ミューズと資本家

風変わりな詩人で美術批評家であったギョーム・アポリネールが、ある日、友だちのピカソにこうゆった。

「きみ、ぼくはすごい金儲けの方法について天才的発見をしたんだぜ」

アポリネールの「天才的発見」はだいたいろくでもないものだと決まっていたが、ピカソもろくでなしだったので興味津々で訊きます。

「なにをすればいいんだい」

アポリネールは自分が書いた詩の原稿をとりだすとざっくざっくとハサミで切り出した。

1行ごとに切り分けてシャッフルして、テキトーに並べてゆきます。

ついでに(もちろん他人が書いた)古典詩も混ぜたな。

で、こうやって、とゆいながら麻雀牌みたいにかきまわして、はい、できあがり。

どーだ見たか、こうやってつくれば詩の名作がいくらでも大量生産出来るではないか。

ピカソくん、詩の手工業時代は終わったのだ。

詩にも産業革命が必要です。

これからはこの詩のオートメーションでわれわれはボロ儲けするのだ。

わっはっは、とすっかり世界征服者らしく笑うアポリネールの横でピカソはボーゼンとした、という。

芸術家と金銭の関わりの話のなかでは、わっしが最も好きな話です。

ぽんぴいさんやはげはげさんやantonianさんとした話の続きをもうちょっとだけしようと思うが考えてみた結果はあんまり面白いものではなかった。

antonianさんは「芸術は渇望だ」とゆっているが、わっしに判りやすい言葉では、それは「駆り立てる力」だす。

ゲージツカは描かないではいられず、書かずにはいられず、弾かないではいられない。

カネのために創ろうたってそうはゆかないのだすな。

たとえば詩人は「こーゆーことを書こう」と思って書いているわけではない。

そんなんじゃ詩なんか書けねーよ。

詩人は前頭葉ではなくて手で言葉を書いている。

画家もきっと同じだべ。

わっしが考えてないのに思わず稼いでしまうのと同じである(^^)

順って世間がカネを払おうが払うまいがゲージツは生産される。

一円にもならなくても芸術家は激しく労働し、輝かしい精神の軌跡を止揚された定型で表現し、他人をびっくりさせる。

社会のがわからはだからゲージツは個人の病気みたいなもんだ、とみなしてすましてもいられる。

ま、勝手にやってくらはい。

ぼくの気に入るものが出来たらときどき拍手してあげるからね、お金はあげないけど。

もうひとつ。

ゲージツは、それを享受するほうにも訓練がいる、という特徴があるんだす。

観念の高みが必要である。

テレビに出てくる薄汚いコメディアンの冗談にデハハハハと笑うようにして、フランシス・ベーコンに向き合うわけにはゆかんのだ。

大江健三郎は遙々でかけたアイルランドのフランシス・ベーコンミュージアムの玄関で「自分はまだフランシス・ベーコンを見られるほど十分に絶望していない」と考えてなかに入らないで引き返したそうだが、別に引き返さなくても、目の前にある絵が自分にとって最も必要な絵画であるのに、それが目に入らなくて画廊を後にしてしまう、っちゅうようなことは誰にでもふつーに起こることだと思います。

日本語を使った岸壁登攀のような経験をしたことがないひとに田村隆一を読めるわけはない。

観念の高みに立てなければ田村隆一がそこで発見した言葉の「定型」が見えてこないからです。

日本の社会が芸術にカネを全然払わないのは、要するに日本人が芸術をほんとうには必要とはしていないからでしょう。

いらんもんにはカネは払わんわな。

ひとつの社会が芸術を必要する社会であるかは、絵画や音楽やデザインにいくらカネを払ったかを見ればすぐわかります。

「カネ」というのは意外なくらいすぐれた批評基準なんだすな。

antonianさんが「ブックオフ」で本を買わない、というのはだからたいへん正しいのです。

全然些細なことではない。

購買行動というのはそれだけで独立な批評行為なのである。

ブックオフというビジネスを認めることはカネを払わないどころかカネを払う機会をすら奪うことになるもんな。

いわばマイナスの文化貢献をすることになる。

わっしも自分の国にブックオフが出来たら絶対そんなところで買わん。

それどころか「この店であなたが本を買うことはこの国の作家を殺すことに手を貸すことです」っちゅうパンフレットをつくって玄関の前で配るでしょう。

日本では「ブックオフ」でヘーキで本、買ってるけどな。

そこには「外国のことじゃから」というちょっとだけ冷ややかな気持ちがあるのだす。

「だって日本のひとの考え方がそーなんだから、しょーがねーじゃん」という気持ちがある。

カネは人間を正直にする。

価値がないと思っているものには金を払わん。

だからひとつの社会であっても、その社会が価値がないと思っているものに対しては金は支払われないんだすな。

ある種の健全さが、そこには働いていると思う。

芸術家が社会をどんなに呪っても、何も変わらないのは、つまりは、そーゆーことなのだと思います。

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