forget-me-not

粗い粒子の映像、ときどき動作が唐突に飛ぶ画面の中で、出征する兵士たちに若い女たちが頬にキスしている。ハグをする。

兵士の襟に小さな花を付けてやっています。

わっしがなにげなく「かーちゃん、あの花はなんだ?」と訊くと、かーちゃんが

「forget-me-not」という、と言ったので一挙にガキなりに泣けてきたのをおぼえておる。

半分くらいしか人間でないガキにすら、画面に映っている恋人たちの「笑顔」の意味がわかったもののようである。

わっしの記憶ではラムの随筆のなかで「それまでは違う名前で呼ばれていたが第一次世界大戦のとき出征する恋人が自分を忘れないことを祈って女たちがドイツ語では「勿忘草」 と呼ばれていたこの花を英語でも「忘れな草」と呼ぶようになった」と書いてあったはずですが、いまこのブログを書くのにインターネットを調べてみると、違う説明がなされています。ラムの全集はクライストチャーチからくるまで30分くらい行ったところにある牧場の鍵のかかった書庫の右上から二番目の棚にあるので、いまちょっと調べてみるというわけにはいかん。

スペインのひとは写真を撮られるのをいやがりません。

黙って撮られるのはいやだけど、「撮ってもいいかね?」と訊いて、「やだね」と答えるひとに会ったことがない。

でもスペインのひとの礼儀に順えば、写真を撮ったあとに、どんなふうに撮れたか見せてあげなければいけない。デジカメの後ろのスクリーンで、「ほら、こんなふうに撮れたよ」

と見せてあげると、うまく撮れていれば「おお、こんなにうまく撮ってくれてありがとう」

と言う。「ほんとうに、ありがとう」

うまく撮れていない、と思うと、「もう一回撮れ」と言う。

ひとによっては納得がいくまで写真を撮らせます。

たとえばバルセロナの中世から殆ど姿を変えぬ石で出来た町にいると、その気持がわかるようになります。

階段の石がひとの踏み跡でへこんでいるようなアパートに住んでいるひとというのは、人間などは太陽が作り出した一瞬の影のようなものであって、ちょうど、影がうつろうようにすぐに消えてしまう存在なのだとわかってしまう。

王様でも靴職人でも同じである。

わっしはヨーロッパ人の「自分をおぼえていてください」という情熱が好きです。

到底「ヨーロッパ人」とは言えないイギリス人も同じである。

スペイン人やフランス人に較べるとずっと気取り屋なので口が裂けても「こんなにうまく撮ってくれてありがとう」とは言わぬが、自分の存在など儚いものなのだから、誰かにおぼえていて欲しい、と思う。

「空軍博物館」のようなところへ行くとたいてい入り口の脇に無数の名前を刻み込んだ巨大な壁があります。

そこには無数の若者の名前が刻まれていて、その若者がどの町から出征して、何歳で、どんな戦場で死んだかが刻まれている。

そういう壁の前には必ず、何人かの無言でただじっと若者たちの名前を目で追いかけているひとたちがいる。

自分たちの自由とそれから派生する価値を守るために死んだ若者たちに出来ることは彼らを「忘れないようにする」以外には何もないからです。

BBCの香港陥落のドキュメントのなかで淡々と日本軍の侵攻を描写する女のひとが出てきます。

イギリス式の庭園を見渡すテラスの椅子に腰掛けて、午後の日差しを浴びながら静かに話をする女のひとは、まるで角に出来たデイリーの話をしているのでもあるかのようです。

「それから日本軍の兵士たちはヴィクトリアの丘の上にある病院にやってきました」

「一階には5人の若い看護婦がいました」

「そのうちに日本人の下士官兵がやってきて、5人の看護婦は二階に来るように、と言いました」

ここまで女のひとが単なる傍観的な証言者であると思って見ていたわっしは、ちょっと衝撃を受けます。その女のひとは微笑でもしかねないやりかたで、こう言ったのだ。

「わたしも、そこで日本の兵士に代わる代わる強姦されました」

その次の言葉は、わっしが(どんなに日本が好きであっても)日本人ではなくて、この女のひとと同じアイデンティティであることをよくわからせたと思います。女の人は、ちょっとカメラから眼を反らせて、こう言った。

「It wasn’t very nice.」

わっしは怒りよりも顔を覆って泣いてしまう。

泣いたり喚いたりしない「It wasn’t very nice.」のほうが、わっしの同族には遙かに強烈である。

英国民が忘れてはならないことなので、この女のひとはインタビューを受ける気になったのでしょう。こういう証言をして女のひとにとって良いことはひとつもない。

英国という国は陰口社会の王様のような国なので、わっしには少なくとも女のひとの覚悟もわかっているわけです。

でも、このひとも「わたしを忘れないでいてくれ」と言っているのである。

プロジェクタの画面の中で、忘れな草を襟につけてもらった若い兵士はいまや列車に乗り込んで、大きく手をふっています。

画面を見ているわっしらは、実はみな知っているのだ。

この若い兵士たちが二度と帰らなかったことを。

ガリポリの洞窟で、あるものは砲撃で崩落した砂に埋もれ、あるものはトルコ兵に夜大きな反りのあるナイフで寝首をかかれて死んでしまった。

It wasn’t very nice. とわれわれのアンダーステートメントの伝統に基づいて呟いた女のひともわっしに何回も写真の撮り直しを迫ったスペイン人のおっちゃんも、帰らなかった兵士を見送った恋人達も、みな、あっというまに死んでしまう。

あたりまえではないか、と言うひともいるでしょうが、わっしには、バカなことに、まだこれが納得がいかないのです。

だって、そうだとするとわれわれの乗る飛行機は必ず墜落する飛行機ではないか。

それとも、神様はそうやって消滅してゆくひとりひとりをおぼえていて、ときどき思い出してくれるから、それでよいとすべきなのか。

わっしには、わからないことが多すぎるようです。

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ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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1 Response to forget-me-not

  1. niitarsan says:

    日本人にも「私を忘れないでください」という思いはもちろんあります。でも、仏教では輪廻というベースの思想があり、現世を終えて仏になった後もまた違う姿で次の生を生きることになっているし、浄土にいけば先に仏になった身内や親しかった人々にも再び会えるのだ、という気持ちが支えになったいるから、キリスト教世界の方々よりはその気持は淡いものなのかもしれない。

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