員数合わせの「一千万人移民計画」

帝国陸軍初年兵の大庭亀夫にとっての最大の敵は「内務班」です。

着剣が遅いといっては殴られ。返答に「です、ます」が付いたと言っては殴られ、口答えをしようものなら文字通り半殺しにされる。

兵隊さんたちが戦後残した「自分史」 を神保町で百円で買い求めると、実際、兵営の闇の中で殴り殺されて「名誉の戦死」ということにされた兵士の数が莫大なものであったことが判ります。

仕返しに後ろから飛んできた弾でこれもまた「名誉の戦死」を遂げる下士官が多かったわけである。

帝国陸軍二等兵大庭亀夫が行軍中の夜営で気がついてみると、自分の銃剣が無い。

あんな重いものを落として気付かないわけはないので、誰かに盗まれたのです。

そんなことが露見すれば大庭亀夫の上官である下士官の意地悪さから考えて、命がない。どうするか。

帝国陸軍二等兵大庭亀夫は迷わず隣の部隊から銃剣を盗んで来ます。

首尾良く盗めれば万事オーケー。

たとえ大庭亀夫の銃剣が誰かから盗んできたものであることが判っても、それを理由に大庭亀夫二等兵が殴り殺されることはない。

帝国陸軍では「盗まれたほうがマヌケ」とう不文律があるからです。

そもそも大庭亀夫二等兵の銃剣が盗まれたのも同じ理由によりますが、陸軍では「数があっていること」が何よりも大事であって、そのためには部隊単位では窃盗を奨励した。

そーゆーことを「員数(いんずう、ですが、実際の発音ではインズと言う)をつける」

と言った。

なぜ、帳面上の数に偏執的なほどこだわるのかというと、軍隊というものが官僚機構、しかもガチガチの頑迷なお役所そのものだからです。程度の問題を別にすれば日本に限らず、どこの国でも事情は同じで、たとえば軍隊の官僚的弊害が最も少ないと信ぜられている合衆国でも真珠湾攻撃のときに頭上には日本海軍機が翼を煌めかせ、爆弾が落ち、戦闘機や急降下爆撃機は機銃掃射をしているのに、弾薬庫の鍵を預かる下士官は「弾薬庫の鍵を渡すには直属上官の文書による指示書が必要だ」と頑強に主張して弾薬庫の扉を開けさせなかった。(結局、後で駆けつけた対空部隊の将校に押し問答の末殴り倒されて鍵を強奪されます)

役人に「数」の目標を与えると、その数値目標が絶対化して手段や実質はどうでもよくなってしまうのは世界中の人間の常識である、と思います。

役人にバカなことや悪質なことをさせようと思ったら、数値を与えればよい。

日本のひとは、毎年年度末になると突然あちこちで突如として工事の必要性が起こり、忽然と誰が使うのか決まってもいないコンピュータセットが納入され、あまつさえアタフタと「緊急視察 」に外国にでかける幹部の集団までいたりして、そういう機微はよく知っている。

わっしは日本に移民がくるのは日本のために、よいことだと考えます。

日本のひとの鎖国的な頑迷と偏狭への特効薬である、と思う。

現実の問題として、大半の移民はみっつの部分(八千万人の先進国部分三億二千万人の中進国部分と残りの後進国部分)から構成される中国の「後進国」部分からやってくるひとたちと韓国から来る人たち、および近い将来破綻する可能性が高い朝鮮民主主義共和国からの移民がほとんどを占めるでしょうが、もともと古代において大量の「移民」を受け入れることによって発展してきた日本の文化には、移民を受け入れやすい構造がある、と思ってます。薩摩藩の「沈」氏のような近世の例をもちだすまでもない。

一方では「移民の受け入れ」くらい難しい事業はない、ということをわっしらは身をもって経験してきた。

ニュージーランドは、当初「金を持ってくる移民」を受け入れる、という間違いを犯してしまった。金持ちの香港人や日本の退職役人たちが碌なことをしない、と判ったのはずっと後のことで、その頃には、すでに「反東アジア人」感情が社会に根付いてしまった。

その国民の「反東アジア人 感情」が結局ウインストン・ピータースのような扇動政治家の台頭を許してしまったのです。

かつては、もっとも東アジア人に対する偏見が小さい国であったものが、最近のアンケートでは高校生の半数近くがアジア人に対する強い偏見を持っている。

嫌悪している。

最近の世界的な傾向と同じく、若い人ほど東アジア人を憎悪する傾向が見られます。

残念ながら、いまのところアジア人に関してはニュージーランドの移民政策は失敗している、としか言いようがありません。

東欧とロシアでは「アジア人狩り」まである。

一方ではアメリカの大都市のように移民社会がうまく機能しているところもあります。

だいたい大雑把に見て、その国の理念に共鳴してやってきた移民はうまく社会に熔けこんで社会の側も移民歓迎に傾いてゆきますが、そうでない場合はうまくゆかない。

「労働力」として計画された移民政策がもっとも悲惨な結果を招くのは歴史的にも証明されています。だいいち、移民たち自身が屈辱と社会的な不公平に耐えられなくなって暴れだすのが通常で、連合王国でも、ヨークシャー暴動のようなものは、そうやって起きました。

わっしは子供の時から、ヨークのレースコースのある一角の夕刻の美しさが好きですが、その絵画よりも美しい場所も、怒りに満ちたパキスタンのひとたちの怒号であふれかえった。

日本の友だちと会って、インドネシアからの「看護師。介護職員1000人受け入れ計画」の実情を聞くと、彼に寄れば報道とは随分ニュアンスの異なる成り行きで、当初の「看護師200人介護職員300人」という「数値目標」がそもそも達成されなくて所轄の役人はパニクった、と言う。

誰も日本に行きたがらない、という想定外の事態だったのだそうです。

仕方がないので、条件を大幅にゆるめてかき集めて日本に送り込むことにした。

そうしないと役人のメンツが立たないからでしょう。

日本では「経団連」も「一千万人移民計画」を強く後押ししているそうですが、わっしは、それはヘンだと思う。

「経団連」の構成を見ればわかりますが、旧産業のひとたちであって、日本がこれから進んでいくほかない知的集約産業のひとなど殆どいない。

トヨタなどの旧世代産業は、なるほど大量の工員が必要なので移民労働者が必要でしょうが、わっしは、そういう謂わば「古いタイプの移民」が日本という国に必要だとは到底思えません。トヨタに安い労働力をもたらすために、社会の側が移民政策によって支払わねばならないコストは、すさまじいものになるのは、たとえばニュージーランドに行ってのぞいてくればたちどころにわかります。外国人子弟の教育、医療、そうした諸々のコストを払うのはトヨタではなくて日本の社会そのものである。

バカげている、というほか言いようがありません。

消費税があがればあがるほど「割り戻し」で儲かる、消費税増税のときのトヨタとキャノンもそうでしたが、日本の産業家は「公論」を装って恥知らずなくらいどん欲に自社の利益を社会のコストにおいて追究しようとする悪い癖がある。

日本のひとの社会的な仕組みに対する理解力の欠如を見切っているのでしょうが、それにしても露骨すぎる。

やや説明を端折って結論に飛んでしまうようですが、日本に必要なのは「一千万人の労働力」などであるわけがない。仮に将来において一千万人の労働力が必要であるような産業構造に日本がとどまっているとすると、日本という国はすでに破滅の淵に立っているわけで、落ち着いて考えてみれば、社会不安を輸入するようなものです。

日本の旧産業の悪知恵から生まれた虚構にしか過ぎない。

しかも、日本の社会からすれば致命的になりかねない極めて危険な虚構であると、わっしには思えます。

有効な移民政策というものは、結局、他国のひとが「どうしても、あの国に住みたい」

と思う環境をつくる他はない、ということを世界中の国が失敗を繰り返しながら学んできたというのに最後発の日本政府が、まったく教訓を学ばないのは、要するに「員数あわせ」

の思想が、いまでも日本の役人の頭を支配しているからでしょう。

その員数が足りたときには、世界のひとが最も移住したくない国と社会が出来ているのは百パーセント間違いない、と思う。

そのときには「一千万人の移民」 どころか、若い人は、こぞって他の国に逃げ出すことになるのかも知れません。

日本が、もう、日本ではなくなっているでしょうから。

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