ラテン

人間が神について考えられないのは神が人間の語彙の外側に立っているからですが、スペイン語の本を読んでいると(あるいは読もうと努力していると)人間の原初的な感情に触れたように錯覚してカンドーしてしまうことがあります。

ラテン語に近親な言葉が人間の感情の中核に立っているからですよ。

ものすげーくだらねー、たとえていえばニッポンのテレビ番組みたいにカスで退屈な 赤新聞の芸能記事なのに、「彼女の眼は灰色の月の砂漠に輝く琥珀のようだが」というような節が出てきて、な、な、なんだ、と思います。

あんたはいったい何を考えているんだ。

美しいものや楽しいもの、自分が羨望を感じるものを単純に好きで、そーゆーときにスペイン語圏のひとたちの口からもれる言葉は、まるで詩の一節のようだ。

直球しか投げないピッチャーのようだ。

ゆってみると、J Wrightみたい。

くっそー、わっしも契約語みたいな英語でなくてスペイン語を母国語に生まれればよかった。

そしたら、毎日太陽のあたる窓辺に座って

Dime amor, amor, amor !(聞かせて、いとしい人、いとしい人、いとしい人!)

っちゅーて、暮らせたのになあ。

アングロサクソンや日本人は生産性病なので、楽しみは労働の後にくるものだとおもっとる。でもスペイン語圏のひとは楽しみは楽しみの後にくるのです。

だから世の中が楽しみだけでできていて、したがって世の中のほうや個々の生活は往々にしてめちゃくちゃになってしまいますが、まあ、しようがないじゃん、ということになっている。

その、ま、しょーがないじゃん、がわっしの性格ないし生活にあっておるのですな。

妹やカーチャンは気の毒にもアングロサクソンのパーペキ病の患者ですが、わっしはきっと守護霊がセルビアの遊び人かなんかだった関係で、生産的な計画になんかこれぽちも興味がない。

一文もなくても、

朝から晩まで、

Dime amor, amor, amor !

のほうが良いのですな。

一年経つ毎に、かしこげなものがますます嫌いになって、直球なものが好きになる。

A day in the lifeの多重的な歌詞を分析してセンセーにおほめの言葉をいただいたガキんちょ時代が夢のようであります。

画像は要するにアメリカ人にとっての熱海みたいなとこだけど、わっしはあんまり嫌いじゃないカンクンのカモメ。

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