出かける前のメモについて

ただ立っているだけで息をのむほど美しい人と同じ家のなかで暮らしているのは奇妙な体験だと言わないわけにはいかない。

フロントエントランスのドアの脇で、射している夕方の陽光のなかで立って、手紙を読んでいる姿に永遠を感じる。

そのまま絵画にして残したくなる。

ひとに言えば大笑いされるに決まっているが、一緒に生活していて、これまで幾度、こんなに美しい人がほんとうに現実に世の中に存在しているのだろうか、と訝ったことだろう。

結婚などはエンゲルスに言われるまでもなく社会制度にしかすぎない。
それも最近は大層不人気な社会制度で、結婚していると言っても、訊いてみると、de factoであることのほうが多くなった。

一事が万事、鈍くさくて、変化が苦手な連合王国人の国ですら、十代向けの雑誌やサイトを見ると、若い女のひとびと向けに、ひとりで多人数のボーイフレンドを持つことの得失や、多人数の男たちと同時進行で性交渉を続けていくときに注意すべき点が書いてある。

ぼくなどは、遠い昔の化石で、結婚して、子供ができて、なんのことはない平凡なとーちゃんで、ここ数年は子供たちのジャングルジムとして使い手があって、人気もあったが、最近は小さい人たちの興味はプログラムで動くロボットやドローンに移行して、どうやら公園の片隅で、いつまでも待っていても子供たちがやってこないまま夕暮れを迎える、文字通り黄昏の遊具になっている。

結婚して、まず初めに気が付いたよいことは、人間は自分の幸福を願って暮らすよりは、愛する人間の幸福を願って暮らした方が、集中力もあり、気も楽で、自分では出来るはずがないと考えていたことも軽々と出来てしまうことで、なるほど人間の気持というのはそういう仕組みになっているのか、と考えることがよくあった。

あなたには、よく笑われるが、しばらく仕事で机に向かってから、一日に何度も、家のなかにしてはやや長いホールウェイを歩いていって、ラウンジを横切って、スタジオをめざす。

スタジオにたどりついて数段の階段をあがっていくと、そこにはあなたがいて、たいてい絵を描いている。

茫然とするような美しさで、そっと息をつめて眺めて立っていると、夢中になっていた絵筆をとめて、あなたがこちらに向かって顔をあげる。

息をのむ。

そういうことを何度も繰り返して、ぼくとあなたの生活は出来ている。

結婚すれば子供のほうが大事になる、というが、ぼくにはそういう気持の変化は起こらなかった。

子供は子供でかわいいに決まっているが、自己愛に近いもので、考えてみて、途中で捨てたり寄付してしまうわけにはいかないので、くだらない子供でなかったことは感謝するが、そのくらいのことで、あなたへの気持ちとは比べものにならない。

夕陽のなかを歩いてホブソンベイに行く。
あの「Spirited Away」に出てくる水上電車そっくりなので有名なヘッドライトが水に反射する、水面すれすれをいく電車をボードウォークから眺めている。

すべてが取り止めもなくボロボロになってゆくこの世界や、ベテルギウスの白色矮星の話をした。

ずいぶんたくさん買い込んだのに下がりきったはずのUS$30ドルから、またさらに暴落したクラフトハインツの株の話をして笑い転げたり、小さい人たちの教育の話をする。

なにもかもなにもかも話したくて、それでねそれでね、ばかりを繰り返していて、われながらチビコと変わらない。

ときどき、あなたが「ガメはおしゃべりでいいなあ。楽しいぞ」と褒めてくれるが、それもなんだか小さい子供を励ます口調に似ていなくもない。

少なくとも自分の妻については狂った頭の男というのは、どういうことなのか。

ヒマさえあれば、モニのことを考えている。
モニをもっと幸福にするのは、どうすればいいか。
モニがいちばん欲しいものはなんだろう。

モニはどんなふうに歳をとりたいだろう。

モニは、モニは、….

結局、一日中、考えていることはそれだけで、目が覚めるとまず傍らにあなたがいることを確かめて、寝るときはたいてい先にベッドに入っているあなたに顔をくっつけて寝る。

どういうことなのか、夏には冷たくて、冬は暖かいあなたの身体が自動的にぼくの体にまきつけられて、その瞬間、微かな、でも明然とした、表現が不可能な良い匂いがする。

キッチンの出来た料理を出す小窓から、こっそりカメラを構えてあなたを撮影しようとして、見つかってバツが悪そうに手を振るシェフや、ちょっとちょっとと述べて、手招きして、「奥さんと一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」と訊く厚かましい警官にも、最近はすっかり慣れてしまった。

むかしは、それで、あなたがある日とつぜん死んでしまったら、自分はいったいどうなるだろう、どうやって暮らしていけばいいのだろう、と唐突に不安に捉えられて、まるで井戸の暗闇を覗き込むひとのような気持になったことがあったが、最近はそのanxietyすら、あなたの姿が解消してしまった。

ぼくはいままではただの恋に狂った男で、妻を愛する夫にしかすぎなかったが、30歳も半ばになって、やっと、ふたりで歩いていけそうな気がしているところです。

どこまで行けるか判らないが、遠くまでふたりで歩いて行きたい。

永遠がべったりと呪いのように貼り付いた神様ではいけない遠くへ、須臾の間を生きるだけの人間だけが辿り着ける遠くへ。

ただ、あなたの影を追うようにして。

神が嫉妬する、小さな死を死ぬ一瞬のなかで燦めいている永遠へ向かって。

(画像は、ひさしぶりにわしのお絵描き帖からでごんす)

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その日暮らし

暦が二月にかわると、セミがうるさくなった。
オークランドのセミは、体も小さくて、声もやさしくて、日本の獰猛な声のセミたちとは随分ちがうが、プタカワの木や、生け垣について、今年は余程数が多いので、朝になると、日本の人ならたいてい、ははあーん、あれか、とわかる、空気の底から湧き起こるような、わあああーんという反響をつくっている。

オークランドは人口が160万人をやや越えるくらいのコンパクトな都会で、ニュージーランドといえばクライストチャーチを意味していた子供の頃は、好きな町ではなかった。

いまはスーパーシティなどと呼号して単一自治体になって国の肝いり都市だが、昔は五つの町の寄り合い所帯で、てんでばらばらで、PCのパーツを買うようなときでもマヌカウやノースショアに店が分かれていて、例えばクライストチャーチならば、地震の前は、オンボロクルマのパーツならリカトンのレースコースの裏手、新しいクルマの用品ならばムアハウス・アベニューというように、小さい秋葉原のような町を想像すると判るが、固まって軒をつらねて、なにも考えずに、欲しいものがある通りをめざせばよかったが、オークランドになると、文字通り右往左往で、クライストチャーチなら30分ですむ買い物が半日かかって、なんだかダメな町の代表のように考えた。

その頃は、欧州をたって、チャンギや成田、あるいは稀にはロサンゼルスで乗り継いで空から降りてくると、オークランド空港は馬牧場に囲まれていて、クライストチャーチ空港は果樹園に囲まれている。

ロサンゼルスから来ればオークランド空港に降りて、乗り換えてクライストチャーチの別荘に向かった。

成田からは週に3便かあったうちの、たしか火曜日と金曜日にクライストチャーチに先に着いて、そこからオークランドに向かう便があって、このフライトは成田を夜の八時に出て、ぐっすり眠って、朝の八時にクライストチャーチに着く便だったので、よく利用した。

当時は、ニュージーランド滞在中に、なにか都会でなければならない用事があると、母親も父親もオークランドに行くよりはクライストチャーチからメルボルンに行っていた。
国内航空がAir NZに独占されていて、競争がなかったので、オークランド行きのフライトが$230だかで、一方、Quantasと競合するメルボルンへが$140くらいで行けたので、心理的にメルボルンのほうが近かったのもあります。

子供のときからのPCオタクで、それに加えて、ちょうど世紀の変わり目にあたる十代の後半くらいからはインドの映画や音楽に興味があって、なにしろその頃は例えばオーストラリア資本のHarvey Normanという家電チェーンがヒューレット・パッカードのコンピュータを売っていたが、最新モデルはシンガポールで先ず売られて、そこで売れ残ると同じストックが翌年オーストラリアに移動して、そこでさらに売れ残ると、さらに1年後にニュージーランドに持ってくるというていたらくで、おまけにビンボ国ニュージーランドでは低スペックの機種しか売れないと決めてしまっていたので、子供の頃でも、やむをえず、母親にせがんでシンガポールに連れていってもらうことが多かった。

シンガポールは、パラダイスだった!

1990年代のシンガポールは、イギリスやニュージーランドのような子供の感覚でいえば「田舎」にしか過ぎない国とはまるで違っていて、都会で、国全体がブンブン言っているような、活気のある町で、ずっとあとになって実は日本に行くよりも遠かったのが判って不思議の感に打たれてしまったが、そのころは、ほんの週末にシドニーやメルボルンに行くかシンガポールか、というくらいの心理的距離で、多いときは一ヶ月に4回出かけたりして、誇張でもなんでもなくて、いったい何十回でかけたか判らないのは、このブログ記事にも何度も書いた。

まずSim Lim Squareに行く。
Sim Lim Squareは、シンガポールをIT立国にしようと考えたリー・クアン・ユーが秋葉原をひとつのビルにまとめたらどうか、と考えたのが発端で、まだメイド喫茶が猖獗する前のPCタウンだった秋葉原の、駅前からの水平的な広がりを垂直的に移し替えた素晴らしいアイデアのビルだった。
あとでは扶南シティのほうが買い物に都合がよくなったが、初めの頃はSim Lim Squareこそが聖地だった。

一階が秋葉原の駅前で、だんだん上に行くにつれて、末広町になっていく。

いまではなかったことになっているが、ほんとうは誰でもおぼえているので、2000年頃までは、5階から上はソフトウエアの違法コピーの店で、シンガポールの人に訊くと「シンガポールの法律ではソフトウエアの複製は違法ではないからいいのだ」という不思議なことを言っていたが、Windowsからなにから、全部コピーソフトで、あまりにたくさん違法コピー店が犇めいているので、どの店に行ったらいいかわからなくて、大学生らしい人に訊いて、どれが「良いコピー店」で、どれが「悪いコピー店」か親切に教えてもらったりしていた。

店にいって、では違法コピーソフトを買って帰ってきたのかというと、やろうとおもっても出来なくて、ニュージーランドのカスタムはよく心得ていて、シンガポールから戻ってきた客の荷物は特に念入りに違法ソフトを持ち込もうとしていないかどうか調べていた。

インストーラーやアンインストーラー、セクター長をチェックするプロテクトのせいでハードディスクで使えないソフトウエアを使えるようにするためのプロテクト解除のソフトウエアを買いに行っていた。

足繁く通えば、自然とその国の文化にも馴染むので、母親と妹三人で、飲茶の習慣になじんだのはシンガポールでのことだった。

それまでも香港や台北で飲茶に出かけたことはあったが、それは単に「旅行先のローカルフード」であっただけで、たしかに人間の昼食な感じがしだしたのはシンガポールのおかげであって、もう名前を忘れてしまったが中国名のホテルの一階に、その店はあって、シンガポールに行けば、この店とパン・パシフィック・ホテルのなかにあるインド料理屋には必ず出かけることになっていた。

海南チキンライスも、もちろんで、初めはお馴染みマンダリンホテルのなかのチャターボックスだったが、あとではマクスウエルセンターの天天海南鸡饭を専らにした。

オークランドが魅力のある町になったのは、大規模なアジア移民受け入れが始まってからです。

1990年代にウインストン・ピータースの有名な「このままではニュージーランドは日本人の洪水になる」で始まる反アジア人運動があって、アジアの人たち自身は、それほど実感しなかったようなところもあったとおもうが、ブリスベンでもシドニーでも、メルボルンですら、おとなたちが集まると「アジア人たちの流入にも困ったものだ」とヒソヒソと話しあわれていて、子供の実感として、多文化社会などは無理なのではないかと考えていたが、経済上の必要から、アジア系移民は好むと好まざるとに関わらず、どんどん増えていって、いっときは「こんな人まで」というような人でも「クイーンストリートに立ってると、ここはシンガポールなのかとおもうよ。うんざりする。ガメちゃん、あんまりCBDに行ってはダメだよ」と述べていたりして、社会が壊れるのではないかと思わされたときもあったが、nuisanceなだけであるはずのアジア人が増えてくると、社会はどんどん良くなっていって、例えばITやアカウンティングに関してはインド系人は初めからレベルが異なっていたし、ビジネスについては中国系人たちのはしっこさと勤勉に適うニュージーランド人はいなかった。

特にインド文化が向こうから引っ越してきてくれたのは、望外の幸せで、母親もサリを上手につくってくれる店をみつけて、もうこれでシンガポールのリトルインディアにいかなくもよくなったと喜んだりしていたが、こっちはボリウッド映画や音楽を大量に買って一日インド文明に浸りきって、飲茶も質が劇的に向上して、韓国料理に至っては、韓国のひとたち自身が、「世界でいちばん韓国料理がおいしいのはオークランドのノースショアだ」というほどだった。

メルボルンとオークランドを根拠地にしても、なんとかやっていけるのではないか、と考えたのはそういう背景があってのことです。

モニさんと結婚して、しばらくはモニさんに付き合ってもらって、「五年十一度(たび)の十全外人遠征計画」と称した日本文明を理解するための滞在の掉尾で新婚生活を始めたが、そのあとはパリに住むかロンドンか、それともモニさんのマンハッタンに住むべきだろうか、と述べていたら、モニさんが、誰がどういっても決心が変わらないときの顔で、「わたしはニュージーランドがいいとおもう」と言い出したので、ぶっくらこいてしまった。

モニさんと意見が異なるときはモニさんの言うことに思考を停止して順うにしくはないのが経験上わかっていたので、
そのとき持っていたパーネルの家は市場並よりはおおきいが、本人は気が付いていないし言うと怒るだろうが生まれてこのかた贅沢になれたモニさんには手狭だと考えて、いまのリミュエラの家を購入した。

METもリンカーンセンターもなければテートギャラリーも英国博物館もないオークランドでは、5年も退屈しないで暮らせればいいほうだろう、と考えて始めたオークランド暮らしが、もう十年になるので、驚いてしまう。

ひとの一生はどうなるかわからないものだ、という月並みな科白が頭を通過する。

初期の頃は毎年、ニューヨークに二ヶ月、欧州に三ヶ月という具合で暮らしたりしていたが、ちいさいひとたちが登場するにおよんで、リミュエラの家のカウチに腰掛けてジャングルジムとして活躍する生活になっていった。

そのあいだには、ほんとうはどうだから判らないが、少なくとも自分の考えでは日本語に上達して、頭のなかに「日本語の思考」という、あたりまえだが日本語で考えられないひとびとには絶対に理解できない、日本刀の青白い光のような言語が育って、通過して、いまは日本語がおおきな存在だったフェーズは、通り過ぎて過去のものになっている。

簡単にいえば「自分でもなにを書いてるか判ってないんじゃない?」な譫妄した、囈言みたいな日本語ツイッタと、このブログだけが日本語で考える場で、普段まったく使わない言語であることを反映して、ちょっとツイッタとブログをさぼると、あっというまに日本語で発語できなくなる。

もうひとつは、語彙がポロポロと欠けるように縮んで、単語がでてこなくなって、憤怒が出てこないのに瞋恚は出てくる、という奇妙な状態になっている。

でも、いいんですよ。

日本語は、それでも、やっぱりやってみてよかった。
「外国語としての英語」は、どちらかといえば世界の主流言語化していて、英語が母語でない作家たちが、次々に英語文学の傑作を生みだしているが、「外国語としての日本語」は、あんまり例がなくて、もともと日本語で暮らそうとおもったことがない、無駄なことが大好きなヘンテコリンな人の頭に宿っている。

なんだか、ごろんと寝そべって午寝したり、また起き直って、ぼおんやりオールを漕いでいる、川にボートを浮かべてローイングする人のようです。

その日暮らしで、のんびり歩いて、何光年先の銀河まで行けるものなのか、やってみようと考えているところです。

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カレーライスの謎

インド料理屋のメニューに並んでいるカレーのなかでVindalooにだけは、なぜポークとビーフがあるのか、というのは子供のときからの疑問だった。
豚は言うまでもなくイスラム教徒にとっての禁忌で、ヒンズー教徒にとっては牛は聖なる生き物で、その肉を食べるなんてとんでもない。

神を信じない不埒者が多いイギリス人向けの開発商品なのかしら。

インド人は元は肉を食べることを厭わなかったという点では肉食です。

紀元前2000年頃に、いまのアゼルバイジャンからイラン北部に住んでいたインド=ヨーロピアン族は東に移動して、インド北部に移民として定住する。

このひとたちは、簡単にいえばいまでいうノーマッドで、普段はヨーグルトやミルクベースのうっすうーいオートミールみたいなものを食べていた。

肉は御馳走で、普段は手がでないが、婚礼や戦勝の特別な機会には食べていたでしょう。

いまのインド人はほとんど菜食で、ジャイナ教と仏教の教えが浸透してそうなった。

歴史でいうと紀元前500年くらいから、だんだんにそうなって、紀元前300年から600年ほど続いた「世界で最も富裕な地域」としてのインド帝国」は、だから、ベジタリアン帝国だったことになる。

食生活がおおきく変わるのは8世紀に海上からあらわれて、インドの西北から侵略・植民を始めたサラセン人たちの影響で、ここからいまでもインドと切っても切れないイスラムとの付き合いが始まるが、このひとたちは、いまでもインド料理に残るペルシャ名前の料理をたくさん持ち込んだ。

英語ではムガール料理と呼んで、この名前を考えた人はイスラム=ムガールと短絡していたに違いなくて、そういうテキトーで無知むちむっちんな命名をするのはイギリス人だと相場は決まっているが、実体はムガールとはなんの関係もなくてペルシャ料理です。

見ればわかる。

インド料理のうち、かなりおおきな割合を占める、ローズウォーターやサフランを使うものは、ほとんどペルシャ料理のレシピそのままで、料理を口にするのは多くは富裕な商人だったサラセン人たちだったが料理人がローカルなインド人だったせいで、食材などはややインド化しているが、サラセンたちは保守的な味覚だったのでしょう、ほとんど変更もないペルシャ料理です。

ややくだくだしいが、判りにくいかも知れないので補足しておくと、いまでも多分にそうだが、中東ではペルシャの文明度の高さは絶対で、別格で、ペルシャ人の知識人と友達になればわかる、21世紀になってもアラブ人はやや野蛮であるという偏見を十二分に持っている。

逆にサラセン人たちは、富裕になれば食事や学問はなんでもかんでもペルシャで、ちょっと古代ギリシャとローマ人の関係に似ていなくもない。

ほら、インド料理屋に行くと、前菜にはシシカバブとタンドリ・チキンが並んでいるでしょう?

ぼんやりしていると、ふたつの料理は似たもの同士と感じられるが、出自はおおきく異なっていて、シシカバブは誰でも知っているとおりのトルコ・中東・アジアの広がりを持つ伝統料理だが、タンドリ・チキンは、ごく最近に発明された食べ物で、パキスタンからインドへ難民として逃れてきた料理人Kundan Lal Gujralが外国人向けの料理として、それまではパンをつくるのに使っていたタンドリをスパイスに漬け込んだチキンを料理するのに使うことをおもいついて1948年にイギリス人のあいだではチョー有名なMoti Mahalのメニューに加えた。

ちょっとちょっと、あんた、Vindalooについて書くんじゃなかったの?というせっかちな人のために、このくらいで端折って、結論に移行すると、つまり、インドの人はベジタリアンが基本で、インド料理においてはビーフもポークもラムもチキンも、ムスリム人由来か、さもなければ、近代になってからインドを制圧した欧州人向けに新しくでっちあげた食べ物であるにしかすぎない。

Vindalooは、名前のvinha de alhos(ポルトガル語で、ワインビネガーとガーリックという意味)で判る通り、いわばポルトガル料理で、ゴアのポルトガル人たちが料理人に命じて作らせた料理です。

だから、もともとのオリジナルレシピを見ると、な、な、なんとポークである。

閑話休題。

最近は、インド人の若い友達とランチに出かけると、バターチキンを注文する人が多い。

それが何か?

というなかれ。

イギリス人のような、物識らずの、ぶわっかな国民性の国民であってすら、バターチキンが「インド料理は初めてなんだけど、なにを食べたらいんだろう?」な初心者外国人向け、気の毒にも本格インド料理が食べられない、哀れな人々向けのカレーなことはよく知っている。

実はこれも、さっきのKundan Lal Gujralの発明で、このひとは舌バカの客に対する深い洞察力があるというか、スパイスのおいしさが判らないイギリス人のような非文明的人間は、どんな味を好むかということについて知り抜いていたものだとおもわれる。

ついでに余計なことをいうと、ロビン・クックという、日本で言えばパタリロファンにとっては、やや冗談のような名前の外務大臣が2001年に「連合王国人の国民食」と呼んだチキン・ティカ・マサラも、同様にイギリス、この場合、イギリスという言葉にはスコットランドもウェールズも北アイルランドも含まれるが、の顧客用にイギリスで生みだされたもので、ちょっと考えると意外な気がしなくもないが、バターチキンよりも、さらに後の、1960年代の発明だと信じられている。

突然、自分自身の経験について述べるとブリテン島の西の果てにペンザンスという町があって、親につれられて、子供のときはよく出かけたが、生まれて初めて食べたインド料理がチキン・ティカ・マサラで、世の中にこんなに殺人的に辛いものがあっていいのか、と憤(いきどお)りを感じた。

いま考えてみると、たいした辛さであったわけはなくて、要するに大陸欧州料理ばかりの家庭内で供される料理だけを料理とおもいこんでいただけのことで、いまさらながら、チキン・ティカ・マサラちゃん、ごめんね、とおもう。

いまは、長年の恩讐を克服して、すっかり和解して、ジャルフレジにあきると、ときどき注文したりしてます。

むかしインドの人のガールフレンドがいたころは、あちこちのインド家庭に招かれてでかけて、若い人が集まって住んでいる家などは、おおきな皿に、ありあわせのスパイスミックスで料理た、カリフラワーやオクラ、ポテトを載せただけの「カレー」を食べたりして、楽しかった。

一方ではロサンジェルスの、文字通りお城のような家に住むインド家庭の祖母さんの90回目の誕生日に招かれたときは、ロココ風の装飾にドーリア式の柱廊という風変わりな内装の、ひたすら巨大なシャンデリアのある高い天井のホールに静々と階段を下りてきた老女を囲んで、ひとりひとりのゲストの後ろに侍立する給仕係の人が、次々に繰り出す美味三昧で、ここでも「カレー」が出て、両方をおもいだすと、なにがなし、もちろんイギリス人の発明で、「カレー」という言葉に込められた無知と誤解と、まだ帝国の直轄領化とともにやってきた植民地の現地人としてインドの人々をいちだん低くみるバカタレたちがインドに大挙植民する前の、東インド会社時代の純粋な好奇心とインド文明への憧れに満ちたイギリス人たちが生んだ「カレー」という言葉の一種の歴史的な「切なさ」を考える。

日本もカレー5大国(って、なんだかヘンテコだが)に数えられる独自のカレー文明を持つので有名な国で、むかしは海軍起源説を信じていたが、普及度を別にすれば、それ以前、幕末から入っていたもののようで、内緒では肉食を嗜んだ悪食な大名たちのなかには、口にした人もいたようです。

普及自体は、徴兵はしてみたものの、あまりに劣弱な体格の若者たちの体格を見て、憂慮した陸海軍が、伝統のない肉食をすすめるために、仏教徒の習慣が強く残っていた当時の日本人にも食べやすい食べ物として、積極的に給食したのが起源であるらしい。

いつかツイッタを見ていたら、ベトナム人に日本のカレーを食べさせて反応を見る番組をつくった側の人が投稿していて、「番組内では評判がよかったように放映したが、現実には食べた直後にみんな嘔きもどしていた。あんなものを食べるのは日本人だけが」と書いてあって、へえ、とおもったが、少なくとも英語人はそんなことはなくて、カツカレーは、例えばニュージーランドのような、もともとスパゲティですら不気味がって食べない人が多かった社会でも、大層な人気で、イスラム人の顧客も多い関係でポークでなくてチキンカツで出す店も多いが、これを書いているぼく自身、「よおおおーし、今日はカツカレーでキメてくれるわ」と呟いて単身クルマに乗り込んでテイクアウェイのカツカレーを取りにいく。

日本の「欧州カレー」の淵源は、というか、似たものが、ちゃんと西洋の「カレー」の歴史にはあって、実はフランス料理にカテゴライズされている。

いまの連合王国の国民食として定着した1970年代に始まるインド料理ブームとは断絶した流行で、フランス料理の、いまでいえば批評家だったArthur Robert Kenney-Herbert大佐が19世紀に出版したレシピ本に載っているのが、多分、いろいろな経路を経て、なんらかの形で伝えられたのが日本の「欧州カレー」でしょう。

https://www.britishfoodinamerica.com/Our-Recipes/Onion-dishes/Colonel-Arthur-Robert-Kenney-Herbert-s-1891-Ceylon-curry-of-shrimp-and-cucumber/#.Xkddmy2B3UI

もうキリがないので、この辺で止すが、日本のカレーは、

1 伝統的なアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのレシピブックに載っているカレーと同じに、イギリス人がもたらしたカレー

2 インドの海外移民がもたらしたカレーが現地化したもの(例:スリランカ、フィジー、ジャマイカ)

3 インド、アラビア、イギリス人がもたらしたカレーの混淆 (例:Bunny Chow

https://en.wikipedia.org/wiki/Bunny_chow )

の三つのうち1に近いが、日本人の圧倒的なカレー好きによって、タイを代表とする東南アジアのカレーと同じで、独自のカレーとして扱ったほうが理解しやすいし、実際、日本のkare raisuは別に章を立てて解説してある記事や本のほうが多くなった。

日本でカレーが爆発的に人気が出たのは、比較的最近で、1960年に ハウス食品が「ハウス印度カレー」という名の固形ルー(roux)のインスタントカレーを発売して以来のことであるように見えます。

最近は、インド料理がオブロイホテルの、日本が大好きなので有名な社長が本格的にインド料理を日本市場に持ち込もうとしていたりもして、
「ほんもののインドカレー」が流行って、いかに日本のカレーがモノマネにすぎないか非を鳴らす人も多いが、同意しにくいような気がする。

遠藤賢司というひとの「カレーライス」という歌があるでしょう?

あの繊細で暖かで、どこかしら子供っぽい味のするカレーは、日本の人をよくあらわしているという気がする。

初めて日本のカレーライスを見たとき、でっかい人参がごろりと入っていて、「日本人のまじめさ」を感じた。

きっと、子供の栄養のバランスを考えた、どこかの母親のアイデアでしょう。

ピリッとしなくて、なんだかのんびりした味だけど、いいじゃない、それで。

来週は、またカツカレー、食べに行くかな。

画像は、(アルバムの前後の写真から考えて、多分)クアラルンプールのイラン料理に皿。
タンドリ料理に似ているでしょう?

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静かな場所

日本語には、どこかしら静かなところがある。
あるいは静かさを希求するところがあるとおもう。

夏の、葉山の、山肌を縫う裏道を歩いて、濃い青色の空の下を、ときどき顔をのぞかせる海を見ながら、そこまで行けばもう横須賀に入る、長者ヶ崎に向かう。

セミの声があたりに満ちて、ひたすら暑いが、そういう日の午後には必ず起ち上がって、にょきにょきと成層圏に届く、純白に輝く入道雲をみあげながら、ああ自分は、このために日本語を学んだのだ、と考える。

「西洋人はセミの声の良さを理解できない」と何度も言われたが、セミがただうるさいだけなのは単純に日本語が判らないからではないだろうか。

アブラゼミでは、さすがに願いさげだが、奇妙だとおもわれるかもしれないが、オークランドのセミは、からだが小さいせいだろうか、とてもやさしい声で鳴いて、あたり一面がセミの声で覆われると、一面の雪景色と効果はおなじなのだと述べればわかりやすいかどうか、沈黙があらわれて、音がない場所よりも静かになる。

この世界での日本語という言語の存在は、それに似ている。

近代日本語で最も美しい日本語を書いたのは西脇順三郎だろう。
西脇の日本語の美しさは、西脇の頭のなかでは日本語は外国語として仮構されていたからであるのは、一目瞭然、と言いたくなるくらい明瞭であるとおもう。

あの愉快な、諧謔に満ちた活発な知性をもっていた詩人は、言語学者でもあって、大事なことを述べると、西脇順三郎は、言語学者の自分と詩人の自己を別々の独立した存在だと見做していた。

いちど日本人で言語学者の人と、一緒にお茶を飲んでいて、西脇順三郎の話になって、「禮記」や「穣歌」はいいですよね、と述べたら、感心した顔をして、「おや、西脇先生は、詩も書いておられたのですか」と言うので、びっくりしてしまったことがあった。

学者バカ、という乱暴な言葉があるが、この人はほんとうに西脇順三郎が詩人であることを知らないもののようでした。

詩を書いていらしたのは知らなかったが、あの方は言語学では、たいへんな人なのです。

カツシカやシバマタから、オイモイ!と悲哀の声をあげながら、プロヴァンスへアンドロメダへ大股で歩き渉って、短頭の哀しみから長頭形の悲しみへ、次第に透明になってゆく日本語を、詩人は楽しんだ。

「透明でこの静かなポセイドンのような
この百姓は鳶色の神からうまれた
いまは山国にあるアンズの国への
旅を考えているそこで牧人たちを
集めて夏期大学を開こうと
考えていたのであった
西国人の心についてかれの笛のような思想を
東方人に語ることを考えていた
ところでかれは存在するものと
存在しないものを象徴する男だ
大地のようにだまりこんでいる天人だ
彼自身啓示的な一つの石だ」

長い散歩には心の昂揚という効果があるが、西脇は、柴又の堤を歩いて、目黒からメグロに歩いて、ヘオルテの祭りを通り過ぎて、アサガヤからテーレウーに至るころには、西脇先生の足は少しく宙に浮いて、よく見ると地面よりも2インチくらい上のところを歩いている。

初期には

「シムボルはさびしい
言葉はシムボルだ」

と説明をこころみていたが、年齢をかさねて説明的な表現は、最も説明の目論見から遠いと悟ったのでしょう、シンボルのさびしさを音で表現するようになってゆく。

すべての言語が沈黙をめざしているかといえば、そんなことはなくて、例えば英語やドイツ語は永遠をめざしている。

絶対を指向し、永遠をめざす言語群と、相対の精霊のあいだを縫って、歩き続けて、沈黙に至る日本語には、翻訳という作業を拒絶する、おおきな懸隔がある。

懸隔、というより、異なる地平にあるのだといったほうが実情に近いかもしれません。

西脇順三郎は日本におけるシュルレアリズムの紹介者なのだ、といろいろな本に書いてあるが、本人は、シュルレアリズムよりも言語の美にたどりつくことのほうに、ずっとおおきな興味を持っていたでしょう。
現実と角突き合うシュルレアリズムよりも、遠くのものをむすびつけた瞬間、ときに、激しく火花をあげる、その美しさのほうにずっと強烈に惹かれていた。

シュルレアリストである生々しさと衝迫には耐えられない人であったように見えます。

母語であるはずの日本語を「薔薇色の脳髄」のなかで、無理矢理外国語とみなしたのも、母語のままの日本語では言語の美として具合がわるかったからではないだろうか。

日本人が死という沈黙にむかって労働して、やがて、どこか、静かな場所に自分の身を横たえて息をひきとるために生きているように見えることには言語的な理由がある。

日本にいるときでさえ普段の会話に用いられることは殆どなくて、ただ読むために魂が乗り込む乗り物としてあった趣で、いまは、まったく会話には使われない言語であるせいかもしれないが、日本語は、自分にとっては沈黙を眼前に呼び寄せるための言語で、日本語で考えていると、いつも、彼岸から此岸を眺めているような、奇妙な気分に捕らわれる。

塵埃が地面におりて、どんな小さな可視の粒子もなくなった冷たい冬の大気に、光が射すようにして日本語の表現があらわれてくる。

静かになって、空が静まり、地が静まって、あれほど耳をすませた、遠くからの幽かな叫び声、精霊たちがささやきあう、聴き取りにくい声も、もうそこでは聞こえなくなっている。

ぼくは、どこへ行くだろう。

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いつもの朝に

怒りんぼベーカリー、という。

主人らしい女の人が、いつも不機嫌な顔で、およそ朝のベーカリー向きでない厳しい態度を保持しているからで、特に店の名前がGrumpy Bakeryというわけではありません。

キューバン・サンドイッチが滅法うまいので、ときどき買って、店でトーストしてもらって、浜辺で食べます。
コーヒーは、このあたりにはおいしいコーヒーを淹れてくれる店がないので、自分たちで淹れていく。

セントヘリオスのようなおおきな有名なビーチにいくこともあるが、まるで神様が宝石を隠しておいたような、内緒の、小さな美しい砂浜に行くことがおおい。

モニさんは小さなひとびとと貝殻を拾いながら波打ち際を歩いている。

モニさんの夫は、なんだか難しげな顔をしてソーラーパネルとコントローラーの数値をにらんでいます。

(PV って、なんだっけ? なんでoffなんだ?)

時々は、にらんでいるうちに寝ちゃったりしていて、庭で転がっているあんまり賢くない仔犬とあんまり変わらないが、今日は、ちゃんと目を開けて数字を見ている。

12ボルトでパネル一枚の一時間発電量が1Ahだから、240ボルトだとして、えーと、と数学をベンキョーしたはずなのに相変わらず数字に弱い頭を軋ませながら回転させている。

ウィーンウィーン、ガリガリガリ、ギギ。

そこに中央アジア人ふうの顔をした数人のひとびとが、影のように、滑るようにあらわれて、小さな浜辺の、そのまた隅っこの、小さな木陰に、ちいさなちいさなピクニックマットを敷いて紅茶とパンを並べている。

一瞬、モニもわしもいないような素振りで、小さな砂浜での朝食というチョーいいグッドアイデアを始めかかるが、気が変わって、こっちを見ています。

目と目があう。

わしは、ほぼ自動的にニカッと笑う。
向こうの数人の首領であるらしい若者もニカッと笑い返している。

改めてみると、家族連れで、男の若者がひとり、作法どおりヒジャブをかぶった若い女の人がふたり、母親然としたひとがいて、合計4人。

天気の話をする。

このパン食べませんか?

いや、わしたちは、さっきベーカリーででっかいサンドイッチを買って食べたからいりません。

パンミュアの町にあるイラン/トルコ・ベーカリーを知っていますか?
このパン、そこで買ったパンで、とてもおいしいんだけど、一家4人には少しおおい。

ああ。
最近、支店をすぐそばに開いた店でしょう?
パンに関してはマヌケな白いひとびとも、あのベーカリーは知っていて
あそこには、よくパンを買いに行きます。

おいしいよね。
特に、トルコ風に舟の形をした、みっちりしたやつ。

ひととおり、所定の手続きの会話が終わると、

アフガニスタンから来ました、という。

難民の人です。

アフガニスタンの食べ物の話をする。
アフガニスタンの気候の話をする。

アフガニスタンの歴史の話を、ちょっとだけする。
アフガニスタンの言葉の話をする。

イギリスの話をする。
案外、長々とウエールズの話をする。

通りに人が歩いていないクライストチャーチの話になる。
オークランドでも人がいなくて寂しい。
どうして、この国には人間というものが少ないのだろう。

さあ、人間にとっては人間が天敵だからではないかしら。

東京がいままで見た町でいちばん人が多い。
人間の洪水!

慣れないと、ちょっと怖い。

ええ、わしは日本にいたことがあるんです。

(日本といえば)
中村哲という人を知っていますか?
アフガニスタンで死んで、大統領が棺を担いでいましたね、
と述べてみたが、4人とも知らなかった。
話の終わりで家族の首領格であるらしい男の若者が、そういえば聴いたことがあるような気もする、と考えながら述べていた。

灌漑をした人だったかな?

そう、その人ですね、多分。

「目立たないこと」に熟練した、その一家の物腰や、ステルスな佇まいのことを、ユーウツな気持で考える。

わしは何を言うべきで、何を言うべきでないか。
わしは、どんな表情をしているべきなのか。

理由ですか?

だって、

わしには、いったい、なにごとかを述べる権利があるのか?

榴弾が半分を吹き飛ばした黒板と爆弾で壁が崩れた教室で勉強したこともなく、広大な溺死の海を決死でただサイズがおおきいだけのゴムボートで渡ったこともない人間を、現代の世界で、自分を人類とみなすことは果たして可能なのか。

若いアフガニスタン人は、わしのドローンに目を止めて、それ、ドローンですか?と訊く。

ええ、そうですよ。

若い一家の首領は、かねて興味があったらしく、いくらなのか、カメラの解像度はどのくらいか、gimbalはどのくらい有効か、たてつづけに訊く。

憶えてる限りの数字を答えます。
価格を、クリスマスセールならなんとかしてくれそうな、精一杯の低い数字で述べると、ひどくがっかりした顔をしていた。

飛ばしてみますか?
だいじょうぶ、初めてでも、壊しやしないさ。

しばらく、飛ばしたい誘惑と戦っているのが見てとれたが、結局は「いえ、やめておきます」と述べて、もうすぐ、母親の学校が始まるから、と述べてたちあがる。

不思議なくらい目立たない例の立ち居振る舞いで、さっさと片付けて、起ち上がると、すっと立ち去って、… とおもったら、母親が急に歩いて戻ってきて、モニとわしにでっかいハグをしていった。

ぎゅっ。

そのおもいがけないくらい強い力で、力いっぱい抱きしめられた感覚が正午をすぎても残って居ました。

世界は美しい場所で、楽しい場所である、とわしは何度も書いた。
わしは、その意見を変えようとはおもわない。

もしここが美しい場所でないならば、生まれたばかりの赤ん坊を飢饉で失った母親はなにを目指して海を渡ればいいのか。

もし、世界が楽しい場所でないのならば、アメリカ軍の機銃掃射で妹と父親を殺されたアフタニスタンの若い「一家の首領」は、どんな光を頼りに家族を率いて南の海の果てをめざせばいいのだろう。

このデタラメな世界を「美しい」などという人間は愚か者であるという人には言わせておけばいい。

きみの言葉は、この世界が存在することを当然と考えていすぎるとおもう。

この世界が存在することが信じられないひとびとにきみは会ったことがありますか?

爆発と血を流すひとびと以外を絵に描くことを知らない子供たちにきみは向き合ったことがあるか。

きみの知性なんて、どうでもいい。
この世界には希望が必要なんです。

わしはすべての悲観を拒絶する。

もうこの世界には、ほんの少ししか希望が残ってはいないのだから。

(画像はドローンで撮った、わし出没地域。まんなか、ちょっと左がセントヘリオスビーチでおます)

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では、どうすればいいのだろう? 3

ひさしぶりに日本語twitter世界をのぞきに行ったら、ぶっくらこいてしまった。

なにしろ悪意と攻撃性がこれでもかこれでもかこれでもかあああーと渦巻いていて、それを上手に隠してまともな人間を装ったり、他人を中傷するアカウントを別に複数つくって、全身全霊をこめた秘術をつくしためちゃくちゃな中傷誹謗を繰り返しておいて、本人の実名アカウントは、素知らぬ顔で、背伸びした肩書きにあわせた正常人を装っている。

言語世界として醜悪を極めていて、あんまりびっくりしたので、これもひさしぶりに日本語でツイートを並べてみたが、糞便に交われば糞塗れになるという (←言いません)
なんだか折角身に付けた日本語の品位が低下して、神様のQCにひっかかって弾かれてしまいそうな気がしてきたので、英語フォーラムで少し遊んでもどって、さっさと消してしまった。

ついでなので述べると、日本語世界の現下の下品さは果てしがないというか、ツイートを消すと「ほら、都合が悪いから消した」という。
呪詛と悪罵が飛び交うタイムラインから立ち去ると「逃げた」という。

なんのことはない、いかに自分達の品性が下劣か告白しているだけのことで、絵を描いていて、ヘンテコな線をひいてしまえば、パンのかけらを手にとってゴシゴシ消します。

それすら見咎める言葉を書き連ねば気がすまなくなるくらい日本語は救いのない幼稚な攻撃性に満ちた醜い言語になりはてている。

日本語はself-depreciationで遊べない言語で、うっかり英語あたまで、そんなことをした日には、それみたことか、おまえはやっぱりバカだ、自分でも判ってるじゃないか、と嵩にかかって嘲笑する人が必ず現れる。

結果は、どうなるかというと、日本語版イソップ物語の、自分をおおきく見せようとして、空気を吸い込んで爆発してしまう蟇蛙そのまま、アルバイトなのに正社員を名乗るのとおなじことで、パートタイムの大学教師が大学教員のあるべき姿を教授たちに説教して、病院勤務の医師が医学研究者を名乗って、威張っていることで端的にわかるように自分をおおきくおおきく見せるコンピティションが存在して、傍でみていると滑稽なことこのうえないが、なに、本人たちは50代、60代という年齢になって、いいとしこいて、おおまじめに「詐欺でつかまらないんだから悪いわけはない」と言わんばかりの愚行を続けている。

日本の人には、良い評判がある。

「おもしろい人達だ」というのが最も多い良い感想で、
自分の人生の余白にマンガを描いてみたり、そのマンガを少しずつ形を変えて、退屈な授業のあいだじゅう描きつづけて、パラパラと動かしてみると、あな不思議、まるで生きているように、アドビのフラッシュは2020年にプレイヤーの配布を終了するそうだが、日本にはフラッシュよりも遙か前に、「大学ノート」という、考えてみれば哀切な感じがしなくもない名前の、アナログ・ソフトウエアが存在して、その大学ノートの余白から、リボンの騎士やトトロが生まれて来た。

食べ物にも、工夫された、一見はヘンテコだが、食べてみるととんでもなくおいしいものがたくさんあって、酢を混ぜた御飯をてのひらのなかで、ふんわり固めて、その上に切った魚片を載せる、というただそれだけに見える食べ物が、実はひどく難しい調理技術の積み重ねで出来ていることが判るようになってくると、なるほど文明の思想が異なるということは、ものごとを眺める視点がまるで異なることなのだと納得される。

鮨、むずかしいんだよ、あれ。
二年しか続かなかった「外国人向け鮨のつくりかた教室」というものがあって、参加して、トロが握れるようになって、すっかり有頂天で、
鮨の世界では有名な先生の職人さんに「ガメちゃんね、お願いだから、鮨を握るのをおれに教わったというのだけはやめてね」と耳元で囁かれた本人が言うのだから間違いはない。

日本の人には悪い評判もある。

平気で嘘をつく。
あまりにあっさりとためらいもなく嘘をつくので、うっかりすると、話の後先が判っているのに言っていることを信じてしまいそうになるくらい上手に嘘をつきます。
国民的な芸であるとおもう。

他人や他国を貶める目的であることが多いようで、「そういう人間はどの社会にもいる」というレベルではなくて、国民性と看做されていて、捕鯨問題や韓国・中国・東南アジア人を瞞してあるいは力ずくで掠ってきては生きたラブドールとして酷使した性奴隷問題、外交にまで及んでいて、もっとも、最近は「日本人の嘘」はすっかり有名になったので、首相が福島事故は「アンダーコントロール」だと見え透いた嘘を述べていても、誰も腹もたてなくて、未決箱既決箱と並んだ「日本のひとがいうこと箱」にあっさりいれられてしまったりしていて、逆に、日本の人は、自分達が嘘つきだとあんなに簡単に判定されて怒らないのは、やっぱり定評はほんとうだからなんだろう、と若い人に納得されたりしていた。

裃を来て、肩で風を切って歩くようなスタイルが好きで、なんだか世界中で出来損ないのナチSS将校みたいな振る舞いに及んでいる。

日系企業で働いた人は、ほとんど例外なく、退職したあとで、「日本人の豚野郎ぶり」について憤懣をぶちまける。

近所のおっちゃんなどは、20年間、日本人たちに立ち交じって生き延びるために本人がおもってもいない日本人や日本の美点について、心にないお世辞を述べて人格が崩壊したと述べていたが、面白がって、それって、自分が悪いんじゃないの?
というようなことを口にすると、頭からビールをぶちかけられそうなほど怒る。

「きみは日本人の陰険さを知らんのだ」という。

知りませんよ。
知らなくてよかった。

ほんとうは、ちょっとだけ日本と日本人のことを知っている。
日本語を勉強してみたからね、というようなことをいうと、ややこしいことになりそうなので、教えてあげないけど。

日本はどうなるだろう?
と、ときどき思う。

お友達たちが考えるように「心配している」わけではありません。
母国でもなんでもない国を「心配」するのは人間の気持ちとして難しい気がする。
心配、では誇張表現になりそうです。

言語を身に付けるということは、少なくとも上達してくれば、その言語の社会と関わりが出来るということで、英語にはcommitmentという適切な語彙が存在する。

関わりが生まれれば、最低限なにごとか述べなくてはならなくて、良い悪いではない、言語の習得はcommitmentを果たして初めて完結する。

自分で考えても言い訳にすぎないかもしれないが、この十年間で、言わなければならない、と思い定めたことは激しく反発されながらひとつずつ述べて、日本語を習得したことから来る恩恵(例:北村透谷の文章、鮎川信夫の詩)に対するお礼は述べたことになっている。

日本語ってね、おもしろいんだよ。
ボートでいうと、感情の風で帆走するヨットに似ている。
タッキングが最も高い技術を要するところまで、酷似している。
ちゃんと帆を操れば、おもった場所へ、例えば風が逆向きに吹いていてもいけるが、操帆がへたであると、風がつれていきたいほうへいきたいほうへとつれていかれて、最後は、とんでもないところへながされていってしまう。

日本語のすさまじい現在の惨状にも関わらず、やはり日本語を身に付けてよかったと思っています。

日本の社会そのものについては、さて、どうなるのか。
このブログの過去記事を遡るとアベノミクスは失敗に終わるだろうというアベノミクス開始時の記事に始まって、経済財政について、当時、投資家たちが当然の常識として共有していた日本の経済財政政策への認識がたくさん記されている。

競馬の予想屋みたいなおっちゃんやおばちゃんもたくさんいる「経済学者」とは異なってトンチンカンなことを考えればいきなり破産なので、あたりまえといえばあたりまえだが、当時の投資家たちがいかに日本の人とは反対の予測を立て、結果としては正しかったか、お下品にも安倍政権の何がやりたいのか不明な硬直した経済政策につけいって大金を稼いでいったかがいま読むとよくわかります。

ここで、いまさら、くどくど具体的な内容を述べてもしかたがないだろう。

もっとも日本の未来を支配しそうなのは、みなで話しあった「倫理の欠落」という現実で、富国強兵の明治時代以来、「役に立たない」という理由で故意に置き去りにされた社会的倫理概念を示す単語(例:integrity)の段階で、すでに日本が倫理を捨て去ったことの、最初期の段階でのデザインの歪みが、ここに来て、おおきく日本にダメージを与えている。

「お花畑」とは、自白的な言葉を、よく考えついたもので、理想を揶揄の対象にしか考えられないところまで落ちてきた社会としての幼稚さ/愚かさを、どの時点で直視して、焦眉の解決すべき問題として取り組むか、あるいは取り組めないでおわるのか、まず緊喫の問題はそれで、安倍首相と政権をいくら非難しても、なにも変わらないのは、論理のうえから述べて、保証されている。
結果としては、ただの政治ごっこの空騒ぎで終わるでしょう。
通常、政治色の空騒ぎが終わると、そのあとは以前の状態よりも、またいちだん酷い状態が現出する。

香港人や光州人が生命を賭して戦った「自由」という言葉では不十分な人間性の核をなすなにごとかを回復するための戦いとは、表層にとどまっている点で、まったく質的に異なっている。

見ていると、こういうことにもちゃんと商売と売名(は、ちょっと言葉がきついか)に長けた人がいて、2019年版の糸井重里というか、マーケティングの勘が冴えて、若い女のひとのアバターをイメージの焦点につかったりして、どんどん稼いでいる人もいて、特に嫌な気持ちでなくて、こういう人の「マーケット勘」というものは鮮やかなものだ、と感心する。
同時に、ひとつの社会の本質というものがいかに変わりがたいかを考えさせる。

もう日本には、昨晩の体験でSNSもこりごりだし、関わる方法がこの自閉的なブログ記事を自分と友達たちに向かって書く以外になくなってしまったが、高みの見物ではなくて、低みの見物、低いところにおりて、ときどきノートに目撃したことを書き留める人のようにして、ローアングルで記録していくのがよさそうな気がします。

あ。結論、書くの忘れてる。なははは。

社会の健康のためには前回に述べたように日本語を公の場で使うことをやめてしまうのが最もよいが、それが事情によって出来なければ、感情から生まれた恣意に引きずられることを極力避けた日本語を使うことを習慣とするのが良い。

二葉亭四迷に帰れば、というか、写実日本語に作り直してゆくのが良いのではなかろーか。

「敵認定」だの「カルト」だの「信者」だのと他言語人なら小学生でもみっともないと考えて使わないような、自分の便器から取り出した糞便を他人に投げつける猿なみの表現を、いいとしこいたおとなが使っているのでは、どうしようもない。
言語の真実性など保ちようがない。

観念の高みや言語の品位などは言うに及ばず。

憶測や印象は自分が正しいと考えた方法で実証してみせた「事実」とは異なるという、事物を認識するときの初歩の心得がないから自分が見たことがない人間は「母語でない言語でこんなに上手な表現が出来るわけがない」と鄙びた人生から生まれた類推で、無知をまるだしにして恥ずかしいような狭い了見を若い人たちの目の前でおおっぴらにぶらぶらさせて陳列に及ぶ。

言葉は意識して務めなければ、どんどん現実から乖離して話者の集団を狂気に導くのだという人類の単純な歴史も知らないのでは、しかも外界から遮断されたマイナー言語社会であることを考えれば、正気を保ちうると考える方がどうかしている。

言語の扱いをぞんざいにした社会は必ず言語に復讐されるが、日本語社会は、いま、その日本語からの復讐のまっただなかにいるようにみえます。

社会ごとズタズタにされて瘴気に満ちた「言論」のなかで、酸素不足になってのたうちまわっている。

言葉をおぼえた瞬間から人間が償えない罪を背負ったことひとつを見ても判る。
言語は、ほおっておけばたちまちのうちに腐り始める自分の肉体なんです。

きみが見ている世界は日本語そのものでしょう?
日本語で英語人が見ている世界を見ることが出来ないのは翻訳文化について述べたときに説明したとおもう。

日本という、風変わりな別世界を大切にしたいと思っている人間は世界中にいまでもたくさんいて、
ぼくもそのひとりです。

その世界を大切にして欲しい。

言葉を大事にしない社会には、この地上から退場を迫られる結末しかないことを、もっと真剣に考えて欲しいと願ってます。

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日本という精霊

ふり返ってみると、日本語が自分ではかなりうまく書けるようになったと考えて、どんどん文章を書いて、ますますいろいろなことについて書けるようになっていって、楽しくて、有頂天で、はてなの集団トロルに襲いかかられて、すっかりうんざりして、幻滅して日本を離れるまでの2年くらいが、いちばん楽しかった。

すべてのよいことには終わりがある。
日本との蜜月の終わりは、たしか2010年、だったのではないかとおもう。

英語世界にあきあきしていたぼくは、子供のときにパラダイスだと思い定めて、毎日毎日が楽しくてしかたがなかった日本にやってきて、まるで故郷に帰ってきたように感じていた。

わかってくると、日本にも日本の人自体にも、さまざまな問題があるのは、当然と言えば当然で、世界にあるいろんな国のひとつ、という印象になっていったが、一方では、夏に鐙摺の山の後ろに聳え立つ巨大な積乱雲や、新潟の鎮守の森、軽井沢の発地のホタル、セミの声でさえ、日本語的な受け止め方が出来るようになっていって、日本語という歴史的な意識が、風土とすれあってできる陰翳といえばいいのか、おなじものであっても日本語を媒介にすると異なってみえる様々なものの「見え方」に惹かれて、楽しめるようになっていった。

最盛期は、ではいくらなんでも言い方としてヘンだが、頭のなかではぴったりくるので臆せず使うと、最盛期は、赤地に「氷」と書かれた、かき氷のサインが風に揺れているのさえ、美しいと感じたりしたものだった。

日本には、どことなく「私的」なところがある。

光も、山も、流れ落ちる水でさえ、私(わたくし)の気持のありかたによって、見え方が異なるところがある。

セミの声を例にあげれば、日本語を媒介しなければ騒音にしかすぎないが、芭蕉の句を挙げるまでもない、むかしの映画に出てくる麦わら帽子の少年や、夏の陽射しのなかで、空を仰ぐ1945年・夏の広島の人たちの映像が、その騒音に情緒を吹きこんで、透明な意味をもつ「声」に変えてゆく。

何度も、しかも一回に数ヶ月という長さで滞在したので、次第に、風景を対象として眺める位置から、風景のなかに入って、溶け込む位置に変わって、日本をとばぐちに世界と和解しているような気持になっていった。

いつまでも、そうして「日本」のなかでたゆたっているわけにいかないのは判っていたが、もうすこし、もうすこし、という気持で、毎年のように日本を訪問したものだった。

「国」というものは不思議な制度で、イタリアから国境を越えてフランスに入ると、まったく異なる世界に変わる。
南仏にはいる国境には、ちょうど国境近くに、イタリア側にもフランス側にも日本でいうサービスエリアがあって、なにかの拍子に両方にはいったことがあったが、言語だけではなくて、人の様子がもう異なっていて、食べ物もパンもサンドイッチに挟まっているものも、つくりかたも異なっていて、その際立った対照をおもしろがったことがある。

スペインとフランスの国境は、ピレネーの側は、ちょうどフランスからイタリアに入るようにポーから出て、バスクのオンダビリアで、がらりと変わるが、地中海側は、案外となだらかな変わりかたで、こじつけて、カタルーニャという土地は、やはり強烈な独自の文化を持っているからだろうか、と考えてみたりする。

フランス側にも、フランコの内戦を逃れて移住した、たしか50万人を越えるカタロニア人が住んでいるからです。

国は、どの国も、びっくりするほどお互いに異なっている。

まして、本来ボスポラス海峡からガンジス川までが定義だったアジアの、そのまた東に広がる漠然と「中国の世界」と意識される東方アジアの、さらにその東に位置する極東アジアにある日本などは、室町くらいまでは、臓器や性器の位置まで異なると主張する人間がいたほどの別世界だったわけで、現代でも、それは本質的にかわらなくて、びっくりするほど異なっているどころか、まったく異質な世界で、だからこそ日本は魅力に富んだ国だった。

「都会は都会で、どこもおなじだ」と両親が述べていたことがあったが、ある程度は真実で、日本でもやはり田舎がいちばん楽しかった。

子供のときから日本のおおきな町ではもっとも気に入っていた奈良は中国をお手本につくったといっても、奈良は奈良で、日本でしかありえない町で、いまはどうなのか、むかしは柵もなにもなくて、国宝だという興福寺の五重塔の階の下に座って、夜更かしの鹿たちと一緒に、皓皓と輝く、いたずらっ気をだして岡田隆彦の表現を借りれば臨月のようなお月さま、満月を眺めてうっとりとしていられた。

鎮守の森が好きで、よく知られているように、南方熊楠の激しい反対運動にも関わらず、明治の政府は、鎮守の森を全国で破壊してしまったが、京都は政府の命令などどこ吹く風と受け流して、その京都に憧れをもっていた地方では、どこも内緒で鎮守の森をいかしておいた。

そのひとつの松之山に入る途中の鎮守の森は、むかしの日本の静寂をそのまま保存していて、名前もなにもない社に向かって、長い急峻な階段をのぼってゆくと、古代の神々がそのまま、そこに立って会合をもっているかのような杉の巨木が聳えている。

みあげると、まるで杉の木たちのほうでも、こちらを見下ろしているようで、日本には神がいないのではなくて、神がいらなかったのではないかとおもえてくる。

自然のなかに、すでに畏怖がはいりこんでいたからです。

日本は、ひとことでいえば霊の国で、霊的な大気が満ちていて、死者が必ず立ち寄って、そこから恐山に向かうという立山をみあげていると、なるほど日本は、こういう国なのだ、とわかってもいないのに、わかったような気持にさせられたものだった。

日本は信じがたいほど下卑たところと、これも信じがたいほど崇高な部分がないまぜになった国で、士農工商の士と商であるとか、日本の長い孤独な歴史であるとか、これまでにもさまざまな説明がなされてきたが、どの説明も肯綮にあたるものはない。

日本は、ただ、不思議で名付けようがなく、表現する言葉もないありかたで日本で、ただただ美しく、ただただ醜く、いままでも、これからも、日本でありつづけていくのでしょう。

いちどモニと寺泊を日没に通りかかったら、日本海の鈍色の海の、水平線に夕陽が沈むところで、その、日常とは到底おもわれない美しさに、びっくりしてしまったことがあった。

海で、水平線なのだから、世界の、西側に海がある、ほかの土地の、例えばカリフォルニアのカーメルから見える夕陽と同じ様子でありそうなものなのに、まるで、異なる惑星にやってきたようで、血が通って、言葉で世界を意識しているとでもいうような、その夕陽の、人間的な赤光(しゃっこう)に息をのんだ。

ときどき、日本は日本語であるよりも、そのほかのなにごとかによって日本なのではないかと疑うことがある。

きみが聴いたら、ふきだしてしまうような理由で、ここには書くわけにはいかない。

ほんとうは、いまは、すっかり、そう信じているのだけれども。

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