人種差別3

人種差別、とひとつの言葉を使うがわっしはこの言葉が意味しているものはもっとも大きく分けてふたつの違うものを指していると思う。

A その人種が属している本来の文化・習俗・立ち居振る舞い・あるいは感情の持ち方からなにからいっさいの存在とその属性を認めない人種差別。

アフリカ人に対する合衆国のコーカシアン、特にアングロサクソンからの差別がこれです。奴隷船に詰め込まれて北米大陸に強制連行されてきたアフリカ人たちは好きでやってきたのではないにも関わらず所有権移動の自由教育はおろか、コーカシアンと同じ場所に出入りすることも制限されておった。

アングロサクソンは長いあいだなんとかしてアフリカ人を文字通り抹殺しようとしてきたが、アフリカ人たちはたとえば初めのうち音楽で抵抗した。それは「自分たちの音楽を認めさせる」という極めて消極的な抵抗でしたが、これは意外と利いたな。

(当時の旦那衆にとって)嘆かわしいことには、若い衆が、そのアフリカの地面から直截やってきたリズムにいかれてしもうた。

日本のひとでも、渡辺貞夫、というひとが「アフリカの大草原に行くとひとの歩きかたから呼吸、風まで全部ジャズなので驚いた」とゆっておる。

エルビス・プレスリーというのは、そーゆー意味で大きな存在であったとわっしは振り返って思うのであります。

プレスリーがそれまでとまったく異質な音楽を携えて舞台や映画で熱狂を博していた頃は、ごく一部のひとを除いては誰もそれが音楽的に言ってアフリカ人の音楽のデッド・コピーだとは知らなかった。

それから連合王国からビートルズがやってきてローリングストーンズがやってくる。

両方ともアフリカ人のコピーであった。

もっともこれら連合王国人たちのほうは知っててやっていたんだけど。

特に後者は十分過ぎるほど自覚がある模倣者であって、軽く十年は古いアフリカ人のスラングを使ってみたりしてアフリカ人たちの失笑を買った。

いまに至るまでローリングストーンズの評価がアフリカンアメリカンたちのあいだで低いのは根本にはそういう理由があるでしょう。

その僅かに開いたドアの隙間をこじ開けてアフリカン・アメリカンたちが、どうやって

「アメリカ史上初めての黒人大統領」オバマをもつところまでやってきたかは、わっしがうまく話せることではない。オバマが大統領になったのを契機にして丁度いまは大量に、その戦いの歴史の本が出ているときである。

自分に向いてそうな一冊を択んで是非読んで見ることをお勧めします。

人種差別、ということではなくて、「人間」というものを考えるよい機会であると思う。

カシアス・クレイの英雄的な物語や「I Have A Dream」(これは「私には夢がある」という意味ではないので英語のままにしておきます)という英語世界では知らないひとがいない有名な演説を行ったマーチン・ルーサー・キング、ブラック・パンサーたちと、当時の名のあるアフリカ人たちとの葛藤、というようなものは物語としてもひとを感動させずにおかないものである。

以前からブログを読んでくださっているひとたちはみな知っているように、わっしはむかしからアフリカ人の友達が多い。アフリカンアメリカンもたくさんいるが、アフリカ国籍のアフリカ人も多い。わっしがブログで「わっしにはたくさんのフランス人の友人がいるが」というときの、その「フランス人」の半分はアフリカからフランスにやってきたフランス人たちです。

アフリカ人たちはアフリカ人の文化として一般化できそうなことだけを挙げても、一般に繊細な気持ちの優しいひとたちであって、いったん友人となると裏切ることの少ないひとたちでもある。共に何かに対して戦う、というときも、最も戦士としての姿勢をもっているのは、アフリカ人たちであって、同じ戦列に並んでいて、これほど頼もしいひとたちはいない。

アフリカ人の実質が明らかになってくると特に21世紀にはいってから合衆国や連合王国のような国ではアフリカ人に対する差別は急速になくなってきた、と思う。

きみがどこかの国へ行くとき、その国が人種的軋轢に苦しんでいる国であるかどうかを見分けるのに大都市の「ミクストカップル」(人種が違うひと同士のカップル)の数を見てもダメです。男同士女同士の友達の数を見ているのがいちばんよい。

人種差別がひどいかどうかの最もよい指標はそれであると思います。

夕暮れのロンドンを歩いてみるとわかる。

アフリカ人とインド人と中東人とコーカシアンたちが、みなでパブの小さなテーブルの周りに立って馬鹿話に打ち高じているのをきみは見るはずである。

いまのこの世界で最も人種偏見が少ないマンハッタンは言うまでもない。

わしは子供の頃からアフリカ人たちが大好きであったので、このことを無条件に良いことであると思う。

ついこのあいだまで起きているあいだじゅう「自分は黒人である」と意識して振る舞っていなければ生命の存在すら危なかったのに、いまは自分の肌の色を忘れてコーヒーを飲んでいても罰せられなくなった。

わっしは、むかし読んだボールドウィンが有楽町の帝国ホテルで書いた短い文章がいまでも忘れられない。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/26/wish-you-were-here/

物事の悲観的な面ばかり夢中になっているひとたちは、「いやいやまだ人種差別はある。人間性というものは抜き差しならぬ。そうそう変わるものではないのだよ」としたり顔で言い募りますが、そう言っているそばから世界がどんどん(良い方へ)変わって行っているのは世界を旅行してあるけば明かではないか。

わっしはアフリカ人たちへの差別が死に絶えつつあるのを目撃していることだけでも、わっしの世代に生まれついたことを誇りに思う。わしらの世代は、いま30代の人間たちとはまったく異なる。新しい世界を築きつつある人間なのだと思う。

B  アジア人に対する差別。

こっちは端的に(表層的な)「自分と異なるものへの嫌悪」だと思う。

一方で、アジア人の文化を価値のないものだと考えたり、習俗を認めなかったりする、ということを伴わないのは、言い換えると、「人間として認めていない」ということではないのは、別に日本のひとを喜ばせるために言うのではないが、日本のひとのせいでしょう。わっしには、このブログにも二回登場したとんでもない差別主義者のテキサスのおっちゃんの友達がありますが、このひとはアジア人というとどうしても「未開」だという頭が抜けないのに軽戦闘機が好きなので、どうしてもゼロ戦が嫌いになれない(^^;)

ゼロ戦をつくった日本人という人間の集団にも、感じたくないのに尊敬心をついもってしまう、という奇特なひとです。

もっと生活に近いほうでいうと、なんと言ってもホンダという会社の存在が大きかった。

伝えられる宗一郎の技術キチガイぶり、1万回転を越えてまわるホンダエンジンというようなものは日本大使館のバカまるだしの「お茶の会」や「生け花の集い」というような腰が抜けるような日本のプロモーションの千倍はかるく「日本人すごいじゃん」という反応を生み出しました。

西洋人には「機械文明」のもの、というのは非常に判りやすいのです。

だってもともと自分たちのものだからな。

エンジンを1万回転させる思想の凄み、その突っ込み方、というのはもしかすると日本のひとよりも簡単にわかるのです。

なんでこれが欧州の会社ではなくて、アジアの東のはての国の技術なんだよ、と思って不思議の感に打たれる。

どんな最低のバカでもVTECを見て「でも西洋のマネじゃん」とは言えなかったのです。

iPodを見た日本人が「なんでこれがSonyじゃないんだろう」と思うのと似ているかも知れません。

だから存在そのものを否定はせん。頭の足りないコーカシアンの諸君は中国人と韓国人と日本人の区別も「そー言えば、言われてみれば違う国だよねえ」くらいにしか区別がつかないので、中国の人や韓国の人は、(こういうことを言ってはいかんのかも知れないが)

やはり日本人の歴史的登場の恩恵を受けていると思います。

でも、自分の国をうろうろされるのが嫌だ。

わっしは前に興味をもって、こーゆー箸にも棒にもかからんバカ諸君を、ある理由でインタビューしたことがありますが、

以下、彼らの言い分を列挙すると、

1 容貌が醜い

2 薄汚い

3 全然ルールを守らない

4 マネばかりしている

5 社会と同化しようとしない

6 悪いことばかりしている

7 狡い

8 理由はわからんが自分の国に帰れ

っちゅうようなことであった。

他にチ○チ○が小さい、というようなヘタヘタヘタとわしが崩れ落ちそうなことを言う薄バカガキもいたりしましたが、どうしてアジア人のチ○チ○が小さいと自分が嫌なのか、あまりのバカバカしさに訊くのを失念してしもうた。十ドル返せ。

昨日の「人種差別2」にあげた日本人の女のひとは、コーカシアンのパートナーと一緒に店に行くと店員が絶対に彼女のほうを向かずにパートナーのほうばかり向いて商品の説明をすると憤慨しています。

わしは読んでいて思い当たることがあったので「ほんまやなあ」と思います。

わしには日欧混血のひとであって「日本語ブログにおれのことを書いたらガメを天井からぶらさげてコチョコチョ地獄にしてやる」とゆって絶対にブログに自分を書かせない従兄弟がおる。このひとといるときに、そう言われてみればヘンなことがあった。

思えば、あれは人種差別だったのだな。

日本で、わっしが(本人の主観では)完璧な日本語を話しておるのに、日本人の店員のねーちゃんやおっちゃんがわしのほうを向かずに、日本人の友達のほうばかり向いて話すことがあって、わっしが「わっしの用事でんがな。わっしのほうを向いて話してね」というと、ねーちゃんやおっちゃんが、「あっ、そうか」というんで、あらためてわっしのほうを向いて話すことがあるが、あれと同じである。

考えてみると立派に人種差別です。

同じ日本の女のひとが、ひとりで店に行くとパーペキな英語で「もうお終いですか?

明日は何時からやるの?」と訊いておるのに、「Closed! OK? Clooooooosed!」とゆわれて憤激するところが出て来ます。

わっしは、これは同じようなことを最近はブログに書いてもあまり怒らなくなったのでときどき登場してもらうことにしている義理叔父からも聞いたことがある。

むかしカシオのデジタルカメラが壊れたのでクライストチャーチのリカトンというところにあるモールのカメラ店に新しいカメラを買いに行った。

まだデジタルカメラというものが発売されて間もない頃だったのでカシオやキャノンは無理にしてもコダックくらいはあるだろうと思って出かけたもののようでした。

ところが「デジタルカメラ」がいくら言っても若い女の店員に通じない。

デジタルカメラ、というものを説明しようとすると、いきなり女店員が奥に走っていってしまった。

奥から店の持ち主らしきひとが出てくると、かんでふくめて5歳くらいのガキに言い含めるような言い方で「この世の中には『デジタルカメラ』というものはない。いい?

わかる? そんな『デジタルカメラ』なんてたわけたものは、この世界には存在しない!」と言い捨てて店の奥に消えていったそうであって、そのときの店の隅から見つめていたバカにしきったような女の子の態度が忘れられん」とゆっておった。

これももしかすると人種差別ではなかろーか。

ここまで書いてから、そー言えば、と思ってわっしは義理叔父に電話した。

義理叔父はいまこのバルセロナと時差が1時間しかないところにいるので便利である。

「あーのさー、このあいだ電話したとき叔父さん、『人種差別』の経験なんておれにはねーぞ、って言ってたけど、ほら、叔父さんがサムナに行ったときにさ」

「あー、そー言えば、あのハンバーガー屋があったな。あのとき『おまえは日本人か?』って訊かれて、『そうですよ』って応えたら、そのまま店の奥に入ってちゃって出てこなかったんだよな。変な奴だったな、あいつ」

だ、そーである(^^;)

あの、それって人種差別だったんじゃ、というと、なるほど、そーゆー考え方があるかも知れんな、という。

でも、おれは変なことはなんもしとらんもん。どういう理由だか知らんが、それは向こうの問題で、おれの問題じゃねーから、知らん、という。

身内ではあるが、これが義理叔父の良いところであって、人種差別みたいな反応があっても「向こうの都合だからおれは知らん」とあっさりしてます。

態度が(身内ながら)まことに文明人的である。

上の1から8までのアホガキどもの「アジア人が嫌いな理由」を眺めていると、いまさらのようにアジア人に対する人種差別って、文化的なものなんだな、とわかります。

文化的、ということは、とりもなおさず「教育によって作られた」ということでもある。

わっしのじーちゃんやばーちゃんの頃の教科書には

「世界にはさまざまなひとが住んでいます」と書いてある。

ふむふむと思いながら読んでゆくと、

「北ヨーロッパから連合王国やドイツフランスのように勤勉なひとが住んでいる地域もあれば、アジア人のように嘘つきで感情的な狡猾な人間が多く住んでいるところもあります。アフリカのように人間が怠惰でどうしようもない地域もあります」と書いてある。

この教科書で小学校をやっていれば、あとどーゆーガキに育つかは予想が容易である。

わっしが小学校にいた頃は、まだ「アジア人の子供と遊んではいけません」というのは普通であった。わっしは(学校が違う)アフリカ人の子供やアジア人の子供と遊ぶのが好きであったが、そーゆーヘンタイガキであったわっしを校長室に呼んで、「若いきみには判るのが難しいだろうがあの子たちと遊んではいけません」とゆったクソババアと校長の顔をいまでも忘れられぬ。

わっしが理由を訊くと歯切れが悪そうに、でもかなりはっきりと「われわれとは違う世界に属している人間ではないか」とゆった。

わっしがかーちゃんに、ミスタTとミセスBに、こーゆわれた、というと、かーちゃんが瞬間顔色を変えて、電話室に歩いていったのを昨日のことのように憶えておる。

かーちゃんの怒りは凄まじいものであって、結局、このミスタTとミセスBは「一身上の都合」で退職することになった。

ニュージーランドでも、先生が「日本人は世界にまったく貢献していない国民である」と先生がゆった瞬間に妹が、そういったバカオヤジに突進して跳び蹴りをくらわせたことがあったのは確か前にブログに書いた。

妹とわしの大好きな従兄弟が同じ学校に通っていたので、短気な妹らしくキレたのだった。

こうやって考えているとB型人種差別はいろいろ混ざり合って論じるのがややめんどくさいのい。

でも、最後までやりたい。

画像はタラゴナのローマ人が世界中につくった水道の遺跡。

ローマ人はすべての水道を「掛け流し」にさせることを義務化することによって、水質の劣化を防いだ。

実際タラゴナの水道はいまよりもローマ統治時代のほうが水質がよかった。

ローマ人の持っていた思想の怖さ、というものを感じます。

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One Response to 人種差別3

  1. windwalker says:

    俺は個人的に、「容貌が汚い」は、まあいいんだ。事実であろうがなかろうが、あくまでも個人的な感想だからな。ただ、日本人の男前と美女をつかまえて「混血に見える」とか「日本人に見えない」と言われるのが我慢ならんのだ。だって日本人の顔はどんなものであれ、明らかに日本人の顔なんだから。……さて、ここまで言えばなんで俺が「アニメキャラが白人に見える」と言ってる奴に対して噛み付くか分かると思う。俺の怒りは、泥棒に対しての怒りなんだよ。俺も書いて初めて分かった!そうか俺は「あいつらが泥棒だから」怒ってたんだ! いやはや、書いてみるもんだね。自分の怒りの元凶が分析できた。つまりは、俺が言いたいのはこういうことだったらしい。「日本人の中のいい顔の所有権と起源を主張するな」ってことだ。そりゃ、日本人の美男美女を白人との混血認定すれば、自動的に不細工だけが残って日本人=不細工ということになるわな。なるほど、だからあいつら無意識にそんなあほなこと言ってるんだ。美男美女の白人起源説とアジア人に対するブサイクという先入観は、完全にコインの裏表だったんだな!俺のカーゴカルト論みたいな甘いもんじゃないんだな。俺は優しすぎたわ、自分の認識の甘さに泣けてくる。

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