無明

人間の一生というものの最大のバカバカしさは結局われわれはみな死んでしまう、ということにある。
人類の行く末を案じようが、幸せな家庭を築こうが、大金持ちになってやりたいことをやりつくそうが、みな呆気なく死んでしまう、という点では同じである。

立ち話をしながら、ちょっと姿勢を変えた人の靴裏で踏みにじられる蟻や、血を吸った後に逃げ損ねて平手でたたきつぶされる蚊と本質的になにも変わらない。

非常に美しい若い女のひとの解剖に立ち会ったことがある。
光に反射する金色の柔らかな産毛がまだ生きている人のようだった。

メスがはいると、その下から薄い脂肪層や他の器官があらわれる。
特に乳房のあたりにメスがはいる頃には肉体が服かなにかであるかのように感じられたのが不思議だった。
輝くように美しい肉体の下から、陳腐な筋肉や骨があらわれるのを見ていると、われわれの存在を超えた者が、われわれを憐れんでいる声が聞こえるような気がした。

実際、そのとき遠い遙かなところで嗚咽するひとの声を感じていた。

わしは、その頃から「魂」というものの存在を願うようになったのだと思う。

わしは元々機械論者であって「人間の魂」というようなものは認めない。

「魂」というようなものを認めてしまうと、わしが唯一堅牢な思想としてもっている「科学」を根底から否定しなければならないからである。

「科学」を思想として放擲するのは、わしには耐え難い。

宗教のような人間の狂気や攻撃性におおきく依存した思想やあるいはレトリックに依存した哲学が、それほど堅固な思考の指針になるとも思えない。

まして「科学者は自分たちの知見以外の存在を認めない傲慢な姿勢を改めるべきだ」というような、ここまでの人間の知的努力を一挙にしかも軽々と否定してみせる、それこそ「傲慢」な 通俗的「超科学」論者に至っては、見るのも不愉快だと考えた。

兼好法師は「人間が死を先のことのように考えて、あれこれ将来の計画を巡らすのは笑止である。死というものは、誰彼の傍らに立っていていきなり斬りつけてくるものだ」と言う。
その通り、としか言いようがない。

ラッセル卿は人間の自分の一生に「保障」を求めることの愚かしさを嗤う。

それもその通りである。論理的に矛盾した行為であって、しかも一生の保障を企画する人間などは人生をゴミ箱に捨てるのと同じである。

「よりよく生きよ」というが、しかし、それも結局死ぬためなのが、やはりバカバカしい。

こういうことを考えるわしのような状態を日本語では「無明」という。

そこに「自己の死」というものがある限り、わしの思考も感情もいっさいが価値をもてないではないか。
人間の言語の普遍性は、人間の生命の有限性と明らかに矛盾している。

その矛盾を解決しようとして人間が発明した概念が「魂」である。

だから魂というものの存在を願うが、それもただ途方もなくムダに死ぬことがあらかじめ決定されているという自分の存在を慰めたいだけなのかも知れない。

人間の言葉というものが実は明らかに人間の存在自体をあざ笑っているからです。

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