Monthly Archives: November 2008

移動準備中

インドだあー、インドだあー、とこのあいだまで呼号していたのにモニの「やっぱり行きたくない」のひとことで「インド三ヶ月旅行計画」が瓦解してしまった。 宮殿列車 http://www.palaceonwheels.net/new/home.htm の夢は消えた。 くやしいのう。くやしい。 でも、むかしから地頭と「見つめるモニの瞳」には勝てない、と言う。 やむをえない、と考えていたら、家族のご用命ともう半分は、ぶっ飛んでる経済のせいで他にもいろいろ行かなければいけないところが出来てしもうた。 どうも、初めから 「インド三ヶ月旅行計画」は無理だったようです。 取りあえず行かなければならなくなったところを書き出してみると、 クライストチャーチ(これはクリスマスの帰省ですね。初めからわかっておる) パリス(日本語では、パリ、です。でも、ほんならなんでパリ・ヒルトンではないのでしょう。わからん) ロンドン グラスゴウ バルセロナ サンフランシスコ グラナダ シドニイ オークランド うーむ。 これを、どうやってひとつの旅行にしろっちゅうねん。 わっしの杜撰な頭でこういう微妙な計画を立てると必ず破綻する(なにしろ、わしは同じ日のうちにダラスから一度サンフランシスコにもどって、そこからニューヨークに行く、という誰が考えてもアホなチケットを実際に買ってしまったことがある) (そう言えば去年は、飛行機が離陸してから東京からクライストチャーチを通ってオークランドに行って、またクライストチャーチに戻る、という切符をもっているのを発見してパニクった。空港のトランジットのおばちゃんに泣きついて、クライストチャーチで「途中下車」させてもろた) ので、こういうことはクライストチャーチでカシコイ妹にやらせることにして、わしは取りあえず航空券のことは忘れることにします。 よく見るとオーストラリアとアメリカとヨーロッパでちょっと離れているだけで、ここをヘコーキで移動すれば、あとは全部固まっているのでクルマで行けそうである。 海峡の下だけチョロッとウォータールーから出てる列車で行けばよい。 考えてみると、このあいだ売り飛ばしたばっかりなので大陸側はクルマがねーじゃん。 いつかヨーロッパで中古のプジョーを買って東に向かって乗っていってクルマを売り飛ばして旅費も稼ぎ出す、という滅茶苦茶クールな計画を立てたときは足下を見られてクルマを正しい値段で売り損なう、という目にあったので、今度はレンタカーがよい。 ハーツ、でいいよな。 ははは、もう計画が出来ちった。 1 飛行機の手配は妹にやらせる 2 レンタカーを借りる おー、もう準備が出けた。 移動はそれで万事大丈夫だとして、 問題は持って行くイクイップメントである。 去年は自分の腕力を過信して4キロ超のデルを持って歩いて死にかけた。 デカイPCバッグを買ったのも間違いであった。 メキシコシティの空港(おそろしく計画性のない空港なんです。バスターミナルから飛行機の乗り場まで冗談でなくて2キロくらい歩く) で10キロのPCバッグとスーツケースとキャリーオンバッグ担いで死にかけたもんね。 そーゆーわけでLOOX。 … Continue reading

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日本で遊ぶ

コンドリーザ・ライス国務長官の1分40秒のブリーフィングの、そのまた最後の20秒に、すっかり感動してしまったり、長野県知事が主張するリニアモーターカー敷設計画に爆笑したり、去ってゆくマケインの「敗北演説」に「かっちょええなあー」と思ったりしているうちに、モニとわしの日本滞在は終わりに近づいてきた。 どんな国の言語でもおそるべきケーハクさを発揮して受容するわしと違って、モニは相変わらず日本語で苦労しておる。その上、モニが狂牛病にかかることを恐れた妹とかーちゃんの厳命を帯びたわしの眼が光っているので日本ではビーフを全然食べさせてもらえない。 気が狂いそうにしてます。 ときどき妹から教わったらしきストレス解消法の「おにーちゃんを跳び蹴りする」というのを、マネする。 だんだん上手になってくるので、この頃はとっても痛いです。 妹なみの足前である。 最近ブログの記事もロクスポ書ないでおって、わしは何をしていたかというと、 いち、大好きな長野県をクルマに乗ってふらふらと移動して回っていた。 に、電子工作に没頭してました。 いち、のクルマ旅行でモニの機嫌がだいぶん良くなったので、に、のオタク生活が認可された。 うー、楽しかった。 東京くらいオタク生活に向いているところはない。 どうも、もうすぐなくなってただの「上野の隣の新宿」みたいになりそうですが、いまはまだ存在している秋葉原がありますから。 わしは、PCを自作しておった。 「PCの自作」と言っても、出来合いの筐体に台湾のひとびとがつくったイタを積み木みたいに組み合わせたり、お膳立てされたクロックアップをしたり、そんな下品なことはわしはせん。 こーゆーことを言うと物議をかもすに決まっているが、あんなことやってオモシロイとはわしには到底おもえません。まして、コンピュータに車輪を付けて走らせて「アヤシイ、アヤシイ」と叫んでまわったりするのは、わしには日本のテレビの途方もなく退屈なバラエティショーと同じくらい「ショーバイ」であるのが見え見えで、しかもくだらん、としか思えない。こうやって書いているわしの机の脇のコンピュータも、そのヘンに転がっている筐体にリーマで無理矢理穴を空けたりしてパーツを取り付けたPCですが、そうしているのはHDDを換装したりするのにメーカー製ではめんどくさい、というただそれだけの理由で、他には理由ねっす。 では何を自作するか、というと、たとえば、CPUです。 こういうことになると東京は世界一の環境なんです。 部品、安いし。 ひさしぶりだよなあ、回路図書いて、ペンこて握って、と血湧き肉躍りますが、あんまりこれに没頭しているとトーゼン離婚になるので、とりあえず日本では部品の収集が主眼です。収集だけだといくらなんでも泣けてくるので、一個CPUくらいは作るべ、と思って、トグルスイッチやら何やら、あるものをジッとにらんで、ガメCPUを作りにかかる。 えっ? 32ビットくらいはあるのかって? そんなもの、その辺にいくらでも売ってるから、わざわざ前途有為な青年投資家兼研究者の手を煩わすまでもない。 1ビットです。 クロック1ヘルツ。 1ギガヘルツ、ちゃいまっせ、1メガヘルツ、と思ったあんたはんも非常識どす。 ただのイチヘルツ。 動作速度およそ2ヘルツのわしが作るんですもん、 あたりまえやん。 というわけで、わしは、ニコニコしながら、およそ20分ごとにモニの部屋に行って 「あのー、うかがいますが、まだ、わしのこと好き?」 「うん、好き」 ………(30分経過)…….. 「わしがオタクって、わかっても、やっぱり好き?」 「ガメ、だいすき」 ……..(20分経過)…….. 「あのお、まだリコンとかって….あっ、ねちったシメシメ」 というような会話を繰り返しながら、CPU作りに没頭しておった。 こういうことを大きな声で言うと電気音痴の多い英国大使館やニュージーランド大使館に「そんなヘンテコオタクは、もう国に帰って来ちゃダメ」とゆわれそうなので、小さな声で言うが、 やっぱり、楽しい。 涙が出るほど、しみじみ幸福である。 … Continue reading

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エリザベス一世と織田信長

織田信長とエリザベス一世とは同時代のひとです。 エリザベス一世が1533年、織田信長が1534年の生まれなので、エリザベス一世が一歳年上である。 ふたり共に当時の弱小国に生まれて、周辺国からのすさまじい侵略の圧力によく耐えた。 宗教的狭量を体質的に嫌悪したことでも共通してます。 他にも通商の利に敏感であったことや開放的な気分を好んだことなど、意外なくらい共通点がたくさんある。 最も大きな違いは、旧勢力であるカソリックが企てた数々の暗殺計画をエリザベス女王は生き延びますが、信長は抑鬱傾向がひどかった明智光秀の条理を逸した暗殺行動によって殺される。信長は強靱な精神に恵まれたひとであったので、過労とストレスから統合失調症を病んでいた光秀の行動が想像も出来ず予測もできなかったのでしょう。 日本の歴史を学んでいくと、1600年までの日本人の歴史の正統的な展開ぶりや判りやすさと、それ以降の日本的に特殊な徳川の治世のわかりにくさの対比に驚いてしまう。 西洋人から見ると、徳川の治世のわかりにくさと昭和初年から昭和二十年までの暗黒期の日本人のわかりにくさとは双頭の迷宮で、これがなければ、どんなにか「日本人」というものが身近に感じられるだろうと思ってしまいます。 エリザベス一世の英国に較べて、当時の織田信長の日本は遙かに強大な軍隊を持っていました。日本人は歴史的に奇妙なほど「大砲」への理解力を欠く民族なので簡単に比較するわけにはいきませんが例えば長篠の戦いにおける3000丁の火縄銃を揃えようと思う君主は当時の欧州には、まだ存在しません。同規模の銃兵の企画があらわれるのは50年後のデンマーク・ニーダーザクセン戦争が初めてであって、それまでは欧州人は銃の発明者ながら運用面では、そこまでの規模の運用を発想しなかった。 信長は徹頭徹尾実証主義的な合理のひとであった(わしは血液型性格診断のような噴飯もの似而非科学…というよりはバカまるだしの迷信….を信じる現代日本人よりも信長のほうが遙かに高い近代知性の持ち主だと思ってます)ので、それと知ることなく「世界的な水準」というようなものでもやすやすと突き破ってしまったのだと思います。 「西洋世界」では 、まったく知られておらず、評価もされていませんが、わしは織田信長、というひとの精神の現代性を、すごい、と思います。 (もっとも日本のひとにとってはすでに、こういう意見はクリシェでしょうけど) 彼が明智のノイローゼの犠牲にならなければ、範囲を最小に見積もっても西太平洋は日本人の世界として再成立 していたに違いない、と思う。 少なくともフィリピンやインドネシア、北オーストラリアの歴史は、信長の合理主義によって随分違うものになっていたと思います。 日本という国の面白い点は、その独自なマイクロ文明の在り方が限りなく欧州文明に近い、ということです。もし日本が地中海の東に位置する国であったら、日本に限らず、世界の歴史は西洋文明以外の実効的に強力な文明を持てた、という点でもっと面白いものになっていたと思う。 エリザベスの事業が挫折しなかったのは、英国民の資質もさることながら、英国が欧州の端っこにある国であった、ということのほうにもっと大きく依拠しているとわしは思います。 「全然異なるけれども近縁な」国が周りにたくさんあった。 日本のひとたちがなかなか理解しないことですが英国という国は北海文化圏の国でもあるのです。 フランスと向き合うことで大陸欧州ともコネクションがあった。 日本の場合には主に儒教圏と対立した、という重大な事実によって、 日本は孤立した文明を生きることになった。 世界から理解されることを拒絶する文明として成立した。 「日本」という国のひとたちの感覚や信念はいかにも他の東アジア人たちとは対立的なものでした。 「日本」という国の悲惨も栄光も、そこからきているように、わっしは思うのです。 織田信長の死後6年が経った1588年のイギリス海峡で海賊ドレークが率いる英国小艦隊は、世界中の予想を裏切ってスペインの「無敵艦隊」を打ち破ります。 伝説によれば夜着のまま岬に立ったエリザベスは、その無敵艦隊が燃え上がる姿にひとりで乾杯したという。 丁度、織田信長の生涯における「桶狭間の戦い」に当たるでしょう。 英国は、この後悪名高い「神を恐れぬ国」として国力を伸張させてゆく。 あらゆる「敬神的な国」の予想を徹底的に裏切って神をも畏れぬ世俗的な繁栄を達成してゆく。 そして、その歴史はわしの眼には信長の夢見た世界と二重写しになるのです。 人間の歴史は、ところどころ、不思議な悪戯のような意匠の刺繍に縁取られている。 日本と西洋とは息があわないので、エリザベス一世と信長のあいだにシンクロニシティを見いだす人はいまはいません。 でも、仮に死んだ人間同士が語りあえる場所がこの宇宙のどこかにあるのだとすれば、わしは絶対にエリザベス一世と信長とは、信長が愛したアンダルシア産の赤ワインをあいだに、意気投合しているのだと思うのです。

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