Monthly Archives: July 2009

88mm_flakとドイツ中世物語の終わり

88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。 ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。 ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。 連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。 背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。 88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。 地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。 敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上放火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;) まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。 えっ?理由? そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。 「マジメだから」です。 88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。 まず第一に使用された弾頭が優秀である。 当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。 当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。 無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。 部品点数も意外なくらい少ないな。 多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。 扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの兵器らしい。 ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。 ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。 もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。 どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。 たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。 ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。 この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。 近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。 ドイツ軍兵の強さは敗退するときの後退戦で最も顕著である。 潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。 支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。 ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。 多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。 一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは 中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。 暗い夜と、裏切りと、絶望と、その真の闇にたかれた松明の炎に浮かび上がった英雄たちの血まみれの顔、っちゅうようなもんに痺れやすい体質であるよーだ。 みんなでジークフリートになってしまう。 戦争をやっているあいだじゅう、それが「ニーベルングの歌」であるかのように錯覚していたようなところがあります。 頭のなかではずっとワグナーが鳴っていたのと違うか、と思う。 88mm_flakというドイツ文明が生み出した剣を最後に握りしめて死んだのが金髪を三つ編みのお下げ髪にした少女であるところも、なんだかいたたまれないくらい「ゲルマン的」である、と考えました。 … Continue reading

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88mm_flakとドイツ中世物語の終わり

88mm_flakは連合王国人やニュージーランド人にとっては恐怖大魔王とあんまり変わらない存在であったのは日本のひともよく知っているはずである。 ロシア人たちにとっては丁度対戦初期のドイツ人にとってのKV1と同じような存在であったと思う。 ろくでもない兵器しか持たなかったロンメルのアフリカ軍団のなかにあって水平射撃が出来るように改造された88mm_flakは、ほとんどロンメルによってコントロールされた落雷のような効果をもっておった。 連合王国人はみなロンメルが文字通り支配した砂漠の戦場で「うにゃー、あんたは雷神か」とさぞかし愚痴ったことでしょう。 背が高いという地上兵器としては致命的な欠点があったが、ロンメルは歩兵指揮官時代からカムフラージュの天才であったので、この扱いにくい兵器をうまく秘匿した。 88mmによるアンブッシュに遭遇する、ということは連合軍の戦車兵にとって、そのまままっすぐ死を意味したのです。 地雷原のあいだに開いた細い戦車路をすすんでゆくと、ぜーんぜん見えない遙か彼方から高速の徹甲弾が飛んできて砲塔は吹っ飛ばすわ、車体は跡形もなくなるわで、連合軍のほうはなんだか人力を越えた神話的な懲罰に遭っているようだ、とその頃の記録には書いてあります。 敵にはなかなか当たらないで味方の歩兵に対して百発百中なので有名だった榴弾をえっこらせと後ろからぶっぱなすか、地上放火による死亡率が高いので航空兵が死ぬほど嫌がったカーチスP40やハリケーンによる地上攻撃によって破壊するくらいしか方法がなかった。ひどい例になると一台の88mm_flakに40台余の戦車が瞬く間に破壊されて、ロンメルに日記で「いったいなんだってイギリス人たちはわざわざ一台ずつ壊されにやってくるのか、さっぱりわからん」とか書かれておる(^^;) まっ、わっしはドイツ人だったロンメルと違って理由を知っておるがな。 えっ?理由? そんなことはわかりきっておる。イギリス人とニュージーランド人だもの。 「マジメだから」です。 88mm_flakは兵器としてみると、ドイツ兵器のよいところがいっぱい詰まっておる。 まず第一に使用された弾頭が優秀である。 当時のドイツは冶金の研究や材料工学では世界一であった。 当のドイツ軍歩兵から「あれが戦車なら、うちのかーちゃんは重戦車だぜ」と悪口を言われた見るからに可愛いドイツのII号戦車の20mm機関砲でも日本軍の九七式中戦車「チハ」の57mm戦車砲よりも装甲貫通力が高かったのは、ドイツ人の「世界一の合金技術でつくった砲弾を高初速で打ち出して敵の装甲に叩きつける」という技術方針が有効であったせいです。日本はおろか合衆国ですらなかなか現実にはできなかったこの技術思想をクルップは1928年という段階で実用兵器化してしまいます。 無論、第二次世界大戦を通じてT34やチャーチルやM4シャーマンの砲塔をふっとばし続けた。 部品点数も意外なくらい少ないな。 多分、開発後、減らし続けてきたのでしょう。 扱いやすさと信頼性、という点でもドイツの兵器らしい。 ちょっと重すぎて戦場に放棄されることが多かったが、これはこのクラスの防御砲の宿命である。 ドイツ人たちが最も記憶に残しているのは多分ベルリン陥落のときの英雄的な戦いにおける88mmの活躍でしょう。 もうどんな狂信者にもドイツ帝国の崩壊が確実になった戦闘で、押し寄せるT34に対してドイツ人たちは街の角角に砲座を築いてすえた88mm_flakを最後の盾にしてロシア軍と対峙します。 どんなにヒトラーの帝国を憎むひとでも、このベルリンの戦いの最後を涙なしで読むのは難しい。 たとえばベルリンの中心街区におかれた88mm_flakは信じがたいような正確さと発射速度でT34の戦車群を何度も後退させますが、弾薬がつきて、やがて沈黙します。 ロシア歩兵たちが戦車のあいだから駆け抜けて殺到してみると、そこにはお互いの頭を拳銃で撃ち抜いた14歳くらいのふたりのお下げ髪の少女とやはり同年代のふたりの少年が倒れていたそうである。 この有名な挿話にもちゃんといつものごとくしたり顔の評者がいて、あるアメリカ人は、「14歳くらいの子供に88mm弾の装填もふくめて、そんな射撃が出来たわけはない」とゆっていますが、こーゆー人間は「人間の必死さ」というものをまったく理解できないヤナ野郎だというほか何も言っていないのだということを自分でわからないもののようである。 近代戦史上、もっとも強かったのはドイツ軍兵士だろう、とわっしは思っています。 ドイツ軍兵の強さは敗退するときの後退戦で最も顕著である。 潰走したはずであるのに、ほんの数キロ先ではもう再結集して何事もなかったかのように防衛陣を布いててぐすねひいて待っておる。 支援装甲部隊も機関銃以上の武器ももたない歩兵部隊が、ロシアの戦車群に遭遇するとたいして悲壮な気分にもおちいらずに地雷を改造した爆弾を抱いて匍匐して戦車の腹にもぐりこみ黙々と戦車を破壊してはまた匍匐して自軍に戻ってゆく。 ドイツ人の「負けているときの強さ」というのは戦史に未曾有のものである、と考えます。 多分それはドイツの職人文化をつくったのと同じ根っこの、ドイツ人たちの頑固さと部族文化的な「仲間意識」から来ている。 一方でドイツ人を見ていて、このひとたちって、ほんまにこれが好きやな、と思うのは 中世騎士物語的な悲劇の感情であって、どうもドイツのひとは、これに酔いだすととまらない。ヒットラーみたいにケーハクなポピュリストにころっと歴史的な規模でだまされちゃったのは、明らかにこの嗜癖によってます。 暗い夜と、裏切りと、絶望と、その真の闇にたかれた松明の炎に浮かび上がった英雄たちの血まみれの顔、っちゅうようなもんに痺れやすい体質であるよーだ。 みんなでジークフリートになってしまう。 戦争をやっているあいだじゅう、それが「ニーベルングの歌」であるかのように錯覚していたようなところがあります。 頭のなかではずっとワグナーが鳴っていたのと違うか、と思う。 88mm_flakというドイツ文明が生み出した剣を最後に握りしめて死んだのが金髪を三つ編みのお下げ髪にした少女であるところも、なんだかいたたまれないくらい「ゲルマン的」である、と考えました。

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日本の近現代文学

「日本文学」という学問は、数ある学問のなかでも名だたる「不人気」学科です。 いまでもところどころ残っているのが不思議である。 もともと「日本学者」を輩出したのでユーメイな大学でも、(調べてはいないが)多分、学生が「ひとり」とかではないでしょうか。 もともと日本学の関係はビンボーで有名であって、日本がバブルで浮かれている頃でも、たびたびの寄付の要請にもかかわらず日本の会社は一円も出してくれへん、というので有名であった。ハーバードの名だたる日本学者たちは、雨漏りする全学一ボロイ研究室で研究しておった。こういうところにも、最近ではもう常識になった日本のひとの「日本人を理解しようとする外国人に極端に冷たいという訳がわからん文化」があらわれておる、とわっしには思えます。 いまのように「日本のことなんか知らん」という西洋人の態度は、日本人が「おまえなんかに判ってほしくない。ほうっといてくれ」と言い続けた結果である。 ほうっといてくれ、というから、ほうってある。 いまでは、まるで捕鯨以外はやっていない国のごとくである。 自分の国のファンをつくるためならむかしからなんでもやった中国人とは好対照をなしているところが面白い、と思います。 エズラ・ボーゲルが1979年に書いた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というやけくそみたいな名前のベストセラーはだから、通常は専門対象国が養ってくれることになっているのに当該国が知らん顔をしている悲しい境遇の日本学者が生き延びるに足るだけの収入をつくるための必殺小遣い稼ぎだったのかも知れません。 マジメな研究には一円も出してくれない日本人も、自分たちをヨイショしてくれる「箔付きガイジン」には徹底的に弱いので、翻訳されたテキストをいっぱい買った。 調べたことがないからわからないが、きっと、無茶苦茶売れたのではないかと思います。 日本文学が冴えないのはしかし、外国だけでなくて日本でもそうなので、仕方がねーじゃん、という趣もある。 日本のひとは、この頃はあんまり「ショーセツ」というようなものは読まないもののようである。 「文学」のほうは売れていたときにえばりすぎて信望を失った、ということなのかもしれません。 「室内」という雑誌を主宰していた山本夏彦、というシブイ編集者は、自分でもいっぱい雑文を書きましたが、書いている人間がまともならば、その人間の書いたものを読む読者はまずざっと見て300人を越えないだろう、と言っています。 では芥川賞を取った大江健三郎の物語は、どうして「純文学」なのにベストセラーになりえたのか、というと、むかしは「読まなくてはならない本」という考え方があったからだそうである。 きみは柴田翔の「されど われらが日々――」を読んだ? えっ、読んでない?ダメじゃないか、きみは、いまの時代の学生なのにあれを読まないなんて、ふざけているとは思わんのか、とゆーよーな調子であった。 政治に関しても文学に関しても、「読んでいなければいけない本」というものがやたらあったようで、この頃の大学生がさぞかし疲れるものであったであろうことは、たとえば 関川夏央の本を読むとよくわかります。 だから、本来「シンコクな本なんかつまんねえ」というひとも読んだ、あるいは読んだよーな顔をした。 ちょっと信じがたいことですが1960年代の長者番付には三島由紀夫が載っている国だったのです。純文学界の宇多田ヒカルだの。 英語は本人が主張しているのと違ってテトリスマスター・ヒカルの10分の1も出来なかったのはいまの孫正義と同じだが。 わっしは、どう思っているかというと、北村透谷に始まって三島由紀夫くらいまで続く日本の「純文学」文化は、素晴らしい、と思う。 多分たいていの日本のひとよりも評価が高い、と思います。 むかしむかしここにやってきていたbeachmolluscという生物の研究者のおっちゃんが「日本の文学みたいなもんは真剣にくだらん」とゆっておったので、おっっちゃんがバカにしてやまない日本のぐじぐじぐだぐだした文学を大好きなわっしは、とてもとても傷ついたが、それはやっぱりbeachmollusc 先生のほうが、間違っておる。 いまおもいつくままに挙げていっても、 北村透谷 二葉亭四迷 幸田露伴 森鴎外 夏目漱石 永井荷風 川端康成 内田百輭 三島由紀夫 埴谷雄高 大岡昇平 というようなひとたちが書き残した散文は単に「日本語を読む人が少ない」という理由で知られていないだけであって、このひとたちの母国語が英語かフランス語であったら、 … Continue reading

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ヤマトナデシコの逆襲(その2)

あー、あぢかった。 モニはどういう身体の構造になっているのか涼しい顔をして汗ひとつかかないで歩いてますが、わしは思いっきり真っ赤でカッコワルイことこのうえなし。 銀座の料亭主も「ガメちゃん、暑いの弱いよねえ。お医者さん行ってくれば」という。 昨日は長野の山の家にいたので油断しておった。 東京はいつからシンガポールになったのでしょう。 あっちいー。 題意に戻る。 オーストラリアのゴールドコーストには有名な日本の女のひとが住んでいます。 オパールのお土産店で成功した。 日本でも紹介されるひとなのだそうなので知っているひともいるでしょう。 ダンナの出張についていって、あまりの環境の変化についてゆけずにアル中になってしもうた。 これでは自分はダメになる、と一大決心をして40代で実業家を志した。 オパールで財をなしていまはオーストラリアの男共を鉱山でも店でもアゴで使ってます。 日本の女のひとが通常「家」の中だけで夫と子供のためにだけ発揮する能力は、実はそのまま実業世界で成功する能力と同じもののようである、とわっしは観察していて思います。アカデミズムの世界でも、日本の女のひとは西洋アカデミズムの男尊女卑社会においてすら、あっというまに教授にまで駆け上がる。 どうもキーワードは「効率」であるようで、日本の女のひとはものごとの手順を「効率化」することにかけては文化的に天才なのであるようです。 「要約」や「手順の簡素化」ということになると真に天才的な才能をあらわす。 ヤマトナデシコという言葉がわしはあんまり好きでない。 ナデシコ、がいかん。 日本の女のひとの潜在的なスケールの大きさを理解しておらぬのだな。 反日ガイジンのわしとしては、日本は結局おんなからしか変わらねーよ、と思います。 日本の外で見る限り、男は女に較べるとだいぶんバカである。 家事もやれないナマケモノだしな。 話題も乏しければ聞き下手である。 どーしよーもねっす。 わっしには確信があるのす。 いままでダッチワイフ並の扱いであったヤマトナデシコはきっと逆襲するであろう。 自分たちをセクシュアリーアベーラブルであるという観点からしか見なかったガイジンバカオトコにもニホンバカオトコにも、その逆襲は速やかにすすんで、世界を震撼させるであろう、と思います。 日本オトコどもには判らぬ、日本文化と秘匿的に並列する日本オンナ文化をチューンにして世界支配に乗り出すに違いない。 2025年の日本は「ゴジラ対メカゴジラ」が予言したごとく水野久美のような美人おばちゃんが支配しているだろうと思うのです。 その頃には一妻多夫がなっておるな、きっと。 なんという血湧き肉躍る未来ビジョンでしょう。 かっこいい。

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ヤマトナデシコの逆襲 (その1)

「きゃあーーーー!いやあーーーん!」とカイタック空港にあがる時ならぬ声。 いっせいに振り返った中国人の学生たちがハッとして振り返ります。 「目引き袖引き」と日本語では言うな。 次の瞬間、周りの中国人の男どもが始めたのはそれであって一瞬カイタック空港は雰囲気からしてスーパーモダンストリップ劇場の様相を呈した…..のだそーである。 ほんとかどうかしらん。 セルビアで両眼から血を流しておる聖マリア像を見た、とかぬかしたデブPの話だからな。第一、あいつが韓国に赤犬のスープを食べに行ったのはおぼえておるが、香港に行ったことなんてあったっけ? でも、そーゆーことがあるんでっか?と訊いてみると、日本人のお友達はみな「あるある。日本ではユーメイです」とゆわれた。 どーゆーことかというと、現実の合コンでぼられたので錯乱して遂にAV(この言葉を初めて見たとき「アダルトビデオ」の意味であることがわかるのに、わしはたいへん時間を要した。オーディオ・ビジュアルがいつから観ているだけでビョーキが「感染るんです」な映画のことになったのであるか。 だってさ、日本のコンピュータの歴史っちゅう本には、FM77AVとかっちゅうのがあったりして、じゃあ、あれは、FM77アダルトビデオだったのだろうか。わからん) の世界と現実の区別がつかなくなったと思われるwin○walkerさんのような中国人がたくさんいて、日夜、日本製AVを観ておる。 だもんで、日本人の女の子の甲高い「いやあーーーーん!」が聞こえると、自動的に頬がぽっと赤くなる、のだそうです。 ほんまかいな。 たとえばカシノのクラブとかで中国人のお金持ちと話していると、よく「今度、新しい日本人の女の子の愛人が出来たんだよ。留学生でね。典型的日本人。よく気が付いて、おとなしくて、それがベッドのなかでは全然態度が変わるんだよ。最高ですよ。綺麗なことだし、前のロシア人より全然いい。……ガメさん、今度、見に来ませんか?」ちゅうようなオトロシイことをいうひとがいる。 まるで買った新車を自慢するような調子です。 わっしは、タイランドや日本の女のひとに生まれなくてよかった、と思うことがあります。このふたつの国に生まれるというと、世界中のバカ男が「あっ、日本人?じゃ、セクシュアリーアベーラブルだな」と考えて涎を流してグフグフ言いながら寄ってくるもののよーである。マンハッタンのような普通そんな態度をとったら次の瞬間ぐしゃっと音がして生殖機能を司る垂下人体部分がハイヒールの踵で粉砕される街ですら、わっしは、そういうバカを目撃したことがある。 http://d.hatena.ne.jp/gameover1001/20080129/p1 自分が日本人の女の子だったら、と想像するだけでうんざりである。 わっしは日本人の女の子とつきあったことがないので、現実の日本人の女の子がガールフレンドとして、どーゆー感じなのかよくわからん。 話に聞くと、一緒に歩いていて汗をかくとハンドバッグから、さっとハンカチを出して渡してくれたりするそうである。 モニもとってもやさしいひとであって、わっしがユデダコみたいな顔になって東京の街を歩いていると「ダイジョーブか?」と訊いたりしますが、ハンカチを出したりはせんな。 英語国民の女の子たちに至っては、これも神経が細やかなひとが多いアフリカン・アメリカンの女の子たちを除いては、人の顔を見て、「ヘンな奴だなあ。そんなに暑いのか? 頭から水ぶっかけちゃえば?」とゆってハッハッハと笑うであろう。 フランスも合衆国も男女同権社会とは到底いいがたい。 日本のひとが「男女同権の国」だと思っているらしき合衆国などは、そのうち女のひとたちが内乱を起こすんちゃうか、と思うくらい女性差別がひどい、と思う。ニュージーランドや連合王国のように「わたしを女だから、ちゅう態度で扱ったらシバキ倒しちゃるぞ。わかっとるか?」という国とは根本的に社会が違うのです。 日本もひどい、と思う。社会からの巨大で陰湿な圧力がすべての若い女の子を「性的対象牧場」「生殖牧場」に囲い込もうとしているかのように見える。 大臣が女のひとを「子供産む機械」とみなしたり「子供を産む年齢をすぎたババアは不要な人間だ」と公言する都知事がいまだに知事のままであったり、ちょっとSF的、っちゅうか、ほんとにそんな国あんの?と聞き返したくなるような国です。 就職差別も無茶なくらいひどいよーだ。 それで「労働人口が足りない」っちゆわれても、なんのこっちゃ、と考えます。 ひょっとすると、日本では女のひとは「人口」に含まれないのでしょうか。 前にこのブログでフロレンスのかっちょいい日本人の女の子のことを書いたことがあったが、イタリア人にはイタリア語で英語人には英語で日本人には日本語でテキパキパキテキと素早くしかも的確な言葉の選択で話しかけながら仕事をこなしているそのアイスクリーム屋さんの売り子の日本人の女の子は、「すげー」かっちょよさであった。 賢いのだよな。 しかも毅然とした感じであって、わしはアイスクリームがおいしそうであったせいの涎を急いでぬぐってパチパチパチと拍手をしたくなるほどでした。 メキシコのホテルのレセプションをしていた日本人の女の子もかっこえがった。 一ヶ月の予定でスペイン語の勉強をしにきたら、気候が向いているもんだから、そのまま5年もいちゃって….はははは、と笑っておる。 なんだか、近所に買い物に来たみたいな気楽さでメキシコにいてしまったようであって、 そのリラックスした自然な感じが、この女のひとの「強さ」を雄弁に表現している感じでした。 日本の外で会う日本人の女の子たちのオオザッパな印象は「活き活きして」いて「カッチョイイ」ことです。元高級官僚の卵、元学生、元主婦、いろんなひとがいるのはあたりまえだが、一様な印象がある。 「水を得た魚」という。 その通りの感じがします。 ありっ? … Continue reading

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人情嫌い

けんぞうさん、という半年に一回くらいコメントをしにくる周期が短い彗星のようなひとがいます。けんぞう彗星、だのい。けんぞうさん、木星に衝突して自爆したりしないよーに。あのちっこい穴ぼこが地球よりも大きいのだから木星は神話でも威張っているわけである。 この「けんぞう」さんが、このあいだやってきたときは、わっしを「サイボーグ」だとゆっておった。わっしは、「なんでばれたんだべ」と思ってパニクリました。 びっくりしたので換え忘れていたマイクロチップが一個とんでしもうた。 太陽系の支店に在庫がないと本店は4.2光年くらい先なので木曜日までこないので焦りました。 ういいいいいーん、と唸って考えて初めてこれは「比喩」という修辞法であって、ケンタウルスからジョン・タイター http://en.wikipedia.org/wiki/John_Titor の予言を無効化するために800年前にケンタウルスから地球に送り込まれたサイボーグだというわっしの正体がばれたわけではないことを悟った。 よかった。 一時は、本国に送り返されて南京玉すだれ教習を受けさせられるかと思いました。 ….ジョーダンです。 日本語文章の巧みさだけでも、わっしの能力があまりに人間離れしているせいで、すっかり信じてしまったひともいると思うが、わっしは、驚くべし、ほんとうはサイボーグではない。 ウソのようだが、ほんとうだ。 わっしは、ほんとうの真実は人間でサンセイの反対©赤塚不二夫なのだ。 第一、昨日のコンビニエンスストアでの買い物みたいに168円と243円の買い物をして、ぴったり421円を出すサイボーグがいるかよ。 ねーちゃんに明るい声で「ジューエン、お返ししますねー」とゆわれて頬がぽっと赤くなるサイボーグなんておらん。 でもサイボーグのほうが人間よりもかっこいいよな。 感情がない、というところが良い。 ロボットなら、もっとよかった、とよく考えます。 空き缶でつくったできそこないみたいな「鉄テツ、カッチン」したやつじゃなくて、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」みたいなやつね。 人情、というようなものが嫌いだからです。 あるいは人情という日本語についている手垢のようなもの、とゆったほうがよいだろーか。 「日本語を習得するなら、これがいいですよ」とゆって「フーテンの寅さん」のDVDをくれたひとがあった。 「この映画を観れば日本人についても、よくわかります」 フーテンの寅さんが好きな日本人の友達にいうと、すごく怒るが、あんなつまらん映画は初めてであった。 わっしは小津安二郎が熱狂的に好きなので、笠智衆が、こんなショーモナイ映画に出てるなんて情けない、と思いました。 「お荷物小荷物」で日本刀をぶんまわしたとゆわれている志村喬とは同じ神技の俳優といえどエライ違いです。 もうすぐお盆なので渥美清が実家に帰ってきたついでにわっしの広尾山のアパートに怒りにくると困るので内容に立ち入ってまでは書かないが、あれが「人情」なら、人情なんていらんわい、と考えました。 人間の情、なんちゃって気持ち悪い、というのは、わっしの世代の人間の、割とふつーの気持ちだと思う。世界共通なのではなかろうか。 いらねーな、そんなもん、と言うのが平均的な反応だと思います。 人情なんていらんから、わしに迷惑かけんでくれ。 なれなれしくすんじゃねーぞ。 玄関を開けてやったからとゆって土足で居間にあがってよいとは誰もいっておらん。 えっ、おまえの家でも靴を脱ぐのかって? 最近は西洋世界でも靴を脱ぐほうがふつーだが、ウチはちゃいます。 もののたとえでんがな。 考えてみると「親身に」なられるのも嫌、やさしい言葉も気持ち悪い、他人が自分に対してとってほしい態度は「ほっといてくれること」であって、わしらはまことに砂漠の民である。本物の砂漠の民と違うところはオアシスもいらないと思い詰めているところだろーか。 モニはわっしの「ソウル・メイト」だが、この連帯感は死体と化した文明を一緒に観察しているところから来ているのかもしれません。 壊れて瀕死になった世界を窓からじっと眺めている。 わしらはいつもわしらだけの世界に閉じこもっていて、ときどき世界の壊れ方を調べにドアを開けて外に出る。 言語は本来は伝達の道具ですが、モニとわっしには、まるで自分たちの世界に対するとどめようもなく冷ややかになってゆく気持ちをなんとかして暖めるために使おうとしているようなところがあります。 … Continue reading

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岡崎京子

「存在に対する不安」から女の子の性器がこすれて痛くなるまでやりまくるバカ暴力男や喉に指を突っ込んで嘔吐しながらイタリア料理を食べまくる高校生モデル、なぐられ、蹴られ、いじめぬかれることの優越に残虐な愉悦をおぼえるゲイ高校生。 好きになって欲しい一心で性の奴隷になってやったボーイフレンドが手引きした男たちに輪姦される女の子。 この女の子は、オレら悪い病気持ってないから大丈夫だよー、と明るい声で去ってゆく強姦者たちが去ったあとで、 「人のちんちんて 色んなカタチが あるもんだにゃあ」 「アレの味も ちがうんだにゃあ」 「空知君と もう顔を忘れた やつのしか知らないから『そーか』って感じ」 とつぶやく。 悲惨、という現実事象の実際どおり乾ききった姿をそのまま放り出したような表現が特徴である。 岡崎京子が描く「若者」たちは気味が悪くなるくらいリアルであって、少なくともこの舞台が連合王国であれば、きっとこの作家は高校生たちにインタビューして実際の逸話を絵にしたに違いない、と思うでしょう。 生命のエネルギーに身体全体をわしづかみにされて破滅に向かって叩きつけられるようなところが誰の「青春」にもあるからです。 外から見えない、(たいていは地下の)ロンドンのレストランで開かれる高校生たちのパーティに出かけてゆくと、階段を下りたところで、もうマリファナの甘い匂いがぷうーんとする。 やあ来たね、と言う同級生の手のひらにお金を握らせて、わっしはパーティのなかにわけいってゆく。 (マジメなひとは、ここから先は読まないように) ドアを開けてはいるとクラブでは結構有名なバンドが壁が歪みそうな音で演奏しておる。 相変わらずPAの調整がちゃんとしてないので、わっしは顔を顰めます。 音があってねえじゃん。 カウチでは顔見知りの女の子がすっかり「石化」しているのでしょう。 男の子ふたりを相手に性交しておる。 他のガキどもも、踊りくるいながら服を脱いでいるのもいれば、うるんだ目で男の子の手をひいて人目のないトイレに連れ込む女の子がいる。 前を開けた男の子の前に跪いている女の子もいます。 みな裕福な家のガキ共である。 わっしは他人がはめを外すのはなんとも思わないが、嫌な奴なので自分でくわわろうとは思わん。 実はマジメ同級生のKに「妹があれらのパーティに行っているのかも知れんのだ。。きみ、行ってみてくれないか。ぼくにはとてもじゃないが行く勇気がないんだ。 ぼくが行っても入れてもらえないかも知れないしね」とゆわれて来た。 カウチがうまい具合にひとつあいていたので、そこに腰掛けて辺りを見渡します。 どうもKの妹はいないようだ。 小部屋やトイレを名をよばわって歩かねばならないだろうが、まずはひと安心である。 カウチの肘掛けの脇の床からわっしの名前を誰かが呼んでいるので、そちらを見るとわっしの父親の親友Dの息子で一級上のFが裸で仰向けになっていて、不思議なかっこうの、つぶれたような四つん這いになったやはり裸の見知らぬ女の子とつがっておる。 「きみ、ちょっと申し訳ないのだがね」と言います。 まだ18歳でも、そういう口の利き方をするのは、そうやって教育されているからである。 「このレディの尻の穴に親指をつっこんであげてもらえないだろうか。 この方は、そうされるのがことのほか好きなのでね。お願いできると助かるのだが」 わしは生憎親指の爪を切り忘れているので、この方(かた)がやわらかい部分に怪我をする可能性を考えると、そういうわけにはゆかないようです、と答えます。 「そうかね。それは残念」と答えたあとは、もうFは、わしに対する関心を失ったようでした。 少し「パーティ」の様子を観察して、どのカップルもやっていることは同じの小部屋とトイレをひと渡り探してから、入り口の同級生にもう一度挨拶すると、わっしは歩いて家に帰った。 自分には、ほんとうに人間の世界を渉ってゆく勇気があるだろうか、と考えたのをおぼえています。 岡崎京子を読んでいると、あの、魔物にすっかり食いつくされてしまうような「高校時代」というものを思い出します。 一般的にはマリファナとブージングとボーイレイシング。 わっしの学校でゆえば「パーティ」とライブリでのキチガイ沙汰でしょうか。 岡崎京子が描いた乾燥してひりひりするような身も蓋もないガキどもの絶望は、世界中の高校生たちが共有しているものです。 … Continue reading

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