Daily Archives: October 22, 2009

インターナショナル版キンドルと書籍文化の終わり

広尾のアパートにキンドルが着いたそーだ。 モニの分もわっしの分もスーパーお手伝いさんのYさんの分もみっつともつつがなく到着したようです。 ラッキー。 明日は東京へ戻るので3Gでダウンロードして遊べる。 世界中の大きな町ならどこでも、街角のコーヒー店のテーブルでマイ・シューバルをダウンロードして読める、というのはたいへんな快感です。 いちばん台数制限が厳しいタイトルでも6台までは共有できるので3人でまわし読みも出来ます。わっしの古いキンドルに較べるとだいぶん早くなっているはずなので、その点でもなかなかよさそーである。 むかしのキンドルは合衆国以外ではPCで買って転送しなければならなくてチョーめんどくさかったので、その点で助かるっす。 雑誌も新聞もインターナショナル版があるものは日本でも買える。 わっしはPCのamazon.comからPC MagazineとかBusinessWeekとかいろいろ定期購読を申し込みました。キンドルを使わないひとのために言うと、こうするとアマゾンのサーバが3Gを伝ってキンドルに雑誌を届けてくれるのす。 広尾にいるYさんに電話して訊いたら「着いてますよお」とゆってました。 ふっふっふ。 便利。 失敗続きだった電子書籍事業の企てのあとで、キンドルは、企画したアマゾンがぶっくらこくほどの速やかな成功だった。 アップルがiTunes+iPodで成功したのと成功の理由はちょっと似ています。 くわえて英語世界では英語のペーパーバックはもともと審美的価値がゼロで、単なる「紙に印刷された情報」という趣であったので心理的にキンドルに移行しやすい、ということがある。 わっしは初めて日本語の「文庫本」を手にとったときに、それがあんまりにもカッチョヨク出来ているので、すごおくカンドーした。 しばらくペーパーバックに触るのもいやであった。 日本の文庫本に較べて紙もぼろければ装幀も下品だからです。 日本のひとは「本」を工芸品としてつくった。 よほど「本」というものに愛着のあるお国柄なのでしょう。 菊地信義や栃折久美子のような装幀家がつくった本はもちろん、ふつうの文庫本でもデザインが他の国のものより格段にすぐれている。 手描きの表紙で有名な与謝野晶子の「みだれ髪」のような美しい本を明治時代にはもうつくっていたのですから驚いてしまいます。 LPレコードがCDに変わったとき、たとえば合衆国では、たくさんのデザイナーが失職した。CDケースの大きさでは凝ったジャケットをつくってもしようがない、というので ジャケットのデザインにお金を使わなくなったからです。 実際、「ジャケットアートの歴史」のような本を読んでもCDに変わってしばらくすると新しく発表されるアルバムのデザインは退屈なものが多くなっている。 わっしの年代の人間にはCDを5ドルくらいの安売りで買ってくると、iTunesに読み込ませておいて、CDとケースはぶちすててしまう人間が多くいる。 「邪魔だから」という。 わっしも旅行中には「CDさん、すまん」と思いながら捨ててしまうことがある。 捨てるといかにも音楽を「消費」しているようで、悪い感じがしますが、わっしはどこでも大量に音楽を買うので、もっているとどんどん増えてスーツケースが圧迫されるから仕方がない。 家にいるときは捨てませんが、部屋ふたつ本はたまりにたまって5メートルくらいの高さの壁が全部本になってしまっておる。その上にご先祖様が気分が悪くなるくらい、ためこんだ本で充満しているライブリがあるわけで、あんまり冗談になりません。 日本では広尾のアパートは狭いので日本語の本はおかないという約束になっておる。 山の家のかたわれにどんどん送られて、そこでご用がすむと書庫が整った他の国の家に箱詰めにされて送られてゆく。 そーゆー具合で本というと「体積」と意識されるような生活なので、この頃は母国語の 「推理小説」とかは全部キンドル化しておった。 キンドル化することによってよいことばかりかというと、もちろん、そうではない。 「ペーパーナイフで切ると、ふっと新しいインクと紙のにおいがする」どころか、 装幀もなにもないので、読書という習慣そのものが趣の違うものになります。 現代詩だろうか誰かの書簡集だろうが「工芸品を手に取る」という部分が完全に消滅して、要するにテキストデータである。 この頃では特に新刊本において同じアマゾンのなかでもキンドル版のほうが多く売れるタイトルが多いので、英語世界ではLPがCDに変わったときのようにたくさんの美術家が失業するに違いない。 … Continue reading

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