ箱が封印されていて、閉口したことをおぼえている。
当時はIRAの爆弾事件が続いていたころで、内緒だがアイルランド人贔屓だったぼくは、複雑な気持ちになっていた。

憂鬱な気持ちのままユーロスターに乗って、出された折角の鱈にも食欲がわかなくて、様子を見に来たウエイターが、ひどく落胆した顔になって「お気に召しませんでしたか」と述べたことまで鮮明におぼえているが、そうやって「なれる」ことは本当にはなくても、生活の一部にはなっていたわけです。

こうやって書いてみると異常なことで、30代前半である自分の世代の人間にとっては、例えばUK人であるならば、テロは日常に組み込まれたリスクで、突拍子もないことに、チェンマイでガイドの、待っているときにはいつでも日本の漫画を鞄から取りだして読んでいたガイドの若い男の人に「タイ人はどうやってデング熱を防ぐのか?」と聞いたら、「それは生きるのに必要なリスクですから」と答えられて、ややたじろいだが、そのときに、自分の頭が理解するために努力したのでしょう、脳裏を掠めたのはロンドンのテロのことだった。

英語ではconsequencesという。
自分が何事かをおこなって、その結果の必然として一連の反応が自分に跳ね返ってくることで、日本語だと応報だろうか。
なんだか、ちょっと違うような気がするので英語のままconsequencesというが、21世紀も、17年も経ったいまの世界は、過去の出来事のconsequencesのなかで生きているので、子供のとき、ロンドンのあちこちで爆弾が爆発したのは、クソッタレのクロムウエルがアイルランド人から徹底的に収奪して、ついにはレンガを食べなければならないほどの困窮にアイルランド人たちを追い込んだ歴史の結果であるし、911は、アメリカ人の伝統的な他文明への鈍感さの結果であるに過ぎないとも言える。

日本の都市が北朝鮮の核で焼かれるセットコースに入ったまま、刻一刻と核という広島・長崎以来の文字通りの地獄の業火に向かって進んでいるのは、実に、戦前の日本という歪んだ文明が北朝鮮に残してきた政治・社会的なDNAが、朝鮮人が儒教のときもみせた情緒的な徹底性によって尖鋭化した反応を生みだした結果で、日本はまさに自分が生みだした子供によって、焼き殺されようとしている母親に似ている。

どうすればいいか。
ひとつだけ、日本の人がいちばん考えるのが苦手な社会がおこなってきたことのconsequencesのなかに立たされた個人にとって、サバイバルとして行いうることは、「自分の社会についていかない」という方法以外にはありえない。

1923年の関東大震災のときに人の群れの判断に頼って被服廠跡に向かった人は他の38000人のひとびとと共に炎に焼かれて命をなくすことになった。
例えば日本人ならば、それが思い出すべき教訓で、世界がturmoilのなかにあるときに生きてゆく秘訣は、秘訣はヘンだが、要諦は、他人についていかずに自分の頭で考えて、懸命に計算して、そういう言い方が判りやすければ打算して、でもよい。
いまの時点で、自分はあそこにいなければならない、という地点めざして歩いていくことです。

日本語ネットで出会った、ユニーク(←英語の意味)な知性のタメジロウは誤解している。
若い人に海外への移住をすすめることが多いのは、平均的な日本人の条件ならば海外に出た方が個人として「生き延びられる確率が高い」と思われるからで、いつかこっそり述べたように、自分が日本人ならば、案外、海外移住などは環境が変わりすぎて賭博なので、日本のどこか、ラーメンがおいしいところかどこかを選んで、ひねくれた顔のまま、ヘムッと口を結んで住み着くのではなかろーか。
その場合はぼくは、地元のコミュニティに対しては一顧だにしないだろう。
朝のパンを買いに行ったパン屋の若い女の子に、自分のアカデミックな背景を洩らしたりして、卑怯に及んで、自分の生活を守る障壁をつくるくらいはやりかねない。

日本の諸自治体は面白くて、「海岸性から遠ければ遠いほど平穏である」という特徴を有する。
例えば軽井沢の近くには佐久平という町があったが、この佐久という町は、日本でいちばん日照が多いのと災害が一度もないのとで有名で、地震もなければ、台風すらきたことがない。
なんだか日本の町ではないようなところで、そういう軽口を利いてはいけないが、天日干しの米作と、かつては突出してすぐれていた臨床医療のレベルのほかは、なにもない地域に北朝鮮のミサイルが降ってくるのは、想像のゲームとしても難しい。

日本を、さまざまな理由で出られない人も、まだ諦めることはない。日本に住んで日本人をやめて暮らすことが出来るのは、日本社会で「ガイジン」であった、ぼくはよく知っている。

ガイジンになっちゃえばいいんですよ。
村八分というが、村五分くらいで暮らすのは、現代の日本では十分に可能であるとおもわれる。

日本の、社会としての荊の道は、まだ続くとおもっている。
日本の社会の常で、日本の国としての立場が悪くなればなるほど、社会にも悪意が充満して、魂が呼吸することが難しくなってゆく。
でも、日本に居残ったまま生きていく方法は、あきらめなければ、まだまだあると思います。

義理叔父は感傷的、情緒的なところが少ない珍しい日本人だが、2011年のJFKで、成田行きの飛行機の搭乗を待っていたら、白い家族の子が義理叔父に向かって、まるで神様から直接教わったような鮮やかな発音の日本語で、
「がんばれ、ニッポン!」と叫んで、どうにも、カッコワルイことに涙が流れて止まらなかったと述べていた。

がんばれ日本人。
がんばれ、ニッポン

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猫の幸福

カウチで、どべっと寝転がって顔を背もたれの気持ちのよい表面ですりすりしていたら、
「ガメは、つくづく猫だな」とモニさんが、いっそ、しみじみした口調で述べている。
体長が2mを越える猫って、それは誇りも高い虎かライオンなのでわ、とおもうが、それを口にして大笑いされると自分の気持ちが傷つきそうなので、ぐっとこらえている。

灼熱のマレーシアから帰ってくると、ニュージーランドは、わし最適温度とでもいうべき11〜12℃で、なんだかニコニコしていて、ゴロゴロして、猫だと言われてなくても、喉をならして、みゃあみゃあ鳴きたいような気持ちになります。

近所のパブに行ってステーキを食べる。家族連れが多いパブで、腕のいいシェフがいて、食べ物はなんでもおいしいが、特にアイフィレステーキがおいしいので、よくここにやってくる。
欠点は、いつも賑やかなことで、わしは平気だが、モニさんは大きな声をだすのが苦手なので、話がしにくそうです。

「大きい声を出す練習をすれば?」
「どうやるの?」
「のどの深いところから声をだせばいいんですよ」

モニさんが、やってみると、なんだかおとなの男の声をマネしようとしている子供のようになって、鼻の下に付けひげをつけた少女のような印象の声になってしまう。

ウエイトレスがやってきて、アイフィレの焼き方はどうするか、聞く。
このパブではミディアムレアがちょうどいい。
ピンクで、血が滴らないくらいの、ミディアム。

付け合わせは何にしますか?
「チップスとコールスロー」
「わたしはシーザーサラダとマッシュドポテトにしてください」
ソースは?
「ペッパーコーン」
「わたしもペッパーコーン」
バロッサバレーのシラズを頼んで、シメシメ、今日は楽しい夜になりそうだ、と考える。

ステーキが来ると、モニさんが、「シーザーズサラダって、コールスローのつもりで言ったんだけど、まあ、いいか」とひとりごちている。
モニさんは、頭のなかで、言葉が不思議に変換されて、イメージと言葉が一致しないことがあるので、聴いていても別に驚きはしません。

ソースがマッシュルームソースなので、ウエイトレスに合図をして来てもらうと、
「ペッパーコーンソースと聞くとマッシュルームソースと書いてしまうのは、どういうことなのだろう?」と首を傾げている。
モニさんは、なんだかニコニコしてウエイトレスを見上げている。
もしかしたら前世では姉妹だったのではなかろうか。
そう思って、見直すと、すらりと背が高くて、整った顔の、美しい女の人です。

ニュージーランドに帰ってきたなあ、と思う。
三ヶ月くらいヨーロッパに出かけていても、以前はこんなふうに思わなかったので、マレーシアが熱帯のアジアの国でニュージーランドとは違いすぎる国だからか、それとも、モニもわしも歳をとったのか。

パブで、隣の人がでっかいスペアリブを食べているので、「ずいぶん大きいね」と軽口を利いたり、モニはモニで、やはり隣のテーブルの女の人と久しぶりに見たミルクシェークについて冗談を述べあっている。

日本はゼロトラレンスなのでパブでワインを飲んで運転して帰るというわけにはいかなかったが、ニュージーランドは出来ないことは法律にしないので、二杯くらいまでならワインが飲めるように法律をつくってあります。

外に出ると、そよ風がふいて気持ちがいいので、クルマを置いて、少し散歩する。
まわりの家を眺めながら、ヘンなデザインの家だね、
あの家の玄関はカッコイイな、と言って、ふたりで無責任な論評をする。
なんだか、とても幸せで、人間なんて、この程度の幸せがときどきあれば、十分生きてきた価値があると思えるものなのかも、と妙なことを考えます。

ほら、あそこ、とモニが述べている。
小さく指さしたほうをみると、舗道で、70代くらいの男の人と女の人が、立ち止まって、抱き合ってキスをしている。
よくある光景、と言えば、それだけのことだけど。

若い時から、ずっと一緒に苦労を共にしてきた夫婦なのか、一生の終わりになって再婚した同士なのか、そんなことは知らないし、もちろん、どうでもいいことです。

人間が人間であって、出来ればわがままに暮らして、夕暮れ、一緒に歩いていける程度には健康で、話しているうちに愛情がこみあげてきて、立ち止まって、抱擁して、唇を合わせている。

眺めていると、人間には、要するにそれ以上のことなどは何もなくて、富貴も、地位も、おまけというか、余計なことで、こうやって、モニさんとふたりで、あと何十年いられるか判らないけど、ふたりでいたい、と突然、思い詰めるような気持ちになってしまった。

ガメ、シャツにステーキソースが付いてるぞ、とモニさんが言うので我に返った。

でも、見ると、モニさんの、女神みたいと形容したくなる、あのやさしい顔で、微笑んでいて、どうやら、わしが何を考えていたか、すっかり知っているようでした。

毎日毎日が過ぎて、もっと若い時なら、平穏すぎて退屈だと思ったに違いないが、
いまは平穏に退屈を感じるのは、要するに自分の頭のなかの文明が未成熟だったからだと判っている。

そうして、それが判るようになったのは、モニさんと出会ったからだった。
ひとの運命なんて、たったひとつの邂逅に一生が依存している。

モニ、大好き。
わしは、なんて幸せな猫なのだろう。

Meow!

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ターニング・ポイント

ひとつの言語社会というものは、時間のおおきな流れのなかでは伝統に帰るものなので日本人として心配する必要はないが、いま現在と向こう20年くらいの日本語世界は低調すぎて、何について話をするにしろ、全体として時間のムダであると請け合える。

いまの日本語世界で話しあわれる殆どの問題は、世界のどこかでは、もう決着がついてしまっている問題で、好きな人は議論すればよいが、でも、どうせ何年かしたら当たり前になることなんだから、議論するだけ時間のムダなんじゃない?と思う事が多い。

日本語で話をするのは大好きだが、日本語ツイッタでは色々な人の呪詛が聞こえてくるほどブロックしている人が多くて、ただお友達とだけ話をするチョー小規模なサークルにしてしまったりしているのも、そのせいで、いまさら、20世紀を19世紀に向かって逆進しているような人々と話しても仕方がないから、話すのにめんどくさそうな人は手当たり次第ブロックしている、ということがある。

それで世間が狭くなるかというと、全然そんなことはなくて、返って世間が広くなっていってしまうところが日本語の日本語たる所以で、持っている意見が等質な人が多いというか、日本語の名前が未だにちゃんとおぼえられないタワケのわしからすると、「手が付けられないくらいバカな人」(例:ネトウヨ)
「受けの良いリベラルな主張をしてたくさんの人に受けいれられている嘗ての朝日新聞みたいな人」(例:書きません)とか、そんな調子で、いくつかに分類されて、個々の名前は、あれ、この人とこの人は別の人だったのか、がびいいいーん、と思ったりしていて、相手への認識がテキトーすぎて、実態が判ると、何人かいる、わしにしつこくしつこく付きまとっているトロルの人々も怒るのではなかろーか、と考えることがある。

日本語は政治について話すのに向いていない。
言語として向いていないというよりも、政治について話す習慣の歴史が浅いからで、英語世界でも特にイギリス系の社会ならば、夕食後のテーブルの話題のなかでも大きなトピックは政治で、家族で、親と子が相手の顔をじっと見据えながら、延々と政党の主張の是非について夜更けまで議論するのは、珍しくもなんともない、ごくふつーの「家庭の団欒」の光景です。

息子夫婦とは同居していないじーちゃんとばーちゃんが、住んでいるウエリントンから、えんやこらさとオークランドの両親の家に来ていれば、このひとびとも加わって、
「反アジア人がうけるとおもえば、このままではニュージーランドは日本人の洪水になる、なんて誇大もいいところの好い加減なことをいうピータースのニュージーランドファーストなんかに投票する人間がいるなんて信じられない」とガールズスクールに通う16歳の孫娘が述べると、ばーちゃんが「だから、それはもう謝罪したじゃないの。ピータースは人種や大企業のことになるとおかしなことを言うことはあるけど、わたしたち年金生活者の生活を守るための政策では、よいことをたくさん言っている。あなたがた若い人には判らないでしょうけど、ピータースが内閣に入って実現したバスや劇場の老人割引きパスなんて、平均的な老人には、とてもありがたいものなのよ」と言う。
両親は両親で夫と妻で、国民党と労働党に分かれて、例えばキャピタルゲインタックスの創設が是か非か、じーちゃんとばーちゃんや娘や息子の同意を求めながら議論している。

そういう社会に育っていれば、例えば労働党の立場から国民党を、糾弾的な言葉で非難するというようなことは、よっぽど異様なことなのが説明なしで了解されるので、日本語社会では極く一般的に見える糾弾口調や、妙にささくれだった相手を貶めることを目的としたような言葉には、発せられる余地がない。

別に紳士的であるというようなことを述べているわけではなくて、相手がどうしても憎くて許せなければ、大臣に向かってチン〇ンの張り形を投げつけたほうが、まだ気が利いていると合意がある社会のほうが民主制には向いている、と述べているのに過ぎない

直観的な言い方をすると、優等生的な人間や「良い人」が多い社会では民主制は機能しない。
「男も料理をすべきだ。女にも機会を与えるべきだ。妻の仕事のために、ぼくは家事はなるべく引き受ける。ヘルマンヘッセは、古いが矢張りいいので読むのを進める。趣味は中国語で、中国人だからと言って軽蔑する人はおかしいと思う…」とアイスリンクの上を滑らかに滑るように正しいことばかり述べる人は、差別用語を連発して、なにからなにまで人間の価値に挑戦でもするかのように反知性的な言葉を連発する人間と同じくらい危険な人間だという鑑(かん)がある社会でなければ、民主制のようなものは、もとから機能として完璧どころかダメにダメを重ねていて、投票だけではどうにもならずに、通りにでてデモをしたり、インターネットで意見を述べたりして、合わせ技でやっとこさ機能しているような自由社会維持のシステムとしてボロい制度なので、うまくいくわけがない。

学校秀才や正しいことばかり言う人間を徹底的にうさんくさがる英語人の度しがたい習慣は、過去に、その手の人間に引き摺られて痛い目にあった結果なので、ほら、そこのどれ、と名指しできなくても、ベスト&ブライテストはダメなんじゃないの?という気分がなければ、うまくいかないものであるらしい、というくらいは知っていて損はないかも知れません。

このブログにいくつも宛先として名前が出てくるオダキンは、二次元の悪趣味な絵が好きな人で、その二次元絵が、未成年ポルノの領域と重なって見えた頃は、激しく喧嘩して、お互いの柄にもなく絶交したりしていた。
しかし、その歪さを生みだす内面の正しさへの強い衝動が、本人は言わないだろうが、文字通り職業を賭けた「福島事故の放射能は安全とは言えない」というチョー勇気がある発言につながっていった。

なにしろ同じ大学のなかに理系の一流国立大学教授であることを曖昧なバッジのように使って、「消防署のほうから来ました」と言って消火器を売りつけるおっさんではないが、科学のほうから来ました、で、 大学教師をしていることに飽きているのでしょう、実際には、素人政治活動としか呼びえない活動を、相手が科学素人であることをいいことに、科学者としての活動であるかのように見せかけて行うような、とんでもない破廉恥な同僚がいるのに、「だって危ないかも知れないじゃないか」と述べてみせるという国立大学教師という役人としては破天荒な勇気を見せた人です。

ある物理学者の友達への手紙2
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/04/odakin2/

なぜ、すらすらとして開明的な秀才がダメで、あちこちで言うことが間違ってヘンで凸凹しているオダキンがOKなのかというと、つまりは「より人間であるほうが民主制社会に向いている」ということで、オダキンでいえば、救い難いほど頑固頑迷だが、それも要するに個人主義や、それを基礎にした自由主義は、なんだかヘンテコな形をした頑固な「個人としての人間」という固い殻で出来た人間でないと保持していかれない、ということなのではなかろうか。

ここから、このブログは、これまでのお温習いの記事のような場所から舵を切って、だんだん、普遍的な話題に歩いて行こうと思っている。
日本語で書いていることを活かして、いわばカタカナの注釈やレ点がある漢文の領域から、ひらがなの領域へ向かおうと考えています。
日本語ツイッタでヒマツブシをしていたりして、「えー、それはこうなんじゃないかなあー」と思ったことから、少しづつ、ツイッタでもブログでも小説でもエセーでも変わらない、あの基底音のような場所へ行こうと思っている。
どうしても政治について述べたければ、だから、「民主制とはなにか?」というような超ダッサイ題名になってゆくでしょう。

理由はもちろん30歳も数年を超えてしまったからで、例えば40代になって、時事の問題を懸命に論じていたりするのは、いくらなんでもカッコワルイので、もうそういうことは後生にまかせて、そういう問題が胸に迫ったときには、すっくと立って、通りに出て、火炎瓶は流石に嫌だが、石を投げつけるほうに向かいたい。

これから段々わかってくるとおもうが、20代の自分にとっては勤め人になるなどは論外で、ビジネスマンとして成功するなども、ゲーマーのスト2大会で優勝するのと違いを認めることは出来なかった。
クレジットがあがる代わりに銀行の預金が増えるだけのことで、到底まともな人間が夢中になれることではないのは、誰にだって判ることだと思います。

だから世間の分類でいえば「投資家」と呼ぶしかないものになったが、実態は、投資家というよりも「定石発明家」で、別リーグというか、テキトーで、1年のうち20日も働いていれば、過労死を友人みなが(冗談で)心配してくれる境涯に至った。
つまり、ものすごいナマケモノなので、ここからは30代で死ぬのか百歳になっても、まだ生きていて、とつおいつ過去を振り返って、「あの福井のいまはつぶれた旅館で食べた見た目が変わった肉は人魚だったのかな。確かめればよかった」と呟いているのかは判らないが、日本語と他の内緒にしている言語で書いて、サーバーの隅に置いて、遠い未来の若者が、スペインの洞窟のディスクを眺める人のように、何気なしに読んだ誰かが、「この人は、まるでぼくのようだ」と呟く光景を楽しみに、文章を書いていこうと思っています。

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