イスティクラルの親切サーフィン

トルコのひとは度を過ごして親切である。

たった2日でそんなことがわかるのか?

どんなひとでも判ります。わっしはトルコに来るのは初めてであるが、なんでお友達がみな「なに?トルコに行ったことがない?そりゃ間抜けですな。いっぺん行って来ないとあかんやん。南の海岸がよいと思うがイスタンブルだけでもよいから行かんといかん。ガラタを見て死ね、とむかしからゆーではないか」

ガラタを見て死ね? それは確か「ナポリタンを食べてから死ね」という格言の間違いで ある。その証拠に有楽町の「ジャポネ」の前には過食で死にたいひとびとが延々と列をなしておるではないか。

それはともかく、なぜお友達が「トルコ、トルコ」と呼号していたかわかってしまった。

トルコのひとが、なんと言って表現すればいいか、親切が人間の形をなして歩いている、とでもいえばいいか、そのくらい親切だからです。しかもその「親切」が熱狂的である。

わっしはとりあえずイスタンブルに着いたが、どっちが空でどっちが地面かもわからん。初めての町なのだから当たり前なのす。ガイドブックを買えばよさそうなものだが、そんなものを買ってもどうせ持って歩くのが面倒くさいと言って持ち歩かないのに決まっているので、たった2週間しかいない町のガイドブックなんて買ってもしょーがない。

以前にはコメントを付けてくれていまはメールを送ってくれるLalさんのイスタンブルガイドに順って出かけることにした。

「新市街のイスティクラル通り」と書いてある。着いた日の夜にトラムがあるでかい通りがあったので、ともかくそっちへ行ってみる。イスタンブルは英語が話せる人がかなりいるので、イスティクラルって、どっちすか?と訊くと、みな喜んで(ここで念のためにつけくわえておくと、「喜んで」というのはこの場合、修辞ではない。トルコのひとは、道を訊かれて本当に「喜んで」いるとしか思われぬ。人に親切にするのをこんなに喜ぶひとたちが、この地上にいるとは思わなかった)教えてくれます。英語が全然わからないひとも、一生懸命トルコ語もわからんバカガイジンカップルの言葉に耳を傾けて超人的な勘のよさを発揮して相手の言わんとすることを理解して教えてくれる。神業である。あっちうすか?こっちすか?と訊きながら トラムに沿って歩いていって歩道橋を越えて桟橋を通ってガラタ橋を越える。(そんなこと言われたって、おれイスタンブルなんて知らねーもん、退屈だべ、と思っている、そこのひと、ちょっと我慢してね、この移動の部分は実はLalさんのために書いておる)どひゃっと思うような数の橋の両側に並んで釣りをするひとたち。カタクチイワシが釣れるようです。

オリーブオイルに漬けて食べるとうまそうだ。橋を渡って道を横切るために地下のモールを通る。

拳銃を売ってます。ガラタ塔までだらだらと坂を上がる。前をフランス人の団体が歩いておってガイドのねーちゃんが解説をしておる。わっしは団体客と遭遇するのが嫌いであるが、こーゆーときは便利です。

そーこーしているうちにイスティクラル通りに着いた。

わっしがトルコにやってきた理由は「おいしいバクラバとターキッシュデライトが食べたかった」からである。甘味屋のハシゴをするのだ。むふふ。

「メルハバ」な、わっし。甘味屋のにーちゃん、「おっ?」という顔になって「メルハバ」と言います。「チャイ、コユオルスン」と「A PRACTICAL GUIDE TO SPOKEN TURKISH FOR FOREIGN TRAVELLERS」でおぼえたばっかりのカッコヨイトルコ語 で話すわっし。「おっ?おっ?」と表情が盛り上がりまくるにーちゃん。

「あと、ケーキを見せてください」といきなり英語になってしまうダメなわたし。

モニは横で大笑いしてます。

にーちゃん、チャイとケーキをもってくると、「コユオルスン」でもよいが、なんとか、という方がよい、と教えてくれます。「なんとか」を三回くらい言ってみせて、わっしの発音を直してもくれたが、昨日カッパドキアのワインを飲み過ぎて忘れてしもうた。

にーちゃんが働いている甘味屋さんは、こーきゅー風であって、身なりの良いお客さんが次々に入ってくるが、にーちゃん、ほっぽらかしで、わっしたちにトルコ語の教授を始める。「召し上がれ」(これもなんちゅうか忘れた)と言って、自分を指さしてから、今度はわっしを指さして「ごちそうさま」(これも忘れておる)と繰り返す。

奥のねーちゃんがしびれを切らして「オマール(仮称)!」と 絶叫するまで、やっておる。モニのほうは、すぐ飽きてしまって何回促してもフランス語で「もう頭がいっぱいです。もうわからん」と言うだけなので、にーちゃんは、わっしの個人教授に専念しだす。ヒマをみつけてはとんできて、わっしのひとつでも多くトルコ語の表現を教えようとします。この極端に出来の悪い生徒は「ギュゼル」(おいしい)しかおぼえておらんが。

「へサーブアラビルミイム」(お勘定をお願いします)と言うと、これまで教えた表現をひととおりお温習いする(^^;) 自分を指さして「わっしの名前は、なんと言うんだったか?」と訊きます。わっし、おぼえてない。「オマール」とさしてがっかりした様子もなく繰り返すにーちゃん。わっしを指さして「ガメ」、わっしが一緒に住んでいる人を指さして「モニ」という、それから「ハイファイブ!」と叫んで、わっしの手を叩きます。

よく見ると眼がうるんでおる。

このひとほどでなくても、イスティクラル通りをガラタ橋から甘味屋のハシゴをしながらタクシム広場まで上ってくだってくるだけでも、トルコのひとの「超絶親切」はすさまじいものであって、辞書を買いにはいった本屋さんでもCD屋さんでも、わっしが「あー、おいしそー」とぼけーと見ていたら、チョコをいくつか分けて寄越してくれたおっちゃん(ギュゼル、と言ったら、おっちゃんの禿頭が胴体からコロンと落ちるのでないかと心配になるくらい激しくうなずいて「そーだろ、そーだろ」をしておった)でも、みんなショーバイとは関係なく他人に「親切にしたくて親切にしたくて、うずうずしている」トルコのひとたちにたくさん会って、モニとわっしはほぼボーゼンとしてしまった。このブログを以前から読んでくださっているひとたちはみな知っておられるはずだが、どこの国でも人間は見知らぬひとに親切にしたくてしょーがない。

「友達でありたい」と思うひとを敏感に察知して「友達として付き合いたい」と意志を表示します。それが、たった2分間の友達であったとしても、それが何であるか。

永遠に友達であるのと、どれほど違うか。

しかし、トルコのひとたちの暖かい気持ちは、そーゆー世界中の善意の人たちと較べても桁外れである。

トルコ人の怒濤の親切のシャワーを浴びてモニとわっしは、すっかり幸せである。おいしい料理を出してくれそうな佇まいのレストランのキッチンを表の窓からのぞき込みます。シロップに浸かったパンケーキのようなお菓子を指さして、「うまそーだ」と言うモニ。シェフのおっちゃんが、気がついてニヤっと笑いながら親指を立てておる。「うめーぞぉ」と言っているのだ。

四軒も甘味屋に行って甘いモノでないものを食べたくなったわっしとモニ(モニのほうは二軒目からはチャイを飲んだだけだが)は、レストランで食事。

目の前で焼いた、カルツオーネみたいなパンとトマトスープで、もうすっかり痺れてしまう。チキンカバブもおいしかった。モニはさっきのお菓子を食べて、「おいしいぞ、ガメ。食べてみないか?」という。なるほど、むちゃくちゃおいしいやん。

ここでも同じだから、もう繰り返さないが、「ギュゼル」「テシェッキルエデリム」と言いまくるアホガイジンカップルのテーブルには、食事しているあいだじゅうウエイタのにーちゃんやおっちゃんたちが入れ替わり立ち替わりやってきて、辞書を指さして笑ったり、逆にたとえばテーブルクロスを英語でなんというのかを訊いたり、人懐かしがることこのうえない。

実はモニは結婚式の準備やらわっしらが住む家の準備やらで忙しいからイスタンブルは止めよう、と言っていたのだが レストランを出ると「イスタンブルは良い所だなあ。ガメは、いい考えがいっぱいあるね」と言って上機嫌です。

夕刻、ガラタの橋を歩いて渡ると対岸のモスクが靄のなかで輝いておる。

ふたりで立ち止まって橋の下の川面を見つめていると突然橋をぎりぎりに通るくらい大きなフェリーが、ぐわあっと現れて驚かせます。

釣りをしているおっちゃんたちが、入れ替わり立ち替わりいろいろに話しかけてくるが、ちょっとも嫌ではない。何を言ってるか、さっぱりわからないが。

トルコに行ったことのない、そこのあなた。トルコに行かないのはたいへん間抜けである。トルコに行かない人は、人間というものが本来どういうものであるか、思い出せないまま終わってしまうかも知れぬではないか。 人間は他人と少しでも仲良くなりたいのであって、どちらがすぐれているか、などとどうでも良い。他人が喜ぶ顔をみたいだけなのだ。それを忘れてしまって賢しら顔をするひとに会うと沖縄のひとは「おまえは、タマシイを落っことしてきてしまっているから、そのタマシイをおっことしたところまで戻って拾ってこい」という。沖縄にはちゃんと、タマシイ遺失物係のおばちゃんがいて、ものを素直に見られなくなったひとがどこでタマシイを落としたかちゃんと教えてくれるのだ。魂がなくなって見つからなくなったキムズカシイひとも、しかし、イスタンブルに来れば新しい魂を新調出来るかも知れぬ。

トルコのひとの親切の洪水に不可能なことはなにもない。だから魂くらいならお安いご用で、と言ってつくってくれるのではないか。

諺にもいうではないか。

「トルコ人を見て死ね」と。

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