初心者のペナン_1

黒いSUVを4,5台連ねた一団が正面玄関に到着すると、なかから、ニカブをかぶった黒装束の女の人の一団が子供達と一緒に降りてくる。
とても礼儀正しい一団で、リフトのドアを開けて待っていると、「わたしたちは、まだ時間がかかりますから、どうか先にいらしてください」と述べる英語が、心地よい発音の見事な英語で、どうやらアラブ世界の上流階級の人々のようでした。
ニカブでバシッと決めた女の人たちと、無茶苦茶行儀がいい子供たちの後から、銀髪のおっさんがおりてきて、オットーさんであるようだったが、ポロシャツにショーツで、まるでわしであるかのようなノーテンキないでたちで、ひとりでマヌケな感じを漂わせているので、我が身を省みて、おもわぬ親近感を抱いてしまった。
天女が舞い降りて人間のふりをして歩いているようなモニに並んで、見るからにデヘヘへな姿のわしは、だいたい、他人の目には、このおっちゃんのように見えているのではあるまいか。

マレーシアは中近東のイスラム人たちから観ると、イスラム世界の最東端のひとつであることに加えて、文化や生活の面での非イスラム世界との緩衝地帯という側面を持っている。
ペナン観光の中心地のひとつにあって観光客でごったがえすGurney Plazaの地下の、東京でいえば紀伊國屋スーパーかナショナルスーパーに当たりそうなスーパーマーケットに行ったら「NON HALAL」というでっかい看板を出したサラミ屋があってモニさんとふたりで大笑いしてしまったが、この頃は世界のどんな町に住んでいても「Halal」という看板は見慣れたものになっていても「NON HALAL」という看板は初めてで、マレーシアだのお、と感心します。
ジョージタウンという町は、一面、シンガポールを中心とした客家移民文化圏とインドネシアやマレーシアを中心とするイスラム文化圏の、摩擦の多い、表面は宥和的でも深層では鋭く対立しつづけるふたつの強力な文化圏が、ブルが頭をぶつけあって、角を交叉させてゴリゴリゆわせている東南アジアの最前線でもあって、シンガポールが独立せざるを得なかったのも、そのためだったことは誰でも知っていることであると思います。

スラマッパギ〜(おはよっす〜)、と脳天気に述べながら朝七時半のディムサム(点心)屋へ入っていくと、もう客は二巡目か三巡目で、なにしろ朝6時から開いている店もたくさんあるくらいで、エネルギー最充塡で、働き者のマレーシア人たちは、どんどんオートバイにまたがってでかけてゆく。

衛生的でなさそうなものは、いっさい口にしないモニさんは、ジャスミンティとセサミボールだが、およそゴジラが食べられそうなものなら、なんでも食べて、いつかはイギリス人とオランダ人の八人のグループでバンコクで食事に出かけて他の7人とも重篤な食中毒で病院に搬送されたのに、ただひとりなんともなくて、「不死身」「生きた解毒剤」と謳われたわしのほうは、なあんとなくたまり水で食器を洗う店の人の手先に視線を送っているモニさんの正面に腰掛けて、ガツガツと、焼売やチャーシュー饅頭、豆腐の魚肉詰め、揚げ豆腐と貪り食べている。

ペナンは地元の人が喜んで認めるとおり、町全体が食道楽のヘンな町で、しかも英語でいうcheap eats、日本語でいうB級グルメに特化していて、考えてみると、記憶のなかの日本の人の生活の好尚にぴったりあいそうな町でもある。

実際、空港でも町中でも、たくさん日本の人が右往したり左往したりしていて、見た目ではもちろん、数字の上でも人口の40%を占めると地元人が述べていた中国系マレー人や、中国人、韓国人と区別がつかないが、例えばすれちがいざまに、あっ、いまの人、日本語で話してたな、と思う事が何度もある。

海辺のGurney Plazaからは離れたところにある島の東北端の旧市街にはGAMAという恐ろしげな名前のスーパーマーケットがあって、ペナン人が、あの日系スーパーは50年以上前からあるのさ、と、うそおおおんなことを述べていたが、そのスーパーに限らず、あっちにもこっちにも日本の食品や製品が並んでいて、Prangin Mallにはベスト電器まであるので笑ってしまった。

笑ってはいけないが、日本のプレゼンスが世界中で後退・縮小しているいまの世界では、数少ない「ニッポン」が目立つ町で、なるほど、だから日本の人がたくさん年金生活をしにやってくるのね、と、正しいか正しくないか、えーかげんで判然としない納得をする。

シドニーやメルボルンで、おおきな企業でマジメに勤め上げれば月に30万円〜40万円だという年金をあてにして退職生活をするべく計画して移住してきた日本の人達は、オーストラリア経済の大繁栄とともに生活費高についていけなくなって、あらかた日本に帰らざるをえなくなった、とニュースになっていた。
ニュージーランドでも事情はおなじで、まだいまのところは生活費が落ち着いたレベルのクライストチャーチには残っているが、オークランドにはとてもではないが住めなくなって、日本に帰らざるをえなくなったひとが多いようでした。

ペナンは、例えば一杯のチャーシュー麺が7リンギ(180円)くらいで食べられるところが、通りの、あそこにも、ここにも転がっていて、しかも味の水準がびっくりするくらい高いので、おなじチャーシュー麺が14NZD(1200円)はして、このチャーシュー、なんだかヘンな臭いがするんじゃない?の、オークランドとは較べるべくもない、自分が月30万円の年金を頼りに暮らす日本人年金生活者であるとすれば、やはり、一も二もなくペナンを選んで住むだろうと思います。
ペナンは、日本の人にとってはパラダイスなのではなかろーか。

英語人にとっても、楽ちんなところがあって、地元の人は英語は覚束なくても、なんというか、マレー語を話せないアンポンタンな英語人に馴れている。
ひとの国にやってきて、あろうことか英語でまくしたてる横柄な態度に対して歴史が培った寛容で接する術を知っているので、タイランドのような国に較べると、英語人にとっては格段に楽です。
アジアだとはいってもコモンウエルスなので、例えばスポーツの趣味は共通していて、普段の生活にバドミントンやスクォッシュ、テニスが溶け込んでいるのはニュージーランドとまったく変わらない。

マレーシアは歴史的にコモンウエルスのなかでもニュージーランドと結び付きが強い国で、例えばColombo Planによって、富裕なマレーシア人の子弟は大量にニュージーランドに留学してきていた。
中国人や日本人が土地開発に大金を投入しだすまでは、ニュージーランドでアジア系の投資家といえば、だいたいにおいてマレーシア人だったのでもあります。

珍しくも用事があってペナンに来ているが、なにしろ大庭亀夫さんの「用事」などは、遊んでいるのと区別が判然としない「用事」なので、大半の時間は好物のNasi KandarやNasi Lemakの探索に費やされている。
あるいは子供のときからTe Tarik評論家なので、広々とした店内の天井で、ゆっくりとシーリングファンがまわっているカフェに座って、一杯1.5リンギ(40円)のテタリックを飲んでいる。

ペナンはマレーシアのなかでも客家的な町だが、人気(ひとけ)のないカフェで、そうやってのんびりテタリックを飲んでいると、中国圏であるよりもマレーで、マレーシアはいいなあ、と思う。

ありがとうは、テリマカシ、で、どういたしましてはサマサマだけど、甘くないアイスコーヒーは、コピ オー コソン アイス、かな?

コソンと言えば、0,1,2,3,…は、コソン、サトゥ、ドゥア、ティガッだよね。
ティガッまでは簡単におぼえたが、4のアンパッをすぐに忘れてしまう。

頭の中で、ぶつくさとつぶやきながら、クソ暑いカフェのテーブルに座って、なんだか幸せである、と考えました。

(画像はte tarik 英語人はテタリックと言うが、ほんとの発音は、カタカナでは「テタレ」に近い音だとおもいまする)

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Do you speak Japanese?

毎日の生活で日本語をまったく使わなくなって7年経つ。
それまでも日本に住んでいても日本人の友達は少なかったせいで、生活自体は英語と少しのフランス語で、日本語を使う機会はとても少なかったが、日本にいるのといないのとでは、やはり何かが根っこから異なるようです。

まず初めの症状は日本語の本を読めなくなってしまった。
最盛時は、おおげさにいうと、英語で本を読むのとたいして変わらない労力で日本語を読めたが、英語圏にもどると、瞬く間に日本語が読めなくなった。
長い文章がぜんぜんダメで、読みだしてしまえば、それでもなんとかなるが、読みだしてエンジンがかかるまでがたいへんで、もっかの感覚では、日本語よりも能力が低いはずのイタリア語のほうが読みやすいくらいまで落ちぶれている。

比較的簡単に読めるのは自分が書いたブログとツイートで、なんだか自分の足を食べる鬱病の蛸みたいで良い気持ちがしないが、事実なのだから仕方がない。

いちばん、ぶっくらこいたのはマストドンで、日本語のひとびとが、楽々と500文字を使い切って、ツイッタとは打って変わった、自分の思考の深い場所からくる考えを述べきるのに、こっちは青息吐息で、書くのはもちろん、読むのも大変で、予想を遙かに越えてダメだった。

説明するのもめんどくさい、インスタンスのなかで日本人独特と言いたくなる村感情がいっぺんに出来て辟易したせいもあるが、這々の体で日本語マストドンをやめにして、もっかは大陸欧州語アカウントに切り替えてしまったのは、どちらかといえば500文字が言語体力的に厳しかったせいであるようです。

理由もわからず不思議なのは古典日本語のほうが現代日本語よりも読むのに楽なことで、現代日本語よりも、例えば俊頼髄脳に親しみを感じる。
その感覚は、70年代以降の日本の映画の大半は殆ど嫌悪感をもってしか観られないものが多いのに、50年代と60年代の日本映画は、バカみたいに繰り返し観ていて、小津安二郎や黒澤明はもとより、液体人間でもマタンゴでも、何度観てもあきなくて、ほとんどBGMのように流していても、いっこうに苦にならない感覚と似ている。

有名な

いづれの御時(おほんとき)にか。女御(にようご)、更衣(かうい)あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際(きは)にはあらぬがすぐれて時めき給ふありけり。

に、すでに象徴されている、独特の、おだやかな海がたゆたうような日本語の思考のリズムが好きなので、日本語をやめてしまう、ということは考えられないが、ますます「自分語」と化して、誰にも読めない言語で、こっそりと自分が考えていることを書き留める、という用途に特化されてゆくのではなかろーか。

正直に述べて、日本の社会は、誰にも救えないところまで堕ちてきている。
いくつかの節目があったが、まず福島の大震災のあとに福島第一発電所の事故について社会の基幹の側が嘘をついて事件を収めようとしたことは、日本語と日本社会におおきなボディブローだった。
権威でくるんだ恣意を、どうやれば真実と置き換えられるかという悪魔の知恵を日本人は学んでしまった。

日本語の優美をつくっている、言語として、あらゆるものを相対化しうる能力が、悪い方に利用されて、真実そのものが相対的なものになって、恣意が真理よりも優位に立つことになってしまった。

考えるまでもなく、言語にとっては、真理性や現実と自分を切り離してしまうことは自殺行為で、当然の帰結として日本語はかつての普遍語からどんどん転落して、外国語として日本語を眺めている人間の目には、傷ましいことに、いまの日本語は言語としての体をなしていない。
意味があることを述べようとしても、周囲の顔色をうかがって、肯定してもらえるかどうかをまず考えてから何事かを述べるしかない言語に落ちぶれてしまっているし、社会に目を転じても、糾弾と罵りあいの技法が巧妙になってゆくだけのことで、言語として自我や自己の信念を構築して、その自分が信じていることどもと相手の信念との違いを検証するという議論の基礎中の基礎まで破壊されてしまって、日本語での議論という言葉は、阿鼻叫喚の同義語であるところまで落ちぶれてしまっている。

現代英語を救ったのは、移民たちの「ブロークンイングリッシュ」だった、という話を前に書いたことがある。
自分達が幸福に暮らせる生活を求めて英語社会に大量に流入した移民たちは、激しい勢いで英語自体を変えていったが、ここで長々しく説明する気はしないが、異文化が英語を使って自分たちを表現しようとする強い衝動は、英語自体を変えてゆくのに十分なエネルギーを持っていた。

語彙においてもpostponeから派生語としてインド人たちが発明したproponeのような単語にはインド文明の時間に対する思想が色濃く反映しているし、My daughter is convent-educated のような表現は、そもそも英語が多文化社会化しなければありえない表現なのは言うまでもない。

無理矢理他言語を呑み込んで「星の王子様」の象さんを呑み込んだヘビの帽子みたいになった英語は、しかし、なんとか消化して、いったん消化してみると、英語自体が伝統英語に較べてより多くのことを言いうる言語になっていった。

日本語は、ちょうど反対の方角へ歩いていってしまった。
日本社会は、ほとんど自覚症状もないうちに、社会がまるごと、ひどいゼノフォビアに陥ってしまったが、それに伴って世界を表現する力そのものが弱まって、いまこの瞬間にパッと思いつかないが、例えば「映画を鑑賞する」という。
いつかツイッタで「映画メッセージを鑑賞しました。素晴らしい映画でした」というツイートを見て、なるほどこれは困ったことになっているのだ、と考えたのを思い出す。
「メッセージ」がArrivalのことであるのは、前後のやりとりを読んでいるうちに判ったが、あの映画を「鑑賞」されてしまった制作者のほうは、どんな顔をするだろう、と想像すると可笑しかった。

日本語は日本語のなかで堂々巡りを始めていて、外との接点を失ってしまっている。新聞のニュースの見出しが社会の関心を反映しているものだと仮定すると、日本語ニュースの、「ほんとうに同じ世界に住んでいるのだろうか?」とおもう見出しの排列は、びっくりするようなもので、日本語人全員が外からはそこに何が立っているのか見えにくい内側の中心を向いて立って目を凝らしていて、外の世界への関心は、内側にある水晶球に映って始めて関心を呼び起こされる体のものであるようです。

そういう社会の性向は、常に細部に端的にあらわれるもので、例えばオリンピックで日本選手がブロンズメダルを手にした、というニュースをみると、ぶっくらこいてしまうことには、1位と2位が誰であったか書いてない。
「日本人が世界の場で3位になった」ということだけが重要で、他の他国人のことなんてどーでもいい、という社会的な常識が背景にあるわけで、ちょっとついていけない気がする。

そのくらいのことでおおげさな、という人がいそうだが、英語世界では、「いったいどうしてこの人は見返りさえ期待できないことに自国民が犠牲になるようなことばかり他国に申し出るのだろう?」と訝られている外交音痴を絵に描いたような安倍晋三首相が、「外交が得意」ということになっているのだとしって、椅子からずりこけるくらい驚かされたりするのは、結局、おなじ文脈にあって、みなが世界に対して背中を向けて立っているからだとしか思われない。

言語は美を失うことによって死ぬ。
日本語の美は、映画でみると60年代に、文学でみると現代詩が死んだ70年代に死んでしまったように見えて、80年代になると、卑しい言語がちょうど外来のウイードが猖獗するように在来の日本語を制圧して、普遍語どころか地方語としても機能しなくなっていった。
そのことには、本質的に日本語の側からの批評・編集作業でしかない翻訳を中心とした日本語の外来文化の取り入れかたが、世界と足並みを揃えて議論しながら自分達を変革してゆくために必要な情報の十分の一も供給できなくなったことや、多分、大学受験をめざす教育に由来している言語の機能そのものへの誤解がおおきく働いている。

言語を喪失することは、そのまま社会の喪失であって、日本の現在の混乱と低迷と、それを解決しようとして身動きするたびに悪い方へ社会が動いて行くという特徴は、区区とした政治的社会的な誤判断よりも、より本質的で文明の深いところに理由が根ざしているように見えます。

ちょうど新しく競争力のある産業を育成する地道な努力を重ねるという最も根本的な努力を放棄して、秀才たちが机の上で描きあげた「株価をあげればすべては解決」とでも言わんばかりの、世にもケーハクな経済政策だったアベノミクスが、国富を喪失して、国民は貧困化するという世にも惨めな失敗に終わったのとおなじで、崩壊した言語を再生させる努力もなく、例えば英語教育に力をいれても、そもそも言語というもの自体への考察を欠いた「国際人として活躍するための道具としての英語」など、いくら上手になったところで、突然人間の言葉を話しだした犬さん以上の喝采が得られるとはおもえない。
まして、文明としてなにかをうみだす社会になるはずはなくて、文明として本質的な新しい価値を世界に付け加えることが出来なかった言語社会が一過性でない繁栄を獲得した例は歴史には存在しない。

いままで20年間を費やしてきた小手先の工夫では日本には破滅しか待っていないのだという現実を、日本語人全体が見つめるべきときに来ているのだとおもいます。

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マクドナルドとレイ・クロック

Ray Krocというひとには昔から興味がある。
いうまでもなくマクドナルド帝国を一代で作り上げた人だが、52歳になるまで、やることなすことダメで、しかも理由は傍目にはあきらかで、ビジネスアイデアをからきし持てず、取り憑かれたようにたいしたことのないアイデアに夢中になっては、周囲の失笑を買う体の人だった。

伝記映画「The Founder」にも出てくるが、すがりついている信条はただひとつで、「才能と人間の成功は関係がない。persistenceがすべて」という、身も蓋もないことをいえば、1950年代当時の自己啓発セミナーにいけば、どんな講師も述べることを、ただ親鸞が法然の教えをひらすらに信じたように信じていただけで、そういう言い方をすれば、信念の持ちようにいたるまで凡庸な人だった。

自分に才能とセンスがあると思い込んでいる人間は、十中八九失敗する。
簡単なことで、自己に対する批評能力の持ち合わせがある人間が、20歳をこえて「自分には衆にすぐれた才能とセンスがある」とおもいうるなどということはありえないので、つまり鏡に映った自分の顔を評価する能力を欠いているだけのことだからです。

自己に対する批評軸を持てない人間に成功のドアを開けてやるほど世の中は親切にできていない。

 

幸い、わが光輝あるドビンボパートタイムゲージツカ時代や徒弟アカデミア時代に知り合った、やたら鼻っ柱が強かったり、自分が天才であることを理解できない世の中を呪って罵倒していたりした仲間達は、みな大半がゲージツカから芸術家に表記が変更されて、今度は「世の中なんて、あまいもんじゃん」と恐ろしいことを述べているが、もちろん視界の隅には死屍累々、自称天才の生きた屍が山のように積み上がってもいて、その冴えない死体の山は、あんまりたいしたことがない20ワット電球くらいの才能を、世にも稀な太陽の輝きと錯覚した人間によって主に占められている。

一方で自己評価能力を完全に欠いた「自分には天賦の才能がある」と頭から決め込んでいる天才というものも存在しないことはなくて、誰でも知っている例を挙げればモーツアルトやピカソがそうだったが、そういう人間には25歳前にはどんな条件でも頭角を現しているという厳然たる事実があって、そうでない自称天才は、オックスフォードやケンブリッジ、MIT、ハーバードに行けば山のようにいるが、どれも二束三文の秀才で、頑張れば准教授かうまくすれば教授で研究職にはとどまれることがあるが、やっていることの価値からいえば、まとめて薪にしてログバーナーで燃やしてしまったほうが世の中のためであると言えなくもない。

学問以外でも投資のような仕事をしていると、自薦他薦の天才あるいは天才風にもたくさん会うが、話してみるのは面白くても、能力や着想そのものは、「あんた、その程度で突出していると思っていたらあかんがな。どんなに上手な絵でも、残念ながら才能の光がない絵は、他を引き立てる「地」にしかなりまへんで」と述べたくなる人ばかりで、言っても聴きやしないのはわかっているので、せいぜい礼儀正しく「なるほど、わかりました」としか言わないことにしているが、ドアが閉まったあとに、さて、ああいう人は、これからどんな一生を送るようになるだろう、と不吉な予想をめぐらすことはある。

Ray Krocの成功の原因は、初期においては、マクドナルド兄弟と出会って、Ray Kroc自身では決して持ちえなかったレストランのキッチンの合理化、それまでは20分は優にかかっていたハンバーガーを、待ち時間30秒で、より高い品質で提供するというアイデアとスピード調理に特化したカスタムキッチンという、アイデアを実現する方法をもっていて実際に成功した店を運営していた兄弟に出会ったからだった。

ためらうマクドナルド兄弟を、持ち前の熱弁で説きつけて、自分をフランチャイジーにすることを認めさせます。

そうして数十店規模のマクドナルドハンバーガーチェーンを成功させたところで、今度はHarry J. Sonnebornとの邂逅によって、レストラン事業がビジネスモデルであったものを、マクドナルドの名声と人気を使った不動産開発業へとビジネスモデルを変更して、それがマクドナルド帝国の原動力になってゆく。

余計なことを書くと、ビジネスに興味がある人には、ここがちょっと面白いところで、このマクドナルドの不動産開発によって莫大な収益をあげてゆくビジネスモデルを、元のレストランビジネスに戻して日本でマクドナルドを展開したのが藤田田で、実際、ビジネスとして眺めると、扱い商品と名前はおなじでも、アメリカと日本のマクドナルドでは全く異質なビジネスであることは、よく知られているとおもいます。

あくまで、良心的な「おいしいハンバーガーをだす店」にこだわるマクドナルド兄弟を、オカネモウケのための足手まといと感じだしたRay Krocは、ありとあらゆる手で商標権を兄弟からまきあげようとする。

兄弟の兄のほう、Maurice McDonaldが病気で倒れたりしたのをきっかけに、$2.7Mとマクドナルドの売り上げの1.9%をロイヤリティとして払うことを条件にRay Krocは、晴れてマクドナルドの商標を手に入れる。
Krocの自伝や、映画では、描き方を和らげてあるが、現実には相当ずるい手を使って商標を奪取したことは、契約に明記されていないことを口実に1.9%のロイヤリティは、結局、いちども払わないで終わったことを記せば十分でしょう。

アメリカのプラグマディズムには、現実に適用されるときに現れる面白い側面があって、例えば、どこの師団でも編入を拒否したアフリカンアメリカンの兵士たちを、将軍たちのなかで積極的に受けいれたのは北欧神話を信仰し、軍隊のなかでは人種差別主義者の権化のように思われていたGeorge Pattonで、びっくりしているアイゼンハワーに述べた「ドイツ野郎を皆殺しにするのに役にたつなら、白くても黒くても、おれは気にしない」という科白は有名になった。

当時、就業機会に恵まれなかったユダヤ人やアフリカンアメリカンや女の起業家たちを、Ray Krocは、フランチャイジーとして、どんどん受けいれていきます。

経営技術的には、徹底的な手続き主義で、しかも現場にそれを細部に至るまで実行させることに固執した。
一例を挙げると、マクドナルド帝国が完成したあとでさえ、自分の執務室から通りを横切ったところにある一支店に出かけては、フレンチフライを揚げる時間が10秒長い、ゴミ箱の周りが定時に掃除されていなかったとマニュアルのうち遵守されていない点をあげて糾弾したという話で、有名な「どのハンバーガーにもピクルスは二枚」のようなことから始まって、どんな細かいことでも、どのレストランでも同じにすることがRay Krocの「マクドナルド主義」の秘密だった。

人間的には、客観的に述べて、どこからどこまでもbastard(クソ野郎)だったRay Krocは、日本語なら「糟糠の妻」という、自分という成功とツキから見放された、糖尿病患者の、周囲からは成功の夢ばかり見ているマヌケとみなされていた男を支え続けて来た苦労時代の妻エセルに隠れて、自分を信頼したフランチャイジーのRawland Smithの美しい妻Joanと12年のダブル不倫を続けて、苦労を共にした妻を捨てて、相手の夫から掠奪する形で結婚する。

このJoan Krocは、ビジネスマンとしてだけでない名声と栄誉を手にいれたかったRay Krocにいまでもたくさんの子供を癌やほかの不治の病から救いつづけている、ピエロがトレードマークのRonald McDonald Houseを含む慈善事業を通じて、Ray Krocが望んだ栄誉を与えることに成功します。

52歳の負け犬然とした中年男が、自宅を妻に内緒で担保にいれて始めたマクドナルドハンバーガーは、「マクドナルドを、どの町にもある教会とおなじ存在にするのさ」というKrocの大言壮語そのままに、あっというまにコースト・トゥ・コーストどころか、世界帝国に成長して、1984年にKrocが現役のまま心臓病で死んだときには、8300店を数えるようになっていた。

以前、

シャーリーズ・セロンの場合/ 生活講座 番外編
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/01/20/survival-kit-e/

を書いたときに、レイ・クロックの例を挙げたら、「そんなビジネス上の成功などは成功のうちにもサバイバルのうちにも入らない」と言いに来た人が何人かいた。
まるで子供のようだ、と、日本の人らしい自分の人生に対する無責任ぶりに、へえ、と考えたが、それは、厳しいことを言えば人間の世界というものに対する洞察力を欠いた、「なにもしない人の意見」だと言わないわけにはいかないよーです。

「人間はとにかく食わなければいけないのだ」というような退屈なことを述べているのではなくて、人間の一生の面白さは、自分がどんな才能の持ち主であるのか、まずたいていは知らないまま暮らしていくほかないことで、自分にとって興奮を呼び起こされて、夢中になることは、それが音楽であるのか、絵画であるのか、数学なのか、ビジネスなのか、そういうカテゴリだけではなくて、自分がどのようなタイプの考えを気に入っているのかさえ、自分ではよく判っていないことに起因している。

文無しで、凡庸で、道徳心に欠けた病気持ちの中年男だったRay Krocは、一方では、自分では考えもつかなかった他人のビジネスプランで、斬新なものに出会うと、損得を忘れて夢中になって話し込む人でもあった。
その「熱」が、誰にとっても「うさんくさいセールスマン」にしか過ぎなかったRay Krocに、たくさんの人が付き順った理由でした。

Ray Krocの一生は、「人間は、どういう条件が与えられると成功するのか」ということについて、ビジネスに限らず、膨大なヒントを提供している。
しかも、どこにでもあるマクドナルドのゴールデンアーチを見かけたり、モニの目を盗んでこっそりビッグマックを食べたりするたびに、Ray Krocの摩訶不思議な一生をお温習いできるので、それだけでも、わしは感謝している。

兄弟の若いほう、もともとのマクドナルドのアイデアの発案者である「ディック」マクドナルドに、「なぜ、きみは、そんなにマクドナルドの名前にこだわるんだい? 初めて会ったとき、ただでスピーディキッチンを全部見せてあげたんだから、ぼくらには黙って違う名前でやればよかったじゃないか」と聴かれたRay Krocの答えは、「McDonaldは、ハンバーガー屋の名前として最高だからさ。
なんとかバーガーやバーガーうんちゃらじゃ、ぼくなら食べに行く気はしないね」と事も無げに応えたという。

Krocはビジネスマンとしての自分の天才がどこにあるのか、成功したあとでさえ自分でも全く知らなかったわけで、ほんとうに人の才能というものは、誰にもどうにも全く判らないものだ、と、その逸話を思い出すたびに考えます。

だから素晴らしいのだけど。

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三島事件へのメモ

四谷駅から、麹町とは堤を挟んで反対側の、外堀通りの坂をおりてゆくと、靖国通りと合流するところで、市ヶ谷総監本部がちょうど左側に見える。
東京の電車に乗るのは、地下鉄にしろ、JRにしろ、人間がぎっしりで全然無理だったので、東京にいたときは、タクシーか歩きか自転車だったが、飯田橋に出るこの方角に行くときは、快適なのでよく自転車で出かけた。

ちらっと左側を振り返るたびに、あれが三島由紀夫が割腹自殺したビルだよね、と飽きもせずに、性懲りもなく考えて、いったいどういう事件だったのだろう、と1970年に起きた、その風変わりな事件のことを反芻したものだった。

三島由紀夫という人は、デビューが早かったせいもあって、戦後文学であるよりも戦前の文学者群に連なっている。
谷崎潤一郎の世代の絢爛たる日本文学の空気を、戦争をはさんで、戦後にまで持ち越した人です。

「三島由紀夫の詩的な文体」と書いた人が以前に存在して、首を捻って、それはいくらなんでも逆だろう、と思ったりした。

島崎藤村は、詩人から小説家に変身するにあたって、詩的言語では散文がつくれない、あるいは散文の美が形成されないことを発見して、「千曲川のスケッチ」という、日本の近代文学のなかで五指にはいる素晴らしい文章を残している。
若い頃にはすぐれた詩人だった藤村が、やはり詩人で、親友だった北村透谷とおなじ運命をたどらないですんだのは、藤村が散文と詩の言語を峻別したからであるのは、あんまり文学の素養などなくても、両方を較べて読めば、かなり簡単明瞭に判ります。

三島由紀夫はそこから、さらに一歩散文側にすすんで、詩的でない表現であるどころか、中期以降は、すでに現実の日本語社会では死語になっていた表現を、螺鈿細工のように鏤めることによって、世にも美しい文章を残した。

その選択が意識的なものであったことは、川端康成たちの証言を読まなくても、ごくごく初期の幻想小説である「煙草」のようなものを読めば、これも簡単に納得できます。

三島は戦後文学の、どの系譜にも属さないことによって、孤独な地位を保っていた。
思想的には、流行らないどころか、とうの昔に奇矯とみなされていた天皇国家主義者だったが、ダヌンツィオ的な美学上の政治嗜好であったことは、楯の会の制服のデザインひとつみても判る。

案の定、正統右翼の日本人達も、扱いに困って、イロモノ扱いで、まあ、作家先生のやることだから、わたしらのような根っからの右翼には判りません、というような発言が多く残っている。

案外と、当時でも三島由紀夫の「政治的主張」なるものは、彼の文学の一部だとみなされていたようでした。

初めて読んだ三島由紀夫の小説は、英語版の「春の雪」で、ものすごく退屈な小説で、いったいなぜこんなものが英語でも日本語でももてはやされたのだろう、とひどく訝しんだのをおぼえている。

そのあと、というよりも、そのずっとあとで、「近代文学同人」のような戦後文学を、日本語の勉強のために欠伸を噛み殺しながら読み進めていて、吉行淳之介の、真に底意地の悪い「スーパースター」という、バーでみかけた三島由紀夫を、孔子を嘲笑う長沮・傑溺よりもさらに質が悪い皮肉な目で描写した短編小説を読んで、ふと興味が蘇って全集を買い込んで片端から読み始めて、だんだんに惹かれていって、ひと夏が終わる頃には、偉大な小説家と認識するようになっていた。

三島由紀夫の小説は、挿話がたくさん詰め込まれている。
一場の情景が完結的に描かれて、焚き火の前で着衣を脱ぎすてる海女や、炎上する金閣とともに、読者の心に長く残る印象を刻印する。

なかには、文学史に残る、という大時代な言い方をしたくなる、唸るような挿話があって、取り分け、極めて薄汚れた事件を描いて、汚濁した穢れの美を描く後期の三島の常套手段は、その、作家の人間性への絶望の深さに由来する巧みな希望のない暗黒の美で、虜にされるのに十分だった。

公刊時、ほとんどまったく、と言ってよいほど評価されなかったらしい四部作に観察者の知性そのものとして現れる本多繁邦は、清顕の転生を見届けることを役割とする弁護士として、戦争を生き延びるが、社会的信用の絶頂で、公園で覗きをはたらいているところを、「覗き仲間」の裏切りによって警察に逮捕される。

自他共に「選ばれた者」として振る舞う透が、単なる相対的に他にすぐれているだけのニセモノに過ぎないと判ることよりも、読んでいて、三島由紀夫という人の世界への絶望の深さが実感されるのは、こちらのほうで、世界というものの底意地の悪さ、邪さ、冷然と人間の美性を葬ってみせる三島由紀夫の才能の冴えは、言葉は適当でないが、読んでいてうっとりさせられる。

あるいは、こちらは有名なシーンだが、勲が夢見たテロリストとしての昇る太陽の輝きのなかでの死は、現実世界では、目的もはたせないまま、惨めに追いつめられたドブネズミの死でしかなくて、死の瞬間に「赫奕と昇る太陽」は、自刃の刃をつきたてた瞬間に瞼の裏に見える幻でしかない。

一貫しているのは、ストイックに空をのぼりつめて、羽根の蠟を太陽の熱に熔かされて地面にたたきつけられて死にゆくヒーローたちの唯美的な精神の緊張は、彼らの内心にだけ存在する美で、周囲の人間の目には、ちょうど神風連の、電線の下を通るときには、不浄をさけて、扇を頭のうえにかざして、明治の時代の文明開化人たちの失笑と冷笑をかった神風連に似て、軽侮の対象の、滑稽な狂気にしかすぎないことでした。

手違いのなかで最もおおきかったのは、総監部のバルコニーに立って演説をする前の自衛隊員たちを集めよと述べた要求書に「各部隊別に整列して静聴すること」という当然の一項を加えることを忘れていたことでしょう。

バルコニーのうえから、神風連風の拘りによって拡声器の使用を拒んだ三島由紀夫は、懸命に演説を試みるが、報道新聞社のヘリコプターと、あるいは三島由紀夫の滑稽な大時代に笑い転げ、あるいは戦後民主主義の世の中に自衛隊によるクーデターという素っ頓狂なアイデアで憲法改正への実力行使を訴える、「なんにも判っていないお坊ちゃん小説家」への「引っ込め」「バカ」「キチガイ」の悪罵で、演説がなにを述べているのかも聞こえず、二時間の予定をたった10分に縮めて、総監室に引っ込まざるをえなくなります。

ふりかえってみると、三島由紀夫は、あの滑稽な死を初めから判っていて、計画して演出したのだとしかおもわれない。
小説家のすぐれた美意識は、世人の冷笑と嘲笑、ひそひそと交わされる「バカなのではないか」「やっぱり小説家の政治意識なんて、あんなものさ」という声を、決行前から聴いていたのだとしか考えられません。

胸を張り、通らない声をはりあげ、あまりの滑稽さに若い資材部隊の隊員たちの笑いものになった、左翼知識人たちに、おもいきり罵らせて溜飲をさげさせた、荒唐無稽な、それでいて現実をありのままに見る目を持つ人間がみれば、そこに投げ出された現実は、まるで、浅薄なものをすべて浮き彫りにさせてやまないような、床いっぱいに広がった大量の血液の海であり、ごろりと転がったふたつの生首と、血の臭いとともに部屋の空気のなかに漂う、極限の苦痛であるという、印象がちぐはぐな事件でした。

戦後の歴史を、手負いの獣の足跡を追うように、事件まで追いかけてきた外国人にとっては、三島が文字通り生命を賭けて嫌悪したものは、アメリカの過剰投資によってもたらされた、おもいもかけぬ繁栄が生んだ、日本の社会の弛緩した精神であり、全体主義社会にとっては殆どそれだけが人間が人間たる拠り所になるはずのストイックな精神の欠如であったことは、ほぼ自明なことでした。

言い換えれば、個が全体と対峙して拮抗することによって生まれる、個々の生の欲求の緊張で成り立っている自由社会の、意匠だけをまねて、国家社会経済主義がうまく過剰投資のツボにはまることによって生じた空前の経済に驕って、最低限の真摯すら失った異様な社会への三島由紀夫という人の絶望の表現だった。

救いがあるとすれば、「そんなことを言うなんて、おまえも反動で、ほんものの自由主義者ではないのだろう」と罵られながら、案外とたくさんの文学者が、三島由紀夫の反逆劇の本質を見抜いていたことで、曖昧な低い声であっても、明瞭に、「狂っているのは三島ではなくて世の中である」と述べている。

ドナルド・キーンは事件が三島文学の論理的に必然の帰結であると遠慮がちに書いているし、いつものレトリックの竹細工のなかから小林秀雄は、事件に心を動かされた自分の魂の反応を訝っている。

面白いのは森鴎外の娘で、「話の特集コミュニティ」とでもいうべき雑誌のまわりをめぐって付き合いがあった森茉莉で
「滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か?」

と述べて、このあと80年代90年代を経て、いまに至る、日本特有の薄笑いに満ちた狂気をはやくも明快に予言している。

三島由紀夫は思想などというものはどうでもよかったので、過去の遠くの押し入れから、手頃なものを引っ張り出してきて使っただけだったが、言語に手をひかれて自分でも思考をこえた見知らぬ場所に連れて行かれた鋭敏な言語感覚のほうは、このあとの日本の、あまりたいした理由のない傲りと自惚れで自画自賛を繰り返す、社会としてまるごと鈍感で弛緩した未来を、すでに知っていたようにみえます。

三島を狂人扱いして、文学者としては成功したのに思想家・政治家としては評価されなかった異常者の社会的栄達を願った劣等感の裏返し、という事件への評価が定着していって、自衛隊の最高責任監督者防衛庁長官であった中曽根康弘は制服組責任者の益田総監に「自分には将来がある。退職金を二段階引き上げてやるから、おまえが責任をとれ」と述べて「詰め腹」を切らせ、おどろいたことに自分はいっさい責任をとらなかった。

生き残った3人の学生は、まるで日本社会の側からの事件の批評の要約のような罪名で起訴されます。

嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要。

ベストセラー作家が引き起こした一幕の茶番として戦後史に記憶された事件を調べてみると、意外なくらいたくさんの「戦後」に関わる現実の様相が眼前にあらわれて、歴史の書き換えは現実の歪曲によるよりも事実の観念化によって引き起こされることのほうが多いのだという、単純な教訓を思い出させられる。

未亡人が公表に激怒したという作家の生首の写真を眺めながら、日本の「戦後」は、いま考えられているものとはまるで違う手触りのものなのではないかと考えると、なんだか、どこまでもぼんやりした気持ちになってしまうようでした。

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死者の吐息_1

全体に灰色で、ところどころおもいだしたように色がついている遠い記憶のなかで、ぼくは神保町の交差点に立っている。
日本には何度も行ったので、滑稽なことに、目を凝らしてみても、自分が子供なのか十代の終わりなのか、はっきりしない。
子供だとすれば、そんなところにひとりで立っているのだから、なにかの用事で、坂の上のヒルトップホテルという小さなホテルに母親と一緒に立ち寄ったのかもしれない。

義理叔父が気に入っていて、叔母が忙しくて日本にひとりでいるときには、ときどき館内案内に出ていない六階にただひとつある、まるで隠し部屋のような、モーツアルトの自筆楽譜や、高価なオーディオセットに囲まれた部屋に一週間も二週間も泊まっていることがあったから、面会に、ときどき母親と一緒にでかけた。

おとなの話などは退屈なので、母親と義理叔父が60年代風の制服を着たウエイトレスが給仕する一階のコーヒーショップで話をしているあいだ、坂をおりて、漱石が卒業したのだという碑がある小学校の脇をとおって、小川町へ出た。

その頃はまだ日本語の本を手にとってみても読めるわけではなかったので、多分、一誠堂や北沢書店に足を伸ばすか、近所のアメリカ人が経営する浮世絵のギャラリーでコーヒーをおごってもらったりしていたのではないだろうか。

日本は、とても不思議な国だとおもう。
例えば数寄屋橋の交差点を二階から眺めていると、ふと、この国はほんとうは現実に存在しているわけではなくて、ただ心象としてだけ存在しているだけで、読みかけの本に目を戻して、また窓から外をみると、そこには「日本」として見覚えていた町とは、まるで異なる町並と、姿も表情も異なる人びとが歩いていそうな気がすることがあった。

道を渡っていても、通りの向こう側にいかにも所在なげに立っているひとびとは、みなこっちを見ていて、じっと見つめていて、それなのに、信号が変わって通りの半ばまで渡ると、ひとびともビルもなにもかもがかき消えて、自分自身は突然明け方のベッドで目を覚ましていそうな気がする。

なにもかもが、どことなく現実感を欠いていて、表情が乏しく感じられたり、風景でさえ、どこか微妙に細部を欠いているような気がしてたまらなくなる。

子供のときには、よく、日本という国はほんとうは心のなかにだけ存在する幻影で、「こうでありえたかもしれない人間の社会」を過去からやってきたひとびとか、そうでなければ次元が異なる宇宙からやってきたひとびとが演じてみせている一種の仮想的な劇場なのではないかという空想を楽しんでいた。

その奇妙な思考の習慣がどこからやってくるかは判っていて、アボリジニ人を追い立てて、砂漠に「放って」、狩猟の対象にしたり初期コロニアルオーストラリア人や「神の名において」アラブ人の嬰児を虐殺して剣先に刺して並べたりしていた十字軍の物語を、忍び込んだ父親の書庫で読みすぎて、子供なりに、すっかり西洋文明に嫌気がさしていたぼくは、この世界のどこかに「この文明ではない他の文明」が存在することを切望していた。

ジョン王の国を夢想するのはさすがに無理でも、どこかに人類が見落としている文明があって、人間の欠陥だらけの世界にも意外なヒントが眠っているのではないか。

一見、西洋のモノマネで出来ていて、そつなくマネしてはいるが、ただ西洋文明の同工異曲にすぎないように見える日本の文明は、おおきな候補のひとつで、実は意匠として西洋を採用しているだけで、薄皮をペリペリと剥がすように、やはりどことなくインチキくさい西洋を剥がしてみると、その下からはまったく西洋文明の想像がおよばない、見たこともない文明が息づいているようにみえることがあった。

例えば、能楽というものがある。
歌舞伎は欠伸の連続で母親のお伴をさせられるたびに閉口したが、能楽は、あっというまに時間が過ぎ去るほど好きだった。
物語の内容は拍子抜けするほど通俗であるのに、足運びひとつとっても強く非現実的に演出されていて、全体を包む緊張は、到底この世のものではない。

いつか書いたように、日本に来たばかりの頃に、時差ボケで眠れないまま両親と夜更けの奈良公園に出かけて、暗闇でふとみあげてぶっくらこいてしまった金剛力士像がある。

先生について教わった日本刀、取り分け古刀の圧倒的な美があって、いまでは世界に有名な兜と鎧の造形がある。

ところどころ見え隠れする「見知らぬ日本」は、まるで生き物のように強い生命力で感じられて、それがどうしても過去のものに見えないことで、惹きつけられたのでした。

日本の人は視覚芸術にすぐれている。
いま、この瞬間にも草間彌生は造形しつづけているが、芸術の活動も、あんなふうになると巫女としてミューズの降臨を助けているのと変わらない。
詩人の言語能力が詩人の手をむんずととらえて彼/彼女の理性が思いも寄らなかった表現の高みに詩を運び去ってしまうように、日本の視覚芸術家の目は、画家の手におもわぬ形を描かせてしまうように見えることがある。

あるいは変わった例をあげると、日本の映画や物語は、たいてい過剰な感情や情緒が盛り込まれていて、そこから腐ってゆくが、かろうじて踏み止まっている例を考えると、映画「鉄道員」は、物語の真の哀切さが亡霊の心にあるものであることによって陳腐な人情物語であることから救っている。
意外に思う人が多いと想像するが、あの「鉄道員(ぽっぽや)」という映画は、英語人やフランス語人に熱狂的なファンを持っているが、熱狂の焦点が日本の人とまったく異なるところに特徴がある映画でもある。

そういう事情は能楽や小泉八雲の物語を眺めて行くと、さらに明瞭になって、実は西洋並みの物語と比較して死と生の価値が入れ替わっているところに日本の文明の特徴はある。

生は仮の姿であるよりも、むしろ無価値なものであって、日本文明が価値を見いだすのは、そのささやかな生の世界を囲繞している圧倒的に巨大な死の世界のほうなのであるように見えます。

古代マヤ人の文明にも蹴球が存在して、社会のなかでスポーツであるよりは遙かに高い桁違いの価値をもっていた。
当然、その勝者は社会の最大の称賛を一身に集める存在だったが、その栄誉の授与の表現は勝者の首をはねることでした。
死によって、彼の栄光は完成した。

今日は、もうこれくらいにするが、例えば西洋文明の尺度では単なる集団サディズムにすぎない武士道が社会のなかで美学として、あるいは極端な場合には倫理規範として機能するためには、では社会の現実はどんなふうでなければならないかを考えることは、いまの日本の殆ど生活のすべての局面に及ぶ価値の倒錯をよく説明する。

この次は、実は日本の文明においては死は生の一様態で、生は死になりきれなかった人間の存在の在り方であって、そのことがどんなふうに生の文明である西洋文明の受容を誤解の連続に終わらせて、いま向かっている破滅へ日本を運ぼうとしているかを考えたいと思っています。

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爪先立ちの世界

地下鉄をおりて、ゆるやかな坂道をあがっていくと、バルセロナでいちばんおいしいハモン屋があって、冬の朝、でっかいコートを着込んだ近所のおばちゃんたちが、舗道にだしたテーブルで、蜂蜜を塗ったクロワッサンとカフェコンレチェでの朝食を前に、話し込んでいる、おいしいパンを焼くベーカリーがあって、その先の急坂を右に曲がってしばらく行ったところにぼくがバルセロナで初めて買ったアパートがある、という話を前にもしたことがある。

だだっ広いテラスがある屋上の家で、夏に暑いのでバルセロナのひとたちはペントハウスのピソ(アパート)など買わないのだと知ったのは、ずっと後のことだった。
そのテラスに、テーブルを出して、パンコントマテをつくって、「バルセロナでいちばんおいしいハモン屋」のおっちゃんが、裏のハモン庫へ連れて行ってくれて、この豚がいい?これは、脂は多いが、とてもおいしいんだよ、と一個ずつ説明して売ってくれたハモンイベリコを皿に並べて、カバを開けて、もみ手をしながら遅い朝食を摂ったものだった。

遠くには、まだその頃はクレーンが3基か4基、まわりに立っていたサグラダファミリアが見えていて、テラスの手すりの近くのほうまで歩いて行って右をみると、遙か遠くに丘のうえに立つ携帯電話用の中継塔が見えた。

おもいだすと、なつかしいなあ、とおもう。
考えても、信じがたいことだが、最後にバルセロナにでかけてから、もう4年が経っている。
病みつきになるVichy Catalanをやまほど積み上げて、飲んで、Cavaやワインを一日中ちびちび飲む生活から、ずいぶん遠いところに来てしまった。

あのピソはグラシアといっても、ほんの下町で、近所の人はやさしい人情家ばかりで、毎日楽しい暮らしだった。
すぐに顔をおぼえて、ずいぶんスペイン語が上手になったね、グラシアは気にいりましたか?
今度、広場の近くにできたバーに行ってみた?

ああ、あの頑としてカタロニア語しか喋らない人間たちのレストランのことだね。
気にしなくていいんだよ。
あのひとたちは、いわば過激派で、外国人とみれば仇のように考えるひとたちだからね、と述べて片眼をつぶってみせたりしていた。

ときどき、なぜいまこの瞬間に自分はバルセロナで暮らしていないのだろうと訝しくおもう。
なぜ、生まれてからずっとおなじで、もうとっくの昔に飽きがきている、退屈な英語社会で、庭師たちのブロワやヘッジをトリムするチェーンソー、あるいは掃除の人たちの高圧放水機の音、延々と芝を刈る芝刈り機の音を繰り返し聴いて暮らしているのか。

育児に専念したかった。
北半球は、どうもおかしい、turmoilが来そうなので、連合王国や北米は離れて、オーストラリア/ニュージーランドに拠点を移すのにしくはない、と考えた。
まだ生きている海があって、ハウラキガルフに潜ってみれば帆立貝がカーペットをなしていて、水面近くを泳いで陽光にきらきらと輝いている魚群の下を、キングフィッシュが、ゆったり泳いで交叉してゆく。
海の美しさは息を飲むようで、これほど美しい海は、もうここにしか残っていない。

理性的な理由はいろいろあるが、感情はまた別で、モニとふたりでワインを飲んでいても、バルセロナの革命広場でフランス国歌を歌っていたフランス人のホームレスのおっちゃんや、多分日本人の、画家風の、何十年もバルセロナに住んでいる人の足取りで、あきらかに酒に酔って赤い顔をして、ふらふらと広場を横切ってゆく、背の高い老人のことをおもいだしては、なつかしいね、どうしてこんなに懐かしいのだろう、とふたりで不思議がることがある。

いっそ魂も肉体もふたつあれば、片方はヨーロッパにいてもらって、片方は南半球で、それぞれのよいところを楽しんで暮らしてもらえる。
大陸欧州とオーストラレイジアという、いまの世界の、ふたつの楽園で、つつがなく遊び暮らして、楽しい一生をまっとうできる。

ところが、モニにしても、自分にしても、肉体も魂も1セットしかないので、難儀をすることになる。

時間とオカネが両方ふんだんに欲しかった。
富貴の増大をゲームにして、興奮によって働きづめに働いて成功の快感にひたって暮らしたり、逆に時間をたくさんつくるために、つつましい生活を心掛けたりするのは、どちらも趣味にあわなかった。

人間には、もうひとつ知識欲という厄介なものが若いときには特にあって、やむえをえないので極く若いときは、阿片に中毒した人のように数学ばかりにのめりこんで、自分がめざした小さな発見に到達するまで大好きな勉強に埋没していた。

数学などは30歳になっても「感じ」がつかめない人はダメで、さらにいえば自分が狂っていた分野などは、はっきり言って20代のうちになんらかの新しい価値に邂逅しない人間は、ぜんぜんダメなただのシューサイで、研究ではなくて研究者の肩書き付きの生活そのものや、大学の教員をめざすのならともかく、ふつうはそんな生活に魅力を感じないでの、ちょうどよいというか、驚く友達や先生を尻目に、人よりもだいぶん若かったのをよいことに、さっさと足を洗って、第二回戦で、20代でなければ出来ないことをやろうと考えた。

居直って述べると、オカネは別に自分でつくらなくとも、親にゴロニャンをすればいいだけでも手にはいったとおもうが、偶然の幸運で、転がり込んで、慌てて凍死術を勉強して、途中で目がさめてしまうとエイリアンに襲われるのかもしれなくても、世間目には「凍死家」というものに化けおおせることにした。

やってみると実はこれは罠で、投資というものはゲーマー魂に訴えるところがあって、意馬心猿の人生になりそうで危なかったが、モニさんという聡明な魂に出会って、世の中には細部の光に満ちた生活という人間の一生で最も面白いものがあるのを教わった。

つまりは、ここまでが、いわば前段の粗筋で、これからどーしよーかなあーと思ってる。
先週、きみに話したとおり、ぼくはこれから2025年くらいまでの世の中に、よい展望をもっていない。
下余地、という、経済の指標ひとつとっても、不景気を恐れすぎた結果、世界中の経済が背伸びをする結果に陥っていて、例えば英語世界では未曾有の失業率の低さが話題になっているが、そしてそれはもちろん良いことだが、誰でも知っているとおり、失業率が低いことの一般的な問題は、実は失業率がそれ以上低くなる余地がないということのほうで、なんだかマンガじみているが、歴史上の大きな不景気の直前は、低失業率であることが多かった。
金利もおなじで、アメリカも日本も、かつては20%を超えていた金利が、どんどん下がってきて、いまは0%に限りなく近付いて、地を這うような金利で、これももう下げる余地がない。
そうやってひとつひとつみていくと、株式のPEでもなんでも、壁におしつけられたような余地のなさで、いわば爪先だちでぐらぐら揺れている経済繁栄のなかで、きみもぼくも暮らしている。

そこにさまざまな理屈をつけて「xxxだから大丈夫」と言っているが、きみもぼくも、よく承知しているように、それはただの気休めで、累卵と言う言葉を連想させるいまの経済繁栄の危なさは、ソフトランディングを望める状態は、とおの昔に過ぎてしまっている。

そして、この、世界中で積み上がる、すさまじい借金!

オカネに患わされるのが嫌なので、ぼく自身は借金をしたことがない。
同業の友達には、ガメは原始経済のひとだから、と笑われるが、借金ほど不可視で危険なものはない。
銀行人が聞けば卒倒するだろうけどね。

きみもよく知っているとおり、いまの金融クレジット理論をつくったのは、きみもぼくも個人としてよく知っている、彼らだったが、いろいろな人間と議論を繰り返して彼らは数学的な理論として組み上げていったが、ウォール街あたりで、知ったようなタームをふりまわしている猿みたいな金融のひとびとは、そんなこと、実は何も理解していないんだよ。

例のCDOが典型だが、自分達が犯罪に手を染めたことすら理解していない。

そういう金融人たちの頭が悪い上に浅薄でおそるべき無責任な体質と、中国を流れの中心、しかもブラックボックスで中身がまるでみえない中心としたオカネの奔流との組み合わせでプロパティマーケットがどうなったかというと、例えばニュージーランド人のホームローンの総額は、バカバカしいことにGDPの二倍を超えている。

一方で、核戦争に情報共有と寡占化の圧力をかけまくって、21世紀初頭には、廃絶が考えられるところまで来た核兵器の脅威は、よく考えれば簡単な理屈で、「技術開発をどんどん進められる自信があれば、他国のいうことなど聞かずに進めてしまえば誰にも止められない」理屈を発見した指導者や独裁者の手によって、どんどん進められて、まず北朝鮮の手によって日本は戦域化された。
多分、いまの動きを見ていると真珠湾が核ミサイルで攻撃される可能性がはっきりしたところで、アメリカは韓国と日本の、初めの24時間で、国境に展開する12000門を数える重砲の通常弾頭による砲撃だけで のソウル近辺に限定しても42000人の死傷者だっけ?
それに短距離ミサイルによる在韓基地周辺と、核ミサイルによる東京と在日基地への攻撃で、いったいどれだけ人が死ぬのか判らないが、トランプにとってはアジア人の犠牲とハワイへの核攻撃では較べるのもめんどくさいことで、太平洋の防衛線をアチソンラインに戻すことを覚悟して、北朝鮮との全面戦争に乗り出すに違いない。

このシナリオ、どっかで見たことあるとおもったでしょう?
ぼくは何を思ったか日本語でも書いたことがあるんだよ。

ヒラリー・クリントンの奇妙な提案
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/24/hillary-clinton/

つまり、アチソンラインに戻すのは、ヒラリー・クリントンが国務長官だった頃に、日本の捕鯨を利用して反捕鯨を南太平洋関係諸国の精神的な核にまとめ上げた、巧妙な「将来のための万が一外交」で、これは図にあたって、それまでアメリカとは軍事国交断絶といってもいいくらいで、かろうじてオーストラリアとのアンザック同盟を通じてアメリカと軍事的な連絡を保っていたニュージーランドと、正常な軍事外交を回復することに成功した。

いまでは、アメリカの最も機密性が高い情報収集は最も安全なニュージーランドで集中して行われていることは公然の秘密であるとおもいます。

それやこれや、いろいろなことを考えていると、北半球は危なすぎて、南半球を根拠地にすることは当面は変えられないことにおもえてきて、モニに聞いてみると、はたして大喜びで、どうも仕方がないとおもう。

オーストラリアやニュージーランドの政府の人間や政治家たちと話して見ると、問わず語らず、国ごとゲートコミュニティを目指しているのかと揶揄したくなるくらいで、当面は移民を大量受け入れする成長よりも社会の保障らしい。
中東の人やアジアの人には、どんどん敷居が高くなって、また退屈な社会に逆戻りしそうにみえなくもない。

書いてきて、くたびれたので、もうこの辺にします。
なんだかヨーロッパに戻りにくくなってしまったよ。
一年のうち、3〜4ヶ月はいるだろうが、そのほかのときは、オーストラリアとニュージーランドで、ふらふらしていて、ときどき2ヶ月くらい、タヒチ、フィジーやニューカレドニア、サモアやトンガへ、たまにはヨットでも出かけてヘロヘロしているくらいではないだろうか。
こっちからあっちへ行くのは、素人みたいなヨット乗りでもいけるが、帰ってくるのは難行なのはきみも知っているとおりで、業者に頼むといくらかかるんだろうと見積もりをとったら二万ドルだって。
バカにしてるよね。

さっそくトンガの人と会って、話を聞いたら、「トンガは魚は釣れませんよ。海の水が綺麗すぎて、魚を釣ろうとすると目があっちゃって、お互いを見つめ合ってるうちに逃げちゃうんですから」と言うので笑ってしまった。

これから暫く、世の中はたいへんそうだけど、お互いに、落ち着いて観察して、ダメ頭を回転させて考えれば、なんとかなっていくものだろう。
きみがいつか言っていたように、どうせお互いにたいした人間ではないのだから、せめてもお互いをおもいやって、同じときに地球に乗り合わせたもの同士、文明の力に頼って、やっていくよりほかにない。

そうだそうだ。
このあいだきみが言っていたペリカンの新しいインク、すごくよかったんだよ。
ゴールデンなんちゃらとかいう。
オレンジ色がとてもよくて、この次のモニさんへのラブレターはあれで書くつもり。

パーカーの見た目は万年筆だけど、ほんとうは新発明のヘンテコな筆記具もすごくよかった。

今度、オークランドに来たら、アマナでプロセコをおごるよ。
もうすぐマレーシアとシンガポール、それと例のあの国に出かけるけど、10月の終わりには帰ってくるつもりです。
空港まで、正式に販売が始まるので今度はテスラで迎えにいけるかもしれない。

では、また。

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日本とのつきあい

いちばん初めのブログ記事から、10年たつのではないだろうか。
たった6行の記事は、ためつすがめつ、何度も読んで、どこにも不自然な日本語表現がないことを確かめて、あまつさえ、義理叔父と従兄弟にも廻覧して、丸一日かけて書いたものだった。
ガイジンぽい言い回しや間違いがあるほうが「ガイジン」という特殊カテゴリの人類が存在する日本語の世界認識ではうけるのは判っていたが、そういうことは嫌で、特に日本語世界で人気者になろうというつもりで始めたのでもなかったので、当時から見るからに地方語化して、普遍性を失って、相対化された日本語を見る立場にあった者には明らかに瀕死の言語だった日本語を自家薬籠中のものとして、日本人の生活とはいったん切り離したものにしてしまえばいいと目論でいた。
いわば、日本語ではなくて自分語を創造しようといういたずらっ気で、ここまでずるずる続けているのだと思います。

この奇妙な試みには、予期しなかった副作用があって、日本では戦後民主主義の感覚が死んで、もうすぐ民主制が機能をとめるだろうとか、日本人には悪い癖があって、なにもかも知っているつもりで、英語ではcut cornersと言う、一見はむだに見えるのかもしれない手順を省いて、端折って、大事に至る社会のくせがあるので、東海村の臨界事故を見ればいい、そのうちに原発事故が起きるだろうとか、近くは、アベノミクスは傍目には失敗するに決まっている経済政策であると述べて、バルセロナの連合王国人経済学者の論文を紹介したりして、いろいろと議論の材料を提供してきたが、不幸なことに日本には「はてな」という、極めて日本的な、わしの目には悪んだろくでなしの、ごろつきじみた屁理屈おっさんやおばさんの巣窟にすぎないが、日本ではリベラルコミュニティの中心ということになっているらしいものがあって、主にここから、文字通り何百何千というトロルが集団で襲来して、というよりも驚くべき事に、特有な執拗さと薄気味悪さまるだしで、いまだに根気よく中傷しつづけているが、ニセガイジンの合唱という反応で、日本人である自分たちのほうがいかに英語が得意かというほかには反応がなくて、まったく議論にならなかった。

その結果、まさか日本の現在に少しでも影響があったとは自惚れないが、議論もなにもなしに、原発は予想どおりぶっとび(といっても公正を期すためにいうと、わしが爆発するだろうと考えていたのは「もんじゅ」だったが)、トリクルダウンという遙かな昔に実証的に、社会としての痛みとともに否定された考えを日本人の経済音痴につけこんで持ち出して、保守系の経済学者には、「おまえは日本政府にカネをもらったのではないか」とまで言われたクルーグマンの「ノーベル経済学賞受賞」という後光に包まれた「ま、日本は特殊だからもしかしたらうまくいくかもね」のひとことに目がくらんで、ひれ伏して、日本の、なにがあってもやじろべえのように経済と財政の安定を取り戻す抜群の回復力の源泉だった年金と個人預金をあらかた注ぎ込んで日本の経済体力を根底から破壊したアベノミクスを出袋することになっていった。

神のいない経済社会について ゾンビ経済篇
https://gamayauber1001.wordpress.com/2016/01/07/isgoddead/

そーゆーわけで、議論にもなにもならなかったが、こちらからすると、それはいわば日本人側の問題で、わしの知ったこっちゃないというべきか、知っているのに、なにも言わないと寝覚めが悪いだろうと考えて、やれるだけのことはやっていこうと思っただけのことだったので、別になんとも思っていない、ではひどいが、日本語にあまりいれこんだ日などには、なんだか頭が日本人風になって、怒りや失望を感じるが、部屋をでると、憑き物が落ちたように日本語が落ちて、あれ、あの感情はいったいどこから来たのだろう?と訝るていどのもので、ちょうど悪夢から覚めた人のように、こんなことを述べてごめんだけど、「そーか、わしは日本人じゃないんだった。日本人でなくてよかった」と胸をなでおろしたりしていた。

福島事故は過去のものになって、あれほど精確に事態を把握して気を付けていたはずのオダキンたちも、鮨や刺身を楽しむようになって、福島産の食べ物も、わざわざ「食べて応援」しなくても、流通して、普段に食卓に供されるようになっている。
それはそうだろう、とこっちも思うので、日本人の忘れっぽさということではなくて、そのくらい鈍感にならないと原子炉のメルトダウンが起きて、そのままほっぽらかしな、とんでもない島で、毎日の生活なんて出来はしない。

もっとも、ここから見ていると、現在進行ちゅうの出来事で最も日本にとって厄災であるのは、健康だけでなく、文化への悪影響の点でも、というのは日本語から真実性を奪いつづけて存在自体が文化の絶え間ない破壊力として働いている点でフクシマ事故だが、「これで日本も大丈夫!次の選挙で自民が大勝して、アベノミクスで大復興」と世の中を挙げて騒いでいたただなかで、ニセガイジンと冷笑されながら、ひとりでぶつくさこいていたアベノミクスも、あたりまえだが、実体産業の育成ゼロという、日本社会の口ばっかりで地味で実質的な努力はなにもしたがらない、ナマケモノ体質をそのまま反映した、ぶざまな性格で、いままで積み上げた社会の留保金を使いはたして、結果としてかつては無敵無病息災の優良児ぶりを誇った日本の財政は絶体絶命の窮地に陥ることになった。

見ていると、日銀総裁や首相は、そろそろ退くときがきたのを敏感に察して、
「自分は正しかった」ということにしたいのでしょう、台湾沖航空戦を思い出せばよいが、なけなしの有り金を株式市場に注ぎ込んで、株価を維持して、「勝った勝った、また勝った。勝たんでもええのに、また勝った。バブル景気以上の未曾有の大繁栄!」と述べて、英語世界からは「とうとう頭がおかしくなったのではないか」と訝られている。

これもしつこくしつこく零細ブログ(←このブログのことね)が述べてきた、平和憲法を捨てると現実の外交世界において日本は戦争に巻き込まれることになる、というほうも、書いている本人が、「もうさっそく戦争に巻き込まれちゃうのかあー。はやいね」と呆れるほど効果覿面、早速にアメリカにどんと背中を押されて、飛んでくる核ミサイルを受けて立つ「アメリカの盾」の役を買ってでることになった。

憲法第九条の終わりに
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/14/wherepeaceends/

原発がぶっとぶのも、民主制を失うのも、財政的に破滅の淵に立つのも、経済が瀕死の床に伏すのも、あるいは、いつ核ミサイルが飛んでくるかもしれない戦域下の国になりはてるのも、
だからゆーたやん、とも言えるが、そういうことは言っても仕方がないことであって、どちらかといえば、どれもこれも当時からわかりきったことであったのに、なぜ現実に破滅するまで突き進みたがるのか、そっちのほうの理由を切に知りたいと考える。

この零細ブログがいまでも、細々と、というよりももう少し実情に即していうと、へろへろへろと続いているのは、josicoはん (@josico)という名前の、といって、当然本名を知っているが、日本語みたいに、アホな勘違いおっさんが言語の地平の見渡すかぎり控えている言語世界で、うっかりjosicoはんの現実をばらしてしまうと、ミツワに群がるように日本の人がたくさん住んでいるオレンジカウンティに住んでいるので、危ないので言わないけれども、ゲームデザイナーの友達が書いた一通の手紙が原因で、ここまで何百とあらわれた、主にはてなから襲来するアホおやじたちにげんなりしても、日本語と日本の人への信頼が保たれているのは、最近は日本人はもう廃業したと称しているが、わしジーンズを半分に切ってもまだ長すぎる足の短さからしても日本人たるを免れない義理叔父と、従兄弟と、josicoはんの存在によっている。

josicoはんは初めて会ったときは、日本の某大手ゲーム会社に勤めていて、英語ゲームを通じて知り合ったが、ある日突然、もう日本にいるのは嫌だからバルセロナに行ってタコ焼き屋を始めるのだと言い出した。
2008年くらいのことだったと思います。
結局、タコ焼き屋は、先にグラシア地区の、わしアパートの近くで先に始めてしまった日本の人達がいて、行ってみると、アルゼンチン人のにーちゃんが、あいよっと、見事な手際でタコ焼きを焼き上げていて、ニューヨークのイーストビレッジの「福ちゃん」だったか、ラティノにーちゃんの見事な手際と甲乙つけがたくて、これは競争が厳しいのでやめたほうがよいと判断されて、わしの相も変わらずちょーテキトーな思いつきの提案にしたがってjosicoはんはブライトンの英語学校に通って、一時は仕事がみつからなくて、ビルのお掃除おばさんならなんとかの事態に立ち至ったが、神様は勇者を好む、急転直下で、マネージャーの態度に腹を立てて目の前で椅子を蹴っ飛ばして抗議するという自分の職業ごと蹴っ飛ばすようなjosicoはんらしい向こう活きを示す事件があったりしたあと、いまはアマゾンでゲームデザイナーをやっていて、このあいだは、やったー、グリーンカードもらったぜー、これで故郷の大阪にビザの心配をせずにタコ焼きを食べに行ける、と喜んでいた。

josicoはんは、友達なので、わしとまるで考えが異なる人で、政治上の考えも異なるし、第一、フットボールみたいな、いいとしこいたおとなが半ズボンでボールを追っかけ回すお下品なスポーツの熱狂的なファンで、最も肝腎なPCゲームの趣味さえ異なるが、友達というものは、そーゆーものです。

あれから、イタリアで20何年か主婦を続けているすべりひゆ@portulaca01は、相変わらず、よく訪問販売に来ていて仲がよかった「イタリアでは暮らしにくいのでドイツに行く」と述べて、それまでの厚誼を謝して去ったアフリカ人のにーちゃんは今頃どうしているだろーかと案じたり、息子が大学に入るかどうかハラハラしたりしながら暮らしていて、ずいぶん前から、すっかりイタリア主婦で暮らしているし、いつか「ブログで読んでおもしろそうだったから行ってきた」と、あっさり述べて、全然あっさり言って着けるようなところにない、スペイン・ガリシアのド辺境にある洞窟に出かけていって、洞窟の真上にある山のてっぺんでクロマニヨン人たちの生活について物思いにふけったりしていたチドリ@charadriinaeは、

Cueva de El Castillo
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/

また欧州のどこかの、ついに白状しなかった潜伏先からフランスにもどって、紹介すると自動的に本名がばれてしまうので初めにだした本(フランス語で書かれている)を紹介するのは控えるが、次に出版する子供向けの本を書いているのだろう。

10年たてば、個人の生活はおおきく変わる。
いや、そのひと自身がおおきく変わってしまう。
自分自身を考えても、子育てに専念した期間の最近数年間も含めて、英語人としての実生活は、おおきく変わってしまった。
ときどき、日本語で書いているうちに、なんだか日本語の大地の上で一人歩きしはじめてしまった感がなくもない日本語人格であるガメ・オベールが日本語を書いているのを見ると、「おぬし、若いのお」と思うが、 仕方がないというか、わし日本語は生活において使われることがない特殊日本語なので、その日本語のなかで人格を獲得しているガメ・オベールが、わし自身なのは間違いなくても、なあああんとなく、考えにおいて甘ったれていて、ちゃんと年齢を重ねていかないのも、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれません。

日本語を通してみえる世界は、日本自体がもう遠い記憶のなかにしかないせいで、なつかしくて、ぼんやりしていて、時間のなかに滲(にじ)んでいる。

人形町の路地で低い空を見上げていた日本にいた最後の冬

Hurdy Gurdy Man
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/20/hurdy-gurdy-man/

や、夜更けの森をモニとふたりでよく散歩した軽井沢の夏

山の暮らし
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/07/25/karuizawa/

思い出すよすがとして、写真を撮って、日本語でブログを書いておいて、よかったとおもう。

甲羅を経て30代も半ばになれば、世の中を渉るすべにも熟達して、例えば人間の好悪を判断するくらいのことでも、顔をみれば、どの程度の倫理感を持っている人間であるかくらいは判るようになってしまう。
若いときのように、周囲の状況が目に入らずに闇雲にパワーを発揮するということはなくなってしまうので、ほんとうはバカヂカラのタヂカラオになれば、サッカーで0-6で負けているときでも、無茶苦茶のバーサークで、7-6で勝ってしまうようなこともあるのかもしれないが、そんなことはなくなって、0-3くらいになれば、今回は、もう、ちょっとあかん、と無意識に頭が「手抜き命令」を発して、グラウンドを駆け抜ける速度も、0.3km/hくらいは遅くなるのではあるまいか。

一面、おとなになるということは自分が住む社会において「壁」をなすということでもあって、この頃は若い人と話すことが多いが、若いひとびとは会う度に工夫して、苦心惨憺して、わしという壁に体当たりしてくるもののよーです。
ふっふっふ、ワカモノよ、その程度の理屈で壁がへこむと考えるなんて、あまい。
金沢の落雁より甘いやつめ、と考えるが、テニスのラケットを手に、家のレンガの壁にボールをぶつけて遊んでいた頃は、まさか壁というものが自分にぶつかってくるものを跳ね返して楽しんでいるものだとは知らなかった。

おとなになるということには、自分よりも若い、まったく異なる考えの人間が増えてくるという、年々増大する楽しみを持つことでもある。
なにもアドバイスを求めて言ってこなければ 眺めて、うふふふ、そーゆーやりかたじゃダメなんじゃない?と考えて、黙ってみているが、話して理解できる能力がありそうな若い衆に聞かれれば、「そんなんじゃ無理よ」と応えることもある。
狡かったり、ナマイキだったり、自分をおおきく見せようとしたり、若い人はみなそれぞれ魅力があって、唇をかみしめて悄気ていると、まさかほんとうにやりはしないが、肩をだいて、元気だしなよ、と言いたくなるときもあります。

人間であることは、なんという良いことだろうとおもうが、その思いを重層的にしているのは日本語やほかの外国語で、うまくいえないが、ひとつの言語でしか考えない場合には見えないものがいつも見えているような気がする。
その「可視化された本来不可視のもの」には理屈だけではなくて、情緒が含まれ、感情が含まれ、世界をおおう色彩のようなものまでが含まれる。

日本語の森にはいっていくと、いつのまにか、頭から爪先までが日本語になって、鏡さえみなければ自分が日本人になるときがある。
そういうとき、時間の向こう、遙かな過去の遠くから、ゆっくりとした声で、ぎょっとするほど美しい声が聞こえてくることがあります。

あれが自分がめざしてきた日本語なのだな、と直感する。
その声がする場所にたどりつくまで。

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