垂直な言葉で書かれた日記を読む

「ガメ、どうしてそんな汚い本、わざわざロンドンからもってきたんだ?」

モニがベッドで眼を開けてわっしをちらと見ながらわっしに訊きます。

うーん、別に、とかなんとかむにゃむにゃと答えながら、本を棚から抜き取る。

この分厚い本をわっしはロンドンからずっと持って歩いていた。

わっしはバルセロナのアパートのコートヤードに面したテラスにその本を持って出ます。

「本を持って歩く」というのは旅行者としては失格である。

重い。

おまけにだいたいの場合読まないで終わってしまいます。

しかし、わっしはこの本を持ってきたかった。

(コノリーの汚れてはいるが革のかっちょいいカバーが掛かっているので)モニは気付いておらぬが、この本はわっしが日本語の勉強を始めてしばらくして自分でつくった本である。

以前からブログを読んでいるひとは知っているが、わっしはなんでも自分でつくるのが好きです。ニュージーランドにいるときなら、そのへんのおしゃかになったクルマの残骸を集めてギアボックスとエンジンをくっつけて自動車をでっちあげるくらいは朝飯前である。

製本もわっしの自力更生路線の1ジャンルであって、自分で本をでちあげるのは大好きである。そりゃ栃折久美子先生のようにはいかないが、自分ででっちあげた本というのはなかなかよいものです。みなさんもやってみられると良い。

わっしはこれも自分で腕によりをかけてつくったカフェ・コン・レチェを寝室のモニに運ぶと、自分の分をテラスのテーブルに置く。

おもむろに本を開いて読み始めます。

この本には「勇者の記録」という題がついておる。

わっしがつけた。

「勇者の記録」とゆってもドラゴンクエストのゲーム日記ではない。

マジな勇者の記録であって、わっしが蒐集した太平洋戦争中の日本兵の手紙や日記から自分がカンドーした部分を抜き出して書き写して日本語の教材にしたものが載っておる。

とーぜん、上原良司の「所感」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8

も、載っておる。

わっしはこの「所感」の作者の有名な秘密、「クロォチェ」の脇に打たれた傍点をつないだ暗号、

「きょうこちゃん、さやうなら。僕は きみが すきだつた

しかし そのときすでに きみは こんやくの人であつた わたしは くるしんだ。

そして きみの こうフクを かんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした

しかし わたしは いつもきみを あいしている」

を読んで、(考えてみればあたりまえだが)日本の兵士といえども人間であったのであって、決して刷り込みだけに反応したロボットではないことを学習したのであった。

わっしはその頃、「所感」よりも、この暗号を何回も読み返しては上原良司というひとの人生の切なさを思って泣いた。

羽仁五郎のようなアジテーターは、死を前にして人生に残された時間をすべて費やして自分の著書を読んだ戦時中の若者の必死の願いに戦後ほんとうに真摯に応えたか、というようなことを考えた。

他のページには、インパールへの出撃を前にして、自分の娘にあてて「おかあさんの いうことを ちゃんと聞いていますか。宿題は、ちゃんとやっていますか」と綴る通信兵の手紙がある。

このひとは、牟田口廉也の昇進したい一心の思いつきで発動したインパールの文字通りの地獄の戦線で、顔をそぎとられた同僚の兵士をひきづって後退する途中で野たれ死にした。

戦線の遙か後方のメイヨウで連日芸者をあげて空輸させた日本酒を空にして遊びほうけていた牟田口たちのことが一行だけ出て来ます。

「自分たちはもう仕方がないが陛下は牟田口閣下の乱行をご存じなのだろうか」という。

もし書き付けたものを内務班に見つかれば半殺しの目にあうのはわかっていたはずだが、書かずにはいられなかったのでしょう。

1945年の浜松では若い航空技術者が高空を翼を煌めかせながら飛ぶB29を羨望の眼で眺めています。

空襲警報が鳴っておるのに、このひとはわざわざ建物から出て初めて見るB29を同僚と驚嘆して観察しておる。

「1万メートルかな? いや、もっと高いな。時速も600キロは出とるなあ。こげな、ものすごい飛行機はおいは初めてみもした」と言い合ってるうちに爆弾が当のB29から落ちてきて背中に破片をいっぱいくらった若い技師たちは入院して、入院先の病院で終戦を迎えます。

海戦の混乱のなかで若い士官は、艦橋の幕僚たちを観察しています。

米軍の急降下爆撃機が襲ってきている。

高級幕僚たちをこの士官は「競馬を眺めている英国紳士たちのようだ」と表現しています。双眼鏡を手に敵の急降下爆撃機たちの腕前を論評しているのです。

「いちばんの奴はヘタだな。機体を起こすのが早すぎる。臆病なんじゃな。あれでよく小隊長が勤まるもんじゃ。二番目は、はっはっは、軸線がずれとうな。訓練不足。

三番目は、おっ、こいつはうまいな、おっと、こりゃいかん」

次の瞬間目の前で轟音と共に火柱があがったそうであって、この艦橋のひとたちが結局は戦争を生き延びたのは奇跡である。

こういう記録を残した士官や兵士の多くは、みなさんが知っているように死んで靖国神社の鳥居をくぐることになった。

わっしの眼には靖国神社で顔をあわせて、「妙に勇ましいところで会うことになったな、お互い」と苦笑いしあう死んだ海軍士官や陸軍士官たちの笑顔が見えるようである。

わっしはむかし、自分たちの共同体を守るために死んだ、こういう戦死者をちゃんと記憶しようとしない(どころか他国の外交的要求に従って「ヤスクニ」を廃止しようとまで考える)日本人の死者に対する冷たさとご都合主義を不愉快であって信じがたいと考えましたが、もしかすると、当の死者たちは自分たちの国の人間の死者たちへの冷たさなど、とっくのむかしに承知していて、ただ苦笑いを浮かべて、「どうも、そういう国なんだから仕方がない」と笑っているかもしれません。

生き残ったひとたちは、二年くらいは寝ていた。

みなが「奇妙な開放感と虚脱」と同じことを証言しています。

昨日まで将校の妻であった女たちがアメリカ人たちに身体を売ったり、台湾人や韓国人や中国人たちが占拠した渋谷駅前を通り過ぎたりする男たちの虚無感はどんな具合だったろうとわっしは想像してみようと考えることがありますが、当時の男たちの気持ちは遙かにわっしの想像力を越えていて、不思議なくらい直截の記録もないのです。

その後の日本人たちの突進は「恥も外聞も」かなぐり捨てたひとびとの全力疾走というべきもので、そのあまりの醜い姿が世界中の失笑を買いましたが、ほんとうは、それを誰が笑えるでしょう。

日本人たちの必死の戦いは、戦争中よりも当然戦争が終わってからのほうにあった。

「マネだけの猿」「恥知らず」はてはパキスタンの首相に「エコノミックアニマル」とまで言われながら世界中を商品を売るために駆けずり回ったのを、わっしは日本人の偉大な栄光であると思います。

立派な邸宅に住んでいる人間にとっては吹けば飛ぶようなウサギ小屋に住んで狂ったように働く人間は嘲笑の対象にしかならないのは当たり前ですが、しかし、人間としての栄光は必ず冷笑されている方にある。

嗤っているほうだって、そのくらいのことは知っているのです。

「ガメ、また日本語の本を読んで泣いてるんだな」

いつのまにか傍らに来て立っているガウンのモニが笑ってます。

「どうして日本語の本だとわかる」

だって読んでいる方向が逆ではないか。

なるほど。

モニが強引に割りこんで膝の上に座ります。

とても良い匂いがする。

「ガメ、好い加減に日本語にさよならする、というのはどうか?」と言う。

「日本に関わりすぎる、ときみはおもわんのかね?」と言う。

「意味のないことでしょう?」

モニの言うとおりなのかも知れません。わっしは明らかに日本のことについて時間を使いすぎる。そろそろ日本のことを考えるのはやめて立ち去るべきなのでしょう。

モニのほうが正しそうです。

でも、モニ。

いうことはわかるんだけど。

もっともなんだけど。

もうちょっとだけ。

画像は、日曜ともなればバルセロナの街中に現れるバンドのひとつ。

旧市街の浜辺。

みんな周りで笑ったり踊ったりしてます。

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