異文化の声

水原弘

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E5%BC%98

の「黒い花びら」が歌えるようになったので、すっかり喜んで、パンケーキを焼きながら大声で歌っていたら、モニに怒られた。

どうも周囲の感化を極めて受けやすい旦那(すなわちわしですね)が急速に日本化しつつあるのではないかと危惧しているようである。タタミゼ、というか。

先週は西田佐知子の「コーヒールンバ」ばかり歌っておったしな。

でも昔の日本のひとというのは「水原弘」といい「フランク永井」といいカッコイイ声が出るひとがいたので不思議である。

わっしの大好きなBBキングはフランク・シナトラきちがいであって、寝る前にはいつも聴いているという。

「あの声」が出たらもっとギターが下手だったろう、という。

発声は自意識のありように深い関連がある。

たとえば学者には高い声で話す人が多いが、これは高い声の学者たちが聞いたら怒りそうな心理的理由によると一般に信じられている。

竹内均先生くらいになればいっそ聞いていて心地よいが。

外国人は日本に来ると、「音」の違和感に悩む。

「深い声」で話す人がいないのが、まず第一。

ディープボイスはひとの心に安心をもたらす、とわっしも思う。

柔らかみのある深い声で話す人は、それだけで社会の財産です。

スペインのひとは深い声で話す人が多い。

酒場にゆくと深い声が天井や壁に響いて、あの独特のスペインの洞窟じみた酒場の音響を成している。

大げさに言うと、そこには音響化された成熟した文明があるのであって、アングロサクソン文化もまだダメじゃん、という気になります。

「日本の女の子はまるでダッチワイフのような声で話す」と言ったボストン人の友達がおった。わっしはまだダッチワイフと会話する幸運に恵まれたことがないので彼の説が本当かどうかわからないが、言いたいことはわからなくはない。

最近でもくるまで出かけた某所のau事務所に出かけたら。どう表現すればいいのか、人間の発声の仕方で最も浅いのではないかと思える咽頭2ミリくらいのところで出ていそうな声で「いらっしゃいませえー」と言われて、回れ右をしてその場で帰った。

なんだか幼児ポルノ的な気味の悪さである。

ボストン人の「友達」は仕事上は信頼できる洞察をもたらすひとであるが、「日本の女は貞操観念がまるでない」と言いつつ37日間の滞在中毎日毎日リサーチ手伝いの大学生から銀行員の奥さんからついにはホストの娘さんまで、美人と見れば手当たりしだい寝室をともにして37日で38人という乱交をつくした人間なので、その程度のひとが言ったことだとおもってもよい。

ついでに述べておくと、このひとはまた日本人は「行為中の声まで三流ポルノだ」と言ったのであって、わっしはやむをえず絶交した。

しかし、わっしもテレビに出てくるひとの声を聞いていると実際に頭痛がしてくるのでテレビを観ないのは事実です。

わっしはそばが大好きだが、蕎麦屋恐怖症でもある。

言うまでも無し。あの「ずずぅー、ずるずるじゅるじゅる」という音と共存できないからです。

「かぁー、ぺっ」もたまらんが、あの「ずずずずぅー」は、もっとたまらん。

しかし頭ではあの恐るべき音が「そば文化」の一部なのを理解しているので、これはモンクを言っているのではない。

異文化と接するのは、てーへんだなあ、と思うだけです。

ラーメン屋にも行かないが、理由は音ではない。あれは、不味い。

「くじら軒」くらいならかろうじて食べられるが、他のところは、全然ダメです。

あんなものがおいしいと思う観点というものが、すでにわっしにはわからないので、

自分でも日本の食べ物について話す資格がないという自覚はあります。

日本人のように味覚が鋭敏なひとの集団が、なんであんなものが好きなのかどーしてもわかりません。ニューヨークやシドニーでは、そりゃ「一風堂」でもなんでも流行るでしょうが。

ものを噛む音も正直に言うとたまらんちんであります。

くっちゃくっちゃくっちゃくっちゃ食べて、終いには「舌鼓」まで打つ。

そーゆーときには、わっしは微笑みつつ「文化の壁」の高さを思いながら、そっとナイフとフォークを置きます。

「昼ご飯を食べ過ぎました」と言う。

誤解しては困りますが、わっしは、だから日本のひとはダメである、と言っているのではない。

現代の日本人が従姉と結婚したり江戸時代に娘と性交渉をもったりしても普通であったのと同じ

http://d.hatena.ne.jp/gamayauber/20080520/1211258122

単なる習慣の違いである。

逆もある。

わっしは実は蝉の声が好きです。

「だから、なに?」と言われそうですが、蝉の声が好きな外国人は、というのが大胆すぎれば、ニュージーランド人は、わっしひとりであると思う。

普通のニュージーランド人は夏の鎌倉で大合唱する蝉に遭遇すると耳を押さえて

「ぎゃあ、うるせえ、道路工事のドリルのようである」と言う。

ところが、わっしは日本の蝉の大合唱が好きなので、「ああ日本はこういうところはいいなあ」と思ってしまう。

昨日、東京では随分評判がよいフランス料理屋に行きました。

招待された上に、天然自然の状態ですら目立ち過ぎるモニは相変わらずちやほやされるのでご機嫌も良かったのですが、

小さな声で「何かが違うのは、なぜであると思うか?」という。

そう。

声が違う。

天井や壁に反射して場所中に漲るべきあの深みのある声の影がない。

でも、もうそれはレストランの責任ではなくて、文化の違いという大きな壁の一部であるようにわっしには思えます。

This entry was posted in 言語と習慣. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s