企業国家と組合国家

むかし優秀な「国民」を引き止めるために英語国の政府がサービス向上に努めていることをブログに書いたことがある。
https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/%E3%80%8C%E8%BB%A2%E5%9B%BD%E3%80%8D%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%9F%E3%81%A1/

このときは英語国民同士のことしか念頭になかったが、落ち着いて考えてみれば、この頃頭にあったほどは言語の壁は高くなくて、中国人などは言語が出来なくてもどんどん生活条件のよい国のほうに引っ越していたわけである。
「あたりまえでしょーが」とゆわれるだろうが、わしは、これほど単純なことにもオークランドにもどってきて香港人の友達に指摘されるまで気がついていなかった。
日本のひとが言語と食べ物を理由にして他国に定着しないことを考えすぎていたからだと思います。

こういう国家間の人材獲得競争はますます激しくなり方法が巧緻にもなっている。
中国などは海外で高等教育を受けた人材をなんとかして自国に帰ってこさせようとして必死になりつつあるよーだ。
移民が増えて、国家間の人間の移動が大規模になるにつれて国家というものが企業化しつつあるように見えることがあります。

合衆国、というような例をもちだすとバラク・オバマは社内の衆望を担って大抜擢されたCEOであって、ヒラリー・クリントンは役員会の実力者のひとり、ということになるでしょう。院内総務とか下院議長とか役員なのだと考えるとわかりやすい。
目下は前CEOのジョージ・ブッシュJrの放漫経営で傾きがひどくなった会社をなんとか建て直そうとしている。

では株主が国民かというと、そんなことはない。少なくとも国家を経営する人間は、国民が国に対する所有権を分割してもっているというような意識をもっているわけではなくて、株主というのは合衆国に対して株主の利益に相応した議決権を持っている人々であって、つまり、合衆国と利害関係があるひとびとが株主であると考えるほうが論理的です。
日本や中国の政府は合衆国に対して巨大な債権を持っているので実は合衆国が政策を決定するに当たって大きな影響力をもっている。
あたりまえですね。
大株主が株を売り払ったら、えらいこっちゃ。

経営者なんというものは、自分の経営理念を発揮できるなんちゅうのは、よほど恵まれた機会に遭遇したときであって、普段は株主のご意向にはそうそう逆らえない。

だから株主を喜ばせるような政策をとらざるを得ない。
80年代の日本のように会社乗っ取りに動き出す株主が出てきた場合は経営陣といえども牙をむいて全力で戦わなければなりませんが、そうでないときは株主ハッピーな経営方針でゆくにしくはない。

こういう国では国民はなにであるかというと、その大半はただの「オーバーヘッド」、無駄、であって、養いたくなくても養わなければならない巨大扶養家族のようなものである。
そんなバカな、おれは働いているぞ、というひとがいるに決まっているが、現代経済では国民の労働なんというものは経済の決定的要因にならないのは(多分)常識であるといってもいいと思います。

経営陣からみると国民はわがままで怠け者でえらそうなことばかりゆっておる割には全然国家の競争力に寄与しない、という点ではただのお荷物である。
しかし、これを全部ぶち捨ててしまうとたとえば「戦争」というようなときに傭兵に頼らねばならない、とか、消費マーケットが形成されない、とか国民個々の生産性とは別のところで困ったことが出てきてしまう。

全然いなくなると困るけれど生産性があるのは全体の一割程度、というところも巨大企業の社員集団そのもので、なんとなく笑ってしまいます。

税金にしたってトップの5%くらいが他の10倍は軽く払っている。
「その他おおぜい」の国民のほうは医療費ほかの社会保障費コストを考えると、いっそいないほうが黒字である、と経営陣としては思っている。

ここまで書くと気がつくひともいるに違いありませんが現代の国家経営の難しさは、本来利害をもっている株主の総会ではなしに、被扶養グループが経営陣を選べることになっているところに根源的に存在しているともいえる。

バラク・オバマは一歩間違うと合衆国の国家精神の終焉となるかもしれないヘルスケア法案を豪腕で通してしまいましたが、ひとが悪いことをいうと諸政策のプライオリティから言って、ここでこれを通した瞬間から歴史的には彼は「ポピュリスト」という汚名を着て歴史に記されることになるかもしれません。
合衆国が「企業」として機能する道を長く選択してきたことを考えると経営戦略的には全株主の期待をおおきく裏切る決定をくだしたことになります。
中国人は、みな、「やばいな」と思った。
これじゃGMじゃん、と中国政府内の若い政策決定者たちが苦笑している様子が目に見えるようである。

合衆国の企業としての生産性がこの後法案の効力が続く限りにおいて低下するのは見えているからです。

合衆国の株主の構成は早晩変わらざるをえない、とわしは思っています。
それはすなわちチャイメリカの終わりを意味している。
言うまでもなく、たいへんな変化が待っていることになります。中国が消費市場の「内陸ゲート」を開いたのはそのあらわれである。

一方で、日本、というような国を例にとると、この国は労働組合委員長が社長に就任した製造業者に似ている。この国では「労働者」というものの旧来の価値を信じているので会社の収益をどれだけおこぼれとしてもらえるか、ということに社会全体の関心がある。
なぜ、そんな考え方が定着しているかというと自分たちの製造した製品の品質の高さから来る競争力に絶対の自信があるからです。そーゆー会社には経営なんて、いらん。
つくれば売れる製品からあがる利益を誰がどれだけ手にするか、ということだけが国民の関心になっている。

具体的な会社でいうとむかしの「日産」とかに国ごとひどく類似してしまっているようです。

日産の「天皇」とゆわれた組合委員長が給料はたいしたことないはずなのに巨大なヨットに高級クラブのホステスたちをはべらせて豪遊していたように、こういう組織体にはどこから来て誰の懐にはいったか不明な訳のわからん巨額な金と意志の決定が誰によってなされているか皆目見当がつかない不透明さとがいつも付いてまわる。
だいたい組合員のポケットにはいる金の倍くらいの金が当の組合幹部のポケットと組合維持機能に消えているだろうと思います。

こういう体制の国の製品はその組合という不見識で硬直化した官僚組織が決定をくだすことによって製品自体の競争力が必然的に失われる、という逃れられない欠点がある。

ここに「ひとりの国民としての目」というものをもってくると、企業型の国家と組合型の国家と、どちらが好ましいか、というのはなかなか興味のある問題である。
個々の「国民」にとっては、どうすればいいか、というような問いが案外答えるのに難しい問いかけだとわかるはずです。

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2 Responses to 企業国家と組合国家

  1. AK says:

    どうもお久しぶりです!
    一応、このかたちで復活、ということでしょうか。
    まあ、のんびりと行きましょう。

    というわけで、企業型国家と組合型国家、という対比は面白いわけですが、わたくし的には、(その社会と国民性も考慮した)最も末端にまでカネが廻る仕組みで、もちろんトリクルダウンなんてインチキではなくて、なるべく多くの人々が幸せになれる方式を選ぶのがいいんでないか、と考えてしまうのですが、現実はなかなか厳しい。
    まあ、組合員がEBOするぐらいの根性があれば、世の中もっと面白くなるかもしれませんが。
    え?そんな根性あるヤツなら、そもそも組合員なんてやってない?

  2. AKさん、

    >どうもお久しぶりです!

    おおおーす。

    >一応、このかたちで復活、ということでしょうか。

    どうせまたすぐやめるにきまっておる。

    日本語が回復しねーだ。
    やってられん。

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