影のなかで

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モニというひとは一緒に住んでみるとヘンなひとである。奇人と言ってもよいかもしれぬ。モニとわっしはフロレンスの裏通りに新しく出来たオステリア(大衆食堂)へ行った。

午後7時であってまだ開いていなかったが「ワインを飲みながらキッチンが開くのを待っててもいいか」と訊くと、いい、と言う。このオステリアはワインの種類が豊富なので有名であって、モニとわっしは電話帳みたいなワインリストをひっくり返しながらウエイタのにーちゃんに「これは何だ?」「これはフルーティなのか?」とひつこくひつこく質問してNoirというワインに決めた。名前はノアールだがイタリアのワインです。

キッチンは開いて無くてもチーズとハムは出してくれる、というので、パロマやスペインのハモンやいろいろに取り合わせて、チーズもいくつか切ってきてもらう。ここはパルミジャーノがうまいのだ。

さてあーでもないこーでもないと30分くらいかけて注文してからやっと椅子に落ち着くと、モニが「自分たちがこうやって生活している思っているこの世界というのは結局誰かが見ている夢なのではないか」と言う。

「どーゆー意味だ?」と相変わらず打っても響かなくて蒙昧な返事をするわし。

「ガメは、いつも知能が高い、というのは知能指数のように「素早さ」を考慮してはならなくて意識の精細さをもっと考えた方がよい、と言うでしょ?」

そー言えば、酔っぱらうとエラソーにそういう発言をします。

「きっと私やガメが、こうやって自分たちを存在していると「感じる」のは精細な意識がつくった意識の影であって、ほんとうは存在していない」

ふむふむ。

モニの論旨は、こうである。

シャチョーとわっしが長野の森を散歩していると、シャチョーはあちこち指さしながら「あっ、あのタラの芽、うまそうだな」とか「あの、あそこにあるキノコ、鍋にするとうめぇーんだよな」とか五月蠅くてかなわん。

どうも同じ森を見ているのに、シャチョーとわっしは全然別のものを見ているようなのだ。わっしのほうは、なあーんとなくぼおーんやり、「あの木の形は綺麗である」とか「なんとすがすがしい森の匂いであろう」とかオオボケをかましたような「絵に描いたような森」見ている(言い訳をすると日本の森についてなんの知識もないからではある。ニュージーランドでならもうちとマシだが)のであるが、シャチョーが見ているのは、遙かにリゾリューションが高い森であって、かなり細かいところまで意識に把握されている。

それが食い物に限定されているのがシャチョーたる由縁であるが、ここではシャチョーの食い意地の悪さは深くは追求せん。

人間の数万倍、というような知能が存在すると仮定した場合、その意識に投影されている世界は当然ながら人間とはまったく異なる。多分人間の言葉のようなおおざっぱな記号性に依存しているようなスーパーいい加減なシンボルを使って考える生き物は、そーゆー存在からすると浜の真砂のようなものである。

もうちっとよくてカタツムリくらいか。(そう言えば昨日のカタツムリはうまかったな。

フランス以外でもおいしいカタツムリが食べられるとはしらなんだ)

フロレンスの町に確然として存在しているように見える鐘楼も聖堂もそのファサードに一面に装飾された幾何学模様も、あるいは表面に現れた細かい傷でさえ、その「巨大な意識」がつくりだした幻影なのではないか。

人間の歴史には実はヘンなことがいっぱいある。古典力学はユークリッドの平面幾何と並んで人間の若い人が出会うもっとも美しいもののひとつだが、この古典力学をつくったひとはまるで人間の理屈にあわないひとであった。

予備知識の無い人のために余計なことを書くと科学の世界では「二番目はたくさんいる」というのは有名であって、パウリをあげるひともあればアインスタインをあげるひともいるし、いろいろである。しかし「最大の科学者」といえばアイザック・ニュートン以外の名前はあがりようがない。誰に訊いても答えは同じであって、なぜかというとこのひと以前にはそもそも科学というものが存在しなかったからである。

日本のひとは半可通なので(ごめん)「えー、ベンキョーがたりないよ、きみ。第一きみがいまいるフロレンスにだって「ガリレオ・ガリレイ」というひとの家があるでしょうが、あのひとはニュートンより前の時代のひとだよ。ばっかみたい。ピサの斜塔から小さい鉄球とおっき鉄球を落っことして、両方同時につくのを証明したの、しらねーの」とか言いそうであるから、もうちょいと説明する。

ついでに言っておくと(当たり前であるが)ガリレオはバスで1時間ちょっともかかるピサまでわざわざ出かけていって、ピサの斜塔から玉を落っことしたりしてはおらぬ。もっともバスに乗ってはるばる出かけなければならんのはわっしであってガリレオはその頃は(たしか)ピサの大学でセンセーをしておったのだが。

もし、あのもっともらしくすらない話をガリレオが聞いたら、おっさんは非常に短気なひとだったので、髪の毛をかきむしって怒り狂ったに違いない。

そんなアホな実験をするかよ。

閑話休題。

ガリレオは自分がやっていたことを「科学」であるとは知らなかった。ケプラーを典型とするように、こーゆー一群の「プレ科学者」というのは、自分でも何をしているのかよくわからないひとたちだったのである。そこへ、あのニュートンという気むずかしくて訳のわからんおっさんがやってきて「光よ、させ。ここだよ、ここ、地球の上」とか叫んで科学というものをひとりででっちあげてしまったのだ。

家をつくろうと考えて、カンナからノコギリから「設計」という思想からなにからなにまで全部自分ででっちあげた大工兼建築家のようなもので、な、なんじゃこのおっさんは、と科学を志す世界中の若者がぶっとぶ。

ところで、この「プリンキピア」という本は書棚ではなくて引き出しに長い間眠っていた。

ハーレー彗星で有名なハーレーがニュートンの部屋にやってきて、「ぼ、ぼくは、どーも、すっごい大発見をしてしまったみたいです。あの「彗星」ってのは、何十年かで戻ってくる同じ星らしい」

「へー」と平素賢げに見えなかったので有名なニュートンはいしいひさいち先生の最底人みたいな表情で答えたに違いない。しばらくボケーとハーレーの顔を見てから、いつものオッソロシイ間の悪さでハーレーが「帰ろうかな」と思った頃に薄っぺらい本を引き出しから引っ張り出して、「おれも、こーゆーの書いてみたんだけどね、前に」と言ってハーレーに見せた。

よーするに、そのニュートンの引き出しから、いまわれわれが浴びている「科学の光」が現れたのですな。

ところで、このニュートンというひとは、ヘンなのを通り越して現実の人であるとは到底信ぜられないところがある。

たとえばガウスはまだガウス・ガキであった頃に先生に1から1000まで足し算をしとれ、と言われて1+1000、2+999、と考えて、あっという間に答えを出して見せて先生をカンドーさせた。 (もっとも現実にはこれもウソ逸話であって現実のガウスは数的な異能者であったのが広く知られていて、1から千まで素数間隔で数え上げろ、と言われても1秒もかからずに数えて見せたに違いない。そんな薄気味の悪い能力をもったガキに、こんな課題を渡すわけはない)雪舟だって柱に縛られて足でネズミを書いて見せたではないか。わっしだって7歳の時にはもう大人が唸るようなローストラムがつくれた。

これはちょっと例として不適切だが。

そうやっって能力のあるひとは栴檀は双葉より芳しいのであるがニュートンというひとは信じられないくらいぼんくらであって、24歳になるまで目立ったことというのは「上手に風車小屋の模型をつくった」という記録だけである。

そーゆーひとが微分を創造し古典力学を初めから最後まで書き上げあまつさえ光学まででっちあげて世界全体を語り終えてしまうところまで行くものだろうか。

心理学の教科書を広げて復習してみるとよい。

そんなことは、あるはずがない、のである。

今日は「ガリレオの家」を見に出かけたのでニュートンを例に挙げたが、世の中には一見普通そうに見えるが、よく考えてみるとほんとうは不可能であるはずのことが頻々とある。

ニュートンなどは良い例であって、こんな凡庸な秀才が突然ほとんど神様みたいなことをやってみせるなどということはリアリティがなさすぎる。しかし、これはかなり巧妙にできているせいで、聞かされたひとはみな「へえー」と思って納得してしまうのである。

(ここからモニ説を根本的に解説しようと思ったが、もう日本語では限界である。そのうち母国語のブログのほうで書きます)

テーブルの上のNoirはいつのまにか他のワインに変わっている。このマヤーレのビステカ(なあんちゃって、イタリア語でかっこつけてんじゃねーよ、ポークチョップのことすな)はなんという旨さであろう。3人のウエイタも3人ともまったく違う個性(ひとりはクールに決めておる。もうひとりは快活でテーブルの脇に立っていろいろな話を聞かせてくれる。3人目のおっちゃんはブアイソを装っているが、「トイレはどこすか」と聞くと、「そんなものは、ここにはねえ」と言ってから「なあんちゃって」とか言う。帰るときに「これ持っていきなよ」と照れくさそうにトスカナのパリパリせんべいみたいなパンをくれる親切なひとである)なのに、それがひとつのスタイルを醸成している。

モニによれば傷ついて昏倒している巨大な意識が夢見ているに過ぎない世界の一角で、わっしらはやや酔っぱらってしまう。ふたりで並んで歩くには狭すぎる舗道を通って、わっしらはアパートに戻ります。「巨大な意識」がついに終わりを迎えるとき、モニとわっしもかき消えるようになくなってしまうのだろうか、と詮ないことを考えるわっし。

舗道が狭くなりすぎるたびに車道へ出てやってくるくるまにひかれそうになりながら、隣を歩くひとをちらちらと眺めるわっし。

モニは突然立ち止まって、わっしの不細工な顔をのぞき込むが、もちろんわっしはモニが妙に真剣な顔をして(真剣な顔をするとなんとなく子供のようである)なにを考えているのか、知っています。

また会えるよ、きっと。

「この次」の世界でも。

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