Monthly Archives: September 2009

言語の腐敗、あるいは大破したデクノボーについて

目下、大破中です。体調が不良である。 一日に一回は日本語で何か書かないと、というキョーハク観念があるので、通常にもまして訳のわからんことを書いているが、日本語でものを考えるのがつれえっす。 どーも、わっしの健康は二年に一度くらい定期的に崩壊するようだ。 日本語能力がはなはだしく衰弱しているので、ムズイ本が読めん。 具体的にはセンテンスが長くなると、「ありぃー?ありぃー?」と考えているうちに寝てしまう。 長椅子で我に返るとモニがかけてくれた毛布にくるまって、2時間くらいごくすやすやと眠ったあとである。 さっきまで「蒼氓の叛旗」という学生運動期にBUND派の学生が読んでいたと思われる本を読んでいたが、あまりに退屈なのでねちった。 気を取り直してskybookでダウンロードした岡本綺堂先生の本を読んでいたところです。 岡本綺堂は、やっぱり抜群にオモロイ。 このひとの文章を読むと、クソ冬の大陸ヨオロッパ某所と霜が張り付いた窓と、フレンチオニオンスープの毎日を思い出すが、むろん、それは益体のないわしの個人事情である。 岡本綺堂を読んでいると、その日本語がふつうに目にはいってするすると理解できるので不思議な気がします。日本語が腐ってしまっていない。 わしは、これはケンキューに値する、と感じます。 横光利一などは、名文家として有名だが、いま読むと日本語が、どういうかな、才気煥発でありすぎて殆ど読めていかない。 そこにゆくと岡本綺堂の文章は防腐剤いりであって、いまでも普通に読めます。 「わたしの叔父は江戸の末期に生れたので、その時代に最も多く行はれた化物屋敷の不入(いらず)の間や、嫉み深い女の生靈(いきりやう)や、執念深い男の死靈や、さうしたたぐひの陰慘な幽怪な傳説を澤山(たくさん)に知つてゐた。しかも叔父は「武士たるものが妖怪などを信ずべきものでない。」といふ武士的教育の感化から、一切これを否認しようと努めてゐたらしい。その氣風は明治以後になつても失せなかつた。わたし達が子供のときに何か取留めのない化物話などを始めると、叔父はいつでも苦(にが)い顏をして碌々(ろくろく)に相手にもなつて呉れなかつた。」 なんちゅう書き出しを読むと、熱で半分変性しかかった頭でもむくむくと興味が起きて、 物語のなかへすんなり日本語頭と一緒にはいってゆけるようだ。 日本語のなかで最も腐りやすいのは多分カタカナ語でしょう。 それも西洋語の文脈から離れた、思い入れのある言葉ほど腐りやすい。 「テニスボーイの憂鬱」という本を百円本のワゴンのなかに見つけたことがあるが、わっしはマジで笑い話集だと思いました。 題名からしてもう死語化している。 セレブ、とかビッチ、とかは日本のひとに仮に告げ口をしたとすれば余計なお世話、ということになるだろうが、もとから実体にそぐわなかったり単純な言語上の無知によっていたりするので寿命が短い鯖のような言葉であるのは明らかである。 敬語世界のストレスから自分たちを守るためにあるかのような高校生や大学生同士の言葉も短命であるに決まっているが、これは短命を半ばは志しているのだろうから、また話が別です。 違う方向から、この言葉や表現の寿命を眺めると、いわゆる「標準語」はこのごろでは特に寿命が長い言葉をつくるのは難しいようだ。 関西弁と現在の東京語を較べればわかりやすいと思うが、前者が言語としての命脈をわけもなく保っているのに較べて後者はほぼ死語を駆使していまの生きた社会を表現するのに悪戦苦闘している観があります。 極端に言うと、標準語による表現に成功しているのは「翻訳調」だけであって、大江健三郎がその代表でしょうが、フランス語や英語の翻訳文そっくりの標準語を使うときのみ言語の深部におよぶ使い方が出来得ている。 明治時代からずっと、とゆってもよい。日本人は気がつかないでいるようですが、ロシア語、フランス語、英語、と変遷はあるもののいずれも西洋言語の表現の体系を背景にしているときのみ言語芸術の域に達しているのは日本文学の極めて明瞭な特徴で、その原因はなんといっても会話にもちいるべき標準語が不便であることのように思われます。 関西の人がかるがると、いかにも肉体の一部のように言葉をつかうのに比して、東京のひとは、まるで慣れない外国語をしゃべっているかのようである。 谷崎潤一郎の「細雪」の成功は、そういうところにも理由がある、と思う。 現代日本語の達者として有名であった志賀直哉は「日本語はダメだから、もうこのへんで諦めて国語をフランス語に変えよう」と言い出したことがあった。 身の丈にどうしてもあわない服のような日本の口語文は、この志賀直哉に限らず、たくさんの文学者や作家を苦しめてきた。 ただ岩田宏のような日本語使いの天才や田村隆一のような沈黙を飼い慣らすことに成功した詩人、あるいは三島由紀夫のような意識的に死語を装飾的に用いることが出来た作家だけが、この「標準語」の呪いから逃れることが出来た。 「青空文庫」のなかに潜り込んで明治時代からずっと特にむかし「大衆作家」と呼ばれたひとたちの文章を見てくると、その言葉の腐りかたのはやさに驚きます。 そして、その原因は明治時代にでっちあげられた「標準語」の微妙な生活感情からの乖離にあるように見える。 日本で人気の高い「ライ麦畑でつかまえて」というサリンジャーの小説は、実は、表現が腐ってしまっている、という点でも有名な小説で、わっしは日本語の腐り方の速度を考えるときに、よくこの小説のことを思い出しますが、しかし、大破中のわしには、これを日本語で書き続けるのは、ちょっと無理があるようだ。 どさっ。(疲労のあまり起き直っていたベッドから床に落ちた音)

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空騒ぎ

ネットビジネス、というのは要するに突出した技術で既存のビジネスモデルをどれだけ破壊できるか、というサーカスの場であって、それ以外のものではありえない。 他の、プレゼンテーションの場に行けば「ぼくシブヤのシャチョーだもん」というひとがいかにももっともらしく説明してくれる「ネットビジネス」なんちゅうのは、「伝統的な世界」なんて知るもんけ、と思って次々に伝統世界のルールを破壊してケッケッケと悦んでいるキチガイ揃いだが愉快な技術屋たちの後ろにぞろぞろついて歩いて、「ぼくがやってることは、あたらしーいんだから、金くれ」とゆってる「他人を欺すのがうまいマヌケ」の与太にしかすぎない。 わっしはもともと「ワナビー・マッドサイエンティスト」のみなさんに取り囲まれて暮らしていたので、グーグルでもなんでもよろしいが、なにかのサイトが「インターネットビジネスの皮をかぶったマヌケビジネス」か「ほんちゃんのネットビジネス」かは、そのサイトが突出した技術の表現になっているかどうか、しか見ないことにしておる。 グーグルに関していえばマーケティングはバカバカであった。 だってえ、ヤフーが寡占体制を敷いていたところにヤフーが必死こいて考えて捨てた「非人力検索エンジン」をもって市場に居場所がある、なんて考えるひとはアホアホのバカバカである。 でも技術屋的見地からマーケットを見ると、全然なんの突出した技術も持たない、いわばノータリンの巨人がぼっけーと突っ立ているだけなので、「ダイジョーブ、勝てるべ」と思ったのに違いない。まっ、「グーグルの本」なんて読んだことがねーからわからないが。 グーグルのビジネスモデルはよく知られているようにアドワーズという「広告代理店」をターゲットにした戦略である。本来せいぜい1マイル四方くらいしか商圏をもたない町の八百屋でも有効なインターネット広告を開発することで群小広告代理店を時代遅れなショーバイに変えてしまった。 いまでも収益はこれ一本です。 アマゾンはどうか? わっしのガッコー友達であるMDは「アマゾン? あんなくそサイト知るか。売ってるものを全部ダウンロード出来るようになったら認めてやる」という。 あれは流通上の革新であって、ネットとはカンケーがねーだろ、とゆいたいのでしょう。 しかし、わっしはキンドルによって本はダウンロード出来るようになったので、あとは分子変換装置を開発するだけで道はそんなに遠くない、と思ってます。 (念のためにいうとジョーダンだが) そんなに無茶苦茶突出した技術でなくても、みんなでヨイショコラエラセと技術を積み上げてきたので、いまある技術を組み合わせて洗練させることによってだけでも、たとえば 「evernote」や「dropbox」「zumodrive」みたいなクールなビジネスをつくるのも可能ではある。 でもいまだに「あっ、アメリカにはEコマースっちゅうもんができたんだな。ほんじゃ、これをまねっこして、あとは、どすこい、日本伝統のドブイタ営業でがんばるぞい」でつくったサイトだとか、なんの恥じらいもためらいもなく、これも他人の考えのネット商売をもってきて満足なツールひとつつくらずに「ITだよーん」のイメージ戦略でエンタメ・ニュースに顔をだしながら、ぬけめなく立ち回って自分よりもっとマヌケな「大衆(笑)」から金をくすねるだけのサイトとか、そーゆーのは、いくら儲かっても本質的に(社会の進歩を停滞させているという点で)反社会的なビジネスであると思う。 わっしの知っているひとにもネットでクールげな洋モノの名前をつけてパッケージのゲームを売っている人がいるが、そんな商売は…(ピー)。 日本のネットビジネスの惨めさは、結局、そこでは未だに「パチモンのアメリカ」がまかり通っているという点です。 他のどんな分野でも、そこまで恥ずかしくも「ベタ」なアメリカかぶれは、文字通りの「ヤンキー」のにーちゃんやねーちゃんでもやらん。 世界中の若い衆が「ハイテクの国」であると信仰している日本でネット産業が「ネット産業廃棄物展示場」みたいになってしまっているのは、結局、ネットビジネスというのは技術による旧ビジネスの新解釈である、という肝腎の点を忘れてしまっているからでしょう。日本のひとはITという言葉もネットビジネスも根本から誤解している。 実際にはネットビジネスというのは、仮想世界側に住んで、そっちから逆に現実世界を見直す、という作業なしでは成り立ち得ないのに日本のサイト制作者たちは、その作業を怠っている。技術が偏光させた一見すると万華鏡のようなテクノロジーの鏡のなかから現実を見つめ直して、そこに新しい秩序を見いだすこと以外に道はないのに、それが出来ないのではどーしよーもない、のではないか。 まず「カネ、カネ、カネ」のバカバカ自称IT実業家を全部ぶち捨てるところから始めるべきである。 明日から技術的に見るべきもののないサイトのボタンをぽちるのはやめるべ。 (ただし零細サイトは除く。例:輸入ゲーム販売サイト)

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「日本国民」第1号

ずっと遡ってベンキョーしてみると日本人の「国民」という概念は、どうもオランダ人のもののような気がする。非常によく似ています。 オランダ、という国は欧州にあって階級というものがもともと存在しない珍しい国である、と思う。 えええー、なにゆってんの。他にもいっぱい階級のない国なんてあるじゃん、 ときみはゆーであろう。でも、そーゆー国は言語のせいで気分としては階級のある社会の悪い息が残っているのです。うまくゆえないが。 オランダ人、というのはどのひともこのひとも「わし、オランダ人だもんね」という単一の意識でまとまっていてかわいげがない。 ….あっ、いや、失礼しました。そーゆーところが立派である。 わっしにはうるせーだけであった衆院選挙のあいだじゅう、「国民のみなさん」とか「いまこそ国民の審判を」とか、国民こくみんコクミンと突然テレビも拡声器も肉声も胴間声もしわがれ声も金切り声も、いっせいに連呼しだしたので、日本では「コクミン」って誰のことなんだべ、と考えて手持ちの本を頼りに歴史を遡っていってみた。 そーすると、ニホンコクミンっぽいひとが現れるのは幕末です。 榎本武揚、とか勝海舟、とかは自分のことを「幕臣」だとは思ってねーな、どうも。 勝海舟なんかは確信犯的に「ニホンコクミン」であって、多分、いまの日本の会社のサラリーマンのおっちゃんやなんかと同じで、自分が「幕臣」だと思うと、自分の上に積み重なったウ○コのようにバカバクシンがいっぱいてんこもりになっているのでやってられなかったのであるよーだ。勝海舟なんて、幕臣としては下も下、ヒラよりもっと下の時間雇いのおばちゃんよりももうちょっと程度がわるいくらいの「幕臣」だったので、若いときは大野心家であった勝のおっちゃんは、憤懣やるかたない日々を送っていたもののよーです。 そーゆーときにオランダ語に出会ったのだった。 そこから後の勝海舟の言動は佐幕も倒幕もない「国民」としての自分をアピールするものになってゆきます。 日本国民第一号、だのい。 榎本武揚か勝か、そのくらいが国民第1号車であると思う。 余計なことをいうと薩摩人や長州人が西郷隆盛にしろ木戸孝允にしろ、まだこの頃は全然「日本人」などという思想を持ちようもなくて、「我が藩の御為」としか考えられなかったのとは良い対照です。 わっしは、幕末のこういう機微を、おもろいのい、と思う。 日本のひとは、あんまり気が付かないようだが、ここでいきなり英語に出会っていてごらんなさい。 明治時代なんか来てやしないから。 イギリス人の、どーしよーもない階級社会を間近に見て、「こんなら日本の身分社会のほうがましですのい」で終わっておる。 少なくとも「西洋」が革命のバネにはなりえなかったでしょう。 階級が全然存在しない、みな百円均一の「オランダ人」だったから下っ端ぞろいだった幕末の志士たちのやる気が出たのである。 「みんなで力をあわせてがんばるべ」という気分に合致しておったのに違いない。 まずオランダから西洋文明に入門したので日本が回り道をしたようにいうひとがいるが、わっしはそうはおもわん。 オランダ人が近代日本に与えた影響はいま考えられているよりも遙かに大きいのではなかろーか、という感じがします。 詳しいことは省くが、わっしは日本のひとの「国民」という概念が、ふつうの国民という概念の間尺にあわなくて困ったが、それがオランダ由来だと考えた途端にしっくりきました。 オランダというのは言うまでもなくスペインやフランスと地続きであって、年がら年中「おまえらの国なんかナシにしてやる」という脅迫に曝されていた国です。 日本は海に隔てられた島国なのに強度に閉鎖的な「国民」のイメージをもっているのは、それが由来したところに理由があるのではないか。 「島国根性」というが、島国の「国民」というのは通常「国民」としての固まり方がゆるい。 日本のひとは身分社会を破壊してオランダ型の「一枚岩国民」を発見したとき、どうしようもなくコーフンしたのではないか、とわっしは想像します。 それが現在の人民民主主義的な国家と国民のイメージの淵源なのではないだろーか。 ドケチでずるっこくて人間性の表と裏の差がすさまじいオランダ人も、たまにはよいことをすることがあるのだな、と考えました。

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鎌倉

もう鎌倉に行かなくなってしまった。 なんだか汚いだけの町になってしまって、行く気がしない。 長い間、鎌倉に住んでいた義理叔父も、どうやら生まれ故郷の東京に戻るようです。 鎌倉の友達に訊くと、5年くらい前に鎌倉ブーム、のようなものがあったそうで、 「そのときに、鎌倉という土地そのものでなくて、雑誌やテレビが囃し立てる『鎌倉』にたくさんのひとが引っ越してきたのが拙かった」という。 「?」 「うーんとね。そーゆーひとってのはさ、オジョーヒンでセレブな鎌倉、ちゅうような考えがあってね、鎌倉の半分田舎なライフスタイルには興味がないんです。 40坪くらいの土地を買って、ベンツ買って越してくるんだよ」と憮然として言うので笑ってしまった。 そーゆえばむかしむかし義理叔父がニュージーランド人たちに鎌倉のことを自慢して、 「お金があるひとは多いがメルセデスとかに乗ると白い眼で見られる町なんです」とゆって自慢していたのを思い出した。 わっしが日本で初めて買った家も鎌倉にあります。 取り壊してマンションにする、と聞いて買った家です。 古いがゆったりとした敷地に建っていて、なんとなく考えもなしに買ってしまった。 古い木造の日本家屋で、日本人の解釈で考えた洋室がいくつかある。 縁側もあって、そこに寝転がってワインを飲みながら、なんでか日本式の庭園をぼんやり眺めるシブイ午後がわしは好きであった。 成田空港に着くと、いきなり脇目もふらず総武横須賀線をNEXでかけくだってこの家に来るのを楽しみにしていたものです。 でもしぶかったのは初めの一年だけであって、そのうち朝の6時くらいから「クルマがきまあーーーす、右に寄ってくださあああああい!!」とかっちゅう、ガイドの声で目がさめる、ちゅうようなふうになった。 なんのこっちゃ、と思って二階の窓から覗くと、200人くらいの同じ帽子に同じベストを着た不気味な団体がぞろぞろと歩いておる。 あるいは、犬を連れたおばちゃんが朝の7時くらいに街角で信じがたいくらいでかい声で立ち話をしておる。 角のおっちゃんが騒音に耐えかねて「うるさいいい! 何時だとおもってんだ、くそばばああ!」と窓を開けて叫ぶ、というふうになった。 全然シブクねっす。どちらかというとスラムの生活に近い感じである。 子供の時から仲良しであって、二年ぶり、とか、どうかすると6年ぶりくらいに行っても顔も名前もおぼえていてくれて「まあ、ガメちゃん、いつ日本に来たの?」と嬉しそうにしてくれたひとたちの店ももうみんななくなってしまった。 鎌倉の居心地のよい店はまず第一にやっているひとたちがもともとじーちゃんやばーちゃんだったので、「この頃の客はあらっぽくて疲れる」とゆって、店をたたんでしまった。 次には、ガイドブックに載った途端、テレビで紹介された途端に洪水のように押し寄せる客にうんざりしてやめてしまうもののよーだ。 そーゆー店の前に立って「あっ、なくなっちった」をしていると、店をやっていたおっちゃんやおばちゃんが出て来て、「もう店はやめちゃったけど、お茶飲んでいきなよ」ということがある。 でも、何十年も住んだ鎌倉にうんざりして、江ノ島や横浜の金沢に越してしまうひともたくさんあります。 「年をとると、鎌倉はよい医者がいないから」っちゅう、理由もあるそーだ。 実際、医者のお友達に訊くと鎌倉の医療砂漠ぶりは有名で徳州会の病院のほかは、どもならんのだ、あそこは、という。 徳州会は、わっしですら知っておる「突撃ビョーイン」なので医者はいつかん。 医療の面でも、なかなか大変なよーです。 わっしはたいてい十日から2週間、ストップオーバーで鎌倉にいるあいだ、よく由比ヶ浜から腰越まで散歩した。夕方、日が沈みかける頃になると、江ノ島の方向に茜色に染まった富士山が見えて綺麗だったのをおぼえています。 ときどき空気が屈曲して、おもいがけず巨大な姿になる富士山は息を呑むほど荘厳で、見とれる、というよりは畏い感じがした。 春に立ち寄って、東京ですっかり酔って終電でもどってきた夜中に、照明にすきとおった段葛の桜の花の下を一面に細かい白いひかる粉砕された磁器のような粉(中世にここで戦死したお侍たちの骨なのだそーだ)を見つめながら、なんだか桜も春も、日本という土地には「死」がいつも寄り添っているよーだ、と考えたこともあった。 …..こうやって考えていると、わっしにとっては「日本」というのが如何に長いあいだ鎌倉のことだったかに気が付いてびっくりします。 どーも、わっしの日本への基本的イメージは鎌倉からきているようだ。 鎌倉には鎌倉時代のものは大仏以外はなにも残っていないのは有名ですが、もうひとつ特徴があって、鎌倉は多分日本の古い町ではただひとつ「江戸時代」が存在しなかった町です。200年以上もある江戸時代は、この小さな古い町の頭上を通過してしまった。 だから町の造作も室町時代からいきなり明治時代にとんでしまう。 化粧坂のような坂は残っていてもその次はもう明治の「力車道」(軽自動車がサイドミラーをたたんでやっと通れるくらいの幅で、まんかには車夫の足場の石が敷き詰めてある)のネットワークにとんでる。 東側へ行けばまだ江戸時代のニオイがぷんぷんする路地が残っている東京とは正反対なところが鎌倉のもともとの町の性格で、もしかすると、わっしは、鎌倉のそういうところが好きだったのかもしれません。 義理叔父が送ってきれくれたD黒屋のくるみ餅を食べながら思い出す鎌倉はなつかしいが、どうも、もう行く気になれん。 … Continue reading

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鎌倉

もう鎌倉に行かなくなってしまった。 なんだか汚いだけの町になってしまって、行く気がしない。 長い間、鎌倉に住んでいた義理叔父も、どうやら生まれ故郷の東京に戻るようです。 鎌倉の友達に訊くと、5年くらい前に鎌倉ブーム、のようなものがあったそうで、 「そのときに、鎌倉という土地そのものでなくて、雑誌やテレビが囃し立てる『鎌倉』にたくさんのひとが引っ越してきたのが拙かった」という。 「?」 「うーんとね。そーゆーひとってのはさ、オジョーヒンでセレブな鎌倉、ちゅうような考えがあってね、鎌倉の半分田舎なライフスタイルには興味がないんです。 40坪くらいの土地を買って、ベンツ買って越してくるんだよ」と憮然として言うので笑ってしまった。 そーゆえばむかしむかし義理叔父がニュージーランド人たちに鎌倉のことを自慢して、 「お金があるひとは多いがメルセデスとかに乗ると白い眼で見られる町なんです」とゆって自慢していたのを思い出した。 わっしが日本で初めて買った家も鎌倉にあります。 取り壊してマンションにする、と聞いて買った家です。 古いがゆったりとした敷地に建っていて、なんとなく考えもなしに買ってしまった。 古い木造の日本家屋で、日本人の解釈で考えた洋室がいくつかある。 縁側もあって、そこに寝転がってワインを飲みながら、なんでか日本式の庭園をぼんやり眺めるシブイ午後がわしは好きであった。 成田空港に着くと、いきなり脇目もふらず総武横須賀線をNEXでかけくだってこの家に来るのを楽しみにしていたものです。 でもしぶかったのは初めの一年だけであって、そのうち朝の6時くらいから「クルマがきまあーーーす、右に寄ってくださあああああい!!」とかっちゅう、ガイドの声で目がさめる、ちゅうようなふうになった。 なんのこっちゃ、と思って二階の窓から覗くと、200人くらいの同じ帽子に同じベストを着た不気味な団体がぞろぞろと歩いておる。 あるいは、犬を連れたおばちゃんが朝の7時くらいに街角で信じがたいくらいでかい声で立ち話をしておる。 角のおっちゃんが騒音に耐えかねて「うるさいいい! 何時だとおもってんだ、くそばばああ!」と窓を開けて叫ぶ、というふうになった。 全然シブクねっす。どちらかというとスラムの生活に近い感じである。 子供の時から仲良しであって、二年ぶり、とか、どうかすると6年ぶりくらいに行っても顔も名前もおぼえていてくれて「まあ、ガメちゃん、いつ日本に来たの?」と嬉しそうにしてくれたひとたちの店ももうみんななくなってしまった。 鎌倉の居心地のよい店はまず第一にやっているひとたちがもともとじーちゃんやばーちゃんだったので、「この頃の客はあらっぽくて疲れる」とゆって、店をたたんでしまった。 次には、ガイドブックに載った途端、テレビで紹介された途端に洪水のように押し寄せる客にうんざりしてやめてしまうもののよーだ。 そーゆー店の前に立って「あっ、なくなっちった」をしていると、店をやっていたおっちゃんやおばちゃんが出て来て、「もう店はやめちゃったけど、お茶飲んでいきなよ」ということがある。 でも、何十年も住んだ鎌倉にうんざりして、江ノ島や横浜の金沢に越してしまうひともたくさんあります。 「年をとると、鎌倉はよい医者がいないから」っちゅう、理由もあるそーだ。 実際、医者のお友達に訊くと鎌倉の医療砂漠ぶりは有名で徳州会の病院のほかは、どもならんのだ、あそこは、という。 徳州会は、わっしですら知っておる「突撃ビョーイン」なので医者はいつかん。 医療の面でも、なかなか大変なよーです。 わっしはたいてい十日から2週間、ストップオーバーで鎌倉にいるあいだ、よく由比ヶ浜から腰越まで散歩した。夕方、日が沈みかける頃になると、江ノ島の方向に茜色に染まった富士山が見えて綺麗だったのをおぼえています。 ときどき空気が屈曲して、おもいがけず巨大な姿になる富士山は息を呑むほど荘厳で、見とれる、というよりは畏い感じがした。 春に立ち寄って、東京ですっかり酔って終電でもどってきた夜中に、照明にすきとおった段葛の桜の花の下を一面に細かい白いひかる粉砕された磁器のような粉(中世にここで戦死したお侍たちの骨なのだそーだ)を見つめながら、なんだか桜も春も、日本という土地には「死」がいつも寄り添っているよーだ、と考えたこともあった。 …..こうやって考えていると、わっしにとっては「日本」というのが如何に長いあいだ鎌倉のことだったかに気が付いてびっくりします。 どーも、わっしの日本への基本的イメージは鎌倉からきているようだ。 鎌倉には鎌倉時代のものは大仏以外はなにも残っていないのは有名ですが、もうひとつ特徴があって、鎌倉は多分日本の古い町ではただひとつ「江戸時代」が存在しなかった町です。200年以上もある江戸時代は、この小さな古い町の頭上を通過してしまった。 だから町の造作も室町時代からいきなり明治時代にとんでしまう。 化粧坂のような坂は残っていてもその次はもう明治の「力車道」(軽自動車がサイドミラーをたたんでやっと通れるくらいの幅で、まんかには車夫の足場の石が敷き詰めてある)のネットワークにとんでる。 東側へ行けばまだ江戸時代のニオイがぷんぷんする路地が残っている東京とは正反対なところが鎌倉のもともとの町の性格で、もしかすると、わっしは、鎌倉のそういうところが好きだったのかもしれません。 義理叔父が送ってきれくれたD黒屋のくるみ餅を食べながら思い出す鎌倉はなつかしいが、どうも、もう行く気になれん。 … Continue reading

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死んだ自然が残したものは

一面の黄金の海。 稲穂が秋の風に揺れておる。 わっしは日本の風景ではやはり田んぼがいちばん好きだのい。 なんという美しさだろう。 ガキンチョ時代、かーちゃんと一緒にでかけた福島の畦道でほんとうの空と足下の田に映った空と二枚の大空を積雲が流れてゆくところにみとれて以来、わっしは、ずっとこの国が好きなのだと思う。 日本語や日本の中世美術も好きだけどな。 でもなによりも、この国の自然の美しさが好きなんです。 途中でシンガポールやメキシコと浮気しちゃったりしたが、結局、日本にまたやってきたのは、そこここにカケラのように残っている、この国の自然の美しさのせいでしょう。 やわらかで、ささやきかけてくるようで、ただもう豪勢な美しさである。 そーゆわれるのも聞き飽きただろうが、日本のひとはもっと自分の国を大事にしたほうがよい。どんなに懸命に否定しても、あるいは無視してかかろうとしても、自然が貧しい国は滅びる運命にある国なのだと思う。 それはちょうど自分の身体を大事にしないひとが早死にするのと似ている。 懸命に働いて、少しくらいふところが暖かくなっても、国自体が無惨な姿に破壊されてしまっては、なんにもならないではないか。 東京の西の「稲城」というところには、米軍のリクリエーションセンターがある。 (もちろん結婚する前だが)わっしは、その頃、アメリカ軍の将校のねーちゃんと仲がよかったので、軍属の夫婦と一緒によく遊びに行った。 ゲートをくぐるとまるで別世界であって、鬱蒼とした森があります。 1家族、あるいは1グループあたり(うろおぼえだが)1000平方メートル(300坪?かのい)くらいあるデカイ土地がぽんぽんぽんぽんとあちこちにあって、そのひとつひとつが茂みで区切られてお互いの土地が見えないようになっておる。 ついでにシャワー棟やペイントボール場やアーチェリーをやるところ、ミニゴルフ、っちゅうような施設が点在してます。 戦前は帝国陸軍の弾薬庫だったので、コンクリートの掩蓋もそのまま放ったらかしにされておる。 ここにいると、ぶっくらこくのは、ナラもクヌギもシイも全部、むかしの小説に出てくる 「武蔵野の森」そのままであって、トトロの世界が、そのまま残っていることです。 でっかいクワガタや、ほとんど(そんなわけはないが)肥満したカブトムシが、誇張ではなくて、そこここにモソモソしておる。 地上の楽園、みたいなところです。 わっしらはそこで、アメリカ人特有の準備周到で「やりすぎなんじゃない?」という感じのテント群を張って遊んだものであった。 アメリカ人は連合王国人やニュージーランド人の、ほぼ日本人と変わらないアイデアの「キャンピング」と違って、ほとんど「設営」っちゅう感じのおーげさなキャンピングをするのを知っているひとも多いと思います。 「食堂テント」「ラウンジテント」みたいなのから始まって「食料と飲み物の貯蔵テント」まである。まるでスコット探検隊みたいな完全装備ぶりである。 みんなで、子供にはゆわれないおとなの事情により敷地のいちばん離れた端同士におったてた2カップルのテントからまんなかの「ラウンジテント」に寄り集まってビールを飲みながら話をしていると、むあっくらな闇がやってくる。 闇の中で虫たちが能楽の地唄のような声を響かせておる。 うまく言えないが、ものすごく「日本」な感じの夜であって、それが日本人立ち入り禁止のアメリカ人領内にしか残っていないことに皮肉を感じたのをおぼえています。 実際、わっしは、そのときに初めて「日本近代」を理解する手掛かりを得たような気がした。あの沈鬱な感じのする森に囲繞された町を前提として初めて、たとえば日本の近代小説家たちの「静かさ」がわかるような気がしたのでした。 あるいは、「Sumo Do, Sumo Don’t」の周防監督がなぜ合宿のエピソードをはさまなければならないと思ったのか、少し理解できたような気がしました。 自然がここまで完璧に破壊されてしまったことで、日本の文化は連続性を絶たれてしまっているのではないか、と思うことがあります。 当然のことながらひとつの民族の文化の連続性を保証するものは、その国の自然以外にはなにもない。 それに加えて大陸欧州の、街を完全に人工のアゴラに変えて自然と分離する、というタイプではない、どちらかといえば連合王国風の自然との共生に文明をおくほうが安心できるらしい日本のひとの感性を考えると、自然の破壊は自分自身の文明にとって致命的であるように思える。 逆に言えば、なんのためなのか、再生力が強かったことで世界的に有名であった日本の里山を中心とした自然をそれでも絶対に再生できないほど徹底的に根こそぎ破壊した日本人の努力は、毎年毎年着実に積み重ねた自殺行為なのかもしれません。 これほど自分の国の自然を憎みぬいてふためと見られぬようにした国民、というものを、わっしは見たことがない。 なんだか恐怖小説を読んででもいるようです。 まっ、こんなことを書いても、日本のひとは、「そんなことは、むかしから誰彼がいいつくしていることで、耳にタコができてんだよ、うるせー」と言うでしょうけど。 … Continue reading

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醤油のたわごと

日本に暫くいると、日本の社会に特有な「やさしさ好み」や「かわいい好き」 や「しみじみ好き」 という感情が受け入れられなくなってしまう。 拒絶反応が起こるよーだ。 「節度」があったり「他人のことを慮ったり」気配りしちゃったりするのも同じように嫌になる。 そのいずれもが以前には「日本って、こーゆところがいいな」とか「日本のひとってこうゆうところが変わってておもしろいな」 と考えられたことなので自分でもはなはだ意外です。 丁度それは日本の食べ物が初めおいしかったのに、ある日醤油の匂いが鼻につくな、とおもった瞬間から食べたくなってしまうのに似ている。 多分、こういう感情はそうそう複雑なものではなくて、単に「長くいすぎて厭きた」 のでしょう。でも、ちょっと寂しい感じがする。 今日は(熱が38度くらいあってチョーシが悪かったからだが)朝から、このコンピュータに向かうまでとうとう日本語にまったく触れなかった。 一日に6時間は日本語につきあうべし、という自分で決めたノルマに完全に違反しておる。 ジョン・キーが出ているデービッド・レターマン・ショーを見たり、モニと遊んだり、アニ・レボビッツの本を読んだりして終わってしまいそうである。 ダメダメじゃん。 モニがつくった夕食を食べながら、熱でぼおーーんやりした頭でワインを飲んでいたら、「日本に長くいすぎた、と考えているのだろう」 とモニにゆわれた。 このあいだ、モニの胸はなんて形がいいんだろう、と考えていた(ちらとも見てはおらぬ)ら、モニがやってきて、「嫌らしいことを考えてはいけません。バカモノ」とゆわれた。 だんだん超能力が身についたきたのではないだろーな。 そうだとしたら、モニ、男というのはたいへんに困るのです。 あーんなことも、こーんなことも考えられなくなってしまうではないか。 (それはともかく) 日本は「ショーユ」のようだ、と考えました。 ちょっと見には自己主張もなくひそやかにあるだけだが、ありとあらゆる食べ物にひそんでいて、確然と味を支配しておる。 気がつけば国全体にそのにおいが染みこんでいるのであって、日本にいるあいだは、その意識すればなかなか強烈な臭いから逃れようがない。 どーも日本文化や社会と自己の顕現のやりかたが似ておる。 そーすると「フーテンの寅さん」とか「バラエティショー」とかは、醤油を焼いたときの臭いのようなもんかの。 わっしは、あれは瞬間も耐えられん(ごめん) ショーユは豆だが、魚醤文化のある国も、どこか似ているようにも思えてきます。 イタリア人はかつては魚醤をつかっていたが、歴史の過程でやめてしまったそーだ。 文化的なケミストリが悪くて南から北へ遡上しそこなったのかもしれません。 魚醤および醤油の分布と文化分布を並べて書き出すと、なんかおもろいことがわかるのではないか。 あー、寒気がする。 バカこいてねーで、寝よ。

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