見えてきた新しい世界

日本の世界経済からの退場が決定的になったので様々なひとがグランドデザインの変更を余儀なくされることになった。日本の「再起シナリオ」がなくなったとゆっても、なにしろ日本はまだ国別で見れば世界二位のGDPを持っているので、その巨大な経済が崩壊していゆく過程に対処してゆくのは結構たいへんなのです。

いま見えてきた新しい世界は、太平洋側では中国とインドが巨大化してゆく世界だということは明らかになった。中国が内陸市場のゲートを開く、というちょっと考えられなかったことを実行したのでチャイメリカという構想はやはりオバマ執行部の見果てぬ夢になりそうです。マルクスヒロシが怒り狂っているナショナルヘルスケアの改革なども、クリントン時代から続く人脈に歩み寄らざるをえなくなったオバマの「党内政治上の投機」でしょう。マルクスヒロシはナショナルヘルスケアを通じて直感しているようですが経済上の政策はもっとひどい。税金を注ぎ込むだけ注ぎ込んで遠大な「先延ばし作戦」に出てしまった。そうすると、国が社会主義化して不況が10年20年と続くはずですが、「破綻よりは良い」ということに合衆国人は同意してしまったようです。

中国は内陸市場ゲートを開いたことによって政治的不安定に直面する可能性が高くなった。それだけアメリカを経済的なパートナーとすることに不安を覚えるようになったのでしょう。
インドはバカ官僚主義の国なので、つねに官僚が起爆剤になった自爆の可能性を抱えておる。
でも、世界の経済というものは「伸び続けなければならない」という義務を負っているので、やはり、この二国に世界中のひとたちが金をつぎ込むでしょう。

欧州はうまく自閉しようとしているが、うまくいくかどうかわかりません。
ロシアは資源大国としてカムバックしようとしている。でも富の再分配装置が皆無に近いので経済大国化は当然無理です。
存在感を示そうとすれば国権的にならざるをえないので危ない国になりかねない。

だからインドと中国。

オーストラリアとニュージーランドは「すでに不景気を脱した」と投資家たちはゆいます。わしはあと3週間くらい様子みたほうがいいんでねーの、と言いますが、経験がわしより豊富なおにーさまたちは、「なにをぬかす、もうダイジョビに決まっておる」とゆっておる。どちらも直截の引き金は前者は資源後者は食料に対する中国の需要の強烈な増大です。乳製品とかは全然生産が追いつかない。

オーストラリアとニュージーランドは中国の「触媒」の役割をはたしているのも見逃せない。英語国で中華圏人口が(特定文化集団が有効な影響を与える人口比率とされる)一割を優に超えるオーストラリアとニュージーランドでは西洋と中華圏の投資上の折り合いについての実験のような取引がたくさん行われている。主に金融を舞台にしてさまざまな試みがなされています。

一方では合衆国は軍事的な再編成も含めてオーストラリアー合衆国ラインをつくろうとしている。日本が片務同盟国としてすらいかに不実か身にしみて学習したからでしょう。
普天間などは、中国人たちですらぶっくらこいておった(^_^;)

不確定なのはスペイン語圏と欧州で、これが見えてくるのは、もうちょっと後、二年後、とかになるのではないでしょうか。
南アフリカを除くアフリカ及び中東近東については英語の世界では意味があることなので先刻も論じていたところですが、日本語で書くことに何の意味も見いだせない。

ここまで書いて、どうしようかなあ、と思いましたが、ゆってしまうと、わしはいまでも日本のひとに
「世界の期待を裏切る努力をすればどーか」と言いたい気持ちがあります。
260年鎖国してても追いついたんだから、やればやれるのではないだろうか。

でもそのためには、いまの戦前の日本を彷彿させるような集団発狂の状態を脱しないとダメだと思う。当然正しいと思い込んでいる自分たちのほうががおかしいのではないか、と思わなくなった日本、というのはどういうときにそうなっていたか、ということを思い出さないとダメなようです。

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3 Responses to 見えてきた新しい世界

  1. Sie says:

     お久しぶりです。Sieです。日本はこのところ、三寒四温を繰り返しながら、徐々に暖かくなってきています。
     日本語世界では、日本の没落に対する危機感は薄いように感じます。国債市場をどうするのか、とか、普天間をどうするのだ、とかいった諸問題について、警告をする人々はいるのですが、それらは世界に普遍のものとはなっていないようなのです。
     日本語世界のぼくもまた、危機感が薄いのです。それどころか、日本語世界のぼくは、英語を勉強し続けるぼくを否定しているようです。日本語で考えるときは、BBCやNYTの報道を考慮に入れることがないのです。日本語では、日本以外の国々のことをぜんぜん考えられない、という気がします。
     「集団発狂」という表現は穏やかではないですね(^^)
     ぼくもひとつの方向にしか進んでいない日本の人々、ということについて思うところがあるのですが、日本語で書けるのはここまでとなりそうです。ぼくが英語に恋焦がれるのは、思考のバッファがほしいからなのだ、ということに、最近気づきました。

    • Sieさん、

      >ぼくが英語に恋焦がれるのは、思考のバッファがほしいからなのだ

      もうひとつの言語を手に入れるのは「もうひとりの見知らぬ自分」を手に入れることだと思います。

      特に「日本語からでてゆく」ことはただのマイナー言語にしかすぎなくなったいまの現代日本語を考えると大きな変化を個人にもたらす。

      >英語に恋焦がれる

      恋い焦がれる、というようなストレートな言葉をもてるSieさんだからやれそうな気がするのです。

      うまくいくと良いですのい。

  2. Sie says:

    >もうひとりの見知らぬ自分
     あ、ほんとうですね。これだ。これです。
     英語を話すぼくを、ぼくとして認めてあげたほうがいいのか? という問いがぐるぐる回っています。
     ぼく自身の本音からすれば、ぜひ認めてあげたい。ただ、日本語で思考をめぐらすと、その必要性とか、英語での思考との矛盾とか、日本語世界から(無意識に)受けている社会的掣肘とか、さまざまなものから制約を受けてしまうようです。
     むかしの歌人は、そういった掣肘を受けている中で恋する自分の感情のことを、恋焦がれる、と表現したようで、中学時代に習ったそのことと、今の自分とを無意識に重ねて見ていたようです。求めているものはぜんぜん違うのになぁ。

     高度成長期頃の日本語はメジャーだったのか、本当に今の日本語はマイナーなのか、それはぼくには分かりませんが、こうして日本語を学びに来る留学生がたくさんいる事実を見て、あるいは日本語を勉強しているアルメニア出身のヨガの先生を見て、どこかほっとしている自分がいます。
     まだ日本は置いていかれていないのだな、まだ日本を好きでいてくれる人がいるんだな、と。彼らの好意や期待に応じられる人間でありたいと強く思います。

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