Monthly Archives: June 2010

衣食住 その3 (衣)

新しく出来てくる日本語というものにはいつも興味がある。 日本語というものは、もともとそれほど表現が固定的なものでなかった。 戦国大名たちの手紙を見ると、自由奔放、というか漢字は当て字、表現も「わかりゃいーじゃん」 であって、秀吉の手紙などは「縦横」という表現が思い出されるくらいオモロイです。 「正しい漢字」 とかな」やな奴ふうなことを盛んにゆいだしたのは明治時代からであって、その明治時代でも夏目漱石や森鴎外はどんどん新しい日本語を発明して書いていたが、片方は漢籍に典拠、もう片方は陸軍の偉い軍医殿だったので誰もなにもゆわなかった。 漱石は江戸人の立場から鴎外は帝大医者の立場から日本人の病的かつ熱狂的な「権威好き」を熟知していたので、権威がある相手にはへーこらする日本人の偉大な特性を良い方に利用して思う存分日本語を発明したのでした。 はなしをする、話しをする ではなくて話をする、でしょう。とか世論はせろんで輿論と書いた与論とは意味が違う、とかうるさく言い出したのは、多分、要するに「受験教育」 というものが始まってからのことで、日本人の衒学的あるいは訓詁学的体質、重箱の隅に生き甲斐をみいだすオバカエセ研究者気取り的体質は要するに「受験コンプレックス」 なのであると思われる。 昂じて到頭、「漢字の読みが間違っている」 と国を挙げて首相を攻撃して「漢字の読めない奴に一国の宰相の資格はない」 という受験ママ的な理屈によって自分たちの国の首相をクビにして(なにしろ国会で首相を「漢字が読めない」とゆって「追求」したバカオヤジまでいた)、その超現実風なアホっぷりで世界中を笑かせたが、そーゆー見事なくらい小役人的な体質もだいたい受験に失敗した悔しさをバネにして国を滅ぼそうとしたものなのでしょう。 KY、という言葉や、鈴木くんをいじる、という時の「いじる」 という言葉はそれぞれ前者は日本文化のありかたから生じる、発言の根っからの無責任さと周囲の雰囲気にあわせて平気でウソをつく習慣、後者は他人は基本的に「モノ」 だと感じている日本社会の人間関係の冷酷さをあらわしていて、わしは嫌いです。 しかし逆にゆえば、どちらの言葉も「試金の石」であって、こーゆー言葉を使うやつはロクデナシに決まっているので、その瞬間から付き合わなければよい。語彙の選択というものには人格があますところなく現れるので、こーゆー非人間的な新語はくだらない人間を友と選ぶという人生最大のムダが省略できてかえってよいのね。 好きなほうの言葉は「ユニばれ」 です。 なんで好きかわからん。 なんとなく、好きである。 「ユニばれ」、知ってますか? ユニクロを着ていると他人にばれてしまうことを「ユニばれ」 と言う。 わしも最近ならったねん。 無印良品の服を着ているのがばれるのは「ムジばれ」。 ニコルを着ているのがばれると「ニコばれ」どすな。 あのお、生活保護の申請に来ましたあ、とゆってやってきた区役所のカウンタで窓口の女のひとにシャネルを着ているじゃないか、あんた、と見抜かれることは「シャネばれ」と呼びうるとゆわれている。 こうやって並べてみると、やっぱり「ユニばれ」がいちばん意味するところに重層性があるようだ。 含蓄がある。 そーゆーわけで、わしは「ユニばれ」 したくてたまらないが、出来ねーんだよ。サイズがない。 XLでも、はっはっはなくらい小さいので、あれがXLならわしはXXXXLでないとダメだなもし。 モニもだめです。モニさんがユニクロでパンツを買おうとしてもふつーのパンツでショーツみたいになってるやん。 というのは不正確で体の形が全然違うの手足の長さが文字通り「間尺にあわない」 のでダメなよーだ。 そもそもふたりとも日本で服を買えた試しがない。 わしはもう全然ダメで、ショーウインドーで「あっ、こりゃちょっとかっこええな」という服を発見して「こんちゃわー」と入っていってサイズを訊くと失礼にもふきだす奴までおる。 もっともふきだしているねーちゃんの太ももとわしの腕とはどーみても同じくらい、ちゅうかわしの腕のほうが太いやん、なのでやむをえないとゆえばやむをえない。 日本の楽しいところでもあるが、なんだか縮尺の違うふたつの世界が混ざっているような具合なので仕方がないのかもしれません。 … Continue reading

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衣食住 その2(住)

日本の住宅が世界的にチョー有名なくらい貧弱な理由は「中古住宅」 という呼び方に、もうその理由が現れている。なにしろセコンドハンドハウスっち、マジで英語で言うひともいますが、それ英語ちゃいます。 そーゆーと、「えええええー!いまぐるぐるセンセイで検索したけど英語サイトでもいっぱいセコンドハンドハウスって出てくるよおおおお。あんたほんとは英語ネイティブじゃないんじゃないのおおお。ニセガイジン!!!」 というひとが、?な方角から現れるであろーが、英語でないもんは英語ではないんじゃ、ボケ。それ以上がたがたぬかすと新明解国語辞典をケツの穴からつっこんで奥歯がたがたゆわしちゃるぞ、ということでひとつどうかよろしく。 家というものは、「古く」 なったりはしないものである、ということが、どうも日本の人々にはわかっておらないよーだ。 わしの裏祖国には「築千年」 という人魚の肉を食べてもまだおいつかない年数を生き延びた豪のものも数多いるがNZみたいにわっかあああーい国でも築百年なら割とふつーにあります。 わしが幼少のみぎりに夏を過ごした牧場の家は築95年でごわした。 松の木で出来ていて、家の前に80センチ列車砲榴弾が落下して爆発しても聞こえないくらい静かであった。クソ壁が分厚いからです。 住んでいるときは気が付かなかったが、いま改めてかーちゃんが開いた居間のドアの 脇に立ってにっこり笑っている写真を見ると、ドアの高さがかーちゃんの背丈の3倍よりも高い。 二年目の夏に、わしがスピットファイアの模型を手にもって洗濯室方面を「ぶおおおーん」とゆいながら偵察飛行しておったら、床に羽の生えた蟻がたくさん死んでました。 優秀な偵察員であって賢いガキであらせられたガキわしは息を切らせてかーちゃんのところに走っていって報告したものであった。 「かーちゃん、シロアリ。シロアリがおるねんで、この家!」 ふだんは冷静なかーちゃんも一瞬まゆを顰めてから地元の「ペスト」 屋さんにシロアリ駆除をお願いしたのであった。 ところが。ところおおおーが。 ペストおやじはやってきて、こうゆった。 「このぐらいのシロアリなら退治するまでもねーでしょう」 赤ら顔のいかにもアル中なペストおやじがいうには、こんくらいのシロアリなら、まだ「もうちょっとくらい」 この家はもちまさあ。 わしは、なにをいい加減なことを抜かしやがるこのアルコール脳障害おやじめと思ったので、「もうちょっと」って、どのくらいでしょうか?と訊いた。 そしたらアル中ペストおやじはニカッと笑って、「そうさねえ、二百年くらいでしょうかのお」 とゆったのだった。 閑話休題。 古い住宅のなかでもぬきんでて古い住宅は、やけくそみたいに頑丈につくってあるので、もともとの建物の周りに「エクステンション」 をつくって建物の床面積を広げながら何百年も使う。わしが「南半球わし王国支店」と称していた牧場の家も毎年、どばっと広いテラスとか、二階の新しいバスルーム(ジャグジイバス付き)とか第三ガレージとか、いろいろと増築された。 もともと図面もなにもないので、増築しているうちにニュージーランドでは珍しい地下室があることが判明したりして、家族全員の「ガメの座敷牢にこれを使えばいいのではないか」 という暗黙の視線を痛いほど感じたりしたのであった。 なにがゆいたいのか、とゆーとだね。 家とかは、改築し、増築し、床をひっぺがえして石を張ったり、屋根の下に遮熱材をいれたり、壁をぶちぬいて遊び部屋を広くしたり、あるいは壁ごとぐうううんと動かして建物ごと大きくしたり、と住む人が想像力を働かせて「わしの家だし」 にするものだ、ということを言いたいのです。 なら、はやくゆえ、と言ってはいかむ。 言いたいことをゆうだけなら源氏物語もツイッタで書けてしまう。 言語による伝達は論理ベクトルにたよってはならむと色きちがいの哲学者もゆっておる。 「築何年」 とか「中古住宅」とかいう呼び名はそもそも住宅を自動車とかと同じ「消費物」とみなす見地に立っているから生じる呼び名であって、わしは鎌倉でも立派な、カッチョイイ、ハンサム 極まる家が「もう築50年だから」とゆわれて引き倒され、鉄で出来た無残な怪鳥みたいな機械が鋼鉄の嘴で美しかったドアや窓を挟み込んでは引きちぎるのを呆然として見ていたことがあったが、そうしてその後に良くゆって公衆便所のお化けのような下品きわまりない建物が出現したのを見て東急ハンズにでかけて「男|女」 のサインを買ってきちゃろうかとマジメに考えたりもしたが、あーゆーバカチキリンなことは、そもそも家を消費物であると考える誤った思想の産物であると思う。 … Continue reading

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衣食住_その1

衣食住、というが、日本の物価のオモロイ点はこの3っつが3っつともぶわか高いことである。 というと、きみは「そんなことはわかっておるわい。日本は他のいろいろなものと同じく物価もベスト5なのよ。なんでも高いのさ」 というであろう。 でも、違うんだね。 なんでもかんでも高いというわけではない。 たとえばPCのパーツなんちゅうのは店頭で在庫のものを買う限りは世界で最も安いうちにはいると思う。 わしがアキハバラに行くと7200rpmの500G2.5インチHDD とか、いりもせんものを思わず買ってしまうのは、価格があまりに安いからです。 南半球にいるときは、シンガポールのフナンシティやシムリムセンタに買いに行くが、アキハバラのほうがまだ全然安いな。 卸屋の仕入れ値はシムリムのほうが安いんだぜ、あれは、とシンガポール人の友達がゆっておったが、店頭ではシブク交渉してもまだアキハバラのほうが安い。 「必要なものほど高い」というのが日本の物価の特徴であって毎日金を使わないわけにはいかない食べ物がいちばん高い。 外食に出るとする。 例としては夕飯がいいであろう。 なんでかとゆーと、会社員が昼ご飯を外で食べる、とかちゅうのはたとえばニュージーランドでは最近の習慣なのね。 前は、家で食べた。 ぶっ、とクルマで戻って(クライストチャーチなら5分以内オークランドなら10分かのい)、奥さんといちゃいちゃしながら食べます。 いちゃいちゃもんもんに至ることもあるが、18歳未満のひとびとも読んでいると思われるこのブログでは詳細を書き立てるわけにはいかむ。 オークランドでちょっと散歩してその辺でご飯食べるべ、とゆーよーな場合、統計カテゴリとしては「20代・夫婦」 という範疇にはいるモニとわしはたとえばGPKというようなところにゆくであろう。 おいしいレストランだが高級ではねっす。 なにしろ屋号からして元々はグレーテスト・ピザ・キッチンというくらいで本来ピザ屋だもん。 ふつー、だな。 市長とか大臣とか首相とかが友人や家族とよく食べにくるが、フォーマルな晩餐とかはやらん、というその程度である。 テーブルに案内されて、まず初めにモニとわしは「バブリー」 を頼むであろう。 バブリー、というのはシャンパンとかカバとか、そーゆー発泡性のワインのことである。 たいていはグラスで頼んで一杯づつだが、うんと喉が渇いているときはふたりでボトル一本頼むこともあります。 で、これが一杯30ドル、とかでしょう。 なんにもないとさびしいから、オリブかプロシュートは頼むわいね。 これが15ドル。 で、シャンパンを飲みながらメニューを眺める。 高級レストランなら夏でも岩牡蠣の天ぷらがあって、これがすげーうまい食べ物だが、GPKくらいだと生です。 わしは生の牡蠣は食わないのでパス。 TENDER SPICED SQUID があって、ここはイカさんがおいしいので、オントレはこれだろ(15ドル) いくら赤ワインが好きでもイカさんと赤ワインではあわないので白ワインをグラスで頼みます。 また10ドル。 メインはGPKに来ればわしは頼むものは決まっておって、500gの骨付きリブアイ(55ドル)か … Continue reading

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iPadと著作権

iPhone/iPod+iTunesというビジネスモデルが元々ソニーのものであることを知らない人は多分日本ではいないだろう。 英語世界のフォーラムで高校生と思われるガキンチョがソニーはもっと創造性のある会社だと思っていたのにアップルごときのマネを2010年になって始めるなんてがっかりした、という意見があったが、ソニーがオンライン配信と携帯音楽端末を組み合わせたビジネスモデルをぶちあげたのがあまりに昔のことなので、今頃になってマネしてやんの、と誤解しているのです。 iPadは少なくともいまの時点では電子書籍リーダーではなく、この石版ふうの板があれば映画も観られればテレビ番組も観られる、インターネットを徘徊することも出来て、表計算もどうしてもやりたければ出来るし、ほらこれなんだけどね、とゆってプレゼンも珈琲店のテーブル越しにやれる、といういままでになかったデバイスである。 ええええー、むかしからそんなことPCでやれたよお、そんなこと、iPadなんてただのデカイiPhoneじゃん、というひとはコンピュータというものをまるで判っておらぬ。なんとなくここでiPadの意味について書きたくなってくるが考えてみると、その程度の事を実機を見て判らない人に言葉で説明しても言葉の産生の無駄であるから、ここでは述べぬ。 iTunesからレンタル映画をダウンロードして映画を観る。観ていないテレビ番組シリーズをまるごと購買してテレビをまとめて観る。Financial Timesをカウチでごろごろしながら斜め読みしたり、オリジナル版のPrince of Persiaで遊んでカンドーする。Twitterで友達や友達でない人と話して、けっけっけと笑って喜んだり、サーバ上の本を購買して読みながらうとうとする。 そーゆー使い方がiPadのいちばんふつーの使い方だと思うが、試みにこれを日本語でやってみようとすると、そもそも映画のレンタルをやってない。 冬の八甲田山を彷徨する兵士たちの物語に見入って涙することも出来なければゴジラの徹底的で完全な破壊力にカンドーして、画面に向かって「ぎゃおおおおーん」と鳴き声を真似することも出来ないのです。 テレビ番組も観られなければ、本もろくすぽない。 日本版グーテンベルクプロジェクトらしい「青空文庫」ですげー古い本、たとえばわしの大好きな岡本綺堂を読むことは出来るが村上春樹の1Q84は夢のまた夢である。 ふにゃあ、と思いながら音楽のほうへ行くと、わしは日本のjpopについてスカな興味しかないので判らないが、どうも携帯電話用以外は配信されている曲が少ないようです。 ははは。珍しい。話がしたかった話題のほうにちゃんと戻ってきた。 そう。わしは「著作権」の話をしようとしていたのだ。 朝日新聞が最近「WEB新書」というショーバイを始めた。 「一冊100円」ちゅうような売り込みで本をダウンロードさせる商売です。 おーすげー、本が安い、と早まって喜んではならぬ。 そーゆーのは日本語では「糠喜び」という。 義理叔父はむかし昼ご飯を買いに行ったスーパーマーケットで「ぬかよろこび」という「即席糠漬けの素」を名前だけで思わず買ってしまって昼ご飯を買う金が足りなくなって午後のあいだじゅうひもじかったそうだが、こーゆーひとは「ぬか御大尽」という。 一冊3000文字、とかですからのい。 えっ?3000文字?それで「新書」と銘打つなんてひどいやん、というひともいるだろうが、もともとthe Daily Telegraph のようなタブロイド記事を「社会の木鐸」なんちゃってマジメな権威のごとく装って売ってきた日本人の「権威大好き」を熟知した商売の上手な新聞社ですから。そのくらいのことで驚いていては日本では生きてゆかれない。 こーゆーホイチャイ・メディアにはきっと名前が出ておるに違いない、と考えて眺めると、やっぱりあった。 慶大教授・岸博幸氏という人が「米国発のネット帝国主義を許すな」 「ネットが社会に浸透し、クラウドなんとか、とかいう言葉も耳にするようになった。…..慶大大学院教授の岸博幸さんは、「米ネット企業による帝国主義」だと警鐘を鳴らす。」というカッコイイ論陣を張ってます。 日本経済、という今にも破綻しそうな名前の新聞に連載を書いていたひとだな。 この人は、もともと「レンタル使用料」 をのっけて2600円とかいう気絶しそうなくらいぶわっか高い価格をCDにつけておいて、その上に「かけられるもんならかけてみい」のプロテクト(!)を音楽CDに施して、ビンボ人の持つ古いCDプレーヤでは正規ユーザといえども音楽がかからないようにする、という素晴らしいマーケティングを編み出して一躍有名になったエイベックスという会社の役員です。 役人が、ある種類の(やや語弊があるが)学者になって天下りをする先なので有名な慶応大学教授の肩書きがついている通り、元はお役人である。 著作権について堂々たる論陣を張って金を稼ぐのが商売の、「著作権屋さん」 なんです。 一方では「言葉職人」的な詩人である谷川俊太郎を初めとする作家たちが自分たちの最小の糧である著作権の侵害をこれ以上見過ごせない、と深刻な顔で会見に臨んでいる。この谷川俊太郎、というひとは職業的な詩人として十代からいまに至るまでずっと生きてきた、という世界でも類例がない離れ業を遂げてきたひとである。そんなこと、できるのか、と思って驚いたので名前をおぼえている。 わしは著作権が完全に守られるのは当たり前であるし、良いことだと思っています。その点では谷川俊太郎は当然、岸センセイとも意見が同じである。 youtubeは最近ひと頃に較べると画質が桁違いに良い、録画時間も段違いに長い動画が増えて賑やかになった。 「公式チャンネル」が出来たので、ビヨンセもシャキーラもキラーズも50インチテレビの画面いっぱいで見苦しくない程度の画像で観られます。 以前は誰かが違法にアップロードしては一瞬で削除されていたデイヴィッドレターマンのレイトショーも、インタビュー部分やバンド部分とかはふつーに観られるようになった。 どうするのがいちばんよいか、を世界全体が一生懸命考えているのがyoutubeを観ているとよく判るような気がします。 … Continue reading

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ブログを再開する

もうどうだっていいや。 というのが、わしの口癖であるらしい。 わしはこれを日本語で言うわけではありません。このブログ記事を読むひとが特に判らなくてもよい特殊な理由により英語で言う。 英語では、No longer I care. というのね。 日本語で誰かとコミュニケーションを取ろうとするのは大変であった。 初めの3年は「外人死ね」「国へ帰れ」 「白人死ね」 死ね、死ね、死ね、とほとんど毎週のようにメールやコメントが来ておった。 おまえの下手な日本語なんて見たくもない。 そんな反吐が出るような日本語を読ませられると迷惑だからチラシの裏にでも書いておけ。 我慢ばかりしていると健康に悪いので、うるせーな、アホ、と書くと今度はネットに書き込むような輩を相手にするおまえはバカだ。日本人のほんの一部の意見なのにおとなげがない、と言う。 うるさいので特にややこしいひとが多い捕鯨についての記事は誰にでも判りそうな英語で書いた。 「Google自動翻訳」からのアクセスがたくさんありました。 それでもよくは判らなかったようで「クジラを捕るなという人種差別的意見をいうおまえは死ね」というような人々の書き込みがなくなった。 日本では女の人々の権利がないよーだ、と書くと、今度はまた罵詈雑言。2chのいくつかのスレッドに限られていたのが「はてな」 にも巧妙な嫌がらせを書き込む人が現れる。 今度は自称サルというヘンな人とその腰巾着の人々があらわれて、おまえの英語は間違っておる。ニセガイジンだろうと言い出した。 本物の英語は日本人には判らないのに、いまえの英語はあっさりわかるところがニセモノの証拠である。動かぬ証拠としておまえは「従属節」を使わないではないか。 第一、ガイジンにこんな完璧な日本語が書けるわけがない。 牛蒡がどうとかこうとか、山本七平がどうとかこうとか、わしにはあんまり興味がわかない話を、憲法論争のような顔でわめき立てる。 珍しや、その頃ほとんど睡眠なしで焦眉の急の凍死菖蒲に出ていたわしは、うんざりこいて、えーかげんに相手をすることすら出来なかった。 なんだこれは? と思っている内にネットの上では友達と思っていた人々も「おまえの態度が悪い」 と言い出した。 義理叔父は「日本男児の考察」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/14/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%B7%E5%85%90%E3%81%AE%E8%80%83%E5%AF%9F/ を読んで、日本人は必ずこれと関係のないおまえの弱いところをついて攻撃してくるから注意したほうがよい、とゆっていたが、「いかになんでもそこまで卑劣ではないであろう」と考えたわしがアホであった。 どーも、叔父のほうが物事の洞察力では十全ガイジンたるわしを上回るようだ。 結局、わしの英語がわしの母国語だと考えたのは、何十年も英語国に住んでいる幾人かの人々と、その頃あったばかりでいきなり喧嘩していたヒロシ、あとは英語なんかわからないけど、友達だと思っている、と書いてきた幾人かの人たちだけであった。 ことのついでに述べておくと、「初めてメールします」とか「コメントをしたことはありませんでしたが」に始まる、こういうひとたちの長い気持ちが強くこもったメールにわしは驚いた。その「親切心」に驚いたのです。 外国人が普段向けられている刃は同国人のなかでぬくぬくと暮らしている人間には判らないこと、だからあなたの怒りも日本人には決してわかりません、と読み進みながら、わしはこのひとはUKやNZに住んでいるのではなかろうな、と心配したりした。 日本のひとほどひどいわけはないが、英語国民にも卑劣な人間は当然やまのようにいるからです。 訳知り顔の人々が「英語」 について述べ立てた噴飯ものの意見や全体の経過はある用途のためにわしの友人に全部訳して進ぜた。 わしは「翻訳」 ということが大嫌いなので、特別サービス。 … Continue reading

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