Daily Archives: December 23, 2008

須臾のなかの永遠

iPodを聴きながら陽射しの強いハグリーパークを歩いていたら、突然「L’ETERNITE」という曲が聞こえてきた。別に不思議ではありません。シャッフルになっているからだすな。 でも夕暮れが近づいて濃いオレンジ色、と言いたくなるようなカンタベリーの強烈な夕陽がどこまでも続く芝生を照らしつける広場を横切りながら不意討ちであらわれた「L’ETERNITE」を聴いていると、あの美しいチューンに乗ったフランス人の「言葉」の影響で、わっしのようなノーテンキなにーちゃんの眼にも涙がにじんできます。 もっとも妙にデカイ(そー言えば、わっしの身長はメートル法では187センチだとずっと思っていたら、妹に190センチだとゆわれた。1フットを30.48センチなどという半端な数に設定しているメートル法が悪い、とおもいます。わっしはずっと30センチだと思っておった)にーちゃんが眼を赤くして向こうから歩いてきたら、薄気味が悪いであろうから、一生懸命こらえてはいるが。 閑話休題。 「言葉」という人間がつくりだしたシンボルは、伝達のためにつくられたのに人間を孤独にした。言葉がなければ友人であったはずの動物や鳥、あるいは木や草をただ言葉を獲得したことによって裏切ったばかりではなく、人間は人間自体からも孤立することになった。 人間は言葉の獲得によって、言葉が介在しない世界を失ってしまった。 言葉を得たことによって他のいっさいを失ったと言っても良い。 二度とたとえば鷹が地表を見る目で世界を見ることが出来なくなった。 銛に射止められて海面を血に染めて死んでゆく鯨たちと同じ死を死ぬことは出来なくなった。投げやりな言い方をしてしまえば、言葉を覚えてしまってからというもの、 人間には、「ありのままの世界」などなくなってしまった。人間には虚構としての世界だけが残された。 人間は言葉の発明によって自分で自分を世界から追放してしまった。 だから人間の使うどんな言葉にも言葉には「寂しさ」がこもっている。 世界を荒涼とした土地としてしか感じさせない何かがある。 それでいて、どの言葉もその土地の訛り方で思想が「訛って」もいるのです。 本来の観念のベクトルがからみついた歴史や感情によって曇ってしまっている。 永遠とエターニティとL’ETERNITEは、どれも考えていることは同じなのに感じていることは、てんでんばらばらです。 そして、そこにこそ、人間が自分を回復する手がかりがあるのではないかとわっしは思います。 えらそーに言うと、わっしにあるのは、いつも「知らないものを理解しようと思う気持ち」です。いっこうに上手にならないのでいらいらしながら(実際、日本語はたとえばスペイン語習得の100倍くらい手間がかかるのではないか)日本語でこうやって文章を書いたりしているのも、別にクライストチャーチのお土産屋で職を得たいからではない。 日本人と日本語、というものが、自分にとってはもっとも理解しがたい文化と社会だからです。なにからなにまで訳がわからんので、考え甲斐がある。 (訳がわからん、と言っても、哲学上のことだけではないのです。もっと身近なことで、わからんことがいっぱいある。たとえば、日本の玄関のドアって外に向かって開くでしょう?あれはなぜであるか。玄関のドアというのは屋内に向かってひらくからこそ、椅子を積み上げて侵入者を止めることができるのであって、向こう側に開いちゃったら、誰でも入ってこられてしまうではないか。もっとも強盗がガイジンなら、闇雲に押しまくって「鍵を壊したのに、開かん。わけがわからん」と言って退散するかもしれないが。 実際、なぜ日本ではドアは相手の側に開くのだろう。もしかすると、日本のひとはドアというものが侵入者をとどめるためにあるのを知らないのではないか) 英語人と日本語人はお互いに激しく自分たちの言葉の屈曲の仕方で訛っているので、握手の時に差し出したお互いの手が確かに物理的に触れあえるのが不思議なほどです。 重なっているだけで、別の世界に住んでいるのかと思ったら、われわれは確かに同じ次元に住んでいるのだ。 びっくりしてしまう。 しかし、それでも日本語を練習してよかった、と思うことの方が時間の無駄であった、と思うことよりも多いのです。わっしは日本語習得にかかった時間の全体が結局ただ単に「鮎川信夫全集」を読むために過ぎなかった、ということになっても、それで良かった、と思っています。いや、岩田宏や岡田隆彦の一篇の詩のため、でもいいな。 空港にやってきて「元気でね。また、会えるといいね。楽しみにしています」と言う「キヨソネさん」の 笑顔を見られただけでもいいのかも知れません。 わっしは言葉を獲得してしまったので、もう「永遠」には触れられないが、その代わり一瞬のキヨソネさんの善意の燦めきやどんなひとでも一生に一度は見せる人間性というものの須臾の間の輝きを垣間見て自分の短い一生のあいだ記憶しておくことが出来る。 こうやって書き留めておくことも出来るわけです。 写真はクライストチャーチの羊。観光客のひとなどは「かわいい!」というひともいますが、 わっしの感想は「見るからにアホ」であります。 最近は国をあげてワイン作りに走っているので羊が少なくなった。 ちょっと寂しい感じもします。

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