アブドルラフマンの戦い

新橋はとても日本的な街です。

わっしは結構好きだのい。

サラリーマンのおっちゃんたちが不機嫌そーな顔で背をまるめて歩いてゆく。

高額宝くじがうりだされるときにはサラリーマンおっちゃんたちの長い列が出来る。

街中のあちこちにある「金券ショップ」には少しでもチケットを安く買いたいおっちゃんや歳暮中元の金券を少しでも高く売りたいおっちゃんたちで、よくひとだかりが出来ている。

わっしは、その午後は、デカイとんかつを食べたので広尾まで歩いて帰ろうと考えた。

芝三田麻布十番と通れば、案外すぐに着きます。

わっしはよく歩いて帰る。

道を渡ろうとして、ふと二階をみあげたら「インドネシア・ラヤ」という看板があった、という、この記事は本来ただそれだけの記事なのです。

「インドネシア・ラヤ」という言葉が眼にはいった途端に、わっしの眼は自動的に曇ってきてしまう。あほらしいことに真っ昼間の道のまんなかに立って泣いておるのだな。

しかも、もう半世紀以上もむかしのことを考えて泣いておる。

われながらアホであるとゆわねばならない。

1942年1月11日、今村均中将に率いられた日本軍は五万五千の兵力でインドネシア諸島に上陸します。インドネシアは、この頃は、苛酷な植民地支配で知られたオランダ領だのい。インドネシア人たちは、だっさーい軍服の日本人たちを歓呼して迎えます。

自分たちと同じ肌の色の人間がヨーロッパ人の軛からわれわれを解放しにきたのだ。

しかも、インドネシア人たちが自分たちの耳を疑ったことには、日本軍が進軍しながら奏でているのは、オランダ人があれほど忌み嫌って禁圧したインドネシアの自由と独立の歌、「インドネシア・ラヤ」であった。

日本人の歌手が、しかし、まごうかたないインドネシア人の自由独立の象徴を歌っている。

結局、バンドン要塞を陥落させた日本軍は、ジャワ島の制圧を最後にオランダ軍をインドネシアから駆逐してしまう。

インドネシア人の日本「解放軍」への熱狂的歓迎と大歓呼は、さまざまな本に描かれている。

いざ日本軍の占領統治が始まってみると、南京や香港、上海、とりわけシンガポールから流れてくる悪い噂とはまったく異なって、日本軍は統治が上手であった。

なにが起こるかと緊張していたオランダ系市民でさえ、夕方の通りのカフェでくつろいで談笑することが出来た、と言います。

当時、20代であった市来竜夫は、「八紘一宇」の理想が現出したかのようなバンドンの光景を見て胸を躍らせた。

インドネシア人も日本人も華僑も、いまやオランダ人ですら、日本統治下で力をあわせて働いている。とりわけインドネシア人たちの表情の明るさは、市来の見たことがないようなものであった、という。

この市来青年を感動させた「王道楽土」的な日本軍統治は、しかし、1942年11月に突然暗転する。

カフェは突然閉鎖され、夜間の外出は唐突に禁じられ、さまざまな会社の事務所にあまり理由もなく「手入れ」がされるようになる。華僑がたいした根拠もなく処刑された、という噂が流れだし、やがてオランダ人の若い女たちが連れ去られて強姦されるようになる。

わっしは彼等から見れば「未来」にいて、振り返って調べることが出来るので何があったかわかっている。

今村均の軍政は、日本軍が占領した他地域とは正反対にたいへんな生産性の向上を示しますが、「今村の占領地では現地人や敵性国人までもが歯をみせて笑っているのは許し難い」という「大部分の軍人」の非難に直面する。

その「軟弱な姿勢」を問われて転任を余儀なくされてしまう。

とりわけノモンハンを企画して大量の兵士を犬死にさせシンガポールでは華僑を大量に処刑して「豪傑」の名を欲しいままにした辻政信たちの意志が強く働いたようです。

様変わりした軍政にショックを受けた市来たち一群の若い「八紘一宇」「アジアの解放」の信奉者たちは、やがて日本人たちを避けて暮らすようになる。

あいだは長くなるのでブログ記事のようなものには適当ではない。

全部端折ってしまおう。

やがて日本人たちの戦争が終わり、オランダ人たちがもどってくると、

今度は一度は今村均によって「自由」の味をしめたインドネシア人たちの戦争が始まります。

しかし、どうやって?

インドネシア人たちと言えばただ頭を低くして欧州人たちに命令されるだけの存在で、武器の扱いも軍隊の成り立ちと機能も、皆目わからない人間ばかりである。

しばらくインドネシア人たちは混乱に陥りますが、その頃、一冊の本が出回りだした。

その本は、どうやって戦争をするか、という言わばマニュアルであって、いまの時代を生きているわっしらはみな、そのマニュアルの正体を知っている。

市来龍夫がインドネシア語に訳した「歩兵操典」だったのです。

マニュアルだけではない。

アブドルラフマンと名前を変えた市来龍夫をはじめ、日本への帰国を拒否した元日本兵2000名が独立戦争に参加すべく、集まってきたのでした。

そうして、彼等元日本兵の激闘は、いまでもインドネシアの伝説になっている。

実に半数以上が戦死傷(軍隊では3割の損耗を「全滅」と呼びます)した日本人たちに混じって、アブドルラフマンもまたオランダ軍の銃弾に倒れる。

初めは希望と理想に燃えた一民間人としてジャワにやってきた市来龍夫は、アブドルラフマンという名前の独立軍大隊長として戦死します。

アブドルラフマン、すなわち市来龍夫は生前たったひとつの歌しか歌えなかった、という。

それは日本軍のジャワ攻略に際して彼が日本軍に提案してレコードをつくったあの歌「インドネシア・ラヤ」でした。

オランダ軍の銃弾が彼を即死させる直前も、市来がこの歌を歌っていたことを、もうひとりの大隊長ブオエディマアン、実はやはり日本人で日本名を高井受一というひとが証言しています。

祖国に裏切られ、自分のもっていたあらゆる理想を他国の土地に賭けて戦った日本人市来龍夫がただひとつ愛唱したこの歌「インドネシア・ラヤ」は、

言うまでもない、いまのインドネシアの国歌である。

12月8日の記事、「真珠湾」を書いたあと、わっしはうまく書けなかったので記事を削除したが、それは、多分、このアブドルラフマンのような、戦後、アジアの各地に残ってアジアの自由と独立のために勇敢に戦った何万人という数の若い日本人たちの存在の記憶によっている。

彼等は一様に祖国に利用され裏切られて絶望したが、しかし、自分たちの理想にしたがって戦って、そのうちの多くの者はアジアの他国で戦死しました。

それを歴史的にどう評価すべきなのか、わっしには到底わかりはしないが、

忘れないうちに、ここに書きとめておこうと思います。

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