中世という定型

鏡のなかには見知らぬ他人が映っておる。

なんだかしまりのない顔だのい。

全然見覚えがない、というわけではない。

なにしろわっし自身の顔だからな。

わっしはこのあいだまでヒゲがもしゃもしゃであった。

鼻の下のヒゲ(鼻ヒゲ、っちゅうのか?)に至っては、サルバトール・ダリのように宇宙に向かってピンと伸ばしてもいいかなあ、と思っておった。

ダリによると、そーすると銀河からやってきた霊感が受信されるもののようである。

でも飽きたな。

わっしの悪い癖である。

なんでも直ぐに飽きる。

自分自身にもとっくに飽きておるから、こうやって日本語でブログを書くとゆーよーな訳のわからんことをする。

いったい何を考えているか自分でもさっぱりわからん。

わっしはヒゲを剃った。

ひさしぶりにヒゲを剃ったので、途中でしくじって顎の左下を切ってしもうた。

ぎょえー、いてえー、と叫んでいたら、モニが浴室にやってきて、切ったところにチューをして綺麗にしてもろうた。

ははは。切ってよかった。

閑話休題。

わっしは「中世」というものが好きである。

日本に対する興味も主に日本の中世に対してのものであったことは前にも書いた。

わっしが「中世」という時代が好きなのは、その時代がどの国にあっても徹底的に「死」という概念によってひとびとが痛めつけられ何の希望ももたされない時代相だったからです。

いまのように地平線まで見通しが利いた世界とは違うのです。

人間は「神」や「一段高いもの」に従属する存在であって、人間であろうとすることは謂わば「本質的に生意気である」と見なされた。

だから運慶は囲繞する死に抗うかのような雄大な筋肉を造形し、紫式部の弟は(当時としては驚異的なことに)神を信じずに死んだ。

http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080412/p1

世界中で人間はくだらない理由で死んだ。

あるいは殺されたのです。

スペインの田舎で神々しい美貌をもって生まれた少女はただ美しいという理由で異端審問にかけられて拷問のあげく殺されたであろう。

鎌倉の浜辺では若い武士が「あやまりたくなかった」というだけの理由で殺される。

「神」が存在しうる世界では人間は常に異端だからです。

他には本質的な理由はなにもない。

中世の人間は人間が人間でしかないことをどの時代のひとよりもよく知っていた。

それは、わっしの日本語でどれだけうまく言えるかこころもとないが、中世の世界には

人間の思想に「定型」というものがあったからです。

規範があるから自由のダイナミズムがある。

あるいは建築学を専攻した人には判りやすいのではないでしょうか。

建築がエンジニアリングの一分野でなくて芸術の一分野であるのは、建築には様々な定型が厳としてあるからである。

玄関の眼の前に浴室を作るわけにはいかんからな。

「マイルの塔」は当時のリフト技術の制約から現実化しえなかった。

カタロニアには「中世」が色濃く残っていて、それに惹かれてわっしのようなヘンなひとがやってくる。

ここにはまだカソリックが圧制的に残っているのです。

スペインにおいては70年代までカソリック教会が圧制装置として実際に機能しておったのはいろいろなひとが書き残しておる。

日本でも「なだいなだ」というふざけた名前のおっちゃんが記録してます。

わしはこのおっちゃんのことをよく知らない。

古本屋の百円本で読んだことがあるだけですが、スペイン語で「なんでもない と なんでもない」と読めるペンネームを持っていたところを見ると、いくらかでもスペイン語に興味があるひとだったのでしょう。

バルセロナにはまだ悪魔に取り憑かれたというひとや、悪魔を見たひとがおる。

バルセロナのひとたちと仲良くなると、いくらでもそーゆー話を教えてくれます。

街角に悪魔が生きておる。

乞食の地に伏し方ひとつでもまだ中世が生きておる。

もうここから先は、わっしの日本語能力を遙かに超えておるし、日本語で書くことに意味があることでもないが、人間が「近代知性」を得ることによって失ったものの大きさは得たものと変わらないくらい大きいのではないか、とわっしはときどき思います。

中世の人間はいまでは有名になった大きな「迷妄」のなかに生きていったのであって、

それは結局市民というものが成立して「小説」という文学形式が出来るまで続いたのだったが、丁度、市民というものの存在を前提とした「小説」という芸術の形式が死につつあるいまの時代になって、その迷妄が違う意味をもって甦って来ているのではないか。

インターネットなどは当時「小説」が果たした役割を代替するよりも「噂」を代替するものにしか過ぎないのかも知れません。

あー。だめだ。

こーゆーことになると、日本語ではさっぱりうまく書けんの。

もっと練習すべきなのか、それとも、構造的な問題なのでモニが言うように、きっぱり

日本と日本語におさらばしたほうがいいのかも。

わからん。

さっぱり、わからん。

わからんことをいくら考えても仕方なし。

モニといちゃいちゃもんもんして眠るべ。

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ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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One Response to 中世という定型

  1. いまりん says:

    はじめまして。
    少しずつですが、記事を読ませてもらっています。
    人間の命の存在の仕方に、時代性が有るのは、何が何を規定しているからなのか?
    私は日本語しか使えないのですが、思考の仕方に言語の枠がどれほど影響するのか?
    などなど、私も時に考えることです。
    キチンとした感想や意見までは言えませんが、モニさんに、ガメ様の日本語の記事を心待ちにしている人が居ると言うことを、お伝えください。

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