言葉

人間は言葉の乗り物である。

人間はDNAの乗り物にしかすぎない、という生物学者がいるが、それは生物学者にはむかしから虚無主義者がおおい、という傾向を示しているだけである。

DNAなどは塩基で出来た符丁であってなにものも代表しない。

出力されたコードというだけのことである。

気の利いたことを言おうと考えたその生物学者が仄めかすような、それ自身の意思、など持たないし、それ自身現象でしかない。

「言霊」という。

言葉というものは人間が普段意識しているよりも遙かにおそろしいものであって、その言葉によって生活してきた何億という人間の思考の形態や、あるいはその言葉を使っていた人間が手で触れた世界や呼吸していた大気が篭もっている。

言葉をないがしろにする人間の知性が百万にひとつの例外もなく低いのは、当たり前であって言葉そのものが知性であり品格の実体である。

もっと簡単に言ってしまえば、そのひとの頭の中にある「言葉の世界」は、すなわち、そのひとそのものなのであって、他のものが彼もしくは彼女であるわけではない。

しかも人間は自分の実体である「言語」を孤立してはもつことが出来ないのだ。

人間は時間の彼方から呼びかけてくる声にしたがい、あるいは他者の群のなかへわけいっていって、他の人間の吐く息とともにあびせかせられる語彙のなかで言語を補給する以外に自分自身である言語を養う術をもっていない。

人間の悲劇は、要するにそこに始まるのである。

「言葉を使う」というが、わっしは「言葉に使われる」人間を見ることはあっても「言葉を使う」つまり「言葉の主人である」人間など見たことがない。

もし言葉を使う、ことが出来るなら、その言葉は死語でならなければならないのは論理的にも明らかである。

われわれは死人の夢が紡ぎ出した大海に似た沼沢である言語のなかにどっぷりとひたって暮らしていて、その言語の沼沢から抜け出すことが出来ない。しかも、死ぬときまで、「自分」というものは言語の形で世界にそっくり還元されてしまう。

言葉は時間と空間に存在する集団的意思によっていわば幅の広いベクトルによって規定されている。そこから一歩も踏み出すことは出来ないのである。

われわれのどの言語も「神」を発明するが、それは「神」の定義が「言語の外にあるもの」である限り必然的なことである、と思う。

そこに「安らぎ」と「畏怖」とを求める人間の傾向も、まったく言語の外側にあることからくる「神」の絶対性にある。

しかも真剣にものごとを伝えようとするひとが必ず気付かされる無慈悲な事実として、「言語によってお互いを理解することなど出来ない」ということがある。

言葉には、その実、伝達の機能などありはしないのだ。

われわれの言う「会話」とは個々の人間が、お互いの歴史と空間から意識に取り込まれた共同幻想を正面のスクリーンに映し出して、お互いの考えが相似してみえるところまで調整する作業であるにすぎない。

だから、われわれは歌う。

だから、われわれは描く。

だから、われわれは絶望のなかに沈む。

言葉がわれわれの肉体と意識を離れる、その瞬間まで。

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