ブログを再開する

もうどうだっていいや。
というのが、わしの口癖であるらしい。
わしはこれを日本語で言うわけではありません。このブログ記事を読むひとが特に判らなくてもよい特殊な理由により英語で言う。
英語では、No longer I care. というのね。

日本語で誰かとコミュニケーションを取ろうとするのは大変であった。
初めの3年は「外人死ね」「国へ帰れ」 「白人死ね」 死ね、死ね、死ね、とほとんど毎週のようにメールやコメントが来ておった。
おまえの下手な日本語なんて見たくもない。
そんな反吐が出るような日本語を読ませられると迷惑だからチラシの裏にでも書いておけ。

我慢ばかりしていると健康に悪いので、うるせーな、アホ、と書くと今度はネットに書き込むような輩を相手にするおまえはバカだ。日本人のほんの一部の意見なのにおとなげがない、と言う。
うるさいので特にややこしいひとが多い捕鯨についての記事は誰にでも判りそうな英語で書いた。
「Google自動翻訳」からのアクセスがたくさんありました。
それでもよくは判らなかったようで「クジラを捕るなという人種差別的意見をいうおまえは死ね」というような人々の書き込みがなくなった。

日本では女の人々の権利がないよーだ、と書くと、今度はまた罵詈雑言。2chのいくつかのスレッドに限られていたのが「はてな」 にも巧妙な嫌がらせを書き込む人が現れる。

今度は自称サルというヘンな人とその腰巾着の人々があらわれて、おまえの英語は間違っておる。ニセガイジンだろうと言い出した。
本物の英語は日本人には判らないのに、いまえの英語はあっさりわかるところがニセモノの証拠である。動かぬ証拠としておまえは「従属節」を使わないではないか。
第一、ガイジンにこんな完璧な日本語が書けるわけがない。

牛蒡がどうとかこうとか、山本七平がどうとかこうとか、わしにはあんまり興味がわかない話を、憲法論争のような顔でわめき立てる。
珍しや、その頃ほとんど睡眠なしで焦眉の急の凍死菖蒲に出ていたわしは、うんざりこいて、えーかげんに相手をすることすら出来なかった。

なんだこれは?
と思っている内にネットの上では友達と思っていた人々も「おまえの態度が悪い」 と言い出した。
義理叔父は「日本男児の考察」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/14/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%B7%E5%85%90%E3%81%AE%E8%80%83%E5%AF%9F/
を読んで、日本人は必ずこれと関係のないおまえの弱いところをついて攻撃してくるから注意したほうがよい、とゆっていたが、「いかになんでもそこまで卑劣ではないであろう」と考えたわしがアホであった。
どーも、叔父のほうが物事の洞察力では十全ガイジンたるわしを上回るようだ。

結局、わしの英語がわしの母国語だと考えたのは、何十年も英語国に住んでいる幾人かの人々と、その頃あったばかりでいきなり喧嘩していたヒロシ、あとは英語なんかわからないけど、友達だと思っている、と書いてきた幾人かの人たちだけであった。
ことのついでに述べておくと、「初めてメールします」とか「コメントをしたことはありませんでしたが」に始まる、こういうひとたちの長い気持ちが強くこもったメールにわしは驚いた。その「親切心」に驚いたのです。
外国人が普段向けられている刃は同国人のなかでぬくぬくと暮らしている人間には判らないこと、だからあなたの怒りも日本人には決してわかりません、と読み進みながら、わしはこのひとはUKやNZに住んでいるのではなかろうな、と心配したりした。
日本のひとほどひどいわけはないが、英語国民にも卑劣な人間は当然やまのようにいるからです。

訳知り顔の人々が「英語」 について述べ立てた噴飯ものの意見や全体の経過はある用途のためにわしの友人に全部訳して進ぜた。
わしは「翻訳」 ということが大嫌いなので、特別サービス。
後世まで活字にして何が起きたのかを記録しておくために多少の労力はやむをえないので、珍しくも協力しました。
わしが文句をゆわずにさっさと翻訳してよこしたので友達が驚いておった。

もうどうだっていいのさ。
もう、どうでもいいや。

わしはそう思ったようだ。
わしは日本という国の正体を見たように思ったのだった。
それまで様々な分野で半分日本人の従兄弟とわしはお門違いの日本人への攻撃を粉砕してきた。「日本が好きだから」 ではなくて、バカが嫌いだからです。従兄弟とわしは子供の時からの「マブダチ」であって、ガキの世界のことであるから、それは従兄弟とわしのあいだの安全保障条約にも発展して、ブログにはいちども書いたことはないわしのガキンチョ時代の日本滞在時には従兄弟が日本語でなにくれとわたりをつけてくれたし、従兄弟がNZに住んでいたときは、あのくそアホらしい昔のVJデーには妹とわしが両側から従兄弟を挟み込むようにして帰ったこともあった。
しかしわしは日本に関連のあるフォーラムを見なくなった。
日本人の冷酷さについて短い文章を書いてクラブの雑誌に載せたりした。

日本に関して、しかし、サルとはてなの一件以来めんどくさくなってしまった。日本について考えるのをほぼやめてしまったと思う。
なんだか「日本」という存在そのものが、ただの「時間の無駄」 と感じられたからです。
途方もない無駄。延々と同じ場所で、怒号と憎悪をまきちらしながら回転し続ける永劫の独楽。
そう考えていたに違いない。
日本人にだけ通用する特殊なルールが宇宙の法則のように当然だと思われていることもうんざりであった。
わしは態度の悪い「ながら族」なので、机の上のみっつの30インチスクリーンに それぞれ違う言語の窓を開いて、日本語は手元のノートマックで眺めていたりしたが、
一ヶ月くらいは日本語マックが埃をかぶっていたりした。

じゅん爺、というひとがいます。
ブログによくコメントを書いてくれる。
決して悪いことは書かないが、じゅん爺にはじゅん爺の言葉があって、わしにはそれがわかるので厳しい意見もちゃんとわしには感応される、という不思議な特技をもったひとである。
日本語を書くときに「じゅん爺が見ているかしれん」と思うと日本人の悪口をぼろくそに書くべ、と意気込んで机に向かってもゆおうとすることがむにゃむにゃになってしまう。

すべりひゆ、というひともいる。
肝腎なことはイタリア語のほうがうまくゆえる、という点で日本人ではないが、なんだか肉親のような感じがするひとです。
「神様」とかについて日本語で書こうと思うと、すべりひゆが読むから、あんまりええかげんなことを書くとやべーだろー、と思う。

それから最近の友達のヒロシがいる。
ほんとうはWatermanというそうだが、ブログではマルクス博士と名乗っているのでめんどくさいからマルクスヒロシを縮めてヒロシと呼ぶことにした。
このひとのことはもう少ししたら別立てで書くつもりなので、あんまりいろいろいまはゆわないが、宗教を学問としてそれで食べよう、というようなアホなことを考えるのは、ただそれだけで超人的な豪傑なので、そーゆー簡単な事実関係が実感をもって把握できないアホなひとはともかく、そうでなければ、この世にただ存在しているだけで「世界というものは勇気をもって生きてゆかねばならぬのだ」とわしに向かって説教をこいているのと同等の効果を発揮しておるという嫌なやつである。
このひとのことを考えていると、ゲームとかは一日12時間くらいにしておいて他のこともやらなければ、と思う。

何を書いているのかというと、日本語で考えるときに「日本語による他者の眼」
というものが生じていて、それによって日本語から完全に立ち去れない状況が出来ている、ということを書いている。
詩ならたったひとりで伝達をする相手がいなくても書ける/書く価値があるが散文を伝える相手がいないのに書くバカはいないであろう。
こうやって日本語を書いているのは、考えてみれば上のひとたちに従兄弟と義理叔父を加えたひとびとに向かって書いているのであって、考えてみれば、この日本語は極めて特殊なかかれかたをしている、ということを書いているのです。

もうどうだっていいや、と考えたわしはしばらくツイッタしかやらなかった。日本語を書かないと忘れてしまうし、ブログなんて書く気がしねーや、と思っていたわしには丁度よかったからな。

英語のツイッタは当たり障りのあることが書けないどころか当たりもさわりもかすりも出来ない制約がある仕組みであって、英語の140字、という制約は日本語では31文字と同じくらいの制約である。
でも日本語では140文字もあるといろいろなことがゆえる。
ためしに中国語ならどうだろうかと考えてやってみたら有名な「狂泉」の話がまるごろ丁度140文字であった。
中国語では小説が書けるわけです。

やってるうちに、オモロイな、と思ったのはツイッタは日本では意外や適切な議論の装置になる可能性があることで、2chではまったくダメで「はてな」でも衆愚まるだしの嫌らしいムラ社会でしかなかった日本語インターネットの世界には珍しく議論らしいものがあらわれている。
へえ、と思いました。

とゆってもツイッタにも日本人らしい卑劣さと失礼さを兼ね備えた若い女のひと(と思ったが、後の叔父の話では若い女のふりをした中年男性であったそうだ。団塊中年だったよーだ)が現れて、あまつさえ、わしの友人だち全部にフォロワーとしてついてまわる、という
ひとがあらわれたので、これもうんざりしてやめてしまったが、ある日退屈してツイッタを復活してみるとものの5分でじゅん爺が見つけてくれた。
うまくゆえないが、すべりひゆが「なんでもすぐやめるのは自分の勝手だがじゅん爺のようなひとの期待を裏切ってもいいのか」と書いて寄越したのを思い出して、しばらく「じゅん爺」がたったひとりのフォロワーとして現れたスクリーンに見入ってしまった。
「友達」というものは、えらいもんだ、と考えました。

議論は日本語ではツイッタのほうがよいかもしれぬ。
でもブログは自分でものを考えるのに便利であって、いろいろな言語で考えるということはひとつふたつしか言語がわからないひとには到底説明しかねる偉大な点があるので、また再開することにした。

起承転結がまるでないではないか、とこの文章を読んだひとはいうであろう。
もちろん、ありゃしない。
また日本語で散文を書く気がするようになったばかりですもん。

でも、わしにはまだ日本語で書いて考えてみたいことがあるようだ。
じゅん爺やヒロシや画家やすべりひゆやナスや子茶やシロアタマにタケダ、オスカーをもらったわけではないから懐かしい名前の連呼はここでやまえるが、むっちゃくちゃなわしに付き合ってここまで一緒に歩いてきてくれたひとびとと意見を交換しながら考えてみたいことがまだたくさんある。
だからもうちょっと付き合ってください。

もうどうだっていいのさ、とゆってから、しばらく考えてみたあとに(ほんとうにそう?)と囁きかえてくる、あの声がするほうに歩いてゆかねばならない。
今度は悪罵を浴びながらではなく、友達の顔を思い浮かべながら日本語を書いて考えられるのだから。

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15 Responses to ブログを再開する

  1. SD_Sie says:

     ガメさんの言葉を契機に、ずっと日本人のあり方について考え続けています。
     一番大きな変化は、ガメさんの言うような「日本人の悪癖」に触れたとき、これまではもやもやしていたところ、今ははっきりと不満や怒りを感じることが増えたことです。声がうるさいとか、えんえん一人をいじめたおす(いじるという言葉がありますがぼくは大嫌い)、とか、「自己責任」とか……。時には文句を言ってやったりもしました。言えずに後悔したこともありました。
     幾人かの友人でさえもその悪癖のとりこになっていると気づいたときには、友達は半分に減っていました^^;

     一方で、ぼくは外国のことはいまだ何も知りません。英語でできることはまだ限られています。外の世界にふれて、いずれぼくは外の世界でも憮然とすることでしょう。またそうすることなしに、本当には今いる世界のことさえ、分かっていないのかもしれません。

     しかし、それでもぼくは考え続けようと思います。怒りや不満にのせて自分の主張をしている時が、いちばん安らぎを得られる瞬間なのです。だいいち、「自己責任」などと言い続ける今のあり方に、ぼくは未来を感じることができないんです。

    • SD_Sieがコメント欄に戻って来て嬉しいと思います。SDの言うことは重すぎてツイッタで答えるのは難しい。そもそも言葉で簡単に答える質問が難しい問いかけが多くてまるで神様に試問されているよーだ(^^) 

      >いじるという言葉がありますがぼくは大嫌い

      わしも大嫌い。冷酷な、人間を尊重しない気持ちがよく出ている言葉だと思います。
      ああいう言葉を使えるひとというのは自分の人生が視聴率ではかりうる、とでも思っているのでしょう。

      >一方で、ぼくは外国のことはいまだ何も知りません。

      えらそーだが、いまのSDに必要なことは実際に外国へ行ってみることではないでしょうか。日本にいる外国人は自分が日本という国にいる、相手の居間にいるのだ、ということをよく知っているのでアクセントひとつとっても自然と日本語に聞き取りやすいアクセントで話します。考え方に至っては、遠慮がひどくおおい。

      19世紀日本の「攘夷主義者」たちは外国人たちを滅ぼそうと考えて、まずその準備に相手の国に密航しました。「相手のことを知らない」ことが判っていたからです。
      現実は触れに行かねばやはりわからないと考えます。

      またツイッタやここで話をするのを楽しみにしています

      • SD_Sie says:

        >ああいう言葉を使えるひとというのは自分の人生が視聴率ではかりうる、とでも思っているのでしょう。
         彼らの頭の中では、バラエティによくあるテロップや乾いた人工笑い声などが走っているのでしょう。あの「画」のアナロジーを現実に持ってきているんですね。
         残念ながらぼくはそうではない。いじられている側の所在のない表情しか見えないんです。ぼくがそうであったようにね。

        >外国へ行ってみることではないでしょうか。
         行くことはもうほとんど決まっているのですが、それが留学になるか、旅行になるか、就職になるか、移民になるか、はたまた放浪になるか……まだわかりません。
         「行きたい」という衝動が今よりも強く襲ってきたときに、いちばん考えなくてすむ方法にしようと思っています。そうなるとありうる態様は多いようで少ない^^
         2*歳というと本来ならいろいろと考えるべき年ですが、それは自分のために考えるのか、社会のために考えるのか、よく分からなくなってきています。

      • SDどん、

        >行くことはもうほとんど決まっているのですが、それが留学になるか、旅行になるか、就職になるか、移民になるか、はたまた放浪になるか

        どこへ行くか決まりましたか? 留学はガッコによるとして、旅行ならアフリカ、就職ならオーストラリア、移民ならNZ(^^) 放浪ならシベリアがよさそうだ。(本日午後4時半時点の選択) 

        わしももうすぐまた日本を発つだよ。もう一ヶ月もいてしもうた。
        日本はいると楽だからすぐずるずるといてしまう。
        温泉みたいな国ですのい。

  2. nenagara says:

    ありがとー

  3. kochasaeng says:

     いえーい。
     おれは、やっぱりきみの長い文章のほうが好きなので、ブログ再開がうれしい。
     ほんとうのことを、わかりやすく書くと「辛辣」と受け取られてしまうこともあるんだろうが、それは受け取る側のモンダイなんだから、そんなことは気にしないで、今まで通りに、こころを込めて書いていればいいと思います。

     ところで、おれの口癖はอะไรก็ได้ครับ(アライコダイ)というもので、「なんでもいいや」って意味です。でも、同時に「万事オーケー」、「どんと来い」みたいなニュアンスもあって、とても便利なので、しばらくは他の口癖が取って代わることはないようだ。
    「何を食べようか」って訊かれて、アライコダイと答えると、「あんたって、ほんとアライコダイだけど、タイには、そんな名前の料理はありません」って言われちゃう。でもおれ、この会話が好きでね。もう数十回も繰り返されているんだ。

     気が向いて、ぼちぼち続けば อะไรก็ได้ครับ 
     あ。五七五っぽいけど、季語がない。でも、まあอะไรก็ได้ครับなのだ。

    • 子茶殿、

      >っぱりきみの長い文章のほうが好きなので、ブログ再開がうれしい。

      例によって例のごとくいつまで続くかわからないけど。
      むかしのブログは無茶苦茶でこーゆーふーにするとどーなるかなあーとかっちゅうのがあってんねん。この頃は明らかに知っているひとたちだけに向けて書いてる

      >アライコダイ

      そーですか。おぼえとこ。タイ語学習すんねん。アジアの最後の楽園になりそーだからな。またそのうちチェンマイでも一ヶ月くらい行くべかなあーと思ってます。
      タイの路地裏の犬さんがなんとなく懐かしい。

  4. takeda says:

    なんかラブレター貰ったみたいな気分ですにゃー。
    むちゃくちゃなのはお互い様だし。

    ガメさんと話してると、考えるのメンドクサイと思ってること
    色々考えさせられるからある意味助かってます(ぇ

    • タケダ殿

      タケダのゆーことを聴いているとつい「そんなんじゃダメじゃねーか。仕事こけたらどないすんねん」と思って余計なことをゆってしまう。どうもわしはネナガラのように人間がちゃんと出来ておらないよーです。タケダは人間がおそるべきまともなので頑張りすぎて壊れないように気をつけてくらはい。

      • takeda says:

        ガメさんの心配聞いてると(前も言ったけど)とーちゃんに色々諭されてるよーな気分になるだよww
        ま、お金の世界じゃガメさんの方が全然プロだからな、気持ちわかるでよ。

        心理学的に「とーちゃん」てのは乗り越えるべき存在だと言うが、最近はガメさんに「すげー」って言われるビジネス出来るよーになりたいな、と思ってる。
        それは私にとってはとても健全な感情だ。

        ありがとなー^^

  5. JOSICO says:

    わーい。
    twitterも気軽にやり取りできて楽しいけど、ガメさんの文章のドライブかかってどっかに飛んでっちゃうところも好きなので、ブログが読めて嬉しい。
    正直言うと、ガメさんの書いた日本人についての文章にとてもショックを受けたこともありました。いくら何でもそんなにひどくないだろう…と。腹が立ったりもします。でも、よく考えると否定できないことに気づいてしまう。

    ガメさんの切り出した部分は極端に感じることもあるけれど、「なんでそうなっちゃうの?」に対して「だって、そういうもんなんだもん。今までこうだったし、これでいいし!」と開き直らずに、ちくしょー…と思いながらも、変われるなら変わっていきたい。

    私はチキンなので、今まではなかなかはっきりとした意見を表明しないでいたけど、これからはブログを読んで考えたことがあれば伝えてみようと思います。それで対話が始まるんだしね。与太話もね。

    • josico殿、

      >ガメさんの文章のドライブかかってどっかに飛んでっちゃうところも好き

      そ、それは翻訳すると「支離滅裂」っちゅう意味やん。

      >ガメさんの切り出した部分は極端に感じることもある

      だって最悪の部分を見ているわけだからな。わしはな、いつもネット上も含めて周りで付き合いのある日本人が出来がよすぎて、文句が言いにくくて困っておるのじゃ。
      英語とかのほうはボロクソに言う相手に困らん(たとえば従兄弟)から、そーゆー努力いらないんだけどね。

      >これからはブログを読んで考えたことがあれば伝えてみようと思います。

      あっ、厳しいご意見はバスク語でお願いします。そしたらまったく読めないので便利じゃ。

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