Monthly Archives: December 2009

おおつごもり

「キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うなんて」というひとがいるが、そーゆーひとの「西洋」は空想の世界か日本でゆえば昭和初期くらいまでの時代の「西洋」なのでしょう。 そーゆー架空な「欧米」を信じていると曾野綾子になってしまうかも知れぬので注意しなくてはいかむ。 現代の「西洋」のクリスマスは日本でゆえばぴったり「お正月」です。 家族が一同に会して一年を振り返ってお互いの努力をねぎらい来る年の息災を願う。 そんでもって「新年」のほうが日本でのクリスマスに近いのね。 ヘンだのい。 日本のひとも60年代から80年代のような大騒ぎはしなくなったが、まだ名残がある。 若い男は一年貢ぎあげてクリスマスには乾坤一擲、媾合(まぐあい)の勝負に出る、という。 「婚活」という身も蓋もない索漠とした言葉や「東京いい店やれる店」というようなオソロシゲな名前の本がベストセラーになる日本人世界だけのことはあります。 今年も「おおつごもり」がやってきた。 男のひとびと。 きみには、どんな年でしたか。 クビにはならなかったか。 もう「ニコニコ動画」や「2ちゃんねる」のような奴隷世界の娯楽場に出入りしなくてすむようになりましたか。 奥さんの肩をちゃんと揉んであげましたか。 疲れているときでも家事を手伝ったか。 去年よりも少しでもきみのパートナーの社会的地位の向上に寄与しただろうか。 ベッドでも自分勝手なことをしないですんだかね。 女のひとびと。 男たちを傷つけないように別れの言葉を述べることが出来ましたか。 自分を繫いでいる鎖が何であるかしっかり考えたか。 旦那さんの肩を抱いて一緒に失敗を嘆いてあげられましたか。 カウチで並んで座って声を揃えて歌えましたか。 ちゃんと頬をあわせてスローダンスを踊った? ダンスを忘れてはいかんからな。 かけがえのない微笑も。 ガキンチョのひとびと。 宿題は全部やったかね。 跳び箱を一段でも多く跳べるようになった? 天使の絵を今年は上手に描けるようになっただろうか。 世界へ冒険に出る準備は着々とすすんだか。 神様、 今年は少しは人間どものことをおもいだすことがありましたか。 もうそろそろ救済に乗り出してもいいころだと思ってくれただろうか。 今年は秒単位で死んでゆくアフリカのビンボガキどもを見殺しにしたことへのうまい言い訳を思いつきましたか。 戦場で無惨に死んだ若い兵士は、きっと今年もあなたを信じて死んだでしょう。 あなたの知恵は人間を遙かに凌駕するが、しかしそれは「冷たい知恵」なのではないだろうか。 暖かくない叡知をも叡知と呼びうるのでしょうか。 わっしには、とうとう(今年も)あなたのことがわからなかった。 おおつごもりには、わっしは酔っ払ってテラスに出て通りのあちこちから上がる花火を見ている。 … Continue reading

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理解し合う、ということ

言葉によってわかりあえるかもしれない、というのは人間の最大の妄想である。 だって、言葉みたいなもんで理解しあえるわけないじゃん。 「わたしは悲しい」という。 きみが、どんなふうに悲しいのか、わしはわかろうとするが、判ろうと考えた途端にそれがどんなに難しいことか気が付いて呆然としてしまう。 「わたしは身を切られるほど悲しい」という。 「身を切られるほど」という安っぽくウソくさい表現がはいってしまうことによって、わしは今度は完全に閉ざされたドアの前においてけぼりにされる。 「3」というような言葉は良いよな。 これは間違いなく伝達される。 「みっつのリンゴ」は不完全な「3」だが、リンゴというものが「三つある」ということは完全に伝わるでしょう。 わしの先生は人間がふたり抱き合って寄り添っていても「不完全な『2』に見える」とゆって、わしらを笑わせたが、いま考えてみると先生はマジメだったのです。 ふざけていたのではないのだな。 言葉には「一般化」という機能もある。 「ニュージーランド人はアホである」という。 「連合王国人は皮肉屋である」という。 「合衆国人は英語がちゃんと話せない」という。 どれもほんとうだが、一方ではちゃんと、わしのようにカシコイ(ほんとよ)ニュージーランド人もいれば、かーちゃんのように「皮肉」というものを嫌う連合王国人もおる。 合衆国人でまともな英語を話す人間、というのは見たことがないが、大きな街に行って探してみればきっと、英語が話せるアメリカ人だってどこかにはいるに違いない。 最大公約数や最小公倍数を見積もりながら、一般性があんまり途方もない広がりをもたないように気を付けて話す。 うまく意味が伝わりだすと、そーゆーことは誰の人生でも滅多に起こらないことなので、われわれはすっかり嬉しくなってしまう。 旅先で見知らぬ人なのにメールアドレスや住所を交換してしまったりします。 人間は自分の感情や考えていることを他人に伝えるためにさまざまな方法を編み出した。 「詩」というものは、言語が本来成立したときから持っている「音」の組み合わせで伝えたい感情や思想を誤差のない精確さで他人の頭にたたきこむことが出来る点ですぐれている。 たとえばT.S. エリオットの詩を読んで「ひとりひとり違う感じ方がある」というようなマヌケなことを考える人はいないでしょう。 「荒地」のような詩は、初めから詩人、というよりは詩人が紙のうえに書いた言葉が他者によって誤解されることを拒絶している。 それがディラン・トマスのような詩人になると、実は感情や思考を生み出しているのは「言葉」のほうであって、詩人はそれが暴走しないように肉体器官としての大脳を「ある状態」に保っているだけです。 詩はだから読み手による幅のある解釈を拒絶して、詩人の頭に生じた言語の力をそのまま読者の頭に移植してしまう。いわば「翻訳」を許さない言語的方法なのだと思います。 詩には、しかし、よく知られた欠点がある。 詩的回路を書き手と読み手のあいだにつなぐのに、両方にたいへんな「訓練」が必要なことです。 わしらの国では多少でもカシコイとみなされたガキどもには、言葉の歴史を逆にたどっていって、最後はホメロスやなんかにまで連れ戻して、そもそも自分たちの「感情」がどこからやってきたか説明するためのクラスを受けさせられる。 これを「言語の主人になるためのクラス」だとかゆーな。 わしはサンスーにしか興味がないクソガキだったので、このクラスは眠くて眠くてたまらんクラスであったが、いま思うともうちょっとマジメにクソ教師のいうことを聞いておけばよかった。 そうすれば、もう少し「言語」というものに習熟できたかもしれません。 訓練は、そーゆー歴史的な知識から始まって、「観念の閾値を高める」ことに至る。 観念の絶壁をよじのぼっていって、その頂きに到達してやっと詩人たちが呼ぶ声が聞こえるのです。 たまらんよな。 めんどくさくて。 そんなことやってられるかよ。 わたしはいそがしーんです。 明日までに片付けないとならん書類があるし、 … Continue reading

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クリスマス・ホリデイ

中国人の若い女たちがクルマの窓を開けて痰を吐いている。 マオリの女たちが、それを睨んでいる。 中国人の女のひとりが顔をあげるとマオリの女の子が指を立てた。 クリスマスは一年中でいちばん喧嘩が多いシーズンです。 家庭内暴力も25日にピークになる。 招待する親戚を選んでプレゼントを選んで、という神経を使う選択の積み重ねがそうさせるのでしょう。 みな神経を苛立たせて、刺々しくなる。 昼ご飯を食べに寄ったカイクーラのレストランで日本人のカップルが昼食を摂っておる。 カイクーラは「鯨の町」です。 鯨を「自分たちの友人」と感じるニュージーランド人のなかでも、とりわけ、カイクーラ人たちは鯨をほとんど兄弟か親類のように感じておる。 モニとわっしはテーブルについてしばらくしてから、ずっと、この日本人カップルを睨みつけている若い男の4人組に気が付いておった。 「おい、あいつら日本人だぜ」とゆっておる。 「どうして鯨殺しのやつらが、この町にいるのかな」 どうやら日本人のカップルは英語がわからないらしい。 ハネムーンでもあるのでしょう。 どんどん険悪になってゆく隣のテーブルの4人に気が付きもせずに、談笑しています。 だんだん声を上げて日本人を罵っていたかと思ったら、とうとうひとりが立ち上がってカップルのテーブルを手のひらで叩いて罵りはじめてしもうた。 あたりまえだがふたりの日本人は恐怖に怯えた表情です。 あにゃあ、なんとかゆわんと仕方がない、とわっしが考えだしたところで、モニのよく通る声が「メリー・クリスマス」とゆった。 モニが、見つめられると誰でも逃げ出したくなる怒ったときの怖い眼で4人組を見据えながら、もう一回「メリー・クリスマス」という。 それはとてもよい考えだと気が付いたので、わっしも一緒になって4人組に「メリー・クリスマス」といいます。 反対側に座っていた中年夫婦の奥さんも大きい声で4人組に向かって「メリー・クリスマス」とゆった。 「でも鯨たちは…」となおもいいかけるひとりの腕をつかんで4人は連れだって出ていった。 オークランドに帰ってきました。 わっしは、この出来が悪くて汚ならしいマヌケな建物ばかりの街に6週間ほどいるであろう。 わっしは、いろいろな人種といろいろな文化集団が混ざり合って住んでいて、お互いに喧嘩ばかりしているこの街が好きだからです。 モニもわしも珍しく早く起きたのでタウポから大雨のなかをクルマを飛ばして帰ってきた。 ハイウェイワンを通らずにワイカトのオールドタウポロードを通って帰りました。 驟雨の中でも歴然と美しいワイカトの農場にモニが目を瞠っておる。 (ハミルトンでサブウエイサンドイッチの朝ご飯を食べた) (駐車場のクルマに戻ると酔ったマオリのおっさんがボンネットにもたれかかっていて、「おれに近寄るな」という。「でも、これわしのくるまなんだよ」と言うと、哲学者のように、うなずきながら立ち去って行った) 午後にならないうちにオークランド市内に着いた。 「高級」レストランやパブがなんの脈絡もなく立ち並んで「繁栄する廃墟」のような大通りをのぼって道を折れてモニとわしの家のある通りにはいると、突然静かになります。並木道の両側で静まりかえる城塞のような家々。 まるで世の中の醜さという醜さを頑なに拒絶しているかのようである。 顔見知りの近所のおっさんがヘッジを刈っていたので、わっしはクルマを寄せて挨拶する。 「やあ、ガメ。元気かね。 きみがいないあいだに月が直径16センチも大きくなったのをきみは知っておったか? 氷山たちがわれわれの国に向かってやってくるそうだ。 街には中国人が増えた。 日本人たちが今年も鯨を殺しにわれわれの海にやってきた。 … Continue reading

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Merry Christmas!

Hope you had a good year this year. Let’s wish that this coming year is a peaceful and happy one. Be kind to yourself in 2010. A very Merry Christmas to you all!

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女だてらに

妹は、美人である。 実の兄弟がそんなことゆーか、ふつー、ときみは言うであろう。 言うのよ。 だって、ほんとうに美人だからな。 もちろん英語やなんかでは妹が読めてしまうので、こんな恐ろしいことは書かないが、 妹は欧州語には堪能であって、わっしのスペイン語のハチオンとかを腹を抱えて笑う、というとんでもないやつだが、日本語は「どうも」と「こんにちわ」と「バカ」くらいしかしらん。最後の単語は、妹が失礼な目にあったときのために、わしが教えてしんぜた。 だから、ヘーキで書いちゃうのね。 妹は、とっても美人なんです。 具体的な描写は控えるが。 むかしから男ガキどもには吾が妹に恋い焦がれる、という無益で殺生な感情に身を焼く者が多かった。お手紙を書いたり、電話してみたり、言い寄ってみたり。 ベンキョーも出来なくなって、スポーツをしなくなって、そのうちにものもようゆわんようになって、食べ物も喉を通らず、長いすにデカイ身体を縮めて頭を抱えていたりする。 「恋の病」という奴であるな。 あれはたいへん生産性が下がるよーだ。 死屍累々であったな。気の毒に。 わしに助け舟を求める根性のない奴もいくらもおった。 どうすればいいか、教えてください、という。 わっしは、そーゆーとき、おもむろに、「汝の右手になぐさめを求めよ」とゆうのを常とした。 ときどきは左手さんと浮気をしても神様はきっと許してくださるであろう。 神の御心は深く広いからな。 ただし、お右手さんにお願いするおり(あるいは日陰者の左手さん相手の場合であっても)に妹を思い浮かべたら殺す、と重々しく付け加えるのを常としておった。 兄として、とーぜんです。 妹という奴は、変態なので、男よりもムシさん、とか、ドーブツ、とか、 カガク、みたいなものが好きなもののよーであった。 夏の午後、よく裏庭のハンモックに横になって図鑑にみいっていた妹をなつかしく思い出す。 わっしがいつか、そーゆーことでは正常ではないであろう、と思って、親切にコロンボ通りの古本屋で買ってきた「プレイガール」という、ぱっと開けると金髪の逞しいにーちゃんがチ○チンを水にぷかぷかさせている、っちゅうような見開きのある雑誌をあげたら平手打ちをくらいました。 わっしは18歳だったがの。 生まれて初めて女の子の平手打ち、という必殺兵器を経験したのであった。 いてーんだよ、あれ。 テレビとかで見て想像するより、ずっと痛いんです。 それからは、妹に干渉するのはやめました。 なにしろ、まる一日、ほっぺに手形がついておったからな。 なんの話をしようとしてたんだっけ? 中庭に昼飯のサンドイッチを食べに行っていたら忘れちった。 おおそうだ、女のひとびと、ということについて話をしようとしていたのであった。 世界でいちばん最悪の選択はニュージーランド人の女と結婚することである、という。 ジョーダンで言うんだけどね。 ニュージーランドは女のひとがつおいんでユーメイなんです。 マジで強い。 会社とかに行くでしょう? えらいひとは、たいてい女ですから。 … Continue reading

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女だてらに

妹は、美人である。 実の兄弟がそんなことゆーか、ふつー、ときみは言うであろう。 言うのよ。 だって、ほんとうに美人だからな。 もちろん英語やなんかでは妹が読めてしまうので、こんな恐ろしいことは書かないが、 妹は欧州語には堪能であって、わっしのスペイン語のハチオンとかを腹を抱えて笑う、というとんでもないやつだが、日本語は「どうも」と「こんにちわ」と「バカ」くらいしかしらん。最後の単語は、妹が失礼な目にあったときのために、わしが教えてしんぜた。 だから、ヘーキで書いちゃうのね。 妹は、とっても美人なんです。 具体的な描写は控えるが。 むかしから男ガキどもには吾が妹に恋い焦がれる、という無益で殺生な感情に身を焼く者が多かった。お手紙を書いたり、電話してみたり、言い寄ってみたり。 ベンキョーも出来なくなって、スポーツをしなくなって、そのうちにものもようゆわんようになって、食べ物も喉を通らず、長いすにデカイ身体を縮めて頭を抱えていたりする。 「恋の病」という奴であるな。 あれはたいへん生産性が下がるよーだ。 死屍累々であったな。気の毒に。 わしに助け舟を求める根性のない奴もいくらもおった。 どうすればいいか、教えてください、という。 わっしは、そーゆーとき、おもむろに、「汝の右手になぐさめを求めよ」とゆうのを常とした。 ときどきは左手さんと浮気をしても神様はきっと許してくださるであろう。 神の御心は深く広いからな。 ただし、お右手さんにお願いするおり(あるいは日陰者の左手さん相手の場合であっても)に妹を思い浮かべたら殺す、と重々しく付け加えるのを常としておった。 兄として、とーぜんです。 妹という奴は、変態なので、男よりもムシさん、とか、ドーブツ、とか、 カガク、みたいなものが好きなもののよーであった。 夏の午後、よく裏庭のハンモックに横になって図鑑にみいっていた妹をなつかしく思い出す。 わっしがいつか、そーゆーことでは正常ではないであろう、と思って、親切にコロンボ通りの古本屋で買ってきた「プレイガール」という、ぱっと開けると金髪の逞しいにーちゃんがチ○チンを水にぷかぷかさせている、っちゅうような見開きのある雑誌をあげたら平手打ちをくらいました。 わっしは18歳だったがの。 生まれて初めて女の子の平手打ち、という必殺兵器を経験したのであった。 いてーんだよ、あれ。 テレビとかで見て想像するより、ずっと痛いんです。 それからは、妹に干渉するのはやめました。 なにしろ、まる一日、ほっぺに手形がついておったからな。 なんの話をしようとしてたんだっけ? 中庭に昼飯のサンドイッチを食べに行っていたら忘れちった。 おおそうだ、女のひとびと、ということについて話をしようとしていたのであった。 世界でいちばん最悪の選択はニュージーランド人の女と結婚することである、という。 ジョーダンで言うんだけどね。 ニュージーランドは女のひとがつおいんでユーメイなんです。 マジで強い。 会社とかに行くでしょう? えらいひとは、たいてい女ですから。 … Continue reading

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ご返信なんだぞ

12月22日分どす。 jackorangutanさん、 >サイゼリヤではフォッカチオと呼ばれる。 あっ、わし「サイゼリヤ」、行ったことあるな。江ノ島の奴。 あそこはむかしむかしわしがガキンチョであった頃には「スエヒロ」だったのよね。 16年、も前のことになるのか、うーむ。 その年はいまはもうなくなったロンドン->成田->ホノルル->オークランドっちゅう訳のわかんねえ路線のエアニュージーランド便に乗っかって家族で移動したのでした。 なんちゅうアホな一家じゃ。 >fireが私にはファイエルに聞こえたので教科書にフリガナをつけたらファイアーだと訂正された ファヤファイエルファイヤー。うーん。どれもfireに聞こえねーだな。 わっしは英語をわざとスペイン語読みにしてみんなにとっても嫌がられます。 houseはオウゼ、cupはクプ、だからな。 英語の綴りがいかにヘンタイかわかりますのい。 しかし、なんかいもしつこく言うので、このあいだboseのスピーカーを「ボセ」とゆっておったな。布教の勝利、だと思いました。 kochasaengさん、 >「スクワッシ」 スクワッシって、なんかウルトラマンみたいだな。カタカナ、わかんねーだよ全然。 漢字はオモロイからおぼえて満足感、というものがあるがカタカナはねーしな。 サッカー、とか、論外であるとして、レモン・スカッシュ、っちゆわれても、レモンがどうなったか見当がつかねえだ。 カタカナ大嫌い。 メールの返事ちょびちょび書いてたら、また最後に「返事はいりません」っち書いてあった。一生懸命書いたんだから、「いらない」っちゆわれても出すから、覚悟してまっておれ。っちゅうか、待っててくらはい。 bublikiさん、 >この人のアフォリズムがバイブルなの。 筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし、 のひとだのい。樋口一葉との交情が泣かせます。 やさしい奴だったんだろうか。 緑雨、ヘンな奴だな。 じゅん爺、 >爺は天保老人ならぬ昭和老人となって、老残の日々を過ごすのじゃ 老残の日々、なんちてはいかんだろ。わしの大叔父は76歳(多分)だが、ますますケーハクになって、毎年とんでもねえーアブナイところへ旅行へ行きます。 「トシヨリにはこわいものはない」という。 あそこまでいってしまうのは問題だが、けっこう、楽しいみたいよ。 気の持ちよう、だろ、きっと。 じゅん爺がさびしいことをいうから暗い記事を書いてしまったではないか。 12月23日分は、ここからだす。 tarolyさん、 >理屈じゃなく生理的に嫌なものが残りました。 英語でも「生理的」に嫌、というひとが多いが、それはひょっとすると、中国だけが根本的に独自な文明をもっていることの証拠かもしれませんのい。 オモロイひとたちですじゃ。 わっしは、自分が登場するのに自分で拍手しながら、にこやかに笑ってクビを左右に振る、っちゅうのをマネして、よく友達にいやがられます。 … Continue reading

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