Daily Archives: December 29, 2009

理解し合う、ということ

言葉によってわかりあえるかもしれない、というのは人間の最大の妄想である。 だって、言葉みたいなもんで理解しあえるわけないじゃん。 「わたしは悲しい」という。 きみが、どんなふうに悲しいのか、わしはわかろうとするが、判ろうと考えた途端にそれがどんなに難しいことか気が付いて呆然としてしまう。 「わたしは身を切られるほど悲しい」という。 「身を切られるほど」という安っぽくウソくさい表現がはいってしまうことによって、わしは今度は完全に閉ざされたドアの前においてけぼりにされる。 「3」というような言葉は良いよな。 これは間違いなく伝達される。 「みっつのリンゴ」は不完全な「3」だが、リンゴというものが「三つある」ということは完全に伝わるでしょう。 わしの先生は人間がふたり抱き合って寄り添っていても「不完全な『2』に見える」とゆって、わしらを笑わせたが、いま考えてみると先生はマジメだったのです。 ふざけていたのではないのだな。 言葉には「一般化」という機能もある。 「ニュージーランド人はアホである」という。 「連合王国人は皮肉屋である」という。 「合衆国人は英語がちゃんと話せない」という。 どれもほんとうだが、一方ではちゃんと、わしのようにカシコイ(ほんとよ)ニュージーランド人もいれば、かーちゃんのように「皮肉」というものを嫌う連合王国人もおる。 合衆国人でまともな英語を話す人間、というのは見たことがないが、大きな街に行って探してみればきっと、英語が話せるアメリカ人だってどこかにはいるに違いない。 最大公約数や最小公倍数を見積もりながら、一般性があんまり途方もない広がりをもたないように気を付けて話す。 うまく意味が伝わりだすと、そーゆーことは誰の人生でも滅多に起こらないことなので、われわれはすっかり嬉しくなってしまう。 旅先で見知らぬ人なのにメールアドレスや住所を交換してしまったりします。 人間は自分の感情や考えていることを他人に伝えるためにさまざまな方法を編み出した。 「詩」というものは、言語が本来成立したときから持っている「音」の組み合わせで伝えたい感情や思想を誤差のない精確さで他人の頭にたたきこむことが出来る点ですぐれている。 たとえばT.S. エリオットの詩を読んで「ひとりひとり違う感じ方がある」というようなマヌケなことを考える人はいないでしょう。 「荒地」のような詩は、初めから詩人、というよりは詩人が紙のうえに書いた言葉が他者によって誤解されることを拒絶している。 それがディラン・トマスのような詩人になると、実は感情や思考を生み出しているのは「言葉」のほうであって、詩人はそれが暴走しないように肉体器官としての大脳を「ある状態」に保っているだけです。 詩はだから読み手による幅のある解釈を拒絶して、詩人の頭に生じた言語の力をそのまま読者の頭に移植してしまう。いわば「翻訳」を許さない言語的方法なのだと思います。 詩には、しかし、よく知られた欠点がある。 詩的回路を書き手と読み手のあいだにつなぐのに、両方にたいへんな「訓練」が必要なことです。 わしらの国では多少でもカシコイとみなされたガキどもには、言葉の歴史を逆にたどっていって、最後はホメロスやなんかにまで連れ戻して、そもそも自分たちの「感情」がどこからやってきたか説明するためのクラスを受けさせられる。 これを「言語の主人になるためのクラス」だとかゆーな。 わしはサンスーにしか興味がないクソガキだったので、このクラスは眠くて眠くてたまらんクラスであったが、いま思うともうちょっとマジメにクソ教師のいうことを聞いておけばよかった。 そうすれば、もう少し「言語」というものに習熟できたかもしれません。 訓練は、そーゆー歴史的な知識から始まって、「観念の閾値を高める」ことに至る。 観念の絶壁をよじのぼっていって、その頂きに到達してやっと詩人たちが呼ぶ声が聞こえるのです。 たまらんよな。 めんどくさくて。 そんなことやってられるかよ。 わたしはいそがしーんです。 明日までに片付けないとならん書類があるし、 … Continue reading

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