Who is that on the other side of you?

Who is the third who walks always beside you?

When I count, there are only you and I together

But when I look ahead up the white road

There is always another one walking beside you

Gliding wrapt in a brown mantle, hooded

I do not know whether a man or a woman

―But who is that on the other side of you?

というのは、何回も何回も暗唱させられるのでたいていの英語国民(少なくとも連合王国人)はうんざりして嫌いになる詩句です。

T.S.エリオットという気障な発音しかできないイギリスかぶれのアメリカ人のおっちゃんが書いた。

歴史上の日本のひとではいちばん普通に英語が理解できた西脇順三郎先生は、こんなふうに訳してます。

君達の傍にもうひとりの人がいつも歩いているがそれは誰だ?

僕が数えると君達と僕だけだ

あの白い路の先方を見ると

君達と一緒に歩いている人がいつももう一人いるのだ

鳶色のマントに身をつつみ

頭巾をかぶって音もなく歩いている

男か女かわからないがーー

君達と一緒にいるあの人は誰だ?

この詩句を書いたときエリオットは気取り屋で嘘つきのエリオットらしく、「どこで読んだか忘れた」とゆったが、もちろん、これは偉大なアイルランドの冒険家であったアーネスト・シャックルトンの南極漂流の記録から取ったものである。

成功したか失敗したかにしか興味がないくだらないひとたちにとっては「失敗した冒険家」にしか過ぎないひとであったアーネスト・シャックルトンはしかし偉大であるとしか形容が出来ない人でした。

1914年、南極海の氷に囲まれて動けなくなったシャックルトンは18ヶ月間極寒の南極海を漂流しながら27人の隊員全員と共に生還を果たします。

数々の幻覚や絶望的な気持ちに悩まされながら氷上を彷徨した。

その途中での記述である。

「僕が数えると君達と僕だけだ

あの白い路の先方を見ると

君達と一緒に歩いている人がいつももう一人いるのだ」

「 君達と一緒にいるあの人は誰だ?」

日本のひとが行く先を見失ってとまどっているときも、そのひとは日本のひとと一緒に歩いている。

日本のひとが判断に苦しんで悩んでいるとき、そのひとはしゃがみ込んだ日本のひとの気持ちの横に寄り添って、そっと見つめている。

そのひとは日本人たちをいまの苦衷と混乱から救いだそうとしているのであって、しかも、そのために必要な叡知と決断力をもっている。

そのひとの名を「日本語」という。

わっしは、根っから不真面目な人間としてはこのブログを結構マジメに書いてます。

それがために嫁はんの不興を買っておる。

嫁はんは「差別」というような言葉とは無縁な人間ですが、単にアジア的なこと全般に興味がないひとなのです。

だから旦那(わっしのことだすな)が、日本語とゆーよーな訳のわからん言葉に興味があるのを理解しない。

わっしは、最近はそーでもないが、もともと日本の社会やなんかに興味があって日本語を学習したのではない。「日本語」そのものに興味があった。

ロゼッタストーンの解読に興味をもったシャンポリオンと、あんまりかわらんかも知れん。

わっしはまた「外国語」とゆーよーなものにも興味があったわけではありません。

もうブログでも何回も書いたが、わっしは何より科学のひとである。

その次には歴史のひとである。

外国語、というようなものには二次的な興味しか抱けない寂しい人間なのであります。

このブログには書かないことにしている言語(えばっていうと複数なんだど)と最近ではややスペイン語も出来るようになって来たが、それでもやはり「外国語」というようなものは興味の中心ではありえない。プライオリティで言うとPCゲームよりも、まだだいぶん下です。

それよりもウイスキー入りの紅茶や赤ワインをいれて、冬の暖かな部屋で、机の前に座って、ペルシャの大軍勢を打ち破るアレクサンダー大王の物語や、北海を渡る勇者たちの物語を読むほうが楽しい。

東アジアの歴史にしても、日本の歴史よりも正直言ってやはり中国の歴史のほうが面白いっす。

日本の歴史は中世から16世紀くらいまでは面白いが、他には、あんまり面白いところがない(ごめん)

しかし日本語という言葉は面白い。

北村透谷の散文や鮎川信夫の詩、岩田宏、岡田隆彦、三島由紀夫の「美しい星」最後の四部作、寺山修司の短歌、最近のものでも水村美苗の物語は面白い、と思う。

なにが面白いかというと、他の世界とまるで別のことをやっているからです。

わっしのブログに「日本に残っている日本人はバカばかりである。それを相手にしているおまえもバカだ。死ね」としつこく書いてくるネタニヤプー (193.170.104.5)というひと

(名前はその都度変えてくるようですがだんだん調べがついてくるとフットプリントがどのDBにも残っている…外国にいるはずなのにヘンなひとです(^^;) 

グーグルくらいでも、こんなふうになる。)というようなひともいるが、

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=193.170.104.5&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja

こういうひとのコメントを見ると、まず日本語がデタラメであって読むに耐えない、というよりも意味をなしておらない。

外国で苦学していることがずいぶん自慢のようなので、わっしに送ってくるコメントをせめて英語で書いてくればよい、と思うが、それは嫌なようです。

はっきりいうが、こういう日本人の英語など、本人の思惑と異なって、だいたい小学生以下で見るにたえないのが普通なので、あたりまえなのでしょう。

ま、「ぼくはにほんにのこってるにほんじんよりえらいんですよお、わかってますかあ」ではスパムコメントにもならないので、日本語で書くよりやむをえないのだろうが。

以前にwindwalker さんの「同志」を自称していたという某という救いがたいくらい品性下劣なひとがむかしはよくコメントを送ってきて、白人だからといってエライとおもうな死ねと言ってきたかと思うと、ちょっと素性がばれてくると今度は「悪気はないんです、お友達になりましょう」と言ってきてみたり、それで返事がもらえないと悟ると今度は、シャチョーによると、あちこちのバカそうな「反白人ブログ」とかにコメントを送りつけて見事にひっかけて「ガメ・オベールは北朝鮮のスパイに違いない」とかゆわせて喜んで(某というひとの餌につられて飛びついてひっかかるほうも選りすぐりのバカだが)いたり、2ちゃんねるのほうぼうのスレッドに「ガメ・オベールという白人が反日サイトをつくって日本人を貶めている」とマメに書き込んで盛り上げようとしたりで、その絶え間ない努力はカンドー的であると思うが、しかし、それとは別にこのひとたちが日本語を読めないので、わっしは日本という国のために暗然とした気持ちになった。

いまは、あんまり来なくなった(多分、飽きたんでしょうな)が、むかし、このブログによくやってきて、「ガイジン死ね」とか「白人め、死ね」とか言いに来ていた人たちの大きな特徴は、どこからどう読んでも、「日本語が拾い読みしかできない」ということでした。

たとえば、わっしが「国歌を聴いて欣喜雀躍するにしても、その歌詞は恋歌である」と書くとすると、このひとたちは「欣喜雀躍」という意味がわからないので、頭のなかでその部分はないことになって、「国歌を聴いてもラブソングではないか」と読む。

「恋歌」と書くことには「ラブソング」と書くときと違う気持ちが籠められているのは当然ですが、本人たちの頭が語彙そのものの理解が出来るかどうかという程度なので、そんな理解は望むべくも無い。

欣喜雀躍、など画数が多くて読めない漢字が四つも続くなんて、ブードゥーの呪いと同じではないかと思ったもののようでした。

ここで少しデカイ声でいうと言葉というものは人間の存在の実体そのものであって、日本語がわからない、ということは日本人でない、ということなのです。

上にあげたひとたちとの比較で言うと、わっしのほうが、全然日本語わかるやん。

外国人よりも自国語が出来なくて、恥ずかしくないんだろーか。

そんな為体でおって「ガイジン死ね」とか、ゆってる場合か。

もっと、はっきり言うと、外国人よりも日本語が出来ない日本人なんて、日本人としての存在意義があるの?

But who is that on the other side of you?

わっしは、明日のミーティングが終わったら、「再生する日本2」っちゅうのを書こうと思ってますが、そのため(日本が再生するため)には日本のひとは最低限日本語の読み書きが出来なくてはならん。

言うまでもないことだが、母国語、というものには言語に内在する論理的なベクトルとは別に歴史的情緒的な「影の堆積」がある。

その「影の堆積」こそが、きみが意識している「きみ自身」なのです。

日本語で考えているひとは日本語の影のなかで暮らしている。

すべての英語の国民がシェークスピアの思考から逃れられないのと同じことです。

内なる日本語が崩壊するときというのは、要するに「日本」がなくなるときである。

小林よしのりのような日本語が幼稚園な、お調子もののバカが書くものを読んでおって「日本の大義はガイジンにはわからない」と書いてきた底なしのマヌケがいたが、そーゆーひとは、明日起きたらすぐに「日本人である資格がないので、日本人はやめます」とお役所に報告に行った方がよい、

それが何よりきみの言う「日本の大義」(きみの表記によれば「日本の大儀」)にかなっておる。

今日も、コメントスパムが来たが、このひとの日本語理解力もひどい。

上に挙げたネタニヤプー (193.170.104.5)ほど、ひどい常習者ではないようなので、名前は挙げないが、反語も皮肉も理解できないのでは日本人としての基本的な資格に欠けるのではないだろうか。

もう一回初めから日本語を勉強しなおしたほうがよい。

せめて、わっしのようなガイジンに「ガイジンよりも日本語が出来なくて日本人と言えるか、バカ」と言われたことを悔しいと思わなくてはならむ。

くやしかったらベンキョーして、外国人よりも日本語が出来るよーになるように。

日本語を捨てて、わしの他のブログとか、その辺に転がっているわしの英語よりも優れた英語が書けると思ったらやってみてもよいが、そうでなくて日本語で悪態をつきたいのだったら、せめてわっしよりも日本語が出来るようになれないか。

日本人なんでしょう?

そうでないと、日本のいまの遭難を乗りきれん。

せめて日本語くらいわからないとまずいでしょう?

画像は、「あっ、あそこにバカの某がいる」と指さすコロンブス。

なんちて。

コロンバスの像なのはほんとうだけどな。

バルセロナの、スリが盛大に活動している大通りの海辺の端にある像です。

わっしのブログに以前アホを書いて寄越したひとたちは、わっしの投資先のネットセキュリティ会社が本人を特定するのと、そのあと英語世界と日本語世界において(ときどきであるが)、しつこくわっしに名指しでアホと言われることは向こう40年間は覚悟するよーに。

わっしの性格の悪さと執念深さを知らなかった自分の迂闊さを呪いなさい。

「水に流す」などという語彙はわしの辞書にはない。

ドマジメ人間のシャチョーみたいに 怒りのあまり警察沙汰にはしないのは約束するから、そーゆー心配はしなくていいけどな。

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