絶対

政治の話をする画家は株の話をする詩人と同じくらいくだらないと思う。
当の画家や詩人が聞いたら「おーきなお世話だ」とゆーであろう。
第一ひどい偏見ではないか。
でも、わしは、そう思ってしまう。
わっしは単純人間なんです。
難しい説明を頭から受け付けないもののよーだ。

(自称)英語が母国語よりも堪能な一群の日本人たちによってわしは偽ガイジンということになった。モニにその話をしたら、大笑いされてしまいました。
ガメは、やさしすぎるのだ、と謎のようなことをゆわれた。

もう日本語はきっぱりやめたら。

午後はひとりで海岸を歩いた。
モニさんは買い物。ひとりで店のひとたちと話してみたかったのでしょう。
判らないことではない。
ほそっこい女のひとどもが屯しているブティックのなかに「ぬぼおっ」っと立っている巨大なわしの身体に女のひとたちは遠慮するよーだ。
あれこれ気を遣ってくれるので、きっと疲れるだろうと思う。

いえ。コーヒーはいりません。ここに来る前に家で十分飲みましたから。

だからわしはひとりで今日は海岸を歩いた。
ミッションベイからセントヘリオスまで歩いたのだった。

秋の強い日射しに輝く海。

刃のような波頭。

途中でバクラバのおばちゃんが店から顔を出して「バクラバ、出来たばっかりだで。食べてゆかんか」とゆーので出来たてのバクラバを食べたりした。

カモメと遊んだり、あのでかいほーは、日本語ではなんだっけ「ウミネコ」だったっけ、と考えたりした。

政治の話をする画家は株の話をする詩人と同じくらいくだらないと思う。
なぜこんなことを言うかというと、今日が政治の話ばかりしていた画家の友達が死んでしまった日なのを思い出したからです。
病気ですらなくてトライアンフのモーターバイクに乗っていて死んだ。

思い出したからとゆって、特に悲しくはないが、なんだかやる気がしねーな、と思います。
世の中なんかくだらん、と思わないわけにはゆかん。

死んだ友達のことを考えるたびに「神様なんかいるわけがない」と思うのは宗教上どういう扱いになっているのだろう。まつろわぬもの、ということになっているか。

「普遍」も「永遠」もくだらん。
そんなものは一種のブランド主義だと、わっしは思います。
わしは偏在も極まった「個人としての人間」なので、自分の理性に忠実であろうと思えば神なんか認めるわけにゆかない。
カソリックなんかただの「普遍クラブ」だと思ってしまう。
「普遍愛好会」

同好会なんだったら、わしの商売に顔を出したりするのはやめてもらえないものか。

わしは自分の部屋の壁にはピカソの(わしの好きな)絵を掲げることにしたが、客用の寝室のひとつに死んだ友達の絵を掲げることにした。

その絵は、まともな人間なら絶対つかわないようなピンクが基調で、そこに様々な赤色系統の花が叩きつけるように描かれている、頭がいかれたひとの絵です。

でもわしは、その気がふれちまった絵を壁にかけた瞬間に涙が出てとまらなかった。
あの画家の「愚かな人間の美しさ」を称える気持ちが額を支える腕をとおして確かに伝わってきたからです。

神を失った人間の悲しみは神様にはわからない。
悲哀などというものは偏在する知性の特権だからです。

神よ。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

2 Responses to 絶対

  1. >「普遍」も「永遠」もくだらん。

    哲学者は馬鹿だから長い言葉を無駄に使うが、詩人にはそんなんいらん。これだけあれば足りる。ほんまや。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s