衣食住 その3 (衣)

新しく出来てくる日本語というものにはいつも興味がある。
日本語というものは、もともとそれほど表現が固定的なものでなかった。
戦国大名たちの手紙を見ると、自由奔放、というか漢字は当て字、表現も「わかりゃいーじゃん」 であって、秀吉の手紙などは「縦横」という表現が思い出されるくらいオモロイです。
「正しい漢字」 とかな」やな奴ふうなことを盛んにゆいだしたのは明治時代からであって、その明治時代でも夏目漱石や森鴎外はどんどん新しい日本語を発明して書いていたが、片方は漢籍に典拠、もう片方は陸軍の偉い軍医殿だったので誰もなにもゆわなかった。
漱石は江戸人の立場から鴎外は帝大医者の立場から日本人の病的かつ熱狂的な「権威好き」を熟知していたので、権威がある相手にはへーこらする日本人の偉大な特性を良い方に利用して思う存分日本語を発明したのでした。
はなしをする、話しをする ではなくて話をする、でしょう。とか世論はせろんで輿論と書いた与論とは意味が違う、とかうるさく言い出したのは、多分、要するに「受験教育」 というものが始まってからのことで、日本人の衒学的あるいは訓詁学的体質、重箱の隅に生き甲斐をみいだすオバカエセ研究者気取り的体質は要するに「受験コンプレックス」 なのであると思われる。
昂じて到頭、「漢字の読みが間違っている」 と国を挙げて首相を攻撃して「漢字の読めない奴に一国の宰相の資格はない」 という受験ママ的な理屈によって自分たちの国の首相をクビにして(なにしろ国会で首相を「漢字が読めない」とゆって「追求」したバカオヤジまでいた)、その超現実風なアホっぷりで世界中を笑かせたが、そーゆー見事なくらい小役人的な体質もだいたい受験に失敗した悔しさをバネにして国を滅ぼそうとしたものなのでしょう。

KY、という言葉や、鈴木くんをいじる、という時の「いじる」 という言葉はそれぞれ前者は日本文化のありかたから生じる、発言の根っからの無責任さと周囲の雰囲気にあわせて平気でウソをつく習慣、後者は他人は基本的に「モノ」 だと感じている日本社会の人間関係の冷酷さをあらわしていて、わしは嫌いです。
しかし逆にゆえば、どちらの言葉も「試金の石」であって、こーゆー言葉を使うやつはロクデナシに決まっているので、その瞬間から付き合わなければよい。語彙の選択というものには人格があますところなく現れるので、こーゆー非人間的な新語はくだらない人間を友と選ぶという人生最大のムダが省略できてかえってよいのね。

好きなほうの言葉は「ユニばれ」 です。
なんで好きかわからん。
なんとなく、好きである。
「ユニばれ」、知ってますか?
ユニクロを着ていると他人にばれてしまうことを「ユニばれ」 と言う。
わしも最近ならったねん。
無印良品の服を着ているのがばれるのは「ムジばれ」。
ニコルを着ているのがばれると「ニコばれ」どすな。
あのお、生活保護の申請に来ましたあ、とゆってやってきた区役所のカウンタで窓口の女のひとにシャネルを着ているじゃないか、あんた、と見抜かれることは「シャネばれ」と呼びうるとゆわれている。

こうやって並べてみると、やっぱり「ユニばれ」がいちばん意味するところに重層性があるようだ。
含蓄がある。

そーゆーわけで、わしは「ユニばれ」 したくてたまらないが、出来ねーんだよ。サイズがない。
XLでも、はっはっはなくらい小さいので、あれがXLならわしはXXXXLでないとダメだなもし。
モニもだめです。モニさんがユニクロでパンツを買おうとしてもふつーのパンツでショーツみたいになってるやん。
というのは不正確で体の形が全然違うの手足の長さが文字通り「間尺にあわない」 のでダメなよーだ。

そもそもふたりとも日本で服を買えた試しがない。
わしはもう全然ダメで、ショーウインドーで「あっ、こりゃちょっとかっこええな」という服を発見して「こんちゃわー」と入っていってサイズを訊くと失礼にもふきだす奴までおる。
もっともふきだしているねーちゃんの太ももとわしの腕とはどーみても同じくらい、ちゅうかわしの腕のほうが太いやん、なのでやむをえないとゆえばやむをえない。
日本の楽しいところでもあるが、なんだか縮尺の違うふたつの世界が混ざっているような具合なので仕方がないのかもしれません。

かーちゃんシスターが若かりし頃に撮った日本の田舎のひとの写真を見ると、すげーおそろしいカッコウをしておる。パジャマか、これは?のひとは良い方であって、なんだか雑巾を体にまきつけたみたいな格好をしているひといもいます。痛々しいくらいの貧しさである。
貧しさ、って、この頃は日本はほんとうはニュージーランドの百倍くらい儲かってたんだけどね。 でもUKでもオーストラリアでもニュージーランドでも「日本人の生活の貧しさ」 というのはよくオトナどもの話題にのぼっておった。
とにかく家がぼろくて身なりが悲惨である、という。
家は相変わらずすさまじくボロイが田舎のじーちゃんの身なりは革命的によくなった。ユニクロのせいだと思います。
山の家に行くと出かける農家のじーちゃんが、デザインなんてわからねーけど、このユニクロはジャスコよりやすいからな、とゆっておった。

怒ってはいかむ。ガキンチョわしもストップオーバーでやってくる東京のひとびとを見て、どーしてこのひとびとはこんな無茶苦茶なかっこうをしているのだろう、とよく考えた。。
たとえば数寄屋橋の交差点に立ってソニービルに向かうべく、最近は外国でも採用されるようになった「スクランブル信号」を待っているとすると、冬は、なんだかくらあああああい色のひとびとが、これもくらあああああい表情のゾンビ顔でぶわあといっぱい立ってます。
洋服のデザインそのものも、いったいどうやったらこんなカッコワルイ服がつくれるねん、と思うくらいかっこわるい。

欧州で「かっこわるいひとびと」とゆえば泣く子もだまる連合王国人に決まっているが、そのイギリス人よりももっとかっこわるいねん。

日本に対する理解がすすむにつれてだんだん判ってきたのは、そもそも日本のひとには「家の外に出たらかっこよくしないと」という気持ちがあんまりないよーだ、ということであった。
「内と外」という境界が西洋ほどはっきりしていないよーだ。

中国のひとびとはパジャマでドライブウエイを歩いてきて郵便箱をのぞいたりするので、ニュージーランドではたいへん評判が悪い。
笑いながら話しているのではなくて、そういうことはニュージーランドでは、そーだのお、日本社会でゆえば「あそこのダンちゃんはフリチンで郵便箱のぞきにくるのよ」 という感じでしょうか。
大失礼、なのね。
いちど、軽井沢を散歩していたら家の庭に出て歯磨きをしているひとがいて、目撃したモニが「気分が悪くなった」と言って、ほんとうに顔が真っ青になってしまって慌てたことがあったが、それとも似ているかもしれません。

あかん。全然本題に行き着かん。

マンハッタンには、何事か漠然とした期待を抱いて大陸欧州からたくさんのハンサムにーちゃんたちがやってきます。
雑誌モデルふうのにーちゃんがごろごろおる。
わしは日本の雑誌のニューヨーク特集を眺めていて日本のひとの「ハンサム イタリア男」のイメージにかなう男どもが実はアルゼンチン人たちであることを発見したが、まあ、それはよろしい。

たとえばきみがうら若き(若くなくても別にいいが古典表現の踏襲です)日本人の乙女であったとして、ニューヨークにハンサムなにーちゃんを狩猟に行くとしよう。「狩猟に行く」という表現が下品にすぎるなら一発やりにいく、でもよろしい。そーゆー場合、まず出来の良い顔とスタイルを一堂に見ておいて眼をならしておかねばならないが、そのためにはどこに行くのがいちばんよいかというと、センチュリー21です。
どおーして、わたしがハンサムをひっかけに行くのに不動産屋に行かなければいけないの、わたしに不動産セールスマンと結婚しろっていうの、と怒ってはゆかむ。
ちゃいまんねん。

マンハッタンで言うと、トライベッカのむかし回教徒が偶像破壊にやってきてぶち壊すまでは美々しく貿易センタービルが屹立していた跡地のまんまえに、センチュリー21、という有名な「ブランドものアウトレット」があるのね。
ここに大陸欧州人の顔が繊細さを残しつつしかもワイルドでカッチョイイ筋肉が張り付いたむっちんなにーちゃんたちがたくさんやってくるのです。

安いからな。
ロンドン郊外のビスタビレッジというべらぼうに安いアウトレットよりも、もっと安い。
あと、これがアメリカ合衆国という国の特徴で下はサイズ6から上は2メートルくらいはないとぶっかぶっかの服までサイズがあんねん。
ちいこくてもおっきくてもサイズがあります。
シドニーではチャイナタウンのデパートに行かないとサイズがない中国人たちもここではふつーのひとが買いに行く店でサイズが見つかる。

わしは日本とオーストラリア・ニュージーランドと欧州と合衆国で服の値段を較べてみようと思ってポロのポロシャツ(当たり前か)の黒で値段を較べてみたことがあるが、日本では三井系(多分)のアウトレットで5000円、オーストラリアのモールで2000円ちょっとニュージーランドのドレススマートで2500円、バルセロナ郊外のアウトレットで3000円、ビスタビレッジで1200円、センチュリー21で900円であった。
いまでも黒ポロシャツがあるとよろよろと寄っていって値札をひっくり返してみるが、個々の値段は違っても、だいたい傾向は同じですのい。

日本の服はサイズがないので着られないが、手にとって見てみると同じ中国製でも日本で売っているものはたとえばオーストラリアで売っているものと較べると縫製が格段に良いので、多分、クオリティコントロールが厳しいのであるに違いない。
オーストラリアのアウトレットに行くと、むかあああしから、「10ドルジーンズ」、スパンコールとかがついている10ドルのデザインジーンズが売っているが、あれはとってもボロイです。
でもデザインだけはよいのがある。
なんだか見栄えがよければそれいーじゃん、という西洋人の考えの一面に対する皮肉のようで、オモロイ、と思います。

わしのようにガタイがデカイのは別だが、ふつーの欧州系人にとっては、日本でもサイズそのものはあんまり問題ではない。おんなじくらいのひといっぱいいるわけだし。でも体の「形」が違うのであわない、ということのほうが多い。アングロサクソンは手足の丈と胸回りや首回りとの比率が違うのと本当に切っちゃいやだが胴の断面の形が違うので、ネクタイをしめるタイプのシャツは全然ダメなよーだ。そーゆーと大陸欧州人はおこるだろーが、あのひとたちはほとんどの場合、手足は日本のひとと同じです。ちゃんと合う。
日本のひとが欧州のアウトレットに行って服を買う場合には、わしの考えではスペインに行くとよいと思います。体の形が似てるもん。
そっくりだなもし、なので、肩があえば、腕も他もあうと思う。

Nasuどんが「衣」も書けば、とゆーので、日本の流通、特に値付けの面の硬直性を書こうと志したが、全然ダメじゃん。
出だしに届かないうちに、こんなに長くなってしまった。
もう外に遊びに行きたくてたまらなくなったので、いきなり、ここでお終い。
すまん。

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