真珠湾

(内容がくだらんのでいちど削除したが、さっき見たら kochasaengさんが無理矢理12月6日のところにコメントをつけていたので復活させておきます。

kochasaengさんのコメント参照用ですのい。他の目的では読まんでよろぴい)

「面白いビデオを見せてあげよう」と義理叔父が言うので、わっしは義理叔父の家の居間のカウチに腰掛けて、ひゅるるるーんと降りてくるスクリーンを眺めておった。

義理叔父はいいとしこいてオタクなので、200インチの巻き取り式スクリーンとプロジェクタで映画を観る。ストリートファイター4も、この画面でやるもののよーだ。

オタクひゃくまでキック忘れず。

「ありー?あれはVHSでなくてベータだったかなあー」という義理叔父の独り言。

そのうちに、おおあったあったという声がします。

それは多分ラスベガスの劇場であって、ふたりの日本人コメディアンが舞台にたってます。肥ってる方は見憶えがあるのい。

しばらく、さっぱりわからない英語で跳んだり跳ねたりするが観客は、ちっとも反応しません。笑わないのではなくて、呆れている、のだな。

「あの髪が長いほうは武田鉄矢、もうひとりは西田敏行、と言って、日本では有名なコメディアンなんだけどね」と義理叔父。

「ここからが面白いのさ」

舞台上のふたりは、なにを思ったか「リメンバー・パールハーバー! リメンバー・パールハーバー! リメンバー・パールハーバー!」と叫びだした。

仕方なしに何人かの観客が笑うところがカメラに映っておる。

笑いでもしないことには、いたたまれないからでしょう。

いったい、どうすれば、この苦痛に耐えられるか、とそわそわしだした観客の反応を誤解したのに違いない。

このふたりは、その後ずっと「 リメンバー・パールハーバー! リメンバー・パールハーバー! リメンバー・パールハーバー!」と叫んでおった。

わっしは、ひどくもの哀しい気分になりました。

1941年12月8日未明。

西太平洋における防衛決戦用にデザインされた極端に航続距離が短い艦船からなる日本帝国連合艦隊は荒天の北太平洋で給油する、という無茶をして、オアフ島の真珠湾に殺到します。

日本のひとは、そこを誤解するので奇妙な「陰謀説」を嬉々として取り上げて解説するが、よく考えてみればわかる。真珠湾攻撃を陰謀として惹起させるほどのリスクをおかす理由がF・ルーズベルトには何もなかった。

実際には、当時は先進国とは到底呼び得ない畸形な軍事大国であった日本が、まさか、(自分の方から追い込む前の段階で)そんな自爆行為に及ぶとは思っていなかった、というだけのことです。

戦後、責任を追及された合衆国将官の何人もが口にした「人間を神様と崇めるような未開な国の人間がハワイを空襲するなんて、空想するだけでも頭がおかしい」という言葉がすべてを物語っている。

日本人は、あらかじめスパイから日曜はほとんど警戒を解いているのを聞いて日曜日を攻撃日に選んだ。

海軍はもともと宣戦布告なしの攻撃、ということをことさら卑怯と感じる兵科ではないが、天皇の強い意志によって宣戦布告後に行われるはずだった攻撃は、しかし、宣戦布告の遙かあとに行われた。

戦後外務省は必死に糊塗しようと本の出版などえを通して工作しましたが、いまでは宣戦布告書が来るのがわかっていたにも関わらず徹夜麻雀に疲れて誰も大使館に出勤してこなかったせいであるのがわかっている。日本側でも郵便ポストに突っ込まれた宣戦布告書を見つけた実松謙は、そのときの絶望感と外交官の信じがたい不真面目さへの憤りをあちこちで証言しています。

文字通り不意打ちをくらったアメリカ太平洋艦隊は、雷撃と、自分たちが発明した「急降下爆撃」によって戦艦5隻が沈没することになる。

奇襲攻撃の成功を見た幕僚は二波からなる第一次攻撃に続いて第二次攻撃を企画しますが、古流武術の宗家であった第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介は「剣術の極意」をもちだして、「一撃、風のように去るのがよい」と言って速やかに退避してしまう。

連合艦隊司令長官であった山本五十六は、その退避報告に顔をくもらせた、といいますが、特に合衆国側では「謎」「理由の判らない僥倖」とされる退避に対してひと言も意義を唱えない。

南雲忠一と草鹿コンビの戦術的には選択肢として有り得ても戦略的にはバカげた決断を聞いた瞬間に山本五十六は戦争全体の「負け」を覚悟したという。

真珠湾攻撃のこの部分を読んだひとはみな、なぜ山本五十六がこのとき何も言わなかったかいぶかしみますが、同じ長岡人の半藤一利は「長岡人だからだ」とゆっておる。

山本五十六の「わからんやつには何を言ってもわからんさ」という口癖を引き合いに出す大井篤のようなひともいます。

いまの世界での「日本人は卑怯な臆病者だ」という評価は、主に、このたった一日の攻撃に拠っている。少なくとも合衆国人が「卑劣な日本人」を思い浮かべるとき、背景のなかでいちばんくっきりしているのは「真珠湾」という名前でしょう。

アカマイの社長たちを乗せた旅客機が世界貿易センタービルに突っ込んだとき、合衆国人たちは口々に「これは第二の真珠湾だ」とゆっておった。

卑怯な騙し討ち、卑劣な意図、非人間的な不意打ち、そーゆー表現と一緒に「真珠湾」がみなの口にのぼった。

合衆国人がそもそも太平洋戦争を「互角の戦争」と思っていなかったことが、わかります。

そ。

合衆国人にとってイラクやアフガニスタンに派兵することとガダルカナルやサイパンや沖縄に派兵することは本質的に変わらないことであった。

日本側の「騙し討ち」で始まった「グッド・ウォー」は二発の原爆で終わりを告げるが、

この真珠湾で「卑劣な民族」のでかい看板をしょった日本人たちは、その看板を下ろすことを許されなくなってしまった。

「調査捕鯨」のようなインチキを始める前ですら、日本が捕鯨の正当性を主張するときとノルウェー人が捕鯨が少数民族の生存に不可欠であることを主張するときでは、少なくとも合衆国では明らかに聴いている学生たちの態度が違っているのに、わっしは気付いたことがありましたが、その違いは決して「人種」などから来たものではない。

あの合衆国人学生たちの前頭葉には「真珠湾」という言葉の影がさしていたのだと、わっしは思います。

くだくだしい説明をするのが嫌なので、なぜそうなったかは、そのうちに書くことにして、合衆国は最後の「良い戦争」のお陰で、ほとんど国家の再統一に成功する、というほどの充実した時代を迎える。

一方の日本は、卑怯で臆病な「強い者に尻尾をふる国」として、いまに至るまで印象されている。この印象は当然アジアでの「弱い者を徹底的にいたぶる国」としての日本とセットになっている。

日本が戦後あれほど渇望した「他国からの敬意」がかけらすら得られなかったのは、少なくとも合衆国人にとっては、結局は「真珠湾の記憶」がすべてなのかもしれません。

日本のひとが考えるよりも、真珠湾という言葉はアメリカ人が日本のことを考えるときには棘のように思考に突き刺さっていて、いまだに強い影響をもっている。

日本についてのすべての否定的なイメージが元をたぐれば「真珠湾攻撃」というパンドラの箱から飛び出したということは考えてみると不思議な感じがするほどのことで、「国」というようなものは、ある場合には一瞬の行動で歴史を通じてイメージが決定されてしまう、という良い教訓である。

たった一度の「失敗した奇妙な思いつき」のせいで、日本人は1923年までに築いた「近代国家」としての信頼をすべて失ってしまった。

そして日本のひと自身は気付かないことだが、日本人はいまだにその失われた信頼を取り戻せないで苦闘している。

日本のひとたちが自分たちに向けられたむごいほどの誤解がどこから来たかわからずに苦しむとき、その背景にはいつも「真珠湾」がある、といってもよいかもしれません。

スクリーンのなかのふたりのコメディアンは気が付かないが、いまや、このふたりは合衆国人の心の奥深くに「真珠湾」という言葉とともに眠っている日本人に対する「へつらいのためなら何でもする」感じや「卑劣でプライドがない」感じを揺り起こしてしまっています。

幕が上がったときには、ニコニコして日本からやってきたコメディアンのふたりぐみを歓迎していた合衆国人たちは、いまは「自分は日本人がもともと嫌いであったことを、やっと思い出した」とでも言うように険悪な顔で、ひとり、ふたり、と席を立ってゆく。

わっしが「もう、やめませんか」とゆおうと思って振り向いたら、義理叔父が涙を浮かべているのに気が付いた。

妙に疲れた調子で「日本人は、たいへんなんだよ」と呟いたのが印象に残りました。

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One Response to 真珠湾

  1. bystander says:

    軍人だけで戦争はできず、国民と官僚をまとめる政治家が必要であり、1937年から1941年の戦争前夜の時期において首相を務めたのが近衛文麿です。近衛文麿は最高位の公家出身の貴公子であり長身で革新貴族と言われて国民に圧倒的に人気があった。近衛は支那事変の際に「蒋介石を相手にせず」と言って早々に和平交渉を打ち切り、そして「東亜新秩序」を唱えて大東亜共栄圏を提唱し、国内では「大政翼賛会」という挙国体制を作り、日独伊三国同盟を締結して、南仏印進駐を行い、その結果、米国から石油を止められると驚いて、ルーズベルト大統領との首脳会談を申し入れて、断られると、「戦争には自信がない」とさっさと辞任してしまう無責任さを持っていた。そして、戦後は戦争責任を全部、東條英機と軍部内の「共産主義者」に押し付けて戦後政治にも復活をしようと図る厚顔さも持っていたが、戦犯に指名されると自殺してしまった。昭和天皇は1940年9月の日独伊三国同盟締結時に「近衛はああ引っ掻き回して、少し面倒になるとまた逃げ出すようでは困る。こうなったら、近衛は真に苦楽を共にしてくれなくてはならぬ。」と言ったそうだ。元老の西園寺公望は最初は近衛文麿に期待して第一次近衛内閣の時に首相に推薦したが、第二次近衛内閣時は推薦しなかった。西園寺公望は日独伊三国同盟締結を知って「日本をどこにつれていくつもりだ。」と言い、女中達に「かわいそうに、これでお前達は畳の上で死ねなくなった。」と言ったそうだ。それから二ヵ月後に死んだ。山本五十六は米国との戦争の危険を知っていたから日独伊三国同盟に反対した。「もし米国と戦争したら東京が3回ほど丸焼けになって日本が負けて、近衛の旦那なんか国民に八つ裂きにされてしまう」と言ったとも言われる。孫の細川元首相も近衛文麿に良く似ていて、国民に人気があったが、突拍子も無いことを思いついたり、嫌気がさすとすぐに引退してしましった。細川元首相の時代は日本が平和な時代であったから日本に害をもたらすことはなかった。ヒットラーが信用できないのは、防共協定を結んでいた日本軍が1939年夏にソ連とノモンハンで死闘をしている間に独ソ不可侵条約を結んだことから容易に想到できたはずである。ヒットラーは1939年9月にこの独ソ不可侵条約の秘密条項に基づいてポーランドに侵攻してソ連と共に分割して第二次大戦が開始された。米英は犬猿の仲のヒットラーとスターリンが一時的に手を結んでも独ソ間で戦争が始まることを予想し、1940年末頃までにはドイツがソ連を侵攻することはわかっていたそうである。ヒットラーは訪独した松岡洋右に対してソ連侵攻を隠していた。松岡洋右はドイツからの帰路にソ連に立ち寄り1941年4月に日ソ不可侵条約を結ぶ。その2ヶ月後の1941年6月にドイツはソ連に侵攻して松岡洋右が描いていた日独伊ソ連の同盟の計画は潰れた。当時の条約は破るために存在したと言われればそれまでだが、近衛文麿と松岡洋介のコンビによる日本外交の失態はひどく日本を敗戦に導いた責任は重い。ヒットラーの初めの戦果に酔いバスに乗り遅れるなと欲に目がくらんでいたから、ヒットラーの危うさに気づかなかったのか。近衛文麿は、第一次大戦終了時に「英米本意の平和を排する」という論文を出しているが、帝国主義戦争を終わらせようとした第一次大戦後の国際体制に不満であったのであろうか、彼は英米の自由主義的思想よりもナチスドイツのファシズムに惹かれていたのであろうか、でも、長男をドイツではなく米国に留学させている。近衛文麿が放り出した後で、また、独ソ開戦によりドイツの敗戦が想定できた後に日米開戦をするというのは可笑しいが、いったん決めた後は変更できないのは今でも50年前のダムの計画を中止するのが大変なのと同じです。明治、大正、昭和と約80年弱続いた「天皇の世紀」は、天皇の軍隊「皇軍」と言われた帝国陸海軍と天皇を守る貴族制度の最高位の公家らの愚行の結果により終焉したことは、歴史の皮肉だ。

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