Monthly Archives: August 2008

F4F ワイルドキャット

手を動かしてものをつくるのが大好きなので、わっしは、ガキガメの頃、よくものをつくった。いまでも犬小屋やつくりつけの本棚をつくるのは大好きであるし、朝起きてやる気があるといきなり壁紙を剥がしにかかって部屋の模様がえをする。 先週のように沈思黙考&才能のひらめきによって部屋の壁をピンクに塗りかえて「二時間以内に違う色に塗り替えないと離婚する」とモニに言われたりすることもなくはないが、作業の結果も通常はおおむね良好である。 自転車も「コルナゴ」のようなフレームと部品を別々に買って組み立てるのが好きであるし、自動車も18歳のとき買ったミニ・クラブマン以来、必ず一台はキャブレタのクルマをもっていて、エンジンルームをいじりまわすのが好きである。 もっともむかしむかし手入れ中のクルマに乗せられたガールフレンドの皆さんは、ダッシュボードなどという上品なものはとうの昔にはぎ取られていて、スタータは鍵など不要、リード線直結、あまつさえ床の穴から道路の表面が見えるクルマでデートさせられて顔がひきつりまくっていたが、そのぐらいのことで顔がひきつるのにドライブの後では「今日は大丈夫である」という度胸はあったのであって神秘であった。(下品でごめん) かように「手を動かしてものをつくる」のが好きであったわっしはもちろんプラスティックモデルも好きであって、とりわけ飛行機が好きでした。 スピットファイアが好きだったのはもちろんですが、イギリス圏ではぜーんぜん人気が無いF4Fがわしは好きだった。遙か昔に生産中止になったエアフィックスもモノグラムも持っていた。レベルはもちろんである。 日本のひとなら必ず知っているに違いない、F4Fはミツビシが誇る軽戦闘機「ゼロ」と正面から激闘した機種であって、特に伝統的に先進兵器が与えられた試しがない海兵隊は かなり後になってもこの戦闘機で戦わなければならなかった。 日本のパイロットで多少でも腕があるひとたちは、F4Fと出会うと垂直旋回、という破天荒な戦法に出ることが多かった。(日本の本を読むと誤解しているひとが多いようですが洋の東西を問わず、空戦で後上方に敵を見て垂直旋回するのは完全な自殺行為です)これに追従しようとして(もし追従できれば空戦の常識として旋回性能に関わらず、目前の零戦はもう撃墜したも同じだから)F4Fが 同様に垂直旋回に入ると、機体重量に対して絶対的にパワーが不足していたF4Fは旋回の頂上で失速、水平錐もみにはいって零戦の餌食になった。 実は、この「楽にF4Fを撃墜できる必殺技」が仇になって、空中で遭遇した場合、F4Fと誤認されやすかったF6Fに対して同じ戦法を用いた日本のベテラン操縦士たちは次々に逆に撃墜されてしまう(F6Fはパワーレイシオが桁違いに大きかったので、垂直旋回の半径はともかく旋回スピードは零戦よりもかえって早いほどだった)のですが、F4Fは、この手にひっかかって零戦との戦いに惨敗します。 その後、サッチウイーブ戦法を編み出してキルレイショでほぼ五分五分の戦いにもっていきますが、わっしがむかしコーフンしたF4Fの戦いはサッチウイーブ以前の空戦であって、F4Fが苦戦を重ねている段階です。たとえば真珠湾から引き上げてくる南雲中将はウエーキを空襲しますが、海兵隊のF4Fは寡兵でもって艦隊に打撃を与える。 出来の悪い飛行機に乗った出来の悪い操縦士たちが闇雲な勇気だけで戦った開戦初頭の何ヶ月かがわっしは好きなのす。 「優等生」(零戦21型)対「ダメガキ」(F4F)の戦いであって、しかし、アメリカ人たちは、しつこいほどの勇気で日本人たちを次第にうんざりさせてゆきます。 防弾装備のない零戦は一機撃墜されるとひとりの搭乗員が死んだわけですが、F4Fの搭乗員たちは、4回も5回も撃墜されても、「今度はぜえったいにまけねえ」と思いながら戻ってきた。 わっしはスマートで優等生的なことがすべからく嫌いなので、こーゆー状況になれば当然 出来が悪いF4Fのほうに心情は傾きます。早川義夫先生も言っているではないか。 「かっこいいことは、なんてかっこわるいんだろう」 わっしの尊敬するMLBの大打者テッドウイリアムスも乗っていた、このF4Fはスピットファイアや零戦のような第二次大戦中の「エリート」たちとは違って、どんな航空博物館でも冷たい扱いですが、わっしは、たとえばワナカの空中ショーにあらわれるF4Fを見ると胸が熱くなる。 ムスタングP51Dなどは当然レシプロの最高傑作ですが、「だからなんだよ」と思ってしまう。 わっしが1942年の戦闘機乗りなら、零戦には乗りたくなかったと考えます。 理由は簡単で零戦は「一瞬の失敗」も許容してくれない戦闘機だったからです。 わっしは何回失敗しても、装甲鋼板と防護ゴムとでともかく生き延びる可能性だけはあるF4Fの操縦席から脱出して落下傘の下にぶら下がりながら「くっそぉー、ゼロめ。次は負けねえぞ。目に物見せてくれるわ」と負け惜しみをつぶやくほうが良い。 機械といえど、文化の違いは出ます。 もっとも敗者復活戦のない零戦の設計者であった堀越二郎の自伝を読むと、堀越技師そのひとは日本帝国の「弱い者、失敗した者は死ね」という思想に強く反発を感じていたのが判ります。 1945年、防空壕から出てF6Fを目撃した堀越技師が「自分は、こんな戦闘機をつくりたかった」 と思うところは、感動的であるだけでなく、日本という当時背伸びをしまくっていた国に真正の航空機技術者がいたことが判って不思議の感に打たれます。 F4Fは装甲をやめて、防護ゴムも外せば垂直旋回を全うできたそうですが、それがわかっていても、どうしても装甲だけは外せなかった当時のアメリカ人エンジニアの技術に対する考え方の「健全さ」は素晴らしいと思う。 さんざん議論をつくした挙げ句装甲板を外すに至る三菱技術陣の記録と読み比べてみて、 文化の違いというものは、これほど深いのか、と考えて息をのんでしまいます。 Advertisements

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徳川家康

徳川家康、というひとを西洋人物事典風に表現すると「16世紀後半から17世紀初頭にかけての軍人政治家。16世紀後半の日本における主潮であった当時の爆発的な生産増大に基礎をおく政治革命に対する反動のシンボルとして登場し全国政権を確立した」 っちゅうような感じでしょうか。 このひとに関する本を読んでいて最も印象に残るのは、その野戦における無類の強さで、「海道一の弓取り」と言われただけのことはある。 なんであるよりも先に「軍人」であったように見えます。 よく考えてみると、これはかなり歴史上の人物としては不思議なことです。 軍事上突出した才能をもった軍人というのは戦争というものが合理性の追求で成り立っている以上通常は守旧的な性格の持ち主ではありえません。 政権を樹立した後の凡庸を通り越して退廃的とすら言えそうな政治上の治績を考えると、狐につままれたような気になります。 このひとの一生を追っていて楽しいのは「三河武士団」の面々が田舎のおっさんたち然としていて可笑しいからで、一向一揆に敵方についた股肱の臣本多正信と戦場で顔をあわせるところなどはアンダルシアの騎士もののドタバタを思わせる。 田舎者の一途さも狡さも結局は主君に槍を向けることが出来ない純朴さもすべて現れていて、後の徳川きっての陰謀家 といえども一個の「三河者」であったことがわかります。 徳川家康というひとは君主としては、恩賞に吝いので有名でした。 したがって家来はいつもビンボーであった。 押しも押されもせぬ大勢力になっても譜代だけはビンボーで鎧すらボロボロであって、よく他国の武者に嗤われた、と本にはあります。領地の石高にしても、ぎょっとするほど少ない。 あまりに徳川家康がけちなので、徳川家の家臣は寄ると触ると家康の猛烈な悪口に明け暮れた、と言いますが、その割には、家康の近習は家康本人が危地に陥るたびに戦場では死にものぐるいで戦って皆敵のほうに向かって倒れて死んだ、といいます。 健気である。 わっしはまだこのあいだから十二三冊、しかも活字印刷の本を読んだだけのところなのでいろいろ言うのは控えますが、この「鎖国」という世にも奇妙な政策をとって、日本を260年間眠らせた支配者には面白いところがたくさんあって、なかなか飽きません。 家康は、スペインのものがとても好きで、鎧甲冑はスペインの騎士のものを身につけていたので有名です。ほら、ロスアンジェルスあたりのスペイン料理屋に行くと美々しい銀色の、面がカッシャーンと落ちてくるフルフェイスの鎧が飾ってあるでしょう? あれです。 食べ物もスペインの宣教師が紹介したばかりのバリバリの ヌーベル・キュイジーヌ、舶来料理の代表であった「天麩羅」が好きで好きで、胃がんで死んだとわかるまでは、長いあいだ「鯛の天麩羅」の食べ過ぎで死んだ、と考えられていたほどでした。 わっしは、いまのところ、徳川家康が鎖国に向かうのは、三河人に対する観察で培われた「日本人の危うさ」という考えからではないか、と思っています。 西洋のものなんか受け入れたら、舞い上がってしまってどーもならん、と思ったのではないか。ボロイ鎧に身を包んで決死の戦いをする田舎者の一途さにしか、自分たち三河者がこの先、生き延びる道はない、と思ったのかも知れません。 徳川家康というひとが「国家」や「社会」という概念を終生もたないで終わってしまったのは、日本という国にとって不幸なことだった、とわっしは考えますが、安物のオンボロ鎧を身につけて三方原当時最強であって、どう戦ってもまず絶対に敵わない身繕いも華やかな武田の赤備えの騎馬武者に遮二無二突き進んで死んでいった「田舎者」たちのことを考えると、切ない気持ちがして、胸がいっぱいになります。 三河の「田舎者」は、日本人のひとつの源流であるようです。

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ソウル(soul)

こんなことを言うと怒る人がいっぱいいるに決まっているが、日本には「ソウル」がこもっているものがあまりない。 結局は、それで8ヶ月の滞在予定が2ヶ月になったのではないかと考えていました。 たとえば観世栄夫が演じた「井筒」には無条件に「ソウル」が篭もっていると思う。 ビデオで観ていてさえ紛いようのないタマシイがある。 女(むすめ)が業平の姿で井戸を覗き込む瞬間などは地の「祝福されざる精霊」たちがいっせいに湧き出でて女のために泣いているのが肌でわかります。 でも梅若の能楽には何をやってもソウルがない。 ただ器用なだけと見えてしまうのです。 運慶の仁王像にはソウルがある。 盛り上がった筋肉は「死」に囲繞(いにょう)されて飽くまで孤独であって、表情に現れた怒りは「無」 に包囲されているひとの絶望の表現だと誰が見てもわかります。 わっしは日本の文化が「他と本質的に異なる」という点で大好きですが、日本の社会にはどうしてもなじめなかったのを正直に認めないわけにはいかないのす。 うまく言えないが、それはなんだか「こしらえもの」であって、「うまく出来てはいるけどぐっとは来ない」ものが多いようでした。 人間の発声ですら、作り物じみて聞こえたのでした。 (日本のお友達、ほんとにごめん) クルマというものは機械が文化的存在になるに至った稀有な例ですが、告白すると、わっしはどうしてもトヨタが好きになれないのす。わっしはいまでもニュージーランドにアルテッツアというクルマを持っていますが、オリジナルのBMW320iよりも完璧にBMW 320iであって直6ですら本家のBMWよりもBMW風にふけ抜ける。 計器板のアンバーもBMWよりも鮮やかなアンバーです。 でもタマシイがない。 どこにも、理不尽な愛情を感じさせるところがないのです。 同じ日本のクルマであればMX5は、そりゃ確かにロータスのマネかもしれないけど、あのクルマには、クルマが好きな人間はみな知っている、「スポーツ」なタマシイがやはり篭もっているのす。 だから、そーゆーところに何かがあるに違いない。 「なにかがおかしい」 と思ってしまうのです。 そしてなにかがおかしいのに日本にずっといると、それが判らなくなってゆくような恐怖心に捕らわれます。 なんだか、いつも誤魔化されているような気がしてしまう。 ほんとうに表現するのが難しいが、わっしは、日本にいるあいだじゅう、大変な恐怖心をもっておった。はっきりと言葉にすることが出来ないのに、毎日毎日がプラスティックな感じがするのです。 あれは、いったい何だろう? ただの適応障害なんだろうか? モニとわっしが「これは確かにふつーの、現実の世界なんだ」と安心してリラックスして話せたのは、午前5時の大久保で南米からやってきた売春婦のひとたちと話をしたときくらいであった。 こんなことを書いてもきっと日本のひとに判ってはもらえないが、わっしは、これを決して決して日本をくさすために書いているのではないのです。 そんな意図があれば母国語で書いてます。 英語が読める人たちは、わっしの「ブログ」が英語のものはいつも注意深く日本のネガティブな面を避けて書いてあるのを知っていると思います。 ただ、なぜだろうと思って書いている。 そこに手を伸ばせばさわれる壁一つであっても、日本にいるあいだは、いつも、「これは現実ではないのではないか」と心のどこかで思っていたような気がするのです。 こうやって書いていても、いかにもうまく言えていないが。 (じゃあ、おまえが考える「ソウル」がある風景ってどんななんだというひとがいると思いますが、 笑われるかもしれないが、こんなではないでしょうか) あほっぽい、っすか?

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ロシア人たち

ロシア人の女の子と付き合っていた頃、「ロシアン・ボール」に連れて行かれたことがある。ニューヨークに住むロシア人が一堂に会して故国をなつかしむのだ、と言う。 一緒に来い、という。 タキシードを着て来い、と言われて例によって例のごとくグズルわっし。 「なあんで、わっしがロシア人の舞踏会に行かねばなんねえの。わし、タキシードとか着ると蕁麻疹が出る体質なんすけど。それに、かーちゃんにも、おまえのように頭はからっぽだけど見た目だけは可愛いガキはパーティになんかに行くと誘拐されてタンジールに売り飛ばされるから行ってはいけません、と言われてるんだけど」 「あなたを、みんなに見せびらかしたいの。あなた、わたしの気持ちが分からないの? こんなにカッコイイボーイフレンドがいるのを見せたいのよ」 「わっし、カッコイイのか?」 「もちろん、ガメは、ゴーーーージャスよ」 「行きます」 (きっぱり) とおだてに弱いわっしは出かけたのであった。 ロシアンボールは、「プラザ合意」で有名なプラザホテル(このあいだ身売りしてアパートになっちったけどな)の一階のボールルームで開かれる。 会場の入り口には、やたら上品な、ばあちゃんがふたりで立っておって、このダブル上品ばあちゃんたちと握手しなければ会場に入れない仕組みになっておる。 「あのばあちゃんたちって、なんだ? ロシアの叶姉妹なのか?」と考える、わっし。 しわしわ叶姉妹。 ガールフレンド(当時)が、さっと耳打ちしてくれます。 「ロマノフ王朝の皇女たちよ。お行儀よくしてね」 うっそぉー。 わっしは心にもないことをするのが得意なので、うやうやしく挨拶をして握手をして会場にはいったのであった。 同じテーブルには、やたら綺麗なおばちゃんがひとりとなんだかロシア版の杉良太郎みたいなおっちゃん。ベルギー人のおばちゃんにフランス人のにーちゃん、あとはロシア人のねーちゃんに、映画監督だとかいう態度のでかいお茶の水博士をせいたかのっぽにしたようなポーランド人のにーちゃんがおった。いま思い出してもあんなに鼻がデカイやつは後にも先にも初めて見た。シラノ・ド・ベルジュラックみてえ。 ところで、この「綺麗なおばちゃん」と話してみると、英語は下手だが話すことに知性が感じられて、わっしはすっかり楽しくなってしまった。 しかも、おばちゃん、語彙は少ないが話題はホーフである。 大学を出て初めて赴任したベトナムから始まってエジプト、東欧、アフガニスタン…. しばらく話していて、「任地が政治的焦点だったところばかりで、まるでKGBのスパイみたいですね」ときわどい冗談をとばすわっし。 ところがテーブルのひとたちが、みないっせいに大笑いします。 「ガメちゃん、このひとはね、ほんとうにKGBの幹部スパイだったんだよ」 と初めは打ち解けにくかったけども、話してみるとなかなかやさしいおっちゃんであることがわかったリョータロースキーのおっちゃんが言う。 さっきからカタコトに毛が生えた程度の英語を駆使して一生懸命話をしてくれていたおばちゃんはモスクワ大学を首席で卒業してまっすぐKGBにはいったばりばりのスパイであったそーな。ゴルバチョフのときにアメリカに亡命してきた。 へー。 わっしは、アメリカっちゅうところは相変わらずどんな人間がいるかわからんところじゃのー、と感心してしまった。 テーブルに座って、踊るひとたちを寂しそうに眺めている女の子に気がついてガールフレンドの許可を得て踊りに誘います。この女の子は毎週末モスクワからプライベートジェットでニューヨークに来るのだと言う。 わっしの知識に照らすと、どっからどー考えてもマフィアの親分の娘ですが、とても気立てが良い。 しばらく一緒に踊って、テーブルに戻ると、まるで小学生のような無防備さで「一緒に踊ってくれてどうもありがとう」と言う。 わっしはなんだか切ないような心配なような気持ちになってしまいました。 「あなたのように綺麗な人は踊りに誘われたからといって「ありがとう」とは、言わないものです」と説明します。 パーティが進んでくると、伝統的な舞踏会を粛々と進める年配のロシア人たちと、それではつまらなくて、ニューヨークならどこにでもある現代的なダンスパーティを楽しむ若い人たちのふたつに分かれてしまった。 わっしは伝統的な舞踏会のほうがおもしろそうなので、ずっと、そっちの部屋にいました。 ニューヨークの「不動産王」、おめーはくびだ!ドナルド・トランプが来ておった。 このロシアンボール以来、わっしはロシア人の友達がたくさん出来た。 ニューヨークに行けば、相変わらず、ロシア人たちのパーティによく出かけます。 … Continue reading

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縮んでゆく日本

8ヶ月の予定を大幅に短縮して2ヶ月で日本を離れてしまったので大きなことは言えないが、 日本の社会の様子は深刻に見えました。 わっしは、あんなに不調な日本を見たことがない。 空港から一歩出ただけで、「なんだか元気がない」感じなのです。 かーちゃんが若いときに訪れた日本は破天荒でびっくりするようなものがたくさんある国だったそうですが、それから22年経った日本は、さびれた田舎の商店街のようである(ごめん)。 なぜだろうか。 いままでに何回もいろいろなひとによって指摘されている産業構造上の問題は 前にも書いてます。 http://moa2008.wordpress.com/2008/05/11/%e5%a4%b1%e3%82%8f%e3%82%8c%e3%81%9f10%e5%b9%b4/ シャチョーによると、この日のブログに(悪意をもって)2ちゃんねるにリンクを貼りまくったひとがいたそうで、あちこちのスレッドで、この「反日」ブログに反論する書き込みがたくさんあったそうです。 特に日本人の敵愾心をかきたてた部分は 「1980年代の終わりに計画されて1994年頃に実際の建設が始まった新しい世界は「IT技術」と「バイオ技術革新」と「金融革命」の三つの柱の上に立っていますが、 日本にはそのどれにもアドバンテージがない。種を明かせば旧経済世界において日本に完全に出し抜かれたアメリカ人の皆さんが、日本をアドバーサリ(adversary)と見なして日本のひとが不得手な三つの分野を足がかりに一発逆転を狙って目論見通り、世界の構造を変更して、まんまと目的をはたしただけのことなので当たり前とも言えますが、それにしても日本の政府も見事に相手の手に嵌ったものです。注文相撲ではないか。」 という部分であったようで、こんなどこにでも書かれているような部分にいまさら「反日」だと言って騒ぎ立てるひとたちがいるということだけでも驚いてしまいましたが、 シャチョーが引用して送ってきてくれた発言、 「IT技術が遅れている、というところだけとってもバカガイジンなのが判る。ニンテンドーDSやWiiは世界を席巻しているし、ゲームソフトだって日本のものが主流なのに。第一、携帯は世界一先進的で他の国を圧倒しているではないか」 という意見(ひとりではなくていくつかあったそうです)には、伝えてくれたシャチョーもスカイプで苦笑していました。 しかし、この意見は考えてみると、もう少しマジメに検討したほうがよいところが有るのかも知れません。ここには日本のひとの「IT」という概念に対する誤解があらわれているかもしれぬ。 ご存じのようにグーデンベルクの金属活字を使った活版印刷は世界を変えてしまいましたが、活版印刷技術だけなら14世紀の高麗人はもう実用化していました。 しかし高麗の活版印刷は世界どころか、高麗の社会すら変え得なかった。 アップルはパワーマックの頃、ユーリズミクスの「1984」をテーマ曲に採用して、アップルIIがもともと目指していた「オンラインにフックされた個人用のコンピュータ」がいまこそ世界を救うのだ、と大々的に宣伝しました。 全体主義者たちが勝利して、この世界を支配するようになっても、人間の手に個人が所有するオンラインのPCが一台でも残っていれば、まだ人間の側に勝利する可能性が残されているのだ、というのは、アラン・ケイ以来のコンピュータ人のロマンチシズムですが、ITは、そこから一歩積極的に「全体の部分としての個人」という従来の個人のありかたを完全に破壊しようとしています。 全体は個人と個人との関係におけるマッチング機能としてのみ存在する意義があるのであって、しかも未来においては不必要なものである、と「IT革命」(言葉としてはいかにも軽薄でカッコワルイ言葉だが)は主張している。 たとえば「国家」など、いらない、と言っているのです。 わっしが知っている会社の経営者はこのひとの会社の延べ200億円を投じたIT事業の失敗を嘆いて、「インターネットというのは、ほんとうに質が悪いよ。秘密は守られないし、なかなか金が取れん」と言ってましたが、そりゃそうです。 インターネットというものは、まっすぐに未来を見れば、いままでのビジネスモデルなど破壊しつくして企業の存在すら否定しようとしているのですから。 インターネットが紡ぎ出す世界にあっては、すべてのものが「分散」してゆくのは当然のなりゆきであります。どこまで分散してゆくかというと個人ひとりひとりにまで分散していってテクノロジーが単に個人間のノードとなるところまで分散してゆくのだと思います。 わっしは中国という国の未来にいつも悲観的で中国人の友達にかみつかれてばかりいますが、懲りずに言うと、国権主義的な国家はそれが国権的であるというだけの理由でも生き残っていけるわけがない。 「国家」などという「古い家」が、この先いつまでも機能すると考えている人というのは、わっしの考えでは相当にお目出度いひとだと考えます。 話が抽象的に過ぎると考えるひとたちのために話し方を変えると、いまの日本では、たとえばifeelgroovyのシャチョーが日本人であるのは当たり前のことです。 日本人の両親から日本で生まれて日本の学校を出た。 だからシャチョーが日本人であることは当たり前であって、役所に行けば住民票があり、 謄本がある。 でも、わっしは、そういうことすら未来においては続くと思っていません。 そんなに遠くない未来に「日本人として日本政府が適格である」と考えた人間にしか少なくとも100%の国民としての権利が与えられないだろう、と考えるだけの根拠があります。国家が国民を選別する日、取捨選択する日がきっと来るに違いない。 それはなぜかというと、いまの世界では前に http://moa2008.wordpress.com/1969/12/31/%e3%80%8c%e8%bb%a2%e5%9b%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%b2%e3%81%a8%e3%81%9f%e3%81%a1/ に書いたように、個人の側で自分の国を選択することが普通のことになりつつあるからで、もし国家の側で個人を選別することを始めなければ、その国は遠からずゴミためになってしまいます。 日本のひとは「競争原理」というものがひとりひとりの個人にとってはいかに恐ろしいものか判っていないように、わっしには思えます。 わっしはつい最近まで自分でも驚くほど長い間日本という国が好きでしたが、その大きな理由は日本という国の、社会の競争のびっくりするほどの少なさからくる「生きやすさ」にあったと思っています。わっし自身は西洋社会の激しい「競争」に骨がらみなじんでしまっているので、激しい競争に勝利することがあたりまえになった、それがないとなんとなく物足りないビョーキな人間ですが、日本という誰にとっても(他の社会に較べれば)競争などないに等しいラクショー社会に生き残って欲しかった、という気持ちがあるのです。 … Continue reading

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デクノボーの幸福 (「Amor Amor」Arno Elias )

通りすがりの女のひとがつけている香水の香りの素晴らしさに一瞬振り向いたり、 立ち寄ったパン屋さんのベルギー人姉妹の冗談が思いの外おかしくて笑い転げてしまったり、ジョギングの途中でカフェで流れてきた(わしの好きな)Arno Elias の曲に聴き惚れて体で調子をとっていたら柵につながれていたリトリーバの子犬が一緒に踊り出したり、わっしの一日はそーゆー絶え間なく続く些細な出来事で出来ています。 わっしのこの家にはたいそうゴージャスな美人だが性格の悪いAと真っ黒で眼がきらきら光る愛らしい性格のMという二匹の猫がいる。 Aは根っからの怠け者なので、一日中カウチでごろごろしています。 わっしに似ておる。 Mはまじめな性格でわっしがひさかたぶりに家に帰ってくると全速力で走ってきて足にほっぺたをこすりつけてごろごろ言う気立ての良さですが妄想癖がある。わっしが二階から双眼鏡で観察していると、よくパドックを虎のような歩き方で徘徊しておる。 どうも、自分を虎だと妄想して、「おれは孤独な森のハンターだ」と心につぶやいているもののようである。雌猫なのに。 今日のように寒くて天気が悪い日には。わっしは万年筆を握りしめて、友達たちからの手紙への返事を書きます。忙しくハシゴをあちこちに動かしてすっかり序列の乱れたライブリの本棚の本を整理していれかえる。 モニのためにパンプキンスープをつくったり、先週古い壁紙をはがしたまま放ったらかしの浴室の壁紙はどんなのがいいかモニとふたりで見本帳をめくったりしている。 壁のコンセントを増やすのにドリルで穴を空けたり、モニが絵柄を描いたタイル(二階浴室用)を窯で焼いたりする。 こういう毎日の些事に没頭して暮らしていると、わっしはしみじみと幸福であって、自分はつくづく専業主婦にむいておる、という以前からの考えが実感となって胸に迫ってきます。トーシカなんてやめて「奥さん」になるというのはどうか。 モニはときどきふさけて顔にひげを描いて「フランス陸軍大佐」の役をやって喜んでいたりするが、ひょっとするとネクタイにスーツも似合うのではないか。 (ジョーダンです) 大好きな家事に飽きると、わっしは地下からワインを出してきて、モニとふたりで暖炉の前で遊ぶ。モニとわっしの家にはありとあらゆるボードゲームが貯蔵されているので、他のゲームをやればよさそうなものであるが、目下は36連敗中のチェスしかやらぬ。 モニはわっしがあまりに計画性のない手を打つので、わっしがほんとうはアホなひとなのではないか、と疑いはじめているもののようであるが、モニというひとはのんびりなので、これほど明白な事実であっても心から確信するには六〇年はかかるのでダイジョビである。その頃は諦めという美徳を身につけてもいるに違いなし。 チェスにも飽きると、わしらはホールに行って踊ります。 家の中でふたりきりとは言え、ちゃんと盛装するのだ。 顔を近づけると、わしの大好きな良い匂いがする。 わっしなどは、この先もどうせたいしたことはなくて妹の予言どおり 「あらゆる条件と素晴らしい妻および家族に恵まれながら何もしなかった男ここに眠る」 という墓碑銘の下に眠ることになるに決まってますが、まあ、それでもいいや。 下のリンクの動画が、この頃わっしがジョギングするときによく聴く、欧州で、すげー人気のArno Elias のAmor Amorだす。 (Nino版。Caroline版も良いが) 聴いているだけで体が動き出すでしょう? http://uk.youtube.com/watch?v=zclf9Optg5w

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Fokker Dr.1

この頃はフライトシミュレーターの人気が無いので、残念です。 わっしは以前にもちっとだけ触れた http://moa2008.wordpress.com/1969/12/31/%e5%a4%a7%e7%a9%ba%e3%81%ab%e6%ad%bb%e3%81%99/ ことがありますが、フライトシミュレーターが好きである。 レシプロが好き。 しかも、第一次世界大戦ものがいちばん好きです。 第一次世界大戦ものが好きなのですが、飛行機に詳しいひとなら知っているとおり、この分野はゲームの世界でいちばんフラストレーションがつのる分野なんす。 当時の実機の空力に忠実なシミュレーションが皆無。 第一次世界大戦の名機のなかで、わっしの最も好きな飛行機はFokker Dr.1(フォッカートリプレーン) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC_Dr.I ですが、この飛行機に対する理解がそもそも間違っておる。 この戦闘機が何故これほど有名なのかをアメリカのひとや日本のひとはあまりにもわかっておらぬ、この鈍足な戦闘機がなぜこれほど有名なのかというと、それはFokker Dr.1が「空中でキックターンが出来た歴史上唯一の戦闘機」だからです。 そういう意味では、ものすごいハイテク戦闘機だった。 垂直旋回でも左旋回でも右旋回でもなくて、くるっとその場で水平に180度ターンが出来た歴史上ゆいいつの飛行機であって、だからこそたった一機で(何回も離脱できるチャンスがありながら)7機のイギリス機を相手に平然と空中戦を戦ったフォスや「レッドバロン」リヒトホーヘンの愛機であった。 日本海軍に開戦の決心をさせた軽戦闘機の傑作零戦は旋回半径の小ささで有名でしたが、 Fokker Dr.1は旋回半径が文字通り0だった。 だから、この最大速度が同時代のどの主力戦闘機にも劣った戦闘機に操縦技量にすぐれたエースたち「だけ」がのりたがったのでした。 英語でも日本語でも、「視界が悪い上に速度が遅くダイブに際して脆弱性があったので300機くらいしかつくられなかった」と書いてある本がありますが、大間違いのコンコンチキであります。 そうではない。 ウソだとおもったらドイツ人をつかまえて訊いてごらんなさい。 いまでも名機の第一に数えるから。 Fokker Dr.1は戦闘機のなかでも乗り手を選ぶという点で空前絶後の戦闘機だったのであります。 フォッカー社は初めからこの戦闘機を大量生産する意図はなかった。 この戦闘機の隔絶した栄光は、「選ばれたもののための戦闘機」であったことにあります。 モンテグラッパの限定版万年筆みたい。 モンテグラッパ、モンブランに買収されてからだいぶんかっこわるくなったけどな。 だからして、このフォッカートライプレーンは、どういうか、他の戦闘機と違う位相で空中戦を戦っておった。 当時ですら、どのくらい思想的にかみあわない空中戦を行っていたかは、たとえばアメリカの人気TVシリーズ「Dogfights」(格闘戦)のすげー精密なCGで描かれた検証を見ても納得がいきます。 わっしはFokker Dr.1のこの特性をフルに使って空中戦をやりたいのに、どーゆーわけか、ちゃんと空力を計算したソフトがないのです。 さびしい。 あのフォスやレッドバロンの、後上方から迫る敵機にいきなり機体ごと振り返って機銃を浴びせかける、必殺の技を追体験したいのに。 誰か、まともなWW1のフライトシムをつくらないかなあ。 画像は、ロシアの女性撃墜王、リディア・ウラジミーロヴナ・リトヴァク  (Lydia Vladimirovna Litvyak) … Continue reading

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