人間に「主体的意識」はあるか

人間の頭蓋骨に好き放題に穴を空けて大脳に自由に電極を刺して研究できたらどんなにかいいだろう! というのは、ある種類の科学者の永遠の夢です。

そういうことを言うとまともな人間でないのがばれてしまうので口に出して言わないだけである。

むかしはたとえば凶悪犯が被験者ならやってもよかった。

1945年までの日本帝国なら満州人や中国人の「不逞分子」相手ならやれた。

でもいまはそんなことを酔っぱらって口にしただけで来年の研究予算がつかないのは明らかなので、人間の脳の働きを探るのは大変なのです。

それでも、思いもかけぬチャンスが巡ってくることはあって、そういう機会が巡ってくるたびに研究者は実証実験をやってみたものでした。

実際にはこういう実験ではありませんが、この実験を知っている人は初めから実験自体もその意義も知っておられるでしょうから、すごおく意訳して書くと、たとえば、被験者に12色の色彩の中から赤なら赤を被験者が選ぶときに色を指し示す作動体である指と指に命令を下す立場の、赤を選ぶときの脳の領域との両方に電極を付けて実験をしてみると、作動体である指のほうが早く電流が流れるのです。

明らかにヘンです。

「意思を決定」しているのだから大脳の方に先に電流が流れないとヘンである。

それから指に電流が流れる、というふうであるべきである。

この実験結果については十分な数とは言えないが追試もあります。

承認的な追試である。

なんべんやっても、指の方が大脳よりも先に意思を決定している。

これが示唆するものはなにかというと、「意思」というものが実は、もっと無意識的に発火した神経細胞の決定を追認しているのに過ぎないのではないか、ということです。

でもって、「でもほんとうは自分が決定したんだもんね」と自己の意識を誤魔化しているということになる。

豚という動物が犬よりも知能が高いのに、こと食べ物に関することになると、まことにアホで「この食べ物は罠であって、これを食べに行くと死ぬ」と判っていても食べに行ってしまう、という有名な実験がありますが、こういうことを説明するにも、この「自然発火」

—->「追認」モデルのほうが、無理なく説明できる。

人間の大脳というのは実は一定の傾向をもった無意思的な反応を爆発的に行うだけの神経細胞の集団であって、人間が「自己」として意識している「我」なるものは、実はただ単にその反応の結果を傍観的錯覚的に「自己の意思」だと思っているだけなのではないでしょうか。

昨日の「意識と捕鯨」の続き、ということになりますが、わっしには、いまのところ、この仮定は大変に魅力がある。

この仮定が正しいとすると心をもった「悩めるロボット」である「鉄腕アトム」は、意外に早い時期に出来ることになります。

そのときこそ、人間が長い間その概念の鎖に繋がれてきた「人間だけが、この世界で特別な生き物である」という考えに終止符が打たれるに違い有りません。

人間の知性の、人間の寿命が有限である、ということのはかなさからくる切実さも、しかし、同時に消えてしまうに違いない。

人間が自分を規定している哲学が根底から覆るときがくるかも知れないのです。

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