Monthly Archives: December 2008

須臾のなかの永遠

iPodを聴きながら陽射しの強いハグリーパークを歩いていたら、突然「L’ETERNITE」という曲が聞こえてきた。別に不思議ではありません。シャッフルになっているからだすな。 でも夕暮れが近づいて濃いオレンジ色、と言いたくなるようなカンタベリーの強烈な夕陽がどこまでも続く芝生を照らしつける広場を横切りながら不意討ちであらわれた「L’ETERNITE」を聴いていると、あの美しいチューンに乗ったフランス人の「言葉」の影響で、わっしのようなノーテンキなにーちゃんの眼にも涙がにじんできます。 もっとも妙にデカイ(そー言えば、わっしの身長はメートル法では187センチだとずっと思っていたら、妹に190センチだとゆわれた。1フットを30.48センチなどという半端な数に設定しているメートル法が悪い、とおもいます。わっしはずっと30センチだと思っておった)にーちゃんが眼を赤くして向こうから歩いてきたら、薄気味が悪いであろうから、一生懸命こらえてはいるが。 閑話休題。 「言葉」という人間がつくりだしたシンボルは、伝達のためにつくられたのに人間を孤独にした。言葉がなければ友人であったはずの動物や鳥、あるいは木や草をただ言葉を獲得したことによって裏切ったばかりではなく、人間は人間自体からも孤立することになった。 人間は言葉の獲得によって、言葉が介在しない世界を失ってしまった。 言葉を得たことによって他のいっさいを失ったと言っても良い。 二度とたとえば鷹が地表を見る目で世界を見ることが出来なくなった。 銛に射止められて海面を血に染めて死んでゆく鯨たちと同じ死を死ぬことは出来なくなった。投げやりな言い方をしてしまえば、言葉を覚えてしまってからというもの、 人間には、「ありのままの世界」などなくなってしまった。人間には虚構としての世界だけが残された。 人間は言葉の発明によって自分で自分を世界から追放してしまった。 だから人間の使うどんな言葉にも言葉には「寂しさ」がこもっている。 世界を荒涼とした土地としてしか感じさせない何かがある。 それでいて、どの言葉もその土地の訛り方で思想が「訛って」もいるのです。 本来の観念のベクトルがからみついた歴史や感情によって曇ってしまっている。 永遠とエターニティとL’ETERNITEは、どれも考えていることは同じなのに感じていることは、てんでんばらばらです。 そして、そこにこそ、人間が自分を回復する手がかりがあるのではないかとわっしは思います。 えらそーに言うと、わっしにあるのは、いつも「知らないものを理解しようと思う気持ち」です。いっこうに上手にならないのでいらいらしながら(実際、日本語はたとえばスペイン語習得の100倍くらい手間がかかるのではないか)日本語でこうやって文章を書いたりしているのも、別にクライストチャーチのお土産屋で職を得たいからではない。 日本人と日本語、というものが、自分にとってはもっとも理解しがたい文化と社会だからです。なにからなにまで訳がわからんので、考え甲斐がある。 (訳がわからん、と言っても、哲学上のことだけではないのです。もっと身近なことで、わからんことがいっぱいある。たとえば、日本の玄関のドアって外に向かって開くでしょう?あれはなぜであるか。玄関のドアというのは屋内に向かってひらくからこそ、椅子を積み上げて侵入者を止めることができるのであって、向こう側に開いちゃったら、誰でも入ってこられてしまうではないか。もっとも強盗がガイジンなら、闇雲に押しまくって「鍵を壊したのに、開かん。わけがわからん」と言って退散するかもしれないが。 実際、なぜ日本ではドアは相手の側に開くのだろう。もしかすると、日本のひとはドアというものが侵入者をとどめるためにあるのを知らないのではないか) 英語人と日本語人はお互いに激しく自分たちの言葉の屈曲の仕方で訛っているので、握手の時に差し出したお互いの手が確かに物理的に触れあえるのが不思議なほどです。 重なっているだけで、別の世界に住んでいるのかと思ったら、われわれは確かに同じ次元に住んでいるのだ。 びっくりしてしまう。 しかし、それでも日本語を練習してよかった、と思うことの方が時間の無駄であった、と思うことよりも多いのです。わっしは日本語習得にかかった時間の全体が結局ただ単に「鮎川信夫全集」を読むために過ぎなかった、ということになっても、それで良かった、と思っています。いや、岩田宏や岡田隆彦の一篇の詩のため、でもいいな。 空港にやってきて「元気でね。また、会えるといいね。楽しみにしています」と言う「キヨソネさん」の 笑顔を見られただけでもいいのかも知れません。 わっしは言葉を獲得してしまったので、もう「永遠」には触れられないが、その代わり一瞬のキヨソネさんの善意の燦めきやどんなひとでも一生に一度は見せる人間性というものの須臾の間の輝きを垣間見て自分の短い一生のあいだ記憶しておくことが出来る。 こうやって書き留めておくことも出来るわけです。 写真はクライストチャーチの羊。観光客のひとなどは「かわいい!」というひともいますが、 わっしの感想は「見るからにアホ」であります。 最近は国をあげてワイン作りに走っているので羊が少なくなった。 ちょっと寂しい感じもします。

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「おかわいそうに」と裁判員制度

「おにーちゃん」 「…….」 「おにーちゃんってば。昼ご飯出来てるよ。モニさんが腕によりをかけてつくったんだから、起きてきなさいよ。おにーちゃん!」 「うー」 「なに唸ってるのよ。役立たず、ごくつぶし、グッドフォーナッシング!」 ガバと跳ね起きて、「なにを抜かす。この無情者めが」と叫びたいところであるが、そうはいかぬ。そんな雄々しい行動をとったら、おえっといってしまいそうです。もしかすると、力み方のベクトルの向きによっては、オムツが必要な事態にもなりかねぬ(汚くてごめん) クリケット仲間と新しく出来たステーキハウスに行ったところまでは良かったが、そこからが拙かった。ステーキハウスでワインをひとりで二本飲んでもう出来上がっていたのに、そこからついクラブにつきあってしもうた。 マティニが一杯、マティニが二杯、マルガリータが一杯マルガリータが二杯、ふんでもって、ソルティドッグが一杯ソルティドッグが二杯.。 微かにデブPとふたりでALIZEEの http://fr.youtube.com/watch?v=ceSxEjwXHcM をフリ付きで歌ったところくらいまでは憶えているが、その後の記憶がない。 妹よ。お兄様は昼飯を食べるどころではありません。 寝返りが出来るかどうか微妙である。わっしの長年の経験で鍛えた勘では放屁衝動でも起ころうものなら乾坤一擲の大決意でバスルームまで全力で疾走せねばならぬ。 妹の罵声がやんだので、そおっと毛布から顔を出したら、モニとかーちゃんと妹が並んで立っておって水鉄砲で水をぶっかけられた上に写真を撮られた。 三人できゃはは、と笑い転げておる。 西洋の女はまことに無慈悲です。 日本の女のひとはやさしい、と言う。 耳かき、というのは日本のひとの奇習だが、ものの本に依ると日本の夫たちは奥さんの膝枕で耳を掃除してもらうという。その話を妹にしたときの反応は「ぎょええ気持ち悪い。第一なんで女がそんな汚穢屋みたいなことしなくちゃなんないのよ」でした。 まっ、わっしもあの鈎付き棒みたいなのを耳に突っ込まれると思うと気味が悪くはあるが。 レストランにはいるときでも男を先に行かせて、男がえばってテーブルにつくと、そそくさと席について柳のような白い細い腕をのばして「おひとつ」とかゆってビールを注いでくれるという…..って、これは自分で書いていても60年代東宝映画の観察にしか過ぎないのがバレバレ(スペイン語ではOKOKっすな)である。 日本語には英語に出来ない言葉がたくさんある。 「反省しました」というが、英語では反省と言えない。リフレクト、じゃないの? 違います。ぜーんぜんリフレクト、違うわい。 言葉がない。ははあー、だから連合王国人は悪行の限りをつくしても反省しないのだな、と独り言を言った、そこのきみ、だからわっしは前から賢しら顔でものを言う人間はたいていバカである、と言っておる。そうではない。連合王国人が反省しないのは、そうではなくて悪事においてはあくまで前向きで過去を振り返るような女々しいことをしないからです。 反省、と言うような中途半端なことはやっても仕方がないのでしないのね。 いよいよ天罰が下ってにっちもさっちもいかなくなったときだけ、ぐぎゃあ、と思う。 これをリモース、と言います。考えてみれば、もう手遅れなんだから、これも無駄な感情だがな。 「悔しい」も言えない。英語国民はくやしがれないので、甚だしく不便である。 切りがないのでもう挙げないが、日本語でいう「おかわいそうに」という言葉がわっしは好きなのす。 相手の体そのもののなかに自分の感情がすっと入ってゆくようなところがあるからです。 相手が極悪人であろうが、嫌いな人間であろうが、もしかすると人間ですらなくても、むごいめにあっているものに向かい合った日本のひとが持てる偉大なシンパシイの言葉であると思う。うまく言えないが、なんだか罪や罰というような世界を越えてしまうような響きがある言葉です。 裁判員、というものが日本には出来たそうです。 成田のホテルでモニがシャワーを浴びている間にテレビを観ておったら、あれは「バラエティショー」っちゅうんでしょうか、まじめくさったおっちゃんたちとおばちゃん一名が一列に座って制度の是非を論じておった。 わっしは日本語でブログを書いたり日本語の偉大なダジャレをつくろうと志して日夜研鑽に励んでいたりする割には、日本の時事的話題に興味がない。 日経ネット、をよく読むが、「食べ物新日本奇行」ばかり熱心に読んでいるだけです。 ニュースに興味がわかん。 でも、この番組は面白かったな。 わっしは「裁判員」って、ジュリイ(沢田研二、じゃないんだお、日本語忘れちっただけ、審判員、っでなくて、えーと、陪審員、だっけ)みたいなんかと思ってたら、裁判官と同じ並びの席に並ぶというので、まずびっくり。 それではただでさえお白州じみた日本の裁判所で、お奉行さまが複数化するようものでわっしの感覚では「すごくヘン」である。なんだか「陪審員制度」と真っ向から対立する思想の裁判にプロ裁判官のかわりにアマチュア裁判官を起用するような感じで、なんだか無茶苦茶な判決(捕鯨に反対した罪で鯨食三ヶ月、とか)がくだされそうで、これから日本で悪いことをするのは絶対にやめよーと思いました。 (そういう効果があるのか) … Continue reading

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日本再訪_4_日本の食べ物

ディムサムを食べに行った。クライストチャーチも西洋の街のご多分に洩れず中国のひとがたくさん住んでいるので、ディムサム屋もたくさんあります。一皿が2ドルから3ドルくらいだから日本円なら100円から150円くらいである。 ディムサム屋はどこも同じ、そのくらいの値段です。 モニは中華料理屋一般がそもそも嫌いなので、どおりゃたまにはショーロンポーでも食べるかのい、と思ってもついてきてくれない。しょうがないので、まともな食事以外なら何でも食べるデブPを誘って食べに行きました。デブPはなにしろ日本の捕鯨船がニュージーランドの近海に現れた、というニュースを見ていて「自分も鯨肉を食べてみたい」と思うほどの豚の食欲の持ち主 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080314/p1 なので、ディムサム屋でも「ゲソ天」とか不気味なものから注文して、「う、うまい」と唸っておる。さすが、「犬のスープって、おいしいのか?」と訊いてデブの単純な好奇心を自国民に対する侮辱と曲解した韓国人のガールフレンドに逃げられた経験の持ち主だけのことはある。 (その後デブPは韓国に行って犬のスープを食ってきた。たいへんうまい食べ物だそうで、「フランス人たちがいっぱいいて舌鼓を打っていた」そうです。「なんで、あんな立派な食文化を恥ずかしがるのか、おれにはわからんね」と言っています) 中華風チリソースと醋と醤油(キッコーマン)をつけて食べるシュウマイや小籠包は結構うまい。このリカトンに新しく出来た200席くらいのディムサム屋がクライストチャーチではいちばんうまいかも知れません。去年来たときも広いレストランが満員であった。 でも、ありー、コーカシアンがあんまりいなくなったな、ここ、とデブPに訊いてみるとクックックと笑って、離れたテーブルを指さす。 そこにはなんだか深刻な話をしているらしき中国人のカップルがいます。 若い男のほうが、眉根を深刻気にしかめたまま何事かを女に告げながら鶏肉を口に放り込んでくちゃくちゃと食べたかと思うと骨を「ぷっ」と吐き出す。 女のほうが、ひとことふたこと静かに、でも毅然と答えると豚肉を口に放り込んでくちゃくちゃと食べて脂身(多分)を「ぷっ」と吐き出します。 ひそひそ、くちゃくちゃ、ぷ。 ひそひそ、くちゃくちゃ、ぷ。 「ぷ」と吐き出す先が正確に同じところなのが礼儀にかなっているもののようである。 隣のテーブルのパケハ(マオリ語で白人のことです)ビジネスマン3人組が恐怖に顔をひきつらせて、そのテーブルを見つめていたかと思ったら、ウエイタのおばちゃんを呼んで、「さっきの注文、みんなテイクアウエイに変えてください」と言ったので笑ってしまった。 「あれが理由なのか?」とデブPに訊くとデブはなおもクツクツと笑いながら必死に頷いておる。 なんでも中国のひとたちのあまりのマナーの悪さに気分が悪くなって店に抗議したヘンなばーちゃんまでいたそうで、そうやこうやでコーカシアンの客が減った。 ついでに中国の食べ物は安全に問題がある、という口コミが広がっていっそう客が激減したそうです。 そーゆーわけで、アジア人以外の客はほとんどいなくなった。 かつて全盛であった中華料理屋にとって代わったのはインド料理屋です。 「バターチキンカレー」が人気がある。 サモサやパコラも食べます。みるみるうちに増えていまでは50を越えるそーな。 わっしもよく出かけていってラムカレーやチキンマサラを食べます。 モニはサモサとタンドリ。 日本のひとが誇りにしているとおり、東京は食べ物がおいしい街です。 食べ物に対する考え方が繊細であって材料の切り方までいちいち理に適っている。 あと、これを忘れるわけにはいかむ、どんなものを出すのでもプレゼンテーションが素晴らしい、 ちょっとイカを出すくらいのことでもまるで芸術作品のような形をつくって出します。 とてもあのド醜悪なビルをつくって見渡す限りにぶちまげた(ごめん)のと同じ国民とは思われない。 「ロスアンジェルスのほうが寿司がおいしい」というひとによく日本で会いますが、それはなんにも判っておらぬ。 材料が良い場合でもロスアンジェルスあたりのスシシェフは銀座の職人さんに較べると、鮨種を「ぶったぎって」しまうので、鈍感なわっしでも舌触りが悪くて、おいしくない、と思う。400ドルも払って、そういう「技術」のような面ではくるくる寿司にも劣る寿司屋に行くと、もう行く気がなくなります。 カリフォルニア人はもともと「巻物」が好きで「なんとかロール」ばかり食べたがりますが、もしかすると、包丁の入れ方が悪いせいで舌触りが悪い普通の握り寿司をぼんやりと判っているのかも知れません。 わっしは醤油が好きでないという、日本で食生活を楽しむにはかなり致命的な欠点をもっていますが、(実際いまどき醤油があまり好きでない、というような「遅れた味覚の人間」はこの世界にわっしくらいしか生息していないのではないか)、それでも、東京にいて食べ物の面で暮らしにくい、と思ったことはない。 それどころかモニとわっしがいた広尾山の周りにはどっちがわに降りてもイタリア料理屋フランス料理屋アメリカ料理屋オーストラリア料理屋なんでもあって、毎晩新しい店をみつけては出かけるのは楽しいものでした。 後半モニが日本の街に出かけるのをいやがるようになってからも夜だけは、そういうわけで出かけて楽しむことが出来た。 モニとわっしは日本酒が好きなので、知らなかった日本の食べ物も今回はだいぶん学習した。カラスミは、知り合いのフランス料理屋の主人がブランディでつくったものを持ってきてくれたとき以来ふたりとも好物です。 豆腐も日本のお豆腐はやさしくてしっとりしていて世界でいちばん優美である。 京都の藤野の豆腐がわしらは好きであった。 名前をわすれちったが、山形県の特産だというチッコイつぶつぶの木の実もおいしい。 的矢や岩手の牡蠣、銀鱈の柚子焼きに若狭の笹鮨。 … Continue reading

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人種差別の向こう側

モニとふたりでノースランドへ行った。ノースランド、というのは高校生くらいの人たちに人気があるモールです。 わっしがガキの頃は、ひどくぼろいモールであってクライストチャーチにいくつかあるモールのなかでもいちばんビンボくさいモールだった。いまの拡大されてかっちょよくなったノースランドにはEBゲームとディック・スミスというパーツも売っているPC屋があるので、わっしは里帰りしていてオタクなものが必要になると、ときどきここに出かけるのす。スイッチングハブを買って、500GのポータブルHDD(二万円であった。通貨レートのせいで東京並みの価格である)ついでに高校生のバカガキどもの生態を観察する。アジア人留学生たちの影響(高校の校長談)で店の前に車座になって床にぺったり腰をついて食べ物や飲み物をおいて話し込んでいるガキの見苦しい姿が目立つようになった。最近の特徴的な風俗です。東アジア人たちのような座り込み方が出来ないので、お尻が冷たくなりそうな座り方です。なかにはパンダのような座り方をしているのもいる。 人前でネッキングをしたりするのもアジア人留学生カップルの影響だそうである。 高校生たちの行動の劣悪化はなんでも「アジア人留学生のせい」ということになっているが、ほんとうなのかどうか。 そのうちには人前で性交を始めるのではないか。 そーゆーときは、アジアの犬の悪影響ということにするのではないでしょうか。 ノースランドの駐車場を出てパパヌイロードを右に曲がったところで、前にいたくるまの若い衆のうちのひとりが、歩道に向かって指を立てておる。 東アジア人の女の子たちが、びっくりしたようにくるまを見ています。 「なんじゃ、あいつ?」と、正確には前のクルマで起こったことを把握できないでいぶかるわっし。 モニが面白くもなさそうに、「前のくるまの男が、アジア人の女の子のふたりづれに向かって、指を立てた」という。「なんか大声で言ってたから、『自分の国に帰れ』とでも言ったのでしょう」 みるみるうちに機嫌が悪くなるわっしを見て、モニが笑ってます。 「ガメは、いくつになっても正義の味方のスーパーマンだねえ」 「そんなことはありません」 「悪い奴らは大嫌い」 「違います。そんな子供じみた正義感はありません」 すっと手がのびてきたと思ったら頭をごしゃごしゃにするようにして「イイコイイコ」されてしまった。 うー。 その後ほっぺたにキスもしてくれたから許すが。 こんど戻ってみるとクライストチャーチの友人たちはみな挨拶の代わりのように「アジア人が増えた」「洪水のようだ」「見渡す限りアジア人だ」と言う。 えっ、このひとまでそんなことを言うのか、と思うようなひとまで、「これ以上アジア人に来られると困る」と言います。 社会全体がそういう雰囲気なので、頭に半分くらいしか脳みそがはいってないにーちゃんたちは、街のあちこちでアジア人を襲い出します。 かわいそうにトランピングの途中で襲われて殺された韓国人の学生もおった。 その一年前には日本の大学生がエーボン川に浮いていた。 オーストラリアやニュージーランドの人種差別の現状は、欧州よりは全然マシだが、アメリカの大きな街と同じくらいにはひどくなったかなあ、という程度でしょう。 ときどき「東アジア人」に対する嫌悪というものが抜き差しならないものになってくるように思われてユーウツになります。 たとえばシドニーはちょっと前までなら日本のひとが自分の皮膚の色や国籍をまったく考えないで住める街でしたが、この頃(ここ一二年)は、そーでもない。 やはり捕鯨の影響もあるのでしょうか。 日本人の戦時中の残虐さの報道がまた少ししつこくなってきた。 当然のことながら日本のひとは自分たちに向けられた人種差別にたいへん敏感ですが、わっしは日本のひとは逆になんでもかんでも「人種差別」のせいにしてしまう傾向があると思う。このブログが日本語で書かれているからではなくて、わっしが傍で観察している限りでは日本のひとはもっともアジア人差別にあわないですんでいる民族グループだと思う。 多分、「アジア人は自分の国に帰れ!」と叫ぶアホなにーちゃんたちが日本のアニメを見て育ったからです。考えてみると、ノースランドのレーシストのにーちゃんたちもマツダに乗っておったしな。 わっしはむかし、どりゃどりゃ、人種差別にーちゃんや東アジア人にーちゃんの話も聞いてやるか、と思って、どーしてそんなにアジア人が嫌いなのか訊いてみたことがある。 「容貌が醜くてかっこわるい」と言う。そう言っている本人は西田敏行そっくりなので、まあ、西田敏行に似たひとがそんなに多いとは言えないアジア人が醜いと思うのかも知れぬ。 「自分勝手で社会のルールに従わない」 「犯罪を起こす」「頭が悪い癖に狡猾である」「自分たちの学校に行かず留学してきてわれわれの教育インフラを盗みとっておる」「職業や金を掠め取るだけでまったく社会に貢献していない」「マネしかしない」「創造力がない」 いくら訊いてみても、説得力のある返事が返ってこないところを見ると、どうやらアジア人に対する激しい憎悪は、自分たちのほうに理由があるようです。 わっしが入れ墨だらけのスキンヘッドな凶悪そうなのや一見インテリ風なのや何人かインタビューしてみた後で考えた感想は、実はこういう人種差別や民族差別をいいたてる人間というのはどうやら自分の心に問題を抱えているひとが多い、というものでした。 怒りをぶつける相手が「アジア人」であっても「資本家」であっても「政治家」であってもなんであっても、どうも言うことが変わらないようである。 言うことや論理のつくりかたが、このブログに「白人死ね」とか「おまえの言うことはくだらない、(そりゃ、まあ、くだらないんだけどね)、賢いおれさまのいうことを聞け」とかわざわざ書いてよこす人たちや、このブログを書き出して以来、3年間、ずぅーと、2chにわっしの悪口を書いたり、コピペをして煽ったりしているひと(こうやって書いて考えてみると、このひとはこのブログのものすごく熱心な読者なわけで、ヘンなひとです)と精神構造はまったく同じで、社会に対する適応障害の現れである。 問題なのは、通りを歩いているアジア人に指を突き立ててみせたりしないほうのひとたちで、このひとたちと話してみると、「結局アジア的価値観と西洋的価値観は決定的に相容れないのだ」と考えている。 あいだを省いて言うと、いまの世界の背骨をつくっている西洋的な「寛容論」に深刻な疑いをもってしまっているように見えます。 … Continue reading

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訛り、アクセント

英語が母国語でよかったなあ、と思うことのひとつはいろいろな訛りの英語が聞けることで、こんなに楽しいことはない。 わっしがいちばん好きなのは、もちろんニュージーランド訛りの英語であって、それもオタゴ地方の訛りが好きです。どこがどう、と説明するのは難しいが、聞いているだけでオタゴの広大な牧場が目に浮かぶような言葉です。 わっしのニュージーランドの友達にはオタゴ出身のひとが多いのは言葉のせいが大きいのではないか、と思う。 逆に合衆国人、特に北東部のひとのアメリカ英語は苦手である。 Rの音が大きすぎて、脅迫的威圧的に聞こえます。 「ただの訛りなんだから」と頭でわかってはいても、どうしてもいやな感じがしてしまうのです。 アイルランド人たちの英語を聞いていると、なんとなく浮き浮きします。こーゆーことを言うとアイルランド人たちは怒るに決まっているが、まるでノームかなにかと話しているようだ。 わっし自身は、かーちゃんの言葉であるスコットランド訛りの上に子供のときから一年の半分を過ごしたニュージーランド訛り、それとは別にイングランド訛りがあって、いわば3系統の発音が頭の中に並列に記録されている。 これが混ざってしまうと奇怪な言葉になって英語国民は「どこのものだかよくわからない英語」を嫌う人が多い(と言う、わっし自身が「混ざった英語」はたまらんほうです)ので、気をつけて話している。 主に話す相手によって決まるようです。 クライストチャーチにいるときは、ニュージーランド訛りむきだし。 外国人の訛りでは、わっしはインドのひとの訛りがいちばん好きです。 聞いていると楽しくなる。良い意味で「アジア的」な感じがします。 精霊たちが話しているような暖かみのある英語だと思う。 中国の人の訛りは粗っぽくてコワイ。横で急に話し出されると「きゃっ」と飛び上がってしまうようなところがある。 その代わり、なんとも言えぬおかしみがあります。中国のひとたち自身のとぼけた味わいのある国民性とあいまって、独特の味がします。 まだ英語があまり上手でない日本のひとが訥弁で話す英語は好きです。 ひとことづつ噛みしめながら話すようなひとの日本人英語は特に良い。主にLとRの区別がまったくつかないことからくる会話上の混乱も、仲の良い友達同士では楽しい話題になるだけです。 I rub you! youtubeで女の子を酔っぱらわせて立てなくなっているのを面白がって撮影した日本人の「帰国子女」たちがアップロードした動画が話題になったことがあります。 わっしは不愉快そうなものは初めから見ないので自分では見ていないのですが、べろんべろんに酔った女の子の様子を「可笑しい」と感じる、その人間性のくだらなさに英語国民の普段は馬鹿まるだしの悪ガキどもが怒りくるったのはトーゼンですが、そのふたりだか三人だかの外国で長く生活していたらしき日本人たちの英語の「得たいの知れなさ」に非難が集中したのを、わっしは面白いと思って話を聞きました。 英語国民は英語が下手な外国人と話すことをいやだと思いません。 あたりまえでしょう。外国のひとなのがわかっているのに、自分たちと同じような英語を期待するわけがない。ものすごく判りにくい英語であっても、一生懸命耳を澄まして聞いて理解しようとする。相手が自分の言葉で話している以上、そこで理解を成立させるのは母国語の側の役割だからです。 しかし、日本人がヘンな英語を多少流暢であるからと言って、日本の、しかも妙なところで使われるのは困る。しかも同国人に対するねじまがった優越感をもって使われるのはもっと困る。もっと言ってしまうと、失礼だと思って口にしないだけのことで日本人でたとえば両親ともに日本人なのにインターナショナルスクールに入れられてしまった、というような場合は、悲惨だと思う。 「得体の知れない英語」を生活言語として話すことになるからです。 造花みたい、というか、聞いていて落ち着かない奇妙な言語を話すひとたちが出来上がってしまう。アイデンティティがどっかにぶっとんでしまう。 連合王国人は他人を虐めたり嫌がらせをするのが国民的な趣味なので、わっしの学校のなかでも韓国人の同級生がよく虐められておった。 富裕な両親が子供のためによかれと思ってわっしらの学校へ入れたのでしたが、気がついたときに同級生がかわるがわるこの韓国人に加勢していたものの、しつこくこの韓国人の些細な発音の違いや表現のおかしさをあげつらって虐めにかかるグループがいたのを憶えています。 それも「なんだか本当でないもの」の身近で暮らさなければならないことへのバカなりの反応といえないこともない。 日本では「方言」が流行らないのは、がっかりです。 もっと普通に「山形弁」や「茨城弁」が聞ければ、どんなにかよかっただろう、と思う。 「寒いなあ」よりも「凍みんのう」というほうが、ずっとカッコイイ。 おおげさに言うと「真実」がこもっているような気がします。 同じ一言でも、方言のほうが「歴史」や「ほんとうの感情」や、もっと簡単に言って 「ほんとうのもの」がいっぱい詰まっていそうな気がする。 てじゃめゆ おぬ うみ と言う言葉で表現される美しい海は、きっと沖縄の海だけなのに違いなくて、 「凍みる」のは信州地方のかつてはダイアモンドダストが見えた朝でないとならないのではないでしょうか。 … Continue reading

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日本再訪_3_音、音楽

日本にいる「ガイジン」がみな口を揃えて言いたがることなので、日本のひとももうさぞかし聞き飽きたことだとは思うが、日本はやはり「うるさい国」です。 日本にいるときにわっしがよく出かける有楽町から銀座などは「騒音地獄」であって、あまりのもの凄さにモニは笑いだしてしまったりしておった。 駅の高架の上から聞こえてくる「まもなく電車が来ます。白線の内側までお下がりください」 到着の音楽。ビーク、ビクビク、ビックカメラ。 あのなあ、と思う。それとも日本のひとはわしらに聞こえる波長が聞こえていないのであって、あのビイークビックビックビックカメラ、みたいなものはサブリミナル広告のような効果を果たしているのでしょうか。 蝉は自然界の騒音王だが、あのすさまじい音であるのに違う種同士では聞こえていない。 そういうことかしら。 なぜか。 わっしは途方もなくオタクなガイジンなので、有楽町のビックカメラにもよく行きます。 しこうして、このオタクガイジンの行動を観察していると、妙なことに気づきます。 およそ30分くらいを限度として、ふらふらと建物から出てくる。 やや疲れた顔をして国際センターの周りをぐるっとまわって歩いておる。 そのまま丸の内方面に去るのかと思いきや、意外や、またビックカメラにはいってゆきます。それを繰り返しておる。 海女のひとたちと同じですね。 騒音に必死に耐えて買い物をする。 でも30分が限度なのです。 日本のひとほど根性がないのでそれ以上の時間は耐えられん。 あの店はすごい。 どこかの頭の壊れた作曲家がつくった歌をパチモンの幼児のような奇妙な声の歌手が歌っている「ビックカメラ」の名前を連呼するだけの不愉快を音声化したような歌がガンガン鳴り響いている上に、拡声器をもったにいちゃんやおっちゃんが品定めばかりで金を使わないガイジンを寄せ付けないために要所要所に立って、ほとんど何を言っているのかわからん言葉をがなっておる。 店員さんたちはたいへん優秀な上に親切な店であって、その点では世界一だとわっしは思いますが役員や社長はよほどの馬鹿なのでしょう。 あの程度の経営の知恵しかない会社が勝ち進んでしまうのも日本という国のおもしろいところです。 多分、日本の大規模店というのは売るほうよりも仕入れのほうに知恵が必要な何らかの事情があるのでしょう。そうでなければ説明がつかない。 わっしのように日本が好きなヘンな外国人でも東京にいると疲労が早いのは、人の数もあるが、どちらかというと「騒音」、取り分け「音楽」のせいであるようです。 わっしはこうやって悪態をつくくらいですが、モニは結局東京ではほとんど出かけなくなってしまった。拡声器から流れてくる音楽を装った騒音のせいで「気分が悪くなるから」 です。 あるスーパーマーケットに行ったときのこと、ふたりで売り場の棚を見て歩いていたら「おにーく、にっく、肉」という客に対する嫌がらせを目的につくった曲が安物のラジカセから大音響で流れておった。モニは、すっと歩いてゆくとパチと切ってしまいます。 呆気にとられてモニを見つめる店長風のおっちゃん、しかめつらをつくって耳に両手をあてて、いやいやをするモニ。 おっちゃんもつられて両耳に手をあてて、うんうんしておる。 笑ってしまいました。 あるいは軽井沢のいちばん大きなスーパーマーケットである「T」で背広の見回りに来たえらいひとらしき「T」の社員をつかまえて、客のおっちゃんが「きみ、なんだ。このくだらん売りだしの放送は。こんなうるさいだけのもの、恥ずかしいとおもわんのか。即刻、やめたまえ」と言ってます。 日本のひとにも、騒音が嫌いなひともいるのを発見して、わっしは驚いた。 正直にいって、わっしは、このひとを見かけるまで日本のひとはみんな極端に聴覚が鈍感なのだと思ってました。 騒音とは別に、わっしは今回は「日本の音楽」を採集しようと思う気持ちもあった。 たとえば日本にいて、タイの音楽をインターネットで収集しようと思うと判りますが、これは案外とその国にいかないとできないのです。 結果は、あんまし芳しいものでなかった。 こういうと笑われてしまいますが、宇多田ヒカル、くらい。 古い音楽のほうがよいものが多いようです。 高田渡はいいなあ、と思った。誰かがやる気になったら、どこの国にもっていってもきっと評判がよいと思います。まさかブリットニースピアーズを聴く人が聴きはしないが。 浅川マキ、というひとはパリのクラブで聴いたことがありましたが、CDを買って聴いてみてもやはり素晴らしい。 とこうやって書いていて、くだらないことを思い出してしまいました。 … Continue reading

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Paradise Overdose

調子が出てきてしまった。生まれてから今日までスランプであったのが嘘のようである。モニは妹と一緒に買い物に行ってしまったので、わっしは午後7時くらいまで独身です。事情があって、お婿さんにはなれないけどな。 歴史の浅いクライストチャーチにも神様がついに時間とともに生成されて祝福しにあらわれたのでしょう。人間といえど、このくらい調子がよくなると思わず空を飛べたりするに違いない。 わっしはわっしのオンボログルマに乗ってハグリーパークに行った。 モニと一緒のときにはそういうわけにはいかないが、わっしはもともと時々機嫌が悪くなって止まるくらいのほどのよいボロ車が好きなのです。夏の暑い日には水をいれた薬罐が必要なくらいでないとクルマはつまらん。出来の悪い人間が出来のよいくるまに乗っているくらいみっともないことはない、という。わっしなどは30年くらい前の箍が外れたくるまで丁度良いのです。 天気が良かったのでくるまのなかで靴を脱いで裸足でボタニーガーデンと芝生を散歩した。木立のなかの草むらに寝転がって枝が縁取った青空をみていると、この地球に他の生物たちと生まれ合わせるのはなんというよいことだろう、と思います。 考えてみると飽きっぽいわっしですら、生まれてから何度も見ている青空や雲や風に揺れる大きな樹を見ていてもいまだに飽きるということがないのは不思議なことです。 水にそっと手をつけてみるのも、草のにおいも土のにおいも、触れるたびに新鮮な感じがするのは人間の感覚の法則にあわない。 人間はもしかすると呪われた存在であるどころか逆に神様の祝福を過剰に浴び続けてすっかり甘やかされている存在なのかもしれません。 この宇宙のありとあらゆる良いものがこの地球に集められているので、人間は地球の外に広がる暗黒の世界に気づかないのかもしれない。 だからこれほどの自然の恩寵の洪水のなかにあって感謝もなく、あるいは祝福された存在であることすら忘れてしまったのかも知れません。 帰り道、Gというわっしの好きなコーヒー屋に立ち寄ると、この店の看板娘のメチャクチャハクイ生姜色の髪のねーちゃんが、「あなた、去年もいま頃きたわね」と言う。 「よく、おぼえておるのう」と、わっし。 来る客をひとりひとり顔を覚えているなんて、なんて記憶力のよいひとでしょう。 ねーちゃん、ハクイだけでなくて賢くもあるのだな。 「また来るかな?と思ったら、全然来ないで、いま、また来たから、きっと外国にいて、いまごろだけ帰ってくるのかと思ったのよ」 鋭いではないか、ねーちゃん。 「わたしのクリスマス・フェイス。縁起がいい顔だわ」 ふむ。 わっしは自分の顔を鏡で見た日はろくなことがないが。 ねーちゃんは、ほんとうは一個しかつかない板チョコをふたつ置いていってくれます。 わっしはアフガンとチョコをふたつ食べて、なんだかつま先までしびれてくるような不思議な幸福な気持ちに包まれます。まるで青空が体の中に満ちてくるようだ。 「故郷」というものが体中の隅々にまで染み渡ってゆくようです。 買ったばかりの、(この国ではシムにロックがかかっていない)iPhoneに予定をいれて見ると、ほぼ一日の空きもなく友達たちと昼飯や夕飯を食べに行くことになっておる。かーちゃんの家に電話がかかってくるたびに無反省にほいほいイエスイエスと言っておったら、そうなった。 なんだか忙しすぎてつまらない感じがしますが、クリスマスなどというものは、こんなものなのかも。 おー、モニと妹が帰ってきた。 これからインド料理のテイクアウェイを食べて、みんなでラウンジに行って モニが買ってきたLa faute a Fidel! (Blame It On Fidel!) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%B6%E3%80%81%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84 を見るのだ。 来週はモニのかーちゃんがやってくるので、かーちゃんはその準備でバレンタインというデパートに手伝いのおばちゃんとランナーを買いに行っておる。 食堂に行くと妹が自分の好きなArno Eliasの「Paradise Overdose」をでかい音でかけながらテイクアウエイを皿に移し替えてます。モニはワインを開けて注いでいる。 … Continue reading

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