Monthly Archives: September 2008

美しい生活

鴎外森林太郎は新聞の「著名人所蔵美術品アンケート」に答えて「少々、美術品らしき妻」と言った。 奥さんの写真を見ると少し受け口の当時の日本人好みの愛らしい顔をしたひとであったのがわかります。 森鴎外というひとは軍人の常として遊び人であった。 一方で机にうっぷして寝るのを習慣としていたほどの頑張り屋であって、しかし、文士仲間が真面目居士の鴎外をからかってやろうと思って芸者衆をあげての宴会に鴎外を騙して連れ出してみると、「まあー、リンさん、おひさしぶり!」と、どの芸者衆も森鴎外を知っていて呆気にとられてしまう。 明治の文士のナイーブさがわかる話です。 美しい女のひとが幼児のように好きな軍医総監であった。 それはともかく。 わっしの妻たるモニは誰が見ても「どひゃ」な美人です。 こういうことを旦那が言うと頭を疑われるが言わなくてももともと疑われているので、容赦なくいいつのると、油断したまま会うと腰を抜かすほど、モニは美人である。 前もって「美人だぞおー美人に会うんだぞぉー」と気合いをいれて会わないというとマジで腰を抜かして後ろ向きにいざりながら挨拶をしなければならなくなる。 イスタンブルでいちばんということになっているレストランで、わしらは食事をする。 ふと見ると、シェフが厨房から、こっそりカメラを構えておる。 モニを盗み撮りしているのす。 フロレンスのお祭りに行くとお祭りの扮装をした男どもが見物人のモニに記念写真をせがみます。 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080322/p1 空港でなんの理由もなくサインをねだられたこともある。 一緒に店に入って何かを訊ねると男の店員はもちろん女の店員でも例外なくモニのほうだけを向いて話をしておる。 女のほうだけを向いて話すのは西洋の礼儀にかなっているが、それにしても、モニが客の場合は徹底しすぎているようです。 どうして、こっちには話さないの? わっしもハンサムなんすけど。 それとも、きみはわしを無視しているのかね。 わっしの友人どもに至っては、わしのあまりの幸運にうんざりして、いまはわしの夭逝だけを祈っているのではないか。そうでないと人生の公正というものが信じられないのでしょう。 モニとわっしのあいだには、たくさんの秘密がある。 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080324/p1 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080325 それをいま全部話してしまうわけにはいかないが。 たくさんの秘密がある。 わしは、ちゃんとおぼえておる。 東京の秋は素晴らしい。 医科研通りの銀杏の落葉は黄金の滝のようです。 歩きながらモニの手にそっと触れると、モニの輝かしい緑色の瞳がわっしのほうを向いて煌めく。 モニの前腕の金色の産毛が秋になりかかった陽に輝いています。 美しいものの前には、どんな哲学も無力である。 どんな論理も顔を赤らめて去ってしまう。 先天的にお気楽なわしと言えど投資先の無様なパフォーマンスに悩むことがないとは言えぬが、それもモニの方角から、微かではあるがなんとも言えない匂いの「モニの匂い」がすると、どうでもよくなってしまう。 ヴィリエ・ド・リラダンは、その恋愛観に関して正しかったのであって、経緯がある恋愛などはくだらない。そんなものは、不要な過程なのす。 モニを見ていると、肉体というものが魂に対する刹那のデモンストレーションなのがとてもよくわかります。魂がどんなに普遍を求めても結局は肉体が誇示する刹那の美に打ち勝つことはできないのではないか。 人間の言葉は「美」というものに対抗するのが苦手なのではないでしょうか。 えっ? これだけのためにブログを書いたの?ときみは言うかも知れぬ。 そーです。そのためだけに書いた。 わしがどれほど幸福であるか、誰かに言ってみたかっただけです。 … Continue reading

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太陽が昇るとき  Wish You Were Here

ニューヨークで件の純粋培養日本人Hさんがいちばんぶっくらこいてしまったのは、人種や民族による差別が、ほとんどなくなってしまいつつあることであった。 こーゆーと、「いや、それは表面だけで…」と言いたがるひとが、必ずそれこそ人種や民族を問わずに出てくるに決まっているが、 そーゆーひとは単に「他人に意見を開陳するときは否定的に構えた方がカシコゲに見える」という非生産的態度を取っているだけである。 この世界の良くなりつつあることが、まだ完全でないのをあげつらって、せせら笑ってみせるだけしか能のないひとである、と思う。 わしは「人種差別主義者がいなくなった」と言っているわけではない。 身長で差別する人間もいるし、デブは人間がくだらないからデブになるのだ、とマジメに思っている人もたくさんいる。生まれや学歴で人間が差別できる、と考えるサル並の人間ですら、この世には存在する。 東洋人は容貌が醜いから半分しか人間でない、と真剣な顔で主張する狂った白人たちもいる。 (多分、鏡がない家に住んでいるんでしょう) 人種差別主義者や民族差別主義者という彼等こそがゆいいつ被差別に値するバカ種族は、脳が半分しかないわりに生命力は強靱であって、なかなか絶滅しないのです。 しかし、いつのまにか、彼等のほうが「特殊なひとたち」になって道化師に近いものになった。 合衆国の小説家ジェームス・ボールドウィン http://en.wikipedia.org/wiki/James_Baldwin は、1964年、初めて訪れた日本の、帝国ホテルの一室で鏡に向かった瞬間、その日一日が人生で初めて自分が黒人である、と意識しないですんだ(当時の日本では十把一絡げのただのガイジン、だからです)日である、ということに気がついて顔を覆って泣き出してしまう。 自分の魂にとって「アメリカ社会のなかで黒人である」ということが如何に日常絶え間ない負担になっていたか、自分がどれほど絶えざる緊張のなかで生活していたかを発見して、ボールドウィンは絶望的な気持ちになる。 それから半世紀近く経って、人間はやっとシャチョーならシャチョーというひとを見るときに「黄色人種東アジア人日本国いなかもんシャチョー」というふうに見ないですむようになった。 シャチョーは、ただ個人としてシャチョーであって、無意味にへらへらしていて、ときどきクビが電動こけしのようにういーんういーんと動いてコワイが、善良でマジメな努力家で家族にとってはほぼ理想的な父親である「シャチョー」なのです。 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20060210 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080110/p1 過去の人種差別や民族差別のバカバカシイ歴史を知っている人間にとっては、ユニオンスクエアで彫像のように動かないでいつまでもキスを交わしているアフリカン・アメリカンのにーちゃんとコーカシアンのねーちゃんのカップルを見ると心の底から「えがったなあー。 人間の社会も見捨てたもんでは、ねえな」と思う。 社会はこんなふうに、ときに不可逆的に良くなることがあるのす。 ニューヨークの中華街で、有名な「老山東鍋」の1ドル餃子を食べていたら、東アジア人のカップルが窓際の席でデートしている。おっ、日本語ではないか、と思わずニコニコするわし。 ところが、しばらくすると中国語になった。終わりのほうになると、もどかしくなったのか男の子は日本語で女の子は中国語で話し出す。 日本へ住みに行く相談をしているのす。 女の子が、思い詰めたように英語で「アイ ラブ ユー」と言った。 わしは、その日の午後のあいだじゅう、このふたりのことを考えていました。 考えていた、のではない。祈っていたのだ。 なにを祈っていたかは、日本人であるあなたは知っているはずである。 新潟県の小さな田舎の町のレストランで、ジンバブエから来たアフリカ人のおばちゃんとスリランカから来たタミル人のおばちゃんが、でかい声で楽しそうに笑ってます。 日本語で話している。 ふたりとも集団見合いで近在の農村にお嫁さんとしてやってきた。 息子さんや娘さんの話をしている。 「日本人オット」のぐーたらぶりを笑ってます。 でも、やさしいよね。そーだよねえ。 とても幸福そうである。 わしは相も変わらずアホなので、もうそこまで聞いているだけで鼻の奥がジーンとしてしまって、目の前のメシに手がつかん。 黒人でありゲイであることに苦しんだボールドウィンの写真を見ながら、わしは、「あなたがここにいれば良かったのに」と考えました。 あの時代のひとには信じられるわけがないが、2008年に暮らしているわしは、ふらりと入ったコーヒー屋で、コーヒーを運んでくれるひとの肌の色を見ていない。 中華街の料理屋で、注文を取りに来るひとの国籍を考えてはいない。 わしは天気の話をする。 近所で見かけたイベントの看板について訊く。 … Continue reading

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烏合のプー

団結せよ 万国の真夜中の白痴ども と岩田宏が書いたのは多分いまから50年近く前の冬の夜更けでした。 日本の詩は素晴らしい。 わしはスペイン語やフランス語の詩(このあいだ、モニに「アルチュール・ランボー」はやっぱりええなあ、となにげなく言ったら、ぷうーと吹き出されて「古い、ガメの趣味は、とっても古い。ノートルダム寺院のガーゴイルよりも、もっと古い、と笑われてしもうた。結婚しているひとびとは知っていると思うが、「妻」というひとたちはまことに無慈悲である)を素晴らしいと思うが、日本語の詩も劣らないほど好きです。 鮎川信夫の「橋上の人」や西脇順三郎の「最終講義」には「日本」がいっぱいつまっている。 鮎川信夫の描く「いっせいに空に向かう銃剣」のような戦争と戦争に赴いた若い人をそのまま描写する言語をもてた日本のひとたちをわっしは幸福であると思います。 日本の現代詩はすごい。 だから、わっしは何事か日本語で書かれたものを読んで頭の中の日本語を健全な状態に保っておかないと、と考えたときにはだいたい現代詩を読みます。 瀧口修造や田村隆一を読む。「ドラムカン」の詩人たちを読む。 団結せよ 万国の真夜中の白痴ども という表現には、真夜中、日本中のそこここにちらばって、孤独のうちにむなしく時を過ごす「同胞」への共生感と、お互いに理解しあうことが出来なくて、ただ離ればなれの分子で終わってしまうことへの苛立ちがうまくあらわれている。 この岩田宏というひとから、わしは日本語の使い方をだいぶん教わった。 たとえば、このひとが トーキョーはすでにトーキョーじゃない いけすかないいけずのいけすです と言うとき、わしは、このひとの思いを精確に理解する。 そーか、日本語って、こうやって使うんだな、と学習します。 わっしは(内緒だが)こっそり日本に戻ってきて、東京某所のホテルのテラスから 東京の夜景を眺めています。 明日は広尾のアパートへ向かう。 東京は昼間は世界でもいちばん汚い街(ごめん)だが、夜は美しい。 むかし妹とふたりで「空港リムジン」の窓に顔を鼻がブタハナになって痛いほど押しつけて「これが東京なんだ!」「すげえー」 とうなったときの感動を思い出します。 あのときはわしは日本語は出来なかったので、日本人というものがただの風景であった。 だから関心をもったり、おもしろがっていればよかった。 理解出来ない言葉で出来ている人間がコンクリートのビル以上の問題として他国語しか理解しない人間の眼に映るわけはない。 ところが一方で、その国の言葉をほんとうに理解してゆくと(わしが日本語をそのくらい理解できる、と言っているわけではない)、その国のひとの血にはいってゆくことになる。 その国の人間の体温を感じ、吐く息を呼吸することになる。 それが外国語を身につけることのいちばんバカバカしい点であって、頼まれもしないのにわっしはあたかも日本人であるかのように日本のことについて考えないわけにはいかむ。 日本語がわかるようになってしまったからです。 こうやって夜のテラスに椅子を出して、わしがいま何を考えているかというと、(わし自身がプーなので)、この夜の闇のなかでヒソヒソと活動する400万人(なのだそうです) の烏合のプーのことを考える。 400万人のプー! ニュージーランドの人口と同じ数です。 このブログに暴言を吐きにわざわざやってくるひとがいます。 医学もしくは心理学の心得が少しでもあれば、初歩の初歩、の知識である。 彼等は要するに外国人であるわしであるのに、わしに助けを求めてきている。 あの薄汚い罵り言葉は、しかし、本人たちにとっては切ないSOSなのです。 わっしは親切心、というものに根本的に欠けているので、全然反応しないが、たとえばモニが日本語を理解出来たら、絶対に草の根を分けてでもこういうひとたちの素性を洗い出して、どんな方法でも助けようとするでしょう。 わし自身を含めてよい。 この夜の空の下の「烏合のプー」 たちは、明日はどうするであろう。 … Continue reading

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鎮守の森で

土を盛り上げただけの細い道を歩いてゆくと、頭のうえに広がった輝くように青い青空とまったく同じ青空が足下にも広がっている。 風が強い日にはとても水蒸気で出来ているとは思われない質感の大きい真っ白で巨大な積雲が頭上と足下とで素晴らしい速度で移動してゆきます。 息をのむような美しさである。 どこの話かって? 日本の水田の話をしているのに決まっているではないか。 あの「二枚の空」の中間に立ったことがあるひとは、一生その美しさを忘れないと思う。 わしらの言葉ではmeadowという言葉には特別な響きがある。 ゆるやかな丘陵がつらなっていて太陽に輝く草原がどこまでも続いている。ところどころ牛が草をはんでいて、点在している樹木の葉が風にあおられて、きらきらと反射する。 自然は国によって異なるが、どこにいても美しい、と思う。 わしは旅行ばかりしているが、やはり都会よりも自然の多い田舎のほうが好きです。 ifeelgroovy.netの「シャチョー」が「日本にいるあいだに、とにかくおれの故郷を見ていってくれ」と言ってうるさいので、シャチョーの故郷、新潟県松之山、というところに行ったことがある。 http://blog.livedoor.jp/matunoyma_sato/?p=5 シャチョーが熱狂的に自慢するだけあって、美しい町であった。 ほんの僅かな斜面の平地にも田がつくられていて、その小さな小さな耕地の端正な作り方に、わしはなんだか泣き出したくなるような感動をおぼえた。 見ているだけで、その小さな田をつくったひとの祈りが伝わってくるような耕地であったからです。 くるまでしばらく行くと、今度は驚くべきことに「鎮守の森」がそのまま残っていた。 日本のひとたちが知っているように「鎮守の森」は明治政府の命令によって全国的に破壊された。南方熊楠 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0 という変わり者の、しかし偉大な魂をもった学者が必死の反対運動を繰り広げたが、 アニミズムの痕跡を色濃く残していた神社の国家宗教化運動である「神社合祀」の号令のもとに進められた国家の命令に対して、ひとりの「へんくつなバカ学者」の運動など「蟷螂の斧」でしかなかったのである。 だから在所の鎮守の森、というようなものは、そのときに絶滅したのだとわっしは信じておった。 わしが当時日本で乗り回していたオンボロのMX5で起伏の多い国道を行くと、途中で「まるで鎮守の森であるかのような小さな森」を行きすぎた。 わしは狭い道から脇の用水にこけそうになりながら、くるまをまわして、その場所までもどった。 くるまを駐めて、その森のなかに歩いてはいったとき、友よ、わしはほんとうに泣いた。 それは、いまは存在しないはずの鎮守の森であって、名前も扁額もないその社は、鬱蒼とした巨木の林のなかに佇っている。 精霊たちが雄大な枝振りのそこここに座していて、お互いにささやき交わしている。 きっと「なーんじゃ、このへんなガイジンは」とでも言っていたのでしょう。 わしは、その森で、陶然としてしばらく夢を見ているような気持ちであった。 そこに立っていると、木を切り倒し、在所の神社を破壊したときに失われたものは木と古びた建物だけではないのがよくわかります。 日本のひとがともに育ち、日本のひとに言霊を与え、日本のひとに独自の感情を与えた精霊たちも一緒に殺してしまった。 素朴過ぎることをいうようだが、 日本のひとがやったことで、いちばんよくないことは自国の自然を破壊したことである、と思う。 それは自分の臓器や手足を切り売りして100グラムいくら、で売り渡してしまったひとと似ている。わっしは本州のいろいろなところに行ってみたが、もうわしが行った頃では日本の、本来は気が遠くなるように美しいはずの自然は、もう「かけら」としてしかのこっていなかった。砂浜はコンクリートで寸断され。川は、巨大なコンクリ用水のような無様さであった。 ロンドンというのはいまもむかしも碌でもない街だが、エールを片手に土で出来た堤のわきに腰掛けて草の匂いをかぎながら友人と議論できるパブが、まだいくらもある。 東京に明治の頃は築地の海軍将校たちが酒を飲めば連れだって泳ぎに行ったという隅田川が残っていたら、どれほど素晴らしかったろう、と思います。 銀座の盛り場から盛り場をめぐるボート遊びは、どんなにか楽しかったろう。 まるで自分の肉体を子供たちに食べさせて、ついには死に瀕している母親であるかのような日本の国土のことを考えると、傷ましい、という以外に表現が思いつきません。 なぜ自分で自分を傷つけるようなことを繰り返すのか。 わっしは、これからその理由を学習しようとしているところです。

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改築中

ここには過去わっしを誹謗中傷してきたひとたちについての記事があったが、どうも醜悪な人間の話は自分で読んでも気分が よろしくない。第一醜悪さがうつりそうである。 したがって削除します。 コメント保存のためと、川奈の写真は綺麗なので残しておく、というか、そのうち違う記事をこの日にのっけておくことにすると思います。

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第三革命

メキシコ・シティでもニューヨークでもバルセロナでもフロレンスでも、ゲバラの肖像をあちこちで見た。ゲバラはここ数年「静かだけれども確実に成長しているブーム」になっているように見える。 こんなふうに言うと、「えっ?ゲバラなんて、もう古いよ」という通りでたむろする高校生の声が聞こえそうだし、「ゲバラが「ブーム」って、そんなケーハクな」と言って共産主義者は卒倒するであろう。 でも、わっしはどちらの見方も当たっていない、と思います。 わしはオオマジメに、ちゃらちゃらしまくったユニオンスクエアのジーンズ屋の店先や、 テポツラン http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080117/p1 の土産物屋の店頭のTシャツ、バルセロナのちびたちのシャツの背中や、フロレンスの鞄屋のおっちゃんの胸で、少し遠くを見ているゲバラの肖像は、ひとびとの「ある願い」を表している、と考えるからです。 レディ・サルサ、といういまでも世界中で興行をぶって歩いているキューバ人の一座がある。わしも、これがクライストチャーチに来たときに行ったことがあります。 「サルサ」なんていうものがクライストチャーチのようなもともと「真っ白、どアングロサクソン」な町にくるのは珍しい。 わしは、かーちゃんに連れられて出かけたのでした。 ガキだったせいもあるかもしれないが、結構、楽しかった。 市民ホールいっぱいのクライストチャーチの町の衆も、大喜びでした。 終盤、一瞬、ステージが暗くなると、ステージ後ろの巨大スクリーンいっぱいに チェ・ゲバラ、 エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ ((Ernesto Rafael Guevara de la Serna)の顔が映し出された。 レディ・サルサが、ひとりでステージの前に出て、こんなふうにゆった。 「わたしは小さな時から、エンターテイナーになりたかった。わたしが「エンターテイナーになって、世界のひとを楽しませるの」と言うと、白人の「旦那方」が、みな笑った。 「おじょうちゃん、それは無理なんだよ。鏡を見てご覧、おまえの肌は褐色ではないか」 。みながそう言って、わたしに諦めさせようとした」 「ある日、町にゲバラがやってきた。わたしは、「チェ、わたしはエンターテイナーになりたい、褐色の人間はどうしてエンターテイナーになれないの?」と聞くと、ゲバラはわたしを抱き上げて、「もちろん、なれるさ。人間は、肌の色とは関係なく、誰でもなりたいものになれるんだよ」と言った」 レディ・サルサの話が終わった後の沈黙は、複雑なものだったのがガキのわしですら、わかった。ひねガキのわしは、「これって北朝鮮楽舞団みたいなものなのか?」 とか「レディ・サルサって、いったいいくつだ?」とか一瞬考えてしもうた。 なんで、こんなところで政治宣伝が出てくるんだ、と考えて不愉快になったひとも多かったでしょう。 かーちゃんが、どう思ったかは、訊かなかったので、知らん。 長じて(長じたのではなくて、ただ物理的にでかくなっただけだとも言われているが)、 あちこちに旅行するようになると、わしは世界中のあちこちでゲバラの肖像が掲げられているのに気付くようになった。 2004年にロバート・レッドフォードたちが制作した「モーターサイクル・ダイアリーズ」(Diarios de motocicleta)は、わしも見た。 ゲバラの伝記を読むと、この旅行がゲバラに与えた影響の大きさが読み取れる。 バカ白人たちに汽車の一等客室から文字通り放り出されて有色人種に生まれたことの悔しさに泣いたガンジーの事件と同じくらい、エルネストは南米のひとびとの生活の現実を見てショックを受ける。 ゲバラは資本主義が産み出した貧困と搾取に対して立ち上がるが、拠って立つ理論である共産主義に内在する欠陥や、人間性というものの卑しさに包囲されて、ほとんど何事もなざずに犬死にしてしまう。ゲバラの厳格すぎた態度がひとびとの反感を買い続けた、とも言う。 家庭を顧みない父親であって、妻に家庭のことはすべて押しつける夫としても最低の人間であった。 しかし、それでもゲバラの記憶はひとびとのなかで次第に大きくなってくるのであって、その緩慢だが大きな動きは決して止まらないように見えます。 … Continue reading

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ひとと出会う

手元にないのでうろおぼえだが、岩田宏の「夜半へ」という長い詩の途中で、お抱え運転手と工員が革命前夜の路傍で出会うところがある。 運転手は工員の手を握りしめて、こう言うのだ。 おれたちは初対面だが もし会えなかったら どうしようかと そればかり考えていたよ 岩田宏は鎌倉の駅前でくるまにひかれそうになったおばあさんを、さっと助けてしまう「さっそうとした青年」に対する屈折した気持ちを書いた「信じないで!」や「二十五歳の失業者が五十二段の階段をゆるゆるとおりてくる」で始まる、あの有名な「神田神保町」を書いたすぐれた詩人ですが、わしは「永久革命」と、この「夜半へ」がいちばん好きです。 街に出て新しい友だちが出来るといつも、この詩句を思い出す。 逆にわしが日本語世界より英語世界のほうがいいな、と思うことのひとつに「誰とでも気楽に話せる」ということがあります。 アメリカでは「エレベータ」という文明的な余韻のない名前で呼ぶことになっている「リフト」のドアが開いて、わしは乗り込みます。そこには「おはよう」と言う訛りからしてオランダ人とおぼしきおっちゃんが乗っておる。 「どうも、このホテルはモダンすぎるね」と、おっちゃんが言う。 「うん、まったくモダンすぎるというのは常に由々しき問題ですなあ」と、わっし。 「アメリカ人的信念、でしょうね」 「きみはイギリス人かね?」と、おっさん。 「いや、わしは自称ニュージーランド人ですけど、普通にはスコットランド人、でしょうね」とスコットランド訛りを出して言うわし。 「スコットランド人! スコットランド人はいいねえ。きみがもし歴史的背景というものを考慮する人間ならば、苦笑いするだろうが、おれはイングランド人よりスコットランド人のほうが好きだからな」 「じゃあ」 「また、あとで」 そんなふうに普通に話す。 フランスのひとだって、普通に、そうします。 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080208/p1 あるいは、わしのとても仲の良い友だちのひとりは、わしが長い間趣味にしていたボクシングの好敵手です。アフリカ系のフランス人。ヘビー級のボクサ-としては足の軽いひとで、しかもクレバーな選手だった。わしらはスポーツを通して良い友だちになった。 わしは、この友だちによく手紙を書きます。 モニと結婚するまではよくわしのフランス語をなおしてくれた。 電話の向こうで大笑いしながら、わしのフランス語を直す、この友だちの知的な声をわしはいつでも好きである。 おれたちは初対面だが もし会えなかったら どうしようかと そればかり考えていたよ わしらは、みな死ぬ。 どんな人にとっても、これは巨大で致命的で不可避な哲学上の事実であって、それを大したことがないことである、と言いたがるひとたちは本居宣長が言うようにただの嘘つきである、とわしは思います。 われわれの人生の価値が一瞬でゼロになる瞬間が誰にも訪れる。 わしが死ぬ瞬間、わしはモニと一緒だったことをいちばん思い出したい。 そこで思い出せないと来世でもう一回会えなくなるかもしれないので、これは特別に重要である。その後、 それが叶うならば、その後に、友人たちと一緒に笑ったことを思い出したい。 ぐでんぐでんに酔ったチビ女のKを肩に乗せて「ほれ、いけ、吐け」と行って肩に乗せたまま無茶苦茶吐かせながらその場でくるくるまわって「嘔吐風車」をやった夜や、みんなで夏の牧場のパドックに寝転がって空一面に広がった星の名前を言い合ったことを思い出したい。 旅行に行った先のひとたちのことを思い出したい。 握りしめた手のひらの感触を思い出したい。 クエルナバカで「別れるのが辛い」と言って、わしの肩にまわしてくれたひとたちの手のひらの暖かさを、思い出したい、と思います。 バルセロナで「あなたに神の加護があるように」と言って、口づけしてくれたひとたちの唇の感触を忘れずにいたい。 うまく言えないが、わしの存在などは、わしが出会ったひとの感情のあえない反映にしかすぎないのではないか。 その他のことに人生の意味なんて、ある訳がない。 … Continue reading

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