寒い空

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注文したピザを受け取りに行ってみると、想像の3倍は優にある大きさで、一緒に歩いてきた友達と顔を見合わせてしまった。
3枚も頼んでしまった。

そういえば12インチペニスて、ポルノでも、でかいんだったな、と友達が不謹慎なことを呟いている。
14インチは、それよりでかいんだから、すごいわけだよな、ガメ。
気が付かなかったのか?

おおきさ、数字で書いてあったっけ?

雪がふってきた空を見上げながら、寒くなりそうだからワインでも飲む?
ガメのアパートは赤ワインしかないんだったでしょう?
ひさしぶりなんだし、お祝いにシャンパンで、いいんじゃない?

箱を抱えて、鼻の頭を真っ赤にしながら、毛糸の帽子にくっつきはじめた粉雪を楽しんでいる。
息が白くなって、低い空に覆われた、明るい灰色の背景のなかで広がってゆく。

ホームレスのおっちゃんがいるなあー、と、わし。
この頃、また増えたわよね、と友達。
ピザ、3枚は多すぎる、とわしが言うと、
友達も、すっかり楽しそうになって、ピザ3枚は多すぎる!
と歌うように繰り返している。
決まったね、と、わし、
うん、決まった決まった、と喜ぶ友達。

友達とわしはホームレスのおっちゃんの両側から挟み込むように階段に腰掛けて、
「ピザ、一緒に食べよう。買いすぎちゃったんだよ。ほら、あのコーナー曲がったところに新しくピザ店ができたでしょう?
初めて買ってみたら、チョーでかかった。
だから、ふたりでは食べきれないのさ」

おっちゃんは、きみたちはホームレスなれしてないから、お尻が冷えるだろう、と不可思議なことを述べて、段ボールを友達とぼくに分けてくれる。
おお、と言って、慌ててお尻の下に敷くと、まだまだ、と述べて新聞紙の束もくれます。
「これを敷いて座るといいよ。新聞紙って、意外と暖かいんだよ」と、おっちゃんが先輩風をふかしている。
出来たてで熱いピザを食べて、ジェッツの話や、バラク・オバマは合衆国で初めての黒人大統領になるだろうか、と、おっちゃんと3人で盛り上がっている。
コーラが欲しい。
ピザにはコーラだよなー、と駄々をこねはじめる、わし。

いい考えがある!
と言うなり、友達が雪が積もり始めた舗道を走っていきます。
ずいぶん、元気な人だね、とおっちゃんが笑っている。
ふと、おっちゃんには娘がいるのではないかと考える、わし。

戻ってきた友達の腕には3本のシャンパンが抱えられていて、ソーダガラスですらない、華奢な脚の、クリスタルのシャンパングラスを三つ買ってもってきてもいる。

「若いのに、クリスタルグラスなんて、豪勢じゃないか」と、おっちゃんが友達をからかっています。
パッと見て、必ず同じデザインでふたつ作るクリスタルグラスとソーダグラスの違いがわかるのは、おっちゃんには、富裕な時期があったからでしょう。

勢いよく栓を抜いて、シャンパンがあふれないように緊張しながら、みっつのグラスに注ぎ終えて乾杯していると、コートの衿をたてて、黒いボルサリーノをかぶった、近所に住んでいるらしい中年の身なりの良いおっさんが、「メリー・クリスマス!」と、にっこり笑って、つばに指をあてて敬礼して、挨拶してゆく。
クリスマスは、まだまだ先なんだけど。

おっちゃんは聡明な人で、話があまりに面白いので、立ち去りがたくて、
結局、ピザは3枚とも、そこで食べてしまった。
シャンパンも空になって、空き箱や空き瓶をまとめて脇に寄せたあとでも、まだ話し続けた。

おっちゃんは、友達とわしの父親のような気持になったのでしょう、子供のときにジョン・コルトレーンに会った話やアンディ・ウォホールのパーティに行った話をする。

まだ、ブルックリン橋のたもとのピザ屋にフランクシナトラが通っていたときの話も出たので、考えてみると、とても若く見える人だったのかもしれません。

いちどだけ、ため息をつくように、
「若いっていいなあ」と述べるので、
そうですか?
と訊きかえすと、だってまだ何回も失敗して、やり直す時間があるじゃないか。
おれの年齢でも成功はできるかもしれないが、もう失敗はできないよ。
そのことを考えると、なにをするのも怖くなってしまうんだ。
歳をとるということは失敗できなくなるということなのさ、という。

そのひとことが、相変わらずなにも考えない、わしのムードを変えてしまって、
おもいがけず、おっちゃんを抱きしめていた。
おっちゃんも、見れば、涙ぐんでいる。
友達も涙をぬぐっている。

「すまん」と、おっちゃん。
どおりゃ、アパートにもどってイッパツやるか!
と述べて立ち上がるわしに、「わたし、下品な男は嫌いなんだけど」と友達がいう。

友達は、おっちゃんの両頬にキスをする。
立ち上がろうとするおっちゃんの肩を押さえて握手するわし。

いい夜だったね、と友達は上機嫌です。
うん、チョーいい夜だった、と頷いている。

報道された「貧困女子高生」が贅沢だとかで、タイムラインに並んでいる言葉を見ていて、ビンボのことを考えて、あのホームレスのおっちゃんのことを思い出していた。
記事を読むと、多分、フィンランドのように教育がすべて無料なら、その気の毒な高校生は貧困を強く実感しないでもすみそうでした。
日本のいまの悩みは、税金は統計上判りにくくしてあるだけで世界の五指に入るほど高いのに、社会保障政策は下から数えたほうが全然早いほど手薄で、高税低福祉の不思議な国で、しかも、もともと産業のスタイルが時代遅れになったことが原因の経済の競争力の低下を、わざわざ再生に必要な崩壊を先に延ばしてしまうような、賃金の抑圧という最悪の手段で競争力をもたせようとする、個人の幸福を踏みつぶしながら断末魔の咆哮をあげて地団駄を踏む怪物のような暴れ方で、若い世代は、その社会ごと植物人間になっていこうとする延命装置の罠にからみとられた形で、惨めな生活を余儀なくされている。

ピザを買ってきたがわのわしが、おっちゃんに勝るのは、ただ運がよいというだけのことで、人間の一生などは、運次第で、いつでも立場が逆になるのは、よほど頭が悪い人でなければ誰でも知っている。
だから、お互いに、隙さえあれば親切にして、よい気持になって、楽しい時を過ごそうと考える。

そうやって考えると、貧困は、悪意のなかで研ぎ澄まされていくので、善意の社会では、貧困に起因する悲惨は、うまく育っていかないようです。

世界から善意が失われて、初めて、貧困は人間の魂を破壊しはじめる。

おっちゃんを見たのは、そのときが最後で、それから一度も見ることはなかった。
わざとそこを通るようにしていたが、いつまでも姿を見せないので、いつか座った階段に座って、ビールを飲みながら空をみあげようと立ち寄ってみると、足下の階段に
「楽しかった。ピザも、うまかった!
あのシャンパンは1本100ドルなのを知っている。
もう少し節約しないとホームレスになるぞ。
若い友達よ。

おれは、もう一回失敗してみることにしたよ
ありがとう!」と、フェルトペンで書いてある。

眼から涙があふれてきて、それがどんな感情によるのか判別はつかなかったが、胸がいっぱいで、わしはビールの瓶を空に向かって高く掲げて、祝いました。

多分、人間という儚い存在の尊さを祝ったのだと思います。

乾杯!

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終戦記念日

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終戦記念日は「戦争が終わった日」という意味だろうが、戦争が終わった日ならば1944年7月9日のほうが相応しいはずである。

1945年8月15日は「せめて、あと一勝」と自分を神と崇める国を有利な講和に導こうと頓珍漢な努力を繰り返した昭和天皇が、二発の核爆弾に青ざめて戦争の続行をついに諦めた日であって、その日に起きたドタバタ喜劇じみた、日本らしい大騒ぎについては、二年前に

「日本のいちばん長い日」を観た
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/04/815/

という記事で書いた。

軍事にも常識というものが存在して、軍事上の常識に従えば日本軍が「絶対に陥落しない。万が一陥落したら、そのときは戦争の終わりだが、たとえ航空隊の掩護がゼロでもサイパンが落ちることはありえない」と昭和天皇に対しても国民に対しても繰り返し約束して、疑義をはさむ将校がいると、「おまえは素人か。サイパンの要塞構成をみて、少しでも軍事知識があれば、落ちるわけがないのがわからないのか」と怒鳴りつけるのを常としたサイパンが、あっけなく陥落した瞬間、ほんとうは戦争はもう終わっていて、そのあとは、ただ無暗に日本の外では補給線を破壊されて制空権を完全に奪われた兵士がひどい飢えのなかで屠殺され、日本の内では、日本側が焼夷弾と呼んだナパーム弾の渦巻き状の絨毯爆撃と最後にはとどめに二度の核攻撃で国民が意味もなく殺されただけのことで、戦争といえるようなものでは到底なかった。
国民の生命というものが幾許かでも価値をもつ普通の国ならば、とっくの昔に、手を挙げて戦争をやめていなければならなかったのに、この日本という、国という体制のために国民が存在する倒立した全体主義の不思議な価値観に立つ国では、国民が最後のひとりになるまで「憎い米英」と戦うと述べて、夜襲やカミカゼの大規模なテロルを続けたので1年と1ヶ月のあいだ、日本人は、男も女も、若い者も老いた者も、ただ意味もなく殺されつづけることになった。

太平洋最大の決戦だったサイパンの戦いについて、日本側では藤田嗣治を動員して戦意昂揚に使われた「バンザイクリフでの追い詰められた民間人投身の悲劇」以外は不思議なほど語られることがないのは、簡単にいえば、それが純軍事的にはあまりにもみっともない敗北で、生き残り将校の庇い合いによって提督の臆病な逃走を「謎の反転」と言い換え、沖縄人の食糧を奪い、家族ごと皆殺しにしておいて「沖縄県民かく戦えり」と述べて、美談で塗りたくって自分達がやったことを隠蔽する、いつもの巧妙さをもってしても、どうにも言い抜けが出来ないほどの惨めな敗北だったからです。

当時、日本海軍には「彩雲」という素晴らしい出来の高速偵察機が存在したが、ナウル島から飛び立った一機がマジュロ環礁に集結したアメリカ軍を二週間前に発見した。
そのお陰で他の島嶼上陸作戦のように不意をつかれる、ということはありませんでした。
アメリカ軍の動向を逐一把握していた。
日本側はアメリカ軍の予測よりも遙かにおおきい戦力をチャラン・カノア南北の海岸に集中して展開していて、アメリカ軍が、自分達が入念に作り上げた罠である海岸に計算通りやってくると、「もう勝ったも同然」と小躍りした。
最も戦力が集中した正面に敵が「注文通り」やってきたわけで、戦闘ではそんなことは滅多にありえないような理想的な展開でした。

案の定、せまい橋頭堡にひしめきあい、大規模な戦車隊まで潜ませていた日本軍の攻撃にあって重火器も戦車も揚陸する前の状態だったアメリカ軍は一時、大混乱に陥る。

しかし、翌日には壊滅させられる寸前であったはずのアメリカ軍は橋頭堡を拡大し、海岸全体に広がって、ほぼ勝利を手にしてしまう。

余った航空機エンジンを使ってつくったせいで戦車としては致命的なほど背高のっぽで、しかも戦車はディーゼルエンジンでつくるのが文法であるのに爆発しやすいガソリンエンジンで、欧州戦線ではドイツ軍の同級以上の戦車にはまったく歯が立たずtommy cooker とかRonsonと呼ばれるほどひどかったM4シャーマン戦車も、日本軍を相手にすると、無敵で、日本の標準対戦車砲や大日本帝国陸軍が世界最高と誇った97式中戦車では、まったく歯が立たなかった。

練度が低いどころか、戦闘経験がないアメリカ戦車兵は、へまばかりで、射撃が下手で、歴戦の日本戦車兵は、海岸を右往左往して、あるいは故障したように座り込むM4に的確に狙いを定めて猛射するが、あとでアメリカ兵たちの笑い話になるように、砲弾が非力すぎて、かすり傷を装甲に与えることもできなかった。
一方、M4の、ドイツ軍のタイガー重戦車に対しては装甲が薄い後ろからまわりこんで、しかも数メートルという至近距離から射撃して、やっと仕留めるという、「まるで棺桶に乗ってるみたいだ」とアメリカ戦車兵たちを嘆かせるほどだった75mm砲は日本の戦車に対しては有効で、97式中戦車の射程距離外から射撃しても一発で砲塔が吹っ飛び、車体ごと爆発するほどの打撃力をもっていた。

サイパン戦について「戦闘計画で完勝した日本軍は、不思議にも、現実の戦闘であっけなく完敗した」
と述べている英語で書かれた本があったが、そのとおりで、つまり、1944年夏の時点では、兵力をどれほど持っていても、兵器をどれだけ集積して待ち構えて、計画どおりの上陸地点に敵が来ても、まったく勝ち目がないことは日本の陸海の軍人の目には明かになっていた。
戦後、日本の帝国軍人たちが自分達の官僚主義と怯懦を隠すために繰り返した「敵の物資に負けたのだ」は言い訳にすぎず、そもそも開戦当初は、どの戦線でも連合軍よりも装備がよかった日本軍は、潜水艦という兵器を使いなれず、脆弱な兵器である潜水艦を、艦隊相手に使うという気が遠くなるような初歩的なミスを犯して、自分が艦隊決戦前段に潜水艦を使おうと考えるくらい潜水兵器に理解がないので、当然、潜水艦に対しては最大の防御である駆逐艦を日露戦争時なみの艦隊決戦前段においての大型魚雷艇代わりに使うという作戦計画を立てるほどの頭の悪さで、本来シープドッグのように群れの周りを周回しているべき駆逐艦群の護衛のない丸裸の補給艦隊が、日本の潜水艦より遙かに性能的には劣るが常識的正統的な潜水艦使用法に従って運用されるアメリカ側の潜水艦に、手もなく沈められ続けた結果、装備どころか食糧もとどけられなくなって、兵士はアメリカ軍よりも飢えと闘わなければならなかった。

日本の委任統治領で、当時の日本人にとっては「日本領の島」であったサイパン島には、当然のことながら、日本人たちの町があって、学校があり、日本語で生活していた。戦争が不利になってくると数多い日本のひとたちが逃げていったが、まだたいしたことはないだろう、とタカをくくってサイパンに残っていた日本人が
アメリカ軍の上陸当時で、まだ2万人程度住んでいた。

「永久要塞サイパン」の日本軍がたった三日間で壊滅したあと、日本政府の洗脳政策によって日本軍が負ければ死ぬものだと教わって信じ込んでいた日本の民間人は、1万人弱が、ほぼ全員自殺あるいは自殺的行動によって死ぬ。

あとでは極く一般的になる民間人が数人で、最も安価な兵器であるために民間人に自殺を強要するための兵器として日本軍が重宝して配布した手榴弾を囲んで自殺する日本人の姿が、初めに見られるようになったのもサイパン戦でした。

日本では、なにしろ「それでもよく戦った」ばかりで、ちゃんと書いてくれないので、なんだかいらいらして、つい長々と陸の戦いを書いてしまったが、海と空の戦場はもっとひどくて、アウトレンジ戦法と名前をつけた、いかにも日本の役人らしい、現実認識の欠片も存在しない「敵が届かない遠距離から一方的に敵をたたく」という、ひとりよがりな、バカみたいな戦闘計画を立てて、挙げ句の果てには、経験もない遠距離を侵攻させられた若いパイロットたちは、敵に遭遇してもぶざまに逃げ回るだけで、やはり新兵ばかりで戦闘技量もない若いアメリカパイロットたちからさえ、Great Marianas Tukey Shootと呼ばれるほど酷かった。

ところで、いま書いていて気が付いたのはマリアナ沖海戦についての日本語記事に「作戦構想はすぐれていたがパイロットの技量が未熟なせいで現実の戦闘では大敗した」というとんでもない記事がたくさんあることで、これではいくらなんでも、日本の若いパイロットたちが気の毒です。

坂井三郎やアドルフ・ガーランドのように第二次世界大戦以前からキャリアを積んで、大戦に入ると、長い戦歴で身についた技量を活かして大空を自在に飛び回った例外的な操縦士を除いて、空の戦闘に参加するのは、大半が「真っ直ぐ飛ぶのがやっと」のnovice pilotたちで、空の戦闘の作戦を立てるときには「大半のパイロットは未熟なのだ」ということが前提になっている。

自分で飛行機を飛ばして見れば判るが航法士が同乗しない一人乗りの飛行機では、地上のランドマークや地形を手がかりにして飛ぶ地紋航法ですら300キロというような長距離を飛ぶのは大変なことで、ましてただ茫洋と広がる海上を飛ぶときには、坂井三郎のようなベテランの飛行機に必死についていくか、はぐれてしまえば、空にあがれば必ず低下して、一桁の掛け算もおぼつかなくなる低下した脳の機能をふりしぼって、風の偏流を計算し、速度と時間を計算して、自分がどこにいるか把握しなければならない。

空戦ともなれば、初めの一退避で、いったい自分がどんな姿勢で、どこを飛んでいるかが判らないのが普通のことで、裏返しになっても気付かず、水平線をはさんで、どちらが海でどちらが空なのかも判らない状態になる。

だから新米パイロットを自分の判断で飛ばなくてすむように、防戦でなく攻撃に終始できるように、あるいは長距離を侵攻させないように作戦を組み立てるのが空軍作戦将校の腕というもので、そういう基本的な約束事をことごとく無視した机上の遊びにしかならないような作戦をつくっておいて、未熟なパイロットの腕のせいにするなどはバカげているとしか言いようがない。

現に遙々やってきた日本軍機を迎え撃って日本機を追いかけ回して一方的に撃墜する「七面鳥撃ち」を楽しんだアメリカ側パイロットたちも、日本側とたいして変わりがない新米パイロットたちだったのは、そんなに注意していなくても、気が付くことだとおもわれる。

日本側の戦史を読むと、言い訳につぐ言い訳で、戦争を生き残った将校達の自己弁護ばかりで気分が悪くなる。
有名な故事を例にあげればアメリカでは、多少でも太平洋戦争に興味があれば、子供でもテレビのドキュメンタリやなんかを通じて知っている「臆病提督栗田の遁走」という怯懦に駆られた軍人の、びっくりするような戦場放棄事件が、日本側の記録では、「戦後も黙して語らなかった寡黙で沈毅な提督」の
「謎の反転」と言い換えられる。
以前にも書いたが、図体がでかいばかりで、軍艦の運用には不可欠な勇気を欠いた将校達のせいで日本海軍の無能と臆病の象徴というイメージがある戦艦大和と武蔵を悲劇の巨艦のように描きなおす。
一事が万事で、1944年後半の日本軍は、すでに軍隊と呼びうるような組織ではなかった。

ほんとうは誰の目にも終わった戦争を、続行するために、昭和天皇と軍事官僚は、若い日本人の生命をカミカゼとして敵の鋼鉄に投げつけ続けるという日本の歴史どころか人類の歴史に永遠に汚点となって残るような非人間的なことをおもいつく。
「どうせ下手なんだから、おまえ爆弾ごと体当たりして、死んでこいや」と言わんばかりの作戦に若いひとびとが喜んで志願したことになっているからくりは英語ドキュメンタリでは種明かしされていて、志願をつのる用紙の選択肢が
1 熱烈に志願する 2 強く希望する 3 希望する
のみっつだったという、笑い話にもならない卑怯さで、なんだか、ここまで腐った国で生きながらえても仕方がない、と覚悟を決めて、酒や覚醒剤の力を借りて、せめて笑って潔く死のうと思い定めた若い人間の心が、こうやって書いていても眼前に立ち現れる明瞭さで判る。

年長世代の卑怯と無能の結果を自分の人生を破壊することで償わなければならなかった若いひとびとは、その当の年長世代と一緒に靖国神社に都合良く「神」にされて祀られて、どう思っているだろうか?と、東京にいたときには九段の坂を歩いて神保町におりながら、よく考えたものだった。
あの神社は、日本人の欺瞞と嘘の象徴なのではないか?

1945年8月15日を「終戦記念日」と呼ぶ事のバカバカしさは、誰が見ても日本側にはもう絶対に勝ち目がないと判ったサイパン島失陥のあと、1年1ヶ月にわたって、兵士や市民を無意味に殺し続けて、はてしのない無能のあとで、ついに殺して消費すべき若い生命も在庫がつきたので、おれが地位を失っても仕方がないと手をあげた年長世代の決断を記念していることで、指導層の無能のせいで、戦闘ですらなく飢えによって殺され、志願して喜んで体当たりしたことにされて、社会の無能を自分の肉体と生命で支払わされた若いひとびとのほうは、なんだかテキトーに美化されて、神様にして棚に飾っておけばいいだろう程度の好い加減さで忘れ去られてしまったことで、そのくらい社会がまるごと無反省で厚顔になれるものならば、どうせ、またもう一回おなじことをやるだろう、というのが観察者たちの意見になっている。

また、8月15日がやってくる。

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♂♀

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Queenストリートを歩いていると、あちらからもこちらからも日本語が聞こえてきて驚いてしまう。
CBDでも、あの辺りは語学校がたくさんあるところなので、多分、英語留学で来ているひとびとなのでしょう。
若い女の人が多い。
アジアの人は小さくて、若くみえるので、男も女も中学生のようです。

「この5年」であるよりも、この1,2年で増えたので、福島事故後の顛末を見て不安になったのではなくて、ジャブジャブオカネを使って、本質的な効果はなにもない投機的な経済政策に使い果たして、なお恬淡として恥じない政府や年長世代の厚顔ぶりをみて、日本の経済的将来への不安から英語世界へ移住しようと考えたものであるらしい。

話してみたこともあって、それは2011年以前のことだったが、その人は
「日本の若い女は、機会さえあれば海外で暮らしたいとおもっている」と述べていた。
「日本の社会には、女にはチャンスがないんです。わたしは大学で建築を専攻しましたが、民間企業の性差別があまりに酷いので上級公務員試験を受けて最も性差別が少なそうな省を選んでも、今度は、役所には理系差別もあって、
性差別とダブル差別になってしまったので、仕方がないからアメリカに来ました」と言って笑っていた。

なにごとによらず鈍感なぼくは、そのときも、「そうですか。それは大変ですね」くらいのおざなりな返事で、横にいたベルギー人とポーランド人の映画監督と小津談義に熱中しはじめてしまって、あまつさえ、二年後に違う友達のパーティで、部屋の反対側からまっすぐに歩いて来た美しい女の人に「わたしをおぼえていますか?」と訊かれて、思い出せなかったので「おぼえていません」と正直に述べたら、「ひどい」と苦い顔をされてしまって、その女の人が、日本社会の性差別について話をしてくれた人だった。

日本の社会を見ていて不思議な事は、「労働人口が不足している」と、政府だけではなくて、企業も、マスメディアも、はては新橋の一杯飲み屋のサラリーマンたちですら口々に述べているのに、目の前の、日本の女の人々という世界でも有名なチョー優秀な集団で知られている自分達の社会のグループには、コーヒーをいれさせ、制服を着せて、あるいは安上がりな娼婦の役割を与えて、ついでに使い出がありそうなのを選んで、おかあさんの役割を家のなかで演じさせるだけで、社会のなかでのまともな役割を与えようとしない。

だが、ガメちゃんね、と、有楽町のガード下の焼き鳥屋で、女の人が二重差別でうんざりしたという当の省庁でキャリア組を管理する役のおっちゃんが述べている。
「ぼくには苦い経験があってね、これは優秀な人だな、と思う女の人を、みんなの反対を押し切って推薦して、わたしは絶対に寿退職なんてしません、と真剣な眼差しで言うので、思い切って昇進させてリーダーとして引き抜いたら一年後に結婚退職されちゃって」
と、眉を曇らせている。
いままでのキャリアで、あんなに参ったことはなかった。
おかげで「余計なことをする男」の評判がくっついちゃってさ。
と、上級公務員の安月給なのに、もう4杯目の生ビールの大ジョッキを飲み干していた。
もう、女はこりごりだよ。

職場にいる個々の男が女性差別をなくそうとしても、うまくいかないのは、性差別が社会全体の構造の問題であるからで、たとえばイタリア人の友達は単語にまで性別があって、目に入るものすべてが、どちらの性であるか絶えず無意識に判断しないといけない世界では、男女差別をなくすのは無理だわよ、と苦笑していた。
英語圏のほうが、同じくらいひどいとはいってもイタリア・フランス・スペインというような国よりも性差別が小さいのは、言語の問題もあるのではないか。
ハリウッドの、50年代の映画を観ていると、女らしい言い回しに溢れているが、現代の映画では殆ど男女の差はなくなっている。
言い回しがおなじで、表現がおなじになれば、単語に性別がない杜撰さが怪我の功名をなして、男女の区別を無くしていくのに役立っている。

いまの日本で、まさか「女らしくしなさい」と娘を教育する母親はいないだろうが、女言葉が猖獗していて、一人称さえ「おれ」「わし」「ぼく」が選べないのでは、そのあとに続くセンテンスで表現しうることも極く限られた事象になるだろう。

そのことを述べたら、ある日本人の女の人に「ガメ、女はね、考えるときには女の言葉では考えていないのよ。女言葉は、端的に言えば男を喜ばせるための表現で、あんな言葉でまともにものは考えられない」というので、おおげさでもなく、カンドーしてしまったことがある。
そーか、そーだったのか、と考えた。
一方で、普遍語で思考する上に、それを表現するときに女の言葉に翻訳しなくてはならないのでは、日本の女の人は余計な手間が多くてめんどくさくてやってられないのではないか。

おっさんが「おれは、そんなこと納得できねーよ」と言えるのに対して、
「わたしは、それでは、困ります」しか言えないのでは、頭のなかで「死ね、このクソオヤジ」と叫ぶことは出来ても、その内心の声が頭上にホログラフィで表示されるシステムでも完成しない限り、女びとの声は可視化されない。

アフリカンアメリカンのガールフレンドと付き合って、白い人の側からの微妙ですらない明瞭な差別意識にびっくりしたことがある。
初めは気のせいだろうと考えたが、南部にふたりで旅行すると、ガールフレンドに対して極めて礼儀正しいのに、深刻な話になるとぼくのほうだけを向いて話す人がたくさんいる。
オーストラリアにでかけたときは、もっと酷くて、のっけから存在しない人のように扱われることもあった。
ところがガールフレンドがひとりで街を歩くと、口笛を吹くひと、「美人だねー」と声をかけるひと、たくさんいて、まるでステージを横切るスターに対するようで、つまりは性的対象でしかない。

その頃学習したことは、直截には義理叔父から教わったことだったが「人種差別は差別する側の問題で、される側は、抗議する以外に出来ることはなにもない」ということだった。
日本の人には、「ハクジンにバカにされないように自分達もちゃんとしなければ」と言う人がいて、ぶっくらこいてしまったことがあったが、肌が白い人に感心してもらうために行いを正しくするのでは奴隷なみで、そんな惨めなことを考える必要はない。

人種差別は白い人の病気なので、病人である本人たちが、病気である自覚をもってなんとか治療法を発見して、病気を根絶する以外には方法はないだろう。

モーガン・フリーマンは「人種の話をしたがる人間は人種差別主義者である」と有名なインタビューで述べているが、人種の話とは異なって人種差別主義者の話は、いくら白い社会ではネガティブな話は殆どタブーだといっても、もっとしたほうがよい。
この先は日本語で書いても意味がないので書かないが、差別する側はどういう種類の差別にしろ自分が差別していることについてさえ鈍感なので、「そんなに数が多くなければ」有色な移民がやってきても社会の活性剤になるからよい、あのひとは夫がイギリス人だから安心して付き合える、というバカ言辞を聞き逃してはならない。
それは人種差別ですよ、と明瞭に、いちいち述べなければ不道徳であると考える。

HeForShe
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/09/23/heforshe/

という記事を書いたときに、ツイッタで会ったニューヨークに住む日本人の通訳業の女の人に「男に性差別の話なんかされたくない。あれは女たちの問題だ」と言われて、そうだろうか?と、ときおり考えていたが、いまなら、その女の人はまったく誤っているのだと述べることが出来る。
逆で、人種差別とおなじく性差別もまったく男の側だけの問題で、「男のほうが身体がおおきくて力が強い」という、笑ってしまうような原始的な理由によって社会が成立の当初から歪められて、いまに至った。
女は子供を産んで育てるように身体の構造からして出来ているというような男の都合ででっちあげた妄説は、「アジア人は単調労働に耐えるように肉体全体がつくられている」「日本人は模倣は巧みだが創造ということが出来ない頭脳の構造であることは医学的に証明されている」という、つい最近まで欧州人が信じていた「科学的事実」と呼応している。

夜の六本木や渋谷では、日本の若い男のひとたちが体格に劣り、非力なことを良いことに毎週ごとに強姦が目的の「狩り」に出る欧州人やアメリカ人の噂を聞いた。
そのうちのひとりが、「戦果」を自慢するのを目の前で見たこともある。
日本の男は女みたいな身体のくせにプライドだけは無暗に高いので、絶対に警察に行ったりしないから安全な遊びだと述べていた。

ビデオで、相手に人間性を蹂躙されて悦ぶ女の人の虚像を繰り返し流して、文化化されて、あげくのはてに、アジア人、特にタイ人と日本人の女とみればsexually availableで、しかもどんなことをやっても悦ぶと考える白いバカ男は無限数に近く存在する。

女の人に立場に立ってみれば、この世界は初めから最後まで地獄のひとつらなりのようなもので、最も近しい立場に立ってもらいたい当のボーイフレンドや夫が、徹頭徹尾、自分への差別意識を吹き込まれて育っているのだから、これほど恐ろしいことはない。

人間の世界で最後まで残ってゆくのは多分性差別で、少しでもこの最後で最大の差別を解消していくには、笑ってはいかむ、たとえば週に一回は職場へ向かうのに膝上20センチのスカートを男が穿くことを強制するような後世の人間がふきだすようなことも含めて、なりふりかまわず性差をなくす努力をするしかない。

ベッドで隣に寝ている敵が、真の友に変わるまで、道のりは長いけれど

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Diary2

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世界の都市という都市の、高層ビルの、何百万何千万という窓のガラスがいっせいに割れて、無数のガラスのかけらが陽光のなかで輝きながら落ちて来る日を夢見ることがある。
ぼくは全身にガラスの破片が刺さっていくのを感じながら、血まみれの頬や腕をぬぐって、空をみあげるだろう。
無限に落ちてくるガラスの欠片をみつめながら、盲いる日を願うだろう。

それがなぜなのかを理解できない人と話しても仕方がない。
人間の根源的な欲望を知らない人と話しても仕方がない。

破壊と建設が対立する概念ではないことを知らない人と、なんの話ができるというのだろう?

人間が人間であることに意味なんてあるのか?

昨日は、Halsey

ばかり聴いていた。
この初めの日本語のナレーションは原曲にはないのだけどね。

Halseyは新しいポップスの地平線に立って向こう側を見ている。
Badlandsは素晴らしいできばえのアルバムで、聴きだすと止まらなくなる。
ポップスなのだから、なるべく繰り返して聴いて、さっさと消費しようと考えるのに、それを許してくれない。

仕方がないから、(普段はZ-FMを聴いている)クルマのなかでも、ブルートゥースでつながったSpotifyのHalseyを聴いている。

聴いているうちに、モニもぼくも、すっかり高校生のような気持になって、
いつもなら制限以下になるように気をつけて飲むランチのワインを飲み過ぎて、
家の人に迎えに来てもらうことになる。
チョー酔っ払って、後部座席の窓から町をみている。
雨のなかを、びっしょり濡れながら歩くひとびと。
口論している夫婦。
警官とマオリの子供たち。
怒りで赤く染まった、険しい顔。
怯えた顔のマオリの子供たち

高級車に乗って得意そうな不動産セールスのCがすれ違う。
会釈する。
半年前には、なんだかおどおどした、クライストチャーチから出て来たばかりの青年で挨拶に来たのをおぼえている。
いまはトップセールスマンになって、先週はトップモデルとの交際がゴシップ雑誌に出ていた。

悲惨、という言葉をおもいだす。

Pan Amというドラマがあった。
Mad Menは人気ドラマだった。
Downton Abbyちゅうドラマも人気があるよね。

英語世界で人気のドラマには、でも、皮肉な立場に立つと、「白い人しか出ないドラマ」である。
日本人にはとても人気があるのだとUKで報じられていたホームズシリーズもそうである。
真っ白なドラマが画面を席捲していてアフリカ系人の俳優/女優たちが拳をふりあげて抗議している。

日本の人達は相変わらず、のほほんとした「準白人」のつもりなので、おーシャーロックホームズかっこいいでテレビを観ているが、あのスクリーンの裏側には言うに言われない葛藤がある。

肌の色が、また人間の世界を悲劇に引きずり込もうとしている。

すべてをぶん投げて、親族とも、UK全体とも絶縁してでも結婚したいと考えた濃いチョコレート色の肌をした、あの美しい人は、明るいヘイゼル色の目をしていた。
「先祖のどっかにガメの同族がいたのね」と笑っていたが、ぼくは、あの人が述べる言葉のひとことでも理解していただろうか。
アングロサクソンはアングロサクソンであること、それ自体によって世界を誤解しているのではないか。

こんなことを日本語で書くことには、何の意味もないのは判り切ったことだけど、
でも英語で書けるわけはないしね。

いまでは科学的には、はっきり否定されている「人種」という概念は、人間の思考にとっては呪いのようなものである。
まったく正当性を欠いているのに、言葉にしみついて、どこまでも追いかけてくる。

多分、北海文明の「仲間意識」に淵源があるこの文化はどこまでも続くのだろう。

聡明なモニの子供なので、小さなひとびとは人種や言語にとらわれずにパートナーを見つけて、この年々ややこしくなっていく世界を生きていくだろう。
生まれたとき偉いお坊さんたちがやってきて、「この子は、世界を救うだろう」と述べていたが、言葉のとおりゴールデンチャイルドなのだとしても、はずれでも、モニとぼくは単純に親として見ているだけなので、 あんまり関係がない。
生まれてからいままで、猫ちゃんや犬さんとあんまり変わらないというか、アホで、チョー可愛くて、それだけで、もしかしたらマジメなモニでなく、父親に似て無限にとんでもない人になっていくのかもしれないが、それで一向にかまわない。

世界の都市という都市の、高層ビルの、何百万何千万という窓のガラスがいっせいに割れて、無数のガラスのかけらが陽光のなかで輝きながら落ちて来る。

全身にガラスの破片が刺さっていくのを感じながら、血まみれの頬や腕をぬぐって、空をみあげる。
無限に落ちてくるガラスの欠片をみつめながら、盲いる日を願う。

もう神はぼくを愛さないだろうから

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日が暮れて

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オークランドのいまの家を買うとき、裏庭の一角にバナナの木が何本か植わっていた。
カベンディッシュバナナで、見ると、ちゃんと実がたわわについている。
熱川のバナナワニ園みたいとおもって、おもわずワニを探してあたりをみまわしたが、ワニはいなくて、木の根元に、ワニをミニチュアにしたようなヤモリが一匹いるだけです。

ニュージーランドの北島は奇妙な極相を示す森林が多いので有名で、亜熱帯の樹木と亜寒帯の樹木が、ひとつの森で冠林をなして、クライマックスを形成している。
ブラジルからもアメリカからも、日本からも、したがって、毎年研究者がやってきて、「なんじゃこりゃ」とつぶやきながら写真を撮りノートを取っている。

バナナの木などは、オークランドの変態気候からすると、お茶の子さいさいで、だから、バナナ特有のしどけないというか、はっきり言ってしまえば、チョーだらしがない感じの成木が、どう表現すればいいか、まとまりのない、ばらけて散らかった感じで、だらっと立っている。

バナナの木は見た目が嫌いなので契約のセトルメントがすんだ途端に伐採してしまったが、土が案外によくて、いまでもいろいろな果物やハーブを植えて遊ぶ。
バジル、コリアンダー、イタリアパセリ、ローズマリー、トマト、なす、各種レタス、レモン、ライム…面白がってたくさん植えすぎて植物園みたいになってしまっているが、ピザをつくって、庭のテーブルで食べているときなどは便利で、もう少しバジルが欲しい、と思えば立っていてバジルの葉を摘んでくればよい。
カクテルのミントも、メキシコビールのコロナに押し込むライムでさえ、おなじ手ですみます。

広尾山のアパートでは、むろん、プランターでハーブを育てることしか出来なかったし、軽井沢というところも、何を育てるのも手がかかるところで、しかも庭は蔓植物やコケが一面に覆っている美しい庭で、掘り返すわけにもいかないので、町営の、月貸の菜園を観に行ったが、そこで観た光景は恐ろしいもので、多分もとはプロのお百姓さんだったひとびとが、丹精をこめて、というよりは全力をふりしぼって、隣地の菜園と競い合って、世にも美々しい菜園が並んでいて、こんなところで野菜をつくったら、それだけで一生が終わってしまうと感じられたので、友人の親切な申し出を辞退して、日本では、野菜や果物、ハーブを育てる楽しみは断念していた。

Twitterで

と書いてから、思い立って、いま、webサイトをあれこれ見てみると、あの人が述べたことは、そのままほんとうというわけではなくて、自給率は80%とかなんとかだったが、スペイン人であれば誰もが持っている安心の源は「スペインは食糧を輸入する必要はないのだから、いざとなれば、それで食べればいいのさ」で、この安心立命の感覚には、スペインを旅行すれば直ぐに納得できる背景があって、あの国は17州のどこに行っても町と町のあいだには「なににも使っていない土地」が広大に広がっている。
フランスのように空き地さえあれば何かに使いたい国民性とは異なって、スペイン人はなにしろスペイン人なので、荒れ地でも岩地でもない土地が、なぜか何にも利用されずに延々と地平まで続いている。
潜在的食糧自給率、というのはヘンだが、実感として「ここにオリブを植えれば食えるよね」と思うのは、人間の自然の感情であると言わねばならない。

調べてみて、そーか、スペイン人はナマケモノというのではなくて、人間がもっと本質的な部分で、余裕をもってのんびりだが、あののんびりの理由はこれか、と思ったりする。

翻ってニュージーランドを考えると、自給率は、めんどくさいから調べるのは嫌だが、たしか500%だかなんだかで、しかもスペインよりももっと農耕可能地は余っているが、食べ物だらけで、最近はバブルで、スーツを着て稼ぐ方が忙しくて、まるで先進国のような顔をして暮らしているが、もともとは、わし母校の研究者が、ニュートンゆかりだからね、と凡庸な冗談を述べながら、二万キロを南下して、りんご園で、りんごを拾うバイトを兼ねて、母国の神の悪意を感じる冬を避けて、夏の、パラダイスをそのまま地上に移転させたようなカンタベリーで研究にやってきていたりしていた。
夜明けとともに起きて、机に向かって、昼間はりんごを拾って、夜は同じ大学の研究者同士でフォークとナイフを両手にもって、農園のおかみさんや厨房人がつくってくれたステーキとマッシュドポテトと温野菜の皿をつついて、隣のヴィンヤードのおごりのワインをたらふく飲みながら議論をする。

そういう生活をしていてマヌケな連合王国の大学人にも判ってくるのは、オカネがいらない生活の素晴らしさで、その頃の南島経済などは牛の挽肉は2キロ5ドル(300円)で、リンゴは、どうしても払いたければ木箱が10ドル550円で、木箱でいるほどジャムをつくったりするのでなければ、つまりはタダでもらえた。

つくってみた人は知っているとおもうが、そうして、ジャガイモなどはワインで酔っ払ったついでに、芽がでて古くなったやつをガレージの裏のそこここに埋めておけば、これでもかこれでもかというくらい勝手に増えるので、ニュージーランドはもともとはつくづくオカネがいらない国で、わしがニュージーランドに土地鑑があってよかったと思うのは、「なにをやっても全然ダメなら、ぬわあにニュージーランドへ行って、リンゴを拾って、ジャガイモをぶちまいて暮らせばいいのよ」で、自分の一生において、なにごとかを企んで、ものの見事に失敗するという起こりがちなことへの恐怖心がまったくなかった。

実家はオールドマネーというのは強いもので、両親に話を聴いても頭に入らないくらい豊かな様子だったが、子供の頃からロビンフッドだのホーンブロワーだのを読んでいて、裏切って実家のオカネで一生を送るわけにはいかないので、問題にならなくて、したがって「借金をしない」ということをゆいいつの経済方針として、
ダメならダメで、友達の農場でファームハンド、つまりは作男をするからいいや、と決めてあった。
南島の農場には、作男専用の住居があって、案外3寝室の立派な建物です。

両親が持っている「牧場の家」は英語でいうホビーファーム、「ライフスタイル」と呼ぶ牧場風の家(1〜5エーカー)と「リアルファーム」(200エーカー〜)のあいだに位置する農場で、子供のときから、ここで馬に乗ったり、牛さんとにらめっこしたり、四輪バギーで横転(←クビの骨を折るのでチョーあぶない)したりしていた。
そこで、農場の面倒をみてくれているJさんから、牛の乳のしぼりかた、羊の毛のかりかた、じゃがいもやリークの栽培、トラクターの運転、屠殺小屋に追い込んで殺す鹿の撃ち殺し方まで、さまざまなことを教わって、未来の作男生活に備えた。

社会の繁栄をGDPや、個人の収入で計るのに現代の人間はなれているが、
では経済がぜんぜんダメということになっていて、実際にも数字をみると、いかにもダメダメなスペインやイタリアを旅行すると、ひょっとして個々の人間にとっての「繁栄」の指標がアメリカやイギリスのような国とスペインやイタリアでは、ぜんぜん違うだけなんじゃない?と思う事がよくある。

コモ湖のLennoからTremezzoへ。郷土料理定食屋をめざして丘の上の道をぶらぶらと歩いていくと、やがて眼下に住宅地が広がり始めて、どの家も道からよく見渡せるが、イタリアの家はたとえば、芝の広がりを愛するイギリスの家と根本から庭というものの思想が異なっていて、あまり小さくもない庭全体が菜園になっている。
定番のトマトはもちろん、カボチャ、なす、さまざまなものが畝をつくっていて、あるいは棚からぶらさがっていて、このあたりのカフェにはいると、ピザなどは卵は鶏舎から、バジルやオレガノは庭から摘んで、足りないものは近所の人が箱にいれて朝もってくる。
大陸欧州では、消費税が高いこともあって、表面から見えるよりも物々交換経済が盛んだが、それも、もともと食べ物を自前ですます下地があるからであるように思えます。

欧州人の思想には、おいしい食べ物があって、そのうえで、これはこれでまたいつか別の記事にしようと思っているが子供の養育を第一子においては親と社会が半々に労力とコストを分け合って、助けあって、第三子ともなれば、社会のほうで手を挙げて、ああ、もうあとはわたしが面倒みますから、というふうになっていれば、自分が住む社会は、それで十分で、それ以上の役割は期待していません、という気持が濃厚に存在する。

夕飯の仕度にスーパーマーケットに出かけるのは、いまでは世界じゅうで見られる夕暮れ時の風俗だが、前史を別にして、Michael J. Cullenが初めて近代的なスーパーマーケットを開いたのは1930年のことで、60年代になるとアジアの街でもスーパーマーケットは個々の商店を淘汰していった。
レジでオカネと引き換えに食物を受け取る、「夕飯の買い物」のイメージは、だから、そんなに長い歴史をもつものではないが、このスタイルで食物を手にする習慣が確立されたことによって、食品は工業製品になった。
パックされて製品化されるまで、いっとき製品に「生命」が宿るだけのことで、鶏肉といえどプラスティックの皿やペーパータオル、トイレットペーパーのような製品と寸分違わぬマネジメントや親会社のローンによる一種の金融支配によって産業が成立していることは、無数のドキュメンタリに描かれています。
このブログにもいくつか記事がある

「プラスティックミート文明」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/05/26/food_1/
「あすこそ仏滅」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/11/07/butumetu/

日本の都会を含めて、都会に住む人間が根本から疎外されて、なんだか立っている地面がおぼつかないような、見るもの聞くもの腹が立つとでもいうような、いてもたってもいられない焦慮に似た虚しい怒りに駆られているのは、このオカネと食べ物が等価である生活のイメージに依っている。

欧州系人の社会ではファーマーズマーケットが昔から盛んで、時間があれば必ず出かける、というほど人気がある。
だいたい土曜日か日曜日に開かれるマーケットには、自家製のチーズやソーセージ、自分の農場でとれた野菜や果物が並んで、どのマーケットも盛況をみせている。

オーガニックブームというようなこともあるが、気持のどこかにスーパーマーケットはなにかが不自然だ、という気持があるからで、これは実際に、ここでは詳しくは述べないが、スーパーマーケットの棚に並んでいる食品には実に70%を越える品目に遺伝子工学製品のトウモロコシからとれたシロップが入っていることで、顧客の勘が正しいのだと判っている。
日頃、ふつうの人間が口にしているのは、食品の外形をもった工業製品である事実は現代の最もおおきな問題のひとつなのでもある。

バナナの木立ちを「見栄えがわるい」というケーハクな理由で、にべもなく切り倒してしまったことへの反省もあるのか、そのあとにはリンゴの木を植えることにした。一回失敗したので、いまは二度目に植えた木が育っているところです。
ヘッジの下にはきのこの原木を並べて、そのうちの数本は椎茸にしてみようかと考える。椎茸は7,8個入っている小さなパックが8ドル(600円)くらいもするので、買うたびに日本での値段を思い出してバカバカしくなるせいもあります。

予期しなかったことは、この裏庭の一角における食べ物の生産量が増えるにつれて、世の中がみるみるうちに違う姿に見えだしたことで、具体的にはオカネというものが必需品であるよりは余剰価値であるようにおもわれだした。
あるいは、単純にオカネを使わなくて、ケチになった。

もしかすると、いままでオカネを使っていたのは、多かれ少なかれ中毒の一種だったのかしら、という気がしてきた。

日本語で書いているのだから日本のことを述べねばならないが、たとえば新潟や長野で農家の人と話しをしていると、「あのね、日本では他人に頼んで代作できないの」と言われたりする。
もしかすると聴き取りそこなって、間違っているのかもしれないが、休耕地というか、要するに、むかしは農耕地だった荒れ地だが、それを誰かに貸したり売ったりしようとするのにおおきな制限があるらしい。

あるいはJAの人と話していると、「日本は食糧の自給率っていったって、あんなの石油しだいだから」という。
意味が判らないので聞き返すと、肥料やハウスにおおきく依存している日本の農業は原油が仮に暴騰すると即死だから、といって笑っている。

面白い事に「たとえば肥料を一定量、割り当てられただけ使わないと次の年に種子の割り当てがこなくなるんだけど、それを、ガメちゃん、SNSで書いてごらん、面白いことが起こるから」という人がいて、やってみたら「わたしは実際の農家ですが、そんなことは起こりえないのを知らないのか」という見知らぬ人からのリプライがたくさんくる。
「あれ、誰かが雇っているんですか?」と聞くと、曖昧な顔で、ふふっ、という。
農業って、闇が深いんですよ、と付け加える。

ときどき、日本のことを考えると、あの国では社会は何のためにあったんだろう?
と不思議な気持で思い出します。
育児を助けてくれない。個人が、具体的には家族4人でせめて200平方メートルは床面積がなければ通常の生活が送れないはずの住居を、せめて10年ローンで買うだけの手助けをしてくれない。
学校は無料ではなくて奨学金は存在しない。
ところがステルス税
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/01/20/stealth-tax/
を加えると、税金は北欧福祉国家よりも取っている!

子供をのんびり育てられず、食糧も工業製品といして流通している社会では、ストローラー(ベビーカー)を押して地下鉄に乗り込んでくる若い母親をにらみつけ、エスカレーターの右側に立って、ぼんやり天井を眺めている、日本社会の暗黙の了解を理解しないマヌケなガイジンの妙に長大な身体の後で聞こえよがしに舌打ちをしたくなるのは、当然の結果なのかもしれない。

ひとつの解決は、「オカネがいらない世界をめざす」ことで、具体的には、まず「都会に住まなくてもいいや」と思う事から始めるのがよさそうです。
廃村の廃屋を、自分で住めるようにして、自給の菜園をつくって、週に3日だけ町に仕事をしにいける生活をめざすのは良い考えかもしれない。
会社勤めをやめて、森のなかで、あるいは海辺で、自分では育てられないものを購う最小限の収入をうるためだけに世の中と関わろうと決意して、近代の理屈に背を向けて、半農の1日の終わりに、砂浜に椅子をだして、大好きな小説家の物語の第1ページを開くとき、同時に、きみは自分の新しい生活のページを開いているのかもしれません。

もう日本語の社会は日暮れなのだから、日本に住みたければ、夕暮れどきには夕暮れどきの過ごし方があるというだけのことなのでしょう。

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ヒロシマ

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日本語で見聞きする太平洋戦争についての話が、あまりに奇妙で、いわば日本が主役の話に書き換えられて、常識と異なっているので、
「ふたつの太平洋戦争」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/
という記事を書いたことがある。

毎年、今頃になると、こんなことばかり書いているような気がするが、日本の人の第二次世界大戦に対する他国との認識のずれは、どこからどうみてもナチが主役の戦争であるのに、自分が脇役であることに我慢できずに、主役をふたりの筋立てに水増しして、ほぼ架空な、民族英雄叙事詩としての戦争を作り上げてしまったことにある。

欧州にいれば簡単に実感できることは人類の理念をかけて戦われた第二次大戦は5月8日に終わったので、その後は、また別の戦争で、いまでいえばより大規模なISとの戦い、というようなもののほうに似ている。
外から見れば普遍性のない教条をかざして、貧弱な火器を武器に、自殺攻撃を繰り返すことで世界のがわに立った「外国人」たちを恐怖の底に追いやることで勝利を手にしようとした、テロを大規模にして戦争と呼ぶ事にした、とでも言うような奇妙な戦争で、軍事的に言えば、厄介な掃討戦とでもいうほかないひと続きの戦闘がVEデー後の第二次世界大戦の性格で、日本側からいえば、前年の6月15日から7月9日にわたって戦われたサイパン島の戦いが終了したときに軍事的には意味のある「太平洋戦争」は終わっていて、そのあとは、本音を言えば自分たちの軍隊という官僚組織が消滅することを恐れて、次から次に理由を捏造して、将校たちが兵卒の生命を大量に使いつぶして、自己の官僚としての延命を図ったのにしか過ぎない。

意味のある戦争が終わってしまっているのだから、当たり前のことだが、VEデー以降、連合軍兵士の戦意は著しく低下した。
ひたすら戦死を恐れるようになった。
楽しみにしていた恋人からの手紙を開いてみれば、欧州戦線から帰還した故郷の町の「英雄」である兵士と付き合うことになったので、ここでお別れにしたい、という手紙であり、ラジオをつければ、故国は毎日毎晩がカーニバルのような大騒ぎで、遠く極東で海でも陸でも、信じがたいことに空からすら、自殺攻撃をひっきりなしにかけてくる、国民がまるごと狂気にとらわれているとしか思えない民族を相手に、発狂しそうになりながら、対空機関砲を撃ちまくり、日本刀をかざして、突撃、というよりは、よろよろと向かってくる痩せさらばえた何百という人間を機関銃で薙ぎ倒すだけの戦場で、そこいらじゅうに潜んでいる狙撃兵に殺され、時に擲弾筒から発射された小型の榴弾で手足を吹き飛ばされる。
そうして、陰湿な戦闘で殺された人間は、すべて犬死にでしかなく、無意味な死で、自殺攻撃という自分の人間としての価値をゼロとみなす敵兵のせいで、こちらの人間性がどんどん安物になってゆく、卑しさに満ちた非人間的な戦場で、終わるべきなのに終わらない戦争が1日延びるたびに、また数人が無意味な死を死ぬことになっていた。

マンハッタン計画に参加した科学者たちですら、自分達が何をつくってしまったか理解していたのは後年、カメラの前で泣きながら「I am become Death, the destroyer of worlds」と述べたオッペンハイマーを初め、ごく少数の人間だった。
政治の世界で政策を決定し、当時ならば戦略決断をする立場だった人間たちに至っては原爆は「なんだかよく判らないが巨大な破壊力を持つ高性能爆弾」というぼんやりしたイメージがあるだけだった。
500機のB29を擁するテニアン基地で搭乗員相手にブリーフィングを行う将校達にしても、強烈な閃光がある、そのあとに急速にキノコ雲がわき上がる、平地の中心にうまく落とせば素晴らしい破壊力を発揮する、という程度の切れ切れの知識を持っているだけであったのは証言を読んでいてもよく判る。

原爆が通常爆弾とは次元が異なる兵器で、人間を文字通りの業火で焼き尽くし、いあわせて即死を免れたものは皮膚をボロ布のように身体からたらしながら苦しみのなかで彷徨し、あるいは肥田舜太郞医師が広島で初めて会った犠牲者のように、「まるで人間の形をした炭が歩いてくるようだった」という酷い火傷をおい、しかも爆発による破壊のあとでも、放射性物質によって被爆したひとびとを苦しめつづけ、喉の渇きから降ってくる雨を口で受け止めた者は次々と死んでゆく、というような到底人間の手に負える兵器でないことが判ったのは、広島市民をギニアピッグとして、データを集めてはじめて判ったことで、現実の広島の惨状を見たものは、日本の側かアメリカの側かを問わず、これが現実に起こりうることなのだろうか、と呻きに似た感想を記している。

原爆の標的は、もともとは軍都で、呉か小倉で、兵士のみを殺すためのものだと明言されていた。やむをえない場合は仕方がないが市民は極力巻き込まない、という説得のための「イメージ」は、現実の投下プランの段階で、軍人らしく、「一発の爆弾での破壊力を最大限に発揮させる」という殺人の効率化のほうへ収斂されていって、結局は原爆ドーム脇のT字橋の直上で爆弾を破裂させるという市民虐殺のほうへ本末が転倒されてゆく。
なぜそうなったかについては、投下作戦としては失敗に終わった長崎の例をみれば明かで、開発にかかった巨大な予算を正当化するためには、「瞬時ですべてを破壊し蒸発させる」、常識を越えた魔王的な結果が得られなければ、マンハッタン計画自体の成果が問われたからでしょう。

8月6日が近付けば、毎年のことで、昨日もヒロシマについてのドキュメンタリを観てあるいたが、エノラゲイの搭乗員たち、開発に携わった人たち、爆弾を現実に投下する決定を行った人達は、異口同音に、「もし原爆を落とさなければ戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」と一様に述べている。

ノーザンプトン級重巡オーガスタの艦上で兵士達と昼食を摂りながら歓談していたハリートルーマンは広島核攻撃成功の電報を受け取ると、その場で立ち上がって
「諸君、われわれはTNT二万トンぶんの破壊力を持つ、たった一発の爆弾で日本の都市広島を木っ端微塵に吹き飛ばした」と述べて居並ぶ将校や水兵たちと一緒に歓声をあげる。

将校から一水兵まで、直観的に、その強烈な新型爆弾の威力が自分たちを日本本土上陸作戦での「犬死」から救ってくれたのだと判っていたと、さまざまな人が書き残している。

そのときのハリー・トルーマンの即席スピーチが
「Come on boys. We’re going home!」で締めくくられたことは象徴的です。

都合が悪いので日本ではあんまり伝えられていないが、その頃、
「なんとか、どこかで一勝をあげることは出来ないのか」が口癖になっていたらしい昭和天皇は、科学者らしく、広島に落ちた「新型爆弾」が、どうやら核爆弾らしいと判って、鈴木貫太郎を説きつけて、なんとか戦争を終わらせないとたいへんなことになると実感する。

It was to spare the Japanese people from utter destruction that the ultimatum of July 26th was issued at Potsdam.
Their leaders promptly rejected that ultimatum.
If they do not now accept our terms, they may expect a rain of ruin from the air, the like of which has never been seen on this earth.

がハリー・トルーマン大統領の広島核攻撃についての公式声明で、つまり、日本政府が引き続きポツダム宣言をにべもなく拒否すれば、日本の諸都市にどんどん核攻撃を行って、国ごと廃墟にしてやる、という宣言だった。
そして、この「空からの圧倒的で一方的な攻撃」というアイデアは、息子たちが感覚として戦争が終わったはずのいまも極東の戦場で死にさらされているアメリカの母親たちを喜ばせた。

日本語世界では、奇妙な事に「現実に戦争を終わらせたのは原爆ではなくソ連の参戦だ」ということになっている。
英語人たちの一般的な理解は「理解不能な狂気によって最後のひとりまで自殺攻撃をする決意を固めていた日本の戦意を打ち砕いて降伏に持ち込んだのは広島と長崎に落とした二発の核爆弾だ」でしょう。

さきほどの「もし原爆を落とさなければ、戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」は、いまでも公式ロジックだが、これを読んで違和感をもたない人は、英語人であれ日本語人であれ、世界を理解するには不足な能力しかない人であるに違いない。

二発の、それぞれタイプの異なった核爆弾は、不幸なことに日本人に「われわれは戦争の被害者なのだ」という情緒を植え付けてしまった。
ドイツ人たちが自分達は加害者であって、非人間的な理念を信じて膨大な被害者をつくったために弾劾されているのだ、という明瞭な意識を持って戦後の再建設を始めたのに対して、日本人は紛うことない加害者でありながら、理屈を避けて、世界でゆいいつ核攻撃を受けた国民であることの、犠牲者としての情緒を前面にだすことによって、表向きは謝罪しながら、内向きには「戦争の被害者」として振る舞ってきた。
どこからどうみても残忍で卑劣なアジアの加害者でしかないことを他のアジアの国々の人々に指摘されると、「じゃあ、おまえにはカネはやらない」と述べ、
加害者であるのに被害者であるふりをする論理の整合性のなさを言われると、苦し紛れに「われわれは欧米の白人に対する人種差別に対して立ち上がったのだ」と、兵士による集団強姦や集団処刑で殺された何万人、何十万人、何百万人という数のアジア人の亡霊達が環視するなかで平然と言い放った。

一方で、自分の一個の肉体で閃光と熱風を受け止め、立ち上がれすらしない瀕死の身体で、線路を這って隣駅の実家にたどりつき、必死に生き延びて、戦後になってみれば「ピカはうつる」と冷たく結婚の道を遮られた個々の人間、彼らだけが「原爆」の意味を知っている広島のひとたちは、疎まれ、存在自体がタブーになって、政治や文学のなかで観念化していく「原爆」を横目でみながら、病んだ自分たちの肉体と、自分達への同胞からの差別との戦いのなかで、生きていかねばならなかった。

すぐに気が付いた人も多いとおもうが
「もし原爆を落とさなければ、戦争は終わらず、本土侵攻作戦の過程で、アメリカ側にも日本側にも数層倍の死者が出たはずで、われわれの原爆投下は人命を救ったのだ。殺したのではない」
という言葉の奇妙さは、そこには質問者が求める「個人」の視点がどこにも存在しないことで、とってつけたような、ただただ原爆投下という行為を「全体」から見ようとしているのが、本来、全体など一顧だにしないはずの兵士の口から出た言葉だからで、つまりは、戦後に判明した核爆弾という兵器の非人間性を知ったあとでは普段の他の諸事に対する習慣どおり個人として原爆投下に携わったことについて述べれば泣き崩れるしかなかったことが感じられるからでしょう。

広島で人類が初めて出会った「人間の言語の想像力の限界を超える力」は、人間社会全体の宿痾である効率への執着によって、やがて核発電に姿を変え、今度はチェルノブイリと福島で、前者が起きたソビエトロシア社会は厄災の深刻さを認め、後者の社会は、まるでそれが通常の事故として処理が可能であるかのような「ふり」をすることにした、という違いはあっても、前者は財政的に破綻して国が消滅し、後者は「嘘」の一般的な力の法則にしたがって、言語自体が真実性を失って、社会が内側から膿み崩れて、社会ごと狂気にとらわれ、到底社会とは呼び得ないものに変わり果ててしまっている。

日本が福島第一事故で平然を装っていることの重大な副作用のひとつに、日本人たちの平静な無表情を見て、「なんだ、核なんてあの程度か」という、それまでは絶対の破壊の神としてすべての言語世界で君臨し恐れられていた核エネルギーの日常への組み込みとでもいうべき人類の思想上の変化がある。
核戦争と核発電事故は、ふたつの「絶対に起きてはならないこと」であったのが、
すぐに大量死が起きたりしないので、なんだ、たいしたことないじゃないか、と述べるオチョーシモノが、科学者のあいだにさえ現れ始めている。

その思想的な変容の恐ろしさは、破壊が、いわば時間を圧縮した形で起きたヒロシマをつぶさにみていけば判ります。
オッペンハイマーが涙をぬぐいながら述べた言葉の意味を、彼の恐怖を、世界の人間ひとりひとりが理解しはじめるのは、むしろ、これからのことなのでしょう。

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鎌倉・葉山

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その頃は、まだ、日本ではカヤックは珍しかった。
砂浜にカヤックを出して、ライフジャケットを着けていると、漁師の人たちが何人も集まってきて、これは何?から始まって、ええええー、前に進むのか、こりゃあ変わってるな、で、もうその頃には日本語が出来て大得意だったので、かーちゃんと漁師おっさんたちのあいだに立って、通訳したりしていた。
自転車みたいなものなんです。
楽しい乗り物なの。
乗ってみませんか?

重いのが欠点だったが、頑丈な船体で、面白がって沖の海面すれすれに顔を出している平らな岩礁に勢いをつけて乗り上げて、上陸して遊んだりして、よくかーちゃんに怒られたものだった。

沖合に出て、陸地を振り返ると、鎧擦(あぶずり)の山が見えて、夏の太陽の下で緑色に輝いていた。
背の低い葉山の丘はいつも誇らしげに立っていて、昼でも夜でも、沖合から眺めるのを、ずっと後になっても楽しみにしていた。

いま考えてみると、監視カメラが付いていたのに違いない。
ゆっくりゆっくり漕いでいるように見えて、ものすごいスピードで、かーちゃん艇が先に行ってしまったのをよいことに、以前から興味があった水路に入ってみようと考えた。
そこは皇室の別荘で、表は、いつ見てもヒマを持て余したような顔をした、それでも腰に拳銃をさした警官が立っているので、要塞じみて、家というよりは一枚の壁のような佇まいだったが、裏は、海に面していて、ゲートもない水路が敷地のなかに続いている。
艇を翻して、水路のなかに入っていきかけると、中から、誇張されているかもしれない記憶のなかでは何十人というスーツ姿の警護の人数が現れて、こっちに向かってなにごとか叫んでいる。
いつのまにか上空にはジェットヘリが飛んでいて、超低空で繰り返し威嚇飛行をする。

いま考えても、びっくりするくらい腕が良くて、しかも親切な操縦士で、殆ど海面と垂直になるくらいに機体を傾けて飛んでいたのは、そうしないとローターが起こす強風で、カヤックが横転してしまうという気遣いだったのでしょう。
目の端に、こちらへ戻ってくるかーちゃんカヤックが見えたので、仕方なく、警護のおっちゃんたちに手を振って、艇体を、くるりと向きを変えて、沖合へ向かった。

義理叔父は、「なんという、とんでもない。昔なら不敬罪で射殺である」という趣旨のことを述べたが、鎌倉ばーちゃんと、かーちゃん姉妹にはうけて、そのときも、ガメが考えることは面白いわね、と賞めてもらったが、いまでも、そのときのことを話しては笑い転げている。

日本にいたときのことを思い出すと、大半は東京で、鎌倉や葉山は、ときどき、学校休みや週末に出かけたのに過ぎないはずなのに、鎌倉も葉山も印象が強烈で、輪郭がぼんやりしている東京での記憶に較べて、鮮やかな形象をもっておぼえている。
なぜだろう、と時々不思議な気持で考えます。

葉山に行くときには楽しみがあって、スエヒロの食べ放題しゃぶしゃぶの店があった。江ノ島にも支店が存在して、行ったことがあるが、どういう理由によるのか葉山店のほうが好きで、しゃぶしゃぶにするかすき焼きにするか、店に向かうクルマのなかで毎度悩みくるったのをおぼえている。

だいたいは、「よりたくさん食べられる」という理由によって、しゃぶしゃぶのほうを好んだが、たまに選択すると、すき焼きの味は新鮮で、行くたびに煩悶は深くなって、あのコンジョナシのハムレットの心境は、こういうものだったのではないか、と考えたりした。

ほんとうは、当時から広島風お好み焼きのおいしい店や、海鮮食堂があったはずだが、外国人家庭の哀しさ、せっかく鎌倉ばーちゃんが教えてくれても、心の琴線が洋風にほどけてしまっているので、触れもせで、空振りに終わって、ケンタッキーフライドチキンや、その頃は小町通りにあった、アメリカ本土のチェーンより、ずっとおいしいエルポヨロコのようなところばかりに出かけていて、いま思い出すと「ガイジンはやっぱバカだなー」と考える。
目の前に面白いものがたくさん転がっているのに、見ているのに見えていない。
食べ物ですらそうなのだから、まして、他の日本の生活諸相においておや。

たいていはクルマだったが、列車で出かけることもあって、その頃はたしか北陸特急の旧車両を使っていたかなにかで、ずいぶん足下に余裕がある、背もたれもいっぱいに倒すと150度くらいにはなっていそうな、広々とした車内だった。
これはこれで楽しみで、東京駅でカツサンドを買って、一家で魔法瓶(←というのは死語だそうだが、こんなに良い言葉をみすみす殺してしまっては気の毒なので、わざと使っている)に入った紅茶を飲みながら、冗談を言い合って、気が向けばカードゲームで遊んだり、というか妹に遊ばれたりしているうちに、あっというまに着いてしまう。
その頃はまだ駅前にダリ美術館があって、宝飾がたくさん公開されていたはずだが、かーちゃんと妹は何度か行ったことがあっても、ぼくは興味がなかったので、ひとりで、あの町以外には、あんな変わった舗道は世界中にランブラくらいしか思いつかない段葛を歩いて、鶴ヶ丘八幡宮に出かけたり、もっと足を延ばして円応寺の閻魔さまに久闊を叙しに罷り越したりしたものだった。

いま考えてみると、夢のようで、まるで異なった社会だったその頃の日本では、ガイジンがまだ珍しくて、いちばん初めに日本を訪問した年には、まだティーカップをもったお盆の手が緊張して震えている給仕の人や、こちらを振り向いて、意味深げに笑っている高校生たちや、田舎にでかけると、こちらの顔を見るなり、ぶるぶるとクビを振って、手真似で、出て行けという店主までいたりしていたが、鎌倉という町だけは、どういうわけか、欧州系人が相手でも、日本の人が相手であるのとまったく変わらない物腰で応接して、居心地のよい町だった。
そういう点では東京のほうが、ずっと田舎で、鎌倉や葉山のほうが都会で、日本の町のなかで鎌倉と葉山を真っ先に好きになったのは、多分、そのせいではないだろうか。

それどころか、常磐の山道をあがって散歩していると、耕していたおばーさんが、そのなかを覗いてご覧、と言うので、コンクリートの枯れ井戸のなかを覗き込むと、マムシが凶悪な顔で、こちらを睨んでいたりして、なにがなし、人なつこい人が多くて、気さくで、日本の人の良いところに触れる機会が多かったような気がする。

ずっとあとになって、モニさんとふたりで日本に滞在した頃は、もう外国人も特別に疎外されるということは、少なくとも表面ではなくなっていたが、それでもモニさんは「鎌倉では自分が外国人という意識をもたなくてすむ」と述べていたので、やはりその頃ですら、空気が異なる町だったのでしょう。

2010年のある日、もうすぐニュージーランドへ向かって発つという冬の初め、なんだかとても鎌倉の町と葉山の海を見たくなってモニとふたりで出かけることにした。
その頃はもうグリーン車が飛行機のエコノミークラスよりも小さな座席に変わりはててしまっていて、シートを回転させて向き合って座らないと足が入らない車両になっていたので、列車では無理なので、クルマで出かけた。

子供の頃、少し込んでいると二時間半かかっていた鎌倉への道は、高速道路の数が増えて、1時間足らずで着いてしまう。
逗子でおりて、逗葉道路で、なつかしい100円玉ひとつを渡すと、にこにこしたおっちゃんが、「気を付けて」と述べるのに、さんきゅーとわざわざカタカナ発音で応えて、葉山の丘をのぼる。
急な傾斜の坂をのぼって着くホテルのコーヒー店のテラスからは、ちょうど西日をうけて、輝くばかりの相模湾が見渡せる。

他に誰も客がいない午後の、白を強調したテラスで、モニとふたりで立って、綺麗だねー、と言い合う。
吐く息が白くて、モニさんの頬はみるみるうちに薔薇色になって、ほんとうはアンドロイドなのではないかしら、といつも思わせる、 美しい横顔を見せている。

ガメ、ここに来るのは、これが最後かもしれないな、とモニが言う。
モニには珍しく感傷的なことを言う、もう長期滞在ということはないが、欧州とニュージーランドのあいだにある国だもの、またストップオーバーで何度も来るに決まってるやん、と述べると、
そうだな、とは呟くが、まだなにか言いたそうにして、でもそのまま口をつぐんでしまう。
マフラーを巻き直して、コサックみたいだ、とときどきからかう黒いふかふかした帽子を、ふざけて少し深めにかぶり直して、こんなに反射光が強い海なのに、サングラスを外して見つめている。
なんだか本当に最後だと思っているようなので、びっくりして見つめていると、突然、ぼくの手のひらをつかまえて、ぎゅっと握りしめる。
モニが、ガメ、ここにいて、わたしのそばにいて、永遠に離れないで、と瞬間に考えたときの癖です。

モニにしては、おおげさな感情で、不思議だった。

それから三ヶ月で福島の原発が爆発した。
あの、まるで安物の特撮みたいに見える、するすると伸びていく黒い水を、オークランドの家のラウンジで、ふたりで並んでカウチに腰掛けて、強張った顔でみつめていた午後を昨日のことのように憶えている。

そのあとは日本は記憶のなかだけに存在する国になった。
プロの写真家で十分通用するくらい写真を撮るのが上手なモニさんは、よくカメラを持って歩いて、モノクロームの写真をたくさん撮影するが、このときも手にカメラを持っていたのに、目の前の美しい海を撮ろうとはせずに、ただ一心に見つめていた。
まるで、死にゆく人を看取るように、愛情をこめて、でも二度と会えないことを知っている人の目で、葉山の海を見ていたモニを思い出す。

六年後、欧州からの帰り途、二泊だけの旅で日本を再訪したが、そのときの感想は不思議で、再訪自体はとても楽しかったのに、以前に住んだことがある国だとはどうしても感じられなかった。
観光で訪れた見知らぬ国のようで、自分が日本語を理解出来る事すら奇妙に感じられる旅だった。
日本は、もう知らない国になってしまっていた。
モニが見つめていた日本は、たしかにあの年を最後に、この地上から永遠に去ってしまった。

あの輝きを最後に残して。

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