春の雪

わっしのステットスンの帽子にはモニが選んだ青い花が挿してある。

人間は神が塩基を媒介にしてこの惑星に映した影が無力な意識をもった存在にしか過ぎないが、それでも神様を驚かせるようなことを時々やった。

「ウソ」というものをおぼえた。

美しい男の子と恋に落ちた女の子は言うのだ。「わたしは、おもちゃをつくる男のひとと会った。あんまりハンサムじゃないけど、夢がいっぱいある。来週、一緒に夕食を食べに行こうと誘われているの」

あるいは意味もなく身体を動かして「踊る」ということをおぼえた。

眼に映る映像をチョークや鉛筆で書き残した。

時には言葉で感情を記録する、というような無謀なことすら試みたのだ。

エズラパウンドは無謀な試みに失敗して沈黙を選んだが。

わっしのステットスンの帽子にはモニが選んだ青い花が挿してある。

わっしの(パスポートに拠れば)ヘイゼル色の眼には、長頭形の悲しみしか映らない。

いくら日本語を勉強しても、わっしには短頭形のひとの感情がほんとうにはわからないのではないか。

バルセロナの美術館で春の色の服を着た天使が矢をつがえてひきしぼっている絵を見た。

グラシアのバーで、唇と唇をつけたまま彫像のように動かない男と女を見た。

でも、それをうまく膠着語で書けはしない。

那覇の居酒屋で、芭蕉布の神様がやってきて言うのだ。

「別れの時が来た」

「ウタキに行け。もう、別れるべきときである」

「言葉と別れるときが来たのだ」

沖縄の神様は膠着語の神様のなかではいちばん偉い神様なので、「言葉と別れるときがきたのだ」というようなオソロシイことを言う。

でも、どうやって。

こんなことをいうと笑われるに決まっているが、わっしはモニ以外のことはほんとうはどうでも良い。理由など必要だとも思わない。

わっしはモニが幸福であればそれでいいのであって、他のことはどうでもいい。

モニと暮らすようになってからどれほど生活が変わったか表現するのは難しい。

なにげなく手を差し伸ばしてみると、ぎゅっときつく握り返す手がある。

たいした考えもなしに眼を向けると、激しい意志をこめて見つめ返す眼がある。

女のひとを奇跡の産物にしているのは、要するにそーゆーところであって、男のわっしとは土台決意というものが異なる。

わっしのステットスンの帽子にはモニが選んだ青い花が挿してある。

そして、モニとわっしが川面を見つめていると春雷が鳴って、突然春の雪が降り出す。その季節外れの雪は30分くらいも激しく降りつのって突然にとまった。

煤けたフロレンスがいちどに甦って、語りかけてくるようです。

モニとわっしは、頬を寄せて時ならぬ春の雪を見ていたが、

そしてふたりとも涙がわきあがってくるのをとめられはしないが

それを膠着語で書くわけにはいかないのさ。

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