バルセロナに帰る

ピカデリーから折れた裏通りで、わっしはプリントを見ている。

それに飽きてくると水彩画を見ます。

顔見知りの店員のねーちゃんが机仕事の手を休めて、わっしの横に立ちます。

ふと思い出して、「リージェントストリートのオリジナルプランって、おいてるかのい?」と訊く、わっし。

ねーちゃんは、このあいだまであったけどいまは在庫がないこと、どこそこの店の誰それに訊けばきっと持っていると思う。オリジナルデザインがまっとうできなかったのは、まことに残念であった、というようなことを言います。

北斎の植物スケッチが手に入ったが見ていかないか。

TSエリオットの編集者への手紙には興味がないか。

あなたが去年探していたディラン・トマスの書簡は、もうちょっとすれば手に入りそうだが、まだ興味があるのか。

そう言ってから、くすっと、笑うと口調を変えて、もちろんあるよね、ディラン・トマスはガメのカイリーだからな、と失礼なことを言って笑う。

カイリー、というのは、カイリー・ミノーグのことです。

このねーちゃんは、実は、わっしと同じ階級のひとである。

日本のひとは「階級?はあっ?」というに違いないが、連合王国にはいまだに階級というものがあるのです。わっしはプーの階級。

プーさん、だのい。

ねーちゃんがいれてくれたものすごく冷たくしてあるレモンチェリを飲みながら、わっしは椅子に座って、黄金の天使の絵を描いた。ウーズレーで飲んだワインがだいぶん残っていたのかも知れません。

ねーちゃんから借りたヤード・オ・レッドで描いた天使は、われながら悲しげで、いまにも泣き出しそうである。

店主がやってきて、われわれはこれから奥で紅茶を飲むところだが、きみも飲んでゆくかね、と言う。

いえ、もう行きます。

あなたのクロテド・クリームの嗜好にはかねがね敬意をもってますが、今日は遠慮しておきます。

あれは健康の敵だともいう。

ガメ。きみは、いつ見ても懐かしいやつだの。

この次はいつ会えるだろうか。

バルセロナから一度戻ってくるんだろうね。

次に会えるのは今年の夏かな。

きみはその後パリに行くのかね。

あんまり、お母様を困らせちゃいかんよ。

そーですか。

おかーさまは、そのむかし娘っこであるのにカーレースに進出してひいじーちゃんを卒倒させたひとの娘であるから、わっしが勝手気ままに暮らすくらいでは「困った」りはしません。

メイフェアの裏通りでは学生風中国人がロシア人たちに海賊版DVDを売りつけておる。

フィリピン人の売春婦が、通り過ぎかけたおっちゃんの腕をとって、この頃は来ないではないか、となじっておる。

真っ昼間から泥酔したロシア人が、メイフェアのアパートの玄関の鍵を開けかける金持ちの娘のねーちゃんに「おまえは、いくらでやらせるんだ?」と叫んでます。

それを身なりの良いアングロサクソンの子供が立ちすくんで怯えた顔で眺めておる。

野卑と伝統的なメイフェアが見事なくらい混ざってます。

わっしは健全なニュージーランド人を自称しているが、結局はここのひとなのではないか、とモニは言います。

わっしにはわからん。

わっしには、わからんことだらけである。

自分が本当はどこの国の国民か、なんて、知るもんけ。

夜はモニとふたりでサルディニア・レストランへ行った。

背丈の小さなイタリア人の女の子たちがイギリス人らしく大層えらそうな金髪の大柄なおばちゃんに給仕してます。おばちゃん、声がでかい。

じぶんがどれほどイタリアが気に入っているか大声で述べ立ててます。

モニが有名なイギリス人の不作法にうんざりして顔を顰めておる。

モニ、わしはもう自分が元連合王国人であったことを思い出したくはない。

どこの国の人間でもありたくない。

自分が火星人であったら、どんなに良かったか。

それでも、わっしはこの地球という星を愛したでしょう。

それでも、わっしはあなたにめぐり会って、いまと同じに愛したに違いない。

わっしがただ単純にわしであって、イギリス人やニュージーランド人である必要がない日まで、わっしは生きていられるだろうか。

あなたがわしに伸ばす手をわしが握りしめて、ただそれだけのことのほうが、どんなひとにとっても、どんな国家間の問題よりも結局はひとりひとりの人間にとっては重大なことなのだと、みながわかる日が来るだろうか。

わっしには、わからん。

わからんことだらけだが、もうここをたたないわけにはいかむ。

明日の朝になれば間延びしたメルセデスがやってきて、スイス人のRがドアを叩きにくるはずである。

荷物がメルセデスに運び込まれる。

クラッシュランディングで有名なアブロが空港に待っているはずです。

明日はまたバルセロナである。

RやAが待っていて、きっとわっしに新しいテクノロジーやビジネスモデルのことを聴かせてくれる。

グラシアのハモン屋のおっちゃんはモニにまた会えて大喜びに違いない。

テーラーのおばちゃんもモニがまた今年やってくると約束したのを半信半疑で待っているに違いありません。

明日のいまごろは、バルセロナにいる。

もうイギリスについて考えなくてすむだけでも、とても解放されたような気がします。

メルカトで、朝からカバとパン・アム・トマカ。

いえーい。

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